ミハイル・ゴルバチョ  ゴルバチョフ  2023.1.5.

 2023.1.5. ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で

2018

 

著者 ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ

 

訳者 副島英樹 朝日新聞大阪本社編集局編集委員。1962年姫路市生まれ。東大文卒。86年朝日新聞入社。広島支局、大阪社会部などを経て、プーチン政権誕生前後のモスクワ特派員。08年からモスクワ支局長を務め、米ロの核軍縮交渉などを取材。核と人類取材センター事務局長、広島総局長などを歴任

 

発行日           2020.7.30. 第1刷発行

発行所           朝日新聞出版

 

 

ロシア語版AST出版より刊行の辞

本書は単なる回想本ではない。思索の本であり、分析の本。ソ連の初代大統領であり、ペレストロイカの父である著者は、我が国や全世界の重要な出来事について思索している。ゴルバチョフの時代は、何よりも、核の悲劇的結末がいつでも起こり得る冷戦時代で、彼の政策には様々な評価があるにせよ、ゴルバチョフは、この悲劇的結末を回避するために信じられないほどの力を尽くした政治家だった

 

第1章        ペレストロイカ胎動

l  序文――古い写真

歴史が、我々の世代や私個人に、終わることのない役割を果たすよう運命づけた

あの頃最も重要だったのは、疑いもなく、グラスノスチであり、自由であり、冷戦を終わらせることだった。それによって成し遂げられたことは、多くの人々の努力の結果である。この本で私は、こうした人々について語り、この間の歴史的出来事を背景に彼らの肖像を描きたいと思う

l  イニシアチブ

新思考=軍事よりも協調や相互依存を重視するゴルバチョフ政権の新しい外交理念

国際関係を新思考の方向へと導くイニシアチブを取ったのは、ソ連の指導部で、ペレストロイカ、民主化、これまでの社会主義の刷新を選択した我国の国内要請に迫られてのこと

このイニシアチブは、核戦争の脅威が全世界を覆っていた1980年代半ばの国際情勢に対して、我国と他の国々、とりわけ米国に課される責任について我々が理解していたからこそ生まれたもので、我々は平和の名において、誰とでも協力していく用意があると表明

アフガン戦争を停止して米国との関係正常化するとともに、軍拡競争中止の必要性を確認

統一された1つの共同体である「ヨーロッパ共通の家」を考えなければならないと表明

l  新思考の必要性

新思考外交は、ペレストロイカに至るまでに、国際関係の分野で、このままではいけない、変化が必要との考えが芽生え、検討され、少しづつ道が作られてきた

1954年、マレンコフ首相が冷戦時の政策について、「世界文明の滅亡を意味している」といった時、非難が集中したが、フルシチョフは国際情勢の緊迫化とキューバ危機の影響によって、マレンコフと似た立場をとることになり、党と国家の公式文書に、ソ連の対外政策の基本ラインは平和共存であると記された。しかし、1964年フルシチョフが党中央第一書記のポストを追われるとその文言は取り消された

l  「白いシーツに隠れて…」

市民が有事に備える民間防衛の映画の中に、原子力兵器の実験時の場面で、原子力戦争でも人々は守れるという考えを視聴者に吹き込もうとしたが、「原発と反対方向に向き、地面に伏せて、白いシーツに隠れろ」と言われ、ショックを味わった

米国との軍拡競争を止めなくてはならないのは明らか。核兵器使用は許されないし、我々は永遠に核兵器から自由にならなくてはならない

新時代の現実に則った対外政策はブレジネフの時代('6682年まで書記長)にもあり、様々な成果もあったが、ソ連のアフガニスタン侵攻によってわが国の政策への信用が失墜し国際状況を平和へと好転させる可能性も失われた

世界政治は危険のピークにあって、国際的な緊張緩和の方向ではなく、国家政策の基本原則や根本的なアプローチの見直しに基づく解決策を見つける必要がある。新しい思考、新しい世界政治が必要だと強く感じられていた

l  新思考の先駆者

アインシュタイン宣言(1955)に言う「核兵器の出現は世界を変えた」という言葉は、核大国のトップに立つどんな政治家も忘れてはならないと私は確信する。ジェノサイドの兵器であることは、私にとって自明の理

バグウォッシュ運動(1957)に結集したサハロフやパルメ(スウェ-デン元首相)、トルドー(カナダ元首相)、ブルントラント(ノルウェー元首相)らも新思考の先駆者

新たな対外政策への模索は、非同盟運動にも繋がり、非暴力の原則が文化に強く根付いているインドでは特に進んでいて、後年1986年には私とガンジー首相の手によって、非暴力と非核世界の原則についての声明が署名された

l  ケネディ――1963610日の演説

'63年のケネディの演説には感銘を受ける――'62年世界を危機の縁に追い込んだキューバ危機の直後に、真の平和とは生きるに値する平和であり、多くの行動の総決算としてもたらされる問題解決の手段であるとし、米ソ間でも意見の相違に目をつむることなく、共通の利益と、意見の相違を超えて多様性を保てるように世界を安全にしようと訴えた

l  6階」博物館

1998年ダラス訪問の際案内されたのが「6階」と名付けられた博物館で、ケネディ暗殺の現場を保存している。ケネディの演説の意義は、当時よりも今の方が深い。彼の仕事や考えを理解し、それらを国家の政治や政策に具現化することが今求められる。彼は遥かに前を見つめ、多くを変えようとした。彼の死の謎を解く鍵もそこにある

l  新しい世代

平和にとって不可欠の理念は、「止まらない、消せはしない」

新思考の理念は、東側でも西側でも成熟し、人々の心を掴んでいた

ソ連の指導部に新しい政治家世代が登場した時、初めて国家の、核大国の対外政策の基本となった。大部分が戦争の時代に育ち、困難な戦後の時代に学び、復興に関わり、愛国心を1つにしたなかで、全体主義から民主主義へと転換する上で根本的な改革が必要だとの考えに行き着いた。対外政策と国内政策を同時に関連させて進めていくうえでの問題をじっくり考えることがペレストロイカの始まりとなり、グラスノスチも機能し始めた

社会も党員も、民主的な考え方への新しい思考転換を苦労して受け入れた

l  新思考の基本原則

世界の分断や冷戦という観点からは世界の発展は望めない。世界は相互に依存し、共通の利益が存在する。人類を守り、核兵器や環境的な悲劇的結末の危機から人類を救い出すことが必要との認識の上に立つ

力の政策は失敗する。相互の信頼関係を築き、パートナー関係を築かなければならない

l  決定のメカニズム

政治局では全員一致が原則

特に核兵器削減などの軍事政策は、5主要機関の合意が必要

l  変わる外務省――エドゥアルド・シュワルナゼ

対外政策を変えるためにはまずグロムイコ(外相在位’5785)を更迭、改革の意志を共にするシュワルナゼを起用

l  同志たち――ヤコブレフ、チェルニャエフ

ヤコブレフは、カナダ大使から政治局員となり、ペレストロイカの選択と、自由、民主主義、グラスノスチ、多元主義、新思考外交の確立に忠実

チェルニャエフは、国際問題担当補佐官として、ペレストロイカの対外政策立案に貢献

変化は、戦争や流血のない平和的なものでなければならないとの立場を共有し実現させた

l  外務省の大使会議――わが演説

思いたって始めたことは最後までやり遂げること。我々の対外政策ではやり残しや立ち遅れ、無駄なことがたくさんある。利害のぶつかる国際情勢のもとでは、昔のように生きてはならないし、伝統的手法で強引に自分の権利を主張してはならない

社会主義諸国との関係は新たな歴史的段階に入った。我々が経済や党、政治制度の確立を助けた時代は過ぎ去った。これらの国を幼稚園に入れてはならない。別の関係が必要

自国の利益ばかり考えてはいけない。それぞれの国家にそれぞれの利益がある。お互いに協力して共通の利益を見つけるよう、正常な国際関係を築かなければならない

l  初の会談――ワルシャワ条約機構加盟国リーダーたちとの会話

対外政策、総じて政策というものは、大きな理念と、世界についての認識、世界の中で自国が占める位置への認識がなければ不可能だと確信する。それに応えるのが新思考

1985年、チェルネンコの葬儀に多くの西側指導者が集まったが、国際関係の行き詰まりを克服したいという我々の気持ちを感じ取ってくれることを望む

ワルシャワ条約帰国加盟国のリーダーたちには、共通の利益のためにお互い独自の国益に裏打ちされた政策を遂行していこうと呼びかけ、社会主義全体の利益のためには一国の主権の制限もありうべしとしたブレジネフ・ドクトリンの終焉を宣言

我々はペレストロイカを育み、社会主義を自由や民主主義に結び付けようと試み、それによって社会主義のイメージを変えつつあった

 

第2章        ブレークスルー

l  「米国から始めなければならない」

先手を打って、軍拡競争、特に格の競争を辞め、西側との関係を正常化し、理想的な時期にアフガニスタンから撤退し、地域紛争を調整し、中国との対立に終止符を打つ。それはまさに米国から始めなければならないことだった

1980年代初め、米ソには完全に信頼が欠如、外交課題が軍事的なもので占められていた

両国の指導者はすでに6年も会っていなかった。米国のエスタブリッシュメントや大統領側近の中に強力な反対勢力がいた

l  ジュネーヴ――レーガンとの会談

1985年、レーガン大統領とジュネーヴで会談、いきなり激しい非難をぶつけてきた

レーガンから9項目のパッケージが示され、とても受け入れられる内容ではなかったが、両者とも、決裂したはならないという点では同じとの直感が働き、どこか意識の深いところで、合意の可能性への希望が生まれた

レーガンが何かで説教を始めようとしたときに遮って、対等な立場でのみ対話と協力は可能になると言ったら、大統領も納得して応じてきた

聖書の言葉を引用して、「〈天が下のすべてのことには季節があり、全てのわざには時がある。生まれるときがあれば死ぬとみもある。石を投げる時があり、石を集める時がある〉今こそ石を集める時が来たと思う、そのために乾杯しよう」と呼びかけた

l  レーガンとシュルツ

シュルツの貢献は大きかった。いつも建設的であろうと努めていた

共同文書署名に到達することができたが、最も重要なのは①核戦争は許されないし勝者はいないこと、②米ソは軍事的優位を志向しないこと、の2

共同声明と、最高レベルの接触自体が大きな意義を持っていた。想像力と直感の人・レーガンも、何か重要なことが起き、これを発展させ、成長させることが出来ると理解した

核兵器の削減に留まらず、核戦争が無意味であると認められ、そのことが実際の政策に反映されれば、核兵器の競争も蓄積も改良も無意味になっていく

l  1986115日の声明

核兵器なき世界への行動計画を期した声明を発表したが、西側のリーダーたちの反応には疑いの目があり、アメリカもジュネーヴ精神を忘れたかのように艦船が黒海に姿を見せ、軍備拡大の新たな計画が米国で検討され採用された。レーガンの約束違反に愕然

l  レイキャビクの理念――会談への準備

半年後にレーガンから書簡が届く。対話が続いているとの見せかけのようにも見えたが、直接会うことを提案し、アイスランドのレイキャビクでの会談に漕ぎ着ける

攻撃兵器の競争をやめながら、ミサイル防衛分野での宇宙の軍備競争を始めてはならないとの考えに立って提案を模索。アメリカ側が仕掛けた一連のスパイ・スキャンダルで会談が流れかけたが、シュワルナゼとシュルツの努力で切り抜けた

l  レイキャビクの理念――失敗か突破か

10月、草木は全くない間欠泉の蒸気に包まれた街で会談は行われた

戦略攻撃兵器の50%削減と欧州での中距離ミサイル全廃の基本構想については合意したが、アメリカがSDI計画への承認を求めてきたため合意が崩れる

アメリカは会談を失敗と決めつけたが、私はレイキャビクを突破であり、水平線の向こうを覗き見たと評価し、対話の必要性がより一層大きくなったということが結論だった

交渉は再び止まり、次の一歩が必要となり、レイキャビクで表明されたパッケージを「ほどく」ことで打開を目指すことになる

l  「パッケージ」をほどこう

戦略攻撃兵器とミサイル防衛との間には相関関係があるが、中距離ミサイルの問題はむしろ補助的な意味合いを持つとして、核軍備全体の文脈から切り離すことでアメリカに譲歩し、個人的な信頼関係に基づく対話のあるうちに合意への第1歩を踏み出そうと提案

この時感じたのは、私の前にいる人物はリアリストの目を持ち、真剣に政治に向き合っているということで、何とか合意をしようと努力している姿を見るなか米国訪問が決まる

l  ワシントン訪問――中距離核戦力INF全廃条約

198712月ワシントン訪問で、中短核ミサイル全廃条約調印

サッチャーもミッテランもキッシンジャーも反対だと言って割って入る勢力はあったが、レーガンは自らの言葉に忠実で、周囲のステレオタイプを踏み越えたのだろう。シュルツがその考えに基づいて具体化を進めた

この訪問でブッシュ副大統領とも深く知り合うこととなった

l  ジョージ・ブッシュ――車中での会談

最終日のセレモニー前にソ連大使館でブッシュとの昼食会があり、その後ブッシュが一緒にホワイトハウスに行こうと提案したが、条約案にテクニカルな問題があるとわかり本国の国防大臣に解決を指示、その間ブッシュはじっと待ち続け、解決を待って一緒に私の車で出発。ホワイトハウスの手前で予定外の行動に出る。車から降りカフェで寛ぐ米国民と会話を交わす。条約は無事調印され、帰りの空港までブッシュが車に同乗して見送りに来たが、その車中で彼は、来年の選挙で勝てば米ソ関係の改善に身を捧げるとし、やり始めたことを続けると胸の内を吐露してくれたので、私もそれを評価し共同行動を約束

対中国政策やアジア・太平洋地域でのお互いの活動についても尊重し合うことを約束

1年後に国連を訪問した際にブッシュとも再会し、1年前の会話の内容を再確認した

l  モスクワ会談への道

INF全廃条約による米ソ関係は改善を米国世論も評価し、さらなる冷戦の遺物解体のプロセスを進める下地は出来つつあった。年明けには戦略核兵器の50%削減条約署名に向け、弾道弾迎撃ミサイルABM制限条約とセットにした具体的なテキストが作成され、14年ぶりの米大統領の訪問となるモスクワでレーガンによる調印へ向けた準備が加速

アフガニスタンからの撤退声明を米側は評価し、世界で「新思考」を求める傾向が強まっていると言って、初めて「新思考」という言葉がシュルツから発せられた

l  モスクワのレーガン

5月、レーガンのモスクワ訪問では、INF全廃条約の批准書を交換。戦略核兵器削減条約締結への提案も前向きな話となり、ブッシュ時代に結実するが、それ以上に重要な出来事は、レーガンと一緒にクレムリンの周辺や赤の広場で一般の人々と交流したこと

米国ソ連大使だったジャック・マトロックが何年もあとに私に教えてくれたところによれば、’85年のジュネーヴ会談の準備段階でレーガンが、「勝者や敗者についての会話はなしにしよう、そのような会話は我々を後戻りさせるだけだ」と言ったという。レーガンはその後もこの原則に則って行動をとっていた。そのことは認めなければならない

l  国連演説

'8812月国連で演説。対外政策や国際関係で新しいテーマを強調――兵力削減とワルシャワ条約機構加盟国からの撤兵を表明すると同時に、共同創造と共同発展という新しい原則を提案、さらに、国際関係での脱イデオロギー化とヒューマニズムの浸透を訴える

民主主義についても、世界の多様性を認めるとき、高みから周囲を見下ろして「自前の」民主主義を教え込もうとする試みは成り立たないとした

シュルツは、この演説を「冷戦の終結」と評価したが、西側との関係はほどなく大きな試練に直面

l  ガバナーズ島での会談

演説直後のアルメニア地震発生で、キューバと英国への訪問はキャンセルとなったが、帰国前にレーガン、ブッシュの正副大統領と最後の会談をする

レーガンと私は一緒に境界を乗り越えたし、されに先へ進まねばならないと思った

その後もレーガンとの個人的交流は続き、2004年の葬儀には国の代表として参列

 

第3章        ベルリンの壁崩壊

l  1989

改革の本質を一言でいうなら、権力を独占していた共産党の手から、憲法で権力が本来備わっている人々、即ち人民代議員の自由選挙を経たソビエトの手へ政権を委譲すること

歴史上初めて自由で民主的な選挙が実施され、新たな現実を反映、共産党の特権階級であるノーメンクラトゥーラが改革のブレーキになっていることが明らかになった

国民を政治に関与させることに成功、共産党員が85(最高会議の旧構成ではほぼ半数)を占めたにもかかわらず、党指導層は選挙結果を敗北と受け止めた――政権は完全な形で合法性を持つことになり、それ自体が大きな達成で、社会は新たなレベルへと踏み出す

党の中でのペレストロイカは著しく取り残され、ソ連共産党大会に代わって人民代議員大会が国の命運を決める重要な政治フォーラムとなる

l  初の人民代議員大会

‘895月の第1回大会は荒れに荒れた

私には、相反する感覚があった――民主化実現への無条件の満足と、急進派の手法に対する警戒心だが、民主主義のプロセスを維持する目的だけは変わらない

l  ブッシュ――「熟慮のための中休み」

ブッシュは就任直前キッシンジャーに私宛の書簡を託し、「軍備制限分野での直接対話を重視する」と告げてきたが、就任後は「熟慮のための中休み」「戦略的展望」「全体の再評価」といったずるい言い回しで、真剣に取り組む意向がないことを匂わせた。対ソ強硬路線を支持する勢力の活動が活発化していた

l  マーガレット・サッチャー

私が最高のポストに就く前から接触のあった西側で初の指導者――’84年第2書記当時ソ連議会代表団団長として訪問し、サッチャーに面談、会談は決裂寸前だったが、「サッチャーを共産党に勧誘しろとの支持は受けていない」とのジョークで場がほぐれ、次第に人間関係を形作り信頼が生まれていった

初会談の後、サッチャーの「ゴルバチョフとは仕事ができる」との言葉は全世界のメディで伝えられ、彼女はその言葉を何度も繰り返し、守り抜いた。それが敵対から協調へと変わる転換点で重要な役割を果たした

'917月開催のG7へのソ連の参加を決めたが、前年11月保守党指導部によって解任

G7終了後、ソ連大使館にやってきたサッチャーは、G7の指導者たちが具体的で実践的な方法に踏み込まないことに不満を露わにした

翌月勃発したソ連のクーデターは、我々のプランを台無しにし、ペレストロイカは間もなく中断。面白いことに、いつも自由市場への信頼を表明していたサッチャーは、ソ連崩壊の後に急進改革派が取ったショック療法を懐疑的に見ていた

その後も何度か会い、議論して、再び論争したが、我々の政治家世代には、冷戦を終わらせるという最も重要なミッションがあり、私たちはそのミッションを成し遂げたという点で、いつも一致した。マーガレットこそ最も純粋で人間味ある個性で際立っていた

l  モスクワのジェームズ・ベーカー ――真剣な会話

'895月、交渉再開を期したブッシュの親書をもってベーカー国務長官がモスクワを訪問、我々も相互理解を志向し、あらゆる方向で対米関係を動かす方法を模索

ベーカーは信頼に足る人物で、我々も粘り強く交渉を続けたが、翌年になって米国は努力を断念

l  ヨーロッパ――歴史は歩みを速める

ヨーロッパでは急速に事態が動き始める。特に中欧、東欧諸国で顕著

ワルシャワ条約機構参加国の動きに対し、あまりにも寛容に接し過ぎたとの非難もあるが、元々の共産党の原則は権利の平等、相互不干渉、各国指導部の自国民に対する完全な責任などを謳っていて、隣国への内政干渉には終止符が打たれた

l  ヤノシュ・カダル、ボイチェフ・ヤルゼルスキ

私と理解し得たのはハンガリー書記長のカダルとポーランド首相のヤルゼルスキだけ

両者とも、ソ連の変化、ペレストロイカを敏感に感じ取って、自国の変革に着手

ポーランドとはカチンの悲劇を筆頭に、両国の関係の希薄さと不信が存在したが、真実を追及した結果、ソ連側は深い遺憾の意を示し、スターリニズムの重大犯罪の1つだと表明した結果、ポーランドの体制転換は無血で平和的に進み、他の国々にとっての見本となる

1981年ワレサ率いる「連帯」の動きに対し戒厳令を布告して弾圧したが、彼の目的は事態の鎮静化と国民の和解を達成し、政治体制の段階的な改革を進めることにあり、後に検察による訴追を受けたのは見苦しい政治的怨念に他ならず、事態の推移を懸念している

l  荒れるドイツ民主共和国(東ドイツ)

'89年夏は変化へのプロセスが様々な形で起きたが、そのベクトルは疑いようがなかった

東ドイツではホーネッカーが民主化を徹底的に拒否するなか、建国40周年記念行事が行われ、私も参加せざるを得なかったが、民衆の不満の高まりが危機的状況にまで膨張、政権は崩壊寸前となり、119日のベルリンの壁崩壊は起こるべくして起こった

東ドイツの駐留するソ連軍部隊には非介入の指示が出されたが、同時に我々はソ連の死活的な利益を侵すことなく、ヨーロッパの平和を壊すことなく、事態を平和な方向に導くためにできる限り手を尽くした

l  その先は?――ヘルムート・コール

ペレストロイカの最初の2年、ソ独関係は凍ったままだったが、’87年ワイツゼッカー大統領がモスクワを訪問したのを機に、外相のゲンシャーやキリスト教社会同盟の党首シュトラウスらの努力によって偏見が除去され、’88年コール首相のモスクワ訪問が実現

‘87年、私は政治局で発言、「ペレストロイカのためにはヨーロッパが必要、西欧とが我々の基本的なパートナーであることを忘れてはならない」と発言、特にドイツなしには本当のヨーロッパ政策など一切ない

l  信頼の芽生え

コールの訪問は、独ソ関係の転換点――コールの言葉に新思考の理念への共鳴を感じ取る

個人的な協調性と、会談相手がとる行動の動機を理解することが、国際政治で非常に大きな役割を果たすとの考えに私は立脚していた

l  関係の新たな章

両国に多くの類似点があるというコールの言葉に賛同し、両国関係に新たな章を開こうとする彼の覚悟を歓迎。2人を近づけたのは、戦争への深い憎悪だった

モスクワの会談後、事態は急展開し、コールとの関係はますます深まる

ブッシュ政権の歩みが遅いと苦言を呈した時には、彼らの力を過小評価するのではなくそれを活用しなければならないと言われた

‘896月西ドイツを訪問し、独ソ両国は共同声明に署名、首相はこの文書が「過去を終わらせ、未来への道を照らす」と言い、私も彼の評価に賛同

l  ドイツ問題――議事日程に

ドイツ問題が喫緊の課題となり、10月西ドイツとモスクワにホットライン設置で合意

節度の感覚と、起きうる結果を見越して行動計画を立てる能力、個人の責任感が必要であることをお互いに確認

l  首相は急ぐ

荒れ狂う東ドイツの情勢を前に、コールは議会で10項目提案を発表

早急なドイツ統一については今なお賛否両論あり、ソ連が統一プロセスに介入するために強硬な措置を準備しているとの疑いが広がる――私としては、どう見ても避けられないプロセスに抵抗すること、ましてやこのためにどんな形であれ軍事力を適用しようとすることは冷戦再発に繋がりかねないと判断していた

l  ドイツ再統一 ――我々のアプローチ

ドイツ統一は公式には’90103日に成立。このプロセスは私のボン訪問の時に基本文書である独ソ善隣友好協力条約によって締めくくられた

ドイツ人が再統一を志向することは、以前から深く積み重なったもので、東ドイツでは党の内部でさえ、再統一への志向が感じられた。ソ連における民主化がドイツ人の希望を現実のものに変えた。1989年夏から相互信頼が世界政治の影響力ある新しいファクターとなったおかげで、国際情勢の根本的な変化が起きるようになった

ドイツ紙統一プロセスにおける私の以下の原則的アプローチが私のその先の行動を全て決めた――モラル的原則(過去の分断の罪を新しい世代に負わせない)、政治的原則(東独駐留ソ連軍による非介入)、戦略的原則(再統一に向けた国民の民主的運動への圧力排除)

 

第4章        冷戦終結

l  ヨハネ・パウロ2

‘8912月、マルタにてブッシュと会談

マルタへはイタリア経由で入ったが、イタリアではアンドレオッティ首相らの歓待を受け、内容豊かな対話となり、人間味溢れる3日間を過ごし、イタリアは、ヨーロッパの政治から恐怖は去りつつあり、自由に息が出来ると感じとって信じてくれた最初の国となった

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の個人的な招待で、ソ連の最高指導者による初めてのバチカン訪問が実現。教皇はペレストロイカを、人々が手を携えて生きていくための新しい次元への活路を一緒に模索することを可能にするプロセスだと評価

l  マルタ

嵐の中、ソ連の宿舎用に入江に係留されたソ連の旅客船で会談が行われる

会談の冒頭で、「アメリカの政治家たちが、ヨーロッパの分断を乗り越えるには西側の価値観をベースにしなければならないと語るなら、受け入れられない」と釘をさす

l  会話の核心

アメリカは、共産圏国家に最恵国待遇を与えることを妨げたり借款供与を制限する修正条項の効力停止に踏み切ると提案

私からは、過去の経験に学び、冷戦からどんな結論が導き出せるか、語り合いたいと提案

l  我々は敵ではない

私はブッシュに、「新しい米大統領は、ソ連がいかなる状況でも戦争を始めないということを知っておくべき。もう米国を敵とは考えない」と宣言。同時に、ヨーロッパでの変化が根源的な性質を帯びている以上、1975年のヘルシンキ・プロセスで謳ったように相互の信頼醸成を図らなければならないことを強調。この考えは1年後には、欧州安全保障協力会議の首脳会議で実現され、新しいヨーロッパのためのパリ憲章が採択された

歴史と国家、全てが複雑に混ざり合い絡み合っている。この問題は民主的にしか解決できないし、外部からの干渉なしに解決を図るべきで、不干渉こそ決定的に重要

マルタでは、米ソ首脳会談の歴史上初めて、共同記者会見が行われた

l  ドイツ――平和路線でプロセス保つ〈24

それに続く数週間、ドイツ統一プロセスが注目された――東独の指導部は一変したが、現状認識や危険性への理解が深刻なまでに遅れていることが私には分かってきた

民衆の要求は一層急進的になり、連日のように各地にデモが拡散

ドイツ統一の課程で解決が必要となるヨーロッパ問題や国際問題を協議するための特別のメカニズムとして米ソの提案により米ソ英仏に東西ドイツを加えた〈2+4〉が発足。2を先にしたのは統一を決定したのはあくまでドイツ国民だということの象徴

l  ドイツのNATO加盟問題

すぐにドイツのNATO加盟問題が持ち上がり、ベーカー国務長官は、米独とも統一ドイツにとって中立が最適な決定だとは考えていないといい、米国は米国のプレゼンスを望まない国からは出ていくし、ヨーロッパでの米国のプレゼンスを担保しているメカニズムがNATOに他ならず、NATOの枠組みでドイツのプレゼンスを維持するなら、NATOの管轄権や軍事的プレゼンスは1インチたりとも東方に拡大しないと保証することは、ソ連にとってだけでなく他のヨーロッパ諸国にとっても重要なことだと理解していると明言

l  NATO拡大について――「ここから――より詳しく」

ドイツ統一がNATOの東方拡大に繋がらないという保証は、’909月のドイツ最終規定条約で具現化され、東独への外国軍の配置や核兵器配備を禁止し西独の兵力を削減した

東独だけでなく東方全体へのNATOの不拡大を要求すべきだったとの批判があるが、まだワルシャワ条約機構が存在していた時代であり、条約機構構成国への侵入は考えられない

NATOの東方拡大のプロセスは別の問題でそれが始まったのは、ドイツ統一で成し遂げた合意の精神に背き、相互の信頼を壊してしまった結果で、ソ連邦が維持され、既にソ連と西側の間にできていた関係が保たれていたら起きなかった

l  コールとの真剣な会話

私はモスクワを訪れたコールに、「戦争が両国にもたらした遺物を見直し、対立や敵意から抜け出して新しい思考に踏み出そう」と呼びかけ

コールもそれに応えて、真剣に平和を希求し、統一後の国境線は現在の所に引かれると保証、兵力の大幅削減と大量破壊兵器の放棄に関し最も厳しい義務を自らに課すと請け負う

l  主役は――国民、2つの国民

再統一の主役はあくまでドイツ国民であり、ロシア人もドイツ国民の意志を支持した結果、お互いの歩み寄りが実現

‘903月の東独の選挙では、西独憲法23条に則ってのドイツ統一に賛成する政党が70%の支持を得た

急速な統一のテンポが問題を起こしたのは、ソ連のみならず、英仏でも同じことだったが、サッチャーは真っ先に祝電を送った。ミッテランは欧州全体の見地から軋轢の調整に動く

 

第5章        試練

l  米国訪問――困難な対話

‘905月米国訪問――米ソ間の冷戦の遺物の最終的な克服が目的

世界の一体化と相互依存への自覚は、すでに政治にも深く浸透しており、新たな協力関係に向かって前進させる必要があった

最大の懸案だった統一ドイツのNATO加盟問題については、ドイツ自身の決定を尊重することで共同声明を出すことに合意

l  軍縮問題の協議

戦略兵器削減条約についてもほぼ合意に達し、1年後の公式な条約署名に繋げる

化学兵器の80%削減協定に署名、化学兵器の多国間協定締結への道を開く

地下核兵器実験制限、平和目的地下核爆発制限の各条約の議定書も採択

核兵器や化学兵器、ミサイルなどの生産技術の拡散防止措置について合意したのは大きい

どんな困難であろうと、交渉を通じて、政治的な手段によって、解決の糸口を探すことしか道はない

l  「我々は右からも左からも非難される」

大きな躓きとなったのはリトアニア問題で、私もブッシュも左右両サイドから非難されながらも、バルト3国の問題は脇において、貿易協定への署名を優先させることで合意

l  アメリカを知る

ソ連に対するアメリカ人の態度に変化が起き、敵対心が過去に遠のきつつあるのを知る出来事が米国各地への訪問であった。ミネソタでは空港から数十キロにわたって歓迎の人波が続き、サンフランシスコでも政治や経済のリーダーたちと出会い、スタンフォード大訪問はシュルツとも再会し印象的だった

l  緊急事案

7月にはコールとゲンシャーがモスクワを訪問、ドイツ最終規定条約と独ソ善隣友好協力条約の最終の詰めを行う

l  ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー

初めて出会った時から、高い能力に感銘を受け、以後彼が亡くなるまで30年の付き合いとなる。西側で初めてペレストロイカを真剣に受け止めた政治家

この時期に国際政治で達成されたものの中で、最も有意義で希望をもたらしたものは、独ソ両国の偉大な歴史的和解の結果として現れ、獲得された政治的な信頼である

ドイツ指導部は、ロシアと欧州連合との友好協力協定の締結にも手腕を発揮

'9011911日、統一後のドイツを訪問、式典と文書署名が行われ、両国関係の新しい時代が開かれた。両国民に不幸と悲しみをもたらした歴史には終わりが告げられた

l  全欧州の安全保障問題――パリ憲章

1989年秋に東欧諸国で繰り広げられた出来事は、新たに全ヨーロッパの安全保障の問題を呼び起こし、私が欧州評議会議員総会で話し合いを呼び掛け、欧州安全保障協力会議の参加国34の代表が参加して、’9011月パリ会議開催。欧州通常戦力条約と共同宣言に署名し、新しい協力関係を築き、お互い友情の手を差し伸べることが高らかに謳われた

会議の結果として、「新しいヨーロッパのためのパリ憲章」が採択され、ヨーロッパ共通化プロセスの新しい機構や制度についての規定を作り、定期的な政治協議を行うための中心的な場として外相で構成する理事会などが創設された

ソ連のクーデターと国家の解体、ユーゴの内戦と崩壊などがヨーロッパの情勢を根本的に変え、ヨーロッパ共通化プロセスは危機に瀕し、パリ憲章には触れられることすらないまま、参加国間での信頼が失われてしまうようなことがあまりに多く起きていた

2008年、メドベージェフ大統領によってヨーロッパ安全保障の機構創設の考えを復活させる試みがなされたが、西側のパートナーたちは即座に冷ややかな態度を取り挫折

l  中東危機――新思考の試練

‘90年夏、中東で突然の危機発生――イラクの戦車部隊がクウェート領内に侵攻し併合

ソ連はイラクと友好協力条約を締結し、軍事顧問などを派遣していたが、直ちに侵略行為を非難し、侵略阻止とクウェートの主権回復を目的に共同行動をとることに賛成

中東紛争の調整が長い間停滞した理由の1つが、冷戦の論理に従い惰性で動いていたことで、米ソ関係が変化するにつて、米ソのアプローチも接近してきた

今回の危機対応で、超大国同士が初めて意見を一致させ、厳しい経済制裁を含め、国連安保理決議が我々の積極的な参加によって採択された

l  軍事的解決か平和的解決か?

私はイラクのアジズ外相に肥大化した自己過信の幻想からイラクを救い出そうと提案した上でブッシュに会い政治的解決模索の必要性を強調したが、常識では理解できないフセインの強情さと野蛮行為に、ワシントンでは我慢の限界を超えた

‘911月米空軍の攻撃開始、その間にも政治的解決への努力は続けられ、1か月後にようやくイラクは国連安保理決議を受け入れ、完全撤退と賠償に応じることに同意

l  その結果は?

我々は、侵略とその阻止をめぐり、世界共同体が1つになった対応を取るうえで主要な役割を果たし、国連任務を1つにまとめることも出来た。冷戦終結後初めて迎えた試練を通して、新しい米ソ関係を築いて乗り切ることが出来た

ただその後の事態は崩壊されたクウェートとイラクであり、数万人に及ぶ死傷者であり、環境的な災いであり、他の多くの悲しい結末だった。政治的に解決するプランの実現は可能で、最後の局面で軍事的解決を優先した米国の立場からは起こり得なかったと思う

 

第6章        ラストチャンス

l  危急存亡の1991

ソ連の運命が決められ、厳しい試練の中で、あらゆることが国内外で顕在化した

民族同士の関係や、共和国の強い自立志向の問題への対応が遅れた。問題の重要性と深刻さを過小評価していた。主権国家の自発的統合の原則に基づく連邦改革プログラムが遅れたことにより、分離主義者に多くの見方を引き付ける可能性を与えてしまった

とりわけ深刻だったのが民族問題で、あらゆる民族に対するスターリンの厳しい弾圧が暗い影を落としていた

‘91年を迎えるにあたり、大祖国戦争での勝利の記憶を呼び起こし、諸民族の結束を呼び掛けたが、1月にはリトアニアで流血の事態に発展。憲法に則った手続きを提案したが、リトアニア指導部はソ連中央に反発、さらに駐留ソ連軍が大統領令なしに市民の弾圧に乗り出し混乱に拍車をかける

ソ連大統領と9共和国の指導者による枠組み〈9+1〉により、新連邦条約案が提案されたが、連邦解体を主張する分離主義者や、民主化改革への反対もあって混乱は続く

党は、自らを改革することも国の改革にも参画できない保守勢力として残る

7月には、’85年から歩んできた道の終着点として、国家を危機から救い出し、芽生えた民主化改革を大幅に前進させるための現実的な前提条件が確立され、新しい連邦条約の下、我々の改革の新たな段階が切り拓かれるところだった

l  日本訪問は必要だった

1986年のウラジオストック演説の中で最も重要な成果は中国との関係正常化。天安門事件の直前に北京を訪問し、鄧小平との間で関係正常化に合意

日本訪問も必要だった。会ってみるとほぼすべての人が領土問題を取り上げたが、ソ連国内に統一された意見はなかった

我々の立場は、協力を拡大しお互いの国民の理解に基づいて社会の雰囲気を変え、地域的、国際的な情勢を変えることを通して交渉を進め、問題解決に最適なアプローチを模索するというのが基本的なスタンスであるべきで、問題が存在することとその解決が必要であることを認め、段階的で全方位的な関係改善の枠組みで進めていこうと提案したが、自民党幹事長小沢一郎の提案は、経済協力と交換に4島を返還するというもので、我々を請願者の状態において取引を迫るものであり、とても受け入れられなかった

l  東京での交渉

海部首相は頑強に4島返還への道を開こうとする「一発勝負」の形で迫ってきたが、私はあくまで、あらゆる分野での関係発展から始めなければならないと強調

日本各地の訪問の際も、私は両国の関係発展と信頼醸成に協力しようと努力

池田大作とは共通の倫理的綱領を見つけ、世紀の変わり目に共著を発刊

l  G7の舞台へ

1991年は、我が国が先進7か国のグループに接近する転換の年となった。我が国の世界経済への完全な統合は、市場化されていないソ連経済の体質がネック。誰一人として真面目で現実的な市場化プログラムを持っていなかった

l  フランソワ・ミッテラン

G7との相互理解の問題を私が取り上げたのは、’89年のミッテラン大統領が初めて

ミッテランは、左派の社会主義運動で茨の道を歩んできた人物で、洞察力に優れ、私は会うたびに何か新しいものを汲み取った。レーガンを人間として評価していたのを見て私もレーガンに交渉の用意があることを感じとった

ミッテランは自らを「天性の社会主義者」と呼び、彼にとっての社会主義とは、価値観のシステムであり、自由で公平な社会の探究だった

彼は、ソ連を数百年にわたる歴史故に偉大な国とし、ここ数十年立ち遅れたが、国民は現代の生活への備えは十分にできていて、誇るべき国民だと断言している

l  ロンドン会談に備えて

‘91年のG7への参加に先駆けて、我々は経済を安定させ、世界経済へ統合させるために持てる力と資源を総動員すると強調、西側からの呼応措置の必要性についても語る

民主主義の選挙で支持を得たエリツィンが訪米して、ブッシュにゴルバチョフとの蜜月関係を誇示した

l  ロンドン――対話と交渉

G7へのソ連の参加は、私のイニシアチブに最初にミッテランが呼応して実現

米ソのシステムや環境の隔たりはあっても、重要なのは、動く方向性と、ルールに則って行動する心構えだという点でミッテランとは一致

参加者全員が、新しい国際経済秩序へと共に踏み出すことを確認した

l  合意と結論

達成された合意は6項目

   ソ連をIMF準加盟国とする

   全ての国際経済機関に、ソ連を市場経済に転換させるための支援を行うよう要請

   ソ連への技術支援強化

   ソ連とその近隣国との経済的繋がりの再構築と物資のソ連市場への流通の円滑化

   G7議長国によるソ連との密接コンタクトの維持

   ソ連の経済改革や世界共同体への完全な統合プロセスの支援

サッチャーは具体的で実践的な措置がないと批判的だが、私は、政治的、軍事的な分野に続き、世界経済への統合で障碍が除去され始め、重大な転換が見えてきた点は評価する

l  ブッシュのモスクワ訪問前に

ロンドンでブッシュとは戦略攻撃兵器削減条約の積み残しの課題で合意。歴史上初めて戦略攻撃兵器の保有量がレベルや上限によって制限されるだけでなく、50%も削減され、偉大な一歩であり、戦略分野での軍拡競争を実際に止めるものだった

私はブッシュに、さらなる相互依存を深めようと提案し、ブッシュはソ連が西側経済にダイナミックに統合された民主主義と市場主義の国であってほしいと表明

その後のブッシュのモスクワ訪問で、全ての議題が深く遥か先まで協議されることを期待

l  ノボ・オガリョボ(大統領公邸)でのブッシュとの対話――パートナーシップの展望

モスクワでの重要なテーマは、世界政治を米ソ共同で導く、普遍的な安全保障の新しいシステム形成への展望

話し合いは、中国やインド・パキスタンからユーゴ、中東にまで及び、今起きている変化の民主的側面を刺激することで意見の一致を見る

政治体制の性急な変化は避けなければならないが、一方で改革は毅然と、より早く進めなければならず、そのためには米国からの現実的・具体的支援が必要――価格の自由化に移行する時、最適のタイミングで、商品や食料品、医薬品を受け取りたいと要請

 

第7章        ソ連崩壊

l  ‘918月クーデターとその結末

クーデターはソ連指導部も含めたグループによる国家転覆の試み

クリミアで3日間軟禁され、人間としての我慢の限界を味わう。非常事態導入をあくまで拒み、エリツィン・ロシア大統領がクーデターを憲法違反だと表明したことが民主主義を守ることに繋がったものの、クーデターは主権国家間の新しい連邦関係を築くプロセスを断ち切り、国家だけでなく社会までも解体へと急き立てた

臨時のソ連人民代議員大会では、ソ連大統領と10の連邦共和国指導者が、連邦条約の締結と、各国が参加の可否を自主的に決めることを確認した

l  解体を防ぐチャンスはあった

ソ連崩壊は不可避という人がいるが間違い

10月には8つの共和国が経済共同体条約に署名し、共和国間経済委員会が活動開始

連邦条約案については激しい議論が続き、私は別々の国家への分割は破滅的な結果をもたらすと説得。最終的に連合的な連邦国家であるべきとの結論になり、ウクライナのみが態度を留保したが、その直後の12月エリツィンはベラルーシ、ウクライナと3国で独立国家共同体CISを創設、クレムリンでの即位を画策し、連邦を犠牲にした。12月私は辞任

l  我々の仲間はどう反応したか――フェリペ・ゴンザレス(スペイン首相)は語る

ゴンザレスは、痛みを伴う急激なスペインの転換期に12年にわたりトップであり続けた。社会主義者であり、信念や価値観では社会民主主義者、ハイテンポの経済成長を達成して短期間に民主化への移行を確実にし、ヨーロッパ共通化プロセスの際立った参加者となり、世界政治の中で発信力を高めた

クーデターの方に対して、ゴンザレスはすぐにクーデターを世界が容認しないよう共同行動を起こす声明を出し、ブッシュにもホットラインでクレムリンに電話するよう要請したが、ブッシュは湾岸危機の後で余裕がなくさらなる情報を待っていた

我々のもとではすべてが解決され、新し状況が生まれ、西側からの経済的な改革支援が喫緊の課題となったが、西側の躊躇いは続き足踏みしていた

l  モスクワでのジョン・メージャーとの対話

G7の議長だったメージャーは、ソ連を世界経済共同体に統合するプロセスで呼応措置を取る考えには必ずしも積極的ではなかったが、91日にはG7の決議事項に従ってモスクワを訪問。ソ連と西側諸国との間のパートナー・プログラムを描き始めるが、ソ連の各共和国は全く理解を示さず、さらに突然エリツィンが連邦の解体への移行期における特別の権限を要求し、すべてが逆戻りとなった

l  「こうしたことをどう受け入れるか、やはり考えなくては」

自民族の共和国に居住していない人が75百万も暮らしているわが国で、簡単に分割などできない。共和国の75?で国境が決まっていない

l  いまも痛む

11月、変節したエリツィンと面談

国家評議会では、各共和国の調和した行動が必要と訴え、エリツィンも連邦条約の調印に同意せざるを得なかったにもかかわらず、CIS創設は完全な背信行為

連邦の運命はその間、各共和国の指導者。知識層や市民よりも、外国のリーダーたちをより強く動揺させた。その感覚は記憶として残り、今に至るまで痛みとなっている

連邦解体の文書に署名後、ベラルーシのシュシケビッチが驚くべきことに最初に連絡したのは米国大統領で、それをブッシュは支持した

l  モスクワのベーカー ――回答なき質問

状況を不安視したブッシュは、ベーカーをモスクワに派遣

ソ連の核兵器の運命でさえ何も合意されていないのは、無責任の極み――'92年にベーカーの仲介で、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン各領内の核兵器はロシアに引き渡すとの議定書が作られ、履行されたのは1996年になってのこと

連合連邦国家のような主権国家連邦条約を放棄したことは、戦略的な手続きの重大な誤り

 

第8章        未来に向けて

l  達成したことをどう維持するか?

冷戦終結後の世界政治について、自らの思索の結論を述べてみたい

l  この先は?

最近、週末時計を1分半進め、残り2分となった(2020年には残り100)

最後にこのレベルまで脅威が高まったのは1953年、冷戦終結の’91年は17分前に後退

共通の不安は、貧困、未開発、不平等。気候変動は続き、大気汚染や環境破壊は進む

l  原因を理解する

ペレストロイカ政策の目的はソ連の根本的な改革にあり、誰もが認めるリーダーに変えることで、あらゆる国際情勢に好影響をもたらし始めていた時に、国家崩壊へと至り、世界の秩序から最も重要な支えが奪われた。これは全世界的な破局で政治的・地政学的大変動

'92年、公職から退いた後も、独米日を訪問して、責任ある行動をとるよう呼びかけた

l  アメリカ人との会話

訪米直前にエリツィンが訪米し議会で演説したが、まるで「部下」の報告の様で、極端なイデオロギー化に衝撃を受けた。共産主義は永久に崩壊したと断言

私は、各地で、刷新された民主主義のロシアとの関係強化を呼びかける

‘925月の米上下両院議員を前にして演説した時には、手動的な政治家たちは建設的なスピーチをしてくれたが、アメリカの政治エスタブリッシュメントがその姿勢を維持することはなく、自らの「冷戦での西側の勝利」を宣言することを決め、選挙キャンペーンで勝利者のスローガンが鳴り響くようになった。メディアも取り上げたが、驚いたのは我が国の多くの活動家もそれを取り上げ、しかも賛同していたこと

l  誤りと失敗の根源

最大の原因は、西側の列強、とりわけ米国が、ソ連の崩壊や対立路線の終結を正しく評価しなかったことにある。冷戦での西側の勝利宣言は、グローバルな対立の解消が、共同の努力の結果ではなく、西側の力の政策によってもたらされたという主張に等しく、その後のさらなる軍事的優位拡大への動きに繋がったが、勝利者感覚は国際問題では悪しき助言者でもある。NATOの東方への拡大の理念はこの勝利者感覚の土壌から生まれた

ロシアなき欧州の安全保障はナンセンスで、欧州分割への道に他ならない

l  再びストラスブールで

2008年、欧州評議会の60周年記念式典の主賓としてストラスブールを再訪。改めて安全保障の新しいシステムの構築を呼びかけた

l  グローバル化――しかしどのような?

ゴルバチョフ財団で90年代半ばにグローバル化のプロセスの研究を開始

新しいグローバル世界には新しい行動規範と別のモラルが求められるが、いまだに未解決のまま残されている

l  軍拡競争のエンジン

軍拡競争のエンジンは依然として米国であり、国防予算は拡大の一途をたどり、核大国の軍事ドクトリンは核兵器使用のハードルを下げる方向へと見直されている

核保有国が保有量を削減しないということは、大量破壊兵器こそ自らの重要な安全保障だと考えていることで、それらの国を見本として、遅かれ早かれ他の国々も追随するだろう

l  「核の不安」

北朝鮮という新たな核保有国の出現が現実となったのは、不可避だったのか

‘85年にソ連は北朝鮮の核不拡散条約への加盟を要求し、南北朝鮮は朝鮮半島の非核化の共同声明を出す。米国は北朝鮮に対し核兵器を使用しないと表明、米国の核兵器は韓国から搬出され、IAEAにより北朝鮮の核施設への査察が始まる

‘93年、北朝鮮が核不拡散条約からの脱退を決めたことが事態を悪化させるも、対話は続き脱退決定は中断されたが、ブッシュ・ジュニアが「悪の枢軸」に加えるという好戦的な修辞を使ったことにより情勢は急激に悪化。ノーベル平和賞受賞者のサミットの勧告に基づき、南北朝鮮に米ソ中日を加えた6者協議が始まり、朝鮮半島の平和と民主主義を保障する常設の国際機関となったが、北朝鮮はそれを無視して核実験に踏み切る

どんなに難しくても、問題解決のための政治的な鍵を探さなければならない。最も重要なのは、常に核兵器とは何かを意識し、その廃絶を実現しなければならないということ

l  他の目的はあり得ない

核兵器が存在する以上、火を噴くし、過ちや技術的な故障は起こり得るので、核兵器なき世界であるべきだし、他の目的はあり得ない

米国を含むすべての国々が言葉ではこの目標を支持し続けているが、現在の世界政治と政治的思考の軍事化を克服できなければ空しく響くだけ

核軍縮に向けた戦いと同時に、世界政治や思考を非軍事化し、軍事予算や武器取引を減らす必要性、新型兵器の開発禁止などの問題を提起しなければならない。軍拡競争を生み育てている各種紛争の調停に向けて、徹底的に取り組む必要がある

l  ロシアと米国の責任

核兵器の問題、総じて安全保障の問題を膠着状態から動かす主要な責任は、米ロ両国が背負っていると確信――国際法の原則として、「核戦争は容認できないこと、そこに勝者はあり得ないこと」を確認すべき

両国間にワーキンググループを立ち上げ、信頼回復に動かなければならない

l  新しいモデルが必要だ

自由に放任された市場は、グローバル化によって一層激化し、拝金主義の原則、ビジネスの社会的・環境的無責任の原則、過剰利益と過剰消費の原則が、経済と社会の発展のほとんど主要なエンジンや基準として定着し始めた

l  国家はよみがえる

国家には、自由市場の弊害から市民を守る義務がある

1998年と2008年の2度の経済危機に振り回され、多国間レベルでの経済政策の調整が必要となり、G20の仕組みが出来たが、あくまで火消しの役割しか果たせず、経済発展の新しい原動力と刺激が求められている

l  エコロジーの挑戦

まだエコロジーの問題を二の次としか見ていなかった時代に、社会活動グループの提案を受け入れて国際緑十字Green Cross Internationalの創設会長となった。20年の活動を通じて、エコロジー問題を広く社会に発信し、エコロジー意識を育て、冷戦と軍拡競争がもたらした環境負荷の後遺症を克服するために多くのことをなしえたと考える

米ソは65tの化学兵器をため込んでいたが、環境に安全な形で廃棄する活動に注力

特に重要だったのは、グローバルな温暖化と水の危機を克服するための協力

気候変動において、人間の活動の影響が決定的であることは科学が証明している。それをいまだに否定する人が存在するが、最新の科学データは最後の警鐘

l  水は何ものにも代えられない

グローバルな気候変動は、水の危機、淡水の不足とも関係している。地球上の1/3の住民に清潔な飲み水や公衆衛生対策が届いていない。感染症と疫病の80%が質の悪い水と関係

国連も2010年、水への権利を基本的人権の項目に追加

経済を駄目にするのは、現在や将来世代にとっての正常な生活環境への心配ではなく、いかなる犠牲を払っても過剰な利益を目指す無責任な競争であり、「市場の見えざる手」への盲目の信仰であり、国家の不作為であり、消費主義の基準を押しつけること

l  地球を救う

地球を救うという課題は、全てのパートナーそれぞれに自分の役割と可能性があるが、国家だけが厳格な標準や規格を設定出来るし、それがなければ気候変動との闘いは無意味にも拘らず、武器を増やし、化石燃料企業への補助金など真逆のことをやっている

いまこそ政治的意志が必要だし、ビジネス社会を倫理的に鍛え直すことも必要。市民社会も、この先何十年かのエコロジーと経済の輪郭を明確に決め、それを実行することに全面的に参加することが求められる

l  政治とモラル

この数十年の間に人類が直面した最も重要な試練と脅威の背後には、道徳的な危機、政治とモラルの間の乖離がある。再びそれを結びつける必要性こそが最も重要な政治的課題

グローバル世界での国家関係は、国際法のノルマだけではなく、全人類的なモラルの原則に基づいた一定の行動規範で調整されなければならない

マスコミにも一種の倫理基準としての行動規範が必要なことは言うまでもない

l  ただただ一緒に!

どんな試練も脅威も、一国の努力、一つの国家グループの努力だけで解決されたものなどない。ただただ一緒にやるしかない

アメリカの指導的地位が確立し一曲世界に向かっているが、帝国は全て崩壊する、力によって1つの政治的、経済的なモデルを全世界に押しつけようとしても、世界秩序の代わりに揉め事がもたらされたし、それを解きほぐすには非常に長い時間がかかる

l  変わりゆく世界の中のロシア

ロシアを「罰する」ことも孤立させることも不可能。西側はこのような試みを放棄すべき時だし、全ての罪をロシアに負わせる根強い習慣が西側で定着したのは余りに非道い

ウクライナは私にとって絶え間ない痛みで、最終的には調整され、実際に兄弟のようになっていくと思う。ロシアとの関係が「凍った紛争」にならないよう精力的な取り組みが必要

勝者と敗者を伴う地政学的ゲームは必要ない

実りある効果的な対外政策のために必要とするのは、強い民主主義のロシアだ

l  世代交代――時代の絆

冷戦に終止符を打った我々の世代は、自らの使命、自らの歴史的課題を成し遂げたと同時に、次世代のリーダーたちに具体的な課題を引継ぐ。それは、大量破壊兵器の根絶、第三世界の国々での極貧の克服、教育と健康分野での機会均等の保障、悪化する環境の克服

 

付録 ノーベル平和賞受賞演説 199165日 オスロ

平和とは、「全体の同意」を前提とした共同体であり、グローバル化と文明の普遍化への動きであり、多様性の中の統一、違いの比較や同意の中での統一である

理想的な平和とは、暴力のないことであり、倫理的な価値

今回の受賞は、我々の新思考政策への信任であり、ソ連国民の連帯を示す行為と理解する

現在の具体的な課題は3

   広い社会的な合意と真の自由で自発的な連邦制としての新たな連邦国家整備に基礎をおいて、民主化プロセスを安定化させる

   所有関係の新たなシステムに基づき、混合的な市場経済を創設する方向へ経済改革を集約化

   ルーブルの通貨交換を通じて国を世界経済に開くために行動する。世銀やIMFなどへの加盟を通して、世界の市場で採用された文明的な取引のルールを承認する

解決のためにG7やヨーロッパ共同体での対話と、共同の行動プログラムが必要

 

 

訳者あとがき

米ソの核弾頭数が減少へと転じる転換点が、1987年のINF全廃条約の締結で、’85年に初めて会ったレーガンとゴルバチョフのジュネーブ合意を形にしたもの。「核戦争は許されない。そこに勝者はない」という理念であり、後に核兵器削減と東西冷戦の終結にも導く

その精神の底流にあったのは、協調と相互協力の追求であり、政治思考の非軍事化であり、人類共通の利益というものは存在する、という信念だった

INF条約は、ロシアの条約違反や中国の脅威を理由に米国が脱退したため’19年失効し、核の「歯止め」が消えた以上に、世界を変える原動力となった精神そのものをも葬り去った

同年の平和祈念式典で広島市長が、「かつて核軍縮に舵を切った勇気ある先輩がいたことを思い起こせ」と世界に呼び掛けたのを機に、条約の生みの親であるゴルバチョフに会って直接現状をどう見ているのか聞きたいと思い、手紙で面談を申し入れたのが、本書翻訳の契機。条約を闇に葬った張本人トランプを罵ったインタビューの結果は、’203月朝日の夕刊『現場へ!』シリーズで『ゴルバチョフのいま』として5回連載

 

 

解説 全人類に共通する普遍的価値観  佐藤優(作家・元外務省主任分析官)

自身の『回想録』(1996年刊)では流れゆく時間timeが重視されたが、本書では出来事が起こる前と後では歴史の意味が異なってくるような時間timingが重視されている

ゴルバチョフの価値観が浮き彫りになる作品

ソ連はマルクス・レーニン主義を国是とするイデオロギー国家で、全ての歴史は階級闘争の歴史であり、階級的利益が優先されるが、ゴルバチョフは、階級的利益よりも普遍的価値観、特に平和を重視し、核廃絶を最重要の課題とした

ゴルバチョフにとって真理は具体的で、平和、軍縮、民族自決権を普遍的価値と考えていたのでドイツ統一も実現

北方領土問題に関してゴルバチョフは、戦後の現実(日本は敗戦国)を基礎に考え、’56年の日ソ共同宣言に基づく解決を志向する腹案もあったが、バルト3国の独立を経験した後に訪日した際には、領土問題で日本に妥協する余地が内政要因からなくなっていた

ゴルバチョフにとって、全人類の利益と全人類の価値が存在するという思想が死活的に重要だったがゆえに、ナショナリズムが持つ力を等身大で評価することが出来なかった

クーデターの失敗後、ソ連国家を統合するマルクス・レーニン主義イデオロギーは生命力を失い、その空白をナショナリズムが埋めたが、ゴルバチョフにはその現実が見えなかった。全体主義イデオロギーによって成り立っていた国に、言論の自由、民主的選挙による議会、市場競争といった異質な価値観を部分的に導入することは不可能だった。不可能の可能性に挑み、敗北していった理想主義者がゴルバチョフだが、敗北の過程で多くの善きものを残したことを過小評価してはならない

 

 

 

 

 

 

書評)『ミハイル・ゴルバチョフ』 ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ〈著〉

2020.10.24. 朝日

 冷戦終結へ、指導者間の絆と覚悟

 20世紀の歴史を俯瞰した時、「旧ソ連の社会主義体制の樹立と崩壊」は三本の指に入る史実である。ゴルバチョフはその最終局面を担った指導者だ。すでに回想録は刊行されているが、それとは別にペレストロイカ政策のもと、最高指導者としてどのように東西冷戦を終結させたか、米国を始めとする西側陣営の指導者といかなるやりとりを行い、いかに信頼関係を結んでいったか、そのプロセスを「人物中心」に細部にわたり描写した書である。

 とくにアメリカのレーガン元大統領との初会談で、気が合うと感じた。このことを「ヒューマンファクター(人的要因)」の直感が働いたと表現している。二人は共同声明で、〈核戦争は許されない、そこには勝者はいない。ソ連と米国は軍事的優位を志向しない〉との約束を確認する。ゴルバチョフは、このレーガンと、次のブッシュ元大統領とも率直に議論し、妥協点を求め合う。東西冷戦に終止符を打ち、新しい関係を構築していこうという熱意が両者にいかに強かったかがわかる。ゴルバチョフのペレストロイカ政策を支えるのは、「新思考」の理念に基づく外交だと明かしているが、東西冷戦時のステレオタイプの論理はお互いに捨てようという呼び掛けは、西側陣営の指導者たちの目を開かせることにもなった。

 198812月、ゴルバチョフは国連で演説したが、そこに新テーマをいくつも盛り込んだと明かす。ソ連の兵力と通常兵器の削減のほか、東欧諸国からの六つの戦車師団の撤退・解体も伝えた。自由選挙を認め、それぞれの国が多様性を持つことの重要性も訴えた。米国の外交責任者が、「これは冷戦の終結だ」と考えたのも当然である。しかしソ連の指導者が新しい時代を作ろうとしていることに、当然ながら各国には疑心暗鬼もありえた。ゴルバチョフは西側指導者が国内からそのような圧力を受けるのを払うかのように、積極的に自説を説き、実際に東欧諸国への干渉をやめている。

 本書を読んで、この指導者は各国の指導者層とも強い絆をもったことがわかる。特に英国のサッチャーに対する信頼は固く、二人は何度も論議を繰り返した。しかし最後に一致するのは、同じ政治家時代に冷戦を終わらせたとの確認だったという。

 マルタ会談での冷戦終結後もソ連内部には曲折はあった。8月クーデターでブッシュが陰に陽にゴルバチョフを支援したこと、仏のミッテランや独のコールとの会話の深さを確かめると、これほど指導者間の意識が高揚したのは、20世紀の課題を、次の世紀に持ち込まないという覚悟が誰の胸にも宿っていたからであろう。

 評・保阪正康(ノンフィクション作家)

     *

 『ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で』 ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ〈著〉 副島英樹訳 朝日新聞出版 2860

     *

 Михаил Сергеевич Горбачёв 31年生まれ。85年、ソ連最高指導者の党中央委員会書記長に。ペレストロイカに着手し冷戦終結へと導いた。90年、ソ連の初代大統領に就任。ノーベル平和賞を受賞した。

 

 

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ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ(ロシア語: Михаи́л Серге́евич Горбачёв、ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev193132 - 2022830)は、ソビエト連邦及びロシア政治家である。ソビエト連邦の最後の最高指導者であり、1985年から1991年までソビエト連邦共産党書記長を務めた。1988年から1991年まで同国の国家元首でもあり、1988年から1989年までソビエト連邦最高会議幹部会議長1989年から1990年までソビエト連邦最高会議議長1990年から1991年までソビエト連邦大統領を務めた。ゴルバチョフは、思想的には当初マルクス・レーニン主義を信奉していたが、1990代初頭には社会民主主義に移行していた。

l  人物・来歴[編集]

ゴルバチョフは、スタヴロポリ地方プリヴォルノエで、両親は集団農場労働者であり、貧しい家庭で育った。

ヨシフ・スターリンの支配下で育ち、集団農場コンバインを運転した後、共産党に入党し、マルクス・レーニン主義の解釈で一党独裁のソビエト連邦を統治した。モスクワ大学在学中の1953年に同級生のライサ・ティタレンコと結婚し、1955年に法学博士号を取得した。スターリンの死後、ニキータ・フルシチョフによる脱スターリン改革の熱心な推進者となる。

1970年、スタヴロポリ地方党委員会の第一書記に就任し、スタヴロポリ大運河の建設を指揮した。1978年、モスクワに戻り、党中央委員会書記となり、1980年、党政治局員となる。レオニード・ブレジネフの死後、ユーリ・アンドロポフコンスタンティン・チェルネンコを経て、1985年、事実上の政府首脳である書記長に選出された。

ゴルバチョフは、ソ連邦の維持と社会主の理想にこだわりながらも、1986年のチェルノブイリ原発事故以降、大幅な改革が必要だと考えていた。ソ連・アフガン戦争から撤退し、ロナルド・レーガン大統領との首脳会談で核兵器の制限と冷戦の終結に乗り出した。国内では、言論・報道の自由を認めるグラスノスチ(開放)政策、経済の意思決定を分散して効率化を図るペレストロイカ(再構築)政策がとられた。また、民主化政策や国民の直接選挙で選ばれる人民代議員会議の設立は、一党独裁の国家を弱体化させた。

1989年から1990年にかけて、東欧諸国マルクス・レーニン主義の統治を放棄した際、ゴルバチョフは軍事的な介入を断念した。国内では、民族主義的な感情が高まり、ソ連邦の崩壊の危機を招き、マルクス・レーニン主義の強硬派は1991年にゴルバチョフに対するクーデターを起こし、失敗した。その結果、ゴルバチョフの意に反してソ連は解体され、ゴルバチョフは辞任した。退任後はゴルバチョフ財団(ゴルバチョフ友好平和財団)を設立し活動した。

ゴルバチョフは西側諸国では人気が高いが、ロシアを始めとした旧ソビエト諸国では、ソ連の解体を加速させ経済崩壊を招いたとして、その評価は賛否が分かれている。また、ウクライナでは2014年のロシアによるクリミア併合を支持するなどプーチン政権に対し日和見的な態度が非難され、5年間の入国禁止措置を受けた。リトアニアでも1991の独立運動をを出動させて弾圧したとして批判されることも多い。

2022830日、死去。91歳没[11]

l  生涯[編集]

生い立ち[編集]

193132日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国スタヴロポリ地方プリヴォリノエ村英語版)にてコルホーズ(農業集団化政策)の農民の子として生まれた。幼年時代にスターリン大粛清に遭遇する。この時祖父のアンドレイ(18901962)がサボタージュの嫌疑で投獄された。

19416月に独ソ戦が始まると、農業技術者だった父親のセルゲイ・アンドレーヴィチ・ゴルバチョフ(190976)が従軍した。1944に夏の終わりに父が戦死したとの通知がもたらされたことで一家は悲嘆にくれたが、本人から無事を伝える手紙が3日後に届いた。スタヴロポリ地方は一時期、ドイツ国防軍に占領されている。

戦後は14歳でコンバインの運転手として働く(夏のみ働いたというのが有力)一方、成績は優秀で上級学校で銀メダルを授与された。18歳で労働赤旗勲章を授与される機会に恵まれ、195019歳の時にスタヴロポリ市当局の推薦でモスクワ大学法学部に入学した。同大学在学中に後に妻となる哲学科の学生であるライーサ・マクシーモヴナ・チタレンコと出会う。5年間の大学生活中にゴルバチョフはストロミンカ学生宿舎で生活するが、その間にチェコスロバキアから留学していたズデネク・ムリナーシと出会う。ムリナーシは後の「プラハの春」の推進者の1人となり、その後のゴルバチョフに大きな影響を与えた。195210月、ソビエト連邦共産党に入党する。

大学卒業後、ゴルバチョフはソビエト連邦検察庁の国家試験を受験する。一旦は内定を受けたが結局不採用となり、故郷のスタヴロポリに戻って地元のコムソモール活動に従事し、書記になった。やがてスタヴロポリ地域の農業行政官となり地区書記に昇進した。

l  権力への階段[編集]

19558月にスタヴロポリ市コムソモール第一書記19623月にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、19669月にスタヴロポリ市党第一書記、19688月にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、19704月にスタヴロポリ地方党委員会第一書記に就任し、1971には40歳で党中央委員に選出される。この間、スタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、1967に科学的農業経済学者の資格を得ている。

ゴルバチョフがスタヴロポリ地方の党官僚として階梯を登り始めた時期は、ニキータ・フルシチョフ第一書記の非スターリン化が実施された時期であり、ゴルバチョフにも影響を与えたとされる。この間、スタヴロポリ地方第一書記経験者のミハイル・スースロフや、同郷のユーリ・アンドロポフの知遇を得たほか、同格の地方共産党の指導者であったボリス・エリツィンスヴェルドロフスク州党第一書記)やエドゥアルド・シェワルナゼグルジア共産党第一書記)らと交流を持つに至る。

モスクワへ[編集]

197811月、急死したフョードル・クラコフ政治局員・書記の後任として党中央委農業担当書記に抜擢される。ゴルバチョフの書記への任命は中央委員会総会において満場一致で承認された。ゴルバチョフと妻のライサモスクワに引っ越し、国家から邸宅が与えられることになった。1979には政治局員候補として政治局入りする。彼はその新しい役職で、しばしば1日あたり12時間から16時間働いたという。この際、ゴルバチョフは過度に中央集権化された国の農業管理システムに対する懸念を強めていき、1978の中央委員会で問題提起を行った。彼は、他のソビエトの政策についても問題意識を持ち始めた。1979のソ連軍によるアフガニスタン侵攻も誤った政策だと考えていた。しかし、時に彼は公然と政府の立場を支持した。例えば、198010月にソビエト政府がポーランド政府に対して同国内での批判意見の取り締まりを要請した際にはそれを支持した。そして同月の党中央委員会総会で史上最年少の政治局員となる。

198211月に党書記長レオニード・ブレジネフが死去し、新たにユーリ・アンドロポフが書記長に就任する。アンドロポフは同じ改革派であるゴルバチョフに目をかけ、ゴルバチョフの中央への昇進に重要な役割を果たしたと同時に、ゴルバチョフにとって同郷の先輩でもあり、政治局内で最も信頼の置ける人物であった。ゴルバチョフは政治局内におけるアンドロポフの最側近として、時には同書記長の指名により政治局会議の議長を任せられた。アンドロポフはゴルバチョフを自身の後継者に考えていたようであり、ゴルバチョフに農業以外の政策分野へも携わらせ、経験を積ませた。19834月にはレーニン生誕113周年記念集会での演説を任せられた(前年に演説したのはアンドロポフ)。ゴルバチョフはアンドロポフが自由化改革を実行することを期待していたが、同書記長の健康状態の悪化などから人事異動のみが実施されるに留まった。

1983カナダを訪問し、カナダのピエール・トルドー首相(当時)と会談する。この時に駐カナダ大使で、後にゴルバチョフの側近としてペレストロイカを牽引するアレクサンドル・ヤコブレフと面識を持つ。さらにイギリスを訪問し、マーガレット・サッチャー首相(当時)から「彼となら一緒に仕事ができます」と高い評価を受ける。

19842月にアンドロポフが死去すると、同書記長による後継指名にも関わらず、ゴルバチョフは書記長に選出されなかった。中央委員会の多くは53歳のゴルバチョフでは若すぎであり経験不足であると判断したことに加え、改革派であるゴルバチョフの選出を保守派のニコライ・チーホノフ首相やドミトリー・ウスチノフ国防相らが頑なに阻んだためである。代わりに書記長となったのはアンドロポフの政敵で、保守派のコンスタンティン・チェルネンコであった。しかし就任当初から病弱であったチェルネンコは、直々にゴルバチョフを事実上のソ連ナンバー2にあたる「第二書記」へ指名した。しかしこの際、チーホノフらがチェルネンコの発案に反発したため、ゴルバチョフは正式な承認を経ずして同職を遂行することとなった。結果的に、チェルネンコの不在時にはゴルバチョフが中央委員会の職務に当たることとなり、ゴルバチョフの役割は拡大していくこととなった。そして、ゴルバチョフは次第に改革派としてその名が知られるようになる。

書記長就任[編集]

19853月、チェルネンコの死去を受けて党書記長に就任する(54歳)。チェルネンコが死去した310日、夜遅くまでクレムリで仕事をしていたゴルバチョフは、帰宅後に第二書記として医師から電話で報告を受ける。ゴルバチョフは他の幹部へも連絡し、後継者選出のための拡大政治局会議が急遽招集された。書記長の座を巡って、ゴルバチョフの有力なライバルとしては、重工業・軍事工業担当書記のグリゴリー・ロマノフや、モスクワ党第一書記のヴィクトル・グリシンがいた。他にも野心のある人物が数名いると考えられ、ウクライナ党第一書記のウラジーミル・シチェルビツキーや、高齢だがニコライ・チーホノフ首相もその中に含まれた。外相・第一副首相のアンドレイ・グロムイコもその中の1人と思われたが、高齢となったグロムイコは書記長の座よりも形式上の国家元首ポストである最高会議幹部会議長の職に意欲を燃やしていた。ゴルバチョフはグロムイコへ接触し、取引の結果、グロムイコの推薦を得るに至る。推薦演説をしたグロムイコは「諸君、この人物は笑顔は素晴らしいが、鉄の歯を持っている」と語った。

高齢の指導者が続いたあとでもあり、若い指導者への期待の大きさは『プラウダ』紙でのゴルバチョフの写真が、死去したチェルネンコより大きかったことにも表れていた。

ゴルバチョフは書記長就任後、「鉄の歯」に相応しい人事刷新を矢継ぎ早に行う。自身の後任の「第二書記」にはエゴール・リガチョフを当て、政治局員兼イデオロギー担当書記に加え、「第二書記」に必須の最高会議連邦会議外交委員長に選出した。対抗していたグリシンとロマノフ、老齢のチーホノフ首相を解任し、共産党中央委員会書記のニコライ・ルイシコフ(経済担当)を後任に充てた。また、グロムイコを最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新たな外相には、グルジア党第一書記だったエドゥアルド・シェワルナゼを抜擢して内外を驚かせた。

また経済担当の閣僚では、198510月にゴスプラン(国家計画委員会)議長ニコライ・バイバコフを解任し、後任にニコライ・タルイジンを任命した。軍部や地方の共産党幹部も大幅に入れ替えられて若返った。

l   ペレストロイカ [編集]

本人の南ロシアなまり(アクセントの位置が微妙に違う)に加え、「Процесс пошел(プロツェース・パショール,プロセスは始まった=改革が始まった)」という言葉を多用、正規的なロシア語表現ならば「Процесс начался(プロツェース・ナチャルシャー)」となるが、多少の違和感を覚えるこの語感にはむしろモスクワの間で流行。次第に行き詰まる改革に合わせるかのように「自分の思い通りとは違う方向へ物事が進んでいる状態」の意味を含んで使われるようにもなった。

書記長就任から8か月後の198511月、スイスジュネーヴにて、当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンと米ソ首脳会談を行う。この会談で核軍縮交渉の加速、相互訪問などを骨子とする共同声明を発表した。19864月、ゴルバチョフはロシア語で「建て直し」「再建」を意味するペレストロイカを提唱し、本格的なソビエト体制の改革に着手する。4月に発生したチェルノブイリ原発事故を契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進する。当初、レーガンや西側保守派はゴルバチョフの意図はアンドロポフが指向したような従来の社会主義の修正、あるいは社会的規律の引き締めに過ぎず、西側に対する軍事的脅威はかえって増大されると危惧する警戒・懐疑論を持っていたが、ペレストロイカの進展とともに打ち消されることになった。

経済改革では、社会主義による計画経済・統制経済に対して、個人営業や協同組合(コーポラティヴ)の公認化を端緒として、急進的な経済改革を志向するようになり、19878月に国営企業法を制定した。ペレストロイカは次第に単なる経済体制の改革・立て直しに留まらず、ソ連の硬直化した体制・制度全体の抜本的改革・革命へ移行し、それに伴い、政治改革、ソ連の歴史の見直しへと進行していった。その中で、自らが電話でその解放を伝えたサハロフ博士をはじめとするソ連国内の反体制派(異論派)が政治的自由を獲得し、スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。ゴルバチョフは自身をソビエト連邦の崩壊のその日まで「共産主義者」と規定していたが、「多元主義(プルーラリズム)」「新思考」「欧州共通の家」「新世界秩序」といった新たな価値によって国内政治および外交政策において大胆な転換を実行していった。

19867月、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタンからの撤退と中ソ関係改善を表明した。10月にはアイスランドレイキャビクにおいて米ソ首脳会談が行われた。アメリカの大統領ロナルド・レーガンが掲げていた戦略防衛構想SDI)が障壁となって署名はなされなかったが、戦略核兵力の5割削減、中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear ForcesINF)の全廃について基本的な合意は成立していた。このことが、198712月に成立する中距離核戦力全廃条約INF全廃条約)に繋がっていく。

ゴルバチョフは信仰の自由を認める姿勢を打ち出し、1988429日にロシア正教会のピーメン総主教ら6人の指導者と会談した。ソ連政府の最高指導者が教会指導者と会談したのは1943年以来のことで、ゴルバチョフは会談で、ソ連が過去に教会と信者に過ちをおかしたことを認めた。

これらの改革は、漸進的なものであった。サハロフの流刑解除は198612月のことである。ソ連は、国内に政治犯が存在することをゴルバチョフ政権発足2年目(1986年)まで認めていなかった。ゴルバチョフは1987年の段階では、西側やNGOが示したソ連の政治犯収容者数の一割程度しか政治犯が存在しないと主張していた。このようなソ連の認識や主張と西側やNGOの主張の食い違いが消えるのは、198712月のゴルバチョフのワシントン訪問である。このときゴルバチョフは、当時のソ連政府の正式見解たる「ソ連には22名しか政治犯は存在しない」という見解を放棄し、国際ヘルシンキ連盟やアメリカ国務省が指摘した数字の「430名」というデータの受け入れをようやく表明した。その198712月には、ソ連政府欧州安全保障協力委員会の下に「人道的問題及び人権に関する国際協力のための公的委員会」が設立された。かつてフルシチョフの演説執筆者でありゴルバチョフに近いといわれる、ソ連共産党中央委員会社会科学研究所所長のヒョードル・ブルラツキー(Fyodor Burlatsky)がその議長となっている。すなわち、この委員会の発足は人権をめぐる西側とのイデオロギー闘争の本格的開始に備えたものであった。これに見られるように、ペレストロイカ期のゴルバチョフの人権観は、西側のそれと全く同じものではなく、ソ連の国益に基づく人権観を放棄していたわけではない。しかしこうした外交・内政の準備により、19881月に国際ヘルシンキ連盟の視察団は、西側の人権団体としてアムネスティに次いで二番目にソ連を訪問した。こうしたソ連側の努力は、当時開催されていたCSCEウィーン再検討会議(1986年から1989年)におけるソ連の印象を大きく好転させることにつながった。

198810月、ゴルバチョフはグロムイコの引退に伴って最高会議幹部会議長に就任し、国家元首となる。

同年12月、最高会議を改組し、人民代議員大会を設置する憲法改正法案が採択される。この頃より守旧派に接近を余儀無くされる。

19903月、求心力が低下したゴルバチョフは複数政党制と強力な大統領制を導入(これによりこれまでの書記長制を廃止)する憲法改正法案を人民代議員大会で採択させた。

315、人民代議員大会において実施された大統領選挙において、ゴルバチョフは初代ソビエト連邦大統領に選出(これにより、ソビエト連邦の国家最高責任者は書記長から大統領に移行した)されたが、ゴルバチョフがロシアに導入した1991年ロシア大統領選挙のような直接選挙では無く、人民代議員大会による間接選挙で選出されたことは、ゴルバチョフの権力基盤を弱める要因となった[19]。副大統領にはシェワルナゼを候補に考えていたが、シェワルナゼは「独裁が迫っている」と守旧派に対する危機を訴えて、199012月に外務大臣を電撃的に辞任して世界中を震撼させた。ゴルバチョフはゲンナジー・ヤナーエフ政治局員を副大統領に指名した。

一方で人格面での問題を糾弾され、リガチョフとの争いに敗れてモスクワ市共産党第一書記や政治局員候補から解任されたボリス・エリツィンが人民代議員として復活し、1991年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の大統領となり、さらには共産党から離党を宣言して党外改革派の代表としてゴルバチョフの地位を脅かすようになっていく。

国内政策での保守派への妥協にも関わらず、ゴルバチョフ政権によるソ連外交の政策転換は明確な形で続けられた。従来のブレジネフ・ドクトリンによる強圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件プラハの春で起こったソビエト連邦軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。事実、1989年のポーランドにおける円卓会議を起点とする一連の東欧革命に関して、ソ連は軍事的行動を行わず、1990年には東ドイツ西ドイツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。ゴルバチョフはベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者であるエーリッヒ・ホーネッカーに対して国内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土へのNATO軍(アメリカ軍)の展開には反対したが、西ドイツのヘルムート・コール首相が示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統一に承認を与えた。

冷戦の終結・東欧革命によってソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた軍部や生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフやシェワルナゼへの反感が強まり、新思考外交を「売国的」「弱腰」と批判して、共産党内の保守派と接近した。共産党内でも、ソ連国家における党の指導性が放棄されることに警戒感が強まり、従来は改革派、あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫するようになり、これが既述したシェワルナゼの突然の辞任につながった。ゴルバチョフ自身も保守派への配慮から19912月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生したリトアニア独立革命に対するソビエト連邦軍・治安警察による武力弾圧を承認せざるを得なかった(血の日曜日事件)

また、極東においてもウラジオストク演説以後に緊張緩和が進み、19895月に中国を訪問して長年の中ソ対立に終止符を打った。これは六四天安門事件に続く学生たちの民主化運動が高揚する中で行われた。19908月の湾岸戦争では国際連合安全保障理事会武力行使容認決議に賛成して米ソの和解を演出する一方、アメリカとイラクの停戦を仲介した(ゴルバチョフの案は当時のアメリカ軍統合参謀本部議長コリン・パウエルアメリカ中央軍司令官ノーマン・シュワルツコフによって修正され、協定が結ばれた)。

19914月にはソビエト連邦最高指導者として初めて日本も訪れ、海部俊樹首相(当時)と日ソ平和条約の締結交渉や北方領土帰属等の問題を討議したが、合意には達しなかった。

1990117の革命記念日にモスクワの赤の広場で軍事パレードが行われていたとき、ゴルバチョフ暗殺未遂事件が発生した。労働者のデモンストレーションの最中、行進の列に紛れ込んでいたアレクサンドル・シモノフは、行進がレーニン廟(この講壇上にソ連の指導者が並んでいた)に近づくと、ゴルバチョフめがけて2発の銃弾を放った。しかし、弾は外れた。シモノフがライフル銃を取り出してすぐに護衛に発見され、狙いを定めている間、将校が走ってきて銃身を殴ったため、弾は空に逸れた。シモノフはデモに参加していた群衆に取り伏せられ、すぐさま逮捕された。彼は、1991ソビエト連邦の崩壊前最後のソビエト時代の暗殺者であり、その後4年間を精神病院で過ごした。ソ連中央テレビは一時放送を中断し、午前1125分に通常放送を再開した。

l  8月クーデター[編集]

1991、ゴルバチョフは再び舵を改革派の側に切る。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のエリツィン、カザフ・ソビエト社会主義共和国ヌルスルタン・ナザルバエフ2人と会談し、新連邦条約820に調印する運びとなった。

ところが819日、クリミア半島フォロスロシア語版)の大統領別荘に滞在していたゴルバチョフは、KGB議長のウラジーミル・クリュチコフ、副大統領のヤナーエフ、そして、ヴァレンチン・パヴロフ首相らの「国家非常事態委員会」を名乗る保守派が起こしたクーデターによって、妻のライサや家族、外交政策担当大統領補佐官のアナトリー・チェルニャーエフ英語版ロシア語版)ら側近たちとともに別荘に軟禁された。

ゴルバチョフが軟禁された際、当然ながら外部との連絡は絶たれ、いつ「用済み」として殺されるか分からない状況であったが、偶然別荘にあった日本製ラジオニュース電波を拾うことができたため、モスクワでエリツィンや市民、軍部がクーデター首謀者側に抵抗していることを知り、救出される希望を捨てなかったという。(ライサ夫人は救出後に「軟禁中、『ソニー』が一番役立った」とコメントしている。)

上記のように国民や軍部の支持を得られなかっただけでなく、国際社会からも大きな反発を受けたために、結果的にクーデターそのものは失敗に終わり、822にクーデターの関係者は逮捕されたが、その首謀者たちはいずれもゴルバチョフの側近だったため、皮肉にもゴルバチョフ自身を含むソ連共産党の信頼が失墜した。これにより連邦政府自身の求心力も低下を余儀なくされた。

l  ソ連共産党解体とソ連崩壊[編集]

823にゴルバチョフはロシア最高会議で今後のソビエト連邦と党に関する政見演説を行うが、議員たちはゴルバチョフの演説に耳を傾けることはなかった。同時に、ロシアSFSRのエリツィンはソ連共産党の活動停止の大統領令に署名する。

824、ゴルバチョフはソ連共産党書記長の辞任と共産党の資産凍結を発表するとともにソ連共産党中央委員会の自主解散を要求し、エストニアラトビアの独立を承認。

クーデターからおよそ10日後の829、最高会議の臨時両院合同会議でパブロフ首相の不信任案が可決され、ソ連共産党の活動全面停止を決定した。

同年末には、この時点でゴルバチョフの政治的ライバルであったエリツィンがロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のソビエト連邦からの脱退を進めたことにより、ソビエト連邦は崩壊した。1225にゴルバチョフはテレビ演説で「私は不安を持って去る」と大統領を辞任し、結果的にソ連時代唯一の大統領となった。

l  ソ連崩壊後[編集]

ソビエト連邦の崩壊を不本意な形で迎えたゴルバチョフはモスクワ郊外のカルチュガロシア語版)にあるダーチャに居住することになったが、年金生活入りすることは全くの論外であった。また、ゴルバチョフに対しては引き続き政治に参加することを求める声が多く、世界中の財団や基金の代表への就任要請や広告への出演依頼もあった。

199112月より国際社会経済・政治研究基金ロシア語版)(通称、ゴルバチョフ基金またはゴルバチョフ財団)を設立、自ら会長に就任した。また、環境問題に主な活動を移し、グリーンクロス・インターナショナル会長として元地球サミット事務局長のモーリス・ストロングとの地球憲章の作成やアースデイへの署名[22]など国際環境保護運動に積極的に参画した。政治活動として1996ロシア大統領選挙に立候補したが、得票率は0.5パーセントで落選した。その後ピザハットCMに出演するなど、政治以外の活動も開始。

1999920、妻のライサを白血病で失う。最愛の妻を失って悲嘆に暮れる姿はロシア国民から広く同情を集めた。

200111月、ロシア社会民主党党首に就任したが、2004522には同職の辞職を発表し、事実上の政界引退となった。なお、ロシア社会民主党はロシア連邦最高裁判所から解散命令が出され、ゴルバチョフは不快感を表明した。

200611月には右頚動脈に異常が認められ、ドイツミュンヘンの病院に入院、1121に手術を受け、経過は良好であると発表された。

2007にはフランスの高級バッグメーカーのルイ・ヴィトン社の広告に登場した際には、脇にアレクサンドル・リトビネンコ毒殺事件を特集している雑誌記事が映っており、ウラジーミル・プーチン政権を暗に批判しているとの憶測が出ている。しかし20071020日、2007年ロシア下院選挙を目前に社会民主同盟(社会民主連合)を創立し、結成大会で議長に選出され、就任演説で「議会は一党のほぼ支配下にある。左派の理念も自由主義も取り込んだ幅広いものとするべきだ」と現状を批判し、政界復帰の意欲を見せたものの、同選挙ではウラジーミル・プーチン政権与党の統一ロシアへの投票を呼びかけた。

ゴルバチョフはプーチンについて、「ロシアに(ソ連崩壊後の)安定と経済的繁栄をもたらした」「強いソ連(ロシア)を復活させた」として評価している。しかしプーチンが党首を務める統一ロシアについては、2009に入ってAP通信インタビューで「官僚の党」と述べ、更に「それはソビエト連邦共産党の最悪の形だ」と批判している。

2011年ロシア下院選挙の不正疑惑や2012年ロシア大統領選挙の事前審査でグリゴリー・ヤヴリンスキーらが立候補を制限されたことなどを受けて、プーチン政権批判を強める。2012128、「専制」を排除し、政治改革を実現するための国民投票実施を提唱する論文を発表したとインタファクス通信は報道した。

2008に勃発した南オセチア紛争については、814CNNの番組「ラリー・キング・ライブ」に出演した際、「ロシアの軍事介入は南オセチアツヒンバリの惨状への対応であるため、ロシアとグルジアの衝突を招いた責任はグルジアにある」と発言した。また、西側のマスコミに対しては、「ツヒンバリの惨状について最初しか映し出さず、ロシアのみに紛争の責任を負わせようとしている」と批判した。また、アメリカが推し進めている東欧ミサイル防衛構想を批判し、「再び冷戦を繰り返さないようにしよう」と述べている。

民主系新聞「ノーバヤ・ガゼータ」紙の大株主となっているほか、世界ノーベル平和賞受賞者サミットの公式スポンサーであるイタリアの自動車メーカーのランチアのテレビCMに、元・ポーランド大統領レフ・ワレサミャンマーの非暴力民主化活動家であるアウン・サン・スー・チーイングリッド・ベタンクールなどとともに出演した。

l  新党結成以降[編集]

20089月、ゴルバチョフは、アレクサンドル・レベデフ英語版)とともにロシア独立民主党という新党を結成したことを発表し、20095月には、活動がまもなく開始されることも発表した。その際に多数の支持者がいることも述べた。これは2001年のロシア社会民主党結成および社会民主同盟以来、ゴルバチョフの3度目の政党結成の試み。

2019年に中距離核戦力廃棄条約が失効すると、条約の失効は新たな軍拡競争を生み出すと懸念を表明した。また、全ての国が核兵器の廃絶を宣言すべきだとしている。

20214月にソ連崩壊から30年を機にJNNが行ったインタビューでは「ロシアの未来はただ一つ、民主主義だけ」、「ペレストロイカは正しかった」などと回答している。また、同年8月には8月クーデター30年に際して東京新聞北海道新聞の共同書面インタビューに応じ、「ペレストロイカで議論された課題の多くは未解決のまま」であり、「(ロシアと欧米が)通常の関係を取り戻すには政治的な意志も必要で、対話以外に道はない。」、「訪日準備を開始した当時、わが国には熟考された対日政策がなかったため、日本社会のさまざまな分野の代表者との多くの会合を計画し、中曽根康弘首相、土井たか子・日本社会党委員長、宇野宗佑外相、枝村純郎駐ソ連大使、池田大作・創価学会名誉会長、与党・自民党の小沢一郎幹事長や財界人、文化人らとのいくつかの会談を持った。」と回想する一方、北方領土問題については「領土に関する戦後の決定は最終的で覆せないものだと考えており、この問題を議論したくはなかった。日本の対話の相手がこの(領土)問題を直接的、間接的に提起したことが、訪日が先延ばしされてきた理由の一つだった。」として、日本側の交渉姿勢に問題があったとの認識を示した。また、「1991年の訪日後、多くの時間が失われたことは残念だ。このような問題においてテンポを失ってはいけない。チェスの選手の言うように(テンポの喪失は)敗北につながる。交渉を恐れてはいけない。最も困難で深刻な問題を議論するべきだ。互いの信頼関係を築くことが必要だ。お互いを信頼しないパートナーは真剣な交渉を行うことはできない。」と指摘した。

2022年ロシアのウクライナ侵攻について「一刻も早い戦闘停止と、相互の尊重や双方の利益の考慮に基づいた和平交渉が必要。それが解決できる唯一の方法だ」と、ゴルバチョフ財団を通して声明を発した。

l  死去[編集]

2022831タス通信は、ゴルバチョフが以前より患っていた腎臓疾患のため830に入院先のモスクワの中央臨床病院ロシア語版)で死去したことを発表した。91歳没。ゴルバチョフの死により、ソビエト連邦最高指導者経験者は全員がこの世を去った。また最も長寿の最高指導者であった。

31日未明にロシア通信によると、大統領のプーチンはゴルバチョフの死去に関して深い哀悼の意を表し、31日の朝にゴルバチョフの遺族や友人に弔電を送る予定と報道した。

また、イギリス首相(当時)のボリス・ジョンソンツイッターで、「ゴルバチョフの死去の報道を受け悲しんでいる。私はゴルバチョフが冷戦を平和的な結末に導くために見せた勇気と高潔さを、常に尊敬していた。プーチンがウクライナを侵略している今、ゴルバチョフがソビエト社会を開放するために行った、たゆまぬ献身は、私達全員にとって見本となり続ける」と自身の思いを綴った。

告別式は、202293日にモスクワの労働組合会館ロシア語版)の「円柱の間」でロシア大統領府儀典局によって執り行われ、ノヴォデヴィチ女子修道院内の墓地に埋葬。

l  評価[編集]

ゴルバチョフに対する意見は深く分かれている。独立機関レバダ・センターが2017年に実施した調査によると、ロシア国民の46%がゴルバチョフに対して否定的な意見を持ち、30%が無関心、肯定的な意見はわずか15%である。一方、特に欧米諸国では、彼を20世紀後半最大の政治家として見る人が多い。1980年代後半から1990年代前半にかけての西側諸国では、ゴルバチョフの訪問を歓迎する大群衆に代表されるように「ゴルビーマニア」が存在したと米国の新聞は伝えており、1980年代には『タイム』が彼を「10年に一人の男」と名付けた。ソ連国内でも、1985年から1989年末にかけて、ゴルバチョフが最も人気のある政治家であるとの世論調査が行われた。ゴルバチョフは、ソ連を近代化し、民主的な社会主義を構築しようとする改革者であると、国内の支持者からは見られていた。タウブマンはゴルバチョフを「祖国と世界を変えた先見者-ただし、彼が望んだほどには変えられなかったが」と評している。タウブマンはゴルバチョフを「ロシアの支配者として、また世界の政治家として例外的な存在」と評価し、ブレジネフなどの前任者とプーチンなどの後継者の「伝統的、権威的、反西洋的規範」を避けたと強調している。ゴルバチョフは、ソ連がマルクス・レーニン主義から離れることを許したことで、ソ連国民に「自分で考え、自分の人生を管理する権利」という、不確実性とリスクを伴う貴重なものを与えたとマコーリーは考えている。

ゴルバチョフは、ソ連に残っていた全体主義を破壊することに成功した。彼は、おそらく1917年の数カ月の混乱期を除いて、言論、集会、良心の自由を知らなかった人たちに、それをもたらしたのである。自由な選挙を導入し、議会制度を創設することによって、民主主義の基礎を築いたのである。ロシアの民主主義が彼が考えていたよりもずっと長い時間をかけて構築されることになったのは、彼自身の本当の欠点や間違いよりも、彼が扱った原料のせいである。

ゴルバチョフ伝記作家ウィリアム・タウブマン、2017

ゴルバチョフの米国との交渉は、冷戦に終止符を打ち、核紛争の脅威を減らすことに貢献した。東欧共産圏の分裂を容認した彼の決断は、中東欧での大きな流血を防いだ。タウブマンが指摘するように、これは「ソビエト帝国」が数十年前の大英帝国よりもはるかに平和的に終焉したことを意味している。同じように、ゴルバチョフ政権下のソ連は、同時期のユーゴスラビア崩壊のような内戦に陥ることなく、崩壊した。ゴルバチョフは、東西ドイツの合併を推進したことで、「ドイツ統一の共同責任者」となり、ドイツ国民の間で長期にわたる人気を得たとマコーリーは指摘する。

しかし、ゴルバチョフはまた、国内の批判にさらされていた。ゴルバチョフを尊敬する人もいれば、憎む人もいる。ソ連経済の衰退を止めることができず、社会全体に不満が広がった。リベラル派は、彼がマルクス・レーニン主義から脱却し、自由市場の自由民主主義を確立するための急進性を欠いていると考えていた。逆に、共産党の批判者の多くは、彼の改革は無謀であり、ソビエト社会主義の存続を脅かすと考えた。中国の共産党に倣って、政府改革ではなく、経済改革に限定すべきだったと考える者もいた。また、武力ではなく説得を重視する姿勢を、弱さの表れと見るロシア人も少なくなかった。

共産党の幹部にとっては、ソ連邦の崩壊は自分たちの権力を失うという悲惨なものだった。ロシアでは、ゴルバチョフはソビエト連邦の崩壊とそれに伴う1990年代の経済崩壊に果たした役割から、広く軽蔑されている。例えば、1991年のゴルバチョフに対するクーデター未遂を指揮した一人、ヴァレンニコフ将軍は、彼を「反逆者、自国民への裏切り者」と呼んだ。また、東欧のマルクス・レーニン主義政権の崩壊を許したこと、統一ドイツのNATO加盟を許したことなど、ロシアの国益に反するとして彼を批判する声も少なくない。

歴史家のガレオッティは、ゴルバチョフと前任者のアンドロポフとの関係を強調する。ガレオッティは、アンドロポフを「ゴルバチョフ革命のゴッドファーザー」と呼ぶ。元KGBのトップとして、ソ連への忠誠心を疑われることなく改革を主張することができ、その姿勢をゴルバチョフが受け継ぎ、貫いたからだ。ゴルバチョフは、「改革がどこにつながるかわからないまま、改革に着手した」とマコーリーは言う。ペレストロイカがソ連邦の崩壊につながるとは、最悪の悪夢を見たとしても想像できなかっただろう」。

ニューヨーク・タイムズによれば、「20世紀、いや、どの世紀においても、これほど時代に大きな影響を与えた指導者はほとんどいない。ゴルバチョフは6年余りの激動の間に、鉄のカーテンを取り払い、ソビエト連邦の崩壊を決定的にした」。

l  逸話[編集]

マスメディアへの露出[編集]

ドイツヴィム・ヴェンダース監督の映画『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』に本人役で出演した。『ピーターと狼』(プロコフィエフ作曲)のCDでは、元アメリカ大統領ビル・クリントンらとともにナレーションで出演しており、第46グラミー賞で最優秀子供向け朗読アルバム賞に選ばれた。

イギリスのテクノグループシェイメンのアルバムに『In Gorbachev We Trust』(1989年)があり、ジャケットにゴルバチョフの肖像画が使われている。

1997年にはピザハットのテレビCMミハイル・ゴルバチョフのピザハット・コマーシャル英語版))に出演、また、前述の通り、ルイ・ヴィトンの2007秋の広告にカトリーヌ・ドヌーブアンドレ・アガシシュテフィ・グラフ夫妻と出演している。撮影はベルリンの壁の前で行われたが、これはゴルバチョフのリクエストによるもの。出演料は自身が設立した環境保護団体と、元アメリカ副大統領アル・ゴア地球温暖化防止事業に寄付されたという。

l  日本との関係[]

妻との初めてのデートは日本のコーラスグループ、ロイヤルナイツのコンサートであったと五木寛之に語っている[注釈 2][注釈 3]。また、初来日の際、鯉のぼりを見て非常に驚いたというエピソードがある。書記長・ソ連大統領時代の1991416 - 19日には日露(日ソ)会談のため来日、海部俊樹首相(当時)や元外務大臣安倍晋太郎と会談を行っている。この時同伴したライサ夫人の銀座での買い物シーンがテレビを通じて報道され、ソ連国内で「国民が経済不調で苦しんでいるのに」と不評を買った。また17日にゴルバチョフ夫妻は広島市平和記念公園を訪れ、献花している。長崎に訪れたときには、「チェルノブイリでは多くの子供達が放射能で苦しんでいる。最初にその苦労を背負ったのは日本の皆さんで、私は敬意を払っている。だからここに来た」とコメントした[73]

政界引退後は各種団体やマスコミなどの招きで頻繁に来日し、そのつどテレビ番組などに出演しているほか、地方都市にも足を伸ばし、講演会なども催している。19934月には創価大学大阪工業大学の両校で講演を行い、同年の創価大学と200311月には日本大学より、それぞれ名誉博士号を授与され、同年および20055月の2度にわたり日本大学にて講演を行った。20056月に来日した折には、徹子の部屋に出演(同年75日放送)。また、同年12月にも再び来日し、1224放送の日本テレビ系のバラエティー番組『世界一受けたい授業』に講師として出演。同番組内の講義の中で「日本には毎年何回も来ており、正確な来日回数は自分でも分からない」と述べている。同番組では2003に勃発したイラク戦争開戦当時は丁度来日していて、一般乗客として山手線に乗車していた最中にニュースを聞いて初めて知ったと述べている(なお、同番組ではアメリカ軍イラクへの侵攻を「政治的な大きな誤り」であると批判した)。ちなみにこの番組には生徒役(ゲスト)として、当時の小泉純一郎首相の長男で俳優の小泉孝太郎が同席しており、同年9月に行われた44回衆議院議員総選挙郵政解散)を高く評価した。また、沖縄県知事翁長雄志と何度も面会したことがあり、2018年に翁長が死去した際には地元紙の琉球新報に追悼メッセージを寄稿した。

このほかに来日こそしていないものの、200624時間テレビCMに出演しメッセージを送っている。2014328日の『笑っていいとも』の「テレフォンショッキング」に黒柳徹子が出演した際は、ゴルバチョフ財団の名義で花を贈っている。

200912の来日では鳩山由紀夫首相(当時)と会談したほか、明治大学で学生との対話集会を催し、その模様が同月および20101月に「ゴルバチョフ 若者たちとの対話」としてNHK衛星第1にて放送された。また、『世界一受けたい授業』の2010年新春スペシャルの収録にも講師として再び出演した(『世界一受けたい授業』2010年新春スペシャルは201012日に放送)。

20102月にも再来日し、関西テレビフジテレビ系列のバラエティー番組『SMAP×SMAP』の「BISTRO SMAP」にゲストとして出演し、ソ連時代の自分の周囲の出来事をSMAPリーダーの中居正広に語っていた。

演説集を出版するなど、読売新聞とは関係が深く、日本テレビ系列の番組に多く出演しているのもその繋がりである。

日本大学名誉博士明治大学名誉博士・創価大学名誉博士などの名誉学位を有する。

l  宗教団体との関係[編集]

創価学会[編集]

創価学会名誉会長池田大作とは、1990727クレムリンで行われた初めての会見[注釈 4]を皮切りに来日時にはほぼ毎回面会していた。2009年の来日時にも対談しており、潮出版社発行の雑誌『』に全文が掲載されている。逆に池田がロシアを訪問する際にも面会し、ほぼ毎回対談しており、通算で10回に及んだ面会・対談の様子は『潮』や聖教新聞社発行の写真雑誌『グラフSGI』などに掲載されていた。また前述のように創価大学において名誉博士号も授与されている。

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)[編集]

ゴルバチョフは、米国大統領のロナルド・レーガンと同じく統一教会を支持し、ゴルバチョフが設立したゴルバチョフ財団は、長きにわたり統一教会の資金で運営されてきた。

19904月、統一教会開祖の文鮮明はソビエト連邦を訪問し、国家元首であったゴルバチョフと会談。文鮮明は当時、ゴルバチョフに対して「宗教の自由を認めなさい。共産主義を放棄しなさい。」「彼(ゴルバチョフ)が私に会わなければ天運に乗る道がなく、天運に乗らなければ彼は生き延びることができない」と語ったとしている。その後、クレムリンの敷地内にあるロシア正教会の重要な教会、ウスペンスキー大聖堂で統一教会の儀式を行なった。文鮮明は「統一教会はやがてロシアで国教として受け入れられるだろう」と発言した。

統一教会は1980年代からソビエト連邦にて活動を始めていたが、ソ連でペレストロイカが始まると、堂々と布教活動をするようになった。

19904月に統一教会とゴルバチョフにより開催された「第11回世界言論人会議 モスクワ大会」では、松本十郎前防衛庁長官(安倍晋太郎自民党幹事長代理)も参加した。

1994年、ゴルバチョフはソウルを訪問し、漢南洞の文鮮明の家を訪ねている。文鮮明は、「19918月、ペレストロイカに 反対する反改革派のクーデターが起きた後、彼は兼任していた共産党書記長を辞任し、ソ連の共産党を解体しました。共産主義者の彼が自分の手で共産党をなくしてしまったのです。」と語り、ソビエトを崩壊させたゴルバチョフを称えた。

ロシア宗教・宗派研究センター協会会長のアレクサンドル・ドヴォルキンは、「ソ連の国家元首が、現役の一国のトップとして一番最初に文鮮明に会ってしまった。周囲の人々のプロ意識がなかったとしか思えない」と語っている。

ドヴォルキンは、統一教会が衰退したのは他にもいくつかの要素が重なったためだと指摘する。例えばゴルバチョフ財団は、長きにわたり統一教会の資金で運営されてきた。しかしゴルバチョフは西側では人気があるが、ロシアでの人気はさほどない。ゴルバチョフ財団は、統一教会が望むような影響力を持てなかった。

ロシアを含む多くのポスト・ソビエト諸国(ロシア寄りの旧ソビエト諸国)の宗教当局は、統一教会を安全保障上の問題があるとして規制と監視対象とした。ロシアを含む多くのポスト・ソビエト国家の宗教当局は、統一教会の運動をセクトネオナチ)と呼び厳しく批判し、その結果それらの場所で統一教会の活動が抑制された。

20122月の始め、旧ソビエト国家であるキルギスでは、キルギス国家保安委員会、キルギス検察庁、および州宗教問題局が、統一教会の活動が適切な登録なしに非伝統的な宗教的見解を強制的に広めることにより、キルギスの国家安全保障に脅威を与えたと主張。裁判所に苦情を申し立てた。ビシュケク裁判所は、キルギスの領土での統一教会の活動を実質上不可能とする判決を下した。

2016ウラジミール・プーチン及びプーチン政権は、ネオナチ勢力(セクト勢力)への新たな対テロ法として、新興宗教勢力に対する布教活動や私的な参拝を禁ずるとし、すべての伝道師や布教者は「登録済み」の組織に所属していなければならない事を取り決めた。これにより、ロシア国内における統一教会の活動は事実上不可能となった。

l  家族[編集]

19539月にはライサ・チタレンコと結婚し、19571月に娘のイリーナが誕生した。

l  栄誉[編集]

労働赤旗勲章1949年)

レーニン勲章1971年・1973年・1981年)

十月革命勲章1978年)

ノーベル平和賞受賞(1990年)

ハーヴェイ賞受賞(1992年)

創価大学名誉博士1993年)

日本大学名誉博士(2003年)

明治大学名誉博士(2009年)

聖徒アンドレイ・ペルボズバンニー勲章ロシア語版)(2011年)

l  著書[編集]

『ペレストロイカ』 田中直毅訳、講談社1987

『ゴルバチョフ演説集』 読売新聞社、同外報部訳、1991

『世界を震撼させた三日間』 福田素子訳、徳間書店1991年(ソ連8月クーデターの回想記)

『ゴルバチョフの発言ペレストロイカの軌跡』 、講談社、1991

『ゴルバチョフ回想録』(上・下)、工藤精一郎鈴木康雄訳、新潮社1996

『二十世紀の精神の教訓』(上・下) 潮出版社1996池田大作との対話、文庫化に際し上・中・下巻に分冊)

『ゴルバチョフ演説・論文集』(14)、ソ連内外政策研究会訳、国際文化出版社

『ゴルバチョフと池田大作』中澤孝之 角川書店 2004

l  注釈[編集]

1.    ^ 英語ではPrivolnoyeと表記する。

2.    ^ この話は2006717放送のNHKのラジオ番組で五木自身が披露している。

3.    ^ ロイヤルナイツのソ連初公演は196612月であるから、夫妻が19539月に結婚したという年譜と矛盾する為、五木寛之の思い違いであろう。なお後年、1991年のゴルバチョフ夫妻公式訪日時のパーティー出演を依頼された際、ロイヤルナイツはソ連側から、「ゴルバチョフがスタヴロポリの党第一書記のころ、ロイヤル・ナイツの演奏会がこの地で行われ、ライサ夫人が会場に来られた」と説明を受けている[71]

4.    ^ この会見ではソビエトの最高指導者としては初めてとなる日本訪問を「来年(1991年)の桜の咲く頃」に行うと明言。最終的な日程は外交当局間の交渉によって確定したものの、翌19914月の来日がこの会見で事実上確定した。

 

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