世界を変えた12の時計  David Rooney  2022.11.24.

 

2022.11.24. 世界を変えた12の時計 時間の人間の1万年史

About TIME A History of Civilization in Twelve Clocks  2021

 

著者 David Rooney 1974年イングランド北部のサウス・シールズ生まれ。イギリスの技術史家。1980年代初め、時計の製造と修理を専門として起業した両親のもとで育つ。ロンドンで物理学を学んだあと、ロンドン科学博物館の技術担当のキュレーターや、グリニッジ王立天文台の時計部門担当キュレーターなどを務め、現在はフリーで著述活動やキュレーションを手掛ける

 

訳者 本郷えりか 翻訳家。上智大外国語学部フランス語学科卒

 

発行日           2022.2.18. 初版印刷          2.28. 初版発行

発行所           河出書房新社

 

序文 1983年、大韓航空007便

KAL007便のボーイング747機は、ニューヨークのJFK空港を発って、アンカレッジに点検と給油、乗務員の交代のために立ち寄り、乗員・乗客269名を乗せ、通常より向かい風が弱いので30分遅らせ金浦空港に向け出発。飛行ルートを慣性航法装置に打ち込むと、共産主義国の領空を避けて安全に飛行できるが、自動操縦が正しく設定されていなかったために、予定ルートより北寄りにずれていた。離陸から5時間後、ソ連が迎撃のためスクランブル発進。ボーイング機の鼻先に警告射撃をしたが、大韓航空の乗務員は気付かずに雑談を続けていたために、2発の地対空ミサイルが発射され、1発がボーイング機の尾翼で爆発して機は海中に墜落。生存者はいない

上空では、「ナブスター」と呼ばれる合計7基のアメリカの実験用軍事衛星が地球の軌道を回っている。それぞれの衛星は自家用車ほどの大きさ、重量1t弱、動力源は太陽電池とヒドラジン・ロケット燃料を組み合わせたもの。一連の衛星は1978年以降1基づつ打ち上げ、グローバル・ポジショニング・システム(全地球測位システム)と呼ばれる測位実験の一環として、カリフォルニアで製造された計25台の高精度の時計が搭載されている

KAL機撃墜の4日後、レーガン大統領は、ソ連による大虐殺であり、人類に対する犯罪と表現し、二度と起きないための措置を講ずると誓う

上空の実験衛星は、今日GPSとして知られる最初の衛生群で、まだアメリカ軍が開発中。各GPS衛星は34台の小型原子時計を搭載し正確な時報を地球に送信、地上ではGPS受信機を持つ人々が数十メートルの誤差で自分の位置を知ることが出来た。今日、GPSでは30基前後の衛生が常時運用され、精度も信頼性も高い機種が搭載

これらの宇宙時計が日々の暮らしの目に見えない一部となり、正確な位置を教えてくれるだけでなく、現代のあらゆるインフラを同期させているが、撃墜当時は軍用にしか使われていなかった

1970年代に、アメリカのロックウェル社とドイツの時計メーカーのエフラトムの共同出資事業で製造された原子時計は、世界を技術的に変えただけでなく、政治的にも文化的にも変えてきた。軍事超大国によって我々の頭上に据えられた時計について、その果たす役割が無害ではないところから、もっと批判的にこれらの時計について考えるべき

最初の7基に搭載された25台の時計は、現在も地球の軌道上にあり、機能を停止しながらもなお人工衛星に搭載されたまま我々の頭上を恒久的に漂っている

ごく初期の文明以来、あらゆる文化の人々が時計を作り、使って来た、時計の歴史は文明の歴史で、本書は12の事例の研究を通じて、時がいかに管理され、政治に利用され、兵器とされてきたかを示す

本書は、人類にとって重要な文明の側面に、何らかの理由で光を当てる人工物を調べれば、人類の歴史が如何に理解できるようになるかという問題を検討する。これらの側面には、人間の統治方法や、私たちの持つ信条、物語の伝え方などが含まれる

本書は時計の歴史を利用して、資本主義、知識の伝播、帝国の建設、そして産業化が人類の暮らしにもたらした抜本的な変化を検証する。人間は自分たちを殺すために時計を使うが、それが及ぼす力について考えれば、時計は私たちを救うものになるかもしれない

Clockは、「鐘」を意味するヨーロッパの言語に由来するが、本書では、時間の経過を追う目的をもって人手で作られた機器の総称として使う

 

第1章        秩序 紀元前263年、フォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)の日時計

l  ローマを支配した日時計

BC263年、カルタゴを破りシチリア島のカターニア市を占領してローマに凱旋した英雄マニウス・ワレリウス・マクシムスは、フォルム・ロマヌムで戦利品の日時計を群衆に披露

それに合わせてローマの各地に日時計が出現、さらに100年後にはより正確な日時計の登場に加え水時計が加わり、夜の時間も支配するようになって、ローマ人は時計に従って生活することを強いられ、時計による新しい秩序が世界中の文明に広まっていく

l  時刻を告げる高い塔

BC140年頃建てられたアテネのアクロポリスの丘の麓にある高さ14mの風の塔には日時計があり、内部には水時計も設置

時計は、暮らしに秩序を持たせていたもので、ヴェローナでは時を告げるだけでなく、音響時計台(鐘楼)によって、途方もない音でそれを鳴り響かせていた

世界各地の帝国において、高い塔から時刻を告げる光景と音は、人々の暮らしを整然とまとめ上げ、権力と秩序のメッセージを誇示し始めた

l  公共の時間がもたらす秩序

最初の水時計は日時計よりもさらに古く、3500年以上前の古代バビロニアとエジプトを起源とする――秩序をもたらすために設置されていた

l  都市再生のシンボル

世界最古の機械式時計は、ヴェネツィアの南24㎞に位置する島キオッジャ広場にあるサンタンドレア教会の鐘楼に鎮座、1386年に動き始めたという

ジョノヴァとヴェネツィアという競合する海運共和国間での争いに巻き込まれ廃墟と化した町の地位を回復するためにインフラの再建に努める中、市庁舎に公共の時計が設置されたのは画期的なことであり、再生のシンボルとして、待ち望まれていた安定と秩序を表し、時計はキオッジャそのものを象徴した

l  時計台の権力

公共の時計台は常に政治的権力を投影させるために用いられた――誰がいつ時計の製作を委託したかを見ることで、それらがどのように政治上の関心事を象徴するものとなったのかがわかる。市民としてのアイデンティティや、戦争で無秩序となった後にはなによりも秩序感を象徴するようになり、民衆に時間による秩序感を持たせることで、公共の時計は広い意味での公の秩序感を表していた。公共の時計台は時代とともに、権力を誇示し、支配を続けるうえでさらに役立つものとなった

l  植民地を見渡す時計台

5世紀後にはイギリスの植民地化が進むと、時計台もイギリスの進出に伴った

喜望峰では、イギリスの最初の時報は1806年に、侵略軍がこの地を占領してから数日も経たないうちに運用が始まる。最初は昼の大砲による空砲だったが、間もなくケープタウンの町自体にできた時報発信の塔になり、すぐに海岸伝いにも時報装置は増えていく

オーストラリアでも1820年代以降、入植者たちが規律と秩序という西洋の考え方を導入する中で、時計台を建設する精力的な計画に従事したが、イギリスの時計台プロジェクトの最盛期はインドで、イギリスの締め付けが強化された1850年代、英王室によるインド支配を主要な町に建てた高く聳える時計台が15分ごとに鳴り響かせる音で象徴付けた

l  ローマから北京まで

1920世紀、世界帝国の勢力範囲が変わり続ける中、時計台は遠隔地にある政府の力を表現するのに一役買う構造物へと変化

19世紀末のオスマン帝国でも拡大する領土に時計台を建設するプログラムを奨励。権力者が国中に権力を誇示できると考えたが、地方の指導者にとっても帝国のほかの地域との繋がりを表示する手段でもあった

マルコ・ポーロが北京で目にした鼓楼や鐘楼はモンゴルの征服者クビライ・カアンによって支配を固めるために建てられたものだが、1900年には中国を侵略した欧米日列強8か国によって取り壊され、新たな機械式時計が市内各所に設置された

ローマのワレリウスの戦勝記念塔から、天安門広場の周囲の建物まで、時計は常に無秩序な混乱期の後に高く掲げられ、共通するメッセージを伝えてきた――立場をわきまえろ、列に並べ、支配者に従え、と

 

第2章        信仰 1206年、ディヤールバクルの城時計

l  壮大な自動装置の水時計

トルコのアルトゥク朝の宮殿に設置されたアル=ジャザリー製作になるからくり時計は、「城時計」と名付けられた機械式の水時計。残された製作者の大論文によると、中世イスラーム社会に欠かせないもので、宗教教育にも必須であり、地上における神の知恵、支配、そして全能を表すことを意図していた

l  宗教における時間

宗教では時計と信仰は密接にかかわる――イスラームでは日々の生活を定める2つの時間のリズムがあり、1つは太陰暦でイスラームの1か月の始まりと終わりを定め、メッカへ巡礼する時間を決めるために使用、もう1つの時間のパターンは15回の決まりで、日没後、夜半、夜明け、正午、午後の5回の礼拝は太陽によって時間が定められる

キリスト教暦では、イースターなどの移動祝日は月と太陽の周期を一緒に合わせた複雑な暦法と天文体系を必要とし、修道院での日々の礼拝も定められた時間に従っていた

l  機械式時計は宇宙を再現する

時を告げる道具は何世紀もの間信仰生活で必要な時を刻む目的を果たしてきたが、何れも実用面で限界があった。それを克服した発明が13世紀末の機械式時計で、重力で落下する錘によって駆動された一連の歯車を嚙み合わせ、地球の自転を模倣して、一定速度で回転するよう調整される形式をとる

l  ヨーロッパの都市の天文時計

時計で天体の動きを模倣したいという願望の根底には占星術がある――天体の動きを示す時計は、従うべきものとしてあった

1574年製作のストラスブール大聖堂のからくり付きの巨大な天文時計は、宗教上の教えや占星術による予言を驚くべき方法で視覚化して見せた。天球儀に宗教場面を描いたものを日々眺めれば、敬虔なキリスト教徒なら、神の力と地上における圧倒的な存在感を受け入れざるを得ず、自分たちの信仰を信じることができる。天の戒律は理屈なしに従うべきものとされ信者は従順に従う、だからこそ世界各地に目を見張らせる時計が出現

中世ヨーロッパに導入された機械仕掛けの逸品の典型:

バルト海沿岸リューベックの聖マリエン教会の天文時計――1250年から建設が始まりハンザ同盟の権威を表現したもの、時計を設置したのは1384年ごろ、1561年新規に発注された時計は万年歴盤を持ったが1942年爆撃で破壊

プラハの市庁舎外壁に設置された機械時計――1402年製作。フスの宗教改革で混乱した町を立て直すために時の権力者が設置

l  「時は金なり」が依拠するもの

15世紀には小型の時計が日々の暮らしに入り込み始め、常に時計が視界に入るようになると、時間は無駄にされ得るという考えが受け入れられ始めた――16,17世紀、イギリスのピューリタンが敬虔な勤行の根本として労働倫理という考えを推し進め始めて本格的に広まる。労働は神に対して負うものゆえ、怠惰は神に対する背信だとし、1635年頃には簡素な装置を持った「ピューリタン時計」を携行して、理念化された規律を遵守

1748年、ベンジャミン・フランクリンが「時は金なり」と言ったのは、若い商人への戒めの言葉だったが、時間が神の時間だという宗教概念に深く依拠するもの

l  聖地に立つ世界最大の時計台

サウジのアブドラ王立科学技術大学は、メッカに近い紅海沿岸に位置し、2009年創立、キャンパス内のイスラーム科学技術博物館には、アル=ジャザリーの時計の複製がある

メッカのロイヤル・クロック・タワーの上に2012年設置された世界最大の時計は、超高層複合施設の500mの高さからモスクを見下ろすもの。文字盤の直径は43m

 

第3章        美徳 1338年、シエナ、抑制を表わす砂時計

l  砂時計というシンボル

14世紀、シエナは銀行家や商人など9人の僭主が寡頭政治を実践する自治共和国で、ローマ教皇と神聖ローマ帝国の皇帝との間の争いに巻き込まれていたが、アンブロージョ・ロレンツェッティが描いた評議場の壁面を飾るフレスコ画には、平和と3つの宗教的美徳、5つの市民的美徳の9つが擬人化して描かれている。市民の美徳のうちの1つ、「抑制」が手にしているのが砂時計

砂時計の起源は1112世紀と思われるが詳しいことはわかっていない。砂時計も水時計と同じ原理で動くが、砂時計には透明な拭きガラスの技術が必要であり、さらにガラスを砂が滑らかに流れる工夫がいるために、それほど古いものではないが、一旦開発されると多くの用途が生まれ、時計としてはずっと安価で気兼ねのないものであり続けた

壁画に描かれた「抑制」の絵を調べることで、砂時計に付与された象徴的な意味を理解できる。この象徴的な意味こそが砂時計が文明にもたらした最大の影響だった

l  中世の「抑制」の美徳

BC44年、ローマの哲学者キケロは、「抑制ある行動=自立と中庸は、時間そのものの様なもので、ゆっくり動き過ぎることでもなければ、速く動き過ぎることでもない」と説いた

13世紀には、抑制の美徳は時間そのものに具現化されていると言われ、14世紀にはヨーロッパの思想家の中には人間が従うべきあらゆる美徳の中で抑制が最も重要だという見解が支持を得るようになり、抑制された生活を送れば、人は自動的にその他すべての美徳にも従って生きることになるとされた。キリストこそが抑制であり、抑制されていることは、キリストの如く行動することになった

フレスコ画に描かれた「抑制」が手にした砂時計は、時間に象徴的な形を与える――与えられた時間を注意深く計り、使うこと、即ち規律を守り行き過ぎを抑えることで私たちは徳の高い暮らしを送ることになる。抑制のある人生がよりよい人生だと教えている

l  砂時計の新たな役割

15世紀に入ると、機械式時計が砂時計に取って代わって、抑制された暮らしのシンボルとして使われる

砂時計は、時間そのものの経過のシンボルとなり、寿命を表し、「死」の象徴でもあった

l  砂時計を携えた骸骨たち

1776年、パリのノートルダム大聖堂にある陸軍中将ダルクールの霊廟には、嘆き悲しむ寡婦によって制作依頼された大理石の彫刻が設置される。「貞女は二夫にまみえず」の記念碑として描かれたのは、骸骨姿の「死」が砂時計をもって忍び寄るもので、かつては抑制を奨励するシンボルだった砂時計が、死を免れない人の運命の象徴となった

l  死の空虚さ

1617世紀のオランダなどの家庭では、壁にヴァニタス(空虚)がと呼ばれる静物画が掛けられていた。服飾品から装身具まで、この世の美しい宝が、頭骨や腐った果物、砂時計とともに描かれた

 

第4章        市場 1611年、アムステルダム、証券取引所の時計

l  近代資本主義の誕生を知らせる鐘の音

1611年、アムステルダムの広場に世界初の証券取引所が完成、場所だけでなく、一定の時間内に取引を集中させられることになる。時間制限を設けることで取引に集中でき、商取引が成立するごとに税金を徴収できる市議会にとっても好ましい態勢が出来上がる

生産者と消費者を直に結び付けるモデルは、都市の拡大に伴い崩れ始め、仲介取引が登場、都市に住む人口の増加に伴い市場はさらに多くの産物を売るようになり、市場を基盤とした取引における仲介人の役割は増していくと、時計を使って仲買人の関与を規制する人もいた。ブローカーや金融業者のような役割は取引を円滑に進めるために重要度を増す

アムステルダムは新しいタイプの取引所。当初オランダ東インド会社の株を売買する場所だったが、すぐにその他の会社の株や先物契約、保険証券の取扱いも始め、金融市場が到来したが、その産物とそのために支払われる対価は時間に左右されるものだったところから、取引した時間をみなが合意する必要があり、取引所の時計が真価を発揮する

l  市場と時計のネットワーク

世界最初の取引所の時計は、現在オーステルケルク(東方教会)に設置され、教会の時計の文字盤には接続されていないし、17世紀鋳造の巨大な鐘にも繋がっていない

市場がグローバル資本主義の鍵となるメカニズムだとすれば、時計は市場の鍵となる機械

時計は商取引ごとにタイムスタンプを押し、トレーダーを呼び集める

1560年に建てられたロンドン最初の取引所にも時計が設置され、正午と夕方6時に鐘を鳴らして商人を集めていたが、いつも故障、1666年ロンドンの大火で焼失

再建された取引所にも時計が設置され、14回鐘を鳴らしたが、これも1838年焼失

現在の取引所は1844年に完成、王立天文台長設計の精密な時計が設置され、1859年ビッグベンが鳴り響くまでは最高の公共時計と考えられていた

取引速度が上がるほど、売買を記録するためにより精度の高いタイムスタンプが必要に

1886年、正確な時報を電信で売るスタンダード・タイム・カンパニーの受信契約者名簿には、正しい時刻を知ることで事業が成り立つシティ内のすべての金融機関、各種取引所などが含まれている。時計のネットワークが稼働、何れも電信によって相互に接続

夏時間の概念が20世紀冒頭に実施された時、ロンドン証券取引所と、イギリス最初の先物市場だったリヴァプールの綿花市場はこの計画に懸念を示す。ロンドンとニューヨークの時差は5時間、両者が同時に開いている時間帯は、ロンドンでは午後34時、ニューヨークでは午前1011時なので、ロンドンが1時間繰り上がれば、重なる時間帯がなくなるため、イギリスのブローカーは別の国際市場へ逃避しかねない

l  金融市場のタイムスタンプ

今日、金融商品を売り買いする方法は3種類

人手による取引――都度人が操作することによって行われる取引

アルゴリズムによる取引――あらかじめコンピュータに組み込まれたアルゴリズムによって自動的に売り買いされる取引

高頻度取引HFT――アルゴリズム取引技法の一種

時計が金融取引成立にタイムスタンプを刻印して、全てが公式に、公明正大に行われたことを請け合う――時計が規制を可能にしている

そのために必要なのは、①時間の尺度に合意があること(現在国際的に75種類もの尺度がありどれが唯一無二の時間かを決めるのは容易ではない)、②すべての市場参加者がその時間の尺度を手に入れアクセスできること、③タイムスタンプを押す時計の精密さと正確さ

現在①については協定世界時UTCを選択している

l  正確さが指数関数的に増していく

1611年のアムステルダムの時計の正確さは、1日当たり30分以下の誤差

1650年代、振り子を使った新しい技術が登場し、正確さが格段に改善。1920年代には、太陽の南中時刻を基準とする国立天文台の真太陽時と比較して2,3カ月に1秒程度の誤差まで達した。その後振り子が水晶片の振動に代わりクオーツ時計へと進化

1955年、イギリスの国立物理学研究所NPLで原子時計の製作に成功。現代の我々の基準となっている――300年に1秒の誤差、1980年代には30万年に1秒に短縮

l  超正確かつ超精密な時間を供給する

ロンドンのタワー・ハムレッツ区はヨーロッパ初の専用データ・センターで、同地に1990年創業のテレハウス・ノースは光ファイバー時刻供給サービスを運営

 

第5章        知識 1732-35年、ジャイプル、サムラート・ヤントラ(至高の機器)

l  国際的な天文学ネットワークへの野心

1732年、インドのジャイプル藩王国のジャイ・シング2世が、新しく建設した首都に天文台を据え世界最大の日時計を設置。外にも5カ所に壮大な天文台を設立し、自らが宇宙の中心にいるのだと世の人々に見せたかった

18世紀の天文学はイスラーム、ヒンドゥー、キリストという3つの主要な文化で実践されており、シング2世もそれぞれの天文学の成果を融合させ、自分自身の統治を宇宙の中心に位置づけようとした

l  知識は力である

1259年、チンギス・カンの孫フレグ(フラグ)は、イラン北西部のアーゼルバーイジャン州にマラーゲ天文台を建設、広域から最高の天文学者のチームを集め、正確な時刻測定と星の観測に基づいて発表された天文表は、何世紀もの間世界各地で使われた

13世紀のアジアでは、天文学は一族内の関心事

1420年代初めには、ティムール帝国の創始者の孫ウルグ・ベクがサマルカンドに巨大な天文台を創設、イスラーム世界で最も影響力のある科学機関となった

両者に共通するのは、天文観測の予測という性質(=占星術)が、領土を征服し、継承戦争を戦うための軍事戦略の根幹にあったこと

11世紀の中国(北宋)でも、即位したばかりの皇帝(哲宗)が天文観測に基づいて天文時計を振りかざし、16世紀のオスマン帝国でも戴冠したばかりのムラト3世がイスタンブルに天文台を建設して科学プログラムを実施しているが、みな同様に版図拡大を狙っていた

ルイ14世は1667年パリに天文台を設置、ヨーロッパ列強に対し半世紀にわたる非情な軍事作戦を開始。1675年にはイギリスのチャールズ2世が対抗してグリニッジ宮殿の敷地内の城跡に天文台を建設

天文台を設立し、国際的な人材と最高の機材を揃えることは、時代と空間、文化を跨り、何世紀にもわたって野心的な支配者がやってきたことであり、今日もそれは変わらない

l  宇宙時代も続く天文学の政治

2019年世界遺産に認定されたイギリスのジョドレルバンク電波天文台は、1945年戦時中のレーダー技術を使って新たな知識を探るために建設され、ラヴェル望遠鏡と呼ばれた電波望遠鏡は、直径76mの巨大な円形の皿を持ち、重量は3200t。宇宙の彼方の微かな電波信号を捉えることで時間を遡っているが、1957年の稼働開始直後にソ連の世界初の人工衛星スプートニクの軌道を追うためにも利用、翌年からはアメリカ軍も自身の月探査機追跡に利用

l  グリニッジ天文台はなぜ有名か

1884年、ワシントンDCでの外交会議で、グリニッジで時刻を決めている主要な望遠鏡を通過する子午線が、世界の本初子午線に指定され、世界の時間制度の起点となる

本初子午線(ほんしょしごせん: Prime meridian)とは、経度000と定義された基準の子午線(経線)を指す。1980年代以降、国際的な本初子午線としてIERS基準子午線が使用されている。「本初」とは「最初」「首位」という意味である。

赤道地理極という明確な基準のある緯度と異なり、経度には明確な基準が自然には存在しないため、本初子午線は人為的に設定する必要がある。過去には、世界各地で様々な本初子午線が使用された[1]。加えて、経度の測定には技術的な困難があった。

本初子午線は、180度経線とともに大円を形成する。この大円により、地球表面は2つの半球に分けられ、本初子午線の東の半球を東半球、西の半球を西半球という。

グリニッジが選ばれたのは帝国の力ゆえで、大英帝国が世界の大部分を植民地化したから

1672年、チャールズ2世は王立アフリカ会社を創設、弟のジェームズを代表者とし、西アフリカとカリブ海域、北米間で奴隷貿易を展開、モロッコから喜望峰に至るまで交易所を設ける独占権を握っていたが、その3年後グリニッジに天文台を設置、経度の問題を解決して世界制覇を目指す

 

第6章        帝国 1833年、ケープタウン、天文台の報時球

l  大英帝国と喜望峰

1833年、喜望峰の天文台では、天文観測によって時刻を合わせたクロノメーターによって真夜中の12時に報時球を落下させ、それを見た船の航海長が自船の測位機器を正しい時刻に合わせ、出航の準備をした

l  時報とクロノメーターが帝国を動かす

1488年、ポルトガルの入植者がアフリカ西南端に上陸し、「嵐の岬」と名付け、後にヨーロッパの交易にとってアジアの富をもたらすものになると楽観視したポルトガル王ジョアン2世によって「希望の岬」(喜望峰)と改名

喜望峰に定住した最初の外国人は、1652年に補給基地を求めてやってきて植民地を築いたオランダ船員で、イギリス人は1795年に侵略、一旦返還するが1806年再度侵略

19世紀、最高の測位技術は航海用クロノメーターで、1750年代にジョン・ハリソンが発明した極めて正確な時計だが、その測位プロセスに欠かせないのが、寄港中に正確な時報を受けられ、誤差を確認できることで、1840年代以降は電信網によって時報を入手

ケープタウンの最初の定時の時報は、毎日正午に大砲を撃って知らせていたが、1814年正式にオランダからイギリスに譲渡されると、大英帝国拡大の中で、テーブル湾を見渡す恒久的な天文台と時報局が建設される。1861年からは電気信号が取って代わる

l  海上での測位問題

船乗りは長期の遠洋航海で自船位置を測位することに驚くほど熟達。太陽や恒星の高度を測定すれば緯度がわかり、羅針盤は地磁気を利用して方向を教えてくれる。測程線と砂時計の併用により速度も推測できたが、経度を図る信頼に足る方法が発見されていなかった

ヨーロッパからの航海は通常南緯34度に達したことがわかるまで大西洋の真っただ中を南下し、その後東に方向転換して数日ほど進むと陸地が見えてくるが、荒天の中で行きつ戻りつするうちに食料や水が尽きて、操縦不能となる幽霊船が出没するようになる

l  正確な時刻をいかに伝えるか

海上で特定の場所との距離を知るのに必要なのは、出発地と現在位置のそれぞれの現地時刻が同時にわかることだけで、現在位置の時刻を知るのは太陽の高度から測定可能だが、出発地の現在の時刻はわからない。出発時に合わせた時計を持っていればいいが、遠洋航海の間中正確に時を刻むのは不可能だった

l  「帝国の中心」の世界時計

1908年の英海軍の調査では、世界中で200カ所の時報設備が存在

1920年代のロンドンの地下鉄には世界時計が表示され、新設のピカデリー・サーカス駅を「帝国の中心」とし、ほか5カ所に豆電球をつけた――ニューヨークとカナダのヴィクトリア市、シドニー、アルゼンチンのラ・プラタ、ケープタウンで、何れもイギリスの帝国主義のくびきを払いのけつつあった場所で、徐々に世界の帝国の地図が変わりつつあった

l  いまだに残る帝国の影

1910年代、長距離無線通信の開発により、時報を港で待つ必要がなくなった

10年後には世界各地50カ所の送信所のネットワークができ、世界中がその恩恵を受ける

 

第7章        製造 1865年、ロンドン、ゴグとマゴグ

l  ある時計店の寓意

1865年のある日、ロンドンの中心街チープサイドの時計屋の5階建ての建物の外壁の工事現場で、組んでいた足場が崩れ、現場監督が真っ逆さまに転落したが、大型時計店の入り口上方に設置された巨大な時計の15分ごとに鐘を鳴らすべく立っていたロンドン市の守護者ゴグとマゴグの前を通過する時、監督は足場を支えていたポールの1本を手荒くつかみ、分厚い足場板の上にどさりと、安全に落ちて一命をとりとめる

当時、古くから多くの尊敬を集めてきたイギリスの手工業の1つが、それ自体消滅に向かって間違いなくまっしぐらに進んでいるかのようで、時計店主はそれを救おうと必死になっていた

l  ヴィクトリア朝時代の時計職人

チープサイドの時計屋の建物の上には6mのマストの上に報時球が搭載され、3階部分の壁の窪みには店の時計仕掛けのディスプレイを駆動させる巨大な塔時計に合わせて毎時鳴り響く大きな鐘が据えられ、2階の窪みにはシティの守護者であるゴグとマゴグの等身大のからくりがあり、15分ごとに鐘を鳴らしていた

時計屋の主のベネットは、外国製の時計を販売することで、国内の時計業界から総スカンを食らっていた――時計業界に生じたことは、その他のすべての製造業を象徴していた

l  時計職人が製造業を変えた

18世紀を通じてイギリスは世界最大の時計の産地で、世界生産の1/2を占めていた

紡績機械をはじめ、各種産業機械が発明されると、時計職人の技術に白羽の矢が立つ

紡績機械を作ったアークライトも、ウェッジウッドも、蒸気機関のジェームズ・ワットも同様に時計職人の助力を求める――「時計仕掛けclock work」という用語そのものが産業機械の同義語になり、回転する機械のメカニズムを描写するのに使われた

l  19世紀の変化と抵抗

1859年、ベネットはイギリスの時計協会の会合で、スイスの懐中時計が安いだけでなくデザインの美しさと優雅さで大きく引き離していると警告、メカニズムの単純化と部品製作の機械化、度量衡の統一、分業と女性雇用の促進、初等教育制度の質と範囲の改革などを訴えるが誰も耳を貸さず、1870年にはスイスが世界の懐中時計の2/3を生産するまでに成長、イギリスの産業は崩壊寸前になる

l  大量生産とマーケティングの時代へ

1802年頃のコネチカット州では、水力を利用した機械による時計の大量生産が始まり、1816年には互換性のある部品でできた小型の木製時計の特許を取得

技術は改良を加えられ、より大量に生産されるようになって、イギリスにも逆上陸し、市場を席巻していく。広告が大きな役割を果たし、大規模な展示会がさらに購買層を広げる

マーケティングはアメリカの発明

アメリカ式システムによる大量生産の基本要素は、標準化された互換性のある部品と、熟練者が人手で行っていた仕事が専用工作機械に取って代わられることの2

1853年創業、1900年世界最大の工作機械製造業者になるアメリカのブラウン&シャープの創業者は元時計職人。そこで技術を習得したのがキャデラックの創始者リーランド

l  イギリスの時計産業の失敗

1897年ベネットの他界後もイギリス時計業界はベネットを非難、1929年にはベネットの店舗も解体されるが、からくり時計が廃棄されることはなかった

l  ウォッチメーカーとカーメーカー

1933年、ヘンリー・フォードはディアボーンに歴史博物館とともに歴史村を開設、アメリカの伝説的な建物を再建したが、その中に異質な建物がある。ベネットのチープサイドにあった時計店で、1929年フォードは正面の壁面をそのまま買い取って歴史村で再建

フォードは、1880年代に10代で懐中時計修理のアルバイトから人生を始め、懐中時計製作における経験が、自動車の組み立てラインのアイディアに繋がったという

 

第8章        道徳 1903-06年、ブルノ、電気時計設備

l  電車、電気照明、電気時計

1907年初め、オーストリア=ハンガリー帝国モラヴィア地方の古都ブルノでは、1900年に開業した路面電車が走り、広場には近代化プログラムの一環で据え付けられた照明設備が明るく輝き、市庁舎の時計は、鉄道駅から公共施設、教会を網羅した電気時計の最先端技術で結ばれていた。市内のすべての時計が同じ時刻を示すことになるが、同市は1882年電気のパイオニア、エジソンを招いて電気照明システムを設計・設置してもらったものだが、前年のニース・プラハ・ウィーンでのガス灯による劇場火災での惨事がきっかけで、同市の劇場に早速取り入れられる

20世紀初頭のブルノには近代的な建築が次々と建設、2001年ユネスコの世界遺産に登録

190306年にかけて導入された電気時計設備も世界中の進歩的な都市に押し寄せた時間標準化の波の一環で、その中心には電気があった

l  電気こそが近代性である

電気は近代性を定義するものとなり、19世紀後半に公共の時計が発達し始めて以来、私たちの社会の行動(=道徳そのもの)を効率よく変え、150年の間大衆の行動を、権力者が正しい行動だと考えるものに即して標準化する道具となってきた。それに大きく貢献したのが時間そのものの標準化を可能にした電気時計設備

l  時間はいかに標準化されたか

太陽に即した本当の時間(=地方時)と標準時は異なるが、道徳と善悪の行動原理に基づく理由ゆえに、そんな差異は問題ではないと決断

イギリスでは、183040年代に建設された鉄道の全線に渡った時間を標準化する必要が生じ、1840年ロンドンの時間で統一され、グリニッジから得たロンドンの正しい時間を全線にいきわたらせたのが電信設備とされるが、地方時はその後も50年は存続したし、度量衡のように、2つの制度が併存するのは日常生活でもあり得ることだった

1855年までには、イギリス自体の常用時(=市民時友)がグリニッジに合わせて標準化されるが、日常生活が鉄道の慣行に倣って標準化されたというのは間違い

l  パブはなぜ正しい時間を求めたか

1876年創立のスタンダード・タイム・カンパニーSTCは、ロンドン一帯の電気による自動時報配信網を推進、あらゆる職種に行き渡っていたが、うち80カ所以上がパブやレストラン

l  パブの時間、工場の時間

アルコール飲料の販売制限は、ヴィクトリア朝時代の規範的法律のうちで最も議論を呼んできたもの――1872年の免許法が大衆へのアルコールの販売時間に全国的な制度を導入した最初の事例で、同時代の道徳と人間の行動を取り締まるために時間を利用した

アルコールの販売に時間制限を設けるには、①時間の標準を設けることと、②誰でもその時間を正確に入手できることが必要で、6年後にはイギリスの全法律の公式な標準時をグリニッジ標準時とすることを法定

1802年制定の工場法は、マンチェスターの綿紡織工場で働く児童を保護するための目的で、労働時間に制限を設けた最初の法律。1844年には、実際の時間基準を公共の時計と決めるが、それでも工場ごとに時間の決め方はまちまちで、20世紀になって漸くブルノと同じ様に電気時計設備が浸透して、グリニッジ標準時に合わせるようになった

l  道徳的な管理の手段

公共の時計が告げる標準時は道徳的な管理の手段であり、時報を瞬時に伝えるために電気と不即不離に結び付き、時間の孤立地帯・無法地帯も、電気によって道徳改革者とその時計に掌握されるようになった

l  夏時間と相対性理論

1856年生まれの不動産業者ウィリアム・ウィレットは、昼光の有効利用を思いついて、1907年最初に夏時間を提唱、アーサー・コナン・ドイルが絶賛、翌年には議会でも検討

アインシュタインの特殊相対性理論発表からわずか3年後、光速は絶対的だが、時間は見るものの視点次第で相対的なのだという衝撃的な理論で、アルコール販売でも、児童の労働時間でも、それぞれの道徳的危機が何であれ、電気と時計はそれを正すことが出来た

標準化された時間は、標準時間帯にいるすべての人の行動を管理できるようになる

時計と時間を使って、自分たちの道徳律を制定していた

 

第9章        抵抗 1913年、エディンバラ、望遠鏡駆動の時計

l  エディンバラの爆破事件

1913年、女性参政権活動家(サフラジェット)による天文台爆破事件勃発

l  時計という暴君

女性参政権運動は1910年代に激化、公共施設が標的にされた

特に、力と支配の源泉となる時間の標準化をもたらす天文台が危険に晒される

l  産業界の時間規律

繊維産業は労働者の生活を縛るうえで、時計を極めて抑圧的に利用、経営者は労働者が仕事場で懐中時計を所有することを禁じ、勝手に時間を動かすことで労働者を酷使していた

19世紀初め、イギリスで起こった「ラッダイト」は機械を打ち壊す集団で、機械の暴政への抵抗は頻繁に発生、19世紀後半まで続いた

1884年、国際子午線会議でグリニッジを世界の本初子午線に選んだのは政治的決定

l  グリニッジの爆破事件

19世紀の最後の20年は、ヨーロッパ各地の様々な国がアナキズムに触発されたテロ攻撃に見舞われた――'81年ロシア皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件や、アイルランドのナショナリストたちによる植民地主義への抵抗を示す英本土でのダイナマイト爆破事件など

1894年にはパリのカフェでの爆発事件、その3日後にはグリニッジ天文台の公共時計を狙ったと思われる爆弾を持った男が山道で足を滑らせて転倒し自爆していた

1884年の子午線会議の結論をイギリス帝国主義の行為と見做したフランスは、その実施に反対、大半の国もグリニッジを拠点とする時間制度に移行したのは1890年初めになってからのこと。1894年の国際子午線会議でもまだフランスの反対は続いていた

l  インドでの標準時を巡る論争

1898年、ボンベイでは、現地のイギリス政府によって弾圧的に実施された過酷な公衆衛生措置に抵抗したヒンドゥーやムスリムによる暴動と広範なストライキが頻発、市場を見下ろす時計台の文字盤が銃撃で破壊された

1880年代、ボンベイで時間の標準化を巡って論争が続く――イギリスが標準時であるマドラス(現チェンナイ、東海岸)時を押しつけてきたためだが、1905年にはグリニッジより5時間半前を全土統一の標準時にしようと試みると、標準時を守るか否かということはイギリスの植民地主義への忠誠もしくは抵抗の表現となる

翌年、標準時の施行が始まると、工場はストライキに入り水車場の時計台に投石

中央における集中管理や、権力と支配の代理として、時計は人間の感情を掻き立て、燃え上がらせる。それが抵抗運動へと繋がり、暴力的な攻撃へと発展しうる

 

第10章     アイデンティティ 1935年、ロンドン、黄金の電話機

l  「黄金の声」選考会

イギリス郵政省がやっている電話を使った時報サービス(「話す時計」)の声にオーディションで選ばれたのは、ロンドンの電話交換手のエセル・ケイン、翌年サービス開始

l  声か容姿か

ケインが選ばれたのは、26歳と若くてスリムでブロンドだったからで、42歳で厳めしい顔立ちのライバルは落選

l  「話す時計」のアイデンティティ

当時郵政省では、電話の一般家庭への普及に腐心、黄金の声をプロモーションに活用しようと考え、オーディションには写真添付を義務付け、優勝者が決まるとフランスのレヴューを英語でノンストップで上演する劇場の舞台で聴衆に向かって挨拶をさせた。さらにPRのために動画を制作、泥酔して帰った家で妻に叩かれた後、時報サービスの声で慰められるが、このサービスが時計であった事実に何か特別の重要なものがかくされている

l  時計とは何か

今日、世界最大の腕時計製造会社アップルは、私たちの暮らしや身体の最も私的な細部までも知る腕時計を提供

時計には私たちのアイデンティティが含まれている

1611年、アムステルダムの証券取引所では時計台は市場の検査官だった

アフリカ沿岸に帝国主義者たちが構築した時報設備は、白人の監督官だった

時計は人々を服従させ続けた

l  アメリカの大歴史時計

186090年代にかけて、アメリカの歴史を祝う巨大時計が20数台作られ、国内のみならず 海外まで巡回したが、これこそアメリカの歴史と威信を示すショーだった――南北戦争の流血と、政治・社会の変化が相俟って、アメリカ人の自信が揺るがされ、過去を懐かしがり始めた時に、植民地時代や独立革命時代の出来事を描き、アメリカ人のナショナル・アイデンティティ意識を再構築する上で一役買っていた

これらのからくり時計がワシントンDCの中心にある博物館内に展示されていることを考えれば、今もその役割を果たしているのだろう

l  標準時とナショナル・アイデンティティ

時計は、国旗や国歌と同様に、指導者や政府によって設置され、誰が味方で誰が敵であるかを世界に告げる

2015年、北朝鮮は標準時を30分遅らせた際、日本の帝国主義者が朝鮮から標準時を奪ったと非難したが、3年後には南北朝鮮の雪解けが進んだ証として韓国時間に戻している

2007年にはベネズエラのチャベス大統領も30分遅らせ、独自の時間帯を作るが、9年後に後継者は元に戻し、節電によりどん底の経済を立て直すと宣言

1949年、毛沢東も建国後に最初に実行したのが国全体を北京時で統一すること。中国時間はそのナショナル・アイデンティティの一部となり、北京時に合わせることが愛国的行為となった。たとえどんな現実が現場で生じていようが、統一された国民の象徴

l  ダブル・ブリティッシュ・サマータイム

201012年、イギリス議会はグリニッジ標準時から中央ヨーロッパ標準時へと1時間ずらす提案を巡って議論、結局却下されたが、その際の説明は「シングル/ダブル・サマータイム」と呼ばれ、夏季時刻はグリニッジ標準時より2時間早くなり「英国二重夏時間ダブル・ブリティッシュ・サマータイム」と呼ばれ、冬季は従来の夏時間と同じ。時計の時刻を変えることでヨーロッパの隣国に近くなるわけではないことが次の事態を予兆していた

l  ブレグジットとビッグベン

2020年、イギリスは欧州連合を離脱――イギリスの深く二極化した政治情勢を要約しているようだが、それは時計にかかわるもので、2017年以来修理のため停止しているビッグベンの鐘をブレグジットを記念して鳴らすべきと主張。ビッグベンに賛成か反対かという馬鹿げた論争に発展。結局は費用の面から立ち消え

 

第11章     戦争 1972年、ミュンヘン、ミニチュアの原子時計

l  宇宙に行った原子時計

アポロ時代に科学者が直面していた問題は時刻の測定。入手可能で最も正確な時計である原子時計は嵩張り、壊れやすく、エネルギー消費が大き過ぎ、逆に小型軽量のクオーツ時計には正確性が不足していた。それを解決したのがミュンヘンのエフラトムで、110㎝の立方体の原子時計を開発したが、1972年発射直前に時計の実験打ち切り決定

直後に1974年打ち上げ予定の軍事衛星NTS-1の打ち上げに流用されることが決まり、アメリカのナブスター・グローバル・ポジショニング・システムGPSの初期の試みで、エフラトムの2台のミニチュア原子時計が宇宙に行った最初の原子時計となった

異なる速度で、重力場の違うところを旅する時、時計は速く進んだり遅く進んだりすると予測されたが、その影響は最も精密で正確な時計にしか表れない(ママ)ものだった

l  GPS衛星の打ち上げ

時計は1750年代の航海用クロノメーターが時を刻み続けるその技術を最初に証明して以来、測位の中心に存在してきたが、200年後にアメリカ海軍が対ソ軍事防衛の一環として弾道ミサイル・システムを構築する際問題となったのは、ミサイルがポラリス潜水艦から発射されるため、潜水中の艦の誘導システムの精密性が劣ることで、浮上した際に素早く位置を把握できることを考えた

問題を解決したのは、ソ連の世界初の人工衛星。電波によって衛星を追っていたアメリカの科学者たちは、同じシステムが逆方向でも運用できるのではと気付き、宇宙空間における衛星の正確な位置を測定するための2基の衛星測位システムの運用に成功

各衛星からGPS受信機に届く時報間のごくわずかな時差によって位置を特定する

17年にわたって、30基以上のGPS衛星が地球周回軌道に送り出され、1995年にはシステムの第一段階が完成

l  時計も軍事兵器である

時計は戦争を可能にし、戦争も私たちが時計を使う方法に影響を及ぼす

1808年、コングリーヴがロケットの飛行時間を計測する新しタイプの時計を設計――平板の上に掘られた溝にボールを転がし、平板がシーソーのように中央で支えられて置かれ、ボールが平板の際まで転がると自動的に持ち上げられてボールは反対の際まで転がっていく仕組みで、ローリングボール時計という

1947年、『原子力科学者会報』に掲載された「運命の時計」は、午前0時まで7分の所に針が合わされたデザインで、核の不安のシンボルとなる。2020年ではあと100秒に短縮され、世界に終末が迫っていることへの懸念の度合いが反映されている

個々の時計を超えた先を見て、全ての時計装置がいかに戦争からの要求によって形作られたか、それがまた私たちにも影響を及ぼしてきたかを考えることができる

腕時計も、1899年からの南アフリカ戦争と第1次大戦のさなか、兵士が武器が使えるよう両手を自由にしたまま攻撃のタイミングを計るため懐中時計を腕に巻き付けたのがきっかけ。元々女性の装身具であり、乗馬などを嗜む女性たちによって使われるものだったが、戦争によって男女兼用となり、懐中時計製造業は壊滅

世界の1/4が実施する夏時間という民間の奇妙な思いつきを軍事的な必要性に変えたのは戦争――2度の世界大戦で軍需物資の工場がフル稼働し、燃料が不足していた時代、時計が戦争を効率化させ、それが平時のパターンも作り変えた実例

技術の発展は往々にして戦争を触媒とし、加速し、具体化してきたが、時計がすべての中心にあった。時計は軍事兵器の一種だった。さらにGPSは時計の兵器化を加速してきた

エフラトムの時計のほかにも衛星に利用されている時計はいくつもあるし、地域限定の小規模な測位システムもいくつかある

100基を超える衛星が宇宙を回り、300台ほどのミニチュア原子時計から地球に向かって精密な時報を発信している。それらの時計が何を意味するのかを知るべき

l  21世紀の戦争

20世紀の戦争は、開戦も停戦も宣言され、名称があった

21世紀には、国家の枠組みすら明確ではなく、誰が敵なのかも不明瞭だし、戦場の定義も簡単ではない。サイバースペースは代理戦争の温床ともなる

「国Nation」という概念が崩壊しつつあり、「国を超えたTrans-national」という概念に取って代わられている

l  戦争に組み込まれたGPS

1995年、GPSが完全に運用可能になったと宣言されたが、一連の衛星が完備される前からアメリカ軍はあらゆる活動をGPS誘導に切り替えていた――無差別の大量殺戮から、ピンポイント攻撃に移行

GPSが、今や地球のためのサービスとなった。それが問題なのだ

l  衛星時計に依存した世界

2020年現在、74基のGPS衛星が打ち上げられており、それぞれ34台の原子時計を搭載するが、これらのGPS時計は、私たち全体のために時を刻んでいる

世界各地で70億台のGPS受信機が使われている

衛星測位信号に影響を与える4つの要因――①衛星時計の故障、②自然の猛威によって信号が消されること、③単純な電子装置を使った意図的な妨害、④なりすましspoofing

現在の世界は衛星時計からの信号にあまりにも依存しているため、妨害やなりすましによる攻撃が及ぼす範囲は膨大

 

第12章     平和 6970年、大阪、プルトニウム時計

l  1970年大阪万博のタイムカプセル

1971120日、松下電器製作のプルトニウム時計装置が大阪城公園本丸跡の地下15mに埋設

l  平和をもたらすための時計

時計がいかに最も荒々しく破壊的な変化を可能にしたかを見てきた後で、平和をもたらすために時計を使う方法を想像できるだろうか

タイムカプセルは、今まで検証してきたすべての時計と似ていない、もっと長い時間の枠で功を奏するものであり、ロング・ナウに関わるもの。それこそが文明を救えるかもしれない

l  1万年の時を刻む

長期思考を一般的なものとし、長期の責任を果たすことを不可欠なものとするため、「ロング・ナウ協会」を設立、機械式時計で「メカニズムと神話」の双方を預かる文明が維持管理を怠らなければ1万年は稼働するはずの「ロング・ナウ」時計を作るプロジェクトを始める

1万年前に氷河期が終わり農業と文明が始まったのと同じだけの視点を、未来にまで引き延ばすもので。作曲家ブライアン・イーノの命名

ロング・ナウ時計の試作品は、1999年大晦日にサンフランシスコのプレシディオ公園で時を刻みだす。落下する錘が駆動する時計で数日おきに巻き直される

2代目の時計はテキサスで組み立てられている。3代目の時計の設置場所はネヴァダ州の砂漠地帯の山中で、一帯が世界最高齢の生物であるイガゴヨウの松の森で覆われ、最高齢は樹齢5000年と測定

l  遂行と恒久

伊勢神宮では、7世紀に社殿が建設されて以来、20年おきに建て替えられてきた

直近は2013年で62回目の再建――「連続性を表す世界で最も偉大な記念碑」であり、湿度が多く、地震が多発し、火山の多い島国における構造と記録、伝統の連続した系譜

大阪のタイムカプセルも、同じものが2つ埋設され、1つは5000年が過ぎるまで100年毎に再点検される。伊勢神宮のように繰り返し関心を注ぐことが長期の保存を可能にする秘訣だと考えられている――遂行performanceが恒久permanence         を意味する

l  時計を自分のために使うべき時

全ての時計は何らかの目的のために作られてきたことを知った

技術は決して中立ではなく、時に権力を掌握・維持する野心かもしれないし、道徳的な行動を促すため、金儲けのためかもしれない

時計はいつの時代も市場、金融、通商、製造、世界的な輸送網の中心に存在してきた。それは今後も変わらないだろうが、生産と消費の在り方は間違いなく変わる

GPS搭載の時計によって支配された世界から抜け出すのは困難だろうが、少なくとも自分たちの時計がどこから来たのかを理解していれば、批判する術をより身に着けられるかもしれない。誰かが私たちの暮らしを管理するために時計を使っているのであれば、私たちも自分のために時計を効果的に使うことができる。そうすべきだ。さもないと私たちの時間は終わってしまうかもしれない

 

 

世界を変えた12の時計 デイヴィッド・ルーニー著

時の技術から時代を覗く

2022416 2:00 [有料会員限定] 日本経済新聞

境界侵犯する知的快楽を味わう。本書の醍醐味はこれだ。

原題=ABOUT TIME(東郷えりか訳、河出書房新社・2970円) 著者は英国の技術史家。グリニッジ天文台を経てフリーで著述などを行う。

内容は明快で首尾一貫している。

計時装置「時計」を覗き穴にして、それぞれの機械仕掛けを生みだした時代の思想や、社会の価値観を明らかにすることである。

例えば、「古代ローマ」の「日時計」に始まり、古代中国の「水時計」、中世キリスト教圏の「天文時計」「砂時計」を経て、近代の「クロノメーター」。そして、現代の「電気時計」や「原子時計」、「衛星時計」まで。

各章ごとに1機種を取り上げる。さまざまな文化圏にわたって語られる、総計12種類の計時装置は、ほぼ科学史を網羅している。

しかし、本書は単なる技術史ではない。

技術を通して時代を覗き、技術史を通して歴史を遠望する。本書の狙いはこれである。

つまり本書は、工学的知識に裏打ちされつつ、人間社会と歴史を論じた人文科学の書といえる。

だから、古代の「高い塔」に設置された「日時計」を論ずるにも、単に、時を告げるための情報メディアだったと、考古学的に指摘するだけではない。

公共に時間を告知すること。それは、なにより為政者の権威と支配圏を誇示するため、政治メディアとして機能した。

このように、技術論から権力論へ、論点を深めるのである。

あるいはまた、近代、「標準時間」が制度化される。これにより、通商が世界規模で合理化された。

だが同時に、「時間」で計測・評価されることで、「労働」が均一化され、平準化されてしまう。

結果、働くことから固有性が剝奪され、労働は抽象化され、疎外されてゆく。

技術論から労働の存在論へ、論点は深まるのだ。

「時がいかに管理され、政治に利用され、兵器とされ」てきたか。「エリートたちは権力を振るい、金儲(かねもう)けをし、民を統治して暮らしを支配」してきたことか。

「時計」を通して、「権力、支配、金、道徳、信条」を、縦横に斬る。

発見術的に論点を水平移動させてゆく。本書の筆致は一貫しているのである。

この境界侵犯は、認識の発端となる知的快楽だ。

《評》早稲田大学教授 原 克

 

 

 

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古代ギリシャ・ローマから、中東、インド、中国、欧米、さらには宇宙や5000年後の未来まで、時計の文明史的意義を語る!

内容説明

日時計と古代ローマ、からくり時計とイスラーム、時計職人と産業革命、原子時計と21世紀の戦争。「時を計る」という最も身近な営みを通して、文明の核心に迫る!

 

 

President Online

2022.6.7.2022.6.13.

「鉄道が普及したから」は誤り都市ごとに時刻の違ったイギリスから"標準時"が生まれた本当の理由それは「アルコールに取りつかれた人々を救うため」だった

デイヴィッド・ルーニー技術史家

世界標準時のグリニッジ天文台を擁するイギリスは、19世紀まで都市ごとの時刻がバラバラだった。なぜ時刻を統一することになったのか。イギリスの技術史家、デイヴィッド・ルーニー氏の『世界を変えた12の時計』(河出書房出版)より、一部を紹介しよう――

l  社会生活を効率化させた電気時計

電気は未来なのだと、私たちはつねに信じてきた。電気自動車、電車、屋根のソーラーパネル、風力原動機(タービン)、ポケットのなかの携帯電話。これらはみな有害物質をあまりださず、よりよく、速く、安全で、より(ネットワークで:訳注)結びついた未来のシンボルとして受け止められている。

電気は光速で伝わり、世界は電線を通じて、あるいは天空を突き抜けて拍動する広大な信号網なのだ。電気は近代性を定義するものとなった。電気こそモダンなのである。

世界各地の数え切れないほどの町や都市に設置されたような電気時計は、ただ私たちがより効率よく動けるように役立つ、ありふれた実用的な技術のごとく見えるかもしれない。職場の壁や、鉄道の駅などの公共の場に設置された時計は、背景に溶け込んでしまい、私たちがそれらを二度見することはまずない。

だが、そのことは公共の時計が19世紀後半に発達し始めて以来、私たちの社会の行動――道徳そのもの――をいかに効率よく変えてきたかを証明するのに役立つばかりだ。これらの時計はありふれているどころか、最も高尚な道徳的目的のために使われてきたのだ。

150年のあいだ、これらは大衆の行動を、権力の座にいる人びとが正しい行動だと考えるものに即して標準化する道具となってきたのだ。そして、それは電気時計設備が時間そのものの標準化を可能にしたからなのである。

l  19世紀のイギリスは都市によって時間がバラバラだった

グリニッジ標準時は、グリニッジ子午線の時間だ。この王室特別区に1675年に創立した王立天文台の建物を南北に通る線である。これはグリニッジの現地時間だ。それは、グリニッジ天文台より177キロほど西にあるブリストルの時間ではない。太陽に準じたブリストルの地方時は、グリニッジよりも10分遅い。1675年は、どちらの町もそれぞれの地方時で動いていた。

だが今日ではブリストルは、イギリスのその他の地方と同様に、グリニッジ時に合わせている。19世紀に世界の人びとが時間を標準化することにしたためである。

標準時は市や地域や国や大陸にいるすべての人びとが、自分たちの時計を、グリニッジなどの一つの場所の時間に合わせることに同意する制度で、それが標準となる。その場所よりも東または西に位置するところはどこでも、太陽に即した本当の時間――地方時――が標準時とは異なるが、ひとえに道徳と善悪の行動原理にもとづく理由ゆえに、そんなことは問題ではないと人びとは決断したのだ。

l  時刻の標準化は鉄道の建設によって成されたのか

イギリスでは時間がどのように標準化されたかについて語られる際には、誰もがかならず鉄道の建設について言及する。旅客用の鉄道が1830年代から40年代に最初に建設されたとき、鉄道の全線にわたって時間を標準化する必要がすぐに明らかになった。さもなければ、ブリストルとロンドン間を走るグレートウェスタン鉄道のような東西の路線を、どうやって運行できるだろうか?

駅を通過するたびに、時計を合わせなければならなくなる。乗客が理解可能な時刻表を必要とし、鉄道網の安全が単線を共有する列車を区別するために時間に頼っていたとなれば、誰もが合意する一つの時間の尺度というものは便利であるだけなく、命にかかわる問題でもあったのだ。

そのため、グレートウェスタン鉄道沿いの各駅の地方時は廃止されて、1840年にロンドン時間を選んだ鉄道独自の時間に取って代わられた。そして、ロンドンで正しい時間を知る唯一の方法は、それをグリニッジから得ることなのだった。

これはまた、鉄道沿いに(文字どおり)建設された別の新しいネットワークのおかげで可能になった。つまり電信である。電信はモールス信号のトン・ツーでメッセージを送っただけでなく、時報も瞬時に送ることができた。世界各地の沿岸に築かれた時報設備は、近くの天文台からの電気信号によって調整され、測位用のクロノメーターの時間を合わせるのに一役買ってきた。同じ原理が、鉄道の発達と繁栄にも役立ったのである。

グリニッジのたった1台の時計が、電信線沿いに自動で送られた電気インパルスを使って何百キロも先まで午前10時の瞬間を告げることができたのだ。同じ電気の時報は路線沿いのすべての主要な駅で受信することができたし、各地の運用しだいで時間は支線網のずっと先までも伝えることも可能だった。

各駅の時計は、グリニッジ時に合わされ、移動中もすべての鉄道員のポケットのなかで懐中時計がグリニッジ時を告げていたのだ。中央にあるその1台の標準時計で、全鉄道網を時間どおりに運行しつづけることができるようになり、1850年代には、イギリスのすべての鉄道が同じ慣行を採用していた。

l  鉄道が普及した後もイギリスの地方時は使われ続けていた

この物語は、ここまでのところは問題なしとしよう。だが、この時点で大半の技術史はもう一歩先まで踏み込む。一般に主張されるのは、1855年までには鉄道の時間だけでなく、イギリス自体の常用時――国民全体の日常生活における時間(市民時とも言う:訳注)――がグリニッジに合わせて標準化していて、各地のさまざまな常用時は放棄されていたというものだ。

これが通常、語られる標準時の物語なのである。そこで想定されているのは、日常生活も早期導入者――この場合は鉄道会社――の慣行に歩調を合わせるようになった、というものだ。だが、その想定は間違っている。

私たちの暮らしのなかで、鉄道時間と地方時という二つの時間を使い分けて、両者のあいだで換算するのは可能だっただろう。そんなことは面倒であるように思われるが、私たちは今日二つの時間システム(12時制と24時制)をどうにか運用しており、そのためときには少しばかり暗算をしなければならない。

私たちは度量衡でも同時に二つの制度(ヤード・ポンド法とメートル法や、摂氏と華氏)を使用している。なかにはこうしたことはすべて廃止すべきだと考える人がいるのは確かだが、その議論はまた別の機会にすることにしよう。

肝心なことは、私たちが複数の度量衡制度を並行して使いながらなんとか生活しているという点だ。地方時と標準時でも同じ状況だった可能性があり、鉄道の物語を語る人が見逃しているのは、事情は同じだったということだ。地方時は実際に残りつづけたのであり、しかも1880年代まで、鉄道が走り始めてから半世紀後まで残っていたのである。

鉄道は時間を標準化するうえでは役割をはたしたが、日常生活で標準時がどう普及したかについてはもっと広範囲にわたる物語があったのだ。そして、それはヴィクトリア朝時代の道徳と電気時計設備をめぐる物語なのである。

l  1886年のロンドン一帯の時報配信先リストは何を語るか

2007年に私はスタンダード・タイム・カンパニー(STC)に関する研究プロジェクトで、電気による計時の歴史を専門にする同僚の歴史家ジェームズ・ナイと一緒に仕事をしていた。STC1876年に創立され、電気によるロンドン一帯の自動時報配信網を推進していた。

私たちのプロジェクトの途中で、ジェームズがSTC1886年の配信先リストを見つけたほか、ロンドン一帯のどこにその電信網が設置されていたのかがわかる手書きの配線図も発見した。そして、彼が金脈を掘り当てたことが私たちにはすぐさまわかった。その書類から私たちが発見したものは、電気と時間の標準化についての私たちの考え方だけでなく、ヴィクトリア朝時代の世界について、その道徳や近代性への飽くなき探求についての考え方も変えることになったのである。

l  300以上の登録客がSTCから正確な時刻を享受していた

私たちは配信先と配線図をじっくり眺め、ヴィクトリア朝時代のロンドンの古地図で細部をたどった。古い道路のレイアウトが現在の道路とどう重なるのか確かめ、STCの電信線が実際にどこを通っていたのか、数え切れないほどの市街図を調べた。市場の規模についての手がかりを求めて、通りを歩くことに時間を費やし、各会社がどれほどの大きさで、1886年にはその店舗がどれほど近代的に見えたであろうかも推測した。

そうして、数週間ほど調べ、検討したのちに、私たちはどんな事態が起きていたかを理解し始めた。

1886年には、366の別々の地点にいる300以上の登録客がSTCの電気時報ネットワークに接続され、1時間ごとに電流の急激な増加を受け、自動的に店舗内にあるすべての既存の時計の時間を自動修正してもらっていた。

これらの建物の壁に掛けられた何千台もの時計は、ロンドンのシティにあったSTCのコントロール・センターの時計から、毎時、電信網で流れてくる電気同期信号によって、秒単位で正しくセットされていた。何万もの人びとが同社の標準時を頼りに、行政、金融、通商の仕事を調整していたのだ。

l  配信先の4分の1がロンドンのパブやレストランだった

配信先の人びとの多く――銀行、取引所、手形交換所など――に関しては、彼らがなぜ正しい時間を知る必要があったのかは容易に想像がついた。だが、同社の配信先リスト全体の4分の1を占めていたのは、別のタイプの職業だった。

ロンドンの80カ所以上のパブ、カフェ、レストランが、STCの電気時報ネットワークから有料で配信を受けていたのだ。

初めのうち、ジェームズと私にはそれがなぜなのか見当がつかなかった。そこで、ヒントを探すために、私たちはこれらの標準時利用のパブのうち何軒がまだ残っているかを確かめるという目標を定めた。それはつまり、大いに歩いて、うまく見つかれば、飲めることを意味していた。期待したほどは飲めなかった。

大半のパブは、STCが株式市場で活躍した時代から、閉鎖されて久しいか、2度の世界大戦で破壊されていた。戦後の再建のなかで、パブの多くは一掃されていた。それにもちろん、私たちは開店時間である正午から夜の11時までのあいだしかパブを訪ねることはできなかったのだ。

l  アルコールに取りつかれた人々を救うための標準時

アルコール飲料の販売の制限は、イギリスのヴィクトリア朝時代の規範的法律のうちで、最も論議を呼んできたものの一つだった。禁酒史家のアンソニー・ディングルは、「ヴィクトリア朝時代の人びとはアルコールに取りつかれていた。知識人や能弁家のあいだでは、社会のなかで飲むのにふさわしい場所が熱心に、徹底的に討論されており、現代のわれわれには理解し難い」と書いた。

1872年の免許法が、大衆へのアルコールの販売時間に全国的な制限を導入した最初の事例で、それ以前や以後のあらゆる法律は言うまでもなく、この法律をめぐる討論だけでも、長く続き、苛烈なものとなった。そこには階級、自由、公衆衛生、国家権力の問題がすべて密接に関係しており、ヴィクトリア朝時代の道徳と、人間の行動を取り締まるための時計の利用に関する、またとない事例だったのである。

ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、一時性(テンポラリティ)は抑制(テンペランス)を可能にしていたのであり、酒類販売認可時間を導入することで、国家は飲酒にタイムを宣告していたのだ。

l  パブでアルコールを提供していいのは「どの」時間までなのか

だが、どの時間(タイム)なのか? 1870年代には、鉄道はあったにもかかわらず、地方時はまだイギリス全土で使われており、健在だった。「カーティス対マーチ」と呼ばれる1858年のきわめて重要なある判決が、イギリスの法廷で公式時間はグリニッジ時ではなく地方時だと裁定を下していたのである。

これは抑制・禁酒(テンペランス)の法律を制定しようとしていた人びとにとって問題だった。アルコールの販売に時間制限を設けたいのであれば、二つのことが必要になる。まずは、どこのパブでも地方時、標準時のどちらで営業するのかについて合意することだ。二つ目は、誰もがその時間を正確に入手できるということだ。認可時間を過ぎてアルコールを販売していたとして、パブの経営者を告訴するつもりであれば、時間そのものが非難の余地のないものでなければ、勝ち目はないからだ。

l  グリニッジ時がイギリス全土の標準時になった

1874年に、議会は1872年の免許法がどれだけ実践されているかを検証し、議論は厄介な時計の問題に向けられた。討論のなかである下院議員が、すべてのパブを王立天文台と接続させ、それによって時間がわからなかったという言い訳ができないようにすべきだと提案した。そのわずか2年後に、STCが創業した。このことは、同社の時報配信をそれほど多くのパブが有料で受けていた理由を説明する。

だが、二つ目の問題を解くのはもっと難しかった。それぞれの町や市の酒類販売認可時間は、地方時にもとづいていたのか、それともグリニッジ時だったのか?

ある下院議員は「この措置の実行に関連して時間を確実に統一させることには、大いに利点がある」ので、公式な酒類販売認可時間を「グリニッジの王立天文台で計時される時間に従って考えるよう」法律を改正すべきであると主張した。

その6年後の18808月に、グリニッジ標準時をイギリスの全法律の公式な標準時とし、アイルランドの法律ではダブリン標準時とすることを明記した法律がイギリスで可決されたことで、問題はようやく解決を見た。

地方時が過去のものとなったのは、鉄道がそれを使った(ことで混乱を招いた:訳注)ためではなく、1870年代に節酒を勧める改革者が時計を使って自分たちの道徳的十字軍運動を維持したかったからなのである。

 

l  「もともとは女性向けだけだった」腕時計が男性も愛用するアクセサリーになった悲しい理由戦争によって腕時計は男女兼用の製品となった

20世紀の戦争では、時刻を告げる「時計」の技術革新によって、より悲惨な犠牲が出るようになった。さらに戦争で時計が重要になったことから、それまで女性のものだった腕時計は、男女兼用の製品に変わっていったという。イギリスの技術史家、デイヴィッド・ルーニー氏の『世界を変えた12の時計』(河出書房出版)より、一部を紹介しよう――

l  時計は残虐な戦争の歴史を物語っている

時計は戦争を可能にし、戦争もまた私たちが時計を使う方法に影響をおよぼす。歴史から一つだけ事例を引くために、今日の軍事ロケットとミサイルがいかにウィリアム・コングリーヴに恩義を負っているかを考えてみよう。

1808年にロケットの飛行時間を計測する新しいタイプの時計を設計した、ロケット工学の開拓者である。コングリーヴの時計には小さな金属球が入っており、傾斜した金属板に刻まれた軌道上をジグザグに進み、軌道の終点に到達するとバネが動いて、金属板が反転してそのプロセスを繰り返す。

コングリーヴは自分の発明の正確さに多大な期待を寄せていたが、これは工学的に欠陥があって、計時装置としてはお粗末なものとなった。だが、まもなく時計学では別のイノベーションがつづき、軍事用の弾道学や爆発物の正確な発射に貢献することになった。

1970年代に、イギリスの時計製作所であるスウェイツ&リード社がコングリーヴの時計の複製をつくった。この複製はいまでは多くの博物館のコレクションで、興味をそそる過去の時計学の珍品として見ることができる。これらの奇妙な時計を見ることによって、私たちは残虐な戦争の歴史を見ているのだ。

あるいは、トマス・マーサーなどの会社の業績について考えることもできるだろう。同社は、海軍が戦争を遂行し帝国を築くに当たって、安全な航行を手助けする航海用クロノメーターを製作していたが、冷戦中に無線による位置情報の補助が優勢になると、仕事がなくなり始めた。そこで、マーサーは時代に遅れないように先へと進んだ。

イギリスのポラリス・ミサイルは標的に衝突する直前に爆発させて、破壊と人命の損失を最大限にするために起爆タイマーを必要としていた。だが、電子タイマーであれば、爆撃のなかでその他のミサイルの爆発で生じた大規模な電磁波によって破壊されてしまうだろう。

1982年に開発された戦闘にも耐えうる機械式タイマーこそ、核の時代にマーサーが寄与したものだった。これらの機械式タイマーもいまでは博物館の展示物となっているが、質素な形状であるということはしばしば見逃されてきたことを意味する。私たちはもっと注意深く見る必要がある。

l  腕時計の普及は「正確なタイミングで両手で武器を扱うため」

1947年に、マーティル・ラングスドーフが『子力科学者会報』に掲載するために「運命の時計」をデザインしたとき、彼女が描いた核の不安のシンボル――午前0時まで7分のところに合わされた時計――は、時間が急速になくなっていることを感じた世の中を表わしていた。

それ以来、時計の針は頻繁に動かされ、世界に終末が迫っていることへの懸念の度合いが反映されていた。2020123日、同会報の諮問委員会はこの世界終末時計の分針を真夜中まであと100秒にまで進めた(2021年、2022年の発表でも依然として残り100秒のまま:訳注)。これまでになく差し迫った位置だ。時計は、時間がなくなれば何が起こるかを思いださせるので、核によるハルマゲドンについて私たちに教える。

個々の時計を超えた先を見て、すべての計時装置がいかに戦争からの要求によって形づくられたか、それらがまた私たちにも影響をおよぼしてきたかを考えることもできるだろう。私たちの多くが日々身に着ける腕時計は、戦争に多くを負っている。

1899年から1902年の南アフリカ戦争と1914年から18年の第1次世界大戦のさなか、兵士たちが懐中時計を腕に巻きつけ始めた。武器が使えるように両手を自由にしたまま、攻撃の波のタイミングを計れるようにするためだ。

腕時計はそれ以前も存在したが、女性の装身具として、もしくはサイクリングや馬術を嗜(たしな)む女性によって使われるものだった。だが、戦争によって腕時計は男女兼用の製品となり、市場が倍になり、懐中時計製造業はたちまち末期的な衰退に陥ることになった。今日の何十億ドルもの腕時計産業は、2度の野蛮な戦争の背後で築かれたのである。

l  時計が戦争を効率化させ、夏時間も生み出した

さらにズームアウトすれば、私たちの多くが生活を送る時間のパターンが、いかに戦争の要求によってじかに影響を受けてきたかも見えてくるかもしれない。戦争は、世界人口の4分の1が毎年2度実施している時間の慣習に、消えることなく刻まれている。先に、夏時間について見てきた。夏季のあいだ1日のなかで目覚めている時間を少しだけ前にずらすために、時計を進める慣習である。

このアイデアを民間の奇妙な思いつきから軍事的な必要性に変えたのは戦争だった。2度の世界大戦で、軍需物資の工場がフル稼働し、照明や動力用の燃料が不足していた時代だ。私たちはここに、最も広範にわたって時計が戦争を効率化させ、それが平時のパターンもつくり変えた実例を見ているのだ。

こうした事例も、その他無数の事例もひとえに技術の発展は往々にして戦争を触媒とし、加速し、具体化してきたことを私たちに思いださせ、時計がそうしたことすべての中心にあることを示しているのである。時計はつねづね弾丸や爆弾と同じくらい、軍事兵器の一種だったのだ。だが、GPSは歴史上のどんな軍事プロジェクトにも増して時計を兵器化してきたので、衛星用の時計製作所について少々知っておくのは価値があると私は考える。

l  GPSは時計があってこそ機能している

NTS–1で使われた実験用のエフラトムの時計はおもにミュンヘンでつくられ、カリフォルニア州アーヴァインでロックウェルとエフラトムの両社によって、初期の一連のGPS衛星用に引きつづき開発された。だが、GPSは地球を周回する唯一の測位衛星ではない。ロシアのGLONASSというグローバル・システムは、サンクトペテルブルクのネヴァ川沿いの施設でつくられた時計を使っている。

ヨーロッパにはガリレオというネットワークがあり、その衛星には(スイスの:訳注)ヌーシャテルとローマを拠点とする企業がつくる時計が搭載されている。中国の北斗衛星導航系統として知られるシステムは、当初はスイスのメーカーから購入した時計を使っていたが、のちに中国航天科工集団公司によって製作された独自の時計を利用するようになった。

地域限定の小規模な測位システムも2種類存在する。インドのIRNSS(のちにNavIC:訳注)はドイツ製の衛星時計を使用していたが、中国と同様に、のちに自国製の時計を使うようになった。こちらはアーメダバードのインド宇宙研究機関によって開発された。準天頂衛星システム(QZSS)と呼ばれる日本の地域ネットワークは、マサチューセッツでつくられた時計を使っている。

これはグローバルな測位衛星の集合体のための、本当にグローバルな時計製作ネットワークなのである。合計すると100基を超えるこれらの衛星が現在、私たちの惑星の周囲を回っており、世界各地のこうした工場で製造された300台ほどのミニチュア原子時計から地球に向かって精密な時報を発信している。

l  時計の仕組みは知らずとも、何を意味するかは知るべき

これらの時計は衛星測位の受信機にその正確な位置を伝えるだけでなく、その他の無数の時計の時刻を正しく合わせるためにも使われている。これら300台ほどの時計によって刻まれる時は、これまでつくられたどんな時計にも増して多くの人のもとに到達している。

したがって、私たちはそれらの時計について知り、理解すべきなのだ。それらがどんな仕組みであるかはさほど知らずとも、何を意味するかは知るべきだ。なぜなら、20世紀の冷戦時代に考案されたこれらの時計は、21世紀の戦争をグローバルに再考する一環となっているからだ。それらは、戦争が意味するものを永久に変えているのだ。

l  21世紀の戦争と20世紀の戦争の違い

21世紀の武力紛争は、熱い戦争でも冷戦でも、20世紀の戦争のようなものではない。当時はそれぞれの境界が明白に思われた。一国が、あるいは同盟を組んだ数カ国の集まりが、別の相手と戦っていたのだ。戦争は現実に存在するものだった。交戦中の国が存在しつづけるかどうかは、勝利するかどうかで決まった。戦争も、停戦も宣言された。そこには開戦と終戦の日があった。名称があったのである。

今日、ポストモダン時代(1980年代以降:訳注)の戦争はさほど明確ではない。敵は国民や国家として定義できない相手かもしれない。テロとの戦争における敵は誰なのか? 誰が誰と戦っているのか? 戦争が終わったと――終わるとすれば――いつわかるのか? これは単に国家という枠組みが消滅したという問題だけではない。

今日の戦争では、戦闘する人びとは国家や関連の団体によって雇われた公式の軍隊ですらないかもしれない。いまでは戦争はよく「代理人(サロゲイト)」という曖昧な言葉で括られている。防衛問題の専門家であるアンドレアス・クリーグとジャン゠マルク・リックリーはこれを「テロ組織、反体制グループ、越境活動、傭兵や私兵、および警備会社」と説明する。軍隊はしばしば移動砂の上で現地の「パートナー」と同盟を結び、実際の戦闘の大半を外注する。

l  21世紀の戦争は交戦国の領土だけで起こるものではない

戦場そのものも定義するのは簡単ではない。戦争はどこで生じているのか? いまでは、たとえ交戦国の領土が明確に限定できても、もはやそこに限定されない。移動や側位、遠隔通信を可能にする電子技術――誘導ミサイル、ドローン、ロボット、衛星、携帯電話、インターネット、ソーシャルメディア(SNS、ユーチューブなど:訳注)――が紛争を新たな場所で生じさせているのだ。

ドローンならば飛行できる高高度の空域のような場所、衛星が周回する宇宙空間そのもの、それにサイバースペースだ。サイバースペースはとりわけ、代理戦争の温床となる。誰が誰かを解き明かすことは、ほとんど不可能だからだ。

このことは実際には何を意味するのだろうか? 911の攻撃後のアメリカの「テロとの戦い」は、アフガニスタンとイラクで始められた戦争だと往々にして考えられているが、2001年以降の10年間におけるアメリカの軍事活動は、イラン、リビア、パキスタン、ソマリア、イエメン、メキシコを含む各地へも向けられた。

そのうえ、これらの戦場での戦いは、戦争を世界各地の市の中心街にもち込む単発的な都市部への攻撃を伴ったほか、もっと漠然としたサイバースペースの領域への攻撃も生じた。テロとの戦いは、地理学者のデレク・グレゴリーの言葉を借りれば、「どこでも戦争(エヴリウェア・ウォー)」だったのであり、いまもそうありつづける。

 

 

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