悲劇の真相  鶴岡憲一他  2022.12.8.

 2022.12.8. 悲劇の真相 日航ジャンボ機事故調査の677

 

著者 

鶴岡憲一 1947年、群馬県生まれ。70年東教大卒、読売新聞社入社。横浜支局を経て社会部へ。警視庁、航空担当、運輸省担当などの後、89年から通産省担当

北村行孝 1950年三重県生まれ。74年電気通信大物理工学科卒、読売新聞社入社。前橋支局などを経て社会部へ。航空担当、運輸省担当の後、89年科学部へ

 

発行日           1991.7.17. 第1

発行所           読売新聞社

 

プロローグ

l  御巣鷹の春

遺族らの交流を目的とした「8.12連絡会」の事務局長は、小学校3年生を1人旅に出して事故に遭った美谷島さん

‘90年、米国で旅客機の安全基準を定めた連邦航空規制の一部が改正され、耐空性基準が強化されたが、これこそ日本側が米国に対して求めていたもの

l  連続事故

1979年、オヘア空港で米国航空史上最悪の事故発生――アメリカン航空のロス行きDC103000ftまで上昇した後急降下してキャンピング場に墜落、地上の2人を巻き込んで乗員・乗客全員273人の死亡事故。離陸直前の滑走中に左主翼エンジンが脱落、さらにエンジンを主翼に吊り下げる部分のボルトが金属疲労で破断

米航空局FAAは、270機を超える全機の点検を命じるとともに、一時的に型式証明の効力を停止、飛行禁止の強硬措置をとる

航空の安全性は、様々な抵抗を撥ね退けて、事故の教訓を最大限生かそうという人間の誠意と熱意がなければ実らない――シカゴの事故を機に、航空の安全に対する新しい考え方が芽生え、紆余曲折を経て挫折するが、やがて日航機事故の調査と安全への提言へと繋がっていく、その軌跡を辿ることが本書の副題

シカゴ事故の前、1972年には米加国境近くのカナダ・ウィンザーで同型機が後部貨物ドアの開閉機構が不備で客室との隔壁が損壊、幸い無事緊急着陸して事なきを得た

さらに2年後にもパリ近郊でトルコ航空の同型機が墜落、346人全員死亡。事故原因は後部貨物ドアの損壊によるコントロールケーブルの損傷で操縦不能に陥ったこと

相次ぐ大事故に対し、FAAは耐空性改善命令ADを出すべきところ、製造メーカーのダグラス社がユーザーに「技術情報」を渡して注意喚起するだけに留まったため、メーカーとの癒着が疑われ、米国内で大問題となった、その矢先のシカゴの事故で、特別委員会設置

l  ロー委員会

1979年、運輸長官からの要請で、全米研究会議はFAA耐空証明要領委員会(通称ロー委員会)を組織して耐空性審査基準の再検討を始める――委員長のジョージ・ローは、レンスラー・ポリテクニックの社長、アポロ計画のマネージャーやFAAの局長代理を務めた

シカゴ事故では、アメリカン航空の整備の手順ミスが露呈、さらにはエンジン脱落により駆動用油圧配管までが損傷するという設計ミスも判明、機体の異常を乗員が知らないままに異常を知らせる警報装置も作動しなかったため、乗員も対処のしようがなかった

予期せぬ悪い出来事の連鎖に対して、航空機はどこまでの設計上の配慮が必要なのか、委員会の重要な検討テーマの1つになる――航空機の設計思想は、「安全寿命設計」から「フェール・セーフ設計」へ、さらに「損傷許容設計」へと、事故の教訓を生かしながら進化

 

‘80年公表の報告書では、起こりうる危険は予測不可能であり、設計によって防ぐことはできないのは複雑な技術システム全てにつきものの性質としている。常に「予測」では及ばなかった設計の限界が「現実」によって暴露されて事故がおき、その経験により甘かった「予測」が以前より深くなってゆくという繰り返しが現実。飛行そのものに欠かせない「1次構造物」の破損はどうしようもないが、貨物ドアのような「2次構造物」の故障があっても旅客機は生還飛行が出来るような設計上の配慮がなされるべきという「フェール・セーフ設計」をさらに一歩進めた勧告で、「耐空性基準」の厳格化をFAAに迫るものだった

フェイルセーフとは、なんらかの装置・システムにおいて、誤操作・誤動作による障害が発生した場合、常に設計時に想定した安全側に動作するようにすること。またはそう仕向けるような設計手法で信頼性設計のひとつ。これは装置やシステムが『必ず故障する』ということを前提にしたものである。(Wikipedia)

航空界では、「旅客機の設計は妥協の産物」というのが常識で、機体の安全性は常にせめぎ合いの焦点であり、今回もコストと安全性向上の兼ね合いから、基準改定は白紙還元され、「墓石安全論」(事故の犠牲によって安全性が高められること)が無に帰した直後に起こったのが日航機の事後であり、さすがにその後の事故調査過程では復活

 

第1章        幻の建議案

l  消えた機影

日航の国内線用B747SR型ジャンボ機(登録番号JA8119)は、その日5回目の飛行で東京から大阪に向かうが、午後657分管制レーダーから消える

運輸省の事故調に1報が入った時は、「長野県佐久付近で消息を絶つ」とあった

ジャンボ機は1970年に登場、既に600機を超え(日本では469)’77年スペインのサンタクルス・デ・テネリフェ島の空港でパンアメリカンとKLMのジャンボ機同士が官制交信の聞き違いから滑走路上で衝突し、578人が犠牲になった以外は、機体そのものの欠陥が原因となる墜落事故は皆無。2カ月前にインド航空のジャンボ機が大西洋上に墜落して329人が犠牲になった事故はテロ絡みの爆発事故との見方が有力で、ジャンボ機の安全神話があった

l  生存者

事故の翌朝、白煙が上がるのを見て墜落現場が特定される

救出された生存者のうち、日航のアシスタントパーサーで非番で乗り合わせた落合由美から救出の2時間後に事情聴取が始まり、大きな音の後急減圧が起き、後ろの天井が落ちたという。そこから後部圧力隔壁の損傷が想像された

l  惨劇の山

現場入りした事故調の最重要課題は、デジタル式飛行記録装置DFDRと操縦室音声記録装置CVRを探し出すこと――DFDRは機体各所にあるセンサーで飛行状態を、CVRはコックピット内のクルーたちの会話などの音声を記録したもの。後部座席付近にあり、生存者がそのあたりに座っていたことから、生存者の見つかった場所を中心に探し、事故翌日の午後には発見

機体の残骸の位置を1つづつ記録し、墜落直前の飛び方を推定する

同機は1978年大阪空港に着陸した際、しりもち事故を起こして、後部圧力隔壁の下半分を取り替える大修理をしており、破損した垂直尾翼の取り付け部とあわせて注目

l  駆け付けた米チーム

815日、米国家運輸安全委員会NTSBの事故調査団来日、機体製造国の調査団を迎えるのが初めての事故調は、彼らの遺体収容よりも安全優先の資料要求に戸惑う

相模湾一帯で発見されつつあった機体尾部の破片から、圧力隔壁破損の可能性があるので、ボディステーションBS2200(胴体の前後を識別する番号で、5つ目のドアの前辺り)から後ろの部分を保存し調べてほしいとの要求

ボーイングの調査チームは、2人の構造専門家、1人は油圧システムの担当、パイロットが1人の構成で、機体構造に懸念を抱いていたことは明らか

群馬県警の鑑識調査では、硝煙反応は確認されず、爆発物の線は消える

米調査団の現地入りは16日、遺体収容のための機体切断など、現場は混乱

l  衝撃の一列リベット

22日、米側調査団が、修理された隔壁の中継ぎ板の一部に、リベットが通常2,3列はあるところに1列しか効いていない個所を発見。同時に別の検査官が隔壁破断面に金属疲労亀裂があることを発見。1列のリベットでは14000回の飛行で圧力隔壁が破断する可能性があると指摘され、日本側でも金属疲労研究の専門家が調査して疲労亀裂を確認

l  突然の修理ミス声明

96日、ニューヨーク・タイムズが、7年前のしりもち事故後のボーイングによる圧力隔壁の修理ミスを公表、同日ボーイングも欠陥修理を追認する声明を出す――10日前の第1回中間報告に対し、圧力隔壁の金属疲労や腐食はないと断言していたが180度の転換だが、ボーイングにとっては、原因を事故機特有の事情に帰し、747型機の構造そのものには欠陥はなかったと主張できる根拠になる身勝手な都合のいいものだった

勝手に責任を公表したボーイングを含む米側の対応を警戒して、事故調はより慎重になる

l  執念の建議案

事故調には設置法で、安全向上のための勧告や建議を運輸大臣にすることが定められていて、間接的に米国政府に働きかけてもらう――4系統ある油圧システムが一斉にダウンしないための遮断弁を設置するよう、設計変更を求める

垂直尾翼が破壊され、4本の油圧配管が切断されたのは事実だが、事故原因としての特定を優先させるべきとの意見が大勢を占め、建議として実現することはなかったが、その内容はその後FAAから出された勧告、指導などにより次々に実現していく

事故調の委員長八田桂三は終戦直前海軍が開発に成功した日本初のジェット戦闘爆撃機「橘花」の技術顧問で、戦後も一貫して航空機エンジンの研究を続けていた「エンジン屋」だが、不整脈に悩まされ、10月には武田峻航空宇宙技術研究所長に交代

 

第2章        総力戦

l  メモ魔 武田委員長

最終報告書公表の時限を’873月末とし、日本語の原案は8月末まで

l  露呈した弱点

ジャンボ機の総点検では、1機だけで亀裂など100件もの不具合が見つかったケースも出てきて、2階建て構造を持つジャンボ機独特の構造から来る設計上の弱点がクローズアップされた――JA8119の直前に製造されたJA8117では79カ所で疲労亀裂発見、うち60カ所は機首部分(セクション41)に集中しており、他の機体でも大同小異で、フレームと呼ばれるリング状の補強材を8本も交換する機体もあった

FAAを通じて、日本以外で運行している飛行回数1万回以上の機体の点検を行ったところ、合計80本ものフレームが亀裂が進展して破断、大事故に繋がりかねなかった

ボーイングにとっては、今回の事故以上に深刻な問題で、設計上の弱点と同時に通常の整備・点検で発見しにくいことがより問題。経済寿命は2万回とされ、通常では地上試験で経済寿命の最低2倍試験を行うが、2万回しか試験を行っていなかったことも判明

巨大な機体に見合うだけのエンジン推力が得られず、機体の軽量化に苦心、強度にゆとりのあった機首部分のフレームを材質の薄いものに変更もしていたのが裏目に出た

ボーイングでは早速セクション41の設計変更作業に着手、通常無料保証期間は3年だが、エアラインの激しい反発に遭い、改修に必要な部品代は全額ボーイング負担となる

ジェット機以前は、ダグラスがDC3DC7まで圧倒的に強く、ロッキードが2番手で、ボーイングはB29爆撃機など大型軍用機で突出していたが民間機では劣勢、ジェット機の登場とともに一気に民間機の王者に

世界初のジェット旅客機は、英国デハビランドのコメットで1949年初飛行するが、金属疲労による連続事故で悲劇の天使に終わり、各社ともジェット機に消極的になるなか、ボーイングがジェット旅客機開発を先導、’54B707シリーズが成功し市場を席捲

1960年代の航空需要の急増に応えるべく、広胴型旅客機の開発が進められる。当時兵力の大量輸送のための超大型軍用輸送機計画が進行中で、航空機3社が激しく競合、’65年ロッキードのC-5Aギャラクシーが成約するが、ボーイングはその年その技術の民間機への転用を決め、早々に130機の受注を獲得して開発を軌道に乗せ、’69年には初飛行によりFAAの型式証明を取得、翌’70年にはパンナムの大西洋航路に投入

JA8119は、’69年開発開始、'74年就航したショートレンジSRという短距離用に設計変更された日本向け特殊仕様で、もともと欧米には大量の短距離輸送という発想はなかった

短距離用に、脚や主翼関係の補強、車輪の冷却ファンの設置などは手当てされたが、胴体の構造は基本的には長距離型と同じで、それがSR機にとってある意味弱点となった――離着陸のたびに与圧を繰り返すため、胴体は延び縮みを繰り返し、胴体の外板や補強材を疲労させ、亀裂を発生させるようになる。長距離用では飛行時間を平均3時間として強度が計算されているが、SRでは1時間程度、それも1日に何回も繰り返す

さらに客室内の圧力も影響。SR開発にあたりボーイングは、客室にかける与圧を8.9psi6.9 psi2種類用意し、航空会社の選択に任せていた。日航では乗り心地重視の観点から8.9を選択したが、圧力隔壁の修理ミス部分で発生した多発亀裂の進展をより早めた

Psi:圧力を測る単位。1平方インチ当たり1ポンドの圧力が1 psiで、1気圧は14.2 psi

日航が6.9を選択していれば、隔壁破裂まで3万回の飛行が必要で、修理ミス時点で6500回ほど飛んでおり、修理後すでに12320回飛んでいたところから事故前に退役していたに違いない。室内与圧を重視した運輸省航空局からの指導で、1年後から低与圧に変更

l  現場撤収

914日、一義的な管轄権を持つ県警と契約を結んで隔壁部分の航技研調布飛行場分室への搬出開始、133041.5tの残骸が運ばれ、事故調による現地での作業を終了

l  航空宇宙技研

戦後日本の航空産業が息を吹き返すきっかけとなったのは’50年の朝鮮戦争で、修理関係の作業が旧航空関係企業に発注された。'56年には自衛隊が旧中島飛行機の流れをくむ富士重工に対し、ジェット練習機の試作発注、'58年初飛行

‘55年、総理府の機関として航空技術研究所設立。翌年科学技術庁創設と共にその傘下に

'57年、戦後初の国産旅客機YS-11の開発計画スタート、'62年初飛行、182機製造

‘72年、短距離離着陸STOLの研究に着手(正式な開発開始は5年後)―武田を所長とする航技研が開発を担当、’85年「飛鳥」の飛行で結実するが、'83年にはより先進的な技術が評価されNASAとの間に技術情報交換協定締結、耐空基準の基礎となる安全基準の検討に日本の技術を役立てるまでに進化していたことが、今回の事故調でもアメリカに遠慮することなく調査を進められた背景となる

l  先行したNTSB勧告

12月、共同調査パートナーだったNTSBFAAに航空機の安全性を高めるための5項目の勧告を行い、事故機の製造国として参加した米国側の事実上の報告書といえる内容も含まれ、事故機ばかりか最新鋭のB767型機の圧力隔壁の設計見直しまで求めていて、事故調を驚かせる――幻の建議となった与圧空気の噴出から垂直尾翼を守るための措置や、油圧4系統が一斉に破断されないような防護措置の必要性が述べられ、さらには後部圧力隔壁の基本的なフェール・セーフ設計についても懸念を表明

11日後には、B747B767型機と同様なドーム型圧力隔壁のセール・フェース性を再評価するとともに隔壁の修理方法についても再評価するよう追加勧告

11月にはボーイングの工場で後部圧力隔壁の疲労テストが開始――開発当時は、胴体に組み込まれた形で胴体と一緒に2万回の与圧をかけた疲労試験を実施していただけだったため、経済寿命である2万飛行回数の2.5倍にあたる5万回の与圧をかけても疲労による破損のないことが確認されたが、さらに加工傷から亀裂が進展した場合を想定した試験では予想外に亀裂が広がることが判明――後部圧力隔壁は傘上の構造で、直径4.56m、厚さ0.80.9㎜のアルミ合金板でできた隔壁板に、36本の傘の骨(スティフナ)が伸び、リング状の補強材(ストラップ)4重の同心円を描くようにリベットで隔壁版に固定され、隔壁版は36x5の区画に分割され、1つの区画の亀裂・破損が他の区画に及ばないようなフェール・セーフ(多重安全)設計で、1区画の破損に留まっている限りは圧力逃がしドアが開いて空気を逃がすので胴体尾部や垂直尾翼が噴出空気の内圧で破壊されることはないという構造になっているが、隔壁板のリベット接合部に意図的に亀裂を入れた試験では、1600回の与圧で、亀裂が1区画に留まらず他の区画に伸び続けることが判明

胴体機首部の強度不足に続き、2つ目の弱点が露見し、ボーイングは新たにストラップを2枚追加する設計変更を決断

l  冷え込んだ空

事故後の日本の空は冷え込み、年間の旅客実績は前年比3%減、その前の年の9.5%増と比べると、落差は歴然。すでに’83年にはパンナムを抜いてIATA加盟航空会社の中で国際運送実績でトップだったが、経営最大の危機に陥る

事故調の予算要求に対し、大蔵省は原因者負担の原則を主張、年間40百万円程度の定常予算以外は認めないとのスタンスで、結局政府予備費として支出、調査の進捗を妨害する

 

第3章        進む解析

l  日米合同ミーティング

翌年1月、米国調査チーム来日――米国チームは、日本側に対してフランクに、自らの属する組織の利害から離れて、1人の独立した研究者として日本側の研究者と率直に技術関係の意見を交換、日本側の金属疲労亀裂の徹底的な調査に対し、その結果を認めて率直な評価をしてくれたのに対し、日本側は、秘密保持に固執するのと、米側の積極公開姿勢に疑念を持つあまり、米国チームに対しても決してフランクだったとは言えない

米側は、製造国としての絶大な技術力で、それまでの解析結果を伝える

l  職人芸

DFDRの解析では、圧力隔壁破壊による異常発生時と、御巣鷹山への墜落直前に立木などに衝突した際の2カ所で、記録装置に大きな衝撃が加わったためか、テープが乱れ解読不能だったため、12月から詳細な解析が始まる――機体に加わった加速度によって機体にかかった力の方向とその正確な時間がわかるし、事故機の飛行ルートについても所沢の航空交通管制部のレーダー航跡記録が山などに阻まれて電波が届かない所は不明のままだったので、その補足が可能。’66年以降装着が始まったもので、当初はアナログのFDRで、記録内容も基本情報に限定されていたが、B747型機からデジタル化され、損傷を受けにくいとされる機体尾部に装着。今回の事故後、磁気テープの自動再生が26カ所でエラー表示が出て、衝撃の酷さを物語るが、そのエラーを解読するのは世界にも類例のない職人芸

解析から航跡が解き明かされ、降下率は1分間当たり5400m1600mくらいでやや姿勢を持ち直すが、樹木をなぎ倒したところでエンジンが次々に脱落、数秒後に山腹に激突するが、データが示すその時の機体の姿勢は「縦揺れ角 -42.2(機首を40度以上地上に向けている)」「横揺れ角 131.5(裏返し状態)」「対気速度 263.7ノット(488.4/h)

l  音との格闘

CVRの磁気テープは再生しても、エンジン音や機首部などの風切音で1%も聞き取れない

航空事故では異常事態の継続時間はそう長くはないので、磁気テープも30分のエンドレステープになっているが、8119型機ではたまたま2分余分になっていたことが幸いして、3216秒の記録の開始直後にドーンという異音が記録されていた

異音直後の午後62440秒過ぎ、機長が「スコーク77(イマージェンシーコール)」と緊急事態を宣言、録音終了の65621秒までの9割以上が解読されたが、聞き取れなかった箇所は60カ所以上に及ぶ

l  ボーイング

3月、事故調による「事実調査に関する報告書案」を米側に提示。圧力隔壁の修理を行ったボーイングの担当者から、ミスの原因を探ろうとしたが拒否される

米国では、製造会社も航空会社も、行政も刑事訴追の対象にはならないが、日本では免責はなく、両国の制度の違いが調査の進展を阻んだ面もある

l  聴聞会

4月、事故調で議決された報告書案に基づき、法定の聴聞会開催

事故で娘を失った大阪工大学長から、ある程度のコントロールが可能だったとの前提で、通常の事故の場合に想定されるより安全な海上への着水を目的とした飛行が正しい判断だったのではないかとの指摘

4人のパイロットは、クルーが酸素マスクをつけた様子がなかったことから急減圧は発生せず、圧力隔壁原因説に拘らずに機体の変形の可能性についても調べるべきとの主張

空の安全問題の専門家からは、フェール・セーフ設計の改善策を探り、訓練の内容を超える緊急事態の発生を重く見て、そうした事態への対応を考慮する方向での調査も要求

l  コンピューターの威力

破壊解析にコンピューターの果たした役割は絶大で、破壊過程が克明に再現・検証される

圧力隔壁の強度分布状況や垂直尾翼の破壊試験でも尾翼の耐圧限界が客室にかかる圧力の半分程度でしかなかったことが判明

l  瞬時の破壊

機体最後部のAPU(補助動力装置)の脱落と尾翼破壊のタイミングが問題。計算による解析結果では、脱落がわずかに早く、DFDRとの解析結果とも一致したが、ほぼ瞬時に発生

l  生還は出来たか

機体に起きた異常をパイロットはどこまで認知できるのか――ほとんどすべての警報ランプが点灯し、警報音が鳴るが、効果を発揮するのは起きる異常が2,3の場合に限られる

シミュレーター・パフォーマンスが繰り返されるが、単一の操縦舵の機能喪失でも、気付くのに大きなばらつきがあり、全ての操縦舵が利かなくなった8119機ではクルーが何が起こったのか理解できなかったのは無理もない

テストでは、誰も手の施しようがなく、生還可能性はほとんど期待できないとの結論となったが、最適な機体制御方法を学んで訓練した後であれば、速度を着水可能な200ノット(370/h)以下に下げて海面に接水させる態勢に持ち込めることがわかった

急減圧下でもクルーが酸素マスクを着けずに対応していたとの指摘に対しても人体実験が行われ、個人差があって、24000ftでも意識喪失が起きない人もいることがわかった

ただ、クルーがなぜマスクを着けなかったのかは不明のまま

l  巡ってきた夏

198610月、バンコク発マニラ経由大阪行きのタイ航空エアバスA300-600型機が高知沖合で爆発音とともに急減圧が起き、一時操縦機能を失いかけダッチロールしながらも、約20分かけて大阪空港に緊急着陸。後部圧力隔壁が破損されていたが、乗客の暴力団員が手りゅう弾を爆発させたための事件だった

300には、垂直尾翼の胴体付け根部分の作業点検孔に元々蓋がしてあり、圧力隔壁が破壊されて与圧空気が噴出しても、垂直尾翼は無傷だったし、3系統ある油圧配管も1系統が生き残って最小限の操縦機能が確保され、、ジャンボ機とは際立った違いを見せていた

この事故が、B747のフェール・セーフ性を事故調が検討する際の参考になった

l  フェール・セーフ

日本の航空事故調査史上で、航空機の設計思想にまで踏み込んで、本格的な検討を加えるのは初めて

隔壁の亀裂が1区画に留まるという「フェール・セーフ」の設計思想の前提が崩れ、それが他の機体構造のフェール・セーフ性を無力なものにしている

油圧システムのフェール・セーフ性の最大の弱点が垂直尾翼部分で、胴体部分などでは4系統が分散して配管されているのに、垂直尾翼部分はスペースが限られていたため、1カ所に集中していた

戦後のジェット時代の源流は、イギリスのデハビランド社のコメットで、1952BOACが商用飛行を開始するが、小事故の後、'53年カルカッタ空港で離陸直後に墜落、翌54年には地中海への墜落事故が続発、原因は金属疲労とされたが、事故の教訓として生まれたのが「フェール・セーフ設計」で、一部の不具合が破局的な事故に至らないよう多重安全を考慮したもの。その設計思想で生み出されたのがB707DC8で、それ以降のほとんどの旅客機に及んでいるが、'69’70年と相次ぐ米空軍のジェット爆撃機の事故では製造段階の傷などがもとで亀裂が進み、整備段階でも発見されないまま事故につながったことが判明、総合的な対策を検討した結果生まれたのが「損傷許容設計」で、フェール・セーフの考え方に加え、製造段階の多少の材質欠陥などは元々あることを想定し、それでも破局的事態に至る前に定期点検で亀裂などが発見できるよう一層の設計上の配慮を要求

米国ではすでにB747型機の構造設計見直しが進み、'86年末には最終報告を出す――機首部分の強度不足に加え、胴体構造が他の機体構造に比べ安全余裕が少なくリベット孔周辺では同時多発亀裂が発生しやすいとの指摘から、経年機に対する特別の点検を勧告

事故調としては、B747型機のフェール・セーフ性について、開発当時の設計と運用実績に基づく点検・整備は妥当としながらも、今回の事態を発生を阻止するための配慮まではなされていなかったと控えめに示したが、この配慮不足こそが耐空性基準の改善を求めるという画期的な勧告を日本の事故調が行うための重要な布石となった

l  火中の栗 発見確率

点検・整備作業での不具合の発見確率の問題は、再発防止には必須だが、事故の責任追及の重要な根拠でもある

整備の歴史は、ジェット時代以前は「予防整備方式」が全盛で、あらかじめ使用限界時間を設定、時限到来前にすべての部品を分解して整備・点検する(オーバーホール)方式だったが、ジェット時代に入ると「信頼性管理による整備」になり、オーバーホールは行うが、時間と共に劣化しないようなものはその信頼性をモニターしながら使用し、必ずしも使用限界時間を設定しないという考えに変わる。その整備方式を設計面で支えたのが「フェール・セーフ設計」だが、それまでの整備方式をさらに大きく変えたのがB747で、より体系化した「コンディション・モニタリング方式」という、運行されている同一機種の故障データを監視しながら対策を取ってゆくという考え方で、大型化複雑化する機体の整備の重要性が増しながら、メーカーがユーザーに責任の一部を転嫁することになり、英国などは反対

今回の事故のようなマルチサイトクラックは想定外で、整備体系の大きな落とし穴

単一の亀裂の発見確率は、米空軍の技術資料などから10%程度と推計されたが、マルチは例がなく、1460%という玉虫色の数値しか出せなかった――目視点検で亀裂が発見できるデータがないことが明るみに出、最終報告ではその研究促進の必要性の建議として結実

l  マルチサイトクラック

米国ではマルチサイトクラックに関しても検討チームを発足させたが、クラックが機体外板側で目視できるまでにはなかなか至らないことから新たな対応を必要とするというFAA側と、目に見える亀裂である以上整備・点検で発見できるので、機体構造そのものの見直しまでは不要とするボーイング側とが激しく対立、結論が出ない

1988年、アロハ航空のB737-200型機が、24000ftを飛行中、胴体前部の天井部外板が吹き飛ばされ、スチュワーデスが1人機外に吸い出されて行方不明になり、機体は辛うじて緊急着陸に成功した事故が発生、マルチサイトクラックによる事故の3件目となり、21年にわたり89千回も飛ぶ老齢機(高飛行回数機/経年機)だったことが問題に

FAAはこの事故を機に方針を転換、改修可能なものについてはメーカーによる改修を優先させ、運航会社によってばらつきの多い整備・点検に頼らせないように変更

 

第4章        勧告へ

l  ポリスが怖い

'873月、最終報告書を米国NTSBとすり合わせ

しりもち事故のあと8119型機の隔壁修理を検査した運輸省航空機検査官の1人が、同省を勇退して間もなく、連日にわたって群馬県警の取り調べを受けた後自殺していたこともあって、報告書完成後に本格化する群馬県警の捜査に対しボーイング側はナーバスに

l  せめぎ合い

国内の原因関係者は日航と運輸省航空局だが、航空局は自らを「関係者」と呼ぶことに異議

内容で問題になったのは、クルーによる操縦の問題と、修理ミスと点検を巡る問題

ボーイング側は、酸素マスクを装着せずに操縦を続けたクルーが急減圧に備えた訓練を怠っていたと、暗に日航の非を匂わそうとし、修理ミスでも発見確率を都合のいいように解釈して自らの責任の軽減を図ろうとする

l  さびた宝刀

事故調は1974年の発足以来、勧告という伝家の宝刀を抜いたことがなかった

NTSBが大統領直轄の機関であるのに対し、事故調は建前上独立は謳うが運輸省内の組織であり、「勧告」は出しにくく、勧告の内容を報告書に盛り込むことで済ましてきた

委員長の武田は、幻の建議のこともあり、当初から勧告を出す決意を固めていた

'86年初の異動で、5人の委員のうち3人が航空研究者となり、内部のコンセンサスは容易となり、勧告に基づく改善策の実現性についても航空局の説得を開始

l  抵抗する航空局

改善策の1つが、エマージェンシー・コールの発生機に地上からの支援や助言ができないかという点で、管制にそれだけ高度な知識を持つ人材の配置は難しいとして断念

航空機の遭難に際しては、世界共通の121.5メガヘルツの緊急周波数の使用が認められているが、事故機との交信周波数を分離しても、管制官に余裕がなければ意味がないとされたものの、’86年のタイ航空の事故では、管制が早期の周波数分離を行って大阪空港への誘導を果たしており、今回の事故の教訓が生かされた

クルーの異常事態への対応能力を高めるための訓練強化の方策についても、航空局は自分たちが安全性を確認した機体に重大な損壊が起きることを認めることになるとして抵抗

l  蘇ったロー委員会勧告

勧告には、圧力隔壁などの与圧構造の損壊が起きても、最低限の操縦機能などが失われないような措置を耐空性基準に盛り込むことを求める

その背景には、フェール・セーフ性が機能しないほど安全性が疎かになってきていることと、今回の事故直前に廃案となった「ロー委員会」の安全勧告が脳裏にあった

既にボーイングでは、B747型機について、垂直尾翼点検口に蓋をしたり、油圧系統の一部に遮断弁を設置するなどの改善を決定しており、FAAも勧告受け入れに向け動き出す

5月にはNTSBからもno commentの回答が届き、最終報告書として完成。かつてなく多くの情報を盛り込み、情報公開を飛躍的に進めたもので、航空事故調査史上画期的

l  自己採点は70

619日、最終事故調査報告書公表。5項目の提言は、将来の航空安全への寄与に繋がる

報告書は、鑑定書として群馬県警にも渡される

修理ミスについては、「作業工程における検査を含む作業管理方法の一部に適切さに欠ける点があったと考えられる」とし、ボーイング、日航、航空局3者の関与の度合いについては判断せず。胴体に発生したひずみについても、矯正せずに修理を進めたことがミスを誘発した疑いが強いとしたが、ひずみは3者のどの立場でもチェックすべき課題だったとした

l  捜査との軋轢

遺族の反応は複雑――8.12連絡会は、「報告書を基に議論を交わし合い、教訓が生かされ実施されていくことを願う」としたが、個々人では不満も多く、特に修理ミス発生の原因を問う声が強かった

事故調と警察、事故に関わる両者の立場の違いが様々な軋轢を生む――事故調設置法成立の段階から捜査当局と運輸省の間で具体的な作業区分や協力のあり方を取り決めていたが、立場と目的の異なる両者の活動にも拘らず、調査報告書が鑑定書になる時点では一体化してしまうという点に無理が内在

米国では、航空事故の関係者でも、故意だったり重大な責任が立証されなければ刑事責任を問われない、という法制度上の違いがボーイング側に現実的で合理的な対応をとらせた

群馬県警は、日航の整備担当者らは被疑者なので、証拠物件である残骸のある現場に入らせるわけにはいかないとの立場

l  曲がった10円玉

報告書の弱点の1つが、医学関係の調査・研究であり、生存率向上への検討は皆無

犠牲者の1人の遺族は、遺体は見ない方がいいと言われ、渡された遺品のハンドバッグの中身は100Gものショックでひしゃげた財布とその中の曲がった10円玉だった

4人の生存を「奇跡」と表現したのは不適切との指摘もあり、生存率を議論する余地がなかったにしても、間接的な教訓を日常から研究することも事故調には期待されている

 

エピローグ

l  実った安全勧告

1990年、FAAが旅客機の耐空性基準を定めた連邦航空規制を一部改正――後部圧力隔壁など旅客機の胴体与圧構造が破壊されても最低限の飛行が確保できるようフェール・セーフ性を高める措置を求めたもので、日本の事故調の勧告が実現

他にも事故調が勧告・建議した安全提言が生かされている――大規模修理に際しては作業管理を入念に行うよう指針が定められ、大規模修理した機体については長期監視プログラムを設定し整備段階での点検を強化、異常事態に対する乗員の対応能力の向上や、目視点検による亀裂の発見に関する調査・研究についても委員会が設けられ、既に改善策が打ち出されている

l  事故調のメモリアル

事故の再発防止の観点からは、拙速こそ良作という面があるのも事実

今回も、NTSB4カ月で区切りをつけ、安全向上のための改善勧告を行っている

最終報告書までの110カ月の間、日航がボーイングに要求したり、NTSBの勧告などに基づく改善策は次々に実施されたが、事故調がリードできなかったのは心残り

航空事故以外にも鉄道やパイプラインなどの事故に対応するため、多くのスタッフを抱えて、半年から1年で結論を出すNTSBとは比較にならないが、調査の迅速性以上にNTSBが重視しているのが安全勧告で、必要に応じいつでも勧告を出すことを鉄則としている

調査の迅速性と効率を上げるためには、エアラインや航空機メーカー関係者を、何らかの形で事故調査の一員に加える必要がる

事故調の調査活動は、一定の成果を上げたが、人間と機械がいかに有効に安全を確保していくか、事故調に課せられた課題が尽きることはない

 

 

 

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