森鷗外の系族  小金井喜美子  2022.11.9.

 

2022.11.9. 森鷗外の系族

 

著者 小金井喜美子

Wikipedia

小金井喜美子(明治31129昭和31126)は、近代日本の歌人翻訳者。近代詩の形成に多大な影響を与えた訳詩集『於母影』の共訳者として、紅一点で名を連ねるなど、女性文学者として明治期に若松賤子と並び称された歌人・随筆家である。夫は日本解剖学会初代会長などをつとめた小金井良精(良精は再婚)、長兄は文豪森鷗外、次兄は劇評家の三木竹二(森篤次郎)、孫の一人は作家の星新一。家族・知人などの回想記を多く著し、とりわけ鷗外と竹二に関する記述は、鷗外研究で重要な資料となっている。

生涯[編集]

1871119(明治31129日)、石見国(現島根県津和野津和野藩医、森静泰(後年、静男と改名)と峰の間に長女として生まれた(本名キミ)。2歳半で上京後、向島で暮らし、11歳のとき父親の医院移転にともない千住北組に引っ越した。当時、女子の教育制度があまり整備されていなかったこともあり、千寿小学校を卒業後、関澄桂子の私塾で書道などを、佐藤応渠漢学を、宮内省歌道文学御用掛の福羽美静和歌を学ぶ。1885(明治18年)秋、その福羽の勧めにより、東京女子師範学校付属高等女学校(現・お茶の水女子大学附属高等学校)に入学した。

鷗外がドイツ留学中、喜美子に縁談が複数あったものの、十代の喜美子が唯一の娘であったため、森家は鷗外が帰国してから相談するとして話を急がなかった。しかし鷗外の親友、賀古鶴所が鷗外に縁談を伝えたところ、すぐに結婚が決まった。その相手は、鷗外からみて大学の先輩にあたり、ドイツ留学から帰国していた小金井良精であった。良精は先妻を病気で亡くしていた。1888(明治21年)に女学校を卒業し、18歳で結婚。

同年9月に鷗外が帰国し、やがて文芸活動を始めると、新妻の喜美子も参加した。ときには、深夜まで鷗外宅で翻訳をしていると、心配した小金井家の人が迎えに来ることもあったという。1889(明治22年)8月、雑誌『国民之友』夏期付録として訳詩集『於母影』(共訳)が刊行された。喜美子は、訳者5[1]のうち唯一の女性であった。その後も、精力的に翻訳をつづけ、石橋忍月には、「若松賤子と並ぶ閨秀の二妙」とまで讃えられた。

同居した姑と仲が良かったものの、子供4人の出産・育児と家事に追われる中、1898(明治31年)1月に胃の出血で倒れると、しばらく筆を絶った。1909(明治42年)、創刊された『スバル』に「向島の家」や「千住の家」など身辺雑記のような随筆を発表[2]1911(明治44年)、平塚らいてうらが『青鞜』を創刊する際、請われて鷗外の妻しげ子とともに賛助員になった。その後、昭和期に入っても、身辺雑記のような随筆を発表した。

歌人として常磐会に参加したり、『明星』の後継誌『』(与謝野寛晶子が主宰)に投稿したりした。とくに六十代に入ると、伊勢や熊野、南紀、北海道、雲仙などに一人旅をし、詠んだ歌を『冬柏』に投稿した。1940(昭和15年)に歌文集『泡沫千首』(私家版)[3]を、1943(昭和18年)に『森鷗外の系族』を刊行した。晩年は、孫20人にめぐまれ、一族で会食をすることもあり、しばしば夫と夜遅くまで会話を楽しむ等、穏やかな日々をすごした[4]1955(昭和30年)10月に随筆「普請中」を発表し、翌56年(昭和31年)126日に他界。享年85。同年遺著として『鷗外の思い出』が刊行された。

なお葬儀に際し、70年来の知人で、鷗外とも親交の深かった佐佐木信綱が次の歌をたむけた。

吾背の君兄君のもとにいゆきましてかたりいまさむうつし世のさまを

主な翻訳[編集]

「星」ドオデエ『日本之女学』(後日『やまと錦』に再掲)

「黒き王」フライリヒラアト『やまと錦』

訳詩集「於母影」(共訳)『国民之友』、1889年。

「あやしき少女」『しがらみ草紙』、1889年。

「王宮」アンデルセン作『国乃もとゐ』、1889年。

「革一重」聊斎志異より『しがらみ草紙』、1890年。

「人肉」石点頭『しがらみ草紙』、1890年。

「新学士」ハイゼ(共訳)『しがらみ草紙』、1890-92年。

「浴泉記」レルモントフ『しがらみ草紙』、1892-94年。

「浮世のさが」ハイゼ『太陽』、1895年。

「名誉夫人」ヒンデルマン『文芸倶楽部』、1895年。

「あづまや」ヒルデック『めざまし草』、1896年。

「指くひたる女」レイモンド『智徳会雑誌』、1896年。

「心づくし」パフラパン『文芸倶楽部』、1897年。

著作[編集]

歌文集『泡沫千首』私家版、1940年。

『森鷗外の系族』大岡山書店、1943年(岩波文庫で再刊。なお復刻版は「近代作家研究叢書15日本図書センター」、1985年)。

『鷗外の思ひ出』八木書店1956年(岩波文庫で再刊)。

脚注[編集]

1.    『於母影』は、訳者名を伏せて「SSS」(新声社の略記)とのみ署名されたため、訳者が誰なのか話題になったという。その新声社の同人は、森鷗外(喜美子の長兄)、落合直文市村瓚次郎井上通泰三木竹二(次兄)、喜美子の計6人。ただし竹二は『於母影』の共訳に参加していない。

2.    森まゆみは、喜美子の文章について次のように指摘した。「明治の知識階級の女性らしい、品格のある、すらりとした、落ち着いたものである。「ありませんかった」「しませんかった」との語尾は、若松賤『小公子』にも見られるこの時代、この階級独特のものである。樋口一葉の「雅俗折衷法」なる文語体と、田村俊子ら「新しい女」の口語体との間をつなぐ女性文体として注目されよう」。300頁。

3.    喜美子は、タイトルにある「泡沫」を「みなわ」と呼んだ。1892年、鷗外が刊行した処女作品集を『水沫(みなわ)集』と名付けたことと関連する。中井、454頁。

4.    『森鷗外の系族』には、スナップ写真「銀座通りを孫たちと行く小金井夫妻(19417月)」が掲載されている。中井、462頁。

 

発行日           2001.4.16. 第1刷発行  単行本 1943年刊行

発行所           岩波書店 (岩波文庫)

 

岩波書店 ホームページ

鷗外の思い出はもちろん,それぞれに個性的な森家の人々の肖像が生き生きと浮び上がる回想記.特に,雑誌『歌舞伎』を主宰し劇評に新風を吹きこんだ次兄三木竹二について書かれたものは,本書がほとんど唯一の貴重な資料である.明治の知的な中流家庭の生活がうかがえる随筆に,歌,創作なども併せて収録.(解説=中井義幸)

「森鷗外の系族 - 国立国会図書館デジタルコレクション」 として収蔵

 

序にかえて       昭和187月 台北にて   森於菟

叔母様のお書きになられたものほど、父上や篤次郎叔父上、祖父母上たちの向島や千住での御生活を、読む人にありのまま思い浮かべさせるものはございますまい

 

 

²  不忘記

50年前の向島の隅田堤、今を盛りの桜の梢、人の出盛る春の日の午後

墓参がてら迎えに来る祖母と2人歩きながら、成績が良かった日に簪を買ってもらう

土手下の牛嶋小学校では毎日各科目に成績をつけ、○の多かった日は祖母の機嫌もよく、祖母に褒めてもらおうと、幼心に勤め励んだ

祖母の名はきよ子。長門国鷹の巣の喜島(きじま)家から石見国津和野藩主亀井隠岐守の医官だった祖父森白仙に嫁ぐ。喜島は地元に知られた郷士で由緒ある家

祖父の家は家禄150石。若い頃から江戸に上り、長崎に行き、旅に多くの年を過ごし、家を持たれたのは40を過ぎてから。仕事一筋で家のことは祖母任せ、大風の日に火事で類焼した際、幾程もなく身分に相応しい普請をして、人皆内助の功と褒め称えた

最初の男子は産屋の中で亡くなり、続いて生まれたのが峰子で、我が母。生まれた時は小さく弱かったのではれ物に触るように育てられたが、早くから敏く優しく、本を読み耽り、15のとき長門国吉次氏の次男静泰を迎え結婚、静泰は明治維新で静男と改名、我が父

祖父は江戸の奥附として常住することが決まっているので、留守を慮って早く婿を迎えた

父は長崎で和蘭(オランダ)医学を修めて帰ったが、祖父がまだ医師として人に接するのは早いとして、茶道を学ばせようとした。父は当初閑人めきたことよと言っていたが、いつしかその道深く分け入って、釜の音を聞けば世の中のことを忘れるというまでになった

父はよく父母に仕え、若き母君を優しく労わったので、祖父は安心して江戸詰を果たす

元々津和野は山陰道の西端に近く僻陬(へきすう)の地。大阪(ママ)の陣に従った坂崎出羽守が、落城の日に秀頼の夫人千姫を燃え盛る火焔の中より救い出して家康の許に送ったところ、家康が喜んで姫を出羽守に与えると誓ったが、姫が形の醜きを嫌って他の男に嫁ぐことを決めたため、武骨なる武夫は怒って姫を奪い返そうと兵を挙げ、敗れて自刃。その後に亀井氏が封じられ、現代で12代。森家も初代より亀井氏に典医として仕え、白仙が12

文久元年の参勤交代で帰京となったが、祖父は脚気で江戸に残り、年内漸く江戸を発ったが、江州の土山で客死、死因は脚気衝心

藩主も祖父のことを哀れに思い、年若けれど父を典医の列に加える

正月、生まれ変わりのように兄が生まれる。昭和4年になって森博士生誕の地の碑を建てることが決まった。5年後に次兄誕生

兄君6歳にて藩校の養老館に入って漢学を修めたが、祖母も本を取り出して教えていた

大方の習いとて、女子の文才と法師の髪は無くて事欠かずと、名高き白河の楽翁公さえのたまえりなどいう時代なれば、物も読まなかったのを口惜しがって、今は力の及ぶ限り読み書きに勉めた

ある時、兄君が養老館で塾生の代表として褒状をもらった時も、祖母が「決して慢心してはならない。この藩では1番と言われても、広い世の中に出れば浜の真砂に過ぎず、東京へ上って勝れた人となって、家の名もお国の名も揚げるように」と諭したという

明治4年初めての女の子として自分が誕生

明治5年、父が藩主について兄を伴って上京、向島に居を構える

父は優しく、学校で暗記物など覚えられなくて泣いたりしても頭を撫でてくれたが、祖母は、「覚えられないとして放っておけば人には勝てない。顔を洗って覚えろ」と厳しかった

 

²  土山の寺

主人の大阪での講演の帰りに京都から柘植線に乗り換え土山に向かう。近江と伊勢の国境の鈴鹿峠を西に越えたところで、祖父が江戸からの帰路病に倒れたところ

兄が日清戦争の凱旋の帰りに立ち寄って古びた墓石を見つけ、立派な法事をして改築した

 

²  伊勢路の雨(再び土山の御墓に詣でて)

短歌集

 旅の雨習ひとなりぬ初冬の亀山駅にそぼ濡れて立つ

 

²  次ぎの兄

上の兄は年も10くらい違うので優しくしてくれても甘えにくく遠慮もあり、呼ぶのも敬ったが、次ぎの兄は年は4つ違いで、親しいままに気安くお兄さんと呼んで勝手に振舞っていた。性質ははきはきして成績も優れ、学校では先生方の評判も良く、とりわけ女の子たちが仲良くしていた

12の時、漢学を習いに塾に通う

早くして因州出身では屈指の人といわれた元老院議官河田に可愛がられ養子の話が決まっていたが、親族から横槍が入って、森家の方から願い下げ、林太郎が森家で一生面倒を見ると宣言したが、それ以来次兄の気分がすぐれなくなり、芝居見物で漸く気を取り直した。一生好きになった芝居見物はこんなことから始まった

父の仕事の都合で向島を引き払い、千住に引っ越し。10違いの弟がいた

明治14年、長兄が大学卒業、陸軍へ。翌年松本順が陸軍軍医本部長となるが、松本は父が維新前に従学した先生

次兄は下宿して大学に通う傍ら、芝居見物に精を出す

次兄の同級生の1人が津下正高で、ほどなく大学を去ったが、次兄亡きあとに団子坂の家を訪ねてきて亡父のことを書いてほしいといわれ長兄が書いたのが『津下四郎左衛門』

長兄の洋行が決まり、家族は競って手紙を書いた

お茶の水女学校に入ると勉強を習った3人が揃いも揃って侏儒(しゅじゅ:小人)や佝僂(くる:せむし)で不思議な巡り合わせ

明治21年、長兄の洋行中に私の縁談が始まる。賀古の紹介で、医科の教授であり次兄の先生の小金井、長兄の2歳年上。賀古はすでに長兄に手紙を書いていたが、次兄が電報で確かめるとすぐに進めろとの返事が来る。母は1人娘の縁談を急ぐ風もなかったが、次兄に急かされるままに決まり、誰も何やらわからない中に小金井の人となる

その秋に長兄が帰国。母が2週間後に小金井に話があるといって来訪、長兄があちらで心安くなすった女が追って来て、築地の精養軒にいるという。私は目を見張って驚いた

小金井が間に入って話し合った結果、本人も納得して帰国が決まってほっとした

エリスは穏やかに帰ったが、人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行く末をつくづく考えさせられた。小金井が両親の相談に乗っていたが、誰も誰も大切に思っている長兄にさしたる障りもなく済んだのは家内中の喜びでした。小金井の骨折りには深く感謝したが、同時に次兄が私を急いで縁付けるようにした時、たとえ一時でも不平がましく思ったのは済まなかったと思い、後にしみじみと礼を言った

長兄の帰朝祝いが上の精養軒で開かれ、主賓の西がそのお礼に来て長兄の縁談を持ってくる。相手は西の養子、林洞海の6男で後に海軍の将官になった方、その姉赤松男爵夫人の長女登志子で、翌年結婚

その頃から『国民の友』に『於母影』を訳す話が始まり、報酬の50円で雑誌を発行しようということになって実現したのが『しがらみ()草紙』(明治22年発刊、文学評論誌)

次兄は、学生の頃から医学の勉強より芝居見物に通って型を書き取り、三木竹二の名で劇評を書いていたが、明治23年何とか卒業し脚気の病室に入る

明治27年、長谷氏の長女と結婚。その間明治23年長兄に長男が誕生して間もなく離婚

両親と長兄は団子坂に移って家を新築、昔汐見坂といって遠く海が見えたというので、新築に観潮楼と名付ける

明治27年、香港の黒死病騒動の直後、長兄は朝鮮釜山へ出征し、『柵草紙』は廃刊に

次兄は駒場の農科大学の校医や、戦争が烈しくなって傷病兵の後送が頻になってからは衛戍病院へも出勤

明治28年、戦争終結とともに長兄は直接台湾へ転征、3カ月後には軍医学校長として帰国

明治29年、『目不酔草(めざましぐさ)』発刊、斎藤緑雨、鷗外、竹二、虚子、露伴、紅葉と賑やか。その年父が腎不全から尿毒症で逝去

『めざまし草』で次兄は新刊小説、脚本、その他の批評をしたが、その中で樋口一葉を絶賛、鷗外・露伴・緑雨による「3人冗語」でも、「まことの詩人という称号をおくることを惜しまず」と評した。一緒にやろうと誘ったが叶わず、その年の11月には病で亡くなる。赫かしい光を放ったのは一瞬時だが、後いつまでも世を照らされるのは彗星を忍(ママ)ばせる人の終わりであったと思う

明治37年、長兄の『日蓮上人辻説法』が出たが、直後に日露戦役のため第二軍軍医部長として出征、その後に歌舞伎座の中幕に上演

明治39年、長兄凱旋。祖母の米寿のお祝いをしたが、待っていたかのように亡くなる

次兄は、医者を開業しながら、『歌舞伎』のほかにも新聞の劇評を3つも引き受けていたが、1年ほど前から喉頭の具合が悪いと言いながらも忙しく2足の草鞋を履きこなした

喉頭潰瘍で、見えない所にあって、治療の方法もないというのが没後解剖の結果で判明

暖かいところでゆっくりしてはとのアドバイスに従って房総の日在海岸の別荘に向かうが、呼吸困難になったうえに、50年来の寒気で死期を早めたのは間違いない

帰京してすぐ入院、呼吸困難から気道切開の手術をしたが、ほどなく死去。病理解剖に

去年の『東京医事新誌』の明治国手百家略伝中に次兄も数えられ、「業を市井に開きしも劇界の事に力を尽くし、三木竹二の雅名有名になり、雑誌『歌舞伎』を主宰せしのみならず、幾多の新聞雑誌に健筆を揮い斯界の覇権を掌握す」と書かれる

 次の兄まさで三十とせ過ぎにけり其のおもかげはかはらぬものを

 

²  観潮楼の跡

短歌集

 遊具土の神あらびのあさましや観潮楼もちりひぢとなる

 

²  悲しき塚

短歌集

 落葉してみ堂の屋根のよく見ゆる三鷹の村の霜深き道

 

²  森於菟に

あなたがお父様のことをお書きになったのを、私などが読むと、その時々のことが思い出されて、それからそれと果てしなく、昔なつかしい心持で読み返さずには置かれません

あなたが生まれない前の事を少しいって見る

明治14年大学を出たが、少し前から健康が勝れなかったため、大学の鉄門前の下宿にお祖母あ様が一所にいて食事の指図などをしていたが、時々千住に戻ってきては名物の川魚や鰻など持って帰る。お兄い様のためといえば誰も一所懸命に気をつけたものだった

13月にかけて卒業試験があるというのに勉強そこのけで長い詩などを書いているので、機嫌を損じないように口を出すと、何かできないときの言い訳によく使われた「一升桝には一升ですから」といって止めないので、気が揉めたお祖母あ様が我慢できずに千住に相談に来ていた。2月にはもらい火で下宿から焼け出される

陸軍に出ると決まると、お父う様が喜んで人力車を1台新調。お出かけの時は家内中揃って見送る。夕方は車夫の「お帰り」の声に誰も誰も駆け出して迎える

洋行が決まって寂しくなる

 

²  兄君の最後

毎年夏になると、景によって情を思うとか、いつもお兄い様のことが思い出される

萎縮腎というのは老年の人に段々来る病で、亡くなる幾年前からそろそろ御大儀と見えた

臨終の日、家に行くと杏奴(あんぬ)が出ていくのとすれ違う、類も見えず、於菟と茉莉は洋行の留守。子どもたちを今外へ出すのは、自分の終わりを見せたくないとのお考えかと、その思いやりの深さに胸が塞がるようだった

よく寝釈迦というが、まことに気高い安らかな死に顔、その澄んだ静かな心持のあらわれを、珍しくも尊くも拝した

 

²  黒紋附

日清戦争後のこと、いつも黒羽二重の紋付で机の前に座って書き物をしていた。菊の葉を丸く輪にした紋で、葉筋の線が細く紋が真っ白に見える

家で軍服を着たのは小倉時代からあとのこと

その後大島を着た時もあった。経済上からといって瓦斯(がす)まじりの飛白(かすり)にしたが苦しいといってすぐやめた。晩年痩せているのに越後上布の帷子(かたびら)を着ると、麻のかどかどしいのと細い首筋と馴染まないのが痛々しく見えた

 

²  墓参

父と兄たちのお墓のある三鷹禅林寺へお詣り

父の墓碑は落合直文の筆、長兄夫妻の碑は中村不折、次兄の碑は長兄

 

²  越後の秋

父の死から50年、母の死から13年。主人も七十路をすぎ思い立って越後へ親達の墓参りに出る。上野から寝台車で長岡へ。法事のついでに主人の幼いころ過ごした地を訪ねる

 

²  喜びの日に

夫の喜寿の祝いに銅像を造って解剖学教室にそなえてくれるという

夫は旧長岡藩士族の家に生まれ、10歳で戊辰の戦乱にあって後、貧しき中に生い立ち、漸く東京大学の貸費生となったが、卒業前年に父を亡い、ドイツ留学中にむつかしき病を得て命をも危ぶまれ、50までは持つまいと言われ、本人もその気になって世の中の交じらいなど全く思い絶ち、かたくな者、変り者と人にあざみ笑われても知らん顔をして、身をいたわりつつただ専門にのみ思いをひそめ力を尽くして、1020年と経つうちに、神の恵みか、病のこともいつしか忘れるようになり、次々に健やかだった友も亡くなり、残った同僚の数が片手に足りなくなった。身は健やかに77を過ぎ、子ら4人も元気に長男はこの度海軍軍医少将にもなった。孫も14人いて1人も欠けず、孫の頭は東大の理学士となった。おのれ嫁ぎてより50とせに近くいつも健やかに今日になりたる

 

²  木乃伊(ミイラ)

短歌集

 出で入るもはや七十路と赤門の甍(いらか)見上げてあるじいふかな

女体とよ木乃伊かざりし彩色の幾千年も美しくして

 

²  髑髏行

短歌集

 幾百の髑髏ならべり我が夫子が書(ふみ)よむ室の硝子戸の中

 

²  我庭のこと

春とは思われぬ深い雪が降ったが、美しいのは降っている間だけ、朝の空が晴れて解け始めては、さすがに春の雪で、屋根には雪の襞(ひだ)ができ、雨垂(あまだれ)の音が絶間なく、午(ひる)頃に芝山はもう半分ほど乾いて、雪消(ゆきげ)の水が苔の上を流れた

30年余り前、この邱を見に来た時、庭は一面の梅林で、所々に枝ぶりのよい老松が4本ばかりあって、この山里のような風情が気に入ってやがて小さな家を建てて住み始めた

 

² 

短歌集

 そこはかとなく木犀(もくせい)のかをるなり苔みどりして秋ふくる庭

 

²  向島の家

小学校に通う前から住んでいたのが向島の家で、庭が大きいのを父が気に入って買った

 

²  千住の家

父の仕事の都合で引っ越したが、周りは決して善い所ではないと母が心配して、お友達がどんな風をしてもどんなことを言っても真似ることはなりませんときつく言われた

12で卒業すると、何を習わせようかということになって、近くの漢学の先生の所に行かされる

 

²  卒業前後

お琴の初許(ゆるし)を取って間もない頃、初めて高い台の上に並んで弾いた帰りの車の上で夜風が身にしみると思ったらクルップ性肺炎になり、高熱にうなされていた時、すぐに氷で冷やせと指示して一命をとりとめたところから、長兄は命の恩人

その兄が洋行したので、便りが待ち遠しかった

手紙は綴じて置かれ、3年の滞在中には厚いのが幾冊も出来た

『源氏』を買っておいて下さったから何を置いても読まねばならず、琴も善いのが出来たから浚(さら)わねばならないし、昼前には塾にも通う。そのため夜更かしの癖がついた

同藩の子爵で世に聞こえた歌人について歌も習う

小学校を出てから2年ほどして女学校に入り、本郷まで車で通う。得意は作文、興味を持ったのは西洋人女性の教えてくれた英語

卒業すると間もなく結婚

 

²  子の病

小石川原町の家から大塚仲町の病院までは区の果てから果て、人はみつの山と呼び、生垣や竹垣板塀などの屋敷が揃い、新開地といってもはや大分年がたつのに、赤土の上に手入れが悪く雨天の道の悪さは言うまでもなく、雪の日は特に非道い

地方の高等学校に入って休暇で戻ってきた際具合が悪くなって入院したらチフスだと判明

45日間の入院でようやく回復

 

²  (ちまき)

官軍に追われた越後藩の者たちのうち東京にいる者だけが折々に寄って昔語をしようということになってからもう14,5年になる。男の方はもうとくに止んでしまった。男は余り長命の人がない故、古い昔を語り合うような連れはなくなったのかもしれない。今は5人だけで、一番上が78、若いのが70で、いつからともなく婆々会と名がついた

昔話から身内の話、知った人の身の上話など、尽きぬ話に花が咲く

 

²  紅入友染

解剖生理などの講義ばかりを聞いていた医科の学生達には、3回生となって初めて患者を見るという事が、この上なく興味のあることだった

息子の同じ東北の高等学校から来た10人の一団は特別に親しくして、一人だけ東京に実家があるところから、よく友達が出入りしていた

学生の大部分は臨床家になるのが目的、中でも内科の外来の日は皆非常に熱心で、助手が学生たちのためになりそうな病気のものを選んで予診室へ回す。1人の患者に学生の2,3人が懸かって、皆で相談して病名を書いて病人と一緒に先生の診察室へ回す、先生はそれを順序に診察して、病名の間違ったのは教え治療法を問い、再来にしたり入院をさせたりする。先生の来られる前に学生たちで治療法などあれこれ意見交換し合う

学生の1人が持っていた聴診器を入れる紅入友染が学生の間で話題になり、皆に唆されるように親しい友達が来歴の探りを入れるが本人は何とも思っていないので話に乗ってこないまま、少し色が褪()めてきた

 

²  後記  昭和187

七十路を超えて両親兄達よりもいつか生き延びている

長兄のことは長年の間に言い尽くし語り尽くして下さるのを喜ばしく思うにつけ、次兄のことは全く世に忘れられているので、私が朧気(おぼろげ)な記憶を辿って書いたものを、せめて幾分世に残したいと思った。森一族、小金井一族の事も、知る限りは書いておいた

大抵は与謝野両先生のご厚意によって『冬柏』に掲載したもの。小説3,4篇は『昴』その他へ載せたもので、皆はかない昔語り(登場人物の名を変えた私小説:『向島の家』以降『粽』を除く)

台湾にいる森於菟が出版を喜んで送ってきた手紙を序にかえる

装幀は石井柏亭

 

 

解説  中井義幸

小金井の著書のうち、『鷗外の思い出』が1999年岩波文庫に入り46年ぶりに再刊されたのに続き、今回本書も文庫入りが決まる。何れも著者最晩年の出版で、『系族』が’43年、『思い出』が'5685歳の誕生日を期して刊行、その3日前に彼女が死去

編集を担当していた森鉄三によれば、「夫人は耳が遠いだけで、細かい字の書物も読み、記憶が少しも衰えなくて、70年も前の旧い時代の思い出を次々と書く。文章に老人臭さは全くなく、常に若々しくみずみずしい。その上に自らなる品格のあるのが得難い」

ただの鷗外の妹ではなく、幼い頃からこよなく文学を愛し、13歳から和歌を詠み始めて、兄鷗外の指導の下に和文・洋文双方の研鑽を積み、明治20年代には翻訳文学者として、後に『かげ草』(明治30年刊)に収められた雅文体翻訳小説を続々と発表して我が国の近代文学草創に与り、同40年代には『スバル』に参加して現代小説作家として活躍した歴々の文学者、老練の文章家

『系族』は、同じく喜美子の遺した名文集ではあるが、『思い出』とは趣を異にしている。そこに収められた22の作品は、『思い出』の刊行より13年前、いまだ相対的に若かった70年代初年の喜美子がみずから選んで自分の持つレパートリーのありたけを繰り広げて見せた日本語の文章のページェントであり、つぎつぎといろとりどりの宝物が出てきて人を驚かせる玉手箱といったところで、言語においても、ジャンルにおいても、著作年代においても、個々の作品の長さにおいても、意図的に多様な作品を組み合わせて構成されている

全体を4部に分けることができる

第1部              祖父母・父母の追憶

²  不忘記          雅文           祖父白仙の最期、祖母キヨ・母ミネの追憶

²  土山の寺       文章体口語   3人の墓を近江土山常明寺に訪ねる

²  伊勢路の雨(再び土山の御墓に詣でて) 和歌 追憶の伊勢参宮と雨中の土山再訪

第2部              2人の兄の追憶

²  次ぎの兄       談話体口語   次兄篤二郎(ママ)の生涯

²  観潮楼の跡    和歌           長兄林太郎の旧居千駄木観潮楼の焼跡に立つ

²  悲しき塚       和歌           次兄篤二郎の墓を訪ねその最期を思い出て哭す

²  森於菟に       談話体口語   長兄林太郎の追想(千住の青年時代)

²  兄君の最後                  (大正11年の臨終)

²  黒紋附                        (兄の着物姿いろいろ)

²  墓参                           三鷹禅林寺に一族の墓を訪ねる

第3部              夫小金井良精と自分のこと

²  越後の秋       雅文           昭和3年夫の故郷越後長岡へ共に旅した紀行文

²  喜びの日に                  昭和9年夫の喜寿を賀す

²  木乃伊(ミイラ) 和歌       東京大学解剖学教室のミイラ

²  髑髏行                        夫の書斎の数百の髑髏

²  我庭のこと    文章体口語   駒込曙町自邸の庭の40

²                  和歌           自邸の秋の庭の苔を見て嵯峨の苔寺を想う

第4部              著者旧作(明治4344年作の小説)

²  向島の家       文章体口語   藤子もの1(明治12年・8歳までの回想)

²  千住の家                     2(明治17年・13歳までの回想)

²  卒業前後                     3(明治21年・17歳までの回想)

²  子の病                        照子もの(大学生の長男の入院)

²  (ちまき)                   老婦人会風景

²  紅入友染                     医学生風景

 

言語からいうと、雅文長短3篇は著者の本領で、日本の文学言語の正統を承けて書かれた文章。少女時代に兄鷗外に買い与えられた『湖月抄』を隅々まで読んで『源氏物語』の言語を知り尽くしていた彼女は、近代作家には稀な本格的な雅文の書き手だった。『系族』の刊行された当時、雅文の書ける作者は皆無で、その真価の分かる読者の数も極めて稀なことを了承して3篇に止めた

6部の和歌においても、70歳で自選和歌集『泡沫(みなわ)千首』を刊行(昭和15)しており、その巻頭に、当時彼女が作品発表の場としていた『冬柏』の主宰者与謝野晶子が、師匠格として歌と序を寄せている。晶子らの『明星』派以下明治以降の歌壇の諸流派の作風には一切無頓着で、思うがままに自由に歌を詠み続けた。遥か半世紀昔の明治25年、兄鷗外が刊行した処女作品集を『水泡(みなわ)集』と名付けたことを懐かしんでの題名で、遠い兄の呼び声に応えたものだろう

和歌は、喜美子の祖父白仙が詠んだ森家の伝統で、白仙が土山に客死した時の辞世「あらざらんこの世のほかもわが魂(たま)をさきはひたまふ神のまにまに」をはじめとする彼の詠歌を、鷗外は学生時代の『鳥琴斎雑録』と題するノートに記録し、下谷和泉橋の藤堂長屋にいた12,3歳の医学校予科生時代には祖父の跡を承けて歌を詠むことを試みていたが、決してすぐれた歌詠みといえなかった彼は、自分に代えて聡明な喜美子を一族中の歌人に育て上げ、祖父の衣鉢を継がせることにした

明治1713歳の時、津和野出身の宮中歌人福羽美静について歌を学ぶ。福羽は、元老院議官、明治天皇の歌の師で、津和野国学の首導者大国隆正の晩年の高弟であり、白仙の同門の後輩と同時に、維新当初神祇官の中心人物で筋金入りの神道家

明治1814歳の秋、お茶の水高等女学校に入学、中村秋香(あきか)らの雅文作文の授業では1人突出して、1人だけ別の授業を受けた

密度の高い言葉の勉強は終生絶えることなく続き、老境に達するころには彼女は古来の歌の姿を知り尽くして、自由自在に歌を詠める境地に達していた。その古歌の知識は、『冬柏』に連載された『女房36歌仙』にその一端を見ることができる

60代には盛んに全国を旅してまわる。さすらいのさみしさとうつくしさとを歌に詠むことこそが古来のうた人の定めであり、祖父白仙の魂が語りかける彼女のつとめだった

森一族は、白仙が行路に倒れた近江土山を心の故郷としていた。白仙の最期を記した『忘記』を『系族』の巻頭に掲げているのはそのため

2部は2人の兄を追憶したもの。晩年の著者特有の優しく語りかける談話体口語(「です」止め)で書かれている

3部は夫との結婚生活について。良精が亡くなったのは昭和19年、喜美子は追悼歌集『朴の葉』を配っている

4部は作者の旧作で、何れも明治末年、作者3940歳にかけて発表したもの

「藤子もの」3篇は、少女時代の回想を題材とし、後に昭和になって彼女が実話として語ることになる同じ材料を、仮名を使った小説の体裁で語ったもの

残る3篇は執筆と同時期に題材をとった所謂現代小説だが、『子の病』は自分の子どもの病を題材とした母としての心境小説、残る2篇は、いわくありげな題名に惹かれて読み進むうちに、肝心の粽や紅入友染が出てきたところで小説が終わって、読者はいつの間にか作者の話を聞かされてしまったことに気付くという、鷗外が得意とした手法を真似て、文体も鷗外に倣って書かれた作品

昭和18年という時点で、著者が敢えて明治時代の旧作をここに掲載したのは、文章として誇るところがあったからだろう。小説という日本近代文学の主要ジャンルの作品として、言語においても技法においても、極めて完成度の高いもの

この書を鷗外伝資料を離れて、現代日本の文学言語の1つの達成点と考え、日本語と日本文学の未来を考えるすべての人々が、この名著を襟を正して隅々まで読むことを願う

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント

このブログの人気の投稿

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

新 東京いい店やれる店  ホイチョイ・プロダクションズ  2013.5.26.

自由学園物語  羽仁進  2021.5.21.