THE GIRLS  Abigail Pesta  2022.11.16.

 

2022.11.16. THE GIRLS 性虐待を告発したアメリカ女子体操選手たちの証言

THE GIRLS  2019

 

著者 Abigail Pesta ジャーナリスト・作家。『ウォール・ストリート・ジャーナル』、『ニューヨーク・タイムズ』各紙、『マリ・クレール』、『ニューズウィーク』各誌、およびNBCニュースなど、主要メディアに調査報道、特集報道を掲載。ニューヨーク州ブルックリン在住

 

翻訳 

牟礼晶子 独立行政法人内部翻訳・編集者、専門委員を経て現在フリーランス。東外大卒

山田ゆかり スポーツライター。総合型地域スポーツクラブ「飛騨シューレ」代表理事。津田塾大非常勤講師。スポーツ界のセクシュアルハラスメントの実態を講演や記事で社会に伝える一方、被害者サポートや啓蒙啓発のためのワークショップを開催

 

法律監修 井口博 東京ゆまにて法律事務所代表弁護士。一橋大法卒、同大学院を経て、78年から89年まで裁判官・検事。92年ジョージタウン大大学院修士課程修了

 

発行日           2022.7.15. 第1刷発行

発行所           大月書店

 

 

序文 進もう、手をつないで

ペスタの取材に応えて――ジョーダン・シュウィカート談

初めて聞いた時は信じられなかった

有名なオリンピック・ドクターのラリー・ナサールが年端もいかない女の子たちに性虐待を働いたとして告発された

被害者の多くが、自分たちがそうされていたことが信じられなかった

私たちターシャとジョーダンは19カ月違いの姉妹で、両親はラスベガスのカジノのシーザーズ・パレスのダイスディーラー

1990年代半ばには、タレント・オポチュニティ・プログラムに参加、10代前半で、2人ともエリートレベルに上り詰め、全米チームに加わる

力と支配がすべてで、人間であることを許さない環境下に置かれ、唯一の救いがラリー・ナサール

開脚トレーニングの「オーバースプリッツ(開脚前屈)」では、コーチに上から押されて時に両脚を上げる。股の付け根が痛んだ時、ラリーの所へ行くとマッサージをして、素手のまま膣に指を入れて、筋肉を緩めるための医療行為だと言われた

アキレス腱を痛めて歩けなくなった時には、1週間自宅で治療をしてくれるとの申し出があり、朝昼晩と毎回アキレス腱から膣までをマッサージしてくれた

2000年のオリンピックチームに選ばれ、連盟にもの凄く借りがある気がして、メダルを1個獲ってこれもアメリカ体操連盟のお陰だと思った

10年以上経って、虐待の告発がニュースになった後、当時の体操連盟会長のスティーブ・ペニーから照会があった時も、司法試験準備と子育ての最中で、虐待の告発のことを考える余裕などないままに、被害に遭ったかと聞かれても気がついたらノーと答えていた

後々落ち着いたところで過去の残骸とじっくり向き合うと、ラリーに巧みに操られていたことがはっきりと見えてきて、悔しくてたまらなかった

並の事では動じない、アフリカ系アメリカ人の私が、そのことで激しく自分を責めた

いま体操のコーチをしながら、これを機会に、こんな虐待が30年も続くことを許した体操界の風潮を変える力になりたいと思う

 

ターシャは2000年オリンピック銅メダル、全米大会優勝2回、UCLA体操チームで活躍

ジョーダンは'01’02年米国代表チーム、後にUCLAチームに入り、'08年の卒業年にはGymnast of the Year

 

 

第1章       

1980年、ミシガン州ランシング郊外の小さな村で5歳の活発な女の子が体操クラブに入り、さらに上のクラスのクラブに合格、威圧して怖がらせるコーチに気に入られようとして激しいしごきに耐える。共働きをしてなお生活が苦しい両親に負担をかけていることを考えると、大学の奨学金を取って恩返ししたかった

怪我しても集中していなかったとして本人のせいであり、体重測定もストレスの種で、「適正体重」でないと公衆の面前をレオタード姿で走らされる

練習で乱暴されたり手荒な真似をされたりしても両親には話さなかったし、そもそも比較の対象がなかった。コーチに認められるまでは必死に食らいついていった

州大会で優勝するようになり、大会で遠征することも多くなる

平均台の着地で失敗して胸骨を骨折、その時ばかりは鬼コーチが青ざめていた。復帰に6か月かかったが、復帰初日から元のレベルの過酷なトレーニングが続くが劣化は明らか

かつての地位を取りもどそうと必死に練習、スポーツ心理学の専門家を入れたのはそんな時でラリー・ナサールが入ってきた

 

第2章       

2016年ラリー・ナサールのスキャンダルがニュースに。きっかけはインディアナポリスの地元紙が、同地に本拠を置くアメリカ体操連盟がコーチによる性虐待の疑惑の対応を誤ったと報じたことで、それに呼応して元体操選手レイチェル・デンホランダーがまだ特定されていなかったラリー・ナサールを虐待加害者だと名指しし、オリンピックメダリストのジェイミー・ダンツシャー、元全米チーム選手ジェシカ・ハワードも続く

ランシングはミシガン州立大学の街。ナサールは、同大学のオステオパシー(徒手医学)医療を専門とする有名な教授で、体操連盟の全米代表のチームドクター

さらに2000年オリンピックの体操団体銅メダリストのジェイミー・デントシャーと、全米優勝3回、アメリカ体操連盟殿堂入りしたジェシカ・ハワードからも名指しで告発

その後数カ月で、さらに数十人の女性が名乗り出た。大勢の女性がコーチやカウンセラー、時には警察にまで通報していたが、誰も真面目に取り合わなかった

2016年、ミシガン州司法長官が性的犯罪行為の罪状第1弾を発表。約37千枚の児童ポルノ画像を摘発。翌年ナサールは罪状を認め、60年の拘禁刑を言い渡される

'18年には判決前審問で200余名の女性が証言台に立ち、被害者陳述を行い、40175年の拘禁刑の判決

判決に続いて、ミシガン大では学長、医学部のオステオパシー部の部長、体操のコーチが解任、米国オリンピック委員会最高責任者、体操連盟会長も去る

ナショナルチームのコーチのジョン・ゲッダートも、虐待に等しい指導だとの訴えが殺到し、州司法長官の捜査を受けて、体操連盟とスポーツでの虐待問題に取り組む監視団体The US Center for SafeSportから停職処分となり、オリンピックチームのトレセンは閉鎖

本書は、崩壊した家庭、引き裂かれた街、卑劣な医師を止められたかもしれないのに見逃された数々の瞬間の物語であり、標的にされた女の子たちの目を通して見た、皮肉にも洗練されていくナサールの手口の物語。同時に、体操界で最も強力なそこここの組織の後ろ盾に長年護られてきたナサールを、手を取り合って倒した何百人という、女の子を含めた女性たちの大いなる勇気と強さの物語

「シスター・サバイバーズ」(裁判長が、「告発した女性たちは今や被害者ではなくサバイバーだ」と語りかけた)は、今では500人に達した

 

第3章        始まり

1988年、体操選手たちはジョン・ゲッダートから、ミシガン州立大医学部の学生が怪我の面倒を見ると言われ、ラリー・ナサールを紹介された

当時ラリーは、オステオパシーの勉強を始めたばかり。筋肉や骨のマニュピレーションを通じて健康上の問題の対処を行う医療の1

高校生だった1978年、デトロイト郊外の高校の女子体操チームのアスレチック・トレーナーとして体操選手のサポートを始め、バーシティ・レター(推薦入学?)を受けたのが'81年、身体の動きのメカニズムを研究する身体運動学の学位を得て’85年ミシガン州立大を卒業、1年後に米国代表チームのアスレチック・トレーナーとして働き始める

14歳のサラ・テリスティは、段違い平行棒で掴みそこなった低棒に背中を激しく打ち付け、肋骨を数本脱臼したが、コーチに悟られないよう激痛をこらえながらトレーニングを続ける。定期的にラリーの診察を受けるようになって、ラリーはレオタードとブラジャーを引き下げ、乳首を触ってきた。コーチから完全に見捨てられた気がしている時だっただけに、されるがままに我慢していた

親からはやめろと言われ、心も体も奪い尽くす体操だったが、やめるのは考えただけでも恐ろしかった。ここまで努力してきて諦めるのは辛過ぎた。鎮痛剤、抗炎症剤、筋弛緩剤、ステロイドと、用途ごとに処方した薬の服用が始まり、ステロイドを太り過ぎるとダイエットを命じられた

同時にラリーの行為がエスカレートしていく。加害者の常套手段で、どこまでやっても大丈夫か、どんなことができるか、どうやればいいか試しながら確かめていた

ジョンとラリーはその後、2012年オリンピックでチームコーチとチームドクターを務めるなど、30年近く一緒に仕事をし、1990年ジョンはジュニア・オリンピック・プログラムの会長になるなど体操界で出世の階段を上り続けていた

サラも、自傷行為をしながら、レベル9まで進化を続けるが、反復性ストレスで尾骨に細い亀裂が生じたのが判明。コーチに言っても自分にとっていいことにはならないとして知らせず、ラリーにだけ告げると、新たな治療法のチャンスを与えることになり、肛門に手を入れてきたと同時に、射精していた

痛みを我慢するのが体操であり、感情を持つことが許されなかったのはラリーの治療も一緒で、信頼した医者のすることがわかっていなかった

 

第4章        コーチ

シェルビー・ルートの場合は、大学進学準備で体操クラブを離れると11歳も年上のコーチの肉体関係の相手をするようになった。信頼して従うよう教えられてきた相手であり、無防備な10代の少女は簡単にからめとられ、自分を愛していると思っていたジョンからやがて捨てられ、自暴自棄になって自殺を考える

シェルビーが体操クラブに入ってメキメキ腕を上げ始めるとジョンの眼につき、グルーミング(被害者となりうる人物に近づき、親しくなって信頼を得る行為)が始まる。シェルビーが家庭の中でのコミュニケーションに躓きを感じていた時だっただけに罠に嵌る

1986年高校を卒業、全額奨学金を得てアイオワ大に進む。ジョンとの付き合いが始まったが、ある日突然騙されていると判明、あっという間に関係は崩れ、自殺まで考えた

それでも体操選手は感情や心配を脇へ追いやるように教育されていて、自分を責めた

ジョンを見返すようにシェルビーは体操に打ち込むが、何事もなかったかのように振舞うジョンとはその後何度もすれ違う。悪いのは自分ではないと理解するのはずっと後の事

 

第5章        すべてに別れを告げて

トリネア・ゴンツァーの場合も、8,9歳で左股関節の脱臼に悩まされていた時、ラリーの餌食にされる。母親を部屋に入れて安心させたうえで、母親に見えない所で体を触わる

サラは、12年間続けた体操をやめると決心した時、両親に本当にすまないことをしたと思った。自分が弱いばかりにみんなをがっかりさせたと後悔。ジョンに別れを告げると、彼は「練習も試合もしたいようにやって続けていいんだよ」と言ってくれた今までと真反対の態度に困惑

サラは大学に進学して、ある男と性体験した時、ラリーの尾骨治療で同じ触り方をされて、そういえばと思い当たる。セラピストに相談したが、コーチや医者がそんなことをするはずがないと一蹴され、二度と口にしなかった

 

第6章        信じてもらえなかった女の子たち

1990年代を通じて女の子たちがコーチやカウンセラーに警鐘を鳴らすが、こうした被害の訴えで行為を阻止されることもなかったナサールは自信を強め、地位も名声も着実に積み上げていく。'93年にはミシガン州立大でオステオパシーの学位を得る

ある体操選手の母親は、娘の様子から異変を知り、コーチに訴えたが相手にされず、娘は自己嫌悪に陥って自殺、家庭は崩壊。娘の姉からも本気で助ける気があったのかと責め続けられ、母親も自分のせいではないという事実を受け入れるのに何年もかかったと証言

ラリーは、’96年には体操連盟の医療コーディネーターに任命され、アトランタ・オリンピックに随行、'97年ミシガン州立大助教授、同大体操部のチーム・ドクターなど

ジョンは、輝かしい戦績を上げたが目指すものが違うとの理由でジムを解雇され、ランシングに別のクラブを開き、ラリーもそこでボランティアを始める

おかしな治療の事実を告げられたコーチも、報告書は出せるが、そんなことをしたらあなたにとってもラリーにとっても困ったことになると言って、逆に脅されただけでなく、コーチはラリーに告げたため、ラリーはかえって自信をつけ、強気になった

足掛け30年、女性たちは噓つきと言われ、信用されなかった

このコーチは、ナサールのスキャンダル発覚を受けミシガン州立大を辞職。さらに判決後、ナサールの性暴力のことを知らなかったと虚偽の主張をしたとして訴追されている

 

第7章        叫び

'90年代の終わりごろ、女の子たちが声を上げ、ナサールの行状を訴え続けていた

リンゼイ・シュエットは股関節に慢性的な痛みがあり、'99年ラリーの治療を受ける。映画の知識があったので、性暴力だとわかり、カウンセラーにも母親にも訴えたが相手にされず、家族との絆も断ち切って韓国へ渡る

犠牲にされた若い女の子の人生の価値がどれほどなのか、よく考えて量刑を決めると裁判長は断言

ミシガン州立大の学生アスリート3人からも、90年代後半からラリーの虐待が通報されていた。外にも10人が20年近くの間に大学職員に通報したと言っているが、捜査官が聴取したところでは、全員が報告を受けた記憶がないというか、聞いていないと否定したが、職員たちが問題の深刻さを軽んじたり告発を進めようとする被害者を積極的に思いとどまらせようとしたことが明らかとなり、そうした大学の風土が問題とされた

 

第8章        誘惑

2000年代に入ってナサールは完璧に腕を磨き上げていた

リンゼイ・レムケは、’026歳で体操を始める――ナサールのスキャンダルが火を噴いてから最初に実名で名乗り出た中の1人。ミシガン州立大3年で全額支給奨学生として体操チームに所属していたが、あんな行為を許した関係者全員への怒りと苛立ちに震え、責任追及と改善を求める動きの牽引力になる

リンゼイは、ジョンのクラブに入って11歳までに連戦連勝するようになるが、着地に失敗して足首を骨折、ラリーの治療が始まる。心の支えにもなり、信頼して体を任せている間に4年間で600回以上も性虐待を受ける羽目に

スポーツ選手ではないが脊柱側彎の17歳の女性が、ラリーから同じような性虐待を受けて警察に訴え出たが、警察はラリーの言うことを信用して起訴せず、事件の発覚で彼女が証言台に立った直後、町当局が記者会見で正式に謝罪

もう1人の少女は14歳で、両親に虐待を訴えると州立大の心理学博士の所に行かされたが、博士も娘の虐待の訴えを当局に報告しなかった。ナサールのスキャンダルが火を噴いた時、博士は患者を治療する資格を永久に放棄することに同意。その上、両親との関係も破綻、特に父親がラリーのかたをもって娘の言うことを信じなかったことが娘を傷つけた。父親は最後には自分がどれほどひどいことを娘にしたのかを悟って愕然とし、恥と自己嫌悪に耐えきれずに自殺

 

第9章        子どもたちの考え方は

子どもたちが子どもだけの間でその話をするようになると、それがかえって有利に働いた。みんなが同じことをされているんだから、やっぱりお医者さんのすることをしているだけで、特別な誰かに変なことをされているわけじゃないんだと思ってしまう

リンゼイの友人2人は、小さい頃からラリーの治療を受けていたが、高校生の頃お互いの経験を話し合った

子どもは、自分が選んだ状況下で自分の判断で決めていると思い込んでいる

自分に何が起きているか両親にはわかっているはずだと思い込んでいる

ラリーは、子どもたちの中にこのつけ込みやすさを発見していた

 

第10章     クラブ

ジョンは性虐待に加えて厳しい指導に親達からの非難が殺到して辞任、クラブは妻が経営

ラリーは、地域の高校の校医にもなっていて、生徒に魔の手を伸ばす

被害者なのに、自分のために精一杯寄り添って親身の世話をしてくれたラリーの疑惑が報道された際に、地元のラジオ局に出演して激しい口調でラリーを庇う人までいた

ナサールの時代にジョンのクラブで育った選手たちは、生涯悪霊と闘うことになるのかもしれない。ふり返っては、何から何まで自問しながら。これが性犯罪者が被害者に与える苦しみなのだ

 

第11章     ペテン師

2000年からの10年間でラリーはますます大胆かつ不気味になっていく

4歳で体操を始めたイザベル(イズィー)・ハッチンスは、オハイオからジョンのクラブに通い、リンゼイともクラブメートになり、レベル10の頂点を極めるが、ふくらはぎを攣らせ骨盤を損傷するまであっという間で、すぐにラリーの治療が始まる。おかしいと思ってほかの子に聞くと、自分も同じことをされていると言われほっとし納得した

母親も、練習を見ながらジョンが浴びせる怒鳴り声や侮辱を聞いてジョンに口のきき方を考えるよう忠告したが、クラブの「ブラック・シープ(もてあまし者)」になる。ほかの親たちのなかにも自分の子どもに不利になったらとはっきりものをいう人を避ける人が多い

12歳のころ脚に鋭い痛みを感じてラリーの奇妙な診察を受けるが、痛みが治らないまま、勝たなければならないという重圧に押されて自傷行為に走る。ラリーから大会に出ても大丈夫と言われていたジョンは、痛みで動けないというイズィーを練習をさぼるための口実と捉え、みんなの前で侮辱的な練習をやらせて見せしめにしたが、結局疲労骨折していることが判明。ラリーは両親にそれぞれ別なことを言って両親を敵対させ家族の関係を崩壊させる。娘の愛想をやめさせたい父親には、イズィーの怪我を心配してほかのスポーツをやらせた方がいいと勧め、イズィーの希望を叶えてやりたい母親には才能を開花させるために何でもすると励ましている。ジョンのクラブは止めたが、ラリーとの関係は続く

結果的にラリーに引き裂かれる形で両親は離婚。全額奨学金を得てアリゾナ大に入るが、靭帯を切って手術を受け、このまま続けると体に問題が出ると言われてようやく断念

 

第12章     最後の行動

2010年を迎えると、ラリーのネットを使ったグルーミングがエスカレート

最後の被害者の1人オータム・ブラニー(16)も、法廷に告発されてから数カ月たって決心がついて被害者陳述に立つ。'119歳でジョンのクラブに入り、すぐにジョンの恐怖の監視下に置かれるが、渦中にいる時は我慢しかなかった。2020年のオリンピック候補としてコマネチに満点を取らせたカーロイのやるランチに呼ばれるほどになるが、怪我することを許さないジョンを恐れてラリーを頼るようになる

'11年、ミシガン州警察がジョンをクラブの従業員に対する暴行罪容疑で取り調べるが、起訴は見送り。にも拘らず、同年世界大会のヘッド・コーチに、翌年のロンドン・オリンピックにはジョンとラリーが揃ってナショナル・チームを引率、団体総合金メダルを獲得

きつい練習と体の痛みに耐えかねて遂に体操を断念することを告げると、ジョンの扱いがころっと変わる。解放された生活は幸せそのものだったが、ラリーのクリニックには通い続け、'169月の予約が突然理由も告げられずにキャンセルされた

 

第13章     崩落

2014年、アマンダ・トーマスハウはミシガン州立大を卒業したばかりでラリーの同大スポーツ医学クリニックに。高校時代のチアリーディングで負った股関節の痛みの治療が目的だったが、いきなり性暴力に発展したので力で手をはねのけ、当局への通報を決意

ミシガン州立大クリニックの医師に報告すると、同大のインクルージョン室とキャンパスの犯罪を扱う州立大警察(大学の自治組織の一部)の刑事が来て詳細を説明

大学は、性別に基づく差別を教育機関に禁じる連邦法の「タイトルIX」の報告書を発出、同僚の医師だけに意見聴取して、ラリーの行為を「医療上適切」と結論、インクルージョン室も同大のセクハラ指針に違反していないとした

2018年、ナサールの判決を受け、州司法長官が独自の捜査を開始した時、捜査官は大学の対応を酷評。意見聴取された同僚の医師も、アマンダの告発内容を詳細に聞かされておらず、後で聞かされて当初の見解を撤回しているし、ナサールの主張も米国オステオパシーアカデミーの元会長の見解により徹底的に否定された

同大のクリニックは、新しいプロトコールを策定し、事前説明や身体接触を最小限とするよう改めた上で、ラリーに診察を続けさせ、ラリーは新しいプロトコールを無視した

2015年、州警察は報告書を郡検事局に上げるが、検事局は起訴せず

大学のタイトルIX報告書は2種類作成され、アマンダ用の版では、セクハラ指針違反はないとだけあったが、裏版の結びでは、不適切な性的不品行と受け取られる可能性があり、事前の患者の同意取得を怠ったことも責任を問われると記載

州立大でラリーの上司のオステオパシー医学部長も新しいルールを守らせようとせず、’18年ナサールの判決後、警察は部長を故意の職務義務違反、さらには職権乱用、性的犯罪行為で起訴。学長もタイトルIX調査と告発された医師についてどの程度知っているかを聞かれて、嘘をついたとして起訴

2015年にも性虐待を止める機会はあった。カーロイ・ランチでラリーの治療を不審に思った2人の選手の会話を聞いたコーチが体操連盟に通報、連盟は調査を開始しラリーを停職処分としたが、連盟はラリーが停職の理由を隠蔽しようとするのを助け、FBIにも報告せず、ラリーが関係していたクラブや高校にも伝えていなかったため、ラリーの虐待はさらに新聞報道まで1年も続く。連盟は証拠改竄で刑事告訴

米国オリンピック委員会も、体操連盟から聞いていながら、新聞報道まで何もしていない

選手らは、カーロイ夫妻も、心身を病むような練習環境を作り上げて自分たちの保護を怠ったとして告発されたが、確実な証拠がないとして嫌疑なしとした

 

第14章     理事会

ジェシカ・ハワードは、ナサールを告発した地元紙に電話しながら、3度の全米優勝を経てアメリカ体操連盟の役員まで務めた自分が連盟の怒りをかって潰されると恐れたが、体操界の頂点にいる関係者の勝利至上主義が如何に間違っているかを悟る

ジェシカは、'873歳で体操を始め、新体操に転向して開花するが、鬼のようなコーチの叱咤の下、容赦ない反復練習の連続に股関節の痛みが悪化し強迫性障碍が現れるも、’99年初の全米優勝を果たす。'00年オリンピックの選考に漏れ、’04年を目指すためにカーロイ・ランチに送られ、ナサールと出会う。股関節の痛みでキャリアを失いかけて藁にも縋る思いでラリーを訪ねる。診察がおかしいと感じて母親にも言うが、母親も体操連盟が後ろ盾になっているドクターが性犯罪者なんてなれるわけがないとして相手にせず、チームメートたちも何かおかしいというだけだった

メダルを取る一方で精神状態はどんどん悪化、足を骨折、膝の手術も受け、一旦はコーチから外されたがまた元に戻るも、怪我をおして出場した’03年オリンピックを前にした全米選手権ですべては終わる。ただ体操連盟との関わりは続け大会に出る選手たちの世話をしているうちに自傷行為に発展。'09年体操連盟の理事会に選ばれ、自分が経験した辛い思いから選手たちを救えるかもしれないと期待して参加したが、理事会は金とメダルだけで動いていただけで、ジェシカにとって理事会は感情を揺さぶる危険なトリガーになり鬱状態に捉われて動けず、’13年には辞任

‘16年の地元紙の告発報道で、オリンピックメダリストからの電話で被害に遭っていないかと聞かれ、カーロイ・ランチでのラリーとの関わりを鮮明に思い出し、地元紙にラリーの名を通報したが、そのことでますます激しい鬱状態に陥る。見かねた妹が精神病棟に入れ、11日間の集中治療を経て、正気を回復し家族の下にかえる

 

第15章     ポーカーゲーム

相談を受けた弁護士のジェイミー・ホワイトは、ランシングの事務所で弁護団を組成、母校相手に、5億ドルの和解金をかけた「人類史上最も掛け金の高いポーカーゲーム」に挑む

アフリカ系の父とアイルランド系の母との間に生まれたジェイミーは、幼くして人種差別の被害に遭った経験から、独立して働く弁護士を目指して、徐々に成功を積み上げて来た

最初の相談者は長年の家族ぐるみの知り合いだったリンゼイ・レムケの母親

ジェイミーは告発された医師を綿密に調べて、護られた立場といい、名声、権力といい性犯罪者が欲しがるあらゆる手段を備えたこの男はスポーツ史上最多性犯罪者になると確信

地元の人間も腹をくくらないとだめだと思ったが、ランシングの住民はまだその覚悟がなく、訴訟を始めた時の記者会見では、会場を予約するのに片端から断られる。誰も大学を訴えるような人間と関わるのが嫌だった

ほとんどの女性たちが消滅時効にかかっているのに加えて、州政府機関としての免責の壁があり、まずは州上院議員に、消滅時効と免責の例外とする法案の追加を働きかける

 

第16章     公正な裁き

ラリーも弁護団を組成するが、ラリーは言うこともすることも支離滅裂で、挙句に裁判長に手紙を書いて無罪を訴える

2016年、州司法長官は3つの性的犯罪行為で医師を起訴。さらに同年警察が37千枚の児童ポルノ画像所持で起訴、翌年州司法長官が22の性的犯罪行為で追加起訴

ラリーの妻が離婚訴訟を起こす

議会では、消滅時効延長は通過、州立大の免責は難しそうな雰囲気だったが、その間に弁護団は州立大と和解に持ち込み5億ドルを勝ち取る

名乗りを上げた被害者にとって、刑事裁判で証人になることは神経がちぎれそうな経験。ただでさえ信頼する医師から性虐待をされるという裏切りを受けたとわかったのは地獄の苦しみで、その上「膣」とか「肛門」とかを大勢の前で口にするよう仕向けられ、大きな心の傷を残し、今でも蛇みたいに記憶が絡みついてくる

2017年、ナサールは連邦裁判所で児童ポルノ所持の罪状を認め、連邦刑務所に60年の拘禁刑を言い渡され、翌年にはミシガン州の2郡で計10件の性犯罪の罪状も認める。答弁取引の一環として、ナサールは、通報した女性全員が来年に予定される判決前審問で被害者陳述を行うことに同意

 

第17章     記憶

事件があらゆる媒体で報道された時、被害者の反応は様々。自分に腹を立てる女性が多い

最初の被害者だったサラ(3)は、スキャンダルの事を父親から知らされたが、子育てに忙しく忌まわしい思い出を封印し続けたが、'18年の被害者の陳述する姿を垣間見て、自分に何の価値もないように思わされたジョンとラリーの記憶がフラッシュバックして、ヒステリックにすすり泣きパニック発作に襲われる。発作はその後何度も続く。その後でようやく封印していた記憶の全てが呼び覚まされ、被害の全貌がわかって霧が晴れる

被害者の中には、心理学博士号を取って刑務所で性加害者のセラピーをしている女性がいた。母親からスキャンダルの事を聞かされて、自分自身が被害に遭っていたとわかったとき、利益相反になるからと仕事を辞め、トラウマ治療センターを頼る

 

第18章     解放

シェルビー・ルート(4)にとってスキャンダルは、自分自身の心からの解放につながる。元コーチとの辛い経験の事でどうしても自分を責めるのをやめられないでいたが、初めて悪いのは自分ではなかったとわかったという

2017年、ナサールのスキャンダルが公けになってしばらくの頃、ジョンがフェイスブックを通じてコンタクトをとってきた。監視団体The US Center for SafeSportがジョンを停職処分にした上、指導法に異議が殺到する中で、調査を開始したことを知り、さらに自分を取り戻すことができ、現在は幸せな結婚をしてオーストラリアに住んでいる

 

第19章     真相と向き合って

リンゼイ・レムケ(8)は、ニュースを聞いた’16年、州立大3年生で、体育館に仲間と共に呼び出され、コーチのキャシー・クラゲスから、くだらないことだが箝口令を指示される。旧友の医療行為と信じ切っていたリンゼイは報道に激しい怒りを感じ、気掛かりだった母親から何度も聞かれたが、頑強に否定を続けるが、児童ポルノの記事を見て初めて真相が見えてきて、幻覚の中を歩いている感じに憑りつかれる

母親はキャシーに詰め寄ったが、ラリーの弁護をするばかり

ナサールの被害者だと最初に公表した勇気ある女性の1人となり、法廷ではラリーとジョンの両方に向かって被害者陳述を叩きつける。そのあともYouTubeで感動的な《サバイバー・シリーズ》を製作して体験を語り、周りを勇気づけている

大学は、真相が暴露されても、責任を軽くしようとしたことで、告発した女の子たちやランシングの人々の期待を甚だしく裏切る。判決前審問の後に州司法長官が立ち上げた大学の捜査では、いくつもの不適切な対応や失態が特定され、「ある一貫する姿勢が顕著にうかがえる」と指摘し、「大学が自分の名声を護りたいという願望を動機として、性暴力に対する無関心の風潮を醸成している」と断罪した

被害者の母子の間では、どうして母親に言わなかったのかと子どもを責めたり、母親が娘から信頼されていなかったことで自分を責めたりと、お互いに感情的になってやり合い、母娘の正常な関係に戻るまでしばらく時間がかかったケースもある

 

第20章     家族

イザベル(イズィー)・ハッチンス(11)の場合も、当初はラリーを庇った

漸くリンゼイの手助けも借りて、事態を納得するようになったが、自傷が始まり、当時の状況が繰り返し蘇るようになる。母親も自分を責める。父親はストレスで発作を起こす

 

第21章     ティーン・ウォリアーズ

オータム・ブラニー(12)は、ラリーに裏切られたことで、自分が一番好きな男性たちを信頼できなくなった。身内ですらハグすることも、2人きりでいることも怖くてできなくなった。四六時中当時のことが頭に浮かんで鬱状態になるし、罪悪感でいっぱいになり、時々パニック発作に見舞われる。母親もSNSで責め立てられる

ある日を境に、フェイスブックでカミングアウトしてからようやくすっきりし、サポートの投稿がたくさん来た

 

第22章     法廷

2018年、ミシガン州2郡で通算9日間、200人余りの女性が証言台に立って奪われた力を取り返した

法廷を取り仕切ったローズマリー・アキリーナ裁判官は、1959年赤ん坊のころ母に連れられてドイツからデトロイトに移住、’68年帰化。ミシガン州立大からロースクールを出て、陸軍州兵を20間務め、ミシガン州初の女性の軍法務総監になった後、地裁と巡回裁判所の判事。裁判では必ず被害者に熱い言葉で語りかけることを心掛け、今回も被害者全員が発言できるように司法取引を仕組んでいる

被害者として名乗りを上げることは簡単なことではない。陳述でも、そんな目に遭ったか明かすことで女性が払う犠牲は大きいし、名乗り出たために世の中の目に触れる場所で加害者からされたことが自分の名前と結びついてしまい、誰かがグーグルで検索するとすぐに名前が出てくる。いつどんな風に子どもや恋人に話すのか、母親や恋人に起きたことをネットで知ってしまう前に

 

第23章     アーミー・オブ・サバイバーズ

児童期性虐待被害者が法的措置をとることができる期間延長の法律が成立したのを祝って、ラリーの被害者たちが集結

「アーミー・オブ・サバイバーズ」は、法廷でラリーと向き合ったアマンダ・トーマスハウが初めて使った言葉。ジェシカ・ハワードもスポーツをする子供の安全を訴える活動をしている。イクオリティ・リーグはスポーツに関わる女の子と女性の権利を擁護する活動に向けてアスリートを養成する団体で、今回の法廷で証言台に立つ女性たちを見たことがきっかけとなって立ち上げられたもので、ジェシカに啓発された

体操の、軍隊みたいな指導のやり方を根本から変えないといけない。勝ち負けではなく、まず本人のことを考える。コーチにも同じことが言える、言いたいことを言える環境をつくり、本人のやる気を引き出す

この1年、25人のサバイバーに体験を聞かせてもらったが、ほとんどが一度は虐待に遭っていたことを受け入れられなくて苦しんだ。自衛モードに入って痛みに蓋をすることもあるけれで、やがて現実を受け止める道を見つけ、困難を潜り抜け、折り合いをつけて前に進もうとする。彼女たちの話は、生き延びようとする人の強さを雄弁に物語る

 

あとがき

その後の進展:

2021年、ミシガン州司法長官が、ジョン・ゲッダートによる体操クラブで起きた虐待に対し、24件の刑事責任を問うと発表。刑事責任には、人身売買、犯罪企図の継続、性的犯罪行為、暴力犯罪捜査時に警察官に嘘をついたことが含まれる

人身売買については、「アスリートらに強制労働、言い換えれば怪我や危害を負う一因となった極度に厳しい条件下での労務を課したと報じられており、当時ゲッダートが、被害者が報告した怪我を無視したうえ、強制、威嚇、脅迫及び物理的な力を用いて自身の期待する水準の成果を出させようとした」という事実から生じたものとされた

ゲッダートは一度も出廷せずに自殺したため、コーチの暴言や暴力を日常的に受けてきたトプアスリートの声がかき消されないよう、世界中のアスリートが結束して、「#gymnastalliance」のタグを使って、虐待的な体操界の風潮をソーシャルメディアで訴え、自分たちが経験したことを共有。各国の体操競技団体が調査を開始

さらに同年、米国司法省観察総監が、ナサールに対する告発を知ってから1年以上も捜査せずに放置して虐待行為を続けさせたとしてFBIを激烈に非難する報告書を公表、バイルズらのトップ体操選手が上院司法委員会で証言に立ち、FBIの失態を訴えた

FBI長官は、失態を謝罪をした上で、現在方針の強化に取り組んでいると述べる

同年末、サバイバー数百人が、3.8億ドルで、米国体操連盟、米国オリンピック・パラリンピック委員会と和解し、今後体操連盟の役員会には、監視の意味でサバイバーが最低1人含まれることが条件とされた

 

 

スポーツ界における性暴力被害救済のために~アメリカと日本は何が違うのか

弁護士 井口博

アメリカの刑事事件の90%は、被告人が有罪を認める有罪答弁がなされ、陪審公判は行われない。有罪答弁の後は、裁判官が量刑を決めるための審理(判決前審問)が行われる。有罪答弁のプロセスで、司法取引(自己負罪型)と呼ばれる、検察官と被告人・弁護士間の交渉がなされる。情報提供型の司法取引とは異なる

ナサールの性暴力は2つの面を持つ――1つは医師による治療行為としての犯罪行為という面と、もう1つは被害者がアスリートという面

日本では、部活という学校教育とセットになったスポーツ指導が主流であるため、以前から深刻な性暴力事件が後を絶たないのが現状で、被害救済の問題点は3

1. 安心して被害を相談できる窓口がない――後難を恐れて声を出せないという根深い構造があり、2011年制定のスポーツ基本法で窓口は出来たが、秘密の順守や相談者に不利益なことが起こらないための手段が不明確など、安心して相談できる体制としては不十分

2. 被害者救済のための経済的支援がない――被害救済を訴えるための経済的負担を肩代わりする基金が必要。損害賠償や慰謝料が認められたとしても微々たるもの

3. 刑事裁判において被害者の声がより反映される制度改革が必要

 

訳者あとがき             牟礼晶子

全体を通じて強く印象に残った頻出語にgutがある。「腹の底」にあたる、心や精神等と比べて動物的な肉感を伴う、人間の核のようなものと感じた

そう考えると、本書は、否応なく各自のgutを生きた女性たちの物語とも言えそうだ

「演技を丸ごと抱き留めて感じるのよ」という著者の元体操コーチの言葉も、作業に行き詰まるたびに思い出した。原著の言葉を自分が本当に生きたとき、gutから腑に落ちる翻訳言語の言葉が発せられる。翻訳はこの苦しい作業の繰り返しだ

 

 

 

 

 

(ひと)山田ゆかりさん スポーツ界の性暴力の問題を訴え続けるライター

20221014 500分 朝日

 あきらめられなかった。断られても食い下がり、5社目でやっと契約成立。代表チームの医師による性暴力を追った「THE GIRLS 性虐待を告発したアメリカ女子体操選手たちの証言」を今夏出版した。翻訳者の一人だ。

 原著を手にした約3年前。「日本でも同じことが起きている。なぜ日本では告発に至らないのか」。悔しさとともに、日本で読まれるべき本だと強く思った。

 1997年、日本の女性選手が指導者に性暴力を受けている、と相談された。半信半疑で取材すると、五輪出場組から学校の部活まで、性的接触やキスが横行していた。被害者支援もしたが、加害者が守られ、声を上げた被害者は干される現実を目の当たりにした。

 名古屋市出身。子どものころからスポーツが大好き。出版社で英語翻訳の仕事に携わった後、90年ごろから雑誌を中心にスポーツライターとして活躍した。2011年に岐阜県飛騨市神岡町に移り住み、いまは一般社団法人の代表として「楽しめるスポーツ」の体験を子どもらに提供する。

 最初にスポーツ界の性暴力問題を公に訴えたのは21年前。新聞の投稿欄だった。「四半世紀経ても後を絶たない。選手が声を上げられない状況は変わらず、『事件』は葬られ、残るのは被害者の心身の深い傷だ」。理不尽さを払拭する引き金に、この本がなればと願う。(文・写真 大久保真紀

 

 

大月書店 ホームページ

全米を震撼させた、ナサール医師による性虐待事件の真相とは

2016年、米国体操連盟の医師が30年近くも女子選手200人余りに性虐待を働いた事件が暴露される。少女たちを護るべき保護者やコーチ、関係機関は何をしていたのか。綿密な取材で犯罪手口や体操界の構造的問題にせまる。

 推 薦 

川本ゆかりさん(新体操元日本代表、1992年バルセロナ五輪出場)

指導者は心に傷を負う選手をけっして生み出してはいけません。選手が声を上げられる環境をつくることも指導者の役割のひとつであって、この努力こそ、選手たちをエンパワーメントし、より高いパフォーマンスを引き出すことになるはずです。選手のみなさんの競技生活がより良いものになることを願います。

土井香苗さん(国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」日本代表)

読み始めたら、とまらない。そしてこれは物語ではなく、現実だ。米国での事件だが、日本のスポーツの場でも性虐待は起きている。まずは、スポーツをするすべての子ども・若者たち、その親たちに読んでほしい。手遅れになる前に。そして日本スポーツ界も今すぐ本気で取り組むべきだ。

ミンキー・ウォーデンさん(Minky Worden:国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」 グローバル・イニシアティブ・ディレクター)

日本のアスリート、保護者、子どもたちに、スポーツで体罰や虐待を受けることは、国際人権法にも、スポーツのグローバル・ルールにも反するということを知ってほしい。 アメリカのトップ体操選手に起こったこの物語は、スポーツに関心を持つすべての人に警告を発している。日本でも、スポーツの安全を担うセンターが設立され、子どもを守るとりくみが動き出すことを願っている。

 

 

選手の性的画像、広がる監視の目

「撮影罪」議論、意図立証に壁

20221115 14:30 日本経済新聞

陸上大会の会場入り口に設置された、撮影するカメラの申請を促す掲示(9月、京都市のたけびしスタジアム京都)

 

 

 

 

 

アスリートへの性的な意図を持った撮影や画像拡散の問題で、日本オリンピック委員会(JOC)などスポーツ界が被害撲滅への共同声明を発表してから2年が経過した。警察の取り締まりや監視の目は着実に広がってきた。法整備は「撮影罪」新設に向けて議論が進む中、ユニホームの上から撮影する行為は意図の立証が難しく対象外になる方向で、困難な現実にも直面している。

8月下旬、京都市のたけびしスタジアム京都。高校生の陸上の大会を外からスマートフォンで撮影し続けていた男性に、私服の警察官が声をかけた。「写真を確認してもいいですか」

京都府警はこの大会に合わせて3日間、約10人態勢で周囲を警戒した。10月にも見回りを実施するなど取り締まりに積極的だ。昨年9月には府迷惑行為等防止条例違反容疑で、陸上大会に出ていた女子高生の尻などをしつこく撮影した男性を書類送検しており、人身安全対策課の田土義之次席は「続けることで監視の目も強まる」と強調する。

陸上の大会では競技の合間に放送で注意を促す光景が日常となり、表彰式ではユニホームの上にジャージーなどを着用することが増えた。日本陸上競技連盟の和賀美咲広報は「各地の大会運営の関係者にも防止策の必要性が理解され、観客の方々からの通報もあるなど会場全体でアスリートを守る雰囲気が広がってきている」と変化を語る。

ただ、いたちごっこの面があるのも事実。JOCが設置した報告フォームには情報が今も継続的に寄せられている。スポーツ庁は7月、陸上やバレーボールの取り組みを競技団体などに紹介し、対策を要請した。

被害防止には、かねて法整備の重要性が指摘されてきた。刑法の性犯罪規定の在り方を検討する法制審議会の部会では「撮影罪」が議論されており、10月下旬に法務省が示した試案には、性的部位や下着を盗撮する罪を新設し、画像・動画の他人への提供や拡散も罰することが含まれた。

一方で、下着が透けるように赤外線カメラを使って撮影した場合などを除き、ユニホームを着た選手の胸や下半身を強調して撮影したり、そのような画像を拡散したりする行為は、現状では対象に想定されていない。

同部会委員で法政大の今井猛嘉教授は、選手を気に入って写真を撮る行為と性的に興奮して撮る行為は外見的に同じだとして「どの撮影がアスリートに屈辱感、恥辱感を与える行為なのか判断が難しい。(撮影者が)どんな気持ちの行為なのかを認定するのは困難」と対象から外された理由を説明。今後、部会でさらに議論されるが「(刑法で規制するのは)現実的な解決策ではない」と指摘した。

性的画像問題 アスリートが競技会場で性的な意図で撮影されたり、画像や動画がインターネットやSNS(交流サイト)に拡散されたりする被害。20年以上前から続く根深い問題だが、近年はSNSの普及で被害が深刻化し、対象はトップ選手に限らず中高生や応援するチアリーダーにも広がる。
 日本オリンピック委員会(JOC)や日本スポーツ協会など7団体が202011月、被害撲滅に取り組む共同声明を発表。情報提供窓口も設置された。

 

 

2021.12.21.

THE ANSWER the Best Stories of 2021

 東京五輪の開催で盛り上がった2021年のスポーツ界。「THE ANSWER」は多くのアスリートや関係者らを取材し、記事を配信したが、その中から特に反響を集めた人気コンテンツを厳選。「THE ANSWER the Best Stories of 2021」と題し、改めて掲載する。今回は連載「THE ANSWER スペシャリスト論」から、2月に掲載した大山加奈さんのインタビューだ。

【特集】歴史に名を刻んだ思い出の世界体操 元女子エースが語る新技誕生物語 / 体操・杉原愛子さんインタビュー(GROWINGへ)

 テーマは「スポーツ界の性的画像問題」。昨年11月、日本オリンピック委員会(JOC)などが女性アスリートの性的な撮影、画像の拡散などの問題を受け、被害撲滅に取り組む声明を発表し、注目を浴びた。10代から活躍し、「パワフルカナ」の愛称で抜群の知名度を誇った大山さんが、かつて自身が経験した被害について告白。現役世代の中高生にメッセージを送った。(文=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

   

 アスリートの競技環境を巡り、スポーツ界でまた一つ、新たな動きが起きている。

 競技中の胸、尻などを意図的にアップするなど、性的意図をもって女性アスリートが撮影され、その画像がネット上で拡散されるなどの問題が常態化していたことを受け、JOCと日本スポーツ協会など7団体が昨年11月に被害撲滅に取り組む共同声明を発表。以降、現役アスリートを含め、様々な競技からこの問題に対する声が上がり、変化の流れが生まれている。

 大山さんも体罰、勝利至上主義など、スポーツ界で選手の立場を考える様々な問題を発信してきた立場として、うれしく思っている。

「今までは流されてきてしまった問題でした。アスリート側が我慢をしなければならず、諦めざるを得ない。もう、ある程度は仕方ないという認識となっていたところが、動き出してくれたのはとても良いことだと思います。一方で、具体的にどんな対策をしてくれるのか、見守りたいです」

 逆に言えば、今までは声が上がらなかった問題だった、という裏返しでもある。その背景について「私の場合はある程度はしょうがない、諦めが大きかったです」と言い、女性アスリートとして自身が陥っていた心理構造を語る。

「小学生からこういう世界にいると女を捨てるじゃないですが、見られても減るものじゃないし……くらいの認識で生きてきてしまいました。学生時代はそこらへんで普通に着替えますし、危険について意識が向いていなかったと思います。

 だから、そういう画像が出回っていても、実はそこまで重く受け止めていなかったんです。実際に見ても、仲間同士で『こんなのあるよ』と笑いながら見ていたというのが正直な経験です。今になって思うと、本当は良くないことですが……

 大山さん自身、学生時代に観戦した試合で前の列に座っていた男性が選手の尻をアップにして撮影していた場面を見たこともある。赤外線カメラでユニホームを撮影し、下着が透けた写真がネット上で出回った時は自身も被害を受けたが、重く受け止めなかった。その後悔の念がある。

 言うまでもないが、非は撮影する側にある。しかし、競技に打ち込むあまり、女性らしさを捨てるようにして競技力を高める、いわゆる昭和のスポ根の名残で、守るべきプライバシーの意識が希薄化。被害者であるはずの選手自身に当事者感覚が薄かったことも事実という。

 今まで様々な選手の声が上がっているが、これは、この問題で隠れていた一つの盲点と言えるかもしれない。

「女性アスリートはほかの競技もきっと同じように思ってしまっているんじゃないかと思います。そんな風に見られたり、撮られたりすることが当たり前になっている部分がある。だから、声もなかなか上がってこなかったのではないかと想像します」

ショックだった会場トイレの盗撮画像、ユニホームの機能性と露出のバランスは

 それでも、大山さんにとって忘れられない出来事がある。Vリーグの会場で撮影したものとみられる女子トイレの盗撮画像が出回ったこと。

「あの経験は仲間とも笑えず、一番ショッキングでした。バレーボールはユニホームの背中に名前が入っているので、誰であるかも特定されてしまう。私が所属していた東レのものはありませんでしたが、他のチームで友人の画像が出回っていて大丈夫かと心配になりました」

 以降は警備も強化されたが、大山さんの所属チームは探知機を独自に購入。毎試合、会場入りするたびにマネージャーがトイレの中をすべて調べ、安全が確認された上で使用することに。女性アスリートが性被害の対象にされた一つの事例といえる。

 性的画像問題を考えるにあたり、ユニホームの問題も関連性が指摘されている。

 特に陸上、ビーチバレーは肌の露出が多く、被害の対象になりやすい。ユニホームを巡っては機能性を求め、抵抗感が少なく、競技力向上のために必要という側面はある。しかし、そのメリットと興味を惹くための線引きが曖昧になり、問題が起こることがある。

 例えば、バレーボール界で大山さんの現役時代に起きた変化も、その一つだ。

「選手のおへそを出そうと、ユニホームのシャツが短くなりました。当時は女子プロゴルファーの人気がすごくて、宮里藍選手、横峯さくら選手に負けるなという空気。ゴルファーはスイングする時におへそが見えていたので、バレーボールもスパイクを打つ時におへそが見えるようにしようとなり、ユニホーム(シャツ部分の腰回り)が短くなりました。私自身はそれが嫌で、意地でも見せないようにシャツを短パンに入れていました。

 でも、結局、スパイクを見せる時に見えていました。機能性より見せるという形で人気を獲得する方向に行っていた時期があったのは事実です。その頃、FIVB(国際バレーボール連盟)自体が体のラインを綺麗に見せるためにピタッとしたデザインにしたり、ノースリーブにしたり、短パンの股下部分の長さを決めたり。ビーチバレーも同じです。パンツの横の幅を何センチなんて決めるのは、おじさんのやることと思っていました」

 結局、へそ出しユニホームについては大山さんのようにシャツに入れて隠す選手もいれば、頭からボールに飛び込むフライングレシーブの際にコートに腹部を擦って故障の危険を味わった選手もいて、1年で廃止になったという。

「体が綺麗に見えるに越したことはありません。カッコ良く、スタイル良く見えた方がうれしい。子供たちも『あんな選手になりたい』と憧れを持つ、一つのきっかけになります。そういう意味では美しさを求めるべきと、選手の立場として思っていました。一方で、そうじゃないなと(行き過ぎた部分を)感じ、モヤモヤすることがあったこともありました」

 会場内にいるファンは健全に撮影を楽しんでいる人が圧倒的に多い。その写真をSNSなどに掲載することで、競技の認知につながることも事実。だから、一律に会場内の撮影禁止にすることはできない。見せる守るのバランスについて「本当に難しいです」と大山さんも言う。

「ファンの方には写真を撮ることを楽しみに来てくださる方もいます。本当に良い写真を撮ってくれて、それらをまとめて本みたいにして選手にプレゼントしてくれる人もいる。そういうものは選手にとっても、すごく励みになります。だからこそ、一律に撮影禁止にするというのは違うと思うし、一方で選手を守るとなると、どうしたらいいのかというのは難しい問題です」

 現時点で正解は一つではない。だからこそ、時間をかけてでも解決していくべき問題だ。

中高生でプレーする現役世代に訴え「春高バレーさえ、トイレで着替えている」

 自身の体験と考えを明かしてくれた大山さん。今は特に現役でプレーする10代の中高生にこうした現実を知ってほしいと訴える。

 バレーボールは中高生の全国大会ですら「更衣室が十分に確保されていると言えない」という。多くは1つの会場で数面のコートを使い、コートごとに複数の試合が行われる。そのしわ寄せで、人目から隠れていると言えない場所で着替えてしまうリスクがある。

「春高バレーさえ、トイレを使って着替えています。更衣室がごった返して順番待ちをしなければいけません。特に、ウォーミングアップはTシャツで試合直前にユニホームに着替えることが多く、そうなると余計に重なって時間がかかります。そこは主催者側が用意してあげてほしいです。

 また、男性指導者も時間に厳しく『早く着替えてこい!』と言われると、選手たちも焦ってしまい、更衣室に行かず、そのあたりの場所で着替えてしまうこともあります。指導者こそがしっかりと更衣室を使いなさいと指導しないといけないし、競技界全体で変えていかないといけません」

 大山さんが経験したのは女を捨てるという価値観で生まれてしまった被害者意識の欠如。この点について、選手を育てる大人たちに訴える。

「髪の毛を短く、角刈りのようにする規則など、そういう風潮はまだまだ根強く残っています。春高バレーも髪の長いチームが出てきてもいいのにとも思いますが、すぐには変わりません。私自身、(性的な撮影について)学生時代は何も気にしていませんでした。中学の全国大会で、会場内で着替えている時にコーチにやめろと止められ、何かと思うとカメラで狙っている人がいました。

 私が一番に思っているのは、やっぱり子供たちを守ってあげたいということ。Vリーグくらいの年齢、カテゴリーになれば、選手の自覚も出てくるし、控え室も守られています。一方、現状で守られていないのが子供たち。体罰とも共通するものですが、これは人権問題ではないでしょうか。女性、子供の立場的にまだまだ弱いという見られ方があるのではないかと感じています」

 繰り返すが、選手側に非はない。しかし、こうした問題が消えないことも事実。特に、ネットに上がった写真は半永久的に消えることがない。今は「減るものじゃないから……」と気にしていなかったとしても、将来、大人になった時に傷つくことだってある。

 最後に、大山さんはこうも付け加えた。

「こういうことがあるんだよと知ってもらいたいです。危険性が潜んでいると知ってもらえるだけで、きっと意識は変わるんじゃないか。本当はそういう人がいなくなることがベストですが、現状は難しい。だからこそ、自分の身は自分で守るという意識が必要になります。そういう教育、啓蒙活動は必要に感じますし、こうした発信を通じて少しでも知っていてほしいと思います」

大山加奈/THE ANSWERスペシャリスト

 1984年生まれ、東京都出身。小2からバレーボールを始める。成徳学園(現下北沢成徳)中・高を含め、小・中・高すべてで日本一を達成。高3は主将としてインターハイ、国体、春高バレーの3冠を達成した。01年に日本代表初選出され、02年に代表デビュー。卒業後は東レ・アローズに入団し、03年ワールドカップ(W杯)で「パワフルカナ」の愛称がつき、栗原恵との「メグカナ」で人気を集めた。04年アテネ五輪出場後は持病の腰痛で休養と復帰を繰り返し、10年に引退。15年に一般男性と結婚し、今年2月に双子を出産した。

THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara

 

 

“NUMBER”

 

「白のユニホームは狙われやすいと聞いていたのですが」ある女子陸上選手が吐露した性的画像被害への思い「最近は無観客なので、集中できる」

posted2022/09/25 11:02

 鎌田理沙(共同通信)Risa Kamata

 共同通信運動部の報道により、JOCなどが動き出し、東京五輪でも話題となった女性アスリートの盗撮被害や性的画像問題。その端緒となった、記者の学生時代の経験と、ある女性陸上選手の告白を『アスリート盗撮』(ちくま新書)=共同通信運動部編〈鎌田理沙、品川絵里、益吉数正、田村崇仁〉=より一部抜粋して掲載する

俺のどこが盗撮犯に見えたんだろう

 きっかけは意外な出来事だった。

 大学時代、スポーツ新聞部に所属し、カメラ撮影を担当した同期の男性が思わず口にした不満をよく覚えている。

 当時、同じ大学の体育会の試合に足を運び、試合後の選手にインタビューをして記事を書き、新聞を製作するという活動に没頭していた。

 特に陸上競技の試合に行くことが多く、春から秋はトラック&フィールドの季節ということで、全国の競技場に行って、観客席から選手たちのレースを見たり、自前の一眼レフと望遠レンズで試合の写真を撮ったりしていた。

 2017年春、その日の大会は同期の男性と一緒に取材をし、彼がカメラ撮影をして、私が取材と記事執筆をしようと役割分担をしていた。

カメラの中身を確認させてもらってもいいですか?

 跳躍種目において、全国大会でも実績のある女性アスリートのA選手が同じ大学にいた。

 その日の取材はもちろん、A選手の試合が目玉だった。

 彼女が競技していた種目の撮影にはこつが必要で、トラックのカーブ前の観客席に位置取って、できるだけグラウンドに近づいて撮らないといけない。カメラのシャッターを押すタイミング以上に、撮影ポイントが重要になる種目だったが、彼はカメラが得意で、跳躍種目もこれまで何度も撮影経験があった。

 それもあって彼に対して特に心配することはなかった。彼も、種目が始まる前に自分でロケハンをしていて、そのまま問題もなく本番の撮影に入ったようだった。

 しかし、種目が終わって私たちのもとに帰ってきた彼はひどく落ち込んでいた。「どうしたの?」と訳を聞くと、撮影中に競技場の係員に話しかけられたのだという。

「すみません......会場で盗撮被害が相次いでいて、カメラの中身を確認させてもらってもいいですか?」

盗撮しているように見られたのがショックなんだけど

 彼に後ろから声をかけた係員は、撮影した写真を見せるようにお願いしてきた。学生連盟が主催の大会だったので、係員も連盟に所属している大学体育会の男性部員のようだった。仕方なく応じてカメラを目の前の係員に渡すと、手慣れた手つきでボタンを押して、撮影写真が保存されたライブラリにざっと目を通した。

「大丈夫です。すみません、ご協力ありがとうございました」

 係員はカメラを持ち主に返すと、謝って持ち場に戻っていったそうだ。

 当時の学生新聞は、メディアとしての取材申請が通らなかった大会では、チケットを買って一般客としてスタンドから写真撮影をすることがあり、その日もその方法で会場入りしていた。陸上の大会の場合、撮影自体は許可されていることが多いが、撮影可能なエリアが決められていた。

 部員が取材をしていると対外的に分かってもらうために、新聞部の腕章を着けることもあったが、撮影していたときは着けていなかった。首から提げる大会公認のメディアパスもなく、ファンと横並びになって、望遠の白レンズを構える私服の若者となると、傍から見たら学生記者とは分からない。係員からすると、熱心に女性の跳躍種目をファインダー越しに覗いている、怪しい男性に見えたのだろう。

「確認するのはいいんだけど、おれ、盗撮しているように見られたのがショックなんだけど」

 彼は普段から真面目で、盗撮のような不誠実なことをする人ではなかった。「いや、本当にショック」と、ぶつぶつ独り言を言う同期がそのときは面白く見えた。たしかに、あなたは不審者に見えますと言われているようなものだよなあと思いつつ、「まあそんなことないよ」と軽く返事をした。

隠し撮り、よくあるんですよ

 トラックシーズンも折り返しを迎えた176月、体育会陸上部の女性選手を招いて、対談取材を企画した。男性部員が圧倒的に多い同部において、女性だけの取材をするのは初めてだった。仲のいい選手同士、同じ種目を専門とするライバルなど、話が盛り上がりそうな組み合わせで、複数組にインタビューをさせてもらった。

 その一つに、A選手と同期の選手で組んでもらった「跳躍ペア対談」があった。取材は同期の女性が担当し、2人の人当たりの良さもあり、終始和気あいあいと進んだ。

 私は同時進行されるそれぞれのインタビューを見ながら時間配分などを管理する役で、その合間にも盛り上がっている話が聞こえてきた。

 インタビューが終わり、対面に座った取材者と選手が雑談をしていた。

「隠し撮り、よくあるんですよ。本当にむかつきます!」

 もしかして、このまえ同期の男性が勘違いされた盗撮の話?

 雑談している学生のほうを見てみると、話していたA選手の横で、同期の選手もうんうんと何度も頷いていた。跳躍しているときに露出度が多めの競技用ユニホーム姿の写真を勝手に撮られて、気味が悪いのだという。

競技に集中したいのに、ほんと迷惑です

 そういえば、と思い返すと、会場は撮影エリアが限定されているほかにも、盗撮被害への注意喚起がチラシやオーロラビジョンで呼びかけられていた。大画面に映し出された「陸上が、好きだ。だから私は、迷惑撮影を許さない。」とのキャッチコピーは覚えている。

 スポーツの会場で、女性選手を狙った盗撮がはびこっている――

 この前は盗撮犯と間違われた同期の男性について、あまり真剣に考えていなかった。しかし、そもそも人員が決して足りているわけではないだろう学生連盟の係員が見回りをして、怪しい人にわざわざ声かけをしないといけないくらい、現場の被害は深刻なのかもしれない。勘違いされた彼もかわいそうだし、隠し撮りをする人が実際に会場にいるということだ。

「競技に集中したいのに、ほんと迷惑です」

 憤ったA選手が漏らした言葉だ。悪いことをしているのは選手でも撮影がしたいファンや学生記者でもなく、迷惑な撮影をする人々だと、強く思った。

コロナ禍で取材ができるスポーツの現場はほぼ消滅

 時は過ぎて208月、世界中が未知の感染症である新型コロナウイルスに翻弄されていた。

 年始から日本でも猛威を振るい始め、国内のスポーツイベントは、春の選抜高校野球やインターハイなどがことごとく中止に追い込まれた。

 夏に開幕予定だった東京五輪・パラリンピックも3月に史上初となる一年の延期が正式に決定され「こんな大変なときにスポーツどころじゃない」という鬱積した思いが、世間に充満していた。

 その雰囲気は、共同通信社に入社して、当時入社2年目だった私もひしひしと感じた。

 スポーツの取材がしたくて、就活で運動部採用枠のある共同通信を志望し、19年春に入社。1年間松江支局で勤務し20年に本社の運動部に配属されたが、コロナ禍で取材ができるスポーツの現場はほぼ消滅していた。

私たち、東京来てからなにもしてないよ

 ベテランの先輩記者も担当競技の重要な大会がなくなり、リモートで選手の近況を聞き出さないといけないようで大変そうだった。取材先となんのつてもない若手に、できることはないのではないか、と感じられた。

「私たち、東京来てからなにもしてないよ。このままだとやばいよね」

 東京都港区の三田に位置する「伊皿子寮」の一階ロビー。東京本社勤務の若手らが集められる社員寮で、同僚の品川絵里記者とデリバリーの夕食をほおばりながら、2人で作戦会議をしていた。

 品川記者は18年入社の運動部採用の記者で、初任地の大分支局から、同じ20年春のタイミングで運動部に異動した。

 共同通信社は運動部や写真部の枠で採用された記者も、初任地は全国各地の地方支局に配属され、一般記者として警察取材などを担当するのが通例だった。

このままではまずい。どうにか打開策を見つけないと

 コロナ禍以前の地方支局で県警取材に精を出していた頃とは違い、取材のチャンスがなかなか回ってこない生活に、焦りが募っていた。

 いまや貴重になった試合の取材はほぼ行く機会がなく、記事はめったに書けない。こうしている間にも、地方にいる同年代の記者は事件事故の記事をたくさん書いていて、はるか遠くに置いて行かれたような気がした。

 このままではまずい。どうにか打開策を見つけないと。

 同じ不安を抱いていた私たちは、自分たちで書ける記事のアイデアを出し合って、記事を出稿するための計画を練ることにした。

 試合には行けなさそうだから、選手や元選手にインタビューをして読み物を仕立てるほうがいいかもしれない。

それいいじゃん! ありだと思う

 偶然2人ともジェンダーの分野に関心があり、品川記者から競技中の生理など健康問題に悩んでいる女性選手に実情を聞かせてもらうのはどうか、などとテーマがいくつか挙がった。

 そういえば、大学のときに聞いた盗撮の話は、広く言えばジェンダー問題とも言えるかもしれない、と思い出した私は品川記者に案を出してみた。

「それいいじゃん! ありだと思う」

 こうして女性選手への隠し撮り被害について、取材を始めることになった。

ネット世界に広がる被害

 最初はもちろん、大学時代に取材させてもらった跳躍種目のA選手にアポを取らせてもらった。

 2091日、久し振りに話をしたA選手は、いつも通り元気そうだった。

 競技中に隠し撮りをされていることについて、大学時代に改めて聞くような機会は今までなかったが、「少しでも多くの人に、被害に遭っている選手がいることを知ってほしいので、是非お受けさせていただきます」と快諾してくれた。

「大学の下級生のとき、(上下が分かれた)セパレートユニホームの下が白でした。白いユニホームが狙われやすいというのは聞いていたのですが、実際に(動画配信サイトの)YouTubeにも(動画が)上がっていたくらいで......

 競技場で隠し撮りされる被害を想像して取材を申し込んだが、被害はネット世界の奥深くにまで広がっていた。カメラで透けやすい色である白などのユニホームを狙って写真を撮り、SNSなどを使って写真や動画のデータをばらまくのだ。

 彼女に教えてもらった怪しいツイッターアカウントを検索すると、おそらく投稿者自身が撮ったと思われる画像に、どう読んでも性的に解釈される文言を付けてツイートしていた。彼女たちの競技内容とはほど遠い、卑劣な内容にあきれるばかりだった。

なんで女性ばっかりと思います

「本当に気持ち悪いんですが、性的なことをつぶやいているアカウントにフォローされて、私の写真が上げられているのは何度かありました。そういうアカウントにフォローされるのも不快なのに」

「「そういう格好している人たちが悪い」というコメントがあって、それは違うんじゃないかなと思います。私たちはまったくそういう意識でやっていないし、競技のことを見てほしいと思っているのにそういう目的で撮られて、気にしないといけないことが増えて嫌な気持ちになるというのは、確かに女性選手ならではのことだと思います。考えなくても良いことを考えなきゃいけないというのが嫌というか、なんで女性ばっかりと思います」

「最近試合が無観客なので、今は集中できるというか。そういうことを気にしなくて良いなあとは思っています。この被害を受けている状況って変わらないし、むしろ増えていくと思うんです。だからどうにかしないと、被害を受ける人が増える一方かなと思います。最低限のこと(対策)はしてほしい。撮影しているほうもやましいことがなければ(会場で撮影した写真を)提示することに対して抵抗もないはずだから、やってもらえたらこっちも安心して、試合中気にせず競技できるなあって」

「私は被害を公にするのも恥ずかしいと思ってしまったというか、自分からそれを発信するのは恥ずかしいと思ってしまうので言えないだけなんですが、他の選手がそう言ってくれるのは私にとって、とても心強いです。ありがたいなと思います」

女性選手2人が被害を取りまとめ

 取材も終盤に差しかかったとき、彼女がふと言った。

「選手の声を集約するアスリート委員会から、被害について日本陸連(日本陸上競技連盟)に意見書を出すという話があるんです」

 意見書とは? 彼女に聞いたところ、前々からSNSなどで被害を訴えていたある女性選手2人が代表になって、他の選手の被害状況をとりまとめているのだという。彼女も(スマホの画面を保存する)スクリーンショットなどを数点提出したという。

 そのうちの1人の投稿は以前、目にしたことがある。たしかユニホームを性的な目で見られることが嫌だと訴えていた。もしかしてと思い、聞いてみた。

「その選手って、もしかしてあの、Bさんですか?」

「そうです。発信力もあってしっかりされていて。その人が発案されてまとめてくれているんです」

 日本陸連のアスリート委員会といえば、08年北京五輪陸上男子4×100メートルリレーで銀メダルを獲得した高平慎士さんを委員長として、現場の選手の実情を日本陸連に伝える働きをしている。

 19年、男子10種競技の右代啓祐さんの世界選手権へのエントリーが承認されなかった問題では、アスリート委員会が日本陸連に要望書を提出し、本人に直接説明の場を設けるなど、選手と日本陸連の橋渡しのような役割を果たしたのだという。

 もしこの意見書がアスリート委員会を通して本当に日本陸連に提出されるのだとしたら、これは大きなニュースだ。今まで解決されてこなかった問題に、当事者の女性選手が声を上げて被害を訴えるのだから。これを機に、何かが変わるかもしれない。

 その選手にぜひ取材を申し込みたいので、彼女に取り次ぎをお願いした。取材はOKとの返答をいただいた。約2週間後、BC選手に都内で取材させてもらうことになった。

 

なにかアクションを起こそう

 2020915日、意見書をとりまとめていたという陸上競技の女性BC選手と、都内で対面取材をすることになった。BC選手ともに世代を代表するアスリートで、そのうち一人は国際大会で日の丸を背負った経験もある。

 自分と近い世代の選手が被害を受けていることに悲しくやりきれない気持ちになる一方、若い女性が不条理さを自ら声に出して、対応を求めて所属する組織に訴えかけていることは、同じ日本に住む人間として心強く感じる話だった。

 B選手が7月、自身のSNSで会場での隠し撮りやユニホーム、自分の容姿について性的になじるような発言について、苦言を呈したのが始まりだった。その投稿に反応したC選手が「なにかアクションを起こそう」と声をかけ、意見書の作成に乗り出したという。

 ただ、問題提起に向けて課題は多い。8月に入ってからアスリート委員長の高平(慎士)さんから紹介された日本学生陸上競技連合(日本学連)の弁護士と連絡を取って、送られてきたメッセージや画像を見てもらっていたが、どれも法的に裁けるラインを超えてこないのだという。当時は集まった被害事例を整理しながら、弁護士が被害を警察に持ち込んだり、日本陸連(日本陸上競技連盟)に相談をしたりしているということだった。

消えない「デジタルタトゥー」

「これは自分たちだけの問題じゃなかったから、SNSで自分たちだけ発信しているのもどうかと思っていた。大きい組織が動いてくれたほうがいい。私たちが言っているだけでは(組織は)動かないということも知っているので、アスリート委員会なら動いてくれるという期待はあります」(C選手)

 2人はネット世界での画像や文言の拡散に警戒心を強めているようだった。

 近年スマートフォンの発達により、他人が勝手に投稿した写真が本人を含め無数の人の目に入るようになった。一度ネットに拡散されたデータは、瞬く間に広がり、発信元が削除をしたとしても、消え去ってくれない。こうしたネットでのデータの痕跡は「デジタルタトゥー」と呼ばれる。

 会場で競技をしている写真をファンが撮ってネットにアップしたものではなく、性的な意図を持った悪意のある投稿だ。その違いは一目見ただけで分かるからこそ、互いの同意がない性的な投稿をした後の、そのデータが持つ影響力を考えてほしい、と2人は口をそろえた。

1回ネットに上がるとずっと残る

「アスリートのユニホーム姿を性的と思うのは人の性癖だし勝手にすればいいと思っていて。でもそれをその人にぶつける、名前付きでお尻のアップの写真を上げられて、それに卑猥な言葉が付いている。他の人がその子の名前で検索したときにそれが見つかるというのは、ただただ失礼な行動だし、その子は被害者だと思う。それはおかしいと私は言いたかったのですが、なかなか伝わらない」(C選手)

「そういう写真って1回ネットに上がるとずっと残るじゃないですか。絶対削除しきれないから、本当に応援してくれているんだったらそういうのも出さないでほしい。ちょっと考えれば分かるじゃないですか、SNSの恐ろしさってニュースになって、人が亡くなっている。安易に性的な写真を載せないでほしい」(B選手)

「競技を頑張りながら教職課程を取って先生になったとき、生徒って先生の名前調べるじゃないですか。そうしたら陸上やっていたときの写真に卑猥なコメントを付けられたものがたくさん出てくる、それがすごく嫌。そういうことが起きるからつらいよね」(C選手)

「被害を受けることを知らずに、いくらでもみんな(自分で)写真を載せちゃうんです。私らが中高生のときはそういう被害もないし、表に出ることもなかったので写真を載せても被害に遭うことはなかったですが、今はちょっと違うよね。どんどんSNSが発達してきて、そういう性的なものを見かけて敏感になってくる。でも知らずに上げて悪用されちゃう子が本当に多いから、それを幅広い人に知ってほしい。高平さんも言っていたけど、男性の指導者が多いから「そういう被害があるって知らなかった」って。だから私らが直接言ったり、記者さんの言葉を借りたりして、いろいろな人に周知して問題提起をしていくしかない」(B選手)

脚を覆うスパッツタイプの選択肢も

 インタビューの途中に、露出が多い競技のユニホームについて選手目線のアイデアが出てきた。

 現在世界のトップ選手をはじめ日本の学生の間で人気なのは、胸と腰部分が分かれて水着のような形になっているセパレートタイプ。もちろんこれまで通りセパレートを愛用するのも良いし、露出に抵抗がある選手は、脚を覆うスパッツタイプなどいろいろな選択肢から選んでいくのはどうかという案だ。

 学生の選手は部活動のチームがユニホームをセパレートに統一していたり、実業団選手でもスポンサーとの兼ね合いでユニホームの形まで選べなかったりする事情はある。ただ、隠し撮りや性的な画像の拡散被害が拡大していることを選手以外のスタッフにも周知して、現状に対抗するすべを持つのは、これから必要になってくるのではないか。選手の選択肢を増やすことは、その人らしい競技人生を送るためにも大切な環境整備だ。

性的画像被害に以前から心を痛めていた弁護士

 次はBC選手に名前を教えてもらった日本陸連法制委員会の工藤洋治弁護士の事務所に連絡をして、アポを取らせてもらった。

 工藤弁護士は会社法などを専門とする傍ら、東京大学の陸上運動部で競技をしていた経験から日本学連に関わっている。東大では100メートル(手動)、200メートル、400メートルで学内記録を樹立するなど、名実ともに文武両道の競技者だった。

 917日、会社の運動部で陸上取材キャップをしている益吉数正記者、品川、鎌田の3人で、工藤弁護士の事務所に伺い、現時点での進捗を聞いた。

 益吉記者は05年入社で、初任地は千葉支局。社会部系の取材を担う一般記者として福岡支社で県警キャップを務めたあと、13年に運動部へ異動した。プロ野球の遊軍を経て、陸上やJOC、冬季ではスキー競技などを担当している。

 アスリートが会場で性的な写真を撮られていることについて、工藤弁護士は以前から心を痛めていたという。被害が多発した日本学連は10年以上前から、事態を深刻に捉えていた。だからこそ長年苦しんできた問題について声を上げた2人の女性選手に対し、工藤弁護士は協力を惜しまないつもりだった。

警察当局は「これは事件化できない」

 事務所の大部屋の椅子に全員が腰かけると、工藤弁護士は1枚の紙を机の上に置いた。陸上短距離種目の女性選手がスターティングブロックを使ってスタートする際にお尻を突き上げている写真を拡大編集して、卑猥な言葉とともにツイッターで投稿したツイートをスクリーンショットした画像だった。

 ネットの世界ではスラングなどの罵詈雑言が横行し、性的な言葉もよく見かけるが、現実世界でこんなひどいことを、公衆の面前で言い放つ人はそれほど多くはないのではないか。工藤弁護士から差し出された紙には個人の性的な欲求を表す文言が踊っていて、ひどく滑稽にすら見えた。

 しかしこれらのつぶやきは、現在の法整備だと検挙することができないという壁にぶつかっている。BC選手の2人とこれまで選手が受けてきたネット上での被害を精査して意見書を作ったあと、知り合いをたどって警視庁へ相談にも行っているが、警察当局は「これは事件化できない」との一点張りだったという説明だった。

現時点で記事にするのは待ってほしい

 捜査が介入するのが難しいのであれば、やはり競技団体が対応を強化するしかない。日本陸連に被害の実態、法整備で追いつかない現場の規制、今後の対応策を工藤弁護士から持ちかけているという。

 そして、日本陸連が、国内競技団体の統括団体である日本オリンピック委員会(JOC)に相談をする予定があるとの示唆があった。ABC選手の被害の訴えを受けて、日本陸連のアスリート委員会、日本陸連、そしてJOCが何らかの動きを見せる可能性があるということだ。

「現時点で記事にするのは待ってほしい」と工藤弁護士からのお願いがあったが、これからは取材する側としても組織の意向を注意深くチェックし、記事化のタイミングをうかがう必要がある。今度は107日、日本陸連がJOCに今後の動きについて相談したあと、日本陸連に直接取材をすることになった。

会場でもそれらしい人を捕まえることはあっても

 107日、東京都新宿区の国立競技場のすぐ近く、ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア(JSOS)の9階に日本陸連事務局はある。JOCに問題対策の協力を相談した日本陸連に再度取材を行うということで、共同通信からは益吉、品川、鎌田、東京本社運動部の田村崇仁デスクの4人が現地に赴いた。

 田村デスクは1996年に入社し、サッカーやプロ野球、JOCキャップを経て2013年からはロンドン支局に駐在して国際オリンピック委員会(IOC)や国際パラリンピック委員会(IPC)、欧州スポーツ全般を取材。13年に柔道女子の暴力・パワーハラスメント問題の取材班代表として、新聞協会賞を受賞している。今回も記者が話を持ちかけた当初から「もしかしたら大きく広がるかもしれない。取材してみよう」と、社会へ問題提起するニュースへの嗅覚は敏感だった。

 日本陸連からは風間明事務局長や平野了強化部強化育成課長(すべて取材当時の肩書き)、そして工藤弁護士ら5人が出席した。 

 それぞれ簡単な自己紹介を終え、風間事務局長が会合の口火を切った。

JOCの事務局長の方に話をしたら、日本陸連だけでなく他の競技団体でもあることと認識しているので、報告にきてくださいと。JOC担当の弁護士も含めて、数名で話を聞いていきましょうと。スポーツを愚弄する問題だ。常に陸上の世界でも袋小路に入ってしまい、立件できない。会場でもそれらしい人を捕まえることはあっても、警察に受け渡すこともできない状態の中で悶々としていたわけで、中学校、高校、学連の大会で何度も悔しい思いをしてきた。今回陸上の世界だけでなく、JOCの方に話していくというのは日本陸連として東京五輪前に一歩踏み出したという受け止めです。JOCからも「今後は被害にあっている競技団体の状況を聞きながらやっていきましょう」という話を、昨日お伺いしました」

卑猥な撮影、投稿を何と名付けるべきか

 日本の競技団体を束ねるJOCが、日本陸連の被害報告を受けて正式に対策に乗り出すということだ。そして風間事務局長もこの件を報道するであろう共同通信に対し、日本陸連として場を設け、言葉を整えて取材に応えた形だった。

 次に話題はアスリートが受けている会場での隠し撮りは、「盗撮」と言えるのかという疑問に移った。

「性的な意図をもった撮影。卑猥な撮影行為、掲載行為......。いまひとつ言葉にインパクトがない。なかなか盗撮というと、いかにもスカートの中をこっそり撮影するみたいなイメージがありますね」と工藤弁護士。

 風間事務局長は「場合によっては普通の写真に対して卑猥な言葉を加えたり、写真に体液を付けたものをネットに載せたりするということをする。選手の顔が分かるように載せてみたいな、これは盗撮ではないんですよね」と困惑気味に意見を述べた。

「広く尊厳を害する行為ですよね。それはスポーツ選手の尊厳というより、一個人の尊厳ですよね。スポーツ選手だから目立つからというだけで、もはやスポーツ選手への特別な何かという問題でもなくて」と工藤弁護士は言葉に力を込めた。

 確かにその通りで、厳密に言うとアスリートが受けているのは盗撮被害ではなく、迷惑な撮影ハラスメントだ。この卑劣さを読者の人にも分かりやすく、正しく伝えるには、何か別の表現を考えなければいけない。宿題がまた一つ残った。

警察署に連れて行かれた彼らが、翌日また会場に

 アスリートの盗撮問題は取材班でテーマを掘り起こしてニュースを出すタイミングをうかがう一方、同時進行で進めていた周辺取材から、競技団体や大会を運営するサイドも対応で苦悩してきた長年の経緯が見えてきた。

「スタンドで保護者の方が「自分の子どもが写されている」と気付いた。係の者が駆けつけて連れて行こうとしたらもみあって逃げた人が1人いたんです。騒ぎになって、最終的には10人近い人たちが盗撮をしたということで集められた。通常12人であれば中身の写真を出させて、「駄目だからもうやるな」と諭して帰すことが多かったのですが、警察が来たので取り調べを始めてもらいました。最終的にパトカーも来て、署に乗せて行きました」

 取材に答えてくれた選手からの情報で「あの会場で隠し撮りが多かったと聞いた」と言っていた陸上の大会のうち、ある運営関係者が明かしてくれた話の驚くべき場面の一部だ。

「署に連れて行かれたあと勾留はされていないので、なんと翌日また彼らが来たわけです。だから試合中も通路に立って、ずーっとその人たちを見ておかなきゃいけない。(現行の法整備では)完全に罪に罰せられることがないと分かっているから、またチャンスがあれば......と思って来るわけです」

「大会の規制としては撮影禁止エリアをしっかり明記して、会場に入るときはカメラをしっかりチェックして望遠レンズや疑わしい品質のものは駄目だと注意する。しかしホームカメラのような見かけでも赤外線機能が付いているものがあって、そういういいカメラをお持ちの方もいる。それで会場で撮った画像を見せなさいと言っても、すでにデータがサーバーに移されている」

 一方的に性的な切り取り方をする隠し撮りはしないでくださいと呼びかけている運営側と、法に裁かれることがないと知っているから大胆に、時には選手の保護者の前で隠し撮りを続ける撮影者。会場での規制はいたちごっこだと、担当者はやりきれなさをにじませていた。

赤外線の隠し撮り対策を続けるスポーツメーカー

 選手への取材を続けていると、以前から隠し撮り対策に取り組んでいるというメーカーの名前を耳にすることがあった。

 埼玉県熊谷市に本社を構え、陸上競技のウエア開発や物品提供を中心としたスポーツ用品メーカー「クレーマージャパン」は、赤外線搭載カメラによるユニホーム透視を防止できる粒子を吹きかけた製品を07年に開発。女性選手用のランニングブラや、既製のユニホームに差し込むパットなどを生産し、学校関係者への営業を通して商品販促を行ってきた全国的にも珍しい会社だ。

 05年、当時会社の役員が代表を務めていた日本学連から、「隠し撮り対策ができる製品を作ってほしい」と要望があり、開発に乗り出した。2年をかけて製品販売にまでこぎつけたが、現場での反響や売り上げは「思ったよりなかった」(担当者)という。

「会場での規制をかいくぐって隠し撮りをする人たちは絶えない。一方で我々がこういう製品があるので買ってください、と宣伝するのは(選手たちに間接的に被害を教えることになるので)露骨には憚られる。大学の先生も「被害はあるよね」という認識だったが、じゃあ選手に買ってあげようというところまではいかなかった。自分たちは別に(大丈夫)という雰囲気で、当時はなかなか選手自身が被害を目にすることが少なかった。ここまでする必要があるかは伝わっていない」

 売り上げは取材当時の数字で、パットが2000セット、ショーツは150枚弱ほどだったという。担当者は従来の硬い素材だと競技がしにくいため製品自体に改善の余地があると指摘。

問題の深刻さが現場で共有されていない?

 さらに開発を始めた15年前から現状が変わらない理由について、そもそも問題の深刻さが現場で共有されていないからかもしれないと話してくれた。

「理想論ですが、こういう素材がユニホームに標準装備されていて、選手が自然に守られるのが1番かなと思っている。(被害があるのかどうか)半信半疑でなかなか受け入れないこともあると思う。自然と身につけてもらえるようなものを作ることで、開発当時の代表の思いを受け継いで、次の段階にいかなくてはいけない」

 国内競技団体も苦悩とジレンマを抱えている。女性アスリートが狙われそうな競技は?とスポーツ関係者に問うと、多くの人が水泳、体操、フィギュアスケート、陸上、バレーボールといった競技を挙げた。大会や連盟で指定されているユニホームや衣装の形状が独特で、露出が多い点が共通点として推測できた。

 各連盟に取材を申し込み、対策や会場の現状を回答してもらった。競技によっては一般客による撮影を全面禁止にしているところもあった。

競技団体は被害対策との間で板挟みに

 「一般撮影を許可している競技は対策を放棄している」と受け取られがちだが、取材をしてみると一概にそうとも言えないことが分かった。選手を狙った撮影者がさまざまな会場に足を運んでいて、運営管理者はどこの競技でも被害を認識したうえで、対策に苦慮しているということだ。

 陸上競技やバレーボールのようにファン向けの撮影を自由にしているからといって、事態を軽視しているわけではない。写真を撮りたいファンや選手の身内の気持ちを尊重したい意向がある一方、被害対策との間で板挟みになっている。

 各団体の対策は次の通り。

ハイレグの形でなくなってから、被害件数は大幅に減った

競泳(日本水泳連盟)

 00年ごろ、連盟主催で無料入場の大会において、一般撮影は許可制に移行。なお有料大会において規制はしていない。

 08年ごろ、北京五輪に向けて足首まで体を覆うスピード社の水着が男女ともに主流となり、隠し撮り被害の件数が減少したことを認識した。

 規制のなかった当時は、泳ぐ前やプールサイドに上がる際、お尻などを狙ってシャッターを押す、怪しい撮影者が観客席にいると通報があった。水着がハイレグの形でなくなってから、被害件数は大幅に減ったという。

観客席からの一般撮影を全面禁止

フィギュアスケート(日本スケート連盟)

 0506シーズンから、観客席からの一般撮影を全面禁止。

 観客席から望遠レンズで撮影し周りの方々へ迷惑をかける事例が発生し、観客が撮影したと思われる写真がネット上のオークションなどで販売され、選手の肖像権を侵害する行為が多発したため。

 現在は大会ホームページでの事前告知、会場内での見回り、場内アナウンスでのお願い、手荷物チェックなどで周知を徹底。隠し撮り被害は、多くのトップスケーターを含めた選手がターゲットにされたものが確認されている。

協会が警察に相談したところ

体操(日本体操協会)

 004月、会場での撮影・取材を一部制限。

 014月、規制対象の望遠レンズの長さを200ミリから210ミリにするなど、規定を一部改正。

 042月、一般撮影と報道撮影の分離をしたうえで、一般撮影の禁止に踏み切る。ただ選手の所属クラブなどによる競技力向上を目的とした動画撮影、選手の親族らによる記念撮影などは、入場時の申請により撮影許可証を発行するなどして対応。また協会主管の大会以外の撮影規制は、主管団体の判断に委ねている。

 協会が警察に相談したところ、レオタードで演技することがルールで決められている以上、それを防ぐためには撮影禁止の規制を設けること以外、どんなに選手の望まない下半身をクローズアップしたような写真を売っているとしても、刑事事件としての取り扱いが難しいと回答されたことが一因。

 隠し撮り被害は、体操、新体操、トランポリン、一般体操も含むすべての女性選手がターゲットとなって、自身の望まない写真や動画を撮影されてインターネットで販売されていたという。

サイト運営会社に削除要請することも

バレーボール(Vリーグ)

 15年ごろ、リーグ公式サイト内に「V.LEAGUEを観戦いただく皆さまへ」と題したページを開設。

「(7)試合運営の妨げにならないようご協力をお願いします」とした項目の中、12番目に「盗撮などの迷惑行為」を盛り込み、呼びかけを続けている。一般客による撮影の全面的な禁止はしていない。

 隠し撮り被害は、女性選手の胸やお尻をアップして撮影するのが一番多いケース。画像や動画がSNSや動画配信サイトのYouTubeなどにかなりの数が上がっていることを確認しており、サイト運営会社に削除要請をするなどしている。

「性的な画像」という表現

 こうした周辺取材と並行しながら田村デスクや益吉記者を中心にJOC側にも裏付け取材を続けた。そして試行錯誤を重ねながら、複数のルートから「裏取り」に成功し、アスリートへの迷惑撮影、ネットでの画像拡散の問題にJOCが対策に乗り出すと記事の具体的なリード(書き出し部分)が決まった。しかし執筆を始めてもなお、「盗撮」に代わるいい言葉はなかなか見つからなかった。

「迷惑撮影」だと実態がぼんやりしすぎているし、「撮影ハラスメント」は漠然としている上に文字数が多い......

  東京都港区汐留の共同通信本社19階、運動部のフロアで悩む品川と鎌田に、田村デスクが「これってどう?」と声をかけた。

 かつて女性と性的な関係を持ったときの写真をばらまくと脅迫した疑いで、逮捕された事件の記事。その画像のことを「性的な画像」と表現していた。これなら分かりやすいし、下着を写すような露骨な盗撮だけじゃない写真や動画も指すことができる。

「アスリートの性的画像問題」へJOCが対策へ乗り出す。田村デスクの提案で、記事は固まった。こうして第一報が世の中に出ることになった。

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.