毛利氏の御家騒動  光成準治  2022.12.14.

 2022.12.14. 毛利氏の御家騒動 折れた3本の矢

 

著者 光成準治 1963年大阪府生まれ。九大大学院比較社会文化学府博士課程修了。同年「日本中・近世移行期大名領国における社会構造の研究」で博士(比較社会文化)学位取得。九大大学院比較社会文化研究院特別研究者。専攻は日本中・近世移行期史

 

発行日           2022.10.25. 初版第1

発行所           平凡社

 

はじめに――見直される毛利一族の結束

毛利家「3本の矢」の逸話(1557)は、本家の家父長を中心に結束することの重要性を物語る教訓として為政者に利用され、毛利氏も元就の訓戒を守り、一族が結束した結果、対織田戦争や関ヶ原合戦などの危機を乗り越え、最終的に明治維新を実現する原動力となったというイメージが今なお強い

元就の危機感は主として、隆元と元春・隆景との対立に基づくものだったが、戦国期に親子・兄弟・一族の争いが頻発していたことも念頭にあったと思われ、数々の事例が江戸期において大名として存続できなかったことに鑑みると元就の慧眼だった

一族間の争いの起源は、武家社会当初の原則だった分割相続制にある――初期における未墾地の存在、その後における戦乱による所領再配分の機会を前提として成り立っており、所領拡大が困難になってきた鎌倉後期になると、惣領・庶家間の対立が頻発。幕府は惣領保護政策を取ったが、幕府崩壊、南北朝動乱で再び一族の争いを巻き起こす

毛利家の起こりは、大江広元の4男季光(すえみつ)が相模国毛利庄(厚木)を本拠とし、兄弟とは別の家を立てたことに始まる。1247年宝治合戦で三浦氏に加担して討死したが、4男の経光が連座を免れ、毛利家の所領の一部である越後国佐橋庄(柏崎)、安芸国吉田庄(安芸高田)を継承した

元就の訓戒は、嫡孫輝元にとっても重要な行動指針となる

1579年頃まで毛利氏領国が急拡大していたことも結束を保てた一要因と考えられ、豊臣期において、毛利氏は秀吉との講和後天下統一戦争、朝鮮侵略戦争へと動員されていったが、何れも恩賞を見込んだものだったが、朝鮮半島からの撤退、関ヶ原合戦における敗北に伴う減封によって毛利氏に所領拡大の可能性はなくなり、一族の結束が出来たかは疑問

豊臣期においては、大名権力のもとに領国内の軍事力を結集することが求められ、惣無事令という強制的な紛争停止に加え、秀吉という絶対権力者による恣意的な調整機能も働いていたが、戦闘による屈服を経ることなく豊臣政権に従属した毛利氏のような大名の場合、秀吉による介入は控えめとならざるを得なかった

家康が政権を掌握すると、敵対した大名の場合、当主の権威が低下したものの、徳川政権の絶対的な地位が確立されるまでは大名の「家」内部への介入は控え目

1615年、西国有力大名に対して一国一城令発布

1635年、武家諸法度寛永令では、能力主義から伝統的家筋を重視する秩序への転換、下克上の論理を凍結させて地域公儀の安定化を図ると共に、重臣層の地位の安定化を図り、幕藩体制が確立されていくに従って、中世的大名は近世的大名へと変質していった

本書では、鎌倉初期に創設され、戦国大名を経て近世においても大名として存続した毛利氏を取り上げ、関ヶ原合戦の直前期から幕藩体制の確立期までの毛利一族の動向、とりわけ当主輝元とその後継者秀就(ひでなり)のほか、一時期輝元の養子となり、江戸期には支藩を創出した秀元、秀就の弟で支藩を創出した就隆(なりたか)、吉川(きっかわ)元春の後継者広家(ひろいえ)とその子広正(ひろまさ)に着目して、3本の矢で名高い結束力の強い毛利一族の実像の一端に迫ってみたい。併せて、毛利一族の動向に中央政権がどのような影響を与えたのかを考察

 

第1章        秀元への分知と関ヶ原合戦

l  輝元、秀元を養子とする

毛利輝元の正室は、元就の娘五龍の3女「南の御方」(従姉妹)

毛利秀元は1579年生まれ、元就の4男元清(側室の子)の次男(輝元の甥)、幼名宮松。輝元の養子となり、人質として秀吉のもとに送られる

l  秀就の誕生と秀元処遇問題

秀元は、1593年輝元に代わって朝鮮に在陣するなど、跡取りとしての役割を果たす

1595年、輝元に実子松寿丸(後の秀就)誕生。母は毛利家家臣の娘で、大内氏旧臣杉家の妻だったが、輝元が夫を殺害して略奪。叔父の隆景が大いに怒ったという

松寿丸誕生で、秀元は忠誠を尽くすとの起請文を入れたが、跡継ぎ決定は先延ばし

1594年、秀元は、秀吉の弟秀長の娘を娶り、参議にも任官、朝廷・秀吉双方から毛利家の跡継ぎとして処遇されている

秀吉は、松寿丸の跡継ぎを認めた上で、秀元の処遇について出雲と岩見(銀山を除く)(毛利所領の24)を秀元に分配、隆景の旧領を広家(吉川元春の息子)に与えると裁定。秀吉と大名の対面の席でも秀元を5大老と同格に扱う。銀山は、本銀山を輝元に、今銀山は秀元に分配し、秀元を厚遇して輝元の力を削ぐ。輝元の叔父元康への不満の書状が残る

l  秀元処遇問題と豊臣奉行衆

1598年、裁定直後に秀吉死没、裁定は事実上白紙化して、毛利氏内部の様々な思惑が表面化――秀元への分地は増田長盛、三成の指導を得て出雲、隠岐、伯耆、安芸廿日市に変更

三成派が毛利を抱き込もうとした結果だが、翌年反徳川の前田が死没すると、三成を憎んでいた大大名たちが三成の排斥を企てた七将襲撃事件勃発、大坂城が家康派に掌握されるなど反家康派が不利な状況になったため、輝元は上杉景勝と共に調整に動き、三成を隠居させることで家康と合意。家康は毛利氏に対し融和姿勢を見せ、起請文を取り交わすが、その内容からは輝元が家康の優位性を認めたことがわかる

l  秀元の処遇問題に介入する徳川家康

藤堂高虎は、秀吉死没前後から家康に接近して、豊臣系大名の中でも徳川派の筆頭格で、家康の意向を受けて秀元説得に動く

秀元は、家康への働きかけを否定しているが、家康が豊臣政権の事実上の主宰者として、大名家中の問題を解決に導く権限を持っていたところから、秀元の不満を利用する

l  秀元処遇の最終決着

最終的に秀元への給地は長門13万石など17.7万石に決定――給地を有していた給人のうち主要な国人は秀元の家臣とされたが、、輝元に直結する性格も残されたし、輝元から付け家老的な存在が派遣されている

秀元は、一旦は事実上の廃嫡と代替に、秀吉から独立大名に準じた地位を与えられることになっていたが、輝元によって否定され、家康の力を借りて一定の成果は得たが、領内経営の権限は制限され、両者の関係の軋みは、燻ったまま残った

l  秀就の位置付け

松寿丸の傅(もり)役となったのが国司元蔵(くにしもとくら)、児玉元次、張元至(もとよし)

国司氏は毛利家代々の家臣で、次期当主の傅役を輩出

児玉氏は、国司氏とともに毛利家の5奉行、元次は松寿丸の母の兄

張氏は帰化人、朝鮮侵略期以降に輝元出頭人で、5奉行に代わる奉公人集団を構成

毛利家中最大級の国人益田家を、松寿丸の縁戚にして支持基盤の強化を図る

l  反徳川闘争決起と広家

1600年、家康が会津征伐に出発。輝元に代わって安国寺恵瓊と吉川広家が出陣する予定だったが、大坂で恵瓊、三成、大谷吉継が密談、反徳川闘争決起に合意し、輝元も上坂

安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての臨済宗で、武将および外交僧。道号(字)は瑶甫、法諱(諱)は恵瓊、号は一任斎または正慶。一般に広く知られる安国寺恵瓊の名は、住持した寺の名に由来する別名であり、禅僧としての名乗りは瑶甫 恵瓊(ようほ えけい)という。毛利氏に仕える外交僧として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となり、豊臣政権においては秀吉からも知行を貰って大名に取り立てられたとするのが通説

l  反徳川闘争決起時の秀元

会津征伐の際、秀元は大坂留守居番だが、毛利家代々の家臣宍戸や増田が補佐役で就く

秀元は大坂城の家康の留守居役を追い出して西の丸に入るが、家康を迎え撃つために瀬田の橋の普請を担っている

l  関ヶ原合戦直前の広家と秀元

通説では、関ヶ原合戦時に前線に出撃した毛利勢の総大将は秀元とされているが、実際は7つの部隊に分けられ、部隊間の統制は取られていなかったようだ

l  毛利氏と東軍との接触

広家が西に軍を返してきた家康の許へ使者を送り、輝元には反徳川の意思はなく、恵瓊の独断だと伝え、家康は輝元との起請文のやり取りを尊重して、広家の使者を信じ、輝元へも書状を送り、講和を模索

l  不戦の密約

広家は、旧知の黒田長政を通じて家康と和平を交渉、徳川家臣の井伊直政や本多忠勝に加え黒田長政や福島正則らが保障する領国安堵の起請文を取る

輝元もその動きを知って、家康西上の動きに対し、自ら出陣しようとはしなかった

l  関ヶ原合戦当日の毛利勢

秀元と広家らが率いる毛利勢は、西軍の籠る伊勢の安濃津城を攻略した後、長束正家や長宗我部盛親らの西軍諸大名とともに、伊賀の南宮山に着陣したが、不戦の密約に従って、毛利勢の先陣に位置して他の部隊の参戦を阻止

広家の不戦密約は輝元の意向に沿ったものだが、輝元は南宮山の布陣は解かないまま、どちら側にでも動けるよう東西の軍勢の様子を窺う

密約の翌日、小早川秀秋の西軍離反により危機に陥った大谷吉継を救援しようと大垣城の西軍が移動した結果、突発的に戦闘が勃発、関ヶ原合戦となったもので、輝元の指示が届かないまま統括する指揮官のいなかった毛利勢は傍観するしかなった

 

第2章        防長減封

l  広家は毛利氏を救ったのか

西軍敗北を見届けた毛利勢は大坂に駐屯し、輝元は大坂城西の丸に籠っていたが、家康は輝元が秀頼を奉じて大坂城に立て籠もり抵抗を続けることを恐れて、所領安堵を伝えて輝元を毛利屋敷に退去させ、退去後に前言を翻し周防・長門2国への減封を言い渡す

同時に家康は、秀就の地位を保証することで輝元にも配慮している(秀就は、家康の子で秀吉の養子となった結城秀康の娘と結婚)

国人連合としての性格が強かった毛利氏の家中構造にあって、輝元の権威が低下した結果、有力譜代家臣層の分裂を恐れた家康が、毛利本宗家の嫡流である輝元・秀就の地位を保証する方が好都合だった。広家は吉川家の当主に過ぎず、毛利の当主に据えても、家中を統率する力はないとみられていた

l  初代藩主は秀就か

減封を受け輝元は剃髪して宗瑞と称し、家督を秀就に譲る

藩主の地位を公的に明示する文書として、徳川将軍家からの領地宛行(あてがい)状類(朱印状など)があるが、1613年の松平長門守宛の秀忠領知判物(はんもつ)までの間何も発給されていないため、秀就がいつ藩主に就いたかは不明

家臣に対する宛行状類を見ると、1613年までは全て宗瑞の名で出状、秀就の宛行も宗瑞との連署になっているところから、実質的な藩主は宗瑞だった

l  防長減封に伴う広家・秀元の処遇

広家は周防国の一部岩国領3万石を受給、関ヶ原合戦以前は11.5万石だったので、宗瑞の防長30万石、関ヶ原合戦前119万石とほぼ同じ扱いだが、吉川家は毛利氏家中の一門として扱われ、独立大名に準じた待遇は剥奪

広家は、黒田如水・長政父子に対し忠誠を誓う起請文を提出

秀元の処遇については、家康・秀忠が、輝元に与えた2国のうち長門を秀元領とする意向を伝えたが、秀元が謝絶したという話は史実としては伝来せず、減封後の給地は3.6万石(関ヶ原合戦前は17.7万石)となったが、扱いは豊臣期における独立大名に準じた地位を保持したと思われ、貿易の拠点だった下関を領知としている点も、広家より厚遇された

l  広家・秀元の本宗家への対抗意識

広家・秀元に加えて、元就の子の中で唯一存命の7男宗休(元政)3人が出した起請文の文言から推測すると、広家・秀元ともに現状への不満と宗家への対抗意識が見え隠れ

l  広家の出奔計画

黒田長政が広家を毛利家中から出奔させて、独立大名として家康直属家臣となるよう画策した形跡があるが、実現せず、吉川家は幕末まで毛利氏家中に留まる――ひたすら毛利氏を守ろうとする忠臣広家像が虚像に過ぎないことの明白な証拠

l  出奔した国人(1)―平賀家と三吉家

防長減封によって、家臣の給地は1/5に削減されるとの方針が出たため、自律性の高かった国人層は自らの家を保つために毛利家からの出奔を決意する者も現れた

1万石を超える国人の中で出奔したのは平賀家と三吉家

平賀家の場合、4000石に減知され、新領主の福島正則に対して貢租返還分の猶予を願い出るが、その後紀州浅野氏に寄宿した後、結局萩本藩に帰参、300石に減知

三吉家の場合、姫路城主池田照政に召し抱えられ、合戦前を上回る石高を得たが、御家騒動に巻き込まれ牢浪の身に

l  出奔した国人(2)―有地(ありち)家と吉見家

有地家の場合、昵懇だった黒田長政を頼って出奔

吉見家の場合、毛利家と重縁関係で結ばれていたが、当主の不行跡により蟄居、解除後も先祖代々の領地萩からの退去を余儀なくされるなど冷遇されたため、1604年には出奔

本来毛利家と同格だった国人層は、関ヶ原合戦直後は出奔を思い止まったものの、宗瑞や秀就に対する忠誠心は薄く、待遇に不満を抱くとすぐに出奔する危険性を秘めていた

l  出奔した国人(3)―備中国の国人領主たち

これ以外にも、備中国(岡山西部)を本拠とする国人領主のほとんどが出奔。細川家は長府藩に編入されたが、それ以外では、高松城水攻めの際毛利家を守るために切腹した清水宗治の子以外は、軒並み出奔。出戻りのケースもあるが、能力次第では多くの石高を獲得

 

第3章        江戸期初頭における毛利氏の城

l  一国一城令以前の支城

防長への減封によって居城(広島城)を失った宗瑞は、1603年帰国に際し領内に認められた7カ所の城郭から山口の高嶺を当座の居城に選び、国境の支城には秀元や広家を配す

4カ所は山城で、家康からは国許の諸城の警備を堅固にするよう指示があったが、近世城郭として整備された形跡は見られない

l  三尾城の普請

三尾城(周南市辺り)を任されたのは毛利宗休。東は広家の岩国領に隣接、その東は福島正則の安芸国で、宗瑞が東の支城と見做して重要視したのは、広家に全幅の信頼を置いていなかった証左であり、宗休に整備を急がせているが、支城主の財政は苦しかった

l  石見国境の支城

石見との国境の須佐の支城(笠松山城)を任されたのは益田家で、旧領益田の近在で家臣団を随伴しやすかったことが背景にあるが、宗瑞の居城萩の普請に人・金を取られ、支城の普請は本格化しないまま、山麓の居館整備に留まったと推定

l  仮の居城高嶺

宗瑞は故郷帰還に際し、居城がなかったので、とりあえず山口に戻って高嶺の普請を計画したあと、まずは支城の整備に取り掛かり、萩に居城が決まった後大内期から続く商業の中枢の町山口は直轄地として残され、曲輪ごとに数人の家臣が与る体制となった

l  萩城普請と広家

萩の指月山に居城を定めた背景には、岩国の広家と長府の秀元が東西の国境の城で持ち堪える形で3つの城が金輪になるよう配慮されたとされる

萩城の縄張りを広家が行ったとの説もあるが、自らの居城岩国城の普請と混同したのでは?

宗瑞と距離のあった広家だが、秀元と違って独立大名に準じた地位を剥奪されたとはいえ、宗瑞にとって広家は格別の配慮を必要とする存在であり、岩国城の普請が認められたのは、吉川家が独立大名に準じた性格を完全には失っていなかったことがわかる

l  萩城普請における秀元の役割

宗瑞からの指示は、領内の大工や材木を供出させるもので、秀元の従兄弟たちが普請に関わった記録はあるが、秀元自身が加わった形跡はない

l  岩国築城

広家は、減封によって居城を失い、代わりに岩国に封じられ、萩城普請を免除されて、岩国の築城に専念するが、広家の与力衆も岩国普請から免れようと画策した動きもあり、輝元の権威が低下した結果、毛利氏家中の権力構造が不安定化していたことを窺わせる

l  秀元の櫛崎築城

秀元の居城決定は1602年の帰国時、多くの給人に対して給地宛行状を発給しており、翌年初からの櫛崎城築城も決定したが、江戸や駿府の城普請に駆り出されたこともあって、容易に完成しなかった

l  一国一城令

1615年、秀忠より一国一城令が諸大名へ伝達――目的は、諸大名の軍事力削減、家康の軍事的優位の確立だが、同時に大名権力の家中に対する優位性確立の効果もあった

秀就宛にも居城以外は破却の命令が来る――独立大名に準じた待遇を受けていた秀元や、独立大名に準じた性格を完全には失っていなかった広家の抵抗が予想されたが、公儀からの命令は宗瑞にとっても好都合だった

 

第4章        有力国人への圧迫

l  吉見広行の出奔

1604年出奔(2章参照)、宗瑞は乱行を理由に誅伐しようとしていたが家中騒動で改易される恐れもあったため家中に留めおいたが、いざ出奔となって宗瑞は吉見家家臣は補佐の任を果たさなかったとして追放処分に

吉見や益田に対しては、家康から朱印状が出されたとの話もあり、毛利氏家中の有力国人に対し接触を試み、毛利氏家中から離脱させようと考えていたことが窺われる

広行の出奔先についても、宗瑞の幕府への工作によって独立大名化は叶わず、九州大名への仕官についても、宗瑞からの「奉公構(召し抱え禁止)」があって実現せず

l  その後の吉見家

家臣の一部は本宗家家臣とされ、吉見家も吉川広家の次男が広行の妹を娶って吉見家を継ぎ安堵される――宗瑞が吉川家の弱体化を狙って次男を取り込んだ形で、次男は後に名字を毛利に改め、大野毛利家の始祖となる

l  広長(広行から改名)の末路

元就の菩提寺洞春寺が零落した広長を見かねて仲を取り持ち、帰参を図るが叶わないまま、広長は秀元の陳情で帰参――1616年宗瑞の娘と広家の息子広正とが結婚、秀元重用に不満を持っていた広家を宥めるためだったが、逆に秀元もこの縁組に不満を持ったため、宗瑞の次男就隆と秀元の娘を結婚させる。秀元は、吉川家が吉見家を取り込んで一門の勢力を強化しようとしているとして、吉川家家中攪乱を狙って広長帰還を画策したのでは

帰還した広長は、家中の不安定化をもたらすとして翌年宗瑞によって誅伐され、吉見家は事実上断絶

l  防長減封後の有力国人

豊臣期における毛利氏家中の有力国人を石高順に並べると、吉見、平賀、益田、三沢、熊谷、天野、宍戸、細川の順だが、減封後は吉見は冷遇、平賀は離脱、三沢と細川は長府藩、残る4家が萩本藩に残るが、天野と熊谷、宍戸と益田が姻戚関係にあり、熊谷と益田は吉川家と姻戚関係、熊谷と秀元も義姉妹の関係

熊谷家は安芸国高松城を本拠とする国人で、戦国前期には毛利家とは仇敵だったが、その後和解し娘を吉川元春に嫁がせる。以降毛利家の中で、特に軍事面での貢献が大きい

減封の際も、収納済みだった旧領国内の貢租について、新たに入封した大名へ返還する作業に国人代表格で関与し、他の国人領主層への先納分徴発を主導した

宗瑞は、国許の政務について、熊谷と益田をバランスとりながら起用していたが、益田が秀就の母の姻戚だったこともあり、処遇の差がついたとして熊谷に不満が鬱積していた

l  熊谷党の誅伐

萩城の普請の石の盗難事件をめぐって熊谷が益田を訴え、宍戸が仲介に入るが拒否したため、宗瑞によって誅伐され、同時に天野も家中を乱すとして誅伐

毛利氏が一国人領主から戦国大名へと成長するにあたって、その基盤となった有力国人領主連合の中核的存在だった両家を誅伐することで、毛利氏家中の構造は大きく変る――宗瑞は権威回復に成功、両家でも関与がなかったものは処罰されず、益田家にしても、秀就への忠誠心が増し、領主としての自律性を高める方向には向かわず、毛利氏の官僚的な性格へと変質

l  熊谷党誅伐事件の後日談

追放された熊谷・天野両家の者も後には帰参を許され、名字を変えて、藩主に絶対的な忠誠を誓う家臣に生まれ変わる

一方で、同調した譜代・新参層には、藩主への不忠は絶対許さないという強権を発動

l  熊谷家の再興

熊谷処罰の際、人質として差し出された孫は、秀元の甥だったこともあり助命され、大坂落城(1615)の際手柄を立て、毛利氏家中に復帰、断絶前とほぼ同程度の宛行を得る

宗瑞は、熊谷党誅伐を通じて、自律性の高い国人層の抑え込みには成功したが、秀元の力を削ぐことにはつながらなかった

l  宍戸家と内藤家

宍戸家の祖は、鎌倉時代初頭の御家人八田知家の4男家政で、常陸国宍戸庄(笠間市)を領していた。南北朝以降は安芸にも所領を拡大、毛利とも対立したため、元就は娘五龍と宍戸隆家との縁組によって同盟関係を結んだのが、毛利氏飛躍のきっかけであり、宍戸隆家の厚遇にも繋がる。元就死没後は、宍戸家と熊谷家が毛利氏家中の中枢的存在

隆家と五龍の娘は、3女が輝元の妻、次女は吉川元春の長男(広家の長兄)の妻、孫娘は輝元の養女として羽柴秀俊と結婚、秀俊が隆景の名跡を継ぐ(小早川秀秋)

内藤家は、大内氏家臣団の中で筆頭格で、長門国守護代を世襲。宗瑞の母は内藤盛興の娘。惣領家は大内氏滅亡と運命をともにしたが、盛興の嫡男隆春が元就に帰服し家臣となり、宍戸家から養子元盛を迎える。元盛は蔚山城の戦功で秀吉の朱印状を得た修理亮と同一人物だが、その後不行跡から謹慎となり、子の元珍/孫兵衛に家督を譲る

l  佐野道可事件

1614年、秀頼の呼びかけに、毛利氏に関連して「佐野道可」を称した元盛が大坂へ入城、落城前後に逃れるが、発見されて切腹

宗瑞や秀元の意向により行われたとされているが、広家が秀頼への内通を疑われていたことを否定するために秀元が首謀者だとする偽の密書を発出していたとの見方もある

l  内藤家・宍戸家一族への連座

道可の切腹後、幕府から元珍らの出頭命令が下ったが、宗瑞の助命嘆願もあって出頭取り消しになったにもかかわらず、宗瑞は切腹を命じ、家督相続も認めず、幕府の毛利氏に対する疑念を晴らした

宗瑞はこの事件を、一門筆頭格の宍戸家への圧迫にも利用。宍戸家は弟の不祥事の責任を取って家督相続に追い込まれる

 

第5章        毛利一族の愛憎

l  秀就の江戸下向

1601年、秀就江戸下向。松寿丸付きの国司と児玉は随行しているが、張は家中の不満のはけ口として失脚・処刑。輝元出頭人に代わって、秀就の母の児玉兄弟で周囲を固めた

l  江戸下向直後の秀就と宗瑞

宗瑞は、幼い秀就を心配しつつも、取り巻きには厳しい躾を求める

甘やかして育てられ、周囲が諫言できないほどの状況になるが、宗瑞も溺愛しており、過保護によって藩主としての適格性を欠く武将に育つ

l  宗瑞の次男就隆への分知

1602年、秀就の弟就隆誕生、幼名お百。母は同じ二の丸

1611年、秀就に代わって就隆が人質として江戸へ

1617年現在、就隆に対し東方地区3万石を分知するが、将軍からは支藩創設を認められていない内証分知。同年には秀就に対し秀忠から防長2国全体を宛行う旨の領知判物が発給されているのを見ると、就隆のみならず秀元も正式な独立大名とは認められていない

l  就隆の替地問題

1620年帰国した就隆が自らの領知の収納が少ないことに不満を抱き替地を要求、参勤を拒否してまでの姿勢に宗瑞も困り果てて受け入れざるを得ず、萩近くの村も含めて就隆の領知とする

l  秀元と広家・益田との和解

秀就の後見役として江戸に下向した秀元に比べると、広家は萩本藩における政治参画もなく、防長減封後の処遇の差が両者の不仲を増幅したが、熊谷党誅伐事件の直後は、宗瑞の求めに応じて広家と秀元は連署して、秀就・宗瑞への忠誠を誓っている

同時に宗瑞は、秀元と益田との和解も命じている。関ヶ原合戦の際伊勢国において喧嘩騒動を引き起こして以来不仲だったが、熊谷事件以降萩本藩の政治中枢の一員として重用されてはいたが、元々益田は妻が吉川元春の娘で、元春の仲介により毛利氏に服属した経緯から吉川グループの一員ともいえる存在で、秀元との和解によって毛利氏家中における徒党的な集団の解消を図ったのではないか

両者とも書面で誓いはしたが、宗瑞の権威が秀元や広家に対して大きな効力を持っていたとは考えられず、意識の面では彼らの自立性は高かった

l  秀元と毛利一門――4期に分けて考察

1(160009)、秀元は、両川(りょうせん、吉川元春、小早川隆景)の後継者に擬せられ、若い一門(従兄弟たち)の後見人的役割も担っていて、吉川家一族以外の元就の子たちの一門が秀元グループに属していたともいえる

l  秀元の江戸下向

2(160916)、秀元の江戸下向に際し、宗瑞は前年家康の庶子結城秀康との祝言を挙げた秀就の素行矯正を頼む

秀元が、宗瑞・秀就父子を蔑ろにしているという噂が江戸ではたっていたが、宗瑞は噂を否定した上で本多正信に対し、指導と適切なとりなしをひたすら頼むと要請している

本宗家に対抗意識を持っていた秀元と、宗瑞・秀就父子との関係は、秀元の江戸下向によってさらなる悪化の兆しを見せていた

l  竹姫の縁組

宗瑞は、秀元が江戸に下向して幕閣との関係を深めているのを警戒、秀就を支える人脈強化のため吉川家との一層の靭帯強固を狙い、広家の嫡男広正と秀就の妹竹姫の縁組を行う

l  竹姫縁組をめぐる広家と秀元

竹姫を受け入れるに際し広家は新たな知行を要求されたが拒絶

縁組によって警戒を強める秀元の懐柔のために宗瑞は、次男就隆と秀元の娘との縁組を進めるが、かえって広家の秀元への対抗心に火を付ける――広家は広正に宛てた書状で、秀元の悪行を並べたてている

l  吉川家人質提出問題

3(161623)では、1616年幕府の毛利氏窓口が秀元になると、秀忠への代替わりにあたり、広家から幕府への人質免除が見直され提出を命じられたとあるが、もともと免除されていたこともあり広家の抵抗にも遭って実現せず、秀就の江戸下向に随行して参勤交代の一環として広正が江戸に向かうという話も立ち消え、1623年になって広正の子が人質として江戸に下向

l  広正の家督継承

1614年には広正が吉川家の家督を実質的に継承していたのも、人質としての江戸下向が見送られた一因

 

第6章        毛利一族の結束

l  秀元と幕閣との関係

3期には、秀元が幕閣に留まらず対外折衝全般を差配していたことが残されている

l  秀元への政務委任

4(162331)では、藩財政の逼迫にあたり、宗瑞・秀就が秀元に防長2国の統括・財政全般の再建について一任

l  秀元は政務を掌握したのか

家臣に対して、宗瑞・秀就・秀元の連署で指図しているのは、秀元の権威付けに必要

政務の完全掌握ではなく、主従関係に基づく人事権などは当然秀就にあり、1623年には宗瑞が家督を秀就に譲っている

l  秀就・秀元二頭体制か

一任されたとはいえ、1624年には秀元も秀就とともに江戸へ参府

各種の書状からも、秀元への政務委任によって、藩政の立て直しをしつつ、秀就を頂点とする一元的な支配構造への秀元を組み込むことに成功したことが窺える

l  秀元への政務委任と吉川家

広家は秀元への政務委任を受け入れ、広正にも秀元とよく話し合うよう指示している

l  宗瑞はなぜ秀元に政務を委任したのか

余命短い宗瑞が秀就の将来を心配して、秀元に後事を託した

秀就の素行が改善しないのは、宗瑞が何度も秀就を諫める書状を送っていることからもはっきりしており、将軍家に対する失態が改易に直結することを何よりも恐れていた

宗瑞を支えていた重臣が相次いで死没・補佐不能になっていたこともあり、吉川家一族を除き全ての家が秀元グループに属している状況もあって、秀元への委任が最適の状況

l  宗瑞・広家の死没

1625年宗瑞死没。同年広家も死没。自我の強い2人が死んで、漸く元就の願った各自がある程度自我を抑えても毛利という名字が衰えないよう結束する状況が実現したといえる

 

終章 宗瑞死没後の毛利一族

宗瑞の事実上の遺言によって構築された当主秀就、政務担当の秀元、支藩主の就隆、一族の重鎮吉川広正という4者による協力体制は、宗瑞の死から6年経過した1631年、秀元が政務を秀就に返上する事件で崩壊

秀元の政務に対し。萩本藩中、特に有力層の不満が鬱積し、秀就と秀元の関係が事実上断絶に近い状態となり、秀元が御家大事を優先に辞意を伝えると、秀就は慰留の手紙を書きつつも益田元祥に対し秀元の解任に対しての説得役を依頼している。その上秀元の後任に、かつて秀元と対立していた吉川家の広正を起用したのも秀元の怒りを増幅

1634年、就隆が秀就に対し、それまでの人質としての江戸滞在から将軍家奉公としての江戸滞在に位置付けを変更してもらえるよう、幕府へ願い出てほしいと要望。就隆への聞知を幕府公認としてもらうもので、家光の承認を得ると、それに味を占めた就隆と、秀就に不満を抱く秀元が結託して、家光上洛時に実施された領知朱印状改めの際、秀就から独立して就隆宛の朱印状を獲得しようと画策。獲得に失敗した秀元・就隆は、秀就から課された公儀(幕府)普請役を拒否、一旦は幕閣が動いて仲裁が成立したが、1650年秀元死没で秀元嫡子に対する幕府からの家督継承許可を直接渡すか秀就経由で渡すかでまた揉める

結局、嫡子に対して将軍からの朱印状が発給されることはなく、秀就の思惑通りの結果となったが、秀元死没後も萩本藩と長府藩との対立が再生産されていたわけで、通説化している元就の遺訓を守って結束する毛利一族は虚像に過ぎなかった

毛利一族の相克は秀就と秀元・就隆との対立に留まらなかった――就隆と秀元の関係も、就隆が秀元の娘を離縁したため険悪化

当主一族の激しい対立を克服し、毛利氏が曲がりなりにも防長2国の大名として存続できたのは、徳川氏のお陰―― 一国一城令は本宗家の藩内における軍事上の絶対的地位を保障するものであり、国の安定を重視する幕府にとって、毛利家当主による防長2国の一体的支配を保障することが最適。初期徳川政権が「藩輔(はんぽ、大名が将軍権力と一体化・従属して徳川政権を輔翼する側面)」を培養するために、「藩国(大名の個別領主的側面)」的要素が拡大するような後援策を取ったことによって、公的には毛利氏当主による防長2国の一体的支配が確立したといえる

生前の宗瑞はしばしば「日頼様(元就)」の訓戒を持ち出して、一門に対し本宗家への忠誠を呼びかけ、1615年には一門総勢の連署で、「日頼様のご訓戒を守って、それぞれがふた心なく話し合って、毛利のお家に対して、異心を抱きません」と誓わせもしたが、世代が後退してくると、もはや遺訓に大きな効果はなく、代わって幕府が一門の鎹(かすがい)と化す

こののちも、長府毛利家による本宗家の継承、徳山藩の一時断絶など毛利一族の変転は続くが、幕府は宗主権保護を基本として対応し、毛利氏は安定した「藩輔」であることを優先とされた近世的大名へと変質していく

 

おわりに

3本の矢」の逸話は、近代日本の修身教育において格好の素材として取り上げられた

元就の教訓を守った毛利一族が結束することによって明治維新を成功に導き、天皇を主権者とする国家が形成されたことを子どもに教え込もうとしていた。その目的は、近代日本におけるイデオロギー(家父長制度、同族結合、天皇中心の家族国家)を維持するために子供への教育を通じて忠孝一如の倫理を再生産していくことにあった

こうした教育の影響が毛利一族に関する通俗的理解に繋がっている――広家が毛利一族のために奔走して輝元の改易を免れたとか、秀元も家康から長門を与えられながら断り秀就に忠誠を誓ったとか、作られた話が多い

本書を通じて指摘した虚像と実像との相違は、現代社会にも警鐘を鳴らすもの

 

 

 

 

Wikipedia

毛利 元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将・中国地方山陽道山陰道)の戦国大名毛利氏の第12代当主。安芸吉田荘[注釈 1]国人領主毛利弘元の次男。毛利氏の本姓大江氏[注釈 2]。正式な姓名は、大江 元就(おおえ もとなり)。家紋は一文字三星紋。  

用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家[注釈 3]として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がった[13]。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられている。

生涯[編集]

家督相続[編集]

毛利氏の家紋

明応6年(1497年)314日、安芸の国人領主・毛利弘元と正室の福原氏福原広俊の娘)との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は生母の実家の鈴尾城(福原城)と言われており、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。

明応9年(1500)、幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意した。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。

文亀元年(1501)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506)に父・弘元が酒毒[注釈 4]が原因で死去した。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう[注釈 5]。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」[14]10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」[15]と養母の杉大方について書き残している[16]

永正8年(1511)、杉大方は京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらって松寿丸は元服した[17]。そして、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比[注釈 6]殿と呼ばれるようになった。

永正13年(1516)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する。

永正14年(15171022日、有田城下において、佐東銀山城主・武田元繁を討取った(有田中井手の戦い)のが元就の初陣である[18]。武田勢は熊谷元直も戦死し敗走した。元就の存在が初めて京都の大内義興に知られたのはこのときであり、義興から「多治比のこと神妙」という感状を与えられたと、元就自身が記している[18]。この戦いの後、元就は大内氏から尼子氏側へ鞍替えし、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われている。

大永3年(15237月、甥の毛利幸松丸がわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良をはじめとする重臣たちの推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし、毛利家内では家督について揉め事があったらしく、この家督相続に際して毛利氏の重臣15[注釈 7]による「元就を当主として認める」という連署状[19]が作成され、810日に元就は吉田郡山城に入城した[注釈 8]。当主になった元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱(あくまで自分は分家の身であるから、と謙遜の意味)」という歌を詠んでいる[22]

大永4年(15244月、元就の継承に不満を持った坂氏渡辺氏らの有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。

元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれている。また、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。

なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。なお、この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引分の際に隆元が元澄に、「元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしい」と要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。

勢力拡大[編集]

家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、大永5年(15253月に尼子氏と関係を断ち、大内義興の傘下となる立場を明確にした。享禄2年(152911月、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。天文4年(1535)には、隣国備後多賀山通続を攻め、降伏させた。

一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は宍戸元源の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と気が合ったため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。また、元源の兄である司箭院興仙細川政元の側近であり、政元の暗殺後も興仙の子孫が細川氏に仕えていたため、中央と独自の政治的パイプを持っていた元源と関係を深めることは、後年元就が尼子氏を牽制するために細川氏や赤松氏と関係を持った際に役に立つことになった[23]。前述の渡辺氏の生き残りである渡辺通が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。

その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年(1532)に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという起請文を連署して捧げている。

天文2年(1533923付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000を朝廷に献上する事で叙任が実現することになった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また、天文6年(1537)には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出して関係を強化した。

天文8年(1539)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵たる少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。天文9年(1540)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって勝利し、さらにこの戦いの顛末を記録した文書を幕府に提出(毛利元就郡山籠城日記)して称賛を受け、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。後に信実は室町幕府に出仕し、元就の没後に織田信長に追放された足利義昭に従って毛利氏を頼ることになる[24]。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

天文11年(1542)から天文12年(1543)にかけて、大内義隆を総大将とした第1月山富田城の戦いにも、元就は従軍した。しかし、吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、さらには元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるが敗れ、大内軍は敗走する。この敗走中に元就と隆元は大内軍の殿軍を命じられ、死を覚悟するほどの危機にあったが、渡辺通らが身代わりとして戦死、窮地を脱して安芸に帰還することができた。

天文13年(1544)、元就は手始めに強力な水軍をかかえる竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。しかし、当主不在のまま何度か戦いがあり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行った。なお、興景を失った竹原小早川氏に対しては、備後神辺城主である山名理興(尼子派)が天文12年に攻め寄せたため、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いている。6年後の神辺城陥落(神辺合戦)まで戦いは続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗るようになった。一方同年には、備後三吉氏へ遠征に出た尼子軍を撃退するため、児玉就忠福原貞俊を派遣したが敗北している(布野崩れ)。ただし、三吉軍の夜襲が成功したため、最終的に尼子軍は退却した。

天文14年(1545)、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。息子の隆元に宛てた手紙に「この頃は、なぜか妙玖のことばかりがしきりに思い出されてならぬ。」「妙玖がこの世にいてくれたらと、いまは語りかける相手もなく、ただ心ひそかに亡き妻のことばかりを思うのだ。」「内をば母親をもって治め、外をば父親をもって治め候と申す金言、少しも違わず」と述べている。妙玖の名前は、元就から息子に毛利家の結びつきを説くときに語られる、大切な結び目としての母の名であった[25]

天文15年(1546)、元就が隠居を表明。隆元が毛利家当主となる。ただし、完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元もこの時は元就の隠居に反対しなかった。

天文16年(1547)、妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送りこむ。当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、吉川経世たち一族や重鎮と対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子にしたいと申し出た。元就は初め、元春を子のなかった異母弟・北就勝の養子にする約束があったため断ったが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出した。一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。隠居させられた興経は、吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定であったが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移した。それでも興経派を警戒していた元就は吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。

ちなみに吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と独断で婚約を結び、元就は熊谷信直へ侘びの手紙と「あいつは犬ころの様なやつだが息子をどうかよろしく頼む」と一言書いている。元春夫婦は結婚後も、吉川家相続の後も吉田郡山城におり、長男の元資(元長)が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていた。元春が吉川氏の本城に入るのは、興経の隠居後の天文19年(1550)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。

一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。

これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

天文18年(15492月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。

天文19年(1550713日、家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。しかしながら井上一族をすべて殺したわけではない。先の井上光俊のように看病してもらった者や、井上一族の長老である光兼は元就が太陽を拝むきっかけとなった客僧を招いた屋敷の主であったことなど恩があるものは助命しており、主だった30名のみ処分している。元就自身はこの誅伐に関して手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書きしたためているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないことであると隆景に宛てて書いている。

厳島の戦い[編集]

天文20年(1551)、大内義隆が家臣の陶晴賢(隆房から改名)の謀反によって殺害され、養子の大内義長が擁立される(大寧寺の変)。元就は以前からこの当主交代に同意しており、11年前の吉田郡山城合戦での盟友でもあった隆房と誼を通じて佐東銀山城桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握。隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。

元就はこれを背景として徐々に勢力を拡大すべく、安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。

1553、尼子方の江田氏が守っていた備後の高杉城、旗返山城を落とし、尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退した。

この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。そこに石見吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵ができないでいた。そこで隆房は、直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた隆元や重臣たちは、元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した(防芸引分)。

しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000人以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000から5,000人であった。正面から戦えば勝算はない。さらに毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

天文23年(1554)、出雲では尼子氏新宮党尼子国久誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった[注釈 9]。尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄を毛利氏に300貫の領地を与えることを条件に内応させる。しかし、房栄がさらなる加増を求めたため、房栄の内応をわざと元就が晴賢に明かしている。隆元は実際、房栄は命を助けてやるだけでも有難いと思うべきなのに、要求する領地が多すぎると不満を手紙で述べている。

そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、謀反を起こした吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長3,000人の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。緒戦は元就の勝利であった。

弘治元年(1555)、これにまたもや激怒した陶晴賢は今度は自身が大軍を率いて山口を出発した。交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかし厳島周辺の制海権を持つ村上水軍が毛利方についたこともあり、陶晴賢は自刃。大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる[注釈 10]

弘治2年(1556)、備前遠征から素早く兵を撤兵させた尼子晴久率いる25,000人と、尼子と手を結んだ小笠原長雄が大内方であった山吹城を攻撃。これに毛利氏は迎撃に出るが、忍原において尼子晴久に大敗し、石見銀山は尼子氏のものとなる(忍原崩れ)。

弘治3年(1557)、大内氏の内紛を好機とみた元就は、大内氏の当主・義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。

同年、家督を嫡男・隆元に完全に譲ろうとするが、隆元はこれを拒絶した。

永禄元年(1558)、石見銀山を取り戻そうとして毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃。これに対して尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったまま戦線は膠着。翌永禄2年(1559)には温湯城を落城させ山吹城を攻撃するが攻めあぐね、撤退中に城主本城常光の奇襲と本城隊に合流した晴久本隊の攻撃を受け大敗している(降露坂の戦い)。

尼子氏・大友氏との戦い[編集]

弘治2年(1556)以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、永禄3年(156112月に尼子晴久が死去する。そして尼子氏の晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男・尼子義久将軍足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年(15626月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、出雲侵攻を開始する。

これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城月山富田城(現在の島根県安来市)に籠城し、尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし、永禄6年(1563)に元就は尼子十旗の一である白鹿城を攻略した。

だが一方で、同年83日、当主である嫡男・隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている[26]。そのため、隆元の嫡子・幸鶴丸が家督を継承したが、11歳の若さであったため、元就が後見して政治・軍事を執行する二頭体制が敷かれた[27]

永禄8年(15652月、幸鶴丸が吉田郡山城で元服し、将軍・足利義輝の諱一字を拝領して、輝元と名乗った[28]。毛利氏の当主は代々、元就の父・弘元や兄・興元、嫡子・隆元のように守護大名配下の国人領主として元服したが、輝元は将軍より偏諱を与えられる、つまり「国家の支配者」として元服しており、元就の代において毛利氏の地位が大きく向上したことが裏付けられている[29]。もっとも、輝元が将軍の偏諱を受けることができたのは、元就が幕府に働きかけたからであり、永禄712月以前から元服の準備が進められていたことが確認されている[29]

同年3月、元就は輝元とともに出雲へ出陣し、4月に月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功する(第二次月山富田城の戦い)。元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと並行して尼子軍の内部崩壊を誘うため離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。

永禄9年(156611月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされ、戦国大名としての尼子氏は滅亡した。こうして元就は一代にして、毛利氏を中国路8ヶ国を支配する大名へと成長させた。

出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、永禄12年(15696月に尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が但馬の山名祐豊の支援を受けて出雲へと侵入し、毛利氏に抵抗した[30] さらに豊後大友宗麟豊前の制覇を目指しており、同年10月には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。だが、大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった[注釈 11]

永禄10年(1567)、元就は輝元が15歳の時、二頭体制をやめ、隠居しようとした[31]。だが、元就は輝元から隠居しないように懇願されたため、その隠居を断念した[31]

元就の最期[編集]

吉田郡山城跡の毛利元就墓所

1560年代の前半より、元就はたびたび体調を崩しており、永禄9年(15662月には長期の出雲出陣の疲労からか大病を患ったが[32]、将軍・足利義輝が見舞いのために派遣した名医・曲直瀬道三が元就の治療に当たった[33][34]。元就の治療は「道三流」と称される道三門下の専門医によって行われ、道三門下の専門医と道三との往復書簡いわゆる「手日記」を通して処方が決定された[33][34]。その効果もあって翌月には全快し、永禄10年(15671月には最後の息子である才菊丸(後の秀包)が誕生している。なお、毛利氏領国では、専門医・専従医不足に伴う医療基盤の軟弱さが、永禄9年に曲直瀬道三が下向して一挙に改められた[34]

永禄12年(15694月、吉田郡山城において病にかかったが、永禄9年の時ほど重くはなかったため、やや快方に向かうのを待って長府に出陣。元就は立花城の戦いにおける毛利軍を督戦したが、これが元就の生涯で最後の出陣となった[32]

永禄13年(元亀元年、15701月、尼子勝久への攻撃を行うために元就に代わって輝元が総大将となり、元春と隆景も出陣した。元就は吉田郡山城に残って、大友氏や浦上氏の来襲に備えたが、同年9月に重病にかかった[32]。元就重病の報を聞いた輝元は、元春を出雲に残して隆景と共に急遽帰国し、元就の看病にあたった[32]。同年922日には元就が輝元からの書状に比較的長めの返書を送っており、元就の病状がある程度回復したことが分かるが、用語の誤りや重複の跡が見られることから、全快には至っていないことが窺われる[35]。元就もそのことを自覚していたようで、この返書の追而書において「何共内心くたびれ候間、是非に及ばず候」と記しているが、自身の節制と輝元や侍臣らの熱心な看病によって更に体調を持ち直し、出雲に出陣している将兵に対しても指導と激励の書状を送れるようになった[35]。同年1112に月山富田城を守る五男・元秋が元就の近臣である南方就正に宛てた書状では、元就の体調が回復したことに安堵した旨が記されている[35]

元亀2年(1571316、元就は花見の会を催し、その席上で「友をえて 猶ぞうれしき 桜花 昨日にかはる けふの色香は」と詠み[35]、同日には病気平癒の祈願のために出雲国日御碕神社に社領50貫を寄進している[36]。元就の病状が落ち着いたことで、隆景も看病の必要はないと判断して暫く本拠の沼田に帰り、4月中に再度吉田に訪れた。

同年5月になると元就の病状が再び重くなったため、隆景は出雲出陣中の元春とも協議して、安国寺恵瓊を使者として京から医師を招聘することを決定し、513福寺塔頭勝林庵にその斡旋を依頼した。将軍・足利義昭の命によって毛利氏と大友氏の和睦斡旋のために安芸国に訪れていた聖護院道増も元就のために病気快癒を祈願したが、元就の病状は次第に進行していった。

64、元就はかつて自らの一身に代えて元就の身体堅固・寿命長久を祈った隆元の追善料として、隆元終焉の地である安芸国高田郡佐々部の内丸名72段半を常栄寺に寄進した。

613、元就は吉田郡山城で激しい腹痛を起こして危篤に陥り[注釈 12]、翌614巳の刻(午前10時頃)に死去した[37]。死因は老衰とも、食道癌とも言われる。享年75(満74歳没)。

家督そのものはすでに嫡孫の輝元が継承済であったが、その死により二頭体制が終了し、輝元は毛利両川体制を中心とした重臣の補佐を受けて親政を開始した。

没後[編集]

元就が死去すると、隆景は直ちに出雲出陣中の元春に書状を送って元就の死去を報じ、輝元の意志として元春が元就を弔うために帰国するかは出雲の情勢次第で判断するよう求めた[38]。元春は尼子勝久の勢力が増すことを防ぐためにやむなく帰国を断念し、元就の葬儀を含めた後事全般は輝元が隆景、宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽通良ら重臣と協議して執り行う事となった[38]

備前の浦上宗景らの侵攻を防ぐために備中に在陣し、元就重病の報を受けると吉田に帰還して元就の看病に当たっていた粟屋就方は元就の葬儀が終わるまでは備中に戻らない意志を示していたが、輝元と隆景は備中の情勢を鑑み、616に粟屋就方が急ぎ備中に戻り変事に備えることが元就への追善であるとして、特別に葬儀に先立っての焼香を許可し、就方もこれを受け入れた[39]

元就の遺体は元就が死去した614日の夜に毛利氏の菩提所である大通院に移された[40]。当時の大通院の住持は浩雲周養だったが、輝元は備後国三原妙法寺の住持・嘯岳鼎虎を吉田に招聘し、元就の葬儀の導師を務めることを依頼した[40]。また、特に元就と師壇関係の篤かった山口国清寺住持竺雲恵心を招いて元就の葬儀でを授けてくれるよう依頼するため、617粟屋元重を山口に派遣し、山口奉行の国司就信と共に竺雲恵心との交渉に当たらせた[40]。また、国司就信が生前の元就に目をかけられていたことから、山口を離れて葬儀に参列することを許可した[41]

元就の初七日である620、元就の葬儀が大通院で執り行われ、嘯岳鼎虎が祭文を捧げて元就の菩提を弔い[42]、竺雲恵心が「四海九州知有人 人生七十五煙塵 分明浄智妙円相 突出虚空大日輪」というを授けた[43]。葬儀が終わると元就の遺体は吉田郡山城の西麓にある三日市において火葬され[43]624に輝元が大通院の境内に築いた墳墓に元就の遺骨が埋葬された[44]。その際に大庭賢兼は「法の水 手向果ても 黒衣 立はなれ憂き 墓の前かな」と詠じて追慕した[44]。また、大庭賢兼は627の二七日、75の三七日、712の四七日、719の五七日、726の六七日の各法会で追慕の歌を詠じている[45]

728、元就の追善のため、隆景は安芸国の仏通寺において僧衆300人が列席する盛大な仏事を執り行った[46]83には大通院で元就の七七日の法会が執り行われ、元就と親交があり安芸滞在中であった聖護院道澄が参列し、大庭賢兼と共に追善の歌を詠じた[47]

その他にも各方面からの弔問があり、山口の法泉寺が隆景に弔問し、湯原春綱も隆景に弔問して香典100疋を送った[48]。織田信長も使僧を派遣して弔問し[48]917には柳沢元政を派遣して弔辞を述べさせた[48]大和筒井城主・筒井順慶も家臣の清須美右衛門を輝元のもとに派遣し弔辞を述べ、香典100両を贈った[3]。東福寺の塔頭・勝林庵は法華経5巻を一軸に書写して元春へ贈っている[3]

元亀3年(1572)、朝廷は元就の生前の忠功を追賞して従三位の位階と「惟徳惟馨」のを贈った[3]。また、元就の200周忌に当たる明和7年(1770)に元就・輝元・秀就の霊を祀る神社がに創建されると、朝廷は元就の神霊に「仰徳大明神」の神号を贈り、文政12年(1829118にはその神社に正一位の位階を授けた[3]。更に明治維新における長州藩の功績から、明治2年(186923に元就を祀る神社に「豊栄神社」の神号を贈り、明治41年(190842には元就に正一位の位階が追贈された[3]

人物・逸話[編集]

朝倉宗滴による評価

越前朝倉氏の名将、朝倉宗滴は自身の著作『朝倉宗滴話記(続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿(今川義元)、甲斐武田殿(武田信玄)、三好修理大夫殿(三好長慶)、長尾殿(上杉謙信)、毛利某、織田上総介方(織田信長)、関東正木大膳亮方(正木時茂此等の事」と書いており、政務・家臣掌握術において今川義元武田信玄らと共に高く評している[注釈 13]

天下を競望せず

尼子氏の滅亡後、中国地方の覇者となった元就だったが、自身は「天下を競望せず」と語り、自分の代での勢力拡大はこれ以上望まない意志を明らかにしていた(とはいえ、大内氏の支配圏だった北九州進出にはこだわり、晩年まで大友氏と激しい抗争を続けた)。またそれは息子や孫達の代に至るも同様であり、三男・隆景を通じて輝元の短慮を諌めるようにたびたび言い聞かせ、これが元就の『遺訓』として毛利家に浸透していったという[注釈 14]

三本の矢

死ぬ間際の元就が、3人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せて教訓を教えたという逸話がある。元就は最初に、1本の矢を息子たちに渡して折らせ、次はさらに3本の矢束を折るよう命じた。息子たちは誰も3本の矢束を折ることができなかったことから、1本では脆い矢も束になれば頑丈になることから、3兄弟の結束を強く訴えかけたというものである。この逸話は「三本の矢」または「三矢の訓」として有名だが、実際には元就よりも隆元が早世しているなど史実とは食い違う点も多く、弘治3年(1557年)に元就が書いた直筆書状『三子教訓状』に由来する創作とされる。

三子教訓状」も参照

家臣・周辺国人への気遣い

「元就はいつも餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』)

後世に遺された数多くの手紙

元就は筆まめな人物であり、数多くの自筆の手紙が残っている。明和4年(1767年)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には手紙などに残された元就の小言が30近く羅列されている。また、前述の『三子教訓状』の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が繰り返し記される。吉本健二舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である[50]。吉本は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評した。このような手紙について元就自身は「思いのまま綴った」「急いで書いた」という趣旨の釈明をしているが、実際には誤字脱字は多くなく、手紙の意図が伝わるように読み手を意識した文章になっていることから[注釈 15]、複数回の下書きをした上で入念に準備しているものと考えられている[51]

酒でのウサ晴らしを戒め、下戸で通す

元就は嫡男の隆元に、酒は分をわきまえて飲み、酒によって気を紛らわすことなどあってはならないと、節酒の心得を説いている。孫の輝元が元服を済ませた際には、輝元の実母の尾崎の局に小椀の冷汁椀に一杯か二杯ほど以外は飲ませないように忠告している。このような背景に、元就は毛利氏歴代が酒に害されやすい体質であることを熟知しており、そのために元就自身は節酒をしてその延命効果を説いたのである[52]

政策[編集]

政治体制[編集]

元就が構築した政治体制は領内の国人領主や地方勢力との共生を念頭とした典型的な集団指導体制であり、同年代の他の戦国大名と類似する点が多い。また元就の統治には、三子教訓状百万一心などの標語による家臣・領民の心理的な変革が含まれていた。この点は武田信玄などに通じるものがある。毛利氏の統治の特色として挙げられるのは地方領主の独立性の高さであり、大名(毛利氏当主)による独裁とは程遠い体制だったことである。その詳細は武田氏などと同様に複雑かつ煩雑で把握しにくいが、家中に奉行制度を確立して政務を効率化すると共に、毛利家当主のサポート体制を盤石なものとして政権の基盤構築に成功していたことは確かである。

だが、これは古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった。特に地方勢力の独立性を認めることは、軍事組織(戦国大名)としての一体性をやや欠き、脆さをも内包することになったからである。この結果、嫡孫・輝元の代には革新的かつ強権的な軍事体制を実現した織田氏との交戦により苦境に陥り、一部国人衆の離反を招いた。また両川(元春・隆景)や穂井田元清など有力な血族が死去した後の関ヶ原の戦いでは、家中が東軍派と西軍派に割れて一貫した行動が取れず、結局敗軍の烙印を押されてしまうという醜態を演じた。(これは元来優柔不断な性格だった輝元の不手際によるものであるが、そもそも有力な血族による直接的補佐を必要とした毛利氏の体制から言えば、やむを得ないことであったとも言える。)

にもかかわらず毛利氏が大名として生存を果たせたのは、元就の政治理念と異常なまでの家名存続の意志が、その死後も家中に色濃く残っていたためである(吉川広家の機転など)。後述する毛利両川とそれを筆頭とした奉行らによる集団指導体制の構築、そして「天下を競望することなかれ」という言葉を残したのは、自らの死による体制の変質や時流の変化を見越した判断でもある。

毛利両川体制[編集]

防長経略の年(1557年)に、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。しかし隆元が政権の移譲を拒絶したため、実権は元就がなおも握り、吉川元春と小早川隆景による毛利両川体制を確固たるものとしていったのである。隠居に際しての同年1125日、14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)を作成、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」(前述)の逸話の基となったとされている。

続いて同年122日、元就以下12人の主だった安芸国人領主[注釈 16]が著名な「傘連判状」を結んでいる。これは上下関係を明らかにはせず、彼ら国人領主皆が対等の立場にある事を示している[注釈 17]

だが、裏を返せば、当時の毛利氏は井上一族の粛清によってようやく自己の家臣団を完全に掌握したばかりの状態であって、未だに安芸の土豪連合の集団的盟主という立場から完全には脱却できず、実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかったのである。毛利氏がこうした土豪の集団的盟主という立場から脱却して、土豪連合的な要素の強かった安芸国人衆の再編成と毛利家の家臣への編入を通じて、名実ともに毛利氏による安芸統一が完成する事になるのは隆元が安芸国守護に任じられた永禄3年(1560)頃とされている。

ただし、その後もこうした国人領主は毛利氏との主従関係を形成しつつも、限定的ながら一部においてその自立性が認められていくことになった。こうした直臣家臣団と従属土豪(国人領主)という二元的な主従関係は関ヶ原の合戦後の長州藩移封まで長く続き、その統率が破綻することなく続いたのは毛利氏当主とこれを支える両川の指導力によるところが大きかったのである[注釈 18]

朝廷・幕府との関係[編集]

吉田郡山城の戦いで勝利した顛末を記した戦況報告書『毛利元就郡山籠城日記』を宍戸元源の書状とともに、幕府の木沢長政のもとに持参させ、足利義晴や管領細川晴元らに披露させた。幕府では尼子氏によって追放された赤松晴政に同情していたため、尼子氏を敗走させた元就の働きに大いに感動した。細川晴元から天文1042日付で元就に出された書状には、最大級の賛辞が記載されている[54]

大内氏の滅亡後、弘治3年(1557年)に践祚した正親町天皇に対し、即位料・御服費用として総額二千五十九貫四百文を進献し[55]、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる。同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任、元就・隆元父子揃っての相伴衆就任、孫の輝元が将軍・足利義輝から偏諱を拝領したことなどは、全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である。

さらに、尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を得た(雲芸和議[56]。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた[57][58]

女子の資産相続[編集]

毛利氏領国では、女性の資産が、その本人ばかりか嫡男にも相続されるなど、女性の財産所有権および相続権が一面的とはいえ、認められていた。武家女性の社会的地位に関する特殊性が見て取れる[59]。また、成人した庶子の男子よりも実子の女子に優先相続権がある場合もあった[60]

官歴[編集]

日付=旧暦(明治5122日まで)

1533天文2年)925日、従五位下に叙位。928日、右馬頭に任官。

1560永禄3年)215日、従四位下に昇叙し、陸奥守[注釈 19]に遷任。

1561(永禄4年)128日、幕府相伴衆となる。

1562(永禄5年)518日、従四位上に昇叙し、陸奥守如元。

1571元亀2年)614日、卒去。享年75

1572(元亀3年)、贈従三位。

1908明治41年)42日、追贈正一位。

系譜[編集]

父:毛利弘元 母:福原夫人福原広俊娘) 継母:杉大方(高橋氏)

兄弟 毛利興元 相合元綱 北就勝 見付元氏(弘元庶子?) 宮姫(武田某室) 八幡新造渋川義正室。天正5年(1577)没) 相合大方井上元光室) 松姫(吉川元経室) 竹姫(井原元師

正室:妙玖吉川国経娘)――長女(夭折。高橋氏の人質。のち高橋氏により殺害) 毛利隆元 五龍局宍戸隆家室) 吉川元春 小早川隆景

継室:乃美大方乃美隆興娘)――穂井田元清 天野元政 毛利秀包(小早川秀包)

側室:中の丸

側室(三吉氏)――椙杜元秋 出羽元倶 末次元康 三女(上原元将室)

側室(矢田氏)――二宮就辰?

孫 毛利輝元 吉川元長 繁沢元氏 吉川広家 吉川松寿丸 毛利秀元 宍戸元秀 利元倶 毛利元宣 毛利元 など

主な家臣[編集]

毛利元就(毛利氏)に仕えた主な家臣のうち、特に代表的な武将は毛利十八将と呼ばれている。

詳細は「毛利十八将」を参照

それ以外の家臣については、毛利氏の家臣団の項を参照。

偏諱を与えた人物[編集]

粟屋元通

北就勝

吉川元棟(毛利元氏

児玉就秋

佐伯就実

林就長

弘中就慰(弘中方明)

福原元俊

三上就忠

村上元吉

益田元祥

毛利氏が支配した主な城[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

1.    ^ 現在の広島県広島県安芸高田市吉田町。

2.    ^ 毛利氏は大江広元が四男・毛利季光に相模国毛利荘を譲ったことに由来し、季光を祖として、元就は広元の雲孫の玄孫にあたる。

3.    ^ 元就は「能や芸や慰事、何もかも要らず。ただただ武略、計略、調略こそ肝要にて候」「謀多きは勝ち、少なきは負け候」と孫子を踏まえて自らの信条を書き綴っている[12]

4.    ^ アルコール中毒や飲酒の害毒のこと『酒毒コトバンク

5.    「我々は五歳にて母に離れ候、十歳にて父に離れ候、十一歳の時にて兄〔興元〕京都へ上られ候。誠に了簡なく、みなしご〔孤児〕に罷り成り」毛利元就、毛利家文書 420

「多治比を我々に弘元お譲り候へども、井上中務丞〔元盛〕渡し候わで押領候……毛利元就、毛利家文書 420

と述懐している[14]

6.    ^ 「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む。[要出典]

7.    ^ この時連署状に署名した15名の重臣は、署名順に福原広俊中村元明坂広秀渡辺勝粟屋元秀赤川元助(元保)井上就在井上元盛赤川就秀飯田元親井上元貞井上元吉井上元兼桂元澄志道広良

8.    ^ この家督相続について、元就は初め辞退したという話が元就自身の日記[20]に記されているが、この日記は連署状を受け取った日時が現存する書状と違い、また日記といってもこの時の3日分しか存在しない史料であるため、疑問がもたれている[21]

9.    ^ これを元就の謀略であると伝える軍記もあるが、尼子氏が、統率力強化のために自発的に行ったものと考えられている。詳しくは新宮党の項目参照。

10. ^ この戦いは日本三大奇襲作戦の1つとされるが、従来の通説は陰徳太平記など、後世に編纂された不確かな軍記物語によって構築されたもので、実際にどのような戦いが行われたかは不透明な部分が多い。

11. ^ しかし、大友の立場からすれば、同じく毛利の侵攻に悩まされ危機的な状況に陥り、龍造寺氏や島津氏の勢力伸長を抑える事ができなかった。

12. ^ 多門坊宗秀614日に厳島神社棚守房顕へ宛てた書状には「昨日十三日より大殿様以ての外の御虫気(腹痛)に付て、公私此の取り乱しに何事も成らず候」と記されており、毛利家中が混乱を極めた様子が窺われる[37]

13. ^ 甲陽軍鑑』にも、武田信玄の軍師山本勘助が「源義光公の時代以来、この世に戦巧者といえば楠木正成を除いて、他には毛利元就しかおりません」と評した逸話があるが、これに関しては創作の可能性が高い。

14. ^ 「当分五ヶ国十ヶ国御手に入れ候は、時の御仕合せにて候(我々が5ヶ国10ヶ国を手に入れられたのは時の運であり、これ以上望むべきではない)」と元就がこぼしていたことに触れている[49]

15. ^ 家臣の志道広良に宛てたとされる自筆書状では、内容の要点に関する部分が韻を踏むかのように記されており、視覚的にも効果的な記述とされる。

16. ^ 元就を基準とすると、時計回りに毛利元就、吉川元春、阿曽沼広秀、毛利隆元、宍戸隆家、天野元定天野隆誠出羽元祐、天野隆重、小早川隆景、平賀広相、熊谷信直の12名。

17. ^ この「傘連判状」の解釈には異論も存在する。元就が時計の十二時の最も目立つ位置に署名していること、この申し合わせが毛利家に伝わっており、国衆が元就に提出したと見られること、恩賞は一般に主人が部下に与えるものだが、この中の平賀氏は「御恩賞は決して忘れはしません」と書かれた書状が残っている等の理由から、傘連判は多分に形式的なもので、実質的に国衆と家中の間に差はなかったとする意見もある[53]

18. ^ こうした二元的な主従関係の複雑さから、元就没後の織田氏との戦いでは軍がまとまらず、常に後手に回る醜態を晒した。また関ヶ原以前の毛利氏では分国法が編纂されず、代わりに当主の下に官僚組織を形成することで人的に対応する方針を採った。

19. ^ 陸奥守は毛利家の祖先である大江広元が就いていた官職である。

20. ^ 毛利元就の自筆が題字として採用されたため、スタッフの一人として毛利元就自身がクレジットされている。

 

 

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.