奏鳴曲  海堂尊  2022.10.30.

 

2022.10.30. 奏鳴曲

 

著者 海堂尊 1961年千葉県生まれ。医師、作家。2006年に『チーム・バチスタの栄光』で第4回「このミステリーがすごい!」大賞を受賞、作家デビュー。

 

発行日           2022.2.25. 第1刷発行

発行所           文藝春秋

 

序章 妖怪石黒(石黒忠悳子爵)、大いに騙(かた)     昭和6613

北里の大往生を聞いて石黒は新聞記者に語る――大日本帝国の衛生行政の創始者は内務省初代衛生局長の長与専斎、その後内務省では北里、陸軍では森鷗外が発展を遂げた

伝研を巡る確執があったが、今は伝研と北研が協調、勝ったのは長生きした北里

 

第1部        青春        明治518

1章             阿蘇の大鷲                        明治5

阿蘇五岳の連山の山間の小村、北里村の庄屋の長男に生まれた柴三郎は自分の姓が村に刻印されていることに責任を感じていたが、幼い弟2人を虎烈刺(コレラ)で亡くし、母から無医村解消のために医者になることを勧められた

開明藩主の細川護久は横井小楠の弟子を登用して、抜本的な藩政改革を始め、創設110年の皇漢医学の再春館を廃し、明治3年西洋医学の古城(ふるしろ)医学校を創設、長崎から蘭人軍医を招聘、翌年入学した柴三郎は先輩の緒方正規、浜田玄達とともに3羽烏と呼ばれた。先輩2人は士族である侍医の家の嫡男で、長崎で医学教育の仕組みを作った長与専斎が東京で開校する医学校に転校したが、柴三郎は古城に残って塾頭を務める

明治5年、天皇の西国巡幸の途次熊本に立ち寄った際、蘭人軍医の推薦で天皇に直接日本の医事について建言。西郷を入れた3人で語り合ううちに柴三郎は天皇との相撲に勝つ

 

2章             津和野の胡蝶                      明治5

森林太郎は、5歳で論語を習い、津和野藩の藩校、養老館に6歳で入り首席となる

明治5年、藩主から知事になった亀井が、辞任して上京する際典医の父を誘ったことから父について林太郎も上京。父は佐倉の順天堂で学び蘭医となるが、親戚の西周に林太郎の将来を託す。西の養子の実兄が軍医の林紀(つな)、義兄が榎本武揚中将、赤松則良少将

西も津和野藩で御典医になるはずだったが途中で脱藩。幕府の番所調書の教授になり、オランダ留学後は開成学校の教授、王政復古後は徳川幕府が開校した沼津兵学校の初代校長

陸軍を創始した山県と親しく兵部省顧問となり、軍人勅諭を起草

明治7年、林太郎は医学校予科に入学、寄宿生活に入るが西家に寄宿した影響は大きい

 

3章             柴三郎、医道を吠える          明治11

西南戦争の間に「医学校」は「東京大学医学部」と改称、旧加賀藩邸跡に移転。談論風発の寄宿舎の無頼集団をまとめたのが柴三郎。雄弁会「同盟社」を率いて医学の刷新を訴え、初めて林太郎と対決

 

4章             合わせ鏡                           明治11

明治2年、医学教育の基幹をドイツ医学に転向させたのは医学取調御用掛の相良知安(佐賀出身、明治5年文部省の初代医務局長、初代東京医学校校長)と岩佐純(越前出身)

陛下から脚気病院を作れとのご沙汰があり、皇漢医の遠田澄庵(とおだちょうあん)が登用されたが、1等軍医正の石黒も『脚気論』を書き設立委員となる。遠田は脚気米因説を取り、銀シャリを腹一杯食べさせるのをウリにしている陸軍にとっては都合が悪い

東大のベルツは伝染病説だが、原因菌は不明。石黒の『脚気論』もベルツ直伝

長与専斎と石黒忠悳は、内務省と陸軍で衛生行政を推進する合わせ鏡のようなもの

長与は、長崎の侍医の家に生まれ、緒方洪庵の適塾に学び、福沢の次の塾頭、長崎伝習所に修学し臨時頭取、蘭医学を学んで中央政府からベルリンに派遣され「衛生」の概念と遭遇。明治7年帰国し東京医学校校長となり、翌年内務省衛生局創設と共に初代局長に

石黒は、幕府の小役人の倅で越後の貧農の養子となり、江戸の医学所に入って順天堂の松本良順の知遇を得て官立の「大学東校」の教官となり相良に重用される。佐賀の乱で陣中病院を監理して山県の信を得、西南戦争では大阪陸軍臨時病院長に抜擢。軍医部では初代軍医総監の松本の番頭役を務め、順天堂閥の若きプリンス林紀2代軍医総監に忠実に仕える

幕末の動乱期、軍備と医学は手を取り合い西洋化を進め、最初に導入された西洋医学である「種痘」と共に近代化――種痘普及により皇漢医は衰退し、西洋の兵学や武器が知られ、蘭学が倒幕運動と結びつく

種痘は衛生行政の柱となり、明治6年長与が文部省医務局長に任命された時に牛痘種継所を設立、その所長職は中浜東一郎(ジョン・万次郎の息子)、柴三郎と受け継がれる

日本の衛生学は、内務省衛生局、陸軍軍医部、東大医学部が三つ巴で絡み合い伸びていくが、各々の頂点にいたのが北里柴三郎、森林太郎、緒方正規。その3者が一堂に会した明治11年は、日本の衛生学が生まれた日

 

5章             貴公子、雌伏す                   明治1417

亀清楼は安政元年創業

林太郎は東大医学校卒業、成績は8席、首席は三浦守治。下級生代表で柴三郎が送辞

柴三郎の学内改革のとばっちりでドイツ留学の機会を逃した林太郎は、柴三郎のことを疫病神と思うようになる

林太郎の弟篤次郎も医学部予科生に

林太郎は、陸軍にも国費留学生の制度が出来たことを教えられ、陸軍省へ入り、林紀軍医総監の下で、陸軍軍医副に任官

明治15年、林の計らいで下積みを4カ月で終え、陸軍軍医本部へ転勤したが、夏には順天堂当主佐藤尚中が死去、有栖川宮の欧州視察に随行した林がパリで客死

明治17年、陸軍卿の大山の欧州視察団に入ろうと志願したが拒否されたところに、石黒から官費留学生に推薦するので脚気を研究してきてほしいと誘われ、10月渡欧

直後に、監獄の主食を麦飯にしたら脚気が激減した事実から、大阪陸軍病院長が「軍食を麦飯にすべし」と建議、大阪鎮台では司令官の一存で麦飯にしたところ数年で脚気がなくなったと天皇にも奏上され、明治24年には各師団とも麦飯に変更して陸軍から脚気患者がいなくなったが、陸軍中枢部は承諾していなかった

明治16年には留学帰りの緒方正規が脚気菌を発見したと公表

 

6章             北里、衛生局に出仕す          明治1617

明治16年、東大医学部を8席で卒業した柴三郎は、、内務省衛生局入省

柴三郎は、学生時代のアルバイト先の牛乳店の店主の兄の娘乕(とら)を伴侶とする。岳父の松尾臣善は大蔵省高官から第6代日銀総裁となり男爵。弟も乕の妹と結婚

林太郎は2歳上にサバを読んで東京医学校に入学、北里の場合は4歳年下にして入学

内務省の上司が後藤新平(高野長英の又甥)。その手配で『秋田日報』の主筆だった若き犬養毅と北里は親交を結ぶ

明治16年、医術開業試験規則公布、正式に全国一律の試験制度が実施される

 

7章             北里、東京試験所に出向す    明治18

明治18年、北里は衛生局東京試験所へ出向、上司が緒方正規

緒方は、熊本の古城医学校で北里と同期、上京して東校に学び、卒業後ライプツィヒに留学、コッホ研究所を経て衛生学と細菌学を修学し帰国し、東京試験所所長に就任

緒方は、脚気菌発見を公表、医学界に一大センセーションを巻き起こしたが、直前に海軍軍医総監の高木兼寛が大規模な疫学調査の結果から栄養説を発表、陸軍は黙殺し、両者の間で長く続く脚気論争の始まりとなる

この時初めて北里は石黒と出会い、さらに松本順とも面識を持つ

松本は順天堂の息子だったが、幕府直参の松本良甫の養子となり、江戸で将軍家の奥詰医となり医学所の3代目頭取となるが、大政奉還後には賊軍に身を投じ、維新後蟄居。赦免後は浅草で開業。西郷の推挙で兵部省軍医頭として陸軍軍医療を統括。陸軍と東大医学部の癒着はこの時始まる

その年長崎にコレラ上陸、調査を命じられた北里は、コッホが2年前インドで発見したと同じコレラ菌を発見。日本上陸は6回目、

この功績が認められ、後藤の根回しもあって、北里は内務省の第1回官費留学生として中浜と共に3年間ドイツ派遣が決まり、行く先をコッホ研究所に絞り、年末には出発

 

第2部        朱夏        明治1925

8章             エトランゼの舟歌                明治19

4代軍医総監に橋本綱常(左内の弟)就任

林太郎は留学1年目の成果として『日本兵食論大意』を仕上げ、石黒衛生局次長に送るが、過去の脚気論文の寄せ集めで、目新しいものはない                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 

9章             北里、ベルリン見参             明治19

北里は中浜と共に1869年に完成したばかりのスエズ運河を通って、マルセイユ経由ドイツに向かう。ベルリン大学衛生研究所にコッホ所長を訪ねる

当時北里は、既にコッホがインドでやった培養実験で菌が急速増殖するのを再現し、コッホの論文から国民を健康な生活に導くためにやらなければならないのは上下水道の完備と民衆教育だということを理解し、実験手法はコッホの孫弟子の緒方正規からてほどきをうけていて、コッホから直接指導を受けるべく全て準備が整っていた

コッホの大学での講義を聴講する傍ら、研究室での最新論文の抄読会にも参加

コッホから、チフス菌とコレラ菌の基礎研究を任され、酸とアルカリの培地での関係を見極める課題で、27種類もの試薬を使用。ペスト菌も加えた243皿の検体について、27種類の試薬を投与、1時間ごとに10時間、その後15時間、24時間36時間の計13回にわたって変化を調べ、数週間後にはその結果をまとめて報告、コッホを驚嘆させる

 

10章          ベルリンのふたり                明治20

1887年、留学3年目の林太郎がコッホ研究所に現れ、北里の仲介でコッホと面談、下水道の細菌検査研究という課題を与えられる

林太郎は北里の紹介で舞踏会にエスコートした女性エリスと結ばれる

 

11章          妖怪石黒、独逸を徘徊す       明治20

石黒が赤十字国際会議の政府代表としてベルリンに現れ、1年ほど滞在

石黒は、軍医総監になり損ねたが、次期医務局長に内定、権力をかさに着て北里をミュンヘンに行かせようとしたが、コッホに守られて残留

林太郎も石黒の通訳として留学が1年延長され、さらにプロシア陸軍の隊付勤務が決まる

 

12章          プロシア慕情                      明治20

1888年、林太郎はプロシア近衛兵連隊に隊付医務官として3か月間参加、軍隊の医務である診療と文書報告の事務を習得、同時にエリスと同棲を始める

隊付勤務を終えて帰国、エリスも後を追う

 

13章          北里、覚醒す                      明治2122

1888年、抄読会で脚気菌発見の論文を読み、反論をすることになるが、緒方論文への批判に繋がり、翌年日独間に「脚気論争」が勃発

北里の留学が2年延長され、コッホから破傷風菌の純粋培養の研究を命じられる

破傷風菌は1884年に発見されていたが、他菌との混在で発育する特殊菌とされていたが、コッホの原則によれば純粋培養できない細菌はないはずであり、確認することになった

年後半には自ら発案の培養装置を完成させ純粋培養に成功、翌年には学会で発表。世界初の快挙だったが、林太郎が編集長だった『東京医事新誌』は取り上げず

北里はそれまでの研究成果も含め、細菌学の本格論文を2年で12本発表

 

14章          メランコリア                      明治21

林太郎は、4年前の往路に希望に満ちた『航西日記』を書き、今復路では絶望溢れる『還東日記』を書き始める。その間に『在徳記』と『隊務日記』で4年のドイツの日々を綴る

1日遅れで日本に着いたエリスとの結婚を宣言すると周囲から猛烈な反発にあって、林太郎は陸軍を辞めてベルリンに行って結婚すると決心し、エリスは帰国

母や祖母の言われるままに林紀の義弟赤松海軍中将の娘と婚約。『在徳記』からエリスに関する記述を削る

傷心を癒したのは、弟妹と始めた読売新聞での翻訳小説の連載と、西周の紹介で明治10年創刊の医療界の大御所がこぞって寄稿する『東京医事新誌』編集長・主筆の仕事

陸軍軍医学校教官に任命され、陸軍大学校教官を兼任

帰朝講演を終えた後、『非日本食論将失其根拠』と題する自費出版で、海軍が推奨する麦飯やパン食に反駁し石黒の米食採用の強力な理論的根拠となる論文

 

15章          血清学の金字塔                   明治22

破傷風菌の純粋培養に成功した後、血清が毒素を無毒化する「抗毒素」を確認し、「免疫血清療法」を発見

北里の留学を延長した煽りで、後藤新平の官費留学がなくなり、後藤は自費でドイツに来て北里の研究に立ち会い、北里の全面的な支援で学位取得に成功、大きな箔付けとなる

北里は3大疾病の結核治療薬としてコッホのツベルクリンの開発を手伝い、コッホからの根回しで留学期間がさらに延長される

1890年末には共著で『動物におけるジフテリア免疫及び破傷風免疫の成立』を発表、免疫学の扉を開く記念碑的論文となる

この年、コッホ研究所は後の血清学の基礎となる2つの大発見をする――液性免疫の嚆矢となる北里の発表と、コッホが発表したツベルクリン反応で、後の「免疫学」の2大領域となる「細胞性免疫」と「液性免疫」の業績が同時に発表された

 

16章          鷗外誕生                           明治22

明治22年、作家鷗外誕生――「小説は空想で書くべき」とする「小説論」で反自然主義を主張、文芸評論家、翻訳小説家としてデビュー

赤松中将の娘と結婚

軍陣衛生学の確立に乗り出し、『隊務日記』は軍医部のバイブルとなる

脚気は陸軍の宿痾で、軍食比較研究の「陸軍兵食試験委員」に責任者に任命され、兵隊を使って実験

『東京医事新誌』編集長の初仕事は、北里による緒方脚気論文への反駁で、緒方は1度反論しただけで沈黙、東大綜理は「旧師を土足で踏みつける文は師弟の道を解せざるもの」と激怒、林太郎も北里攻撃に参戦

ドイツ文学研究の総決算として翻訳詩集『於母影』を、徳富蘇峰の『国民之友』の付録として出版、爆発的な人気を博し、一躍人気作家として不動の地位を築く

失恋の傷心をぶつけた小説『舞姫』を発表したのは翌明治23年、家の中は通夜のように陰気に包まれる

 

17章          ツベルクリン、世界を惑わす  明治2325

1890年の万国医学会は、コッホのツベルクリン発表が席巻――北里が血清療法と免疫学の方向性を示し、コッホが結核菌に応用した成果だったが、ほどなく「コッホ現象」と呼ばれるアレルギー反応を示し、治療効果はないとされた

コッホは赤鷲十字章を下賜され、ベルリンの名誉市民の称号を得、帝国議会はコッホ研究所設立に出資を決定、帝国の英雄に祭り上げられる

ツベルクリン発見のニュースはすぐに日本でも報じられたが、不評と共に伝えられ政府は官立病院と内務省の許可を得た者のみ使用可とした         

翌年コッホはツベルクリンの成分を発表、正体は結核菌隊と毒素の混合液で、診断薬としては有効だが、治療薬としては無効とされ、コッホの凋落が始まる

1891年、コッホ伝染病研究所完成、北里は治療薬として使い続ける

1892年、北里は6年半の留学を終え、医学博士の学位を得て帰国

 

18章          説難の季節                        明治2325

帰国して2年、林太郎は全てに行き詰まり、旅に出て『文づかひ』を書く

家の切り盛りのできない妻で假定はあれ、直属の上司石黒との折り合いは悪く、『舞姫』も悪評、石黒肝いりで発足した「日本医学会」も中止にできず、離縁を考える

海軍が兵食改善で脚気消滅と奏上、陸軍省医務局長に就任した石黒は、林太郎の実施した「兵食検査報告に基づき最終報告を陸相に提出、陸軍兵食の基本を米食にすると決定

長男於菟が生まれた後、妻を離縁。西周からは出入り禁止を食らい、名門閨閥から離脱して逆風が吹き荒れる中、軍医部に残留できたのは衛生行政という根城を築いていたから

離縁後は大車輪の活躍。『舞姫』に続き、『うたかたの記』『文つかひ』のドイツ3部作を仕上げ文壇に確固たる地位を築き、文学界の連中とも美醜論争を展開、坪内逍遥とも「没理想論争」をしたり、友人の画家の不当な評価に反発して美術論争をする一方で、東京市の都市計画にも委員として参加

明治25年、団子坂(別名潮見坂)に転居、増築して「観潮楼」と名付け、弟妹も引き取って森家の再興を果たすが喀血、自ら結核菌の存在を確認、労咳の再燃

北里が凱旋帰国したものの、冷遇されていたが、福沢の支援を得て私立伝染病研究所を立ち上げ上昇気流に乗る

 

第3部        白秋        明治2538

19章          凱旋北里、冷遇される          明治25

1892年、帰国の途次、北里はパリに寄ってパスツールを訪問

パスツールは1822年生まれ、炭疽菌を高温培養で弱毒化したものを羊に接種すると強毒菌感染を防げることを発見しワクチンと命名

北里は、英米の大学から細菌学研究所所長をオファーされたが断り、コッホの親心からの手配でプロイセン皇帝から外国人初のプロフェソルの称号を頂戴

熱狂的な歓迎を受けて帰国した北里を、内務省は持て余し、内務省の中央衛生会委員に任じられたが、大学も招聘せず、帰国を機に伝染病研究所の創設の話が動き出す

長与の紹介で、福沢から自前の研究所開設を持ち掛けられ、森村市左衛門も寄付をしてくれると言い、芝公園の福沢の私有地に「福沢研究所」が発足、結核患者の診療が始まる

衛生局長に就任した後藤新平も、内務省の下に国立伝染病研究所設立構想を進め、福沢が北里が所長であることを条件に新設の研究所の土地建物を私立衛生会に寄付して創設に持ち込む。北里が徒手空拳で帰国してからわずか半年での急転で内務省の内務技師に復し、伝研所長として自由な研究が許された

政府も北里の学術上の功績に対し、勲三等瑞宝章を授与

伝研には北里に引き寄せられるように、綺羅星の如き俊英が陸続と蝉集する

 

20章          亀青楼の闇鍋                      明治26

文部省は帝大に伝染病研究室と病室新設を目論むが、既に私立伝研が開所しているため私立衛生会伝染病研究所補助費が通り、内務省の管轄とされ、敗れた帝大は北里を恨み、内務省・開業医を司る後藤=北里ラインはこれ以降、文部省・帝大閥の朝敵となる

福沢は森村市左衛門と折半出資で、広尾に結核養生所の土筆(つくし)ヶ岡養生園を開園、研究所兼治療院で北里に院長として運営が一任される

林太郎は一等軍医正に昇進、義弟の小金井良精(よしきよ)は帝国大医科大学の学長に就任

亀青楼での2人の就任祝いに、同時代のドイツ留学の好もあって北里と後藤も合流、ごった煮の闇鍋となる

 

21章          黒死病                              明治27

明治27年、突如ペストが香港から襲来。英語名ビュボニック・プラーグ。北里を団長に内務省の指示で政府初の海外調査団が香港に派遣、文部省も帝大の青山胤道の派遣を決定

5日後にはペスト菌を発見、青山は罹患して一時人事不省に

直後の日清戦争開戦で、林太郎は中路兵站軍医部長として出征

明治28年、日本の領土となった台湾でペスト発生、緒方正規が派遣されペスト菌を発見

国内でペスト菌発見問題の決着がついたのは明治32年――本土初のペスト流行が始まり、調査の結果今回は北里の発見したペスト菌ではなく、フランス人の発見したペスト菌と判明。北里は感染対策でネズミの駆除に邁進、ネズミ買取りの仕組みを提案させ、抜群の効果をもたらす。2カ月で終息したが、患者161名、死者146名、致死率9

この時最初に感染者を発見したのは、伝研を不祥事で追われ横浜検疫所で燻っていた野口英世。その後北里に高く評価され、北里の紹介で留学を遂げる

このような経緯から、日本の学会では北里をペスト菌の発見者とせず、フランスでも同様だが、その他の国ではその後両者が同一だと判明したこともあって「キタサト=エルサン菌」と呼ばれる。1967年の国際病原菌分類変更の際、パスツール研究所の研究者主導で分類名が変更され、再び北里の名前は消され今日に至る

 

22章          日清戦争と衛生戦争             明治2728

日清戦争で、軍医部トップの石黒陸軍省医務局長は大本営野戦衛生長官に任命され、林太郎は第二軍兵站軍医部長。翌年第二軍は威海衛を占領

兵站軍医部長として、厳寒対策を記述、コレラ発生に対応

第二軍軍医部長が大山司令官に麦飯を採用するよう直訴、海軍軍医が、脚気による死亡を海軍1名、陸軍3900余名と公表したがしたが、石黒も無視したし、林太郎も同調

終戦とともに大陸ではコレラが流行、林太郎は台湾への異動となり青天の霹靂

大陸のコレラ発生対策として帰還兵への検疫が決まり、相馬事件で連座の嫌疑から勾留され衛生局長を追われた後藤新平を臨時陸軍検疫部の文官事務長とする

「伝染病対策は、病人を発見して隔離するに尽きる」という北里の助言を入れて広島に隔離施設を作り、2カ月余りで687隻の艦船と23万の兵士の検疫を実施

後藤は、その功で衛生局長に復職、2年半後には台湾総督府民政局長を拝命

 

23章          亜熱帯の迷宮                      明治2829

明治28年、林太郎は新総督樺山資紀海軍大将とともに台湾赴任

北白川宮能久親王の近衛師団が平定作戦の主力となり総督府の衛生委員となる林太郎も従軍、宮は5カ月後台湾南部でマラリアで病没

林太郎の正式辞令は、総督府陸軍局軍医部長。総督は兵隊に麦飯を給したいと申し出たが、林太郎は軍則を盾に断る。感染症や風土病が蔓延し始め、脚気まで出現。コレラが猖獗を極め、台湾戦役の戦死者は164人だが。病死は4600人、内地送還は2万を超えた

すぐに後任の軍医部長が派遣され、その年のうちに東京に凱旋。功四級金鵄勲章と単行旭日章授与されたが、コレラ蔓延の中でも無策で通し、樺山総督にも非難され悪評を残す

明治29年、林太郎は陸軍大学校の教官となり、軍医不足補充のための速成教育を施す

 

24章          医師会法案の深き闇             明治3032

明治29年、北里は芝公園に「国立血清薬院」を設立し、官営事業を開始

明治30年、医師免許規制を時代に合わせて改正するため、「改正医師法案」が議会へ

同年、石黒が突然辞任。日清戦争での脚気蔓延への譴責と言われたが、表面は円満退職

同期の小池が軍医監に昇進し、医務局長になり、林太郎は近衛師団軍医部長兼陸軍軍医学校校長に異例の昇進。帝都の最重要ポジションで、軍医総監に次ぐ地位だったが、2年後には小倉の第12師団軍医部長に左遷

 

25章          内務省伝研、船出す             明治2932

私立伝研は黄金期。第2期は北里の香港での活躍に魅かれた北島多一の入所。帝大を首席入学、首席卒業。留学第1号。蛇毒結成の開発で浅川賞を受賞、慶応大医学部長、日本医師会会長を歴任、北里の正統な後継者となる

明治30年、第3期黄金期を築く志賀潔が赤痢菌を発見

明治32年、私立衛生会伝染病研究所は国有化され、内務省国立伝染病研究所となる

北里の学術領域に陰りが見え始める――最初はペスト菌発見問題だが、明治35年芝区のコレラ発生の件も、コレラ菌ではないとする意見を非難した北里の方が間違いだった

コレラ菌に加え赤痢菌でも新たな知見から「11病原菌」というコッホ原則の修正が必要となり、北里が細菌学の潮流から取り残されている現状が露見

私立伝研時代の北里のコレラ血清、赤痢アメーバなどの業績はほぼすべてが誤り、ツツガムシ病の病原菌発見もリケッチアの発見で覆された

コッホに命じられた実験は徹底的にやり遂げたが、彼自身が研究方針を立てて、新たな領域に乗り出したケースはあまり多くない。学術の最先端から遠ざかったことが、治療効果がないと判明したツベルクリン療法の継続に繋がったとしたら、患者や社会に対する大いなる背信。医学者の間では北里への不信感が鬱積したが、門下生の自由闊達で派手な活躍が悪評を払拭、北里と伝研は大衆人気を博し、社会的地位は向上

日露戦に備えた冗費削減で伝研不要論が出る中、北里は児玉陸相に直談判で「伝研、血清薬院、痘苗製造所」の合併を具申し、新建屋建設を勝ち取ったが、帝大派にはかえって僥倖

 

26章          貴公子、西へ                      明治3233

明治32年、小倉赴任を機に林太郎は『小倉日記』を書き始める

無聊の慰めもあって偕行社で師団将校にクラウゼヴィッツの「戦論」を講義、製本もして配布、その真髄は守備にあり、強者ナポレオンに対抗するため防御せよと、弱者の哲学を解く。その思想は陸軍中枢に届いて陸軍の精神的支柱を築くことになる

石黒の計らいで山県と面談、再婚を勧められると同時に和歌の指南を依頼されるが、その際石黒から小倉左遷の理由を聞かされる。台湾での脚気対応に対する懲戒だと言われ、山県と面識が出来たのだから、そのことは他言無用と口止めされるが、真相を探ったところ、脚気対策として台湾から麦飯への変更要求が来たのを石黒が自説をたてに却下したが、陸軍中枢に漏れ、石黒は脚気の隠蔽工作に走ったものの、最終的には懲罰が下され、石黒は辞任に追い込まれ、林太郎も連座で左遷となった。ただ米食は残る

 

27章          世紀末と新世紀                   明治3336

明治33年、北清事変で陸軍に脚気が激増、北京の軍医監からも米食批判が出るが、林太郎は自説に拘泥、多くの兵を死なせる

明治35年、再婚。相手は大審院判事荒木博臣の長女で再婚同士。第一師団軍医部長に異動

東京に戻ると文芸活動も順調、アンデルセンの『即興詩人』を刊行、『芸文』を創刊、創作戯曲『玉匳両浦嶼(たまくしげふたりうらしま)』が市村座で新春上演

石黒は、貴族院議員に勅任され、以後は赤十字の推進運動に邁進し、脚気の失策で放逐されたという風評は払拭され、保身が完成

明治36年、長女茉莉誕生とともに嫁姑戦争が激化、翌年日露戦争出征中に実家に帰る

 

28章          旅順の凍土                        明治3738

日露戦争では、第二軍軍医部長で出征

陸軍の死者4.7万のうち、脚気の死者は2.8万に達する。麦食の海軍の脚気患者はわずか100名。翌年寺内陸相が麦食必要との訓令を出しようやく下火に

日本兵はビタミンB1不足の脚気で、ロシア兵はビタミンC不足の壊血病で多数が死んだ

帝大閥と開業医集団の係争は痛み分けに――「医師法」では医師会への参加は任意、医学教育は医科大学と専門学校の専任とされ、教育面では文部省・帝大閥が主張する大学主体の中央集権制が確立し、医療面は内務省・開業医グループの私学出身者が主体となる

明治39年、林太郎は山県の要望に応え、「常磐会」を結成して、佐々木信綱ら歌壇のトップを揃え、山県は逝去まで16年間皆勤で通す

林太郎は、第一師団軍医部長に復職し、陸軍軍医学校長になる

明治40年、林太郎は第8代軍医総監、陸軍医務局長に就任、以後8年半この地位に座る

 

第4部        玄冬        明治41~大正11

29章          旧師報恩                           明治4143

明治41年、コッホ初来日

北里が去った後のコッホは、明治2650歳で20舌の女優と再婚して顰蹙を買い、全ての職を持して熱帯医学研究を始め、「アフリカ時代」が始まるが、熱帯病探索では常に後塵を拝し、結核菌を発見はしたが、治療面では苦杯を舐め続ける。ノーベル医学賞も第1回は弟子に攫われ、明治38年漸く第5回のノーベル賞を受賞、コッホ財団が設立されカーネギーの寄付を得る。アメリカで熱狂的な歓迎を受けた後、2カ月の訪日

コッホと共に陛下に拝謁、陛下からコッホに対し北里を育ててくれた謝辞があり、北里には衛生学で日本を守るよう直々の命が下る

コッホは帰路米国に戻り国際結核会議にドイツ代表で出席、ウシ結核はヒトに感染しないという間違った主張を続け、痛烈な批判を浴び、ベルリンに戻って結核の研究を再開するが、健康は徐々に衰えていく

明治42年、北里は半年間の欧州旅行に出、皇帝ヴィルヘルム2世から星章赤鷲第二勲章を授与される

「至誠報恩」と「報仇雪恨」は北里の人生を貫く背骨

緒方とその一番弟子の北里は、日本の衛生行政を支えた車の両輪。1919年緒方没後は北里が中央衛生会の会長に就任、地方の衛生役員と開業医を掌握

 

30章          軍医総監、森鷗外                明治4142

明治40年、林太郎は軍医総監・陸軍医務局長に就任、諸改革を始める

翌年、弟篤次郎病没、享年41。次男の不律も百日咳で死去

臨時脚気病調査会が発足、林太郎が会長に。陸海軍の間での論争がエスカレート、来日したコッホの細菌説とのアドバイスは林太郎を勇気づける

学理を確立してから応用するというのがドイツ学派の精神であり、学理はまだ未確定

陸軍軍医部の研究部の改革を断行、陸軍軍医団を創設し、現役、予備、後備を結びつける

文壇にも完全復帰し、短篇の量産時代に入り「豊穣の時代」と呼ばれる

日清戦争の際、負傷兵に補償と治療をする組織の設立を提案し社会主義に傾倒した林太郎は、マルキストやアナキストへの共感を深めたが、明治42年『ヰタ・セクスアリス』を掲載した『すばる』が発禁になったのは左傾化した林太郎の文学活動に対する警告

全軍にチフス予防接種を実施し、罹患者・死者を激減させたが、脚気の方は米食が学理的にも原因とされるような方向に進む

 

31章          聖上薨去                           明治4345

明治43年、大逆事件勃発

林太郎が盟主を務める『すばる』の出資者の1人がその弁護を引き受けたため、社会主義や無政府主義について弁護人に知見を提供。一方で常磐会では山県を中心に大逆事件への対応が討議され、林太郎は原告・被告双方に加担することになり、『沈黙の塔』を書いて世間に対し社会主義・共産主義・無政府主義などの思想の解説に務め、背後で暗躍しているであろう山県に過度な弾圧は殉教の英雄を作ることになり逆効果だと伝えようとした

大逆事件の判決に御心を痛めた陛下は窮民施薬救療事業の『済生直後』を発し、皇室金150万円を下賜、それを原資に「恩賜財団済生会」を創設、民衆救済の医療設備を整えることとなり、桂首相を会長に林太郎がその司令官に指名

明治43年、北里は満洲ペスト調査団を主宰。南満州鉄道沿線でペスト流行、奉天で独仏伊墺蘭西露墨の8か国が参加する疫病研究会議の議長役を務めた。アジア初の国際会議

北里の努力で衛生行政は整備されたが、そのために伝研の必要性は低下したが、伝研に君臨し、衛生局、民間医師会、地方衛生関係者に強大な影響力を持ち、土筆ヶ岡養生園と伝研を私物化し、公私混同で乱脈が生じていた

明治45年大帝薨去

大正3年、伝研移管騒動勃発

 

32章          北里伝研、陥落す                大正3

山県は、2個師団増師を条件に大隈の組閣を認める。山県は反民権の政党嫌いで、大隈は政党政治の開祖で合うはずはなかったが、元々は徴兵制や廃刀令など、明治初期の大改革は両者が二人三脚で成し遂げたようなもの

それを知って大隈と昵懇の青山帝大医科大学長が、伝研の文部省移管に動き、第1次大戦開戦が追い風となって、山県も師団増師の見返りとして伝研の移管を閣議決定させる

北里は、伝研所長を辞任し、それまでの蓄財で土筆ヶ岡養生園の隣に自らの伝研を創設

北島以下全員が辞職し北里に従ったため、青山は蛻の殻の伝研を押しつけられることに恐れをなし、林太郎は陸軍から派遣していた衛生行政の2人を陸軍に帰すよう北里に頭を下げる。事前の相談なく強引に伝研移管を進めた黒幕の林太郎に対し、北里は「千鈞弩不放鼠賊”(千鈞の弩は鼠賊に放たず:鼠を捕まえるのに強力な弓は使わない)、西洋の『戦論』を翻訳しても、東洋の兵法の勉強がたらんでは何にもならない」と、横面を北里の声が張る

 

33章          永遠の敗者(ルーザー)          大正3

移管後の伝研は、当座林太郎の配下に置かれる

北里は、土筆ヶ岡養生園での血清とワクチン、痘苗販売の認可を内務省から取り付け、伝研から北へ蜀江坂を下った養生園手前の白金三光町の空き地に北里研究所を立ち上げ

医科大学教授会では、青山の越権行為だと元医学長の小金井良精が急先鋒となって糾弾

衛生行政が内務省と文部省の2頭体制となり危険だとの批判が渦巻き、大隈内閣は火だるまに。それほど北里博士の威名が轟いていた

師団増師も伝研移管も議会が否決したため、大隈内閣は議会を解散、総選挙で官権・金権を駆使して大勝、両案を通過させる

大正4年、北里研究所竣工。コッホ生誕72年記念日の1211日北里研究所発足。遂にコッホ、パスツールと真に肩を並べる存在に

 

34章          泥仕合                              大正49

下野した北里は、社会活動にも取り組む――大正4年恩賜財団済生会芝病院の初代院長

北里は結核治療に終生執念を燃やすも、何れも結実せず。森の脚気対策と対をなす悪縁

大正10年、結核菌ワクチンBCGが開発され、大正13年志賀潔が開発元のパスツール研究所から分与を受け日本にもたらす

大正5年、全国医師会を統合した大日本医師会創立、北里は会頭に推される

後藤新平は、大隈の「憲政会」の勢力をそぐため、中立系議員擁立を考え、北里にも協力を依頼、北里は医師会を動員して応援に奔走した結果、14名の医系議員が誕生、大隈の「同志会」に壊滅的ダメージを与え、「報仇雪恨」を果たし、貴族院議員に任じられる

帝大伝研では、病原菌の発見ラッシュとなったが、何れも誤りで、社会問題に発展

大正5年、東京でコレラ大流行。北研は30万人に感作ワクチンを接種、帝大伝研の過熱ワクチンの効果を警告したため、両者の確執がワクチン問題で炎上

大正7年からスペイン風邪襲来、病原菌の同定が出来ず。欧州諸国が交戦中で情報を隠蔽したため、中立国スペインの報告だけが報じられ不名誉な命名となった。全世界での死亡社は20百万に達し、日本での流行は3波、第2波の後の大正9年ワクチン接種希望者が殺到したのは北里が民衆の公衆衛生への理解向上に務めた(ママ)成果といえる

帝大伝研も北研も病原菌を誤認、ワクチンを製造して500万人が予防接種を受けたが、高価はなかったのは当然で、泥仕合は痛み分け。インフルエンザ・ウィルスの発見は昭和8年のウィルス分離成功まで待たねばならない

大正8年、長与専斎の3男又郎が帝大伝研の所長になると両者の抗争は終結。北研も前年すべての財産を寄付して社団法人に改組、北里は推薦所長に選任、終生の学庭を確保

北里は積極的に医師会活動を続け、大正8年の医師法改正では、医師会に法人格を与え、医師を強制加入させる組織とし、大正12年医師会は公法人化が認められ、「日本医師会」設立、北里は「大日本医師会」を解散し、「日本医師会」の初代会長に就任。全国の医師を屈服させ、大局を判断し人々に指示する役割で象徴的な存在として鎮座したが、もはや新たな学術的な業績は全くなかった。何度も固辞したが、結局4選され死去するまで在位

脚気は生涯鷗外にまとわりついた悪縁。祖父の白仙が脚気で死去したのがケチのつき始め

明治11年、大帝の思し召しにより世界初の脚気病院が設置され、皇漢医の遠田澄庵の脚気米因説が成果をあげたが、皇漢医に反発する長与や石黒の手で封印される。遠田の説はドイツ人によって欧州に紹介され、後にビタミン発見者に引き継がれていく

明治43年、東京化学会で鈴木梅太郎が米糖エキスが脚気に有効と発表し、翌年糖成分からオリザニンを抽出。同様に日本医学会でも鷗外の軍医学校の秘蔵っ子が米糖が脚気予防に有効として米糖の有効成分アンチベリベリンを抽出していたが、鷗外のライフワークの『衛生新篇』では全く触れず、学術的姿勢として到底容認できない。鷗外は医学者の顔を捨てて、軍医総監の立場に徹し、この時衛生学を志した医師森林太郎は自刃したといえる

明治45年、欧州でビタミンが発見され微量栄養素研究が創設されるなか、その2年前にオリザニン、1年前にアンチベリベリンを発見しながら、日本の学術的偉業を潰したのは、帝大と陸軍に脈々と流れる偏狭なエリート意識であり、それを補強したのが「自由と美」を至上価値に置く鷗外だったのは皮肉。ただ、鷗外自身は粗食を貫き、半搗米とした

大正10年、帝大内科から北里が創設した慶應大医学部に移籍した大森憲太が脚気の病因をビタミンB1欠乏症と断定、各大学で人体研究が始まる

翌年、鷗外は他界。その2年後には勅令で「臨時脚気病調査会」は廃止

 

35章          胡蝶、空に還る                   大正511

大正5年、林太郎は医務局長を辞任、予備役に。母の訃報が同時に『軍医団雑誌』に掲載

石黒も前任の局長も男爵になったのに叶わず、貴族院議員にもなれず。大逆事件の祟り

『東京日日新聞』の客員として執筆に専念し、史伝を手掛ける

林太郎は、宮内省に入り、帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)・高等官1

大正6年青山が、2年後には緒方正規がいずれも癌で死去。大正9年には石黒の仇敵海軍の高木兼寛が死去

北里は、国民衛生の改善に重心を移し、結核・トラホーム・花柳病などの疾病予防法制定に奔走、予防医学の時代を築き、貴族院議員として衛生学の啓蒙活動に励み、医界の名士になった。まさに「医療の軍隊」の元帥に相応しい姿、大正9年には慶應大医学部を新設し学部長に就任、北里の要望に沿って設計された病院は徹底して利便性を追求

大正10年、鷗外の肺結核が再燃、残された家族のことを慮って他聞を憚り、検査を拒否、615日出勤できなくなり自宅での病臥、79日死去

賀古鶴所(かこつるど、帝大医学部同期)を呼んで口述させた遺言には、「石見人 森林太郎として死せんと欲す あらゆる外形的取扱ひを辞す 森林太郎として死せんとす」

 

 

終章 妖怪石黒、最後に嗤(わら)     昭和164月某日

北里は死後に仕事を残し、森は子供という人を残した

2人はあらゆる点で対照的。北里は豪壮な屋敷を建て、森は質素な家に住んだ。北里は贅を尽くした美食家で馴染みの料亭は多く、森は小食で自宅での粗食を好んだ

一方で2人はよく似ていた。森は房総の海岸に小屋を持ち、隠遁した学者のように浜辺の植物を観察し、花の名前もよく知っていて、庭にも花が絶えなかった。北里は屋敷の庭に鳥の動物園を作り、死んだ鳥は剝製にしたが、ある日すべてを上野動物園に寄付。その時の帝室博物館の総長は森で、森名義の感謝状をもらって苦笑していた

最後に残った石黒も、昭和164月没、享年96

 

あとがき

北里と森は日本の衛生学の分野で切磋琢磨し、互いに強く意識、そうした痕跡はいろいろな事物の随所に点在するが、2人の交流の心情的な記録はほとんど見当たらない

明治時代、内務省は欧州から学んだ最先端の医学を基本とし、優れた対応をしていた。海軍も疫学的研究を土台に対応し、脚気を激減させている

ひとり陸軍だけが、脚気に関する統計を誤魔化し、誤った対応に固執して多数の兵を損じ、その死者の数は戦死を凌駕。昭和になると陸軍軍医部はさらに暴走し、関東軍防疫給水部(七三一部隊)を生み、中国大陸で生物兵器開発、人体実験へ向かう。内務省も引きずられるようにして、特高が人民の弾圧に励むようになり、変質していく

それは、日清・日露両大戦で、脚気蔓延の事実を隠蔽した石黒、それを継続した森の対応が源流だと言える。それはコロナに関し、衛生学の基本を蔑ろにして医学統計を発表せず、科学的根拠に基づかない対応をし続ける、政府や厚労省の姿と重なる

 

 

 

(書評)『奏鳴曲 北里と鷗外』 海堂尊〈著〉

2022326日 朝日

 医学のライバル、功績も失敗も

 破傷風の治療やペスト菌の発見などで歴史に名を刻む新千円札の顔、北里柴三郎。作家であるとともに医者として軍医総監まで上り詰めた、今年没後100年を迎える森鷗外。

 ともに近代衛生学を樹立した医の巨人である。著者は本書の中でふたりをライバルと位置づけ、その間には鴎外の嫉妬からくる相剋があったとして描いた。文学者の印象が強い鷗外の医者の側面が描かれているのは実に新鮮だ。

 それぞれの青春期から物語は始まり、東京医学校時代、ドイツ留学時代と編年体で進む。過剰なドラマ性を排して淡々とした筆致で綴られる明治の医療史。一方、自信家で豪快に邁進する北里と、心に虚を抱えて攻撃的になっていく鷗外の描写は人間味たっぷり。いわゆる「伝研騒動」の真相にはミステリ作家らしい推理が覗く。

 特に興味深いのは、明治の三大疾病であるコレラ、脚気、結核に対峙する彼らの姿だ。功績とは別に、本書では彼らの失敗にも踏み込んでいる。鴎外は軍隊に蔓延していた脚気の原因が米食にあることを頑として認めなかった。麦飯を採用した海軍で脚気が激減した事実を無視し、陸軍に米食を強制し続けた結果、甚大な数の病死者を出してしまう。北里もまた、結核の治療薬として効果のないツベルクリンに拘泥した。

 研究者として当時の彼らが自分の選択を信じていたという事実は当然ある。しかしそこには同時に、師や派閥を裏切れないという事情も介在した。その背後にはさらに、内務省と文部省の対立や軍部・政治家のパワーゲームがあった。政策に携わる者の都合でデータが改竄され、適切な措置がとられないまま放置される患者。これは決して過去の話ではないのである。

 衛生行政とは何なのか。感染症を前に国がとるべき道は何なのか。自らも医者である海堂尊が、巨星の功罪を通して現代に警鐘を鳴らす、力強い一冊である。

 評・大矢博子(1964年生まれ。書評家・文芸批評家。著書に『読みだしたら止まらない! 女子ミステリー マストリード100』ほか)

 かいどう・たける 61年生まれ。医師、作家。2006年に『チーム・バチスタの栄光』で作家デビュー。

 

 

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