中村吉右衛門 舞台に生きる  中村吉右衛門  2023.1.13.

 2023.1.13. 芸に命を懸けた名優 中村吉右衛門 舞台に生きる

 

著者 中村吉右衛門(本名 波野辰次郎) 歌舞伎俳優。日本芸術院会員、重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化功労者。1944年八代目松本幸四郎(初世白鸚)の次男として生まれる。祖父・初代吉右衛門の養子となり48年に中村萬之助を名のり初舞台。66年に《祇園祭礼信仰記金閣寺》の此下東吉ほかで二代目中村吉右衛門を襲名。俳優としてのあkつやくに加え、松貫四の筆名で歌舞伎作品の脚本も手掛ける。21年永眠

 

発行日           2022.9.5. 初版第1刷発行

発行所           小学館

 

22-02 二代目 中村吉右衛門』にWikipedia「人生の贈りもの」記載

 

 

「楽まで頑張る 吉右衛門」――最後の舞台出演となった20213月の歌舞伎座公演の稽古割(稽古の日時を記した案内)裏に記された言葉。1月の舞台を数日間休演したこともあり、自らを奮い立たせていたのだろうか、千穐楽まで頑張ることを目標に、千穐楽の前日まで舞台に立ち続けた

 

序 はじめにかえて

二代目中村吉右衛門の芸と人

昭和、平成、令和の歌舞伎に大きな足跡を残した、中村吉右衛門。その人生は、生まれる前から運命づけられていた

実母の正子(せいこ)は、名優・初代中村吉右衛門の1人娘。「男の子を2人産んで、そのうちの1人に吉右衛門の名を継がせます」といって五代目市川染五郎と結婚

1944522日、次男として生まれた吉右衛門は、4歳にして播磨屋の跡取りとなるべく、実の祖父の養子となる

48年、中村萬之助を名のり初代が主役を務める《御存俎板(ごぞんじまないたの)長兵衛》《ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)》で初舞台。《逆櫓》では初代の血だらけの顔に睨まれて泣き出し、初舞台に出られなくなった

54年初代逝去。健康を損ねながらも2カ月前まで舞台に立ち続けての最期

初代の存命中は、「若旦那」とちやほやされたが、亡くなったら掌を返したような態度を取られたり、偉大な名優の跡取りという重圧に悩まされたり、救急車で搬送されたりした

暁星学園時代から学んだフランス語を早稲田でも専攻、実父に役者を辞めてフランスに留学したいと言ったら、「何にでもなっちまいな」と言われて背を向けられたことと、「上手になれば大きいことが目立つ」と言って励ましてくれた「ばあばあ」の死が、初代の名跡と芸を継ぐ覚悟を生んだと述懐

66年、帝国劇場にて二代目中村吉右衛門を襲名、襲名披露演目は《祇園祭礼信仰記(さいれいしんこうき) 金閣寺》《積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)

初代は九代目團十郎の薫陶を受け、歌舞伎を舞台芸術として高めることを目指した名優。その名跡を二代目として襲名した吉右衛門は、実父を始め初代を知る先輩たちの指導の下、初代の芸に近づこうと邁進。時代物義太夫狂言から世話物に至るまで、人間の内面を深く掘り下げ、古典歌舞伎でありながら同時代の観客の共感を呼ぶ役作り、卓越した台詞術。晩年まで、まだ初代の芸域には達していないと口にした吉右衛門だったが、「播磨屋の芸」が確かに二代目に受け継がれていることを、その舞台に触れた多くの観客は感じただろう

吉右衛門が生きがいにしたのが、初代の生誕120年を記念して始めた「秀山(しゅうざん)祭」で、初代を顕彰し、その芸を次の世代へと伝えるための公演は、’22年の追善興行で17年目を迎える

初代の芸の継承に注力する傍ら、二代目としての独自の活動でも多くの足跡を残す。松貫四の筆名で手掛けた演目は全7作品。香川県に残る江戸時代の芝居小屋金丸(かなまる)座での歌舞伎公演を実現するにあたり書き下ろした《再桜遇清水(さいかいざくらみそめのきよみず)》を皮切りに、コロナ禍で動画配信した《須磨浦(すまのうら)》は大きな話題を呼ぶ。'06から7年間、文化庁主催の「本物の舞台芸術体験事業」では全国の小学校を回り、子どもたちに歌舞伎に触れる機会を提供

晩年の吉右衛門が次に演りたいと準備していたのが、自身も初代と共演した《近江源氏先陣館 盛綱陣屋》で孫の7代目尾上丑之助との共演と、傘寿の年に《勧進帳》で弁慶を務めること。永井は叶わず、'21年《楼門五三桐(さんもんごさんのきり)》の石川五右衛門の公演の千穐楽前夜に入院、8カ月後に死去

本書では、晩年の舞台や楽屋での姿を記録した写真、雑誌『本の窓』に掲載された随筆、当たり役の数々について語った芸談、自身の手による絵画作品を通して、改めて、その芸と人柄を辿る

 

第1章        記録 舞台に懸ける

かつて幼い頃に初代の芝居から感じたという客席からうねるように沸き上がる感動を自身もまた目指し、倒れるその日まで芝居に、役に向き合い続けた。文字通り、命懸けて臨んだ晩年の舞台の記録

l  心の芝居――100年の時を経ても変わることのない親子や夫婦の情愛。そして主従の絆。登場人物のが、舞台で浮かび上がる

初代や実父の初世松本白鸚も演じた《菅原伝授手習鑑 寺子屋》の松王丸。「秀山祭」などで幾度も演じ、役のさらなる高みを目指した

花道へと続く鳥屋(とや)にて1人、出番を待つ (《一谷嫩(ふたば)軍記 熊谷陣屋》)

武蔵坊弁慶と対峙する富樫左衛門。舞台にも客席にも緊張した空気が張り詰める 

団七の女房お梶の尾上菊之助、、悴(せがれ)市松の寺嶋(てらじま)和史と。孫との共演を喜び、「花道をおんぶして歩いた背中のぬくもりを覚えていてくれたら」と語る (《夏祭浪花鑑(なつまつりなにわのかがみ))

恩ある人と舅との板挟みとなった団七九郎兵衛の葛藤が闇の中から浮かび上がる (《夏祭浪花鑑》)

初代譲りと評される口跡での「馬鹿め」という幕切れの啖呵は痛快 (《天衣紛上野初花河内山(くもにまごううえののはつはなこうちやま)》の河内山宗俊

楽屋にて、「役になりきるのは舞台に出る直前」と語っていたが、衣裳と鬘をつけると、そこに天下を狙う大盗賊が姿を現した (《増補双級巴(ぞうほふたつどもえ)) 石川五右衛門

2階に五右衛門、階下には此下藤吉郎久吉(尾上菊之助)。この公演では吉右衛門の補綴(ほてい)により上演が絶えていた場面も含めた通し狂言で、物語がより分かりやすくなった (《増補双級巴》)

将軍の館に入り込むため、公家の呉羽中納言になりすました石川五右衛門。楽屋に黒幕を張っての撮影では毎回、カメラの前で本番さながらに役の要の部分を演じ切った (《増補双級巴》)

幕切れでは、立ち廻りも大きな見どころ。「ひとつ間違えれば事故にも繋がりかねない立ち廻りは、きっかけを与える主役の側にも心得が必要」と語っていた (《増補双級巴》)

大きさ、存在感、そして不気味さ。「舞台に登場して顔が露わになった瞬間にじわ(嘆声)が客席から起こるのが理想」と語っていた (《絵本大功記(えほんたいこうき) 尼崎閑居の場》 明智光秀)

実父の初世松本白鸚から初代吉右衛門が演じた時のことを聞いていたという吉右衛門。光秀は、母や息子の死を前に、武人から子として親としての顔へと変化していく (《絵本大功記 尼崎閑居の場》)

迫り来る敵の様子を探る物見。花道から六方で本舞台に戻っての場面で体力的には苦しいと周囲に語っていたというが、型と心が1つになったその姿は、光秀そのもの (《絵本大功記 尼崎閑居の場》)

l  朗々と――まるで音楽を奏でるように。間や緩急、抑揚を紡いで人物の心情を細やかに表現する絶品の台詞回しが観客の心を高揚させ、時に涙を誘う

16年はひと昔、夢だ、夢だ」。墨染の出家姿で陣屋を後にする熊谷になりきり、晩年は花道で涙をこぼすこともあった (《一谷嫩軍記 熊谷陣屋》)

舞台裏にて。我が子を身替わりとした首実検を終え次の出番まで、静かな緊張感の中で (《一谷嫩軍記 熊谷陣屋》)

舞台裏にて。衣裳さん、床山さん、お弟子さん、皆が無言で次の場面のための拵(こしら)えの支度を粛々と進めていく (《一谷嫩軍記 熊谷陣屋》)

短い登場時間ながら懐の深さと貫禄、江戸の侠客(かく)の風情が匂い立つ (《御存(ごぞんじ)鈴ヶ森》幡随院長兵衛)

歴代の長兵衛について語る台詞では「啖呵の上手い長兵衛は、あれは俺の父っあん」と、実父を語る言葉も織り込まれている (《御存鈴ヶ森》)

楽屋にて、出演前の挨拶に来た尾上丑之助とのひと時が何よりの楽しみ (《絵本牛若丸》鬼一法眼(きいちほうげん))

刀を目利きする作法も、神前の手水鉢を正面から切る型も、初代より伝わる家の芸を大切に受け継いできた (《梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)》 梶原平三景時)

手水鉢を見事一刀両断にした梶原平三景時。青貝師六郎大夫の娘、梢(中村米吉)が、肩衣(かたぎぬ、裃の上着)に袖を通すのをそっと手伝う (《梶原平三誉石切》)

l  次代への継承――初代吉右衛門の功績を顕彰する公演として始まった、秀山祭。それは、播磨屋の芸と精神を次の世代に伝える場でもあった

楽屋にて松王丸の拵えを終えて、1人静かに出番を待つ (《菅原伝授手習鑑 寺子屋》)

「いろは書く子はあへなくも ちりぬる命ぜひもなや」と、いろはを混ぜ込んで語られる浄瑠璃とともに、白装束で我が子の野辺送りをする松王丸と千代(尾上菊之助)  (《菅原伝授手習鑑 寺子屋》)

東海道を下る呉服屋十兵衛。偶然出会った平作(へいさく)との軽妙かつ愛嬌たっぷりのやりとりが、後の場面で起きる悲劇を際立たせる (《伊賀越(ごえ)道中双六 沼津》)

雲助平作(中村歌六)が生き別れた父であることを知り、その命を懸けた願いを聞き入れ敵の行方を知らせる十兵衛。令和元年の周山祭では三世中村歌六の100回忌追善として上演された (《伊賀越道中双六 沼津》)

娘の糸滝(中村雀右衛門)の情愛に触れて源氏への憎しみを捨て、天野四郎(中村種之助)、土屋郡内(中村鷹之資)らと船に乗る悪七兵衛景清 (《孤高勇士嬢景清 日向嶋(ここうのゆうしむすめかげきよ ひゅうがじま))

かつて実父が《嬢景清八嶋日記》として文楽との合同公演に挑んだ役でもある、悪七兵衛景清 (《孤高勇士嬢景清 日向嶋》)

姫御寮に酒を振舞われた太郎冠者は、《那須与一扇の的》の物語を演じ、見せる (《素襖落(すおうおとし))

幸崎(さいさき)伊賀守を演じた《新薄雪(うすゆき)物語》は、新型コロナウィルス感染症の拡大防止対策として公演が中止となり、配信映像収録のため1回のみ無観客で上演された。松ヶ枝の中村雀右衛門と

コロナ禍による公演中止が続き、半年ぶりに立った舞台 (《双蝶々曲輪日記 引窓(ふたつちょうちょうくるわにっき ひきまど)》濡髪(ぬれがみ)長五郎)

l  創造と挑戦――松貫四の筆名で数々の芝居を書き上げた吉右衛門。コロナ禍の自粛期間中に動画配信され大きな反響を呼んだ《須磨浦》は、その集大成

題材に選んだのは、播磨屋にとっても縁の深い《一谷嫩軍記》。源平の合戦を描いた義太夫狂言から熊谷次郎直実が義経に「一枝(いっし)を伐()らば一指(いっし)を剪()るべし」との命を受け、須磨浦で敦盛を呼び止め、組討ち、首を討つまでの物語を濃密な1人芝居に凝縮。舞台は東京・観世能楽堂。能舞台に素面に紋付・袴をつけただけの姿で、竹本の語りに乗せて物語が進行していく。小道具は全て省略、だからこそ直実の心の動きが際立ち観る者の想像力を膨らませ、須磨浦の情景までが浮かび上がる

収録は本番1テイクのみ。打ち合わせや稽古もままならない中、短い準備期間で竹本葵太夫、豊澤淳一郎、田中傳左衛門社中、鳥羽屋三右衛門社中が吉右衛門の意図を汲み、かつてない作品を作り上げた

収録にあたり吉右衛門は、「戦災、天災、コロナ禍など、時の運命の流転により無念に亡くなる命はいつの世も尽きない。その命を思い、決して忘れないために書き下ろし、演じる。無観客だが、想定することを役者は慣れているので、静かに観て下さるという思いで演じたいと思う」とコメント

「互いに未来で」。都に戻る船をただ1人見送った俊寛僧都。演じるたびにより深く進化し続けた役の1つ (《平家女護島(にょごがしま))

大星由良之助は、役者としての大きさと技量、人気のすべてが求められる大役の1つ (《仮名手本忠臣蔵 七段目》)

お軽と平右衛門に見せる温情と器の大きさ。由良之助役者と呼ばれるにふさわしい舞台 (《仮名手本忠臣蔵 七段目》)

《楼門五三桐》の石川五右衛門。千穐楽の前日まで舞台に立ち続け、そして幕が閉じた

 

第2章        随筆 日々を綴る――旅先での出来事を書き留めるなど、書くことは若い頃から習慣であった。晩年は、芝居のこと、幼い日のこと、家族のこと、そして長引くコロナ禍の中で見つめ直したこと。折々の思いを筆にまかせて綴っていた

(『本の窓』20201月号~217月号まで掲載されたものを再構成)

l  役者の正月           20191

1年で一番忙しい年末年始――「松過ぎて 年始廻りの 役者哉」(初代)。年末の興行が終わると正月の芝居の稽古に入り、2日の初日に間に合わせる

先輩役者の家々への年始回り――70年の年始回りで雨に降られた記憶がない

l  歌舞伎を支える職人たち              20192

大切に演じたい《絵本太(ママ)功記》――江戸後期の作品とはいえ秀吉に憚ってか実録名でなく、それを匂わせる名前に変えているが、史実には忠実。光秀が謀叛から村人に竹槍で刺殺されるまでの13日間を13段に分けて書いた。10日目に起きたことが俗にいう《10段目》。主殺しを激怒した母親に絶縁された光秀が、母親のもとを訪れた久吉(秀吉)を討とうと、障子越しに竹槍で刺すとなんと母を突いてしまう。息子を戦で失い、母までも殺めた光秀は奈落の底に落ちていく。文楽から歌舞伎に直した芝居なので、浄瑠璃や三味線、長唄や鳴り物がその時々の芝居に合わせた音楽を演奏。優れた先人の型(演出)を畏敬の念をもって学び、身に付け次の時代に伝える、それが伝統歌舞伎に携わる者の務め

光秀が纏う「白檀の鎧」――伝えるのは大道具小道具も同じだが、後継者が少なくなり、女性にも門戸を開放。白檀の鎧は、香木ではなく白檀塗という漆塗りで仕上げられている

l  50年は、ひと昔

思い出尽きない特別な演目――《一谷嫩軍記 熊谷陣屋》は並木宗輔の絶筆となった浄瑠璃。1751年の作。その他数々の名作を残す。《熊谷陣屋》は数々の思い出に結び付く。九代目團十郎亡き後養父が当たり役とし、それを実父が受け継ぎ、実父から丁寧に教わり初代の17回忌で熊谷を務めたが大失敗だった。追善口上を実父、17世勘三郎叔父とともに3人でやったが、口上の前にスクリーンを下ろし、初代の熊谷の映像を流したが、かえって比べられるので損ではとの批判に対し勘三郎が比べようがないと言って切り捨てられた

当時、実父と共に松竹を離れ東宝へ移籍、戦前百花繚乱だった歌舞伎の再現を目指す

戦前は、歌舞伎座、帝劇、明治座等それぞれで、歌舞伎役者が芯となって古典から新作歌舞伎、現代劇からシェイクスピアまでを競って挑戦

父方の七世幸四郎の祖父は、尾上梅幸(六世)、澤村宗十郎(七世)と一座して帝劇歌舞伎を確立

市川左團次(二世)は、小山内薫と提携して自由劇場を結成。岡本綺堂と新歌舞伎を樹立。真山青果と新作歌舞伎を多く残す

守田勘彌(十二世)は新富座を開場、演劇改良欧化主義による演目を上演、坪内逍遥の作品も上演、初代も新作歌舞伎に参加

私は、初代を継いだ者として古典を勉強したいとと思い、梨園に戻る。熊谷がいかに主人の命とはいえ己の息子に手をかける決意もかくやと思うほどで、それなりの覚悟をした

「陣屋の熊谷は出が命。無常を悟った熊谷が花道を出てくればそれでいい」と実父に教わったが、熊谷は無常を悟ったものの、幕切れに倅のことを思い、「16年は、ひと昔、夢だ、夢だ」と詠嘆する。僕もその場面になると実父を思い「50年は、ひと昔、夢だ、夢だ」

l  役者の休日           20193

衣裳も運命も思い役からの解放――前月の《熊谷陣屋》の二段目の衣裳は、紺木綿に亀甲花菱の裃で着つけ(着物)は織物、裃は縫(ぬい)といって撚()って太くなった糸で刺繍を施したものなので7.7㎏もあり、楽までもつかという重たさ。翌月の歌舞伎公演も控え、硬くなった筋肉をほぐすため温泉へ

初代と出掛けた温泉旅行――養父母、実父母とよく行ったのが修善寺の新井。養父が芸術三昧の宿の主人と意気投合して義兄弟となる。天平風呂と名付けられた大風呂は安田靭彦の設計

l  幡随院長兵衛との縁         20194

初舞台からの因縁――4月は鶴屋南北作《御存(ごぞんじ) 鈴ヶ森》の幡随院長兵衛を務めた。この芝居の基は初世桜田治助作《幡随院長兵衛精進俎板(まないた)》で、初代が’48年戦後唯一焼け残った芝居小屋の東京劇場で上演した際に僕も萬之助と名乗って初舞台を踏み、僕の初演は吉右衛門襲名後間もなくのこと。実父から一カ所だけ厳しく言われたのは、若侍が雲助と切り捨てる腕前の見事さに感心してこの若者なら面倒見ようと思うが、駕籠の垂れを上げて若者に見惚れる姿勢にその心持が出なければいけないということ

衣裳や台詞に込められた敬意――長兵衛も元は仲間(ちゅうげん、武家の奉公人)で人入れ稼業をするひとかどの人物であることを、若侍の白井権八との短い会話の中で表現しなければならない。2人の出会いの場を描いたわずか40分ほどの芝居だがなかなかの難役。鼻高(はなたか)幸四郎と呼ばれた五世松本幸四郎の長兵衛が素晴らしい

長兵衛が首抜きという首から肩にかけて大きく紋様を置いた着物を着る(紋の中から首を出すように見える)。紋は松皮菱(まつかわびし)で今は高島屋市川左團次の家のものだが、元々は高麗屋の紋。通常は演じる役者が自分の家の紋のものを着るが、《鈴ヶ森》では五世松本幸四郎を称えて松皮菱の首抜きを着る。白井権八の紋が丸に井の字とされているのは、権八を務めた五世岩井半四郎の家紋。この芝居では当て込み(芝居などで最近の話題を盛り込むこと)が多く鏤(ちりば)められているので、それを承知で見ると面白味が増す

l  歌舞伎芝居の恩人            20194

戦後の歌舞伎――祖父母、父母から昔の話を聞かされ、自らも戦後を経験して、いまは亡き人々のお陰で戦後の平和が保たれ、現在の日本の繁栄があるのは確か

歌舞伎を愛したアメリカ人――戦後GHQの意向で興行不可とされた歌舞伎を救ってくれたのはフォビアン・バワーズ。戦前訪日して歌舞伎に魅了され、戦後はマッカーサーの通訳として来日、初代演じる《熊谷陣屋》を反戦劇だと上司に提言し興行を復活させ、歌舞伎の恩人といわれる。'90年のアメリカ公演でも英語のイヤホンガイドを担当。'99年没

l  孫の初舞台                     20195

毎日の成長が何よりの楽しみ――改元とともに孫の和史が七代目尾上丑之助を襲名、歌舞伎座の團菊祭の《絵本牛若丸》で初舞台。音羽屋の跡取りの初舞台で菊五郎劇団総出、劇壇のアンサンブルの良さは定評がある

娘と菊之助君の思いがけないご縁――発端は'12年、突然菊之助が我が家に来て、末娘と一緒に手をついて「お許しください」といわれたときには頭が真っ白になった

l  初代の功績           20197

怪我をおしての舞台出演――満開の花々が登場する芝居の中で播磨屋の演目《梶原平三誉石切》では、早春の鶴岡八幡宮の紅白の梅が舞台を彩る。6月の舞台ではまだ中日前に右足に痛みが走り、歩けないくらいだったが、何とか穴を開けずに千穐楽までもたせた

練り上げられた播磨屋の型――《石切梶原》は実在した武将の話で、平家を屋島に追い詰める際に義経と対立、讒訴して失脚させる。山梨県内には今も多くの梶原姓がある。判官贔屓もあって梶原は佞人(ねいじん)讒者と疎まれたが、初代が《石切梶原》を手掛けて大当たりをとってから、梶原に対する見方が大分変わったように思う。初代はお芝居の眼目を梶原の刀の目利きの力に絞り、まずは刀の鑑定を第一の見せ場とし、次いで「二つ胴」(2人の罪人を重ねて切る)、最後に幕切れ近くには石の手水鉢を真っ二つに切る。最大の見せ場である手水鉢を切る播磨屋の型は、客席に向いて切る常套手段ではなく、よりリアルに意外性を高めるため客席に背を向けて裏向きで切る。「そろそろ前向きで切ったらどうか」との酷評も受けたが、播磨屋の型を誇りをもって勤め(ママ)ている

l  人間国宝のお役目            20198

教わってきたことを次の世代へ――’11年人間国宝となったが、その役目は、伝統歌舞伎の技芸を継ぐ子弟を育てること。文明は大きく発展を遂げているが、人間の感性、感情は太古の昔からさほど変化していない。歌舞伎芝居も、人間の喜怒哀楽を題材として作られているので、古くて今に通じないということはあり得ない

時代の中での伝統歌舞伎――若者に日本文化の素晴らしさ、貴重さを認識してもらいたいが、同時に歌舞伎が商業演劇であることとの両立も必要。個人稽古は3日で覚える

l  無観客の劇場で               20204

世界を襲った疫病――コロナ禍とはいえ初日を1週間も延ばすのは尋常ではない。伝染の仕方は主に飛沫・接触感染と知らされた

公演中止の中での映像配信――《新薄雪物語》の公演が中止となり映像配信に切り替え。日頃実父から「客受けを狙った芝居をするな。役になり切ることだけを考えよ」と教わり、歌右衛門の小父様からは「お客が1人でも、その方のために心をこめて芝居をしろ」と諭されてきた。その教えを今回は自然と実行できた。先人の教えの有難さが身に沁みた芝居

l  孫へ、伝え残すこと         20204

家に籠る毎日の中で――非常事態の中で生きている喜びをかみしめる

孫のために始めた書抜の整理――どうしたら孫に伝統歌舞伎を伝えられるか、丑之助には音羽屋と同時に播磨屋も背負ってもらいたい、そんな思いから至ったのが本(脚本)直し、書抜直し。書抜とは成本(台本)から己の台詞だけ抜いて書かれたもの、台詞の言い回しや息の継ぎ方を表していて、整理して孫が見てもわかるようにした

l  《須磨浦》の動画配信      20208

生の舞台が制限される中で――劇場の空気の再現に挑戦

いちばん大切な人間愛を主題に――できるだけ短い時間で、台詞劇として見せる歌舞伎芝居として《熊谷陣屋》の前段を《須磨浦》として書き下ろし、能掛り(のうがかり、能を模倣して演じる歌舞伎・浄瑠璃)でやってみる。あれほど生の喜びを感じたことはない

l  舞台でしか生きられない              20208

災禍を乗り越えてきた歌舞伎――関東大震災の時実父一家は大阪の鴻池家に厄介になった

いつまでも開かない劇場の扉――今の僕は無理してはいけない体になっているが、役者は無理して初めて客に認めてもらえる商売

l  役者の道を全うしたい                202010

自粛に努めた日々――コロナ禍で一番してはいけないと言われる、他者との接触、対話、大声を上げるなどで成り立つ職業ゆえに、公演中止は悲しい

芝居の絵を描きながら――孫の入学祝に『おしばいのえほん』を描いたり、自画像、自分の役などを描く

瀬戸内寂聴がテレビで三島と川端の話をする中で、「最後はどんな形でも、好きでなった作家の道なのだから2人とも全うしたと思う。私も全うしたい」と言ったのを見て、僕も同じように伝統歌舞伎役者として全うしたいと思った

l  俊寛の心                        202012

孤島にただ1人残る決意――11月の国立劇場で《平家女護島》に出演。《六波羅清盛館の場》をつけて清盛と俊寛の2役を務めた。思い続けた妻が首を討たれたと聞かされて生きる希望を失った俊寛は一人島に残る決意をする。岩の上で水平線を見つめる最後の場面は、実父から「石になれ」と教わる

世界に通じる演劇作品――養父、実父、私と、3代にわたって演じてきた芝居の中でも《俊寛》は特に好きで、犠牲の精神というどこかキリスト教的な思想が感じられるし、島流しという刑が史実としてある国の方々には俊寛の心情や物語は理解しやすいのではと思う。10月に手術を受けて、これまでは妻の死を告げられた瞬間の驚きと悲しみを表すことに主眼を置いていたが、今回は赦免船の座を若き少将の妻となった島の娘に譲るという自分を犠牲にして若い者を生かすことにするきっかけとなる場面に力点を置いて演じてみた

l  成し遂げる人、やり遂げる人        20212

日本中を測量した伊能忠敬――「やり遂げる」のはある程度の人は出来るだろうが、「成し遂げる」のは才能以外のものに左右される。思い浮かぶのは伊能忠敬。中年になってから自ら歩いて測量、完成を見る前に他界するが、まさに「成し遂げた人」といえる

初代、そして父が残したもの――養父と実父は、上を目指して登って来た先人の思い、伝統を、後世に継ぎ発展させ、世界の歌舞伎にすることを「成し遂げた」。そんな2人が常々言っているのが「役をいただいて初日を開けたらどんなことがあっても楽日まで勤め上げろ、やり遂げろ」だったが、この正月の《忠臣蔵》の七段目では途中休場し、「やり遂げる」ことすら僕には難しかった

現在の歌舞伎の礎を築いた九代目團十郎は、歌舞伎を世界に通用する演劇にしたいと考え、それを成し遂げようとした。成田屋を贔屓にしていた初代の母は、初代に成田屋のような芝居に対する心構えになれとことあるごとに言ったそうで、初代の芝居、心構えに成田屋の片鱗が見られると思うが、その初代の教えの筆頭に来るのが、「役の性根を摑め、役になり切れ」。ロシア革命の前後に活躍した俳優・演出家のスタニスラフスキーは「役を生きる芸術」に基づく演劇理論「スタニスラフスキー・システム」を提唱したが、歌舞伎にあるのは職人芸と呼ばれる何かで、人により家によりそれぞれ違うものがある。先人からの教えを守り、己を信じていけば、お客の反応に一喜一憂する隙はなくなる

l  地球は丸い                     20212

いまこそ世界が手を取り合って――全世界の人々が手を結び合い協力し合えば、ウィルスや自然破壊など目ではない。地球が丸いという概念はいつごろからあったのか

遥か昔の偉大な旅人たち――伊達藩の支倉常長はヴァチカンまで使節を率いて旅をするが、戻ってきたときには徳川一色でキリシタン禁制になっていた。地球は丸くて一周すれば元に戻るのならば、世界は1つ、地球は人類にとって唯一無二のもの、そんな風に思うのはなかなか難しい

l  二度目の新婚旅行            20212

わが青春のパリ――大学合格の年に初めてフランスとイタリアへ。'75年新婚旅行でハワイに行ったきり、家内との海外旅行はお預け

家内と念願のヨーロッパへ――'84年漸く思い立って家内と2度目の新婚旅行でヨーロッパへ。村井邦彦とは中学からの同級生

 

第3章        芸談 役を生きる

(写真集『二代目 中村吉右衛門』(201811月刊)掲載の原稿に一部上演記録を加筆)

名優、初代吉右衛門の芸を継承し、役の内面を掘り下げ、その人物になり切って演じることで、観客の心に深い感動をもたらし続けた吉右衛門。思い入れの深い役の数々について語った、次代へ伝えたい芸談

l  一谷嫩(ふたば)軍記 熊谷陣屋

(あらすじ) 後白河法皇の落胤である平敦盛を討ち取ったと見せかけて、熊谷の子の首を差し出し、敦盛を逃す。熊谷は無常を悟り我が子の短い生涯を歎いて出家

《一谷嫩軍記》全五段のうち三段目。《陣門 組討》と共に上演されることもある

初代にとっても、当代にとっても代表作といえる当たり役。「須磨浦の場面(《組討》)では客を騙せ、陣屋では客に騙されろ」と言われるように、前半は我が子を討ちながら敦盛を討ったように演じ、後半では目の前で真実が明かされていくという前提で熊谷が心情を吐露する。平家物語のストーリーを誰でも知っていた江戸時代と違って今は芝居の前提が通じなくなってきたことは、演じる側の課題で、観客に伝えるための工夫は常に必要

l  鬼一法眼三略巻 一條大蔵譚(きいちほうげんさんりゃくのまき いちじょうおおくらものがたり)

(あらすじ) 常盤御前の夫・一條大蔵長成は、源氏方であることを隠すために阿呆を装っているが、そのことを清盛に注進しようとした家来を殺すと、また元の作り阿呆に戻る

《鬼一法眼三略巻》の四段目が《一條大蔵譚》。清盛が常盤御前を下げ渡した史実に、長成の作り阿呆の話を加えたのがミソ。初代が一番好きな狂言と言っていた。ハムレットの狂気を装う姿に通じる。大蔵卿が作り阿呆から一転、きりりと本性を現し、また元の作り阿呆へと転換するのも見どころの1つ。高貴な身分なのに可哀想にという哀れさを出すことが必要で、とこか常人とは違うはんなりと上品な阿呆ぶりが浮世離れしておかしく見える

 

l  平家女護島 俊寛(へいへ(ママ)けにょごのしま しゅんかん)

近松の《平家女護島》二段目の《鬼界ヶ島の段》が歌舞伎では《俊寛》として上演

初代が工夫を加えたことで歌舞伎芝居として脚光を浴びた、初代の十八番(おはこ)

犠牲の精神という、どこかキリスト教的な思想が込められた作品

いざ船が出て1人残されると、やはり心は揺れ、波打ち際まで追いかけ、遠ざかる船を見送るうちに、弘誓の船(ぐぜい、仏が人々を彼岸に送ることの譬え)を待つ気持ちになる。幕が下りた後俊寛は息絶え、昇天するとの気持ちで、幕が下りる寸前に船を見上げる

芝居は出と引っ込みが難しいといわれるが、俊寛はその極地

l  近江源氏先陣館 盛綱陣屋(おうみげんじせんじんやかた もりつなじんや)

(あらすじ)  鎌倉方と京方に分かれて戦うことになった佐々木盛綱と高綱兄弟。盛綱は高綱の息子を生け捕りにし切腹させようとする。高綱が討ち取られて盛綱が首実検すると偽首だったが、生け捕りの息子がその首を父と呼びその場で切腹。偽首と見破らせないために命を絶った息子の思いを察し、盛綱は北条時政に高綱の首だと告げる

浄瑠璃《近江源氏先陣館》の八段目が《盛綱陣屋》。初代の盛綱は人気を博し、舞台は映画化され、'53年展覧にも浴した舞台で息子を演じたのが当代

佐々木兄弟のモデルは大坂の陣で兄弟で敵味方となった真田信幸、幸村兄弟とされている

最初の見どころは、弟を助けるためにその息子を殺せと盛綱が母に頼み込む場面で、武将の格を保ちつつ、小さな子供になって母親に頼み込む、この情景が後の台詞に効いてくる

次いで、高綱の討死を知らされ時政の前で首実検する盛綱。口伝で盛綱の首実検は長いほどよく、寺子屋では短いほどいいと言われ、寺子屋の松王や熊谷は我が子の首なので一目見れば事の次第はわかるが、盛綱は偽首を前に甥っ子が腹を切って死のうとしている、後ろには主君が、さあどうする、という心情の移り変わりを気持ちを拵えて丁寧に演じる

初代の盛綱がよく腹を切ったと甥っ子を褒める長台詞に、客からどよめきが起こる

l  菅原伝授手習鑑 寺子屋

(あらすじ) 寺子屋に匿っている道真の息子の首を差し出すよう命令が来る。主人は別の子の首を検分役の松王丸に差し出すが、その子は松王丸が道真の恩に報いるために自分の子を寺子屋に行かせたもので、松王丸は身替わりに殺された我が子を検分し、道真の子に間違いないと証言した後、寺子屋の主に真実を明かし、両夫婦が野辺の送りをする

《仮名手本忠臣蔵》《義経千本桜》と並ぶ歌舞伎の3大義太夫狂言の1つで、菅原道真の流罪を題材とした全五段からなり、その四段目が《寺子屋》

初代は、菅丞相(道真)も演じ、何もしないで、存在感だけで見せる役、物語を通して登場人物たちが忠義を尽くし、自身や我が子の命を懸けるのも、その大きな存在があったからというものだけに、品位と云い、長丁場をじっとして持堪える事と云い、大層骨の折れる難役だと記している。寺子屋の主・武部源蔵は菅公の直弟子、元は武士だが今は寺子屋のお師匠さんとして世話な着流しの拵えで、世話と時代の加減が難しい

l  仮名手本忠臣蔵 七段目(祇園一力茶屋の段)

(あらすじ) 祇園で遊興に耽る大星由良之助にお軽勘平を絡ませたもの

《忠臣蔵》は独参湯(どくじんとう、起死回生の気付け薬)”と呼ばれる人気演目

赤穂事件の翌年には芝居となり、浄瑠璃や歌舞伎の人気題材になるが、歌舞伎は45年後

全十一段で、悲劇の代表が早野勘平。実在の萱野三平をモデルに、お軽という腰元と恋仲にし、お家の法度の不義で主人の大切な時に居合わせず、仇討ちにも加えられず切腹に追い込まれる。由良之助が中心となるのは四段目と七段目、九段目で、九代目團十郎も四段目は出来るが七段目は難しいと言っていた。身分ではなく人望で皆が仇討の頭目とたのむような人物だがそれを表に出し過ぎてもいけない

赤穂事件を題材としたものでは他にも播磨屋にとって大切な芝居《松浦の太鼓》は、吉良邸の隣の邸で討ち入りを願う殿様の話、《東海道四谷怪談》《盟三五大切(かみかけさんごたいせつ)》などは義士がもてはやされる世の中の裏側を描いた外伝

初代は吉右衛門劇団を、実父は当方劇団を取りまとめたが、由良之助をはじめ人の上に立つ人物を演じるのを得意とする英雄役者でありリーダー役者だった

l  義経千本桜 渡海屋 大物浦(とかいや だいもつのうら)

(あらすじ) 鎌倉方の追手から逃れるために摂津国大物浦から九州へ逃げる義経一行を亡霊となった白装束の知盛が襲うが、義経方に敗北、帝を守るという義経の言葉に安堵した典侍(すけ)の局は自害、知盛も碇綱を巻き付け海中へ

歌舞伎の3大名作の1つ、義経を取り巻く人々の人間模様が描かれるが、義経はどの段でも主役ではない。昔東北巡業ではよく義経の芝居を出せと言われたそうで、全然関係ない芝居でも、さして用事もなかりせばという義太夫の語りとともに義経がちょっと出て引っ込む場面を付け足すと万雷の拍手だった

知盛は典侍の局と共に安徳帝を守るために船宿を営む夫婦を装っているが、実の夫婦と思って演じ、局が自害した時は連れ合いが死んでしまったという気持ちで演じる

最後は知盛も海中に身を投げるが、飛び込むときに足の裏を見せろというのが口伝、岩の道具の縁にある目印に引っかからないように飛び、あとは下でお弟子さんに受け止めてもらう。奇麗に、見事に、男らしく死んでいくというのが知盛らしい滅びの美学

l  梶原平三誉石切(かじわらへいぞう ほまれのいしきり)

(あらすじ) 鶴岡八幡宮を訪れた平家方の武将梶原平三景時と大庭兄弟に、青貝師と娘が刀を買ってくれという。大庭から目利きを頼まれた梶原は「二つ胴」で試そうとしたが、罪人が1人しかいない。金に困っていた青貝師は自らの体を使うよう申し出るが、梶原は青貝師が源氏方と見抜き、罪人だけを切る。梶原は自らの本性を明かし、名刀であることを示すために手水鉢を見事真っ二つに切って見せる

《三浦大助紅梅靮(みうらのおおすけこうばいたづな)》全五段の三段目《星合寺(ほしあいでら)の段》が原作。演じる役者によって外題名が変わる

敵役に描かれることの多い梶原景時が唯一好人物として描かれている

九代目團十郎は二股武士だからやらないと言って上演が途絶えていたが、初代が当てて陽の目を見た。実父の教えを受け当代が最も多く演じてきた役の1

客が爽快になってもらうことに尽きる役で、初代が客に背を向けて切る型を編み出した

刀の目利きも、「二つ胴」の上だけ切ることも据え物切りの方に教えてもらって演じている

芝居というのは役者と役者の応酬で成り立つので、すべての芝居に対して受けて受けて受けて、肚の中でためて出すというのが良い

l  極付幡随長兵衛(きわめつき ばんずいんちょうべい)

(あらすじ) 江戸村山座の芝居の舞台に旗本の家臣が乱入し騒ぎ出す。見兼ねた長兵衛が家臣を打ち据える。後日旗本から宴の招きがあり、仕返しの罠だという女房や子分を振り切って1人乗り込み、屋敷で刀を預け湯殿に案内された長兵衛を家臣たちが襲う。そこに長兵衛が言い置いていた早桶(棺桶)が届き、旗本は殺すには惜しいとその覚悟に感服する

河竹黙阿弥の名台詞がちりばめられ、九代目團十郎亡き後、初代、実父、当代と継承

実際の劇場の客席後方から長兵衛が登場する冒頭の演出は、客が芝居の一部になったような気分を味わえるので好評。初代は時間をかけて客席を歩き、贔屓と握手までした

長兵衛は殺されるとわかって旗本の屋敷へと出かけていく。それも自分のためではなく、残された者たちが後ろ指さされないために、と堂々と行く。命を張って立場を守る男の理想、美学がある

l  勧進帳

能の《安宅》を素材にした松羽目物。九代目團十郎が現在のように演出を洗練させた

 松羽目(まつばめ)とは、正面に大きな松を描いた板羽目のことです。この松羽目は、能舞台の鏡板を模したもので、上手には臆病口(おくびょうぐち)、下手には揚幕をつけ能舞台の様子をそのまま表しています。

 この大道具は、『勧進帳』や『身替座禅』『釣女』など、能、狂言の演目を、歌舞伎に移した作品を上演する際に使われます。このような松羽目の舞台を使って上演される演目を松羽目物と呼びます。

 江戸時代、武家の式楽だった能狂言は町人や農民にはなかなか目にすることの出来ないものでした。それを、七代目團十郎が歌舞伎に取り入れることを思いつきましたが、当時の歌舞伎俳優は、表立って能を観ることを許されない立場でした。團十郎が上演にむけて工夫をするために能の宗家の家の舞台の床下に潜んだ、という噂さえ流れました。そして上演されたのが、能『安宅』を歌舞伎に移した『勧進帳』でした。(初演・天保11年(1840年)江戸河原崎座)

 明治時代に入ってからは、九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎らが能の『土蜘』『船弁慶』や狂言の『素襖落』などいくつもの演目を歌舞伎に移して上演し、その後、明治末から大正にかけて、狂言を脚色した『身替座禅』(狂言では『花子』)や『棒しばり』『茶壷』などが、六代目尾上菊五郎や七代目坂東三津五郎らによって上演され、現在も人気演目となっています。

弁慶ほど演じていて発散できる役はない。荒事の部分と能掛りの部分があり、声量と体力と肚の力のすべてが必要。一方で富樫は神経を遣う役で、弁慶の主人を思う心情に打たれて一行を通すわけだが、大袈裟な芝居にしてはいけないと教えられた。見逃すということは、自分は頼朝に対しては死んで詫びるしかなく、腹を切る覚悟で、別れの盃を交わすが、最後は無事に落ちてくれ、僕は死ぬよという気持ち

当代は酒は飲まないが、後半の弁慶は舞、大盃で豪快に酒を飲み舞う場面も見せ場

80歳で演じることが出来たら本当に幸せだと思うほど、弁慶という役が好き

l  ひらかな盛衰記 逆櫓(さかろ)

(あらすじ) 船頭が娘と先夫との間の子と暮らすところに、子を取り違えたので返してほしいと女が現れ、しかも取り違えた子は死んだという。船頭は入り婿に孫の仇を取ってほしいと頼むが、実は入り婿は義仲の遺臣樋口で、育てていたのは義仲の遺児。入り婿は船頭から逆櫓の技術を習得して義経を討とうとしたが露見、船頭の訴えによって畠山重忠が現れ、遺児を自らの孫と偽って救おうとする船頭の配慮を悟った樋口は潔く縄にかかる

『源平盛衰記』を題材に、木曾義仲とそれを取り巻く人々を描いた浄瑠璃《ひらかな盛衰記》の三段目で、義仲四天王の1人樋口次郎兼光の物語

入り婿は「世話」、樋口は「時代」と、演じ分けが難しいうえに、場面場面での相手との相対的な大きさが違う、初代はカドカドの際立った中に大きさを見せるのが素晴らしかった

'48年、当代は遺児として出演したが、普段は優しい祖父に樋口がお縄にかかる場面で血だらけの顔で睨まれるのが怖くて泣き出し出演を拒んだという武勇伝を残す

立廻りも歌舞伎独特の演出――とんぼ返りや逆立ちなどが芝居にアクセントをつける

l  夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)

(あらすじ) 牢から出してもらったことを恩に感じて、とりなしてくれた人の息子と恋人の仲を取り持とうとするが、恋人の父親が恋人を売ろうとしていることに気付いて恋人を取り戻そうとするが、父親に悪態をつかれてふとした弾みで手にかけてしまう

実際に上方で起こった殺人事件をもとに人形浄瑠璃として初演。長町裏の場は泥場(どろば)”とも呼ばれ、陰惨な悲劇をより印象付ける

役の年齢より10歳くらい上になって漸くできると言われるのが歌舞伎で、その役者がいかに修行したのかが芝居に出てくる

舅を殺害して泥田に沈め、宵宮の御輿の列に紛れて逃げるという凄惨な殺しと祭の賑わいのコントラストがよくできている。初代は江戸っ子だが、その父の三代目歌六は上方出身なので、上方の匂いを出しながら、江戸の香りも醸し出していたのではないか

l  籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)

(あらすじ) 絹商人が吉原の八ッ橋の花魁道中に心を奪われ通い詰めるが、間夫から手を切れと迫られた八ッ橋は、心ならずも満座の中で商人に愛想尽かしをする。打ちひしがれた商人は、数カ月後に吉原を訪れ、妖刀籠釣瓶で八ッ橋を斬り殺す

実際の事件を題材にした講談《吉原百人斬り》をもとに脚色

冒頭八ッ橋が商人を見てにっこりとする見染の笑いは、歌舞伎女方の見せ場

疱瘡の跡が残る顔にコンプレックスを持った商人が、最初は野暮ったく、二幕目からはウキウキと浮足立った雰囲気が、満座の中での愛想尽かしで粉々になって、後の場面へと繋がる。商人が殺しに至るのは、愛想尽かしへの恨みだけでなく、家に伝わる妖刀に魅入られた一面もある

l  奥州安達原 袖萩祭文(おうしゅうあだちがはら そではぎさいもん)

(あらすじ) 帝の弟環宮(たまきのみや)が行方不明となり、その咎で切腹を命じられた平直方のもとに心配した娘袖萩が来るが、袖萩は親の反対を押し切って安部貞任と駆け落ちしたため勘当された後夫と別れて失明、瞽女(ゴゼ)となったが対面を許されない。直方は切腹し袖萩も自害。帝の使いが来て直方と袖萩に哀れみの言葉をかけるが、源義家は帝の使いを安部貞任と見破り、戦場での再会を約して別れる

平安時代奥州の安部一族の反乱、前9年の役を題材とした『奥州安達原』。歌舞伎では《環宮明御殿(あきごてん)の場》こと通称《袖萩祭文の段》が上演される

12役を二つ玉といい、初代は袖萩と貞任を1人で演じた。歴史は勝者の立場で書かれるが、この芝居には滅びた人々に対する同情があり、先住民に対する憐みが込められる

歌舞伎には滅びの美学を描いた作品が多い、昔から日本人の感性として、悲劇の中に美を見るという感覚がある気がする

l  隅田川続俤 通称《法界坊(すみだがわごにちのおもかげ ほうかいぼう)

(あらすじ) 願人(がんじん)坊主の法界坊が、商家の娘に恋慕、娘は手代と恋仲。手代はお家再興を目指す若殿で、紛失した家宝の軸を探す。法界坊は軸が金になると知り探す傍ら、娘の誘拐を企てるが失敗。さらに若殿の許婚をかどわかそうとして拒否されると殺害。法界坊も若殿の家来によって絶命。現世に怨みの残る野分姫と合体霊となり娘の前に現れる

金と女に目のない生臭坊主法界坊を主人公とした物語。播磨屋には珍しく喜劇的な色合いの濃い作品。英雄役者、清正(きよまさ)役者と呼ばれ、武張った役の多い初代が、法界坊という役を掘り下げ、その人間性を織り込んで舞台芸術に高め、大当たりをとる

《隅田川続俤》の大喜利に、所作事《双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)》という法界坊と野分姫の霊が合体し、徐々に本性を現してゆく舞踏劇をつけて上演されることが多い

義太夫狂言には、誰かが幸せになると誰かが不幸になる、今の幸せに有頂天になっていてはいけないよという教訓が含まれているような気がする。法界坊も軽い喜劇と思っていると、最後には残忍な人殺しから怨念を残した幽霊になるという人間の二面性を感じさせる

l  松貫四(まつかんし)による作品

自身による戯曲の創作、上演に取り組む

1985年、香川県琴平町の金丸座での第1回こんぴら歌舞伎で、《遇曽我中村(さいかいそがなかむら)》を下敷きに書き下ろした《再桜遇清水》。政争で陥れられた新清水寺の高僧清玄が桜姫に思いを寄せ、死んだ後にまで付き纏う物語

次いで3部作。《登龍哀別瀬戸内 藤戸(のぼるりゅうわかれのせとうち ふじと)('98)は厳島神社での奉納公演のために書いた作品。能から筋立てを取る

《巴御前》('99)は、藤間の宗家の舞踏を見て歌舞伎に懸けようとした作品

《日向嶋景清》('05)は実父が文楽との共演で演じた《嬢景清八嶋日記》を元にした演目で、文楽の大夫と歌舞伎役者の合同公演という画期的な試み。八代目竹本綱大夫に稽古をつけてもらい、台詞の一語一言に魂を込め、深く解釈する文楽の素晴らしさを知る。併せて、初代がリア王をやりたいと言っていたのを、景清ではどうかということになったもので、歌舞伎仕立てに出来て少しは初代の志を受け継いでの孝行になったかなと思う

その後、《閻魔と政頼(せいらい)(’07)は松羽目物の舞踏劇で、大蔵流の狂言《政頼》を芝居に仕立てたもの

新たな題材としては、長谷川等伯

l  おしばいのえほん 絵:なみの たつじろう、文:なかむら きちえもん

(未完成絵本を公開)

 

第4章        画集 心のままに、描く――描く対象を観察し、造形していく課程は芝居の役作りにも通じると語っていた吉右衛門。いつかパリのボザール(美術学校)に学びたいという夢は果たすことが出来なかったが、心のままに絵筆を走らせた作品は、どれも描き手の温かな視線を感じさせる

l  役者絵――コロナ禍の自粛期間中に自らが演じる姿を描いた当たり役の数々からは、名調子の台詞が聞こえてくるかのよう

l  えとのえほん――毎年、年賀状には自筆の干支の絵を描いていた吉右衛門。この12枚綴りの『えほん』には、3人の愛孫も登場(丑を引く2人と丑の背で笛を吹く1)

l  日々の絵――芝居の合間の楽屋で、旅先で、目に触れたものを写し取った数十冊に及ぶスケッチブックより

 

第5章        77年を辿る――初舞台から70余年、歌舞伎俳優としてはもとより、数々の舞台、映像でファンを魅了する傍ら、時には夫として、父として、そして愛孫たちの「じいたん」としてのチャーミングな素顔を垣間見せることもあった日々を振り返る

l  鬼平犯科帳 長谷川平蔵を生きた吉右衛門 寄稿 逢坂剛

池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』は、実父より受け継いだ作品で、全国のファンに広く愛された。平蔵を主人公にした小説を手掛け、二代目吉右衛門とも交流のあった作家の逢坂剛が「中村吉右衛門版鬼平」への思いを綴る

私の亡父(中一弥)は池波の3大シリーズのすべてに挿画を描いていた。テレビの《鬼平犯科帳》の平蔵は八代目幸四郎、丹波哲郎、萬屋錦之介などが演じる。平蔵が火盗改の頭領を務めたのは40代、それを還暦直前の八代目がやったので老けた感じがした

二代目吉右衛門が平蔵役を引継いだのは1989年のこと。吉右衛門は45歳で年齢的にはぴったりで、相応の貫禄さえ感じられる

コロナ禍で一度対談したが、その折感じた最大のものは、あれだけの実績と人気を誇る人にして、ここまで礼儀正しく、謙虚に振舞えるものだろうかという驚きだった

語り口の魅力的なことも特筆すべき

 

l  〈特別インタビュー〉 二代目中村吉右衛門と生きて 波野知佐

吉右衛門とははとこ――吉右衛門の実母と私の父がいとこ同士。父はNHKのディレクター

馴れ初めは――義母が実家の父に、なかなか落ち着かない息子のことを心配して誰かいい人がいないかといった時に父がうちの娘はといったので、義母から嫁に来ないかと電話がかかってきて承諾した

結婚したのは吉右衛門が31で知佐は19歳、まだ慶應の学生――いつも着物をセンス良く着つけて忙しく飛び回っていた義母への憧れが大きかったので、抵抗はなかった

結婚は1975年――前日に家族だけで鎌倉の家で内々の式を挙げ、翌日ホテルオークラでお披露目

結婚生活は――義父母と同じマンション。吉右衛門は始終ピリピリしていた

歌舞伎俳優の奥様として戸惑うことは――符丁で言われてもわからないし、着物でも大島など硬い織の着物を劇場に来ていって注意された

『役者の女房』という随筆もあったが――どこまで女房が関わるかは、家や夫婦によってまちまちなので、麗々しく披露するのもと思って取り下げてもらった

役者として落ち着いたのは――座頭としての公演が増え、なにより秀山祭を始めるようになってから

体調に不安を感じるようになったのは――2020年に手術をしてガタッと体力が落ちた

インタビュアー: 小学館ライター 清水井朋子

 

おわりに                   波野知佐

謝辞

 

 

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