新聞記者人生  鶴岡憲一  2022.11.29.

 

 

2022.11.29. 新聞記者人生 面白きこともなき世をおもしろく

 

著者 鶴岡憲一 1947年群馬県生まれ。東教大卒。読売新聞社会部、解説部、編集委員室等で事件や航空、原発、欠陥車、鉄道等の安全問題のほか、PL法、情報公開法、個人情報保護法の立法、環境エネルギー問題等の取材に関与。内閣府国民生活審議会臨時委員、国交省航空輸送安全対策委員会委員、上智大学と日本大学の講師等を歴任

 

『文藝春秋』202210月号 清武英利『記者は天国に行けない』の中で言及。讀賣社会部記者の先輩で、日航機事故の際航空担当の遊軍で素人同然だったが途中から猛勉強して事故調や日航乗員組合に食い下がり、翌年運輸省担当に就くと少しづつ特ダネを書いた

その鶴岡が「孫娘に残したいので自費出版に」と原稿を花伝社に持ち込んだら、社長の平田勝が「一部は花伝社が扱うから刊行させてくれ」と応えたもの


発行日           2022.8.25. 初版第1刷発行

発行所           花伝社

 

 

プロローグ

1996年参議院の法務委員会で参考人の意見聴取に出席――裁判官が民事訴訟の審理の際、官庁が保有する訴訟関連文書を提出するよう命じた場合、提出を基本的に義務付けるという前向きな一般義務化の方向が盛り込まれたが、官庁側が「内部文書だから」との理由で提出を拒否できるという改正原案に対し、日弁連の指摘もあり、私は読売新聞の解説欄に度々批判的な解説記事を書いていた結果、メディアでの批判も高まり、改めて法制審議会で修正されることになった

改正原案を書いて主導していたのは、法務省民事局参事官で、たまたま桐生高校の同級生。東大卒で裁判官になった人。それがわかって、取材相手を審議官に代えてもらった

政府提出法案の場合、官僚のトップ会議である各省事務次官会議で認められなければ国会へ提出できないことが慣例だったため、内部文書の例外規定が盛り込まれていた

所属官庁に不都合な情報が記載された公文書を隠そうとする霞が関の官僚の情報取り扱いが戦後最悪といえるほどになったのは、第2次安倍政権下で、国有地格安払い下げが問題視された森友学園疑惑では財務省による公文書の隠蔽はもちろん改竄まで行われ、そんな行為が処罰されないという事態まで起きた

 

読売に入社したのは、母校の筑波移転問題での学園紛争絡みで1年留年して卒業した1970年。記者人生の半ばごろ、高杉晋作の辞世の歌に出会い、振り返ってみると、悔いが残ったことを含め様々な紆余曲折はありながらも、ほぼ似た心境で終えられそうに思えた。

晋作が死の床で「おもしろきこともなき世をおもしろく」と上の句を詠んだものの続かず、最期を看取った野村望東尼(のむらぼうとうに)が「すみなすものは心なりけり」と下の句を詠むと、晋作が「おもしろいのう」と呟き、息をひき取った。
晋作の辞世の句に関しては、このようにいわれてきたが、厳密には亡くなる4か月前に詠まれた

また、もともと晋作が詠んだのは「おもしろきこともなき世におもしろく」であり、「世を」としたのは、のちの改作であるともいわれている。

「このつまらない世の中をおもしろくしてやろう!」という晋作の破天荒な性分が伝わるが、「世を」を「世に」に変えると、「こんなつまらない世の中、おもしろくなかった」という不満にもとらえられる。武士の家に生まれた晋作は、藩や国が危機にさらされているのを黙って見過ごすことができなかった、本当はもっと、違った生涯を送りたかった。その思いが、死を前にしてこのような上の句を詠ませたのだともいわれている。

上の句を引きついだ望東尼は、それはその人の心の持ち方次第である、と諭すような下の句をつけている

 

1.    スタートは事件から

l  特ダネ競争の重み

未発表の情報を報道する特ダネは、各メディア横並びでの発表記事よりも鮮度が高く、読者らに与えるインパクトも強めになるだけに、抜かれた時の屈辱感や評価は、担当者のみならず所属メディアの幹部にも及ぶ

1974年の三菱重工爆破事件では産経が抜き、それまで読売の編集局内は社会部出身が要職を占めていたが、左遷人事により社内勢力が政治部に移る大きなきっかけになった

l  ニュース価値めぐる小反乱

特ダネのレベルの尺度は、紙面での扱い――新人で配属された横浜支局のデスクが特ダネを社会面に売り込むことに消極的だったため、特ダネ競争のライバルと見做していなかった産経にニュースをリークしたところ、産経の社会面トップを飾ったのに、我が方は県版3段の扱いで、デスクのニュース価値判断のおかしさを暴露して留飲を下げた

地方採用のデスクが、地方版紙面充実を目指したための歪みが生んだ出来事ともいえる

 

2.    社会部から名古屋へ異動

l  ロッキード事件への関わり

'75年社会部配属、担当は警視庁の第2方面、品川・大田区内の警察署廻り

ロッキード事件では、児玉番で張り込んでいる最中、特捜部検事が児玉邸に駆け込むのを見つけて社会部に連絡したが、情報の確認に手間取ったのか、10分の差で特ダネにし損ねた

シグ片山の証言を取ろうと、病死直前の本人を追い詰めたが、取材される立場の人が嫌がるとわかっていても問うことをやめないのが記者という因果な商売

 

3.    空回り気味だった警視庁取材

l  捜査4課での教訓

社会部サツ回り後に配属されたのが警視庁、知能犯の2課と暴力団の4課担当

稲川会会長を賭博容疑で逮捕する事件では、120行の特ダネの予定原稿の用意をしていながら、毎日に抜かれたし、読売に情報を漏らしていると睨まれた有力な情報源だったベテラン捜査員を、捜査係内部の罠に嵌って、守ることが出来なかった

l  保養所でのキャンペーン

警視庁の後は、新宿支局で都内版記事の担当となり、区役所の発表情報を記事にまとめるだけのまるで保養所に移されたような毎日となったが、朝日が国政での公費の無駄遣い追放キャンペーンを始めたことから、区役所レベルでも同様なことがあるのではないかと調べてみると、「不快手当」やカラ超勤手当などを見つける。先輩記者と協力して全区役所に対象を広げるとほかのヤミ手当も見つかり、都内版の見開きページをフルに生かし、不明朗な実態を暴露したところ、区役所の職員労組からも批判の目を向けられたのに驚く

l  名古屋へ飛ばされて

社会部の鬼軍曹と呼ばれて筆頭デスクと口論したのが原因で社会部から追い出された

l  最強のライバル・中日新聞

担当は愛知県警。中日に抜かれることが日常化していて、大事件に備えて日常的に努めておかなければならないネタ元との関係作りすらできていなかった

検察・裁判担当に代わった後、戸塚ヨットスクール事件では特ダネ原稿を連発し、中日に圧勝、若手を含め名古屋総局全体での取材力が強まり、13年ぶりの本社からの特ダネ表彰

 

4.    社会部に復帰

l  素人記者が直面した日航ジャンボ機事故

'84年社会部復帰。とりあえず「航空担当」だが、何でも屋の遊軍記者として羽田で過ごし、日航の広報担当課長から基本的な知識を教えてもらっていたところに勃発したのがジャンボ機墜落事故。ニュースを聞いて翌日羽田へ取材に、相棒は理系記者

l  激しかった特ダネ競争

日航の記者会見では、正確な情報の迅速な発表を強く求めたことがきっかけで、『沈まぬ太陽』執筆に向けた情報収集のための山崎豊子のインタビューに3回ほど面談し、会見での質問ぶりが本にも紹介されることになった

事故原因の調査に関して読売は後れを取る中、日航乗員組合や整備員で構成する日航労組への取材からようやく特ダネの材料を見つけ、土曜日に記事を掲載することが続く――なかでも安全神話に包まれてきたジャンボ機についてボーイングが初めて大規模な改修と設計変更に乗り出すことを伝えた1面トップ記事は印象に残る。大阪空港での尻もち着陸で破損した後部圧力隔壁のボーイング修理チームによる修理ミスからの破断により、世厚されていた客室内の空気が機体後部に噴出して垂直尾翼が破損、それにより操縦装置を動かす油圧4系統すべてがダウンし操縦不能になったことが事故原因とされつつあった。ボーイングは事故機特有のケースでアピールしようとしていたが、自ら構造的な欠陥を認めたのが特ダネとなった。この貴重な情報は現場の従事者ではない方面から提供されたもの

日航の問題点に絡むような報道ばかりが多い中、会社側は記者の取材に対して極力情報を隠そうとするが、事実に基づく批判報道なら、取材記者に少しでも理解してもらおうと未公表情報を提供する場合も起こりうることを知った貴重な経験

事故機の修理ミスを報じたのはニューヨーク・タイムズで、ボーイングもすぐに認めたが、ミスの原因などは「事故調」による解明を待つことになり、翌年運輸省常駐になって原因調査経過をマーク、最終報告書の概要は朝日に抜かれたが、要点は節目ごとに独自取材で報道してきており、編集局長賞と社会部長賞をもらった

l  ボーイング社トップインタビュー

'90年、ボーイング本社を取材、社長に単独インタビューで修理ミスの原因を追究、技術担当副社長も同席して、修理指示書の見誤りを認めたものの、作業員名などは明かさず。米国での航空事故については基本的に刑事事件の捜査の対象にならないため、日本で刑事責任を追及されることは理解できないという米国航空機メーカートップの意見を聞き出せたほか、同時多発亀裂についても対策構築に向けたテストを始めたことも判明

l  記者人生後半の取材のベースに

事故調査に丸2年余りに関わった結果は、同僚の理系記者との共著『悲劇の真相』にまとめたが、事故調査の経緯を振り返るうちに、事故調査と航空行政、刑事捜査との関係を含め、あるべき方向と現実の乖離についての関心も高まる

取材の過程で強い印象を受けたのは、パイロット側の事故調に対する不信感の激しさで、事故調がパイロットや整備士の責任ばかりに目がいき、運航会社や当局の責任なども含めた複合的な要因を重視せず、真相究明に熱心ではないと映っていたようだ

事故調が、発足以来初めて所属元の旧運輸省に対し改善勧告を出したことは注目に値

遺族で組織した「8.12連絡会」の活動は瞠目すべきもの――事故防止を見据えて原因究明を主目的にし、「事故調査の民主化」を進め、その後の遺族組織の規範となった

 

5.    記事ストップ

l  復活できた欠陥車報道

‘88年のAT者暴走事故に関する朝日との共同報道は、自動車業界が初めて業界ぐるみで同種事故防止目的の対策に取り組むきっかけとなった――単独報道を始めたら突然ストップがかかり、朝日が追随したら突然再開の要請が来た。広告主に気を遣ったのだろう

運輸省記者クラブに常駐するようになって、自動車のトラブルについても興味を持ち、駆け込み寺となる消費者団体であるユーザーユニオンにコンタクト

l  「提訴されても勝てる報道」への転機

AT車の速度自動調節機能が、車内外の様々な機器が発する電磁波の影響で狂う場合があるという警告目的の記事を投稿した運輸省の担当課長が、取材に対して電磁波による影響の存在を完全否認したことから、担当官庁と業界ぐるみの不都合な真実の隠蔽を感じる

公式発表に基づかない独自取材での、いわゆる調査報道では、100%十分な情報を入手できるとは限らないので、取材相手が認めようとしないケースでは、「裁判で訴えられても絶対に負けない取材・報道」が必要

車のユーザーがメーカーを訴えたような場合は、訴訟当事者双方の言い分を書いて報道すれば、「報道の自由」として責任を問われる心配はなく、その中で原因が確定していなくてもトラブル状況の情報を詳しく書き込めば、一般ユーザーへの警告の役割も果たせる

l  業界ぐるみの対策へ

AT車問題は、朝日、読売の報道が続くと国会でも取り上げられ、業界ぐるみで対策に乗り出した――ブレーキを踏まないと、シフトレバーを「駐車」から「発信」に切り替えられない

記事ストップは、国家権力や大企業などメディアへの影響力が強い存在の働きかけがきっかけになるのが普通。自動車以外のトラブルや不祥事にしても、内部告発などによって報道できる機会が生まれる可能性はあるので、ストップをかけられても諦める必要はない

 

6.    同僚と経験した挫折

l  ターゲットは国土庁長官

政治資金規正法違反の疑いが濃厚な政治家絡みの話を同僚と共に洗う

対象は国土庁長官の稲村佐近四郎衆議院議員。情報源は生コン業界の全国組織の現役幹部

2人で証言を聞いていたので、信憑性は高く、後から圧力がかかっても覆しにくい

l  癒着写真撮影に成功

情報源は霞が関の官庁筋にも広がっていて、長官の日程を知らせてくれ、鵜飼い見物現場の写真撮影に成功

l  違法疑惑は看過できない

疑惑報道が社会面に掲載された後を追って、写真付きのエピソード記事が第2弾となり、さらに追い打ちをかけて本筋の違反関連原稿を出したところストップがかかる

報道方針を巡って記者が会社側に不満を抱いた場合、アメリカでは別の新聞社に移籍することが容易――ウォーターゲートでピュリッツァー賞まで取ったバーンスタインのケース

ストップがかかった記事は裏付けもしっかりできていたので、同僚と相談して、東京地検特捜部に提供、特捜部は間もなく撚糸工連事件として稲村を収賄罪で起訴。我々の記事も掲載されて間もなく稲村は辞任

特捜部への情報提供は、「取材で得た情報を報道以外には使わない」という記者倫理の原則に悖る行為であり、発覚すれば記者生命にかかわるところだったが、記者倫理の形式解釈に捉われずに、記者倫理に沿った報道で目指すはずの違法行為追及こそ優先すべきと感じての選択だった

定年退職慰労会で告白したが特にお咎めはなく、退職後には、部長相当職以上のOBで社への貢献が評価されたものが対象となる「社友」に認められた

 

7.    一線記者に戻って

l  リクルート事件取材に参加

‘88年発覚のリクルート事件にも遊軍記者として参加

神奈川県警が川崎市の助役にリ社の未公開株が譲渡された件を贈収賄容疑で捜査。3年の時効で打ち切られたが、朝日が株疑惑の調査報道を開始、次々にスクープ報道を続ける

地検特捜も動き出し、怪文書まで流れて藤波官房長官が浮上、経済界の大物からの証言を基に本人に直接当たるが無言で立ち去られ、ますます疑惑を確信したが朝日に先行された

l  都内版デスクから取材現場へ

都内版デスクは、管理ポストへの通過点だったが、一線の取材を希望し、通産省記者クラブ詰になる。社会部の通産担当記者として念頭に置く第1のテーマは原発事故取材

'79年のスリーマイル島事故、’86年のチョルノービィリ事故、’85年東電福島第2事故などの後にも拘らず、通産やエネ庁が安全より大規模電力会社の利益に奉仕するためには規制責任をも軽んじる官庁になっていたことを痛感

東日本大震災での福島原発事故の背景として、官業の癒着が安全チェックの甘さに繋がったと指摘した文を環境総合研究所のホームページで掲載したところ、多くの反響があった

‘85年の福島の事故でも、原子炉で熱せられた冷却水の熱を発電用タービンに伝えるための再循環ポンプ破損が事故の原因とされたが、エネ庁が指摘したのは溶接作業の不備ということで、事故調の専門家は取材に対して「強度に関する設計ミス」と語ったが、報告書ではエネ庁はそうした見方を排除し、自身や東電による設備の安全性チェックのミス・監督責任に繋がらない、「作業員のミス」に矮小化しようとした

原発と、関連行政に対する不信感は決定的になる――そもそも地震多発国の日本で原発建設を進めること自体が不適切

l  再生可能エネルギーの紹介

読売中興の祖である正力松太郎が初代原子力委員長である読売では、真正面の原発批判は考えられず、代わりに注目したのが再生可能エネルギー

当時、太陽光発電は、技術面での問題はないが、電力配給網への連携を可能にする制度整備が行われておらず、大きなネックになっていた

原発派官僚の圧力を受けながら、エネ庁の新エネルギ課長が連携制度確立に奔走、応援の記事を書き続け、制度は調えられたが、原発派のしっぺ返しで、課長も担当者も左遷

水素の燃料電池開発も、原発派から敵視され、普及は遅れ、自動車も電気が主流に

原発にとって致命的な問題は放射性廃棄物の最終処理で、「最終処理の調査研究に関する報道は科学部のテーマ」と見做して関わろうとしなかったのは記者人生を通じで最大の悔い

l  社会部最後の特ダネ・独禁法違反事件

公取委が独禁法違反で刑事告発したのは、1974年の石油ヤミカルテルの1回だけ

脱皮のきっかけは日米構造協議。アメリカから独禁法違反の取り締まり強化を要求された公取委は、’91年ラップフィルム業界のヤミカルテルを告発

1報の特ダネを報道した直後、公取委から出入り禁止を通告されるが、通常ありえない

全農に初めて公取委のメスが入り、問題点を具体的に指摘する3回の連載記事を報道

 

8.    解説記者への転進

l  二本柱での報道

‘91年、安全問題と環境エネルギー問題について、署名入りの解説記事を書く専門記者に

安全分野では、事故調査の方法や欠陥車・製品の回収・リコールの在り方

環境エネルギー問題では、再生可能エネルギーの実用化・普及、エネルギー消費の節約に繋がる輸送の在り方、それに関わる土木事業の削減、道路特定財源の見直し

両者に共通するテーマとしては、情報公開問題、個人情報保護問題、メディアスクラム(集団的過熱取材)対策

l  転機となった温暖化防止京都会議

国連気候変動に関する政府間パネルIPCCが設立されたのは1988年、そのIPCCが「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことは疑う余地がない」と断言したのは33年後の2021

1997年のIPCC京都会議は、5年前にブラジルで採択された国連気候変動枠組み条約の具体的取り組み方を決める場になるはずだったが、地球環境問題専門の先輩記者が、会議の結論を待って記事を書こうとしていたのを知って、それまではエネルギー問題の視点から報道していたため環境問題からは距離を取っていたが、温暖化問題をテーマに記事を書くことを決断

l  最後の総括座談会は司会役で

環境問題に関わるセクターの対応姿勢は複雑に異なり、中央官庁でも業界でも両方の利害の異なる立場が交錯するため、記事の扱いは慎重にならざるを得ない

最初の私の署名解説記事では、通産省の消極姿勢を「抜本策の先送り」と批判、続けて、「削減戦略の構築」を求め、さらに「目標率アップ 工夫次第で可能」と会議の本筋にまで踏み込んで書き、会議の決着がついた翌日には紙面での座談会の司会を務める

深刻な影響が明確に目立ってきたにも拘わらず、国際協調の温暖化対策は常にブレーキが掛けられ続けてきた。しかも化石燃料に代わる発電を原子力に頼るような傾向も目立ってきた。政治・経済界に留まらずメディアの一部さえ、原発の事故を忘れたかのように、放射性廃棄物のくびきを逃れられないはずの原発に期待をかけるような傾向も出てきた。目前の事情にとらわれ過ぎがちなジャーナリストの欠陥というほかない

 

9.    立法への関わり

l  最初はPL

立法も「調整」という名目の妥協によって進められやすい。その最初の経験が1994年に始まった製造物責任法の立法過程の取材

制定されたPL法は、欧米先進法とは似て非なる日本型立法だが、法が施行されれば、欠陥製品事故の被害者は「法に基づく救済」の道が開ける

「法律は妥協の産物」という性格も改めて理解できた――国民にとって好ましい立法を求めるうえでの障碍は政官業による抵抗で、内容が不十分であっても施行されればそれなりのメリットもあるので、立法を受け入れることが妥協の実質といえる。法案審議の過程を取材するメリットは、妥協前の検討段階でぶつかり合う異なる意見をウォッチすることで、真に必要な規定は何か、満たされていないままに規定された点は何かといった問題点を把握しやすいことにあり、法運用面の改善や改正の必要を国民に伝えられる

l  「ド迫力」と呼ばれた情報公開法共著書

'97年発刊の浅岡美恵弁護士との共著『日本の情報公開法―抵抗する官僚』が、「情報公開の過激派」と呼ばれ、反響がすごかった。硬派で社会的な意義深い書籍の出版に積極的な花伝社から出版で、全学連の元委員長の社長がサブタイトルをつけてくれた

日弁連とともに消費者団体が情報公開法の制定を促すきっかけになったのはPL法で制定で、被害立証の責任を免除するために通常の使用中に事故が起きた場合は製品欠陥と被害の関連を推定できるとしたEC流の「推定規定」が認められなかったために、必要な情報を握る企業や関係官庁の持つ情報の公開を義務付ける法の制定が必要となった

「開かれた情報」の重要さは、1960年代の学生時代にベトナムの反米闘争に参加する中で、ロシア革命の本質が「プロレタリア革命」の名の下に人命を軽視しつつ進められた革命であることを理解し、いかに情報から疎かったという反省から

「物事を100%認識するのは困難としても、物事の様々な面に意識を向け、チェックしていくことで真実に近づくのは可能」というのは、真実を探る取材と報道を目指すジャーナリズムが基礎とすべき考えに通じる

l  日本流情報公開法の限界

意識の志向範囲を広げるには、自身が多様な情報に目を向ける姿勢が必要であると同時に、社会で様々な情報が開かれていてこそ認識は充実度を増す

その法的保証となる情報公開法の制定取材に当たって注目したのは、ルールの実効性の担保で、意図的な情報隠しに罰則がなければ、公開請求権の行使が妨げられる余地が残る

国家公務員法には守秘義務が官僚に課され、違反には罰則が定められている

公開対象となる公文書を「組織共有文書」に限定したのも問題で、それ以外は私文書として開示を拒否できる。さらには公開請求の手数料まで規定

民主党政権下で改正の動きが出たが、安倍政権に至っては逆行するに至り、その流れの中で公文書の隠蔽に留まらず偽造まで行われた。公明党もそんな安倍政権に同調したが、野党の頃は民訴法改正問題(プロローグ)が沸騰し始めた際、山口那津男等に政府の情報隠しにつながる恐れを説明したのに、その後の同党の変化は思いもよらないことだった

l  内部告発者を守れるか

2002年に国民生活審議会が検討を始めた、内部告発者を保護するための公益通報者保護法の制定過程を取材、保護対象を「直接被雇用者」に限定したり、「先に組織外で告発した場合は保護対象外」としたり、法による保護を制限しようとする動きを問題視した解説記事を出し続ける――実例に即した説明が重要で、特に非加熱の血液製剤の危険性情報が隠蔽されたまま被害者が増え続けた薬害エイズは、情報隠しがいかに国民益に反する事態に発展するかが理解されやすくなった

 

10. 個人情報保護の法制化をめぐって

l  衝撃受けた指摘

1999年、行政情報公開法制定直後に、個人情報保護法制定の動きを教えられ取材開始

個人情報保護には個人情報の収集、活用を制約する面があり、それらを必要とするメディアの取材・報道に影響が及ぶ懸念あり

l  キャンペーン開始

メディア界での関心を広げるために、新聞協会の機関誌『新聞研究』での問題提起を考え、研究会を立ち上げ、座談会の形式で問題点の討論内容を連載

l  進められた座談会研究

EUでは個人情報保護法制度のない国に対しては事実上、情報交換をしないという立場を打ち出しており、法制度の整備は不回避だが、プライバシー保護と個人情報の適切な流通を両立させる制度が望ましい

欧米の制度では、官民両分野に共通する包括法を制定するEU型のオムニバス方式と、アメリカのように必要度の高い個別分野ごとに法を制定する方式がある

日本ではそれまで政府はプライバシー性の濃い信用、医療、情報通信の3分野について個別立法を行うアメリカ型を志向

新聞7社は意見書を提出――①個人情報保護のための原則を宣言する基本法は必要だが、②信用情報など個別分野については一定の範囲で罰則などを規定する必要があるとした

l  難題の「保護と活用のバランス」

基本原則だけであっても、スキャンダル報道などで民事訴訟されるのを懸念するメディア側が取材・報道に消極的になり、社会の透明性が損なわれたり、情報当事者から出所の開示を要求された場合に「取材源の秘匿」を貫き難くなるなど大きな障碍にもなる恐れがある

消費者団体やプライバシー侵害報道に厳しい立場に立つ弁護士からは、個人情報については「基本的人権の一部として保護が図られるべき」との規制色が濃い法を求める声が強い

l  ごり押し図った政府側

政府は、理念法と個別立法という2本立て方式を無視した専門委員会を発足させ、報道・表現分野についての適用除外の範囲を極力狭くし、法を根拠にメディアを逆に監視・封じ込める意図を剥き出しにしてきたが、最終的には「基本法のメディアへの適用除外」が明示

l  驚愕の方向転換

政府は、包括的一般法に基本原則を盛り込む内容の法原案を国会に上程

政府からメディアへの圧力が強まる中、法原案への批判座談会の記事を掲載しようとしたところ上からストップがかかり、さらに読売独自の修正試案が掲載される――「透明性の確保」原則だけを除外するというもので、その後示された政府の修正案より後退したもので、国際標準から遅れた恥をさらす結果になったのは痛恨の極み

l  残った悔い

2001年、政府修正案が国会で成立――適用除外とされる「報道」の範囲にはフリージャーナリストのような個人まで含まれたが、「報道とは何か」の定義の解釈権は政府が握る

小泉首相は、「メディアによる虚偽報道で迷惑を受けている場合がたくさんある」として早期成立をアピール、政府・権力側がこの法にどんな効力を期待していたかを象徴している

法施行後すぐ、官僚の個人情報隠しが目立ち始め、安倍政権では戦後史上最悪の事態に

「社会の匿名化」という過剰反応が全国的に問題に

新聞・通信各社のプライバシー・個人情報保護の体制作りは画期的に進展――読売も、対外委嘱の新聞監査委員会顧問のチェックを受ける方式で実施し始める

 

11. 回り道――九州・沖縄で

l  公共土木事業をチェック

‘99年、西部本社(福岡)の編集委員に異動、何の制約も受けずにテーマを選んで執筆

取材対象として注目したのが、地域活性化の方向として公共土木事業への依存が強い九州の事情、中でも沖縄にその傾向が強い

有明海干拓の影響については、干拓の目的が農地造成から水害防止等ご都合主義的に変更された経緯から、必要不可欠なものではないと考え、干潟再生を求める方向での記事を書いたが、政府は21世紀になっても動こうとしない

球磨川の最大支流・川辺川ダム建設問題では、河川審議会が治水対策をダムに頼り過ぎないよう勧告を出しているのに、国交省がダムの目的を発電から治水に変えるなど有明海同様、ダム建設ありきのご都合主義を貫こうとしたので、河川審の勧告に沿った方向を念頭に解説記事を書く。'08年知事に就任した蒲島東大教授もダム計画を白紙に戻したが、それに代わる治水計画の具体化を、国交省の後ろ向きな姿勢もあって進めてこなかったのは残念で、2020年の洪水被害に繋がり、知事もダム容認に転じ、メディアは知事以上に長期的視野を欠いた目先の対策にとらわれ過ぎる報道に走っていた

l  論説委員として社説も執筆

担当分野のことなる委員から意見を出してもらい会社としての見解をまとめて記載

取り上げたのは、個人情報保護立法のほか、交通安全基本計画、地元の問題では諫早湾干拓、大分県の一村一品運動、屋久島の世界遺産保護など

'01年、本社に編集委員として復帰

 

12. 報道外での活動

l  政府審議組織への関与

ジャーナリストが審議機関の委員に就任することについては否定的な見方が一般的で、担当官庁に阿る発言をする委員がいることを見てもうなずける

議論の概要や結論を報告書にまとめて公開するなど、審議会の存在には意味があり、その審議に加わる記者が重要な情報を適切に報道すれば、国民は審議テーマの問題点など理解しやすくなるところから、審議情報の公開を条件に10件前後の審議組織に関わってきた

l  参加拒否も

最初は’98年の旧総務庁主管の中央交通安全対策会議の委員

官僚に利用される恐れを予想できたケースでは委員就任を断る――国交省の道路審議会

l  実りある審議も

‘04年、国交省の航空輸送安全対策委員会発足――委員として参加、現場の生の声を聞くことに注力。安全対策のポイントは「安全と費用の適切なバランス」確保にあるが、それを判断するトップの姿勢が重要であるところから、審議報告書に「トップの責任」を明記

l  消費者問題への関わり

充実感が大きかったのは、内閣府の旧国民生活局と、その延長線上の新組織消費者委員会及び消費者庁が所管した審議への参加――原発トラブル情報隠し、耐震強度偽装などから、消費者庁創設に繋がる審議に加わる

‘10年、消費者庁が「事故調査機関の在り方検討会」立ち上げに参加――’12年消費者安全調査委員会創設として結実

l  新聞以外の執筆

'96年以降で89本の論文投稿、大半は社外メディアに掲載

l  大学での講義

‘03年、日本大学新聞学科の講師として、メディア概論やメディア制作論などを担当

「好奇心と疑問」を持つことの重要性を説く

 

エピローグ

l  新聞記者人生を終えて

'03年、新聞協会の企画会議に出席、「大震災と報道展」の出展内容についての意見をまとめる目的だったが、自社に災害担当記者が特定されていないことに驚き、日本の震災対策を検証する企画報道を提案し、社内での震災に関する知識の拡散、積み上げに努める

最後の取材指揮役となったのは、'05年発覚の耐震強度偽装事件

最後の解説記事は、’07年退職9日前の温暖化対策にかかるコストは、温暖化ガスを出す量に応じて原因者が負担すべきとの観点から、「環境税で公平負担 化石燃料消費量に比例」との見出しの記事

 

 

 

 

 

 

 

 

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