ロングフェロー日本滞在記  Charles A. Longfellow  2022.12.20.

 

2022.12.20. ロングフェロー日本滞在記 明治初年、アメリカ青年の見たニッポン

Charles Appleton Longfellow: Twenty Months in Japan, 18711873  1998

 

著者 Charles A. Longfellow 1844年マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。アメリカの国民的詩人の長男。母親はボストンの豪商アップルトンの娘、その兄は著名な美術コレクター。3度にわたり訪日。ボストン社交界で「ブラーミン」と呼ばれる19世紀ニューイングランド旧家の人々の間に広がった「日本ブーム」の先駆けとなり、持ち帰った美術品などは、国有のロングフェロー・ナショナル・ヒストリック・サイトとなっている生家のロングフェロー・ハウス(別名:クレイギー・ハウス)で一般公開されている。南北戦争では北軍に志願、戦傷で少尉除隊。冒険家・旅行家。生涯を無為に過ごし1893年没

 

訳者 山田久美子 1953年東京都生まれ。上智大外国語学部フランス語学科卒。広島大大学院文学研究科英語学英文学専攻。博士後期課程中退。現在立教大法教授。2000年度ハーバード大客員研究員(フルブライト)。専攻英文学、日米文化交流史。曾祖父が狩野友信で、その伝記を著す

 

発行日           2004.1.23. 初版第1

発行所           平凡社

 

まえがき

1871年、27歳のアメリカ青年が横浜に到着。日本に魅了され、数週間の予定が20カ月の滞在となり、文明開化の様子を日記や祖国の家族に宛てた手紙に率直に書いている

なかでもデロング公使に随行しての天皇謁見と蝦夷探検旅行、そして富士登山については、冒険家としての本領を発揮して詳述。持ち帰った350枚余の写真は明治初期の日本を記録する貴重な資料

1973年、ロングフェロー・ハウスの所有が遺族の手から国のナショナル・パーク・サービスに移り、資料の整理が進んで、チャールズの日本関係資料が研究者の目にとまる

これらチャールズの日記と手紙を、日本美術研究者のクリスティーンと夫のアンガスのレイドロー夫妻が書き写して註をつけたものに、家族からの返信とチャールズが持ち帰った日本の写真を添えて、1998年に初めて刊行されたのが本書の原本

 

 

第1章        日本到着とミカド謁見

l  1871.6.1. サンフランシスコから「ジャパン号」で日本へ向かう

l  1871.6.23. 横浜まで400マイルの海上から

l  1871.6.25.

横浜着。アメリカのウォルシュ商会が出迎え

l  1871.7.6.

アメリカ領事らと富士山麓の宮の下へ。馬車で鎌倉の大仏を見て、藤沢まで

l  1871.7.7.

相模まで進み、渡しを輦(れん)台で渡る。駕籠で宮の下へ

l  1871.7.89.

4マイル離れた芦ノ湯まで散歩。熱い硫黄泉は皮膚病の治療用

l  1871.7.10.

箱根で静養中の土佐公山内容堂が愛妾とともに奈良屋旅館に到着。シェパード領事にシャンパン差し入れ。僧侶による音楽の「もてなし」はひどい騒音、良い人たちなのだが

l  1871.7.20. 横浜にて

日本は、見たことのある中で間違いなく一番美しい国。緑の色でイギリスを凌ぎ、豊かな緑色の草木に覆われた山や平地に細分化されている。中でも一番は江の島

l  1871.8.3. 江戸にて

大抵の人が江戸は大したことはない、ホテルはひどいというが、極めて楽しい興味深い日々を過ごしている。人力車で街を走り回る。岩崎の案内で川で舟遊び、芝居見物をする

l  1871.8.14. 江戸にて

デロング公使からハワイ国使節団書記官代理に任命され、ミカド謁見に随行。岩倉が先導

翌日日本とハワイの間の修好通商条約調印、西洋風の晩餐会開催

この国で最も影響力があるのはイギリス人、イギリス公使は訓練を受けた職業外交官

 

第2章        函館への旅

第3章        1871.8.14. 江戸にて

l  1871.9.6. 「エーリエル」号船上にて

デロング公使の誘いで蝦夷探検にお供することになり、パシフィック・メール社の蒸気船「エーリエル」号で蝦夷に向かう。同行は陸軍軍人2

日本の沿岸調査は、イギリスが唯一のものだが、海図の沿岸線は実際より7,8マイルに西にずれているという

l  1871.9.7. 「エーリエル」号船上にて

昼に仙台に着く。翌日夜には函館へ

l  1871.9.9. 函館にて

街に上陸してまつりを見物しがてら、山に上る。相撲も見物

日本が気に入ったので、いつになったら帰国するかはわからないと手紙に書く

 

第4章        アイヌの土地へ

l  1871.9.16. 函館にて

蝦夷へ出立のため上陸。18頭の馬に荷物を乗せ、武装の護衛が6名、2人の役人と通訳が同道、全員が馬に乗る

翌日は函館から北上、大沼に沿って駒ケ岳を見ながら宿野辺まで。火山はたびたび噴煙を上げているが、この13年間は噴火はしていない

寒くて寝られない。デロングだけは日本人唯一の室内暖房器具(こたつ/アンカ)が用意されたが、翌朝はひどい頭痛で目が覚めた

18日は、山越内の関所まで、噴火湾(内浦灘)に沿って北上。毎日馬を入れ替え

19日は、9里先の長万部を目指す。途中アイヌ部落を通過、貧しくても生活に不足はないようで、野性的な容貌にも拘らず、極めて穏やかで友好的

l  1871.9.20. 蝦夷にて

礼文華(れぶんげ;豊浦町)に向け16マイルの道程を出発。翌日の有珠までの浜沿い14マイルの行程は、険しい崖が続いたので岬を馬で越え、その先の急な岬越えの道の代わりに海路を行く。火山(有珠山)に登る。山腹に何カ所も空いている割れ目からはかなりの量の噴煙が上がっている。有珠山は18年前に噴火したのが最後。馬の産地として有名

22日は幌別(登別)に向け9マイル(?)の道程。室蘭までの16マイルの肥えた低地を進む。室蘭は蝦夷地東岸最初の港町で期待したが、アイヌの住む数十軒の町に過ぎない

23日には怠け者の役人の言うことを無視して長距離を行くことにし、40マイル離れた勇払(苫小牧)に向け出発、白老で昼食、勇払では地引網を見物

24日には島の首都でもあり目的地でもある札幌に向け出発、千歳まで17マイル

25日は、30マイル移動して札幌に入る。首都は1年半前にできたばかり。40戸余りの家が散在

l  1871.9.28. 石狩に向かう。途中から船で川下り。河口で最も大規模なのはニシン漁

l  1871.9.29. 日本海側を函館まで戻る

銭函で昼食。25マイルを進み、小樽で泊まる。アイヌの歓迎を受ける、小樽は蝦夷在住の日本人の間では歓楽街として知られている

30日は、余市まで25マイル移動、さらに余市から峠越えで15マイル

l  1871.10.1.

岩内まで20マイル前進

2日は、歌棄(うたすつ)まで20マイル高い山越えで移動した後尻別川の河口を船で渡る

3日は、島を横断して長万部まで28マイルを移動

4日は、落部(おとしべ、八雲)まで28マイル移動

5日は、40マイル移動して函館に戻る。20日間で一周

アイヌは「多毛の人」の意(誤認)

l  1871.10.10. 函館にて

以前ほど日本人が好きではなくなった。よく知るようになると、嘘つきで意地が悪く、頭も冷静とは言い難く、小生意気に見せるためにひどく子どもじみた馬鹿げたことを平気でする人たちだということがわかった。サルのように欧米人の真似をする

 

第5章        函館から江戸へ

l  1871.10.13. 

13日で金曜日と2つも悪い偶然が重なったにもかかわらず、折よく来合わせたロシア砲艦に青森まで送ってもらい、下船の時は賛美歌で見送られた。ロシア砲艦の船長は、高価なイギリス産石炭の代わりに、蝦夷の岩内産石炭を使用してお国のために節約したが、二度とするまいと誓ったという

14日は、駕籠で進んだ後、城下町七戸までは徒歩で15マイル。城下では初めての外国人を見ようと、道に人が溢れた

15日は、15マイル歩いて五戸に着く。翌日は一戸まで29マイルを歩く

17日は、盛岡方面に向かい、沼宮内まで20マイル歩く。翌日22マイル歩いて盛岡へ。雪を抱いた岩手山が見え、渋民村で昼食。どこへ行っても我々を見つめる黒山の人だかりに遭うが、群衆は全く静かで、強い好奇心を感じるが、敵愾心は窺えない

l  1871.10.19. 盛岡にて

1日町の名所見物に。盛岡城も見物、380年前に築城された南部藩主の館だが、今では一部しか使われておらず、いささか荒れ果てた状態。人口1300

l  1871.10.20.

花巻まで24マイルを歩く。幅30ftの道は平坦で真っ直ぐ、びっしりと松並木が続く

花巻は人口4200

翌日は水沢まで20マイル歩く。22日は一関経由金成(宮城県)まで27マイル

23日は古川まで22マイル。24日は30マイル先の仙台まで、1日滞在

l  1871.10.26.

塩竃まで12マイル歩いて、松島では舟遊び、瑞巌寺を見学

翌日は仙台経由で江戸へ向かう。最初の泊りは岩沼。翌日20マイル進んで白石に泊まる

29日も20マイル進んで福島へ。阿武隈川の渓谷に沿って進む

30日は二本松経由郡山まで30マイル

中央政府からの独立を維持するために大名たちが蜂起するのではないかと考えられていたが、江戸が平穏であると聞いてほっとする

日光に寄るのを楽しみにしていたが、デロング公使がかなり疲れて弱ってきており江戸に直行する。31日は須賀川経由白河へ

111日は大田原まで29マイル進む。大田原は戊辰戦争の際会津攻めの拠点となったところで、官軍が火を放ったため、多くの家が建築途中だった

2日は宇都宮まで28マイル歩く。3日は小金井経由古河まで20マイル

4日に利根川べりに着き、船で帰ることに決定。蝦夷400マイル、本州500マイルを踏破

 

第6章        横浜、大阪、長崎

l  1871.12.22. 横浜にて

ミカドに謁見。江戸駐在アメリカおよびハワイ領事への就任を勧められたが、束縛されるのが嫌いなので断る

岩倉使節団訪米に随行する若い女性5名のうち2人を預かってケンブリッジまでお連れしようと申し出たが、彼女たちの保護者の理解を得られなかった

この古い親しみ深い国を離れることはとてもできない。数年もすればすべてが台無しになってしまうだろう。日本人は西洋人の服装や態度の真似を始めてまるでサルのようだ

l  1871.12.22. 横浜にて

父親宛に、岩倉使節団をワシントンまで案内するついでにボストン訪問を予定しているデロング公使を紹介。1872.1.19.付で父親から返事が来ている

l  1872.1.

土佐藩の蒸気船で横浜から大阪へ

l  1872.1.22. 大阪にて

岩崎と土佐へ狩猟に出かける予定だったが、土佐でも反乱の恐れがあり、情勢が変化するのを待っている

l  1872.2.24. 神戸にて

1週間ほど神戸に滞在、布引の滝を見物。明日の朝長崎に向けて出航予定

l  1872.3.15. 長崎にて

瀬戸内海の船旅は快適。神戸は殺風景で好きになれなかったが、長崎は木の生い茂る山に囲まれた良港でこじんまりした魅力的な町、すっかり気に入った

 

第7章        京都、江戸

l  1872.5.16. 京都にて

日本政府開催の第1回博覧会が外国人にも開放されたので、友人と一緒に見物に来ている

l  1872.6.17. 京都にて

琵琶湖を和船で1週間かけて回るクルージングに参加

l  1872.7.19. 江戸にて

京都から大阪、神戸経由で横浜まで船旅。京都では陶磁器を中心にたくさん買い物をした

父親に2000ポンドの信用貸しをベアリング兄弟社と交渉してくれるよう依頼

 

第8章        富士山と新しい鉄道

l  1872.9.1.

荷馬車に荷物を積んで2人で横浜を出発、藤沢で昼食、夕方小田原に着く

小田原からは駕籠と山駕籠で宮ノ下の奈良屋旅館へ

3日には東海道を三島に向けて出発。箱根で泊り、翌日は予定を変更して徒歩で御殿場へ

芦ノ湖を船で渡り、乙女峠に上って、御殿場で泊り、5日は須走まで歩く

6日は須走から駕籠で馬返(うまがえし)へ。6時前に出発、9時には1合目に到着、標高7400ft10555合目到着。35分に8合目に着いて泊まる

7日は550分出発、645分山頂に立つ、周囲3マイルほどの噴火口を1周した後、2時間ばかりで下り始め、9時には8合目の小屋で朝食して下山。1合目で待っていた山駕籠に乗って吉田に降りる。富士山専属の僧侶が経営する巡礼宿のようなところで1

l  1872.9.8.

甲州街道を9里上った野田尻(上野原)へ向け出発、富士山の素晴らしい眺め、足元まで裾野が広がる。大月までは絹織物の産地

9日は9里上った八王子まで。甲州街道は荷馬で交通量がかなり多い。八王子は絹産業の中心地のはずだが面影はなく、女郎屋ばかり

l  1872.9.11. 横浜にて

昔から日本に住んでいる外国人の間での日本人の評判は、彼らに親切にしても碌なことはない、甘やかすだけだという。余りにも東洋的で、新設ということが理解できない。電報制度やほんの20マイルばかりの鉄道や洋装などで、表向きは大股で文明化の道を進んでいるように見えるが、その行動を見ても心根は後ろ後退しているように見える。どうやら我々から取るだけ取っておいてお返しは何もなしというのが彼らのやり方のようだ

こちらで会った中で一番質(たち)が悪いのは、洋行帰りの役人たち。彼らは帰国後ますます自惚れて、しかも見かけとは裏腹に前にもまして外国に対して反感を持っており、洋行中に受けた恩も歓待されたことも忘れて、それは日本の役人という高級な人間に当然払われるべき敬意と見做し、自分たちが訪問した国は名誉に思っていると勘違いしている

l  1872.10.23. 

横浜から江戸まで鉄道が開通、全長20マイル、単線、平地を走り、隧道は1カ所だけで橋を2本架ける予定、どこかのイギリス人に作ってもらい費用が5倍ほどかかったという。数日前ミカドご来臨のもとに正式に開通。廷臣たちが位に従って旧い宮廷服で現れたのは壮観。洋服姿の時は猿回しのサルのようだが、着慣れた様子で良く似合っていた

大君の家臣つまり徳川方の人たちは、ほぼ全員教養のある生まれながらの紳士だが、今の役人たちは半分以上が道端で拾われて、現政府のために悪知恵を働かせ悪事を働いたために高い地位を手に入れた人間、嘘つきの名人で信用ならない

 

第9章        江戸の邸と日本との別れ

l  1872.11.7. 横浜にて

江戸の邸が完成

l  1872.11.18./11.26. 父からの手紙

ボストンの大火で大変な損害を受け、君のベアリングの口座も1180ポンド(6000ドル)の残高不足なので、出費を切り詰めなければならない。春までには帰国するように

l  1873.2.10. 江戸にて

日本を離れる決心がついた。12日の船で上海に行き、香港経由で6月には帰国する

家はホール商会に売却して、買い求めた骨董品は船便で送る

l  1873.4.4. 上海にて

横浜を出てから体調を崩し、しばらく長崎で静養したため離日が遅れたが、元気を回復して上海に来た。日本との別れはひどく憂鬱で、日本での落ち着いた生活が懐かしい

 

 

エピローグ

離日後、中国に4カ月滞在して、武漢から北京、香港を歴訪するが、狩猟で怪我して香港で数カ月静養したのち、ようやく18742月にアメリカの軍艦に乗船して、サイゴン・バンコク経由でシンガポールに向かう。世界を回りながら6月ケンブリッジに帰着

 

 

付録 1. チャールズ・ロングフェローの写真

チャールズは日本から数百枚に上る写真を持ち帰り、125年過ぎた現在、そのうち約350枚がロングフェロー・ナショナル・ヒストリック・サイトに残っている。この写真コレクションの特徴は、数の多さと、北は北海道から南は長崎まで、広い地域にわたる題材にある。撮影者は様々で、買い上げた写真集などもある。サイズも構成も様々で、1860年代後半~70年代初頭の日本の姿を描き出すタイムカプセルで、今後の研究が期待される

 

付録 2. ヨーゼフ・アレキサンダー・フォン・ヒュブナー伯爵 天皇謁見記

ヒュブナーは、オーストリア国籍のドイツ人。1871年旅行記を出版

1871.9.16.ミカドから迎えの24輪馬車でイギリス公使代理アダムズと通訳サトーと一緒に参内。高輪からの4マイルを騎兵隊20余人とともに進む。沿道には短い間隔で歩哨が立ち、敵意はないが好奇心を露わにした群衆がぎっしりと並んでいた

上海在住のオーストリア代表が不在のため、イギリス公使(代理)が代わって伯爵をミカドに紹介する

お伽の国のような庭園、豪華な宮廷服を着た威厳のある政治家たち、自らを神であると思いそう信じて偶像のように振舞う東洋の君主、まさに『千夜一夜物語』を凌ぐ体験だった

 

付録 3. チャールズ. . デロング 蝦夷行き並びに函館から江戸への出張報告書

1871.10.8. 函館発  ワシントンDC 国務長官ハミルトン・フィッシュ宛

復路の蒸気船が戻ってくるまでの20日ほどの間に、島の奥地へ短い周遊を実行

他の国の代表に先駆けて首都札幌を訪れ、我国の国旗を掲げる栄誉に浴したが、札幌に初めて掲げられた外国国旗となった

島では、函館、松前、札幌にわずかな日本人が住むだけ、それも沿岸の漁村に限られ、奥地に住むのは極めて特殊な興味深い人種の人々で、「毛深い人々」を意味する(デロングの誤認)「アイヌ」。我が国のインディアンのようだが、彼らと違って勤勉で礼儀正しい

蝦夷の島には日本政府が必要とする資源が豊富――木材、漁業、動物、鉱物

日本が人口過剰であるという一般的な見解は全く見当違いであると悟る。土地と気候の素晴らしさは他にないほどで、苦力たちが集団でアメリカに向かうという恐れはない

ロシア領事が、我々が本州に渡るためのロシアの砲艦を提供してくれた。在日ロシア当局からはこれ以外にもたびたび丁重な扱いを受けているので、私の感謝の意をサンクト・ペテルブルグにお伝えいただきたい

 

1871.11.12. 横浜発  ワシントンDC 国務長官ハミルトン・フィッシュ宛

先月13日、ナジモフ司令官率いるロシア砲艦に乗船したことを報告する

津軽海峡を渡って本州まで運んでくれた。船首にはアメリカ国旗が掲げられ、礼砲15発が鳴り、フランス砲艦もアメリカ国旗を掲げて、答礼の礼砲15発を撃ち、知事が乗船したロシアのコルベット艦が国旗と15発の礼砲で続いた

この扱いは特記すべきものと思われ、私は感謝状を進呈。適当と思われるならば、露仏両国政府に私の深謝の意をお伝えいただきたい

本州に上陸してからは22日かかって江戸まで駕籠で本州北端から江戸までほぼ中央を南下。外国人未踏破、外国人を見るのは初めてというこの土地で、蝦夷においてと同様、役人も民間人も含めてどこでも非常に丁重な扱いを受けた

蝦夷及び本州を何千マイルも旅する間、私は非常に親切にしてもらった。合衆国の代表たる私に示されたこのような敬意に対し、我が国政府は日本に対し感謝の意を表明するべきと思ったので、閣下のお許しをいただけるものと信じる

農作物で一番豊富にみられたのがクワ。人々は概ね充足しているように見受けられ、乞食を見かけたのは江戸まであと数マイルという地点に達してからだし、酔っ払いはついぞ見かけなかった。これは驚異に値する

 

付録 4. 「日本の工芸、象牙のキャビネット」

トーマス・ゴールド・アップルトン著『色褪せた葉』よりの詩

 

付録 5. 蝦夷畫写真集

写真にある解説は、おそらく野口源之助が書いたものと思われる

 

付録 5.解説 チャールズ・ロングフェローの『蝦夷畫』写真集

セバスティアン・ドブソン(古写真研究家、ロンドン在住)

ロングフェロ-が20カ月の日本滞在中に集めた写真コレクションの中で最も大切なものの1つが、アイヌの肖像写真と北海道の風景写真21点からなる小さなアルバム

表紙のラベルには、”G. Nogootchi’s Yezo Album 蝦夷畫とある。各写真には優雅に、たいていの場合は文法やスペルに間違いのある英語で書かれたキャプションが添えられており、それが、書き手は英語圏生まれの人ではないこと、恐らくは日本人であろうことを示している。北海道を訪れる以前のものや訪問地以外のものもあり、国後島沖の流氷の中に停泊中のイギリス海軍観測船「シルヴィア」号の写真があることは、当時日本政府の協力を受け、ヘンリー・セント・ジョン海軍中佐の指揮下で1871年夏にシルヴィア号によって行われた北海道全域を回る調査航海で撮られたということを示している

このアルバムの写真を特に重要なものにしているのは、アイヌを居住地で撮影した最古の写真だということ。4年前のアイヌの写真は函館の写真館で撮影されたもので不自然

これらの写真を撮影したのは、測量調査に参加した将校の1人で熱心なアマチュア写真家でもあったスウィントン・ホランド大尉で、測量調査の公式通訳だった野口源之助が地元民との交渉などに当たっただけでなく、写真撮影の手伝いもしたことが判明

ホランドは、その後王室ヨットの艦長から香港の海軍司令官、1907年には海軍大将に昇進、1922年急逝、享年79。王立地理学会のフェロー。1871年の航海では人類学と写真に興味を集中し、持ち帰ったアイヌ工芸品を王立人類学協会に寄贈している

維新前後に日本に来た写真家は、それまで日本人以外には撮影されたことのなかった日本の土地や人々の撮影に独特な仕事を成し遂げたが、ホランドもそうした一連の写真師たちの最後の人物で、日本で写真家が訪ねたことのない場所はごくわずかになっていた。ホランドは写真の開拓者であり、記録者。彼以降はプロか、カメラを持った観光客に過ぎない

 

付録 6. ろんふろさん につぽん しゃしんきやう ① 写真解説: 石黒敬章

「ロングフェローさん 日本写真鏡」の意味で、折本形式の画帳。1871年来日した際の六つ切り写真19枚が貼られている

 

付録 6. ろんふろさん につぽん しゃしんきやう ②

同上。187173年の在日時の写真93枚が貼られている

 

付録 6. チャールズ写真の不思議発見 石黒敬章(日本写真芸術学会評議員)

曽祖父狩野友信の伝記執筆のためハーバード大で在外研究中の本書訳者山田久美子から手紙をもらう。山田は、ハーバード大の近くのロングフェローの邸宅にチャールズの日本美術コレクションがあると聞いて、その中に友信の作品が含まれているのではないかと訪問し、1998年刊行されたチャールズの日本滞在記『20 Months in Japan 1871-1873』の翻訳を進めていたが、その参考資料として拙著『続 幕末・明治のおもしろ写真』にチャールズ関係の写真が何枚も載っていたので目を見張ったという

古写真に造詣が深い長崎大の姫野順一教授は、「古写真の本がいろいろ出版されるようになったが、古写真研究にはベンチ・マークとなる本が必要」という

ロングフェローの写真はまさにベンチ・マークになり得る――日記や手紙と併せて見ると、撮影年代や場所、撮影者の見当が付けられる

本書が古写真のベンチ・マークとなるよう、原書には掲載されていないが、チャールズが残した大部分の写真を掲載するように努めた。特にチャールズ自身の記念のアルバムは、そのすべての写真を掲載したので、日本の古写真集としても相当充実したと自負する

チャールズが日本から持ち帰った約350枚の写真の多くはアルバム仕立て

    『ベアト・アルバム』は、ベアト撮影の風景・風俗写真96枚、ベアトから購入?

    『ろんふろさん につぽん しゃしんきやう』と表紙にあるアルバム。近江八幡画と書の画帖の裏面に、チャールズが撮影を依頼した18枚の大判写真が貼り付けられている

    『ろんふろさん につぽん しゃしんきやう』と表紙にあるアルバムで、折本形式の画帖に、チャールズが日本各地で集めた名刺判の写真が93枚貼付

    『アイヌ蝦夷アルバム』には、野口源之助が選んだ21枚の写真があり、日本では初公開になる珍しいアイヌ関係の写真

    『名刺判人物写真アルバム』には、チャールズと交流のあった人物の写真が掲載。長崎の上野彦馬の写真館などで撮ったもの

    『スティルフリード撮影の芸妓』は22枚の芸者肖像写真収蔵。撮影者から購入

    バラ写真は、上記アルバムと重複

ロングフェロー邸の場所は、築地居留地内でも日本人と混在した広義の居留地で、武家屋敷を買い取って内装を洋風に改良したもの。後に立教学院の創始者となるアメリカ聖公会伝道会社派遣の神父が購入しているが、正確な場所は特定できていない

 

 

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