画家たちのフランス革命  鈴木杜幾子  2022.12.22.

 2022.12.22.  画家たちのフランス革命 

~ 王党派ヴイジェ=ルブランと革命派ダヴィッド

 

著者 鈴木杜幾子(ときこ) 明治学院大学名誉教授。美術史家(西洋近代美術史、ジェンダー論)。1969年、早稲田大学文学部仏文科卒業。74年、東京大学人文科学研究科博士前期課程修了(西洋美術史学専攻)。74,75年に英・ウォーバーグ研究所へ留学し、80年に東京大学人文科学研究科博士後期課程満期退学。明治学院大学文学部教授を務めた。『ナポレオン伝説の形成 フランス19世紀美術のもう一つの顔』(ちくまライブラリー、芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『フランス革命の身体表象 ジェンダーからみた200年の遺産』(東京大学出版会、芸術選奨文部科学大臣賞)など多数の著作がある。2014年、紫綬褒章を受章

 

発行日           2020.1.27. 初版発行

発行所           KADOKAWA

 

 

はじめに

ジャック=ルイ・ダヴィッド(17481825)とルイーズ=エリザベト・ヴイジェ=ルブラン(17551842)はフランス生まれ、パリで画家として活動を始める。ダヴィッドはルイ16世の治世末期に将来有望な歴史画家としてデビューし、ヴイジェ=ルブランは16世の后マリ=アントワネットの肖像画家として華やかなキャリアをスタートさせた

1789年、フランス革命勃発と同時にダヴィッドは革命に身を投じ、やがて王位簒奪者ナポレオン1世の首席画家となり、王政復古に至ってブリュッセルに亡命し生涯を終えた

ヴイジェ=ルブランは王室との繋がりのために、革命期にはイタリア、オーストリア、ロシアで長い亡命生活を送り、帰国後のナポレオン支配下のフランスを嫌ってイギリスやスイスに滞在し、最終的にフランスに居住するようになって間もなく復古王政の時代となり、7月王政期に生涯を終える

それぞれの分野で1819世紀にかけてのヨーロッパ画壇の最高峰に君臨

革命とナポレオン時代を体現する芸術家対ヨーロッパの王侯貴族社会に愛でられた画家

2人を同じ本で扱うことによって、近代の幕開けの西洋美術史の重要な一面を描き出すことが出来るのではないか。加えてジェンダー論に基づくこの時代の解釈を提示できることも、このテーマの大きなメリット

本書の大前提となっているのは、歴史画と肖像画の関係――歴史画はルネサンス期に生まれた概念で、西洋近代絵画の最重要の領域であり、17世紀以降各国の美術アカデミーで最高位の主題領域とみなされ、歴史画家はアカデミーの中枢であり社会的地位も高かった

歴史画家に男女の裸体、特に男性の裸体を観察しそれを理想化する技能が要求されたということは、女性画家が歴史画を修得するための決定的な障碍であり、何重ものタブーを犯して男性裸体モデルを用いることができないハンディキャップを克服した女性画家もいたが、男女平等に可能になったのは歴史画が存在意義を失った20世紀以降のこと

ヴイジェ=ルブランは別の道を選ぶ。早世した父親が手掛けていた肖像画の分野で、少女時代から一家の経済の支え手であり、パリの美術界で知られる存在だった

本著では、各編の最初の章はヴイジェ=ルブランを、2番目の章は同時期のダヴィッドを論じ、各編ともヴイジェ=ルブランに多くの字数を割いているのは、ヴイジェ=ルブランについての日本語文献が少ないこともあるが、ダヴィッドについての新知見がないことの影響もあり、ダヴィッドを背景にヴイジェ=ルブランが主役を演ずる構成を取った

2010年代半ばにはフランスでもヴイジェ=ルブラン研究が進んだが、執筆材料の大部分が自身が晩年に書いた『回想記』に拠っている

現代に生きる我々は、建前にせよ人類は平等と考えており、その思想の出発点を作ったフランス革命を善とみなすことに慣れているだけに、彼女の頑なともいえる正統王党主義に違和感を感じるし、現代フェミニズム的観点からいえば、彼女が当時の女性芸術家に与えられていた条件をそのまま受け入れ、自分が女性であること、さらに言えば魅力的な女性であることを自明視している点にも疑問を抱かざるを得ない。ボーヴォワールも鼻持ちならないナルシシズムと痛烈に批判するが、逆に言えば彼女は自分の条件を活用し尽くして大きな成果を上げたのであり、ヨーロッパ各地にアトリエをもって広い世界を体験した画家は、当時男性でもいなかったし、700点に上るといわれる作品数においてもその後の肖像画家に勝るとも劣らず、彼女が成し遂げたのは、長く広い西洋美術史における女性芸術家の最大の仕事だった

 

I.     旧体制時代、画家への道

第1章        ヴィジェ=ルブランLouise Élisabeth Vigée Le Brun――王妃の画家

l  ルイーズ=エリザベト

ヴイジェ=ルブランは美貌の画家。ルイ15世から16世時代にかけてのパリで画家を志した時、良くも悪しくも彼女の容姿がそのキャリアを方向づけたことは否定できない

その容姿は自画像からしか想像できないし、彼女自身誰を描く時でも美化を施し、それこそが彼女の名声の理由だったことからも、自画像にも当然美化が施されているとは思われるが、彼女の『回想記』を読んで感じられる圧倒的な自己肯定感は、女性の外見が表立って取り沙汰される文化の中で称賛を浴びて育った者のみが持ち得るもののように思われてならない。とはいえ、この自己肯定感はあくまで画家の長く苦難に満ちたキャリアを可能にした触媒であり、描き続けることこそが彼女の存在理由で、制作に倦むことはなかった

ルイーズ=エリザベト・ヴイジェは1755年パリの生まれ。父は聖ルカ・アカデミーに属する画家、母は商人・労働者階級出身で、質素な家庭。修道院に預けられ初等教育を受けたが、退屈まぎれに絵を描いていたのが父親の目に留まり、手ほどきを受ける

1767年父が急逝し、母は金銀細工師と再婚。父親の友人たちの支援で絵を続けるが、先達の絵画を自分なりの方法で観察することによってのみ学ぶうち、徐々に顧客が集まってくるようになり、歳若くして肖像画家として自立。自分たちの生活費や弟の学資を稼ぐだけでなく、義父までがルイーズ=エリザベトの稼ぎを当てにするようになる

1775年、パリ市内に戻って住んだ家の家主がルブラン。前世紀にルイ14世の宮廷画家として絶大な権勢をふるったシャルル・ル・ブランの末裔で、肖像画や風俗画の画家だったが、同時にコレクターでもあり、ルイーズ=エリザベトにコレクションを開放

l  ヴイジェ=ルブラン

1776年、ルブランと結婚。義父の家を出たかったために結婚したようなものだったが、ルブランは彼女の制作料をほとんど自分のものにしたため、経済に関しては義父と変わらず、ヴイジェ=ルブランは夫に愛情を感じたことはなく、お金にも恬淡だったため、ひたすら仕事に集中。1780年の娘出産も制作を中断することはなかった

ヴイジェ=ルブランはすでに20歳にして王族の肖像画家であり、ルブランは妻のマネージャーの役割を果たす

1781年、夫妻でネーデルランドに旅をしてルーベンスの《シュザンヌ・フールマンの肖像》(通称《麦わら帽子》)を見てその構図を取り入れ、モデルを美化し、ある程度類型化して、《麦わら帽子の…….》を描く

後のオランダ王ウィレム1を含む、数名の貴族達の肖像画を描いた

1782年、ヴイジェ=ルブランは《麦わら帽子の自画像》をサロン・ド・ラ・コレスポンダンスに出品、王立絵画彫刻アカデミー会員への推挙を受け、翌年会員となる(後述)

この旅行以前に彼女は王妃マリ=アントワネットの肖像画を描いていて、旅行の際も「王妃の肖像画家」としての扱いを受ける

ヴイジェ=ルブランの仕事の拡大に合わせ、1778年豪華な展示室を増築。彼女のサロンにはパリの名士と貴族が集まってきた。彼女の絵画観に影響を与えた1人が22歳年上の風景画家で時に「廃墟の画家」と呼ばれるユベール・ロベールで、彼女が描いたロベールの肖像画は彼女自身の評価においても現代の目から見ても、彼女の最高傑作の1

ダヴィッドもヴイジェ=ルブランのサロンを訪れていたが、恐怖政治の時にロベールを投獄するなど芸術家たちにしたひどい仕打ちを忘れられず、ダヴィッドに会わなかった

革命直前のダヴィッドが王室に関係するすべてを憎み始めていたこと、多くの人々が共有していたそういう感情が時代を動かし始めていたことにヴイジェ=ルブランが気付いておらず、ダヴィッドの行為の歴史的文脈に全く関心を持たない彼女の、ロベールとの個人的な友情のみによる反応で、革命は彼女の記憶の中では忌まわしい出来事でしかない

ヴイジェ=ルブランの社交は、「営業」を目的としたものではなく、生涯を通じて「清遊」の名にふさわしい交際を精神の糧としていた

l  王妃の肖像画家

マリ=アントワネットとヴイジェ=ルブランは同い年

最初の王妃像は1778年の《正装のパニエをつけた王妃》――大きなサイズの全身像という王族の公式肖像画の約束事を守って破綻なく仕上げ、どの画家に描かせても自分に似た肖像画が得られないと不満だった王妃のお気に入りの作品となる

旧体制最末期、「オーストリア女」と呼ばれ、革命のきっかけとなった王室批判の責任を一身に負わされ、貪欲さや淫奔さを表すカリカチュアが多く出回る中、ヴイジェ=ルブランの描き出す王妃の純粋な美しさは、王妃が周囲に贈り物にするためにも多用された

危機に瀕した王妃の評判回復のために、1787年には大作《王妃と子供たち》を制作。他の王族や宮廷人たちの肖像画も次々に制作、ルイ16世の弟プロヴァンス伯爵(後のルイ18)やデュ・バリー夫人やポリニャック公爵夫人、王妃の女官長だったランバル夫人など

当時、芸術家がフリーで活動することは難しく、作品販売や展示の権利を得るためにはアカデミーに所属することが必要であり、ヴイジェ=ルブランも女性を受け入れた聖ルカに父親とともに入会していたが、王室が絵画の流通の制限を軽減する方向に向かうとともに、聖ルカは閉鎖され、代わって設立されたサロン・ド・ラ・コレスポンダンスに展示したりしていたが、既に高名な肖像画家だった彼女にとっては、パリ芸術界のトップ集団である王立絵画彫刻アカデミー入会は今後の活動に必須の条件だった

1770年、4名の女性会員を認めることとなり、「静物画家」の資格で1人認められ、1783年ヴイジェ=ルブランも最高位の「歴史画家」を目指して出品し入会が認められるが、会員資格までは不明。入会に際し、アカデミー院長の歴史画家は反対したが、その理由は「彼女が年を取って醜くなった時にその評価が定まるだろう」というもので、過去現在未来永劫に繰り返されてきた、また繰り返されるであろう権力ある男性の女性に対する無意味な圧力の一例である。さらには、アカデミーは会員の作品売買への関与を否定しており、夫が美術商だったことが障碍となったが、最終的には国王夫妻による推挙で無事会員となる

同時に「肖像画家兼歴史画家」の資格で入会したのがアデライード・ラビーユ=ギアールで、ヴイジェ=ルブランより6歳年長、旧体制下では王族の依頼を受けていたが、革命後はロベスピエールなどの肖像画を制作して生き延び、後に画家フランソワ・ヴァンサンと結婚

入会後の2人は対照的な処世術を示し、ヴイジェ=ルブランは王からの年金も受け取らず、貴族に連なる可能性をもたらす聖ミシェル勲章を拒否、制作に没頭

若くして成功したヴイジェ=ルブランには、早くから羨望と嫉妬がつきものだったが、革命に繋がる王室批判の激化に伴い、マリ=アントワネットの肖像画家への攻撃も深刻化。最大のものが財務総監カロンヌとの不倫話で、彼の肖像画を描いていたことからの捏造

世間の不穏な動きを感じつつも、178910月深更の逃避行までの間、民衆の暴行の対象になっていた自宅をあとに、知人宅を転々としながら、王室と貴族の肖像画家としても活動を続ける。革命で多くの知己が抹殺されるという過酷な体験をしたが、彼女の心を救ったのは、彼らが従容として死についたという事実ではなかったか。処刑された人々の潔さと彼女の逞しさには、自分の属する階級、生きる立場を根底から否定され、反論のしようもない状況で糾弾された人間の絶望から来る強さが感じられる

政治的混乱の中で8月に開催されたサロンは大成功を収め、ヴイジェ=ルブランも何点かを出品

9月になって漸く亡命の準備を始め、娘、その家庭教師と3人で亡命。同じ日ルイ16世一家は民衆の女たちによってヴェルサイユからパリに連れ戻されていた

 

第2章        ダヴィッド――歴史画家への道程

l  少年から青年へ

ジャック=ルイ・ダヴィッドは、1748年パリの生まれ。父は鉄商人から役人、母の実家は石工の親方。1757年父親が決闘で死去、母はダヴィッドをおじに預けて隠棲。おじはダヴィッドの素描の才能を認めて建築家にしようと教育したが本人は画家を希望、1766年遠縁にあたるルイ15世の宮廷画家プーシェのもとに連れていかれる。プーシェは高齢だったためヴィアンに弟子入り。ヴィアンはロココ調の華やかな色調を残しながらも、古代風の家具什器やギリシャ風の衣装を端正な様式で描いており、後に新古典主義と命名される新しい傾向の先駆者だった。ヴィアンの弟子として王立アカデミーの学生となる

歴史画家は、古典古代の主題をルネサンスや17世紀の絵画や古典演劇を参考にして構成するなど、かなりの知識を必要とする分野で、母方の実家の親しい友人で、王立建築アカデミーの重鎮だったミシェル=ジャン・スデーヌの庇護のもとにダヴィッドは知識階層の人々に引き合わされるが、父親譲りの激しい気性から決闘で負傷、発話が不自由に

1774年、4度目の挑戦でローマ賞のグラン・プリを獲得、アカデミーのローマにあった出先機関へ留学

l  歴史画家への道程

1775年、ローマ留学、イタリアの美を再発見して、自らの画風を見直す

1781年、帰国後初のサロンに出品、アカデミーの準会員として認められる

1783年、正式な会員となり、歴史画家への道を歩み始める。前年には王家の建築業者の娘と結婚、ルーヴル宮殿内に住居とアトリエを持つことが認められる

l  革命へ

1785年制作の《ホラティウス兄弟の誓い》によって名声を確固たるものとする

ダヴィッドの歴史画の道徳的内容と厳格な様式の完璧な融合が生む強いメッセージ性は若い画家たちには人気があったが、明快であるだけにその吸引力がダヴィッドの型を繰り返す作品の流行を生む可能性を保守派は恐れて警戒される

男女の対等な雰囲気を生み大杼の対比的な役割を画面上同等なウェイトを与えて描くのは、ローマ賞受賞作品から最晩年の神話画に至るまでのダヴィッドの歴史画や二重肖像画の特徴で、18世紀の知的上層階級において女性が大きな役割を果たしていたことがダヴィッドの人格形成に影響を与えたのか、あるいは社会の既成の約束事よりも現実を見る性質のダヴィッドが、ファッションや色恋沙汰が仕事の社交界女性よりも、実質的な活動をする女性を評価したことの表れであったのか、いずれにしてもダヴィッドのこうした女性感は彼の生涯の首尾一貫したもの

描写する画面の設定を家の中に持ってきたのは、ダヴィッドの相互補完的存在としての男女観――男女は社会や家庭で対等であるが異なる役割を分担する――を示すためには最適

この役割分担の思想は啓蒙主義に端を発し、19,20世紀の支配的ジェンダー観となるが、ダヴィッドの男女対象の造形は、多くの作品が200年以上にわたってルーヴル美術館に常設展示されていたこととも相俟って、視覚的な面でこうした近代的ジェンダー思想を規範化する影響力を及ぼしてきた

 

II.   フランス革命

第3章        ヴィジェ=ルブラン――憧憬の土地イタリア

l  ローマへの道

178910月、ヴイジェ=ルブラン一行3人は、パリを発ってローマを目指す

リヨンで知り合いの家に泊り、彼らの手配した馬車でアルプスを越える。初めて見る山岳の景色に崇高の念を抱き、イタリアでは行く先々で上質の顧客を得ることが出来た

パリの王立アカデミーでさえも外国人会員歓迎の傾向があったように、イタリアでは各地でアカデミー会員の地位のオファーも待っていた

最初の訪問地はトリノ。案内された王室のコレクションで、ヨーロッパ美術史上でも3本の指に入る肖像画家ヴァン・ダイクの作品をまとめて見られたのは、彼女にとって得難い学びの体験となった

次いで訪れたのがパルマ。ルイ16世の大使の訪問を受け、念願のコレッジョの作品を堪能。コレッジョの宗教画は人物画としても生き生きと優美で感動させられる

ボローニャでの目的は、16世紀にヨーロッパ絵画の主導的地位にあったボローニャ派の画家たちの作品を見ること。ローマ・カトリックに敵対していた革命派が支配するフランスへの警戒心が強かったが、教皇庁が無期限の滞在を認めてくれ、アカデミー会員にも迎えられ、ヴイジェ=ルブランは自分がヨーロッパの名士であることを知り始めていた

フィレンツェでもウフィッツィ美術館やサン・ロレンツォ教会のメディチ礼拝堂のミケランジェロなどに圧倒され、メディチ家が所蔵する内外の優れた芸術家の自画像を見て、自らも自画像の提供を依頼される。70を超えて書いた『回想記』での克明な描写は、ほとんど書物も読まず手紙以外には文章を書くこともなかった彼女が、並外れた視覚的、感覚的記憶力を持っていたことを示している

l  ローマ

11月末には彼女の言う「芸術のふるさと」、憧れのローマに到着

アカデミー院長の丁重な歓迎を受け、学生からは使用済みの絵筆を所望され(最大の尊敬の表現)、順調に滞在生活が始まる。ウフィッツィ美術館のための自画像を完成し、版画化して拡散。ローマ滞在中の外国人を中心に顧客が広がる

モデルを神話の人物として描く手法は見立て肖像画と呼ばれ、18世紀の流行で彼女も多用

教皇ピウス6世の肖像画も依頼されたが、教皇の前で女性はヴェールを被らなくてはならないと聞き、それでは制作が出来ないと断念

ローマを歩き回り、多くの宮殿に入って美術品の収集を見る

ローマには多くのフランス人亡命貴族(エミグレ)がいて、ヴイジェ=ルブランの限られた交際範囲になるが、その中の花フルーリ公爵夫人とは長く親交を結ぶ

ヴイジェ=ルブランの14歳年長で、スイス出身オーストリア新古典主義の女流画家アンゲリカ・カウフマンは、歴史画家として名だたる建築の装飾も手掛けたが、没後は急速に忘れ去られた。女性ゆえに弾性裸体素描を学べなかった彼女の歴史画は、神話のロマンチックな場面を優美な女性と男装の麗人が演じているような印象があり、逞しい英雄たちが高遠な主題を力強いボディランゲージで表現するダヴィッド等の新しい歴史画とは異質のものだった。ヴイジェ=ルブランはカウフマンを表敬訪問したが打ち解けることはなかった

2年間各地を旅行して回り、古代遺跡などを見学したり、土地の名士の肖像画を描いたり、自然の風景を描写しているが、大部分は失われたものの、のちにウィーンやサンクトペテルブルクで制作した肖像画の背景に役立っている

l  ナポリ

1792年にはナポリに向け旅立つ。ナポリ王妃はマリ=アントワネットの姉で、この地に落ち着いて仕事に励む。ロシア大使スカヴロンスキ伯爵夫人を描いたのが初仕事。エカチェリーナ2世の愛人ポチョムキンの姪

ヴェスヴィオス火山にもラバに乗って登り、危険な情景を震えながら堪能

ヴイジェ=ルブランの肖像画は、モデルが女性の場合は大多数が画家を見ているのに対し、男性の場合は目をそらしているものが少なくない。これは長時間のポーズの間、男性モデルの視線に画家自身が晒されるのを避けるための工夫だったとする研究がある。もしそうだとすれば、女性画家はあくまで「まなざす」主体であり、男性に「まなざされる」客体ではないというヴイジェ=ルブランの矜持がそこに感じられる

その間、パリでは'91年国王一家の亡命未遂が発覚して立憲君主制が不可能となり、王権停止、国王処刑への道が開かれ、翌年にはフランスがオーストリアに宣戦布告

‘92年ヴイジェ=ルブランが亡命貴族のリストに入り、夫ルブランと離婚、国籍剥奪

同年、ローマを離れる

 

第4章        ダヴィッド――革命の画家

l  革命史とダヴィッド

ルイ14世以来の対外戦争と王室の豪奢な生活を支える出費が国庫の財政を圧迫、1770年代半ば以降には様々な財政改革の試みがあったが何れも挫折。革命前年には、第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)、第3身分(平民)を併せた全国3部会が開催され、さらに貴族の一部と平民が国民議会を宣言し、立憲君主制樹立へ向かう(ジュ・ド・ポームの誓い)

革命の発端となったバスティーユ監獄の襲撃は、王室による各地軍隊のパリ終結に対抗するためバスティーユに貯蔵されていた武器弾薬を確保しようとして民衆が蜂起したもの

国民議会の主導で人権宣言が定められ、絶対王制は終焉。カトリック教会の資産を国有化

飢饉で物価が高騰、パリの民衆の女たちが集結してヴェルサイユに行進、王一家はパリに連れ戻されパリ市民の監視下で暮らすことになる

1791年憲法が施行され、最初の選挙に基づき立法議会が成立

革命戦争の中で革命は急進化し、完全普通選挙で成立した国民公会は、’92年王権の廃止と第1共和政を宣言、翌年には王夫妻の処刑が決まる。ジャコバン派がジロンド党を追放し、ロベスピエールによる恐怖政治が1年吹き荒れる

'94年テルミドール9日のクーデターでロベスピエールが失脚し、革命は沈静化、ブルジョワジー支配が始まる

ダヴィッドは、自由主義的な進歩的知識人との交わりを深める中で次第に革命に巻き込まれ、'92年国民公会の議員になったのを皮切りに、革命政府の役職をいくつも歴任する

ロベスピエールの友人で、テルミドール反動の後しばらく幽閉された

革命勃発直前、ダヴィッドは王立絵画彫刻アカデミーの改革を主張、人権宣言の思想を美術の世界に適用しようとしてアカデミーの廃止要求へと発展、’93年廃止に至る

‘95年には代わってフランス学士院が創設され、ダヴィッドもその創立メンバーだった

l  革命の記録者

ダヴィッドはナポレオンによって「首席画家」に任命されるが、革命期にも実質「革命の首席画家」だった――最初が《ジュ・ド・ポームの誓い》(‘91)で、憲法制定国民議会が銅版画にして後世にこの歴史的情景の視覚的記録を残そうとして提案したのをもとに制作されたが、資金難からペンによる素描にとどまり、版画化はされていない

次々に革命の殉教者たちの肖像を描き、革命派への関与を深めていく

l  革命の意匠家

キリスト教を否定して無神論を国是としたフランスがミサに代わって人心統一のために発明した儀式である「革命の祭典」の計画に関しても重要な役割を果たす――1790年の革命1周年の「連盟祭」には国王も出席し、人々は国王と法への忠誠を誓い国王は憲法の尊重を誓う。1793,4年の祭典では総監督を務めている

l  画家としての底流

以前のダヴィッドの活動の中心は歴史画、それも古典古代から主題を得、道徳的メッセージを伴った歴史画だが、本来旧体制の道徳的弛緩への体制自身の反省から出てきたこのような新しい歴史画は、革命勃発とともに明確な王政批判とみなされ、その完成者だったダヴィッドは自分の作品に引かれるようにして革命の芸術家となっていった

とはいえ、フランス革命の理念が古代ローマの共和政を参照元としていたのと同じように、ダヴィッドの絵画観の根底にはギリシャ・ローマ美術があった

肖像画も同様に描き続けるが、こちらは生活のためで革命とは無縁

 

III. 革命の沈静化からボナパルトの時代へ

第5章        ヴィジェ=ルブラン――亡命生活後半

l  ヴェネツィアと北イタリア

ローマを出てヴェネツィアに向かい、パリ時代の旧知の友人の庇護を受ける

その後は帰国するつもりで出立したが、帰途立ち寄ったトリノで市民権剥奪を知らされ、とりあえずミラノに戻って生活の基盤を築く。たまたま音楽界で隣り合わせになったポーランドの伯爵夫人に誘われるままにウィーンに旅立つ

l  ウィーン

'92年秋から2年半をウィーンで過ごす

ハプスブルク家の宮廷には名士が集まり、ヴイジェ=ルブランは多くの人と知り合い肖像画を制作。彼女がモデルを選ぶ時の基準「美しいか、気立てがよいか、王党派か」はここでも十分通じた。もちろん「身分があり、裕福」というのは暗黙の基準

音楽の都ウィーンは、モーツァルトが没してまだ1年、エステルハージ家ではハイドンのコンサートも行われ、ベートーヴェンも同じ頃ウィーンに移住して楽曲を発表していた

l  ロシア

フランスの状況が混迷を深める中、ロシア大使の勧めもあって'95年ロシア行きを決意

プラハでは無数の教会の美術品を見学、ヨーロッパ美術の中心地の1つドレスデンではツヴィンガー宮殿、ゲメールデガレリー(絵画館)を見学、ベルリンではシャルロッテンブルク宮殿の広大な庭園に目を奪われたあと、サンクトペテルブルクへ

早々にエカチェリーナ2世に謁見。友人にも肖像画の依頼主にも恵まれ順調にスタート

中でも旧家の1つ、ストロガノフ伯爵家は、パリ滞在時から親交があり、膨大な美術コレクションを開放、ヴイジェ=ルブランのロシア滞在を陰に陽に支える

エカチェリーナが'96年崩御したため、滞在中の最大の目的だった肖像画は実現せず

旧体制下のフランス文化に憧れフランスを知性の祖国とみなしていたロシアには、フランスから多くの貴族が亡命してヴイジェ=ルブランも彼らとの交わりに顔を出したが、ロシアは次第にフランス人を軽薄で新思想に染まりやすく、それも革命が起きた遠因の1つと考えるようになって警戒し始めた

『回想記』の中でも、都会や自然の中で活気のある生活が生き生きと描き出される

6年の滞在期間中に107点制作

1799年初頭、夫ルブランの要請に応じた知人255名がヴイジェ=ルブランを亡命者リストから外すための嘆願書に署名したが、実現して帰国の可能性が開けたのは翌年のこと

娘がロシアの青年と結婚するが、すぐに絶望した挙句天然痘に罹り、回復したが、母娘関係は結婚を機に離れ離れとなり、亡命者リストから外れてもすぐに帰国はしなかった

モスクワに数カ月滞在した後、サンクトペテルブルクに戻って、新皇帝となったアレクサンドル1世夫妻の肖像画を委嘱され、完成後にパリに向かって旅立つ

 

第6章        ダヴィッド――フェードアウトする革命

l  革命の鎮静化

ダヴィッドにも1点クロッキーの素描に過ぎないが、マリ=アントワネットの肖像画がある――処刑の日に荷馬車で処刑場に引かれていく王妃を小さな紙切れに描いたもので、モデルへの敬意もなく、理想化も見られないもので、それだけにヴイジェ=ルブランの肖像画とは対照的で、2人の画家の作品はその巨大な距離を余すところなく表している

テルミドールの反動で投獄されたダヴィッドだったが、革命に加担したのは、本来王立絵アカデミーの権威が芸術家たちの才能を圧殺しようとすることに批判的だったためで、彼にとって最終的に重要だったのは画業の達成であって、政治的立場の貫徹ではなかった

ヴイジェ=ルブランにとっても同じことで、パリ脱出を余儀なくされた時もそれを女性芸術家には難しかったローマ行きの好機と捉え、居残って王室と運命を共にしようとは考えなかった。2人に共通するのは、生きて制作を続けるという意志であり、老いて自然な死を迎えるまで描き続けることを最優先にするという共通点があった

1年余りの投獄の後、国民公会の解散に伴う恩赦で釈放されるが、投獄中も制作を続け、古代主題作品を構想、解放後次々に大作を発表――《サビニの女たちの仲裁》(1799)はロムルスが建国したローマに連れ去られたサビニの女たちが、奪い返しに来たサビニ軍とローマ軍との間に仲裁に入る情景を描いたもので、入場料をとってるーヴルに展示された

l  ナポレオン・ボナパルトの台頭

ダヴィッドがナポレオンに出会ったのは1797年イタリア遠征軍総司令官の頃で、凱旋した将軍に肖像画制作を申し出て聞き入れられたが、1度しかポーズをしなかったため未完

1802年ダヴィッドは、ナポレオンの終身執政就任を「古代ローマ共和政の継承者」とする大義名分を共有、かつてシャルル・ル・ブランがルイ14世の首席宮廷画家として、絵画のみならず王室関係の造営からアカデミーの運営に至る美術行政の全てを掌握したのと同じ強大な権力を求めたが、執政政府は「政府の画家」という限定的な地位を提案、彼は辞退

1798年エジプト遠征の従軍画家も断り、代わってエジプト遠征を記録したのは考古学者で版画家のドゥノン。彼はこれを機にヨーロッパにおけるエジプト学の基礎を築き、19世紀美術のオリエンタリスム流行のきっかけを作り、されにはこの功績によって革命期にルーヴル宮殿に開設されていた中央美術館館長に任命、美術館はすぐにナポレオン美術館と改称、現代のルーヴル美術館に繋がる。帝政期を通じて遠征軍が収奪すべき外国の美術品の選定の中心的役割を果たし、国家による芸術家たちへの発注の責任者でもあった

ナポレオンの時代には、美術行政はドゥノン、戦争画はダヴィッドの弟子のグロ、そのほかの事績を称える絵画はダヴィッドという棲み分けがなされていた

ダヴィッドは、様々な国家プロジェクトには積極的に協力、美術行政担当の内務大臣だったナポレオンの弟リュシアンのブレーンの1人でもあった

ナポレオンに美術の素養はなく、ダヴィッドとの間に美意識のずれはあったが、《サン・ベルナール峠を越えるボナパルト》(1801)は、支配者の栄光を生き生きとした現実感をもって表すものとして喜ばれ、同構図で数点描かれている――構図は理想化され、歴史上アルプス越えを果たした3人の英雄(ボナパルトとハンニバル、シャルルマーニュ)の名前が刻まれボナパルトが古代と中世の後継者であることを示し、越えようとしている岩山はアルプス山脈であると同時に伝統的に君主像の足元に描かれる「美徳の山」という象徴的な意味を持つ。この作品は肖像画とはいえ、手の込んだ歴史画風の意味内容を持つ君主称揚画

ナポレオンとダヴィッドは、急速に権力の座に登ってきた若き支配者と、旧体制と革命を生き抜いてきた大画家というそれぞれの立場を保ちつつ、異なる美術観をすり合わせながら、のちの第一帝政期には皇帝とその首席画家の関係を結ぶことになる

 

IV.  ナポレオンの時代

第7章        ヴィジェ=ルブラン――様変わりした故国

l  執政政府時代のパリ

1801年、パリへの帰路ベルリンに立ち寄り、プロイセン王妃の肖像画を制作、アカデミー会員として迎えられたが、帰心を翻すものとはならず、12年の不在を経てパリに帰還

かつての自宅に温かく迎えられ、次々に旧知の人々が顔を出すが、その中にはボナパルト夫人のジョセフィーヌもいたが、肌が合わなかったのかその後の交際には発展していない

社交界も復活していて、ヴイジェ=ルブランを歓迎したが、洗練を欠いた魅力のないものに映り、やがて憂鬱症に陥り、ロンドンへと赴く

新時代の画家としてヴイジェ=ルブランが最も評価し、友人になったのは、ダヴィッドの弟子のジェラールで、ナポレオンやその家族の肖像画で地歩を築き、19世紀初頭のフランス最大の肖像画家になった人で、細部まで仕上げる作風も似ていた

1803年、画材を積んだ馬車でイギリスに向かう

l  イギリス

近代美術史において、イギリスほど肖像画が愛好された国はない。ルネサンス以降の絵画史においてイギリスは後進国とされるが、歴史画においては劣後したものの、肖像画がイギリス絵画の特徴的分野として発展、19世紀中庸にはロンドンにナショナル・ポートレート・ギャラリーが誕生――ドイツのホルバインやフランドルのヴァン・ダイクがイギリス王室の宮廷画家として活躍し、基礎を築く。その後を担ったのがゲインズバラほかの画家

画家たちが描くのは首から上だけで、あとは助手や専業のアトリエが仕上げた

ヴイジェ=ルブランは、ロイヤル・アカデミーを訪問、アトリエには次第に著名人が訪れ、プリンス・オブ・ウェールズもいたが、2年余りいたロンドンの街は好きになれなかった

l  パリ、そしてスイスへ

1805年、パリに戻り、娘と再会を果たすが、ヴイジェ=ルブランが容認できない人々と交際していたため同居を認めず、最後まで本当に和解することはなかった

ナポレオン一族の肖像画ギャラリーのためヴイジェ=ルブランはドゥノンから皇帝の妹カロリーヌ像を依頼されたが、カロリーヌは芸術家への敬意も払わず、髪形も勝手に変えたりして苛立たせ、報酬の支払いも遅れて、ナポレオン一族に対する嫌悪の情が育つ

1807,8年、スイスへ旅行。避暑を兼ねて、バーゼルでは銀行家のもてなしを受け、その美術コレクションを堪能。各地を回って山岳風景に熱狂、古典主義的な美から、畏怖の念を起させるロマン主義的な崇高美への感性の変化を共有。何枚もの風景画を描く

ジュネーヴでもアカデミー会員に迎えられる

 

第8章        ダヴィッド――皇帝の首席画家

l  《皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠式》

1804年戴冠式後に皇帝はダヴィッドを「皇帝の首席画家」に任命――君主の権威を描き出す絵画の制作が最大の任務で、戴冠関連の行事を歴史や神話になぞらえるのではなく直接描いた。完成したのが《聖別式》(=《戴冠式》)と《鷲の軍旗の授与》の2

歴史画家たちが同時代の事件を描くことを忌避する傾向は続き、革命を描いたほとんどの作品は版画家小型の油彩画で、記録や報道のためのものだし、革命の様々な理念を古代風の擬人像で表した寓意画が多く、革命を記念する性格の大画面は制作されていない

ナポレオンが美術に期待したのは「プロパガンダ効果」であり、絵画に権威と現実感を求めたもので、それに応え得るのはダヴィッド以外にいなかった

ナポレオン体制は、元老院によって「共和国の政治を1人の皇帝に委ねる」というもので、帝政を共和政の延長と捉え、新皇帝の称号も「フランス帝国皇帝」ではなく「フランス人たちの皇帝」だった。ただ、フランス帝政の直接の原型は帝政ローマではなく、シャルルマーニュの西ローマ帝国で、シャルルマーニュがローマ教皇によって帝冠と皇帝の称号を与えられたように、ナポレオンも教皇ピウス7世を戴冠式に出席させてその聖別を受けることが新帝国内の諸派均衡の実現には不可欠であり、聖別を受けた上でナポレオンが自ら戴冠

ナポレオン自身による戴冠の構想もあって素描が残されているが、中世から「戴冠」図の伝統的表現では常に立った人物が跪いた人物に冠を与えるという構図であることを尊重

ジョセフィーヌを嫌って同席を拒否した母皇太后が奥の観覧席に座っていたり、大聖堂の空間が縮小され相対的に人物が大きく描かれ人々の容貌の特徴や表情まで描き出すことに成功、「廷臣たち」の集団肖像画といえる

美術の素養のないナポレオンに、「まるで歩いて入れるようだ」と現実感を感じさせたのは、この絵が伝統的な歴史画において望ましいとされた、画面の中だけで空間が完結する閉ざされた構図を大胆に排除している点で、歴史画の優れた構図は幾何学的遠近法に基づいて構成された箱型空間の中に主要人物をピラミッド型か求心的に配置する静的な性格のものとされていたが、ダヴィッドの作品の構図は、鑑賞者の視線を人物の配置に従って緩やかに導く動的な質を持っている。621x979㎝のサイズは人物をほぼ等身大で捉えている

逆に「玄人」受けはしない――「構図が調和を欠いている」として批判

1808年、アメリカの実業家グループがこの絵のレプリカを発注、ダヴィッドたちが完成させたのはナポレオン失墜後だったが、ほぼ原寸大のそれはロンドン、ニューヨークなどで展示され、現在はヴェルサイユ宮国立美術館の所蔵になっている

l  未完の2作品と《鷲の軍旗の授与》

ダヴィッドの計画案では、戴冠式の後に行われる教皇が退席した後に行われる世俗の儀式である即位式を描こうとしたもの、さらにナポレオンの市庁舎到着の図も素描が残されているが、両者とも実現はしていない

《鷲の軍旗の授与》は1810年完成、戴冠式の3日後で、皇帝の呼びかけに対し連隊長たちが応える儀式。4つの作品の連作によって社会の様々な階級を描き、全ての階級の人々が新国家に対して忠誠と親愛の情を抱いていることを示し、新国家を称揚しようとしたが、皇帝の熱意が薄れたようだ

l  首席画家による皇帝の肖像ほか

ダヴィッドが首席画家になってからのナポレオン1世の肖像画は《書斎のナポレオン》(1812)1点のみ、イギリスの貴族の注文で描いたもの――現実感溢れる称揚画を実現

首席画家は、ナポレオンだけでなく、帝政貴族の肖像も残している

 

V.    王政復古

第9章        ヴィジェ=ルブラン――終幕

l  別れ――親しい人々

夫のルブランは商才と修復技術と知識を備えた人物で、経済的には妻の財力に依存する結果となったが、当時の美術界でかなりな存在感を持っていた。1810年最後の競売に先立って売り立て品の展示が行われ、絵画だけでも261点あったというが、翌年イギリスの景気が急落すると、ルブランは在庫を抱えて大損したまま1813年死去

旧体制の特権階級にあっては、夫婦間の貞節は厳守すべき徳ではなかった。20年来離婚していながら、ルブランにとって妻は時には資金源であり、王侯貴族の肖像画家であることによって商人である彼の社会的地位を引き上げてくれる存在であり、ヴイジェ=ルブランもまた、美術界に精通して抜け目のない夫に、転変極まりないこの時代を生き抜くための便宜を図ってもらったことがった

1人娘のジュリは、何一つ不自由なく育ちながら生活の核となる何かが欠如、夫にも去られ、181939歳梅毒で没する

肉親に加え周囲の知人たちも次々に死去、辛い体験を癒すように国内の各地を旅する

ボルドーやベルギー国境辺りのアルデンヌ地方などを訪れる

l  ルーヴシエンヌ

1810年、ルーヴシエンヌに別荘を購入、村人はこの館を「泉荘」と呼び、ヴイジェ=ルブランの終の棲家となる

1814年、イギリス軍とプロイセン軍が侵攻、略奪に遭うが、第一次王政復古で回復

ルイ18世の優雅な社交性がヴイジェ=ルブランを温かく迎え入れ、高貴な人々に尊重される芸術家として「身分ある女性=グランド・ダーム」の仲間入りをしているというプライドが、ヴイジェ=ルブランの苦労の多い生涯を支えたことは事実

l  最晩年

弟の娘と夫の弟の娘の2人の姪が晩年のヴイジェ=ルブランを世話する

1825年に始まった『回想記』の執筆は10年に及ぶ

1842年パリの邸で静養中に没

 

第10章     ダヴィッド――亡命の画家

l  ナポレオンの失墜

ナポレオンは、ダヴィッドの連作を飾るギャラリーを「ダヴィッドのギャラリー」と名付けようとした。17世紀のフランス王妃マリ=ド・メディシスがルーベンスに描かせた《マリ=ド・メディシスの生涯》連作が当時飾られていたパリのリュクサンブール宮殿の一室が「ルーベンスのギャラリー」と呼ばれていたことに因んでのことだったが、ダヴィッドは謙遜して謝絶、「《聖別式》のギャラリー」という名前を提案したという

この時期、フランス絵画の潮目も変化の様相を呈する――1810年革命を記念して過去10年の科学・文学・芸術各分野での優れた業績を顕彰するため「10年賞」が設けられ、国家的栄誉を表す絵では《戴冠式》が1位になったが、歴史画では《サビニ》を差し置いて、弟子の《大洪水》が1位となり、結局授与されないままに終わる。古典古代の文学を知悉しそれに拠り所を求めたダヴィッドの歴史画は過去のものとなり、明示的な意味を欠き漠然とした感情と古代風の雰囲気だけを喚起する歴史画こそが来るべき大衆文化時代に求められる歴史画の1つの側面であったことの現れ

ダヴィッド自身、自分が絵画の新しい傾向に取り残されていることをはっきりと理解した上で、一層熱を込めて、残る生涯を古典古代主題の絵に捧げることになる

1812年のロシア遠征の失敗を機に帝国は急速に傾き、’14年には対仏連合軍がパリ入城を果たし、元老院はルイ18世即位を決議

ダヴィッドは画家としての高名さゆえに追及を免れ、制作を続けるとともに弟子たちの教育に静かな生活を送るが、翌年のナポレオンの100日天下で再び首席画家に任命される

第二王政復古で、侵入が予想されたプロイセン軍から守るために《戴冠式》と《鷲の軍旗》の連作を裁断して地方に送り、自らもベルギーへの亡命を許される

l  ブリュッセル

革命派の仲間たちもいたし、画家としても自由な活動が出来、恵まれた亡命生活を送る

アトリエの管理を任されたグロを中心に帰国の働きかけがなされたが、徹底して王政を嫌ったダヴィッドが帰還することはなかった

注意を引くのは、最晩年のダヴィッドが女性の弟子たちと連絡を取り合っていたことで、1人は自分の作品に意見を表明、その批判を真摯に受け止めているし、もう1人には自作の模写(手許に保存するため?)を任せている。何れも当時としては例外的なこと。妻とのやり取りを見ても、対等な知性の持ち主として妻を扱うダヴィッドの態度が感じられる

ブリュッセル時代にはかなりの肖像画を残している。ウェリントン公爵の依頼には、「祖国の敵は描かない」として断ったが、ナポレオン関係者の肖像画は何点も描いている

歴史画も数多くの依頼があったようで、自ら古代古典の主題を選んで描いているが、筆力の弱まりや男性裸体像が優美に描かれている点など作風の変化は明らか

1824年、パリのサロンは新時代の絵画の幕開けを告げるもの――ドラクロワが《キオス島の虐殺》を、コンスタブルが《干し草車》を出品。戦場は勝者を称える舞台ではなくなり、古代の神話的風景は身近な田園風景に取って代わられている。端正な筆運びは消滅し、粗い筆致が人々の苦悩や陽光に照らされた自然を描き出している。数十年後、印象派や世紀転換期美術が伝統的絵画を消滅させることになる趨勢の発端をここに見ることが出来る

ダヴィッドを美術史上最も有名な画家の1人にしたのは、《ジュ・ド・ポームの誓い》素描や《戴冠式》だった。亡命後も1823年前者の版画家が実現、ダヴィッドも描かれた50名の名前を特定し版画の付録として供した。後者のレプリカも1808年の依頼が再燃し、’22年に未完のキャンヴァスをパリから取り寄せ完成させ、その年ロンドンで公開されたが時代錯誤の大仰な主題もあって評判は散々

1825年没。王政フランスはダヴィッドを迎え入れず、心臓とデスマスクだけがパリの妻のもとに帰る

 

 

 

画家たちのフランス革命 鈴木杜幾子著

画業に生きた対極のふたり

読書

2020411  日本経済新聞社

まずパラパラ頁をめくると、沢山の絵が引かれている。ざっと眺めるだけで、あれがある、これもみたことがあると嬉しくなる。ことさら18世紀末から19世紀にかけたフランス絵画に、またはフランス史に興味がある向きでなくても、そうだろう。

KADOKAWA2200円) すずき・ときこ 明治学院大名誉教授。美術史家。『ナポレオン伝説の形成』『フランス革命の身体表象』など著書多数。 書籍の価格は税抜きで表記しています

 

 

 

 

なにせフランス王妃マリー・アントワネットの肖像なのだ。と思えば、『球戯場の誓い』が、はたまた『皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式』があるのだ。世界史の教科書か何かで、誰もが1度や2度は必ず目にする有名な絵が、これでもかと引かれているのだ。してみると、次に驚く。これらの絵が、たった2人の画家によって描かれたという事実に、である。

芸術家としてまさに時代を席巻した2人、それがヴイジェ=ルブランとダヴィッド――本書の主題となっている2人である。

これが互いに、何か作為あっての話かと思うくらい違う。ヴイジェ=ルブランは女性で、王党派で、肖像画の名手で、なによりマリー・アントワネットの画家で通る。他方のダヴィッドは男性で、革命派で、歴史画の大家で、フランス革命の芸術担当、さらに皇帝ナポレオンの首席画家なのだ。

それは激動の時代だった。フランス革命が勃発、栄華を究めたブルボン王朝が倒される。その革命も急進化、ジャコバン派の独裁政治になるが、これが廃されると、今度は日和見の腐敗政治に替わる。

台頭したのが軍人ナポレオン・ボナパルトで、政権を握り、第一執政からフランス皇帝になり、欧州に覇を唱える英雄となる。が、それも没落の日を迎えると、立つのがブルボン復古王政なのである。この4半世紀ほどの歳月、ヴイジェ=ルブランは亡命生活を余儀なくされる。が、わきまえた女性画家として、諸外国の宮廷を渡り歩き、先々で肖像画の注文を受け続けた。ようやく帰国できたのが、王政復古なった晩年である。

ダヴィッドはといえば、革命の画家、ナポレオンの画家として、フランス画壇に君臨を続ける。皇帝の没落で、晩年だけはベルギーに亡命させられた。二人とも時代に翻弄されたようにみえるが、それでも己の画業の追究だけは止めなかった。最後は芸術家という存在の、ある種の凄まじさを感じた。

《評》作家 佐藤 賢一

 

 

 

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画家たちのフランス革命 王党派ヴィジェ=ルブランと革命派ダヴィッド

著者 鈴木 杜幾子

革命派と王党派、女と男、肖像画と歴史画──。対極的な2大画家が描く革命

マリ=アントワネットの肖像画家として貴族社会に愛されたゆえ、革命からナポレオン時代の初めまで亡命者として生きたヴィジェ=ルブラン。革命に身を投じたのち皇帝の首席画家となるも、ナポレオン失脚後は故国を追われたダヴィッド。王党派と革命派、女性と男性、そして肖像画と歴史画。対極をなすフランス近代の二大芸術家は、それぞれの運命を生き抜き、数多くの傑作を残した。200点超の図版とともに近代美術史の劇的な幕開けを描く。

 

 

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内容説明

マリ=アントワネットの肖像画家として貴族社会に愛されたゆえ、革命からナポレオン時代の初めまで亡命者として生きたヴィジェ=ルブラン。革命に身を投じたのち皇帝の首席画家となるも、ナポレオン失墜後は故国を追われたダヴィッド。王党派と革命派、女性と男性、そして肖像画と歴史画。対極をなすフランス近代の二大芸術家は、それぞれの運命を生き抜き、数多くの傑作を残した。200点超の図版とともに近代美術史の劇的な幕開けを描く。

 

 

Wikipedia

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(フランス語: Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun1755416 - 1842330)は、フランス画家18世紀で最も有名な女性画家であった。

生涯[編集]

画家ルイ・ヴィジェの娘としてパリで生まれ、親から最初の絵画教育を受けたが ガブリエル=フランソワ・ドワイアンジャン=バティスト・グルーズクロード・ジョセフ・ヴェルネ他、当時の大家たちからの助言の方が彼女のためになった。彼女は10代前半ごろには、すでに職業として肖像画を描いていた。アトリエが無許可営業のため差し押さえられてから、組合のサロンに彼女の作品を快く展示してくれた聖ルカ組合に申し込み、17741025日に会員になった。

1776年に、画家で画商であるジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚した。彼女は当時の貴族の多くを肖像画に描き、画家としての経歴を開花させた。マリー・アントワネットの肖像画を描くためヴェルサイユ宮殿に招かれた。王妃は大変喜び、向こう数年間ヴィジェ=ルブランは王妃や子供達、王族や家族の肖像画を数多く依頼された。王妃とヴィジェ=ルブランは画家と王妃を超えた友人関係を築いていたといわれる。

1781年にヴィジェ=ルブランは夫と共にフランドル(現ベルギー)とオランダに旅に出た。フランドルの大家の作品がルブランを刺激し、新しい技法を試みさせた。その場所で、ルブランは後のオランダ王ウィレム1を含む、数名の貴族達の肖像画を描いた。

モスリンのシュミーズ・ドレスを着た王妃マリー・アントワネット、1783年。

1783331日、ヴィジェ=ルブランはフランスの王立絵画彫刻アカデミーの会員に、歴史的寓意画家として迎えられた。女性画家アデライド・ラビーユ=ギアールも同じ日に入会が認められた。ヴィジェ=ルブランの入会は、夫が画商であることを理由にアカデミーを統括する男性達に反対されたが、結局、マリー・アントワネットが自分の画家の利益になるよう、夫のルイ16に相当な圧力をかけたため、彼らの主張は国王の命令により覆された。同日に2名以上の女性の入会が認められたことで、女性と男性メンバーではなく、女性同士が比較されがちになった。

王族が逮捕された後、フランス革命の間ヴィジェ=ルブランはフランスから逃れ、数年間をイタリアオーストリアロシアで暮らし、画家として働いた。そこでは貴族の顧客との付き合った経験がまだ役立った。ローマでは作品が大絶賛され、ローマの聖ルカ・アカデミーの会員に選ばれた。ロシアでは貴族から歓迎され、女帝エカチェリーナ2の皇族を多数描いた。ロシア滞在中にヴィジェ=ルブランはサンクトペテルブルク美術アカデミーの会員になった。

革命政府の転覆後の1802年、ヴィジェ=ルブランはフランスへ戻った。ヨーロッパ上流階級からの引く手あまたの中、イギリスを訪れ、バイロンを含む数名のイギリス貴族の肖像画を描いた。ナポレオン・ボナパルトの妹の肖像画も手がけたが、ナポレオンとの折り合いが悪くなり、1807年に出国、スイスに赴いて、ジュネーヴ芸術促進協会(Société pour l'Avancement des Beaux-Arts de Genève、現在のジュネーブ芸術協会)[1]の名誉会員になった。フランスが王政復古するとルイ18に手厚く迎えられ、フランスを安住の地とした。

ヴィジェ=ルブランは1835年と1837年に回想録を出版した。それはロイヤル・アカデミーが支配した時代の終わりにおける芸術家の育成について、興味深い視点を提供した。

1790年にフィレンツェで描かれた自画像。

その後もヴィジェ=ルブランは、旺盛な創作活動を続けた。50代でイル=ド=フランスイヴリーヌ県ルーヴシエンヌに家を購入し、1814年の戦争中にその家がプロイセン軍に押収されるまでそこに住んだ。その後彼女は、1842330日に没するまでパリサン・ラザール通りフランス語版)界隈に留まった。ヴィジェ=ルブランの遺骸はルーヴシエンヌへ引取られ、住み慣れた家の近くの墓地に埋葬された。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの墓碑銘は"Ici, enfin, je repose…"(ここで、ついに、私は休みます)であった。

余録[編集]

ヴィジェ=ルブランは18世紀の最も重要な女性芸術家だと考えられている。彼女は660の肖像画と200の風景画を残した。優雅な自画像もよく知られる。個人コレクションに加え、彼女の作品はロンドンのナショナルギャラリーのような欧米の主要な美術館で見ることができる。

画家としては名声を博したが、夫は賭博好きであり、一人娘も長じてから素行が悪かったなど、家庭的には恵まれなかった。

 

 

ジャック=ルイ・ダヴィッド(フランス語: Jacques-Louis David1748830 - 18251229)は、フランス新古典主義画家18世紀後半から19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した、新古典主義を代表する画家である。

生涯[編集]

1748年、フランスのパリに商人の子として生まれる。1757年の9歳のときに父親が決闘で殺害され、その後裕福な叔父によって育てられる。ダヴィッドが絵に興味を示しはじめたとき、彼の叔父はロココ絵画の大家で、ダヴィッドの母の従兄弟でもあるフランソワ・ブーシェのもとへ送る。しかし当時50歳代だったブーシェは弟子をとっておらず、知人のジョゼフ=マリー・ヴィアン1716 - 1809)という画家を紹介し、ダヴィッドは師事する。

長い修業期間を経て、ダヴィッドは1774アンティオコスとストラトニケ》で、当時の若手画家の登竜門であったローマ賞を得た。これはヴィアンに入門してから約10年後、26歳頃のことで、当時としては30歳頃が普通であり、少し早いデビューである。しかしダヴィッドは三年連続で落選したことを不服に思い、1772年にはハンガーストライキをおこなっている。この抗議は教師がもう一度絵を描くようにと励ますまで二日半続いた。ローマ賞受賞者は、国費でイタリア留学ができる制度になっており、ダヴィッドも受賞の翌1775よりイタリアへ留学した。同年、師のヴィアンはローマのフランス・アカデミーの院長としてローマへ赴任したため、師弟揃ってのローマ行きとなった。

ダヴィッドは1780までの約5年間、イタリアでプッサンカラヴァッジョ、そしてカラッチなどの17世紀の巨匠の作品の研究に没頭する。こうしたイタリアでの研究を機に彼の作風は、18世紀のフランス画壇を風靡したロココ色の強いものから、新古典主義的な硬質の画風へと変わっていく。ルイ16注文の《ホラティウス兄弟の誓い》(1784)は王室から注文を受けて制作された最初の作品だが、サロンに出品された際に同時代の画家が「ダヴィッドこそ今年のサロンの真の勝利者である」と述べたほど大きな評判を集め[1]、ダヴィッドの代表作の一つとなった。

1789フランス革命が勃発するが、このころのダヴィッドは、ジャコバン党員として政治にも関与していた。《球戯場の誓い》を描いている他バスティーユ牢獄襲撃事件にも加わっており、1792には国民議会議員にもなっている。1793には革命家マラーの死を描いた《マラーの死》を制作している。1794にはロベスピエールに協力し、最高存在の祭典の演出を担当、一時期国民公会議長もつとめている。1793年までに、芸術委員会のメンバーとして、ロベスピエールを通じて多くの権力を獲得したダヴィッドは事実上フランスの芸術の独裁者となり、また王立アカデミーを即座に廃止したことで「筆のロベスピエール」とも呼ばれた。その後ロベスピエールの失脚に伴い、ダヴィッドの立場も危うくなり、一時投獄された。この時、自画像(未完成)と唯一の風景画を残している。

1795年の恩赦の後、ダヴィッドは革命と政治にそそいでいたエネルギーを若い画家へ教えることに切り替え、何百人もの若手画家の指導に専念した。

1797年にナポレオン・ボナパルトをスケッチしているが肖像画を完成させるには至らなかった。1799年の軍事クーデターのあと第一執政に就任したナポレオンは、ダヴィッドにフランスの勝利を記念する絵を複数枚描くように依頼する。また1800にはレカミエ夫人による依頼で肖像画を依頼され、《レカミエ夫人像》を制作したが未知の理由で未完成のままに終わった(ダヴィッドの仕事が遅すぎると思ったレカミエが、1802年に代わりに同様の肖像画を描くようにと彼の生徒の一人フランソワ・ジェラールに依頼したため仕上げる機会を失ったともいわれている)。その後、ナポレオンの庇護を受けて、1804にはナポレオンの首席画家に任命されている。縦6.1メートル、横9.3メートルの大作《ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》は1806年から1807に描かれたものである。1808年「帝国における騎士ダヴィッド」(Chevalier David et de l'Empire)の爵位を与えられた。1815年のナポレオンの失脚後、ダヴィッドはまたも失脚し、1816ブリュッセルへ亡命し、9年後の1825年に同地で時代に翻弄された77年の生涯を終えた。

ルイ16の処刑に賛成票を投じたことが災いし、彼の遺体はフランスへの帰国を許されなかったが、心臓が現在ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されている。

 

 

 

 

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