図説 セザンヌ《サントーヴィクトワールの山》の世界  工藤弘二  2022.12.12.

 2022.12.12. 図説 セザンヌ《サントーヴィクトワールの山》の世界

 

著者 工藤弘二 1979年生まれ。東北大文学研究科博士課程単位取得退学。国立新美術館アソシエイトフェローを経て、現在、ポーラ美術館学芸員。担当した展覧会に、「セザンヌ―パリとプロヴァンス」(‘12、国立新美術館)、「セザンヌ―近代絵画の父となるまで」('15年、ポーラ美術館)、「モネとマティス―もうひとつの楽園」('20年、ポーラ美術館)

 

発行日           2022.8.30. 第1版第1刷発行

発行所           創元社

 

はじめに

セザンヌが晩年にたどり着いた境地――芸術は自然と並行する一つの調和

色彩による形態の表現を追求し、筆触による画面の構築を目論んだその成果は、目の前にある自然の観察に基づきながらも、自然からは独立した造形にまつわる諸要素からなる自律した芸術として高く評価され、後世の芸術家たちに多大なる影響を与えた結果、セザンヌは「近代絵画の父」としての名声を獲得する

その評価は、「どのように描いたのか」という形式主義の見方から形成されたものだが、「何を描いたのか」こそが出発点であり、風景画の場合、滞在した場所であり、環境など、まだ十分に語り尽くされていない。セザンヌが訪れた場所、それぞれの環境でいかなるモチーフを発見したのちに、もう1つの調和としての芸術を、どのように描き出したのか

本書が詳細にたどるのは、文字通りセザンヌの足跡であり、各地の環境に触発されて展開した、その芸術の軌跡である

画業の後半期から集中的に取り組まれ、最晩年に至るまで止むことのなかったその制作の成果は、数十点に及んでいる。一連の作品を網羅し、その総体を示すために編まれた本書から浮かび上がるのは、長い時間をかけて取り組まれたサント=ヴィクトワール山の連作ならではの、プロセスとヴァリエーションである

 

Introduction パリとプロヴァンスで自らの芸術を切り拓く

Chronologie セザンヌの生涯――フランスの南北を往復し続けた67

l  南仏のエクスで画家になる夢を抱く

1839年エクス=アン=プロヴァンスの生まれ。父は帽子の製造業から銀行家となり成功、新興の有力者となった威厳溢れる父の存在は、ポールの生涯に多大な影響を及ぼす

13歳で入学した中学では、後年の小説家エミール・ゾラや天文学者となるジャン=バティスタン・バイユとの交流を深める

1857年地元のグラネ美術館付属の無償のデッサン学校に入学、1823歳まで定期的に通い、時には賞を取る

父親の強い意向によりバカロレア(大学入試のための国家資格)取得後、エクス大学法学部に進学するが、ゾラの助言で1861年パリへ。以降パリとプロヴァンスの間を20回行き来することに

l  パリの美術界に挑戦し、印象派展に参加

1862年、アカデミー・シェイスで学ぶ

1861年、パリではサロン(官展)に顔を出すが、国立美術学校の入試には2度失敗、サロン出展も落選を繰り返し、1882年父の肖像画が唯一の入選を果たすが、知り合いに頼んでのコネで、作品も十数年前のもの

セザンヌが身を投じたのは、前衛美術における最新の潮流で、1862年私立の画塾アカデミー・シェイスに学び、研鑽を通じて志を同じくする仲間との交流を通じ、カミーユ・ピサロと出会う

1869年、将来の妻オルスタン・フィケに出会う

1870年、初めてサントーヴィクトワール山を描く

画業の初期は、暗鬱な雰囲気のロマン主義の時代で、左官屋が鏝(こて)で漆喰を塗るかのような、厚塗りの絵具による制作を得意としていたが、ピサロによって煌めく色彩が画面を彩る印象派の作風への転換をもたらし、伝統的な美術界の外側で、冒険的な形式の展覧会を繰り返す印象派の波に乗って、1874年第1回目から参加し3点出品、批判にさらされながらも、著名な収集家のアルマン・ドリア伯爵がセザンヌの作品を買い上げ、'77年の第3回展でも自ら芸術活動の最大の擁護者となった収集家である《ヴィクトール・ショケの肖像》など17点を出品

l  プロヴァンスを拠点に南北を往復して活動

1882年、ルノワールとレスタックで共同制作。生涯唯一のサロン入選。活動の拠点を本格的にプロヴァンスに移し、サントーヴィクトワール山の連作に本格的に取り組み始めたため、パリでの存在は美術界から等閑に付される

この時期セザンヌの芸術に高い評価を与えたのはゴーギャンとベルナール。ゴーギャンはセザンヌのコレクターとなり、セザンヌの作品を研究したベルナールと共に、'90年代にセザンヌの名声が高まるきっかけとなった

1886年、オルスタンと結婚。父逝去

l  個展が評判を呼び、徐々に名声が高まる

1895年、画商アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で開催された初の個展では、初期から最新までの作品が一堂に会し、パリ美術界を席巻する決定的な機会となる

1900年、第5回パリ万博で、「フランス美術の100年」展に3点出品

1901年、ヴォラール画廊で第4回個展

モーリス・ドニによる《セザンヌ礼讃》は、ヴォラール画廊に集まったセザンヌの信奉者たちがゴーギャン旧蔵の《コンポートのある静物》を囲んで立ち、まさにセザンヌ礼讃の機運を如実に物語り、1901年開催の国民美術協会に出品され衆目を集める

1904年、若き芸術家の登竜門第2回サロン・ドートンヌでは、大画家シャヴァンヌや印象派人物画で大成功を収めたルノワールなどと並んでセザンヌにも1室が捧げられた

1906年、自宅にて逝去。翌年のサロン・ドートンヌでは回顧展開催、49点の油彩画と7点の水彩画が出展され、フォーヴィズムやキュビスムを始めとする20世紀美術にまつわる壮大な物語が開幕する

 

Chapitre 1         パリ 画家になることを夢見て、芸術の都へ

²  (地図) セザンヌのアドレス

²  (地図) セザンヌが訪れたパリ/イル=ド=フランス

l  画家セザンヌを育んだ近代都市パリと印象派

芸術の中心地パリで17カ所も転居を繰り返した――まずはサロンに挑戦する前衛画家、次いで印象派の一員として、40代に差し掛かるまでの大半の時間をパリで過ごす

当時の画家が取り上げたのは、急速に変貌する都市や郊外における余暇の場面・近代生活の情景だったが、セザンヌは主題よりも技法にまつわるモデルにて(近代性)に関心を示し、クールベの影響を過激に展開した「クイヤルド技法」と呼ばれる厚塗り技法を駆使

印象派の技法を習得したのは、パリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズでのこと。ピサロの教えを乞い、筆触分割による鮮やかな色彩の技法を学んだが、これも北フランスでの交流の賜物。ピサロの影響から脱して、独自に洗練させ、「構築的筆触」が最高潮に達したのは、フォンテーヌブロー近郊の街ムランでのこと

ゴーギャンとベルナールが一時期この技法を研究、この頃新進の芸術家たちによるセザンヌの受容がすでに始まっており、ゴーギャン始め象徴主義の画家たちが与えた高い評価は、セザンヌの名声確立の礎となる

1895年、デュラン=リュエル画廊で開催されたモネの個展を訪問、《ルーアン大聖堂》の連作20点ほどを目撃して、同一の主題を天候や時間による光の効果で描き分け、それらを一堂に会してその異同を強調し、全体として連作を展示する手法の意義を見抜く

セザンヌが、エクスの北側にあるレ・ローヴの丘から眺めたサントーヴィクトワール山の油彩画を、ほとんど位置を変えずに10点ほど制作したのは晩年のこと

 

²  パリ~セザンヌが描いた数少ないパリの横顔

パリでの前衛画家たちとの交流の中でも特筆すべきはピサロとの出会い

当時の最新の動向は、戸外制作であり、初期作品《ポニエールの渡し舟》はパリ北西60㎞の地で友人たちと共同制作した時のもの。クールベの重厚な絵具の質感や、マネの色調を彷彿とさせ、セザンヌが様々な動向に注意を払いつつ独自の表現を模索していたことがわかり、同時に早くも画家が生涯にわたって取り組んだ水の反映に対する意識が表れている

「アトリエで描かれた絵画は、外光の下で描かれたものには決してかなわない。素晴らしい事物が見えるから、描くのは外光の下の事物に限ると心に決めることが必要だ」(1866年、ゾラ宛の手紙)

l  画家が見つめた人気のないパリ

パリを描いた数少ない作品に垣間見えるのは、画家がこの都市に抱いた複雑な心情――《パリ、ジュシュー河岸(ワイン市場)》は、普仏戦後に戻ったパリで、普段は賑わう市場の人影が去った様子を描き、侘しさが漂う

 

²  オーヴェール=シュル=オワーズ~田舎の情景を線と面でリズミカルに構成

セザンヌが印象派の時代を迎えた場所として知られ、パリから北西30㎞、'72年に移住

ここでピサロを訪ね、印象派の技法を学ぶ

彩度の落ちる絵具の混色を避け、原色のまま筆触を並べることで、色彩の輝きを最大限に生かす筆触分割が用いられた作品の制作に充実を覚え、初期の作品《ガシェ医師の家、オーヴェール=シュル=オワーズ》(‘7273)、《ラクロワ爺の家、オーヴェール=シュル=オワーズ》('73)を最初の印象派展に出品

オーヴェールには、印象派のコレクターとして名高い医師でアマチュアの芸術家でもあったポール・ガシェの邸宅もあった。この地でセザンヌが最も頻繁に描いたのは、長閑な田舎の小道に沿って立ち並ぶ様々な家を含んだ景観で、空間に際立った景観をもたらす人工的な建造物は、自然の中にリズミカルな線や面といった造形言語を導入する役割も担っており、セザンヌは滞在した地域において、生涯を通じて数多くの建造物を描き続けた

l  自然を見つめ、自らの個性を発揮

1回印象派展への出品作《首吊りの家、オーヴェール=シュル=オワーズ》(‘73)は、印象派時代におけるセザンヌの代表作とされるが、展覧会後にアルマン・ドリア伯爵が買い上げ、1889(ママ)のパリ万博での「フランス美術の100年」展に出品されたため

伝統的な遠近法とは異なる方法を実践、ごつごつとした質感の厚塗りの絵具が浮き彫りのように画面を覆い尽くしているが、初期の作品にみられるような陰鬱な雰囲気は微塵も感じられず、自然を前にした戸外制作において、自らの個性を存分に発揮した作品

 

²  ポントワーズ~印象派の師ピサロから多くを学んだ地

セーヌの支流オワーズ川に沿った町であり、ピサロからの教えを受け、2人で戸外での共同制作を繰り返した――《オスニーのレ・スール池、ポントワーズ近郊》(’77)

l  2人の画家の気質とそれぞれの「感覚」

2人が同じ景観を目にしても、それぞれの気質を通じて得られる感覚は別のもので、この個性ともいえる「感覚」をカンヴァスの上に独自に定着させることこそが印象派の目的であり、セザンヌはこのことを「感覚の実現」と表現――《サン=ドニの丘、ポントワーズ》(‘77)は、ピサロとほぼ同じ景観を描きながら、ピサロの色彩どうしの関係を綿密に模索した繊細な画風に比べて、セザンヌは描く対象を単純化し、絵具の質感を強調しながら、空間をいかに造形的に構築しようとしたのかが明確になる

 

²  ムラン~周囲の影響から離れ、さらなる独創性を追求

オワーズ川の流域から離れて、パリの南東40㎞の街ムランで独創性の追求に拍車をかけ、「構築的筆触」と呼ばれる技法を進展させる――筆触を同じ方向に並べることで形作られる色面の単位を用いて規則的に空間を構成していくもので、色彩のグラデーションの効果も

《マンシーの橋》(‘7980)はその代表作

 

²  メダン~親友ゾラの別荘地が制作の新たな刺激に

パリ北西30㎞、セーヌ川沿いの別荘にゾラが友人たちを招き、画家たちの人気スポット

《メダンの館》(‘80)は、川の中の小島から河岸の景観を描いたもので、ポプラ並木、川沿いの茂み、水面にはそれぞれの方向の筆触が幾何学的な規律で並べられている

 

²  マルヌ~セザンヌの感覚を刺激する川のほとり

パリの南東10㎞、マルヌ川流域のサン=モール=デ=フォッセに滞在したのは1894年だが、その前後の期間に15点ほどマルヌ川を描いた風景画を制作

《ムーラン・ブリュレ、メゾン=アルフォール》('94)や《マシェフェール島の橋、サン=モール=デ=フォッセ》('9598)など、自然がもたらす静寂の中で、刻々と変化する水面の煌めきを確かめながら、再現と抽象をめぐる表現に心を奪われる

l  川を描く~絶えず表情を変える川のほとりで造形の可能性を探る

川沿いの田園的な情景を活写した印象派の画家たちと違って、セザンヌは画面の下部に川を水平に配置することが多いことから、筆触や構図といった造形上の問題により関心を抱いていたことがわかる

セザンヌに最もゆかりの深い河川は、故郷のアルク川だが、エクスの川を描いた作品は最晩年の水彩画《トロワ・ソッテの橋》('06)くらい

川のほとりはセザンヌの感覚を刺激してやまない場所であり、河川をモティーフとした風景画の多くが北フランスで制作され、集中的に描かれたのはマルヌ川の流域で、以前の作品に比べると、画面全体に占める水面の面積が増えている

 

²  シャンティイ~名高い史跡を舞台に抽象的な表現を模索

パリの北40㎞、並木道を取り上げた作品を3点制作――《シャンティイの並木道》(‘88)は、並木道の奥にルネサンス期の遺産シャンティイ城が見えるが、同じ構図のもう1枚では異なる筆触の効果や異なる色彩の効果を分析的に描き分けているために、城の存在が隠されており、色斑の連なりの効果そのものに画家の関心が向けられていることがわかる。このような抽象的な表現は、画家の晩年様式を予告するもの

 

²  フォンテーヌブロー~バルビゾン派が愛した森で岩石を描く

パリの南東50㎞のフォンテーヌブローは、バルビゾン派の画家たちの活躍した場所で、セザンヌがこの森を製作の拠点にしたのは’7980年、近郊のムランに居住して以降のこと。画家の関心は、森の中に点在する夥しい数の岩石にあり、アプルモン渓谷を始めとする森の中の渓谷には特徴的な岩石が連なり、画家を魅了――《フォンテーヌブローの岩》(‘93)はどこか軽やかな印象を受けるが、水彩による技法に影響された薄塗りのためであり、画家が色彩による独自の造形を推し進めるうえで、水彩の技法が本質的な役割を果たしている

l  湖を描く~セザンヌがスイス近郊で描いた唯一の景勝地、アヌシー湖

1896年、スイス近郊の保養地たロワールに家族共々滞在――《アヌシー湖》は、湖の水面が画面の半分を占めていて、対岸のジュアン城も描かれているが、観光地の史跡や景観には違和感さえ覚えていたようで、、水面に対する関心が貫かれている

 

Chapitre 2         プロヴァンス 強烈な陽光の下に生まれた新たな創造性

パリで学んだ成果を南仏の環境で実践

²  (地図) セザンヌゆかりの場所

²  (地図) セザンヌが歩いたプロヴァンス

l  家族や親族にゆかりのある場所を好んで制作に没頭

セザンヌにとってのプロヴァンスは、地理的にも心理的にも、いつでも帰ることのできる故郷で、自然に溢れたこの地方における青年時代までの記憶は、画家の生涯を通じて忘れがたいものとして刻まれた

最後のアトリエとなったレ・ローヴでは、生涯で初めて独立した芸術家としての理想的な空間を手に入れている。私的な環境を好んで制作に励んだという事実は、セザンヌの制作した風景画の性質を考察する上で欠くことのできない視点

l  セザンヌの探究を導いたプロヴァンスの「偉大なる魔術師」

芸術の最前線であるパリで最新の技法を学び、その「定式」を南仏の環境で実践することにより、画家の独創性に磨きをかけるというのは、'62年にゾラがしっかり予言している

印象派の運動は、基本的にパリ中心に行われ、束の間の瞬間性を捉えようとするがゆえに、移ろいやすい性格を持つその美学は、とりわけ風景画の場合、柔らかく繊細な光が舞い降りる北フランスの環境と密接に結びついていた。一方、南仏の強烈な陽光は色彩を鮮明に浮かび上がらせるとともに、事物の輪郭を鋭く際立たせる。故郷のプロヴァンスは、色彩と形態にまつわる独自の探究を進めるにあたり、格好の環境となった

最初の事例は、マルセイユ近郊のレスタックで、強烈な光の降り注ぐこの地でじっくりと自然を観察した画家は、原色のシルエット、すなわち色面として対象を捉える方法を発見し、色彩による形態の表現に拍車をかける

1880年代から活動の拠点をプロヴァンス地方へと移行――セザンヌの実践とは、浮き彫りとなった自然の構造を、色彩と形態による自律した構築物として絵画に翻案することであり、「偉大なる魔術師」と画家によって形容されたプロヴァンスの太陽が、この探求を導いた

 

²  エクス=アン=プロヴァンス~画業の初期に描かれた故郷の風景

初期様式の特徴を示すのが《セザールの塔》(‘62)――自由で伸びやかな描法は、エクス出身の新古典主義の画家の影響を色濃く反映

 

²  ジャス・ド・ブッファン~南仏における最重要拠点となった場所

1859年、銀行家として成功した父が、エクスの西2㎞のジャス・ド・ブッファン(風の館の意)に別荘を購入。両親はそこに移住、1899年遺産分割のため売却するまで、セザンヌ一家の生活の舞台となり、定期的に帰京する画家が常に戻るべき場所となった

《ジャス・ド・ブッファンの邸宅と農場》(‘87)、《ジャス・ド・ブッファンのマロニエ並木と農場》(‘76)、《ジャス・ド・ブッファンの水槽、冬》('78)、《ジャス・ド・ブッファンの水槽と洗濯槽》(‘8586)など、長年にわたって敷地内の至る所で戸外制作

 

²  レスタック~南仏の一大拠点に画業の前半期における軌跡をたどる

レスタックはマルセイユの北西10㎞、地中海に面した漁村で、初期から印象派を超えて独自の表現を模索した’80年代までの、プロヴァンス地方における画業の軌跡をたどることのできる場所。保養地としての評判も高く、’64年母と休暇を過ごして以来の土地

レスタックに備わるありのままの自然、とりわけ海と岩のモティーフに惹かれ、最初期の習作《レスタックの岩》('65)では大胆な筆触が用いられている

l  海を描く~俯瞰から捉えられた平面としてのパノラミックな海

3回印象派展への出品作《レスタックの海》(’76)では、対象の量感を表現する伝統的な手法である「肉付け(モドゥレ)」ではなく、原色のシルエットに還元されたトランプのカードのような平坦な形態を活用して空間を構成するやり方をセザンヌが見出している

海というモティーフも、セザンヌがレタックスで集中的に取り組んだもの。年代が進むにつれ海の占める割合が増える。海景をパノラミックに捉えるために、俯瞰という視点から景観を眺められる地点を探し続けた

様々な時間や天候における海の特徴をありありと捉えた伝統的な海景画とは異なり、セザンヌは海の広がりを平面そのものとして描き出す。周囲の何ものをも反映することのない不透明な海は、均質な平面としてその広がりを主張するばかり

 

²  ガルダンヌ~中世起源の城塞都市で絵画の構築を究める

エクスから南に10㎞離れたガルダンヌは、中世を起源とする城塞都市の面影を残した村

セザンヌが滞在したのは、’8586

ガルダンヌの環境が進展を促したのは、目の前の自然の中に客観的な構造を発見し、その構造に基づいて絵画を構築するというやり方。旧市街の景観に触発されて、セザンヌの幾何学的な構築はこの地で最高潮に達し、後のキュビズムを予告

 

²  モンブリアン、ベルヴェ~妹夫婦の住む土地も制作の舞台に

ジャス・ド・ブッファンから南に2㎞も離れていないところに、’81年妹がエクス出身の弁護士と結婚して住む

親族ゆかりの土地から眺めた景観をセザンヌが多く描いたのは、主に’859510年間

 

²  ビベミュス~自然と人の手の痕跡が残る石切場での探求

サントーヴィクトワール山の西にある岩石からなる台地で、古代ローマ時代を起源とするエクスの歴史の中で石切場として活用されて場所

石切場に残されていたのは、何年もかけて自然が侵食した岩石のありのままの様相と、石材を切り出した結果としての人工的な痕跡とが入り組んだ景観

‘90年代半ばから10年にわたってこの場所で戸外制作を繰り返す

l  岩を描く~南北の往復を通じて表現の進展を見たモティーフ

岩場を主とする景観を描いたのは3カ所。地質学者となった友人の発掘調査に触発されて、この土地の自然が時間をかけて生み出した岩石の巨魁が連なるパノラミックな景観に強く心を動かされ、そこに照り付ける陽光の生み出す効果を活写

 

²  シャトー・ノワール~静けさに満ちた城館のある風景

エクスの東3,4㎞にあるのが「悪魔の館」の異名を持つシャトー・ノワール。183060年にかけて建造された独立した2つの構造体が直角に配置された建物。’8602年、この地域の自然を描くためにこの地に部屋を借りて制作

 

Chapitre 3         サントーヴィクトワール山 郷土を象徴する「聖なる勝利の山」

プロヴァンスの歴史と文化的な意義を担う山

²  (地図) サントーヴィクトワール山が描かれた場所

l  紀元前における勝利の記憶と聖母信仰が融合した名称

サントーヴィクトワール山は、エクスから東に10(ママ)離れた石灰岩の山塊、最高峰は1011mのピック・デ・ムーシュ。BC102年、共和政ローマがチュートン族の侵略を撃退した記念碑的な勝利の記憶が、その後聖母マリアについてのキリスト教の信仰と融合、17世紀にはこの山を「聖なる勝利」と呼び始める

l  サントーヴィクトワール山を描いた19世紀の画家たち

エクス出身の新古典主義の画家グラネが、何度もサントーヴィクトワール山の習作を手掛けている――《修道女会》(’33)では、画中画として、修道女の日常の場面と、郷土の地誌的な、宗教的な象徴としてのサントーヴィクトワール山のイメージが重ね合わされている

l  プロヴァンスの象徴、そして公的な存在としても登場

20世紀初頭、エクス市から依頼を受けたルイ・ゴーティエが手掛けた市庁舎内の「国家の間」の室内装飾の一部には、風景と女性像からなる4つの寓意が創作されており、その1つが《エクス=アン=プロヴァンスの寓意》だが、そこには右手で帝笏を振りかざす美徳と共に、この地方を寓意するための景観としてサントーヴィクトワール山が描かれている

19世紀、サントーヴィクトワール山はその歴史における揺るぎのない意義故に、地方における文化的なランドマークとしての役割を一貫して担い続けたが、この点にこそセザンヌがこの山を描こうとした理由が求められる一方、その表現方法は他の画家たちとは一線を画していた

 

²  ジャス・ド・ブッファン~初期においては遠景で控えめに見えるのみ

《サントーヴィクトワール山と切通し》(‘70)は初期作例の1つで、実家から眺めた風景が捉えられている。敷地の向こうに鉄道を通すための切通しが切り拓かれた丘が見られ、遠景にサントーヴィクトワール山が登場する。中心的な主題はあくまで切通し

初期特有の自由な筆遣いで平坦に塗られており、絵具の質感が強調されている

 

²  ヴァルクロ~ジャス・ド・ブッファンの南側から眺める

親族ゆかりのモンブリアンやベルヴェは、ジャス・ド・ブッファンから南に延びるヴァルクロの小道をたどると徒歩で30分もかからない。その道沿いからサントーヴィクトワール山を眺めた2(‘7879)は、ほぼ同じ地点から描かれているが、わずかに位置を変更しながら異なる構図の可能性を探っているのはセザンヌの常套手段。角度を調整した規則的な筆触が所々に見られ、この年代における画家の関心の所在が示されている

 

²  モンブリアン~松の木や鉄道橋を配し、複雑さと規律をもたらす

《モンブリアンから見たサントーヴィクトワール山》(‘8285)は、高い1本の松で画面を分断、左側にはエクスの景観が広がりその背景にサントーヴィクトワール山が描かれ、画面右手にはなだらかに続くサングル山とその手前にはモンブリアンで描かれた作品に度々登場する鉄道橋が画面を水平に切り分ける。山はあくまで景観の一部にすぎない

l  ガスケの見たセザンヌ~「現代のアルカディア」としてプロヴァンスを描いた画家

19世紀後半、急激な近代化に抗するように勃興したのが地方主義で、その影響でフランス各地で文化復興運動が展開され、プロヴァンス語や民謡といった大衆文化が復興されたプロヴァンス地方もその例外ではなく、詩人フレデリック・ミストラルを中心として、古代プロヴァンスに由来する儀式や諸芸術の復活を目論んで1854年に創設された「ル・フェリブリージュ」の活動はその最たるもの

故郷に愛着を抱いていたセザンヌが地方主義運動に参加した形跡は見られず、パリの芸術家やコレクターたちがセザンヌのもとをこぞって訪れたのは晩年のことであり、彼らの間で「エクスの巨匠」というセザンヌの芸術家像が形成される。没後から時を経て、セザンヌとプロヴァンスの関係を一層強固にしたのが、ジョアシャン・ガスケの著作《セザンヌ》(1921)。ガスケはセザンヌの友人の息子でエクス生まれ、詩人や文筆家として活躍したが、古代の詩人ウェルギリウスを信奉、彼の謳った理想郷としてのアルカディアとプロヴァンス地方を同一視しており、南仏における現代のアルカディアを描き出した芸術家としてのセザンヌを捉えていた

l  セザンヌとルノワール~サントーヴィクトワール山をめぐる2人の巨匠の共同制作

とりわけ良好な関係を築いたのがルノワール

友情を伝える逸話に、サントーヴィクトワール山にまつわるものがある――1889年ヴァルクロの丘でサントーヴィクトワール山を望みながら共同制作をしたが、前景の木立に見られる構築的筆触が端的に示すように、造形的な側面を強く意識して制作されたセザンヌの堅固な様式と比較すると、独特の艶めかしさを備えた柔らかな作風で描かれた景観は確かにルノワールならではのもの。2人の資質の明確な違いがわかる一方で、ルノワールの画面が細長い斜めの筆触で覆われているのは傍らで制作していたセザンヌからの影響と思われる。同じ地点から制作されながら、山の大きさが異なるのも見逃せない。自然主義的なルノワールの作品よりも、セザンヌの描いた山の方がかなり大きめ。セザンヌは造形上の理由からモティーフの大きさをたびたび操作していたが、実景よりも威容を誇る山の描写には、郷土の象徴に対する画家の関心の高さが表れているのかも知れない

 

²  ガルダンヌ~東西に水平に伸びる山の側面を望む場所

エクスから南に10㎞ほど離れたガルダンヌからは、東西に水平に伸びる障壁のようなサントーヴィクトワール山の西寄りの一部の南側面を眺めることとなる

《ペイエンネの集落、ガルダンヌ近郊》(‘8690)では、この山を背景として、丘陵や平地、小道、家屋が整然と配置されている

 

²  ビベミュス~制作拠点を東へ移し、山の威容を仰ぎ見る

1890年代後半に拠点を移行するとともに、描かれた山の存在感が次第に増してくるのは、この山に対する画家の意識の高まりによるもの

以前のように山の手前の中景が奥行きを生み出す視点は取らず、代わりに奥行きを表現しているのが色面の連なりであり、オレンジと黄土色の組み合わせからなる岩石に見られる暖色の色調と、山の灰青色からなる寒色の色調が補色の関係をなしている

 

²  ル・トロネ~エクスとサントーヴィクトワール山の中間地点

エクスから東に伸びるトロネ街道を東進しながら、山の変容を描き続ける

 

²  シャトー・ノワール~繊細な色彩の連鎖が生むダイナミズム

ル・トロネの西から山を描いたのが《シャトー・ノワールの木立から見たサントーヴィクトワール山》(‘04年頃)。空と山、丘といった境界に深みのある輪郭が与えられており、山の稜線と丘の緩やかな曲線からなる線的な構成が動感を生み出している

 

²  レ・ローヴ~最後のアトリエがある丘で発見した新たな景観

1899年、ジャス・ド・ブッファンを売却して終の棲家となったのがエクスの北郊外1.5㎞の丘陵地。画家にとって初めての自分だけのアトリエ

全く違った新たな景観を発見し、190206年亡くなるまでの4年間に9点の主要な油彩画とその関連作を制作。山を除くほとんどの形象が簡略化されており、あたかも流動する色彩が溢れ出るかのような描写

山は画面の上部1/3に収められ、山はその威容を声高に主張する代わりに、自然の広がりの向こう側に、そして自然の奥行きの最も深い所に存在している

制作地点をほとんど変えずに、制作が単調にならないような試みの1つにカンヴァスの形式の変更があり、1点だけ縦型のフォーマットがある。中景の平原の描写が作品の大半を占めており、それゆえにサントーヴィクトワール山の山の前で転調を繰り広げる筆触の連なりが強調されているといえる。横にカンヴァスを継ぎ足して、横長を強調しているのも1点あり、パノラミックな自然の広がりを表現している

晩年の作品はより抽象度が進む。晩年にはとりわけ、色彩そのものの性質に基づいて色間のグラデーションが論理的に展開された一方で、ここには画家自身の強烈な感覚が氾濫しいるかのような様子が示されている。この両者の矛盾を総括することが、セザンヌの本懐だった

l  ドニとルーセルの見たセザンヌ~セザンヌを訪ねてエクスにやってきたパリ

1906年、ドニが友人の画家ルーセルと共にセザンヌをエクスに訪ね、丘の上での戸外制作に同行――ドニの《セザンヌ訪問》はこの時の様子を描いたもので、セザンヌの晩年には、パリの方がエクスのセザンヌの所にやってきた

 

サントーヴィクトワール山のかたち

l  想像のサントーヴィクトワール山

~神話の世界、画家の記憶―現実と想像の間を行き来する山

想像上の世界を舞台としたセザンヌの作品に登場する山が、サントーヴィクトワール山と関連付けられる事例がある――神話の世界に現実の風景を取り入れる手法は、歴史的にもたびたび繰り返されている。古代からの歴史を有するサントーヴィクトワール山は、この地方の象徴として現実と想像の間を行き来する資格を有した山で、この点にこそセザンヌが想像上の世界を描く際に、さまざまに形を変えながら、その意義を託し得た理由を求めることが出来る

 

水彩によるサントーヴィクトワール山

半透明かつ流動的な性質のある水彩という媒体は、セザンヌが色彩そのものの論理に基づく絵画制作を行うにあたって、本質的な役割を果たした

 

セザンヌをめぐる画家たちの言葉

l  ポール・ゴーギャン(18481903)

セザンヌ氏は誰もが認める作品を描くための正確な「公式」を見つけたのでしょうか?

あらゆる感覚にまつわる桁外れの表現を唯一無二の方法のうちに圧縮する秘訣を彼が見つけたのであれば、あの神秘的なホメオパシーの薬を一服盛って眠っている間にしゃべらせて、できるだけ早くパリへ来て教えてください

l  フィンセント・ファン・ゴッホ(185390)

僕は同じラ・クローなど田舎の景色を描いているが、色彩の点で幾分か似たところが残っているかもしれない。僕に版ともいえないが、知らず知らずのうちにセザンヌのことを考えるのが時折あって、そうした時に僕はいくつかの習作で彼の筆触がとてもぎごちない理由がわかった。恐らくミストラル(南仏の嵐)の吹き荒れるときに、そうした習作を彼は制作したのだ。ことあるごとに同じ困難に立ち向かっているので、僕にはなぜセザンヌの筆触が時には確実であり、時には不器用に思えるのかがはっきりとわかる。ぐらついているのは彼のイーゼルなのだ

l  クロード・モネ(18401926)

この男が人生の中であまりにも支持を受けられなかったのは、なんと不幸なことか!

セザンヌは芸術家であり、それゆえに自分を疑い過ぎてしまった

l  カミーユ・ピサロ(18301903)

セザンヌの展覧会(1895年ヴォラール画廊での個展)についても考えていた。そこには洗練されたものや非の打ちどころなく描きあげられた静物が並んでいる。他にもとても手が込んでいるが描きかけのままであり、そうでありながらもこの上なく美しいもの、風景や裸体、描きあげられていないが実に堂々とした頭部、いかにも絵画らしく、実にしなやかなもの・・・・なぜだろう? そこには感覚があるのだ!

l  ポール・シニャック(18631935)

模倣にも技巧にも心を砕かずに、色調を分解した様々な諸要素を方形の明瞭な筆致で配置したセザンヌは、新印象派の方法的な「分割」に随分と近づいた。・・・・・セザンヌの筆触は、印象派と新印象派の制作方法を仲介するもの

l  モーリス・ドニ(18701943)

《セザンヌ礼讃」が引き起こした評判を、深い孤独の中であなたが詳しく知られることほど喜ばしいことはない。そうすれば、我々の時代の絵画においてあなたが占める地位や、あなたについてまわる称賛、そしてあなたの弟子といっても間違いのない私を含む幾人かの若者たちが蒙を啓かれた感激について、恐らく何らかのお考えをお持ちになるでしょう。というのも、彼らが絵画を理解したのはあなたのおかげであり、それを我々がどれほど容認してもし過ぎることなない

l  エミール・ベルナール(18681941)

セザンヌは新しさに情熱を傾ける知性であったのだから、その描き方には彼だけのものでしかないという利点があった。だが、その論理に至っては、気付かないうちにとても複雑な仕組みとなり、彼の仕事は極めて骨の折れるものとなり、身動きが取れなくなるほどであった。彼の素質は自らが考えていたより遥かに自由であったのだが、絶え間のない探究の虜になった。彼には美という観念はなかった。あるのは真実という観念だけだった

l  アンリ・マティス(18691954)

ある時期から、セザンヌは《水浴の女たち》という同じ作品をいつも描いていた。エクスの巨匠は絶えず同じ絵画を繰り返したにも拘らず、我々はこの上ない興味をもって新しいセザンヌを眺めるではありませんか。この点について、《首吊りの家》と《カード遊びをする人たち》の画家の教訓が良いのか悪いのかを怪しむ者がいるというのは、私にとって大変な驚きです。私の人生を通じて彼の素晴らしい模範がもたらした道徳的な力と励ましの全てを、あなたがご存じでしたら! 暗中模索の時期、いまだに私が自分を探していた時に、自らの発見にしばしばたじろぎを感じて、こう考えたものです。「もし、セザンヌが正しいなら、私は正しい」と。セザンヌが間違えなかったことが、私にはわかっていたのです

l  ピエール・ボナール(18671947)

モティーフを直に手掛けられた画家は滅多にいない。やってのけた者たちには、とりわけ個人的な防衛策があった。モティーフを前にしたセザンヌは、やりたいことに対する確固たる考えを持ち、その考えに関わるものだけを自然から選んでいる。モティーフを前にして彼はよく、絵筆に全く触れずにのんびりと日向ぼっこをして、太陽の下で体を暖めていた。事物が自らの構想に適ったものに改めて変化するのを、彼は待つことが出来た。自然の前で最も充分な備えのあった、最も純粋で、最も誠実な画家だった

l  パブロ・ピカソ(18811973)

セザンヌは私の、唯一無二の師だった!

私が彼の絵画に眼差しを向けたのをよく考えてみてください。セザンヌの絵画を研究するのに私は何年もかけた。セザンヌ! 彼は、私たちの皆の父の様でした。私たちを守ったのは、彼なのです

 

 

Catalogue Raisonne

収録作品目録

1章       パリ

2章       プロヴァンス

 

 

「サントーヴィクトワール山」作品総目録

 

 

おわりに

時には場所を変え、時には視点を変えながら、郷土の象徴としてのサントーヴィクトワール山に肉薄したセザンヌの、長年にわたる制作のプロセスを概観してみよう。ガルダンヌなどの例外を除くと、そのほとんどはエクスで制作されており、当初はあくまでも景観の一部にだったが、前景や中景にあるモティーフとの組み合わせにより、一層複雑な構成の中の核心へと変貌する。その後、山そのものが単独で描かれ始めると、サントーヴィクトワール山の威容を仰ぎ見るような、山との近接の感覚が最高潮に達する。他方、最晩年に制作された連作は、自然の広がりと深さの中にサントーヴィクトワール山を捉える試みであり、季節や天候、時間、そして光の異なる条件において、同じ地点から繰り返し描かれたそれぞれの作品は1つとして同じ様相を示しておらず、そのヴァリエーションが連作としての総体を豊かに形作っている

描くべき自然を探索したセザンヌの尽力に関して、これはいくら強調してもし過ぎることはない。「場所」をキーワードとした本書の目的は、近代絵画の父として知られるセザンヌの絵画を外側へと開くことにあった。社会との相互関係の中で芸術の意義を見出すのは今日では自明のことであり、それは「父」であるセザンヌの場合であっても例外ではない。セザンヌが様々な環境に身を置いたのは、それぞれの「自然」が画家の感覚を刺激してやまないためである。パリとプロヴァンスを行き来して培われた最新の、そしてセザンヌ独自の色彩と形態にまつわる表現方法の進展を促した、各地の環境に対する理解を深めることは、セザンヌの芸術を別のやり方で解き明かすための一つのきっかけとなるに違いない

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.