青年家康 松平元康の実像  柴裕之  2022.11.12.

 

2022.11.12. 青年家康 松平元康の実像

 

著者 柴裕之 1973年東京生まれ。東洋大文学部史学科非常勤講師。東洋大大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。専攻は日本中近世移行期政治・社会史

 

発行日           2022.9.14. 初版発行

発行所           KADOKAWA (角川選書)

 

 

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家康は今川氏の人質ではなかった! 真実の家康像を提示する。

忍耐と家臣たちの結束で江戸開幕を成し遂げた神君・家康――しかしその従来像は「松平・徳川中心史観」、つまり歴史の結果を必然とした予定調和の産物にすぎない。果たして桶狭間敗戦後、青年期の家康=松平元康は、いかに今川家の従属から独立し敵対していったのか。同時代にみられる「戦国大名」と「国衆」との関係のあり方を踏まえつつ、父・広忠時代からの松平氏の歩みや今川義元の三河支配とその実態を徹底検証。真実の家康像を提示する。

 

 

はじめに――松平・徳川史研究の流れと本書の視点

現在の家康の人物像が根付いた背景には、天下人となった家康によって開設された江戸幕府が260年にわたって近世国家の国政を主導する政権としてあったことが深く関係 ⇒ 「松平・徳川中心史観」の下で書かれた神君・家康像と徳川将軍家創世の歴史は、日本が近代化を遂げ実証に基づいた歴史研究が進んだのちも語られ続けてきた

歴史研究の分野では、1970年代以降になって、漸く天下人への必然的な歩みを前提としない、戦国・織豊時代における松平・徳川氏の研究が本格的に取り組まれるようになった

時代や社会状況に応じた松平・徳川氏の領域権力としての姿がわかってきた

本書は、近年の研究成果を踏まえて、青年時代の家康(松平元康)の実像を明らかにすることを目的にしている。実像を探るにあたり重要な人物が今川義元で、その再評価が進み、義元が率いる今川家は戦国時代において政治・文化の最先端を極めた政治勢力であったことが明らかになっている。そうした中での元康と松平家にとって、義元との関係はどのようなものだったのか、忍従の時期とされた「松平・徳川中心史観」から脱却し、元康が父祖代々から受け継いだ岡崎領の潜在的支配権を認めざるを得なかったとする

本書で注目するのは、戦国大名と国衆の関係――戦国大名とは、1国以上の地域を領国として行政・軍事を率いる領域権力であるのに対し、国衆はより小さい行政区域を治める領域権力で、戦国大名に従属して活動していた。そうした両者の関係に注目して、今川と松平の関係を見ながら実像を捉えていくのが本書の試み

1,2章では、元康までの松平氏の歩み、特に父・広忠の時代に今川氏に従属しなければならなかった松平氏の置かれていた政治状況を見ていく 

3章では、今川義元による三河支配下での元康の立場と松平家の実態を探る

4章では、桶狭間敗戦の影響とそれがもたらした事態の中で、なぜ元康が今川家の従属関係から「独立」し、敵対していったのかを見る

最後にその果ての「戦国大名・徳川家康」の誕生について展望する

 

第一章     安城松平氏の台頭と内紛

l  鎌倉・室町時代の三河国と足利氏

室町時代の三河国の状況――畿内と鎌倉を結ぶ要衝

足利氏は、当主義兼が頼朝と母方が共に熱田大宮司家であった縁から、頼朝の鎌倉幕府を支えたが、その後継の義氏は母が北条時政の娘だったことから執権北条氏と深厚な関係を持つ幕府内有力者であり、承久の乱の恩賞により三河守護職を得る。北条氏が親しい関係にある義氏を要衝に配した。その後足利氏は幕府内での力を弱めるが、三河国は鎌倉時代を通じて足利家にとっての政治的基盤として培われていく

三河国で築かれた政治的基盤を背景に足利尊氏は1333年に倒幕勢力の追討に向かう中、後醍醐天皇方に加わり、鎌倉幕府滅亡に尽力するが、幕府滅亡後、尊氏は後醍醐天皇が主導する政権に参加するも、内部の対立から政権と抗争し、室町幕府を開設

 

l  松平太郎左衛門尉家と「家祖」親氏

戦国時代に西三河の国衆として台頭する松平家の源流は、加茂郡(豊田市)の山間部の松平を本拠に活動した松平太郎左衛門尉(じょう)家に始まる

『松平氏由緒書』によれば、先祖は在原氏か紀伊国熊野から来た鈴木氏とされ、松平に定着して裕福な地域の有力者(土豪)だったというが、土木工事に長けた「渡り集団」だった

そこに入り婿になったのが親氏(ちかうじ)で松平家の「家祖」とされるが、徳川将軍家の創業記である『三河物語』では親氏が新田源氏の末裔とされるが、『松平氏由緒書』ではただの牢浪人とされている

松平家を継いだ親氏は、中山十七名(みょう、岡崎市の山間部)に活動域を拡大したが急死

 

l  伊勢家の被官として発展

親氏の跡を継いだのが泰親で、『三河物語』では親氏の子とするが、『由緒書』では弟が名代として継いだとされる

泰親が13941428年の間に岩津(岡崎市)に進出し、若一神社の社殿建立にあたり寄進をしているが、その地を家督を継いだ親氏の2男信光に継承させている

信光は岩津を拠点に室町幕府政所の執事伊勢家の被官(臣下)となり、これまでの権益を確保したうえ、領主としての道を歩み始めていった

伊勢貞親は、室町幕府8代将軍義政の側近として活躍、1465年には謀叛を起こした「牢人」に対し、守護職が伊勢氏に応援を求め、貞親は松平信光に追討を命じている

信光は、応仁・文明の乱(146777)の際三河国内での勢力を拡大するが、1488年死去

跡を継いだのは嫡男の親長で、同じく伊勢氏の被官として京都で働く

信光を岩津松平氏とし、大給松平家(初代は乗元で加賀守、伊勢氏の被官)、大草(幸田市)松平氏など各松平一族が拮抗し合っていたようで、松平家の展開については調査中

 

l  安城松平家の祖・親忠

信光の子息からは、嫡系の岩津松平家だけでなく、親忠系統の安城、正則系統からの五井・深溝(ふこうず)といった庶家が分派していくが、後の徳川家に連なるのは、庶家の1つ安城松平家で、応仁・文明の乱の中で安城城に親忠が入ったことから始まる

1501年、親忠の死に際し松平一族・親類が連名で署判を据えた書状で、安城松平家も「一族一揆」の関係にあったことが確認できる――目的の達成を図り一族が団結した行為

 

l  「永正三河大乱」の勃発

親忠の後、安城松平家を継いだのは長忠

150608年、今川氏親とその後見役伊勢宗瑞(北条早雲)が三河侵攻。明応の政変以後も燻り続ける都の将軍家の跡目争いがそのまま持ち込まれた形となり、三河国内の義澄方勢力の敗北で終わるが、松平家では岩津松平一族が壊滅するなど大きな痛手を被り、事後対応を経て安城松平家が一族一揆の上に君臨する領域権力化を進めていく

 

l  信忠の隠退と分裂

長忠の後の3代目が信忠。長忠は隠居の後、1544年没

信忠は、壊滅した岩津松平一族の所領を併呑し、松平一族の宗家となって権力強化を図ったのが一族の反発を買い、1523年には嫡男でまだ13歳の清孝に譲ろうとするが、一族や家臣は信忠の弟の信定の擁立を求め、清孝は山中城に追いやられ、両者が分立

 

l  祖父・清康の実像

『三河物語』では家康の祖父清康(清孝)は傑出的な英雄とされるが、実像は不明

清孝は安城松平家と敵対していた岡崎松平家に接近、婿養子となることを条件に和睦し、岡崎松平氏が大草に移ったことによって岡崎の地を手に入れ、1530年頃新たに築城し、名も清孝から清康へと改め、世間からも「岡崎殿」と呼ばれる政治権力者として始動

『三河物語』では、この頃から清康が諸勢力を攻略して三河国を平定していったとするが、裏付ける資料はない

この時清康が名乗ったのが新田源氏に連なる一族の苗字「世良田(せらだ)」で、松平家の氏姓は信光の時は賀茂だったが、この時から源になった。背景等は不明だが、足利一門の新田源氏に連なる苗字を名乗ることによって、当時の社会を規定していた足利将軍家の下での秩序に自身を位置付けようとしたのではないか

また、「安城4代岡崎殿」と名乗り、自身が安城松平家の4代目の当主であることを宣言

 

l  「守山崩れ」

1535年、清康は織田信秀との戦いで尾張国守山に出陣

尾張国守護の斯波氏の家内分裂から、守護代だった織田家でも家内対立が勃発し、その関連で清康も動いたと思われるが、信定は信秀と義兄弟の関係にあったため動かず

守山に着陣したところで、清康が重臣の子に暗殺される世にいう「守山崩れ」、享年25

殺害の動機は不明だが、清康の積極策に伴う負担に家中の見直しを求める動きが極限に達した可能性が強い

 

第二章     父・松平広忠の苦難

l  松平信定の岡崎入城

清康の嫡男千松丸はまだ10歳、信秀の反攻もあって、信定が安城城から出て岡崎城を占拠、信定によって安城松平家が統合され、以後岡崎城を居城に「御城様」として君臨し、松平一族を率いる宗家として活動

 

l  再起を図る千松丸一派

岡崎城を追われた千松丸は、近在を転々としながら再起を図り、徐々に旧家臣を集めて、1537年信定を和談に追い詰める。信定は岡崎城を清康の長弟信孝に任せていたが、千松丸に明け渡す

 

l  広忠の岡崎帰還をめぐって

同年、千松丸は元服し「広忠」を名乗る

岡崎帰還を証する資料はなく、単に三河国に戻っただけの可能性もある

岡崎家当主となったのが1539

 

l  織田信秀の安城城攻撃

1538年、信定死去後の家内不安定な状況が広忠の岡崎入城へと繋がった可能性が強い

織田家では、信秀が尾張国を支配するようになり、信定の死に伴って安城城を攻撃、落城は免れたが、織田家勢力の影響が強く及ぶ地域となる

 

l  竹千代の誕生

広忠は、知多郡に勢力を張る国衆で信定と姻戚関係にある水野氏と同盟して織田氏に対抗

同盟に尽力したのが広忠の叔父の信孝(清康の弟)で、水野氏の息女於大(おだい)が広忠に嫁ぎ、15422人の間に岡崎城で生まれたのが竹千代(生年については諸説あり、不詳)

l  信孝の追放

1543年、信孝は広忠の代理で今川義元を訪ね、織田方と対峙した際の後見を要請

今川は、1536年氏親の後継が急死して跡目争いが起こり、北条市の支援も得て庶子の1人が継ぎ義元を名乗るが、長年敵対してきた武田と同盟を結んだため北条氏と敵対することになり(河東一乱)武田晴信の仲介で義元は北条氏康と和睦。東の領土が定まったことから西への勢力拡張の機会を窺っていた

l  水野家との同盟を破棄

信孝とその動きに反発する勢力との間の対立から信孝が排斥され、信孝主導で進められていた水野氏との同盟も破棄、於大を離縁・帰還

l  今川・織田両氏との対立

l  人質・竹千代をめぐって

1546年、義元が織田信秀と連携して三河侵攻に動き岡崎城に迫る。信秀は安城城を落とした後岡崎城を攻撃、翌年広忠は降伏し竹千代を人質に差し出すが、同時に今川軍に接近したことから、義元が竹千代奪還に動く

l  信孝の討滅と広忠の死

信秀は、同時に美濃国斎藤利政(後に出家し道三)とも対峙

1548年、小豆坂合戦で義元が信秀を破り、信秀は安城城だけを残し尾張に撤退。信秀に従っていた信孝も討死

今川家に従属して自らの地位を確立しようとした矢先に広忠急死、享年24

 

第三章     今川義元の三河支配と松平元康

l  竹千代の奪還と庇護

1549年広忠死去の際、竹千代はまだ信秀の下に人質で、唯一の男子だったため、松平の家臣は義元を頼って竹千代と安城城の奪還に動く

義元は織田配下の城を次々に陥落させ、安城城で捕縛した織田信広と竹千代を交換、竹千代を駿府に於て岡崎を直轄とし、東三河統治の拠点として自ら松平家の上に君臨することで松平一族・家臣を統制し、岡崎領の確保に努めた

 

l  岡崎領の経営をめぐって

松平家は、義元に従属する国衆としての立場を深めるが、こうした戦国大名が従属国衆の領国への直接管理の形態は他にも多く例がある

所領の一部は取り上げられたが、保証された所領もあり、広忠時と変わらぬ忠節を求める代わりに一定の所領は確保され、松平家臣による自律的な立場が認められた

 

l  岡崎領支配の実態と松平家臣

(領国)とは、地理的な状況と歴史展開の中で形成されたもので、戦国大名・国衆は、この領の展開の下で統治をおこなう政治権力だった。戦国大名は、国衆の従属に際して、その領で営まれてきた自治を活用して、広大な領国経営を進めていった

岡崎領支配について義元は、家臣を城代として送り込み、所領は確保され岡崎松平家の下に一族を統制して、従来通り松平家家臣によって領支配が進められた

 

l  今川氏の三河制圧過程

1550年、義元は知多郡に軍勢を進め、尾張侵攻が始まると同時に、三河制圧も進む

大給松平や足助鱸(すずき)らの反乱が続き、信長もそれに呼応して東進するが、反信長勢力の台頭で足止めとなり、今川氏による三河平定が進む

 

l  松平元信(元康)の元服と最初の文書

竹千代の人質生活は、忍耐と惨めなイメージではなく、義元の庇護の下で養育された

1555年、元服し、実名を「元信」と名乗る

岡崎領内の寺の文書には、義元から寺領を保証する黒印状をもらいながら、なお岡崎松平当主からの黒印状を要請しているものがあり、元信不在ながらも松平家の当主として認識されていたことがわかる

 

l  元信黒印状の発給者は誰か

庇護されていた元信に代わって黒印状を発給したのは、清康の姉久(ひさ)。大給松平、足助鱸に嫁ぎながら、両家対立後は戻り広忠を補佐し、元信の養育にも努めたとされる

 

l  今川家親類衆としての松平元康

1556年、元信は遠江今川家に属する関口刑部少輔氏純の娘で後に「築山殿」と呼ばれる女性と結婚。義母を義元の妹としたのは間違いだが、今川家の親類衆になったのは間違いない。氏純のもう1人の娘は、相模の北条氏康の4男氏規に嫁ぐ。元々今川と北条は姻戚

1558年には元康と名乗り、初陣を果たすとともに、岡崎松平家当主代々の官途「蔵人佐」を称し始め、今川家親類衆の岡崎松平家当主としての政治的立場を明確化する

1559年、嫡男が生まれ竹千代と名付けたが、後に織田・武田の狭間の政治状況の中で起きた徳川家内部の対立から家康によって自尽に追いやられた松平信康と同一人物

 

l  元康と重臣との関係

1559年、元康は7か条の「定書(さだめがき)」を発出、駿府に滞在しながら、岡崎領における政治運営について、松平家重臣の判断や決定に従う旨を述べ、自信の勝手な態度を戒めている

 

第四章     桶狭間敗戦と「独立」

l  今川氏の尾張侵攻と織田氏勢力内部の対立

1549年、織田家内部対立に遭って信秀は斎藤道三と和睦、嫡男の信長が道山の娘(濃姫)と婚姻

1550年、今川氏の三河侵攻が始まると、今川・織田の境界線にあった鳴海山口氏が仲裁に入って一旦両者の和睦が成立するが、また今川が動き出し、信秀死去の後家督を継いだ信長も反撃。両者とも自領内での抗争から直接対立を避け、1557年和睦を遂げる

 

l  決戦前夜の「境目」鳴海・大高両領

和睦によって信長は国内の反勢力を鎮め、2年後には上洛、足利将軍義輝とにも謁見し、尾張国の国主=戦国大名として活動しながら、今川氏との境界にある大高・鳴海両領の奪還に動き出す

 

l  給人救済の起死回生の機会となった「境目在城」

今川領内では、たび重なる軍役で窮乏した家臣が所領を売却して遁世することが横行したため、氏親の時代から1526年分国法『かな目録』で所領の売却を禁じたが、義元も同様の措置を取り、困窮した家臣に敵方と接した最前線の城(「境目在城」)の守りに就かせ起死回生の機会を与えた

 

l  義元の出陣目的

1560年、義元自ら兵を率いて尾張侵攻に発つ

上洛説は、畿内への働きかけなどの動きが資料に見当たらないところから、局地戦と捉える検討が進んでいる。大高・鳴海両領の確保が優先目的で、地域統合圏としての今川領国全体の「平和」維持に努める姿を世間に示したものとみるのが順当

既に嫡男の氏真に家督を譲り、氏真は治部大輔に任官、義元は塗輿(ぬりごし)に乗って進軍したとされるが、任官は今川氏から恩恵を受けた公卿が朝廷に働きかけたものであり、輿の使用は幕府の認可を必要とする特権だったため、それを誇示する目的があった

 

l  桶狭間合戦とその性格

今川軍の先勢(さきぜい)を務めたのが元康の岡崎勢であり、そのことから松平家が典型的な従属国衆であった姿を見ることができる

岡崎勢は、佐久間大学盛重の守る丸根砦を攻略し、大高への入城を果たす

義元は桶狭間で信長に討たれるが、鳴海城は持ちこたえて織田方と和睦、義元の首級を取り戻して撤退

桶狭間合戦は、境目の確保を巡る領土戦争=「国郡境目相論(こくぐんさかいめそうろん)」であり、戦国大名としての本質に基づいて戦われたもの。敗戦により元康も岡崎松平家の当主として自家の存立と岡崎領の安泰維持のため再出発を求められる

 

l  岡崎への帰還

今川勢撤退の中、岡崎に入った元康は、岡崎城在番衆の撤退を確認し、「捨て城ならば拾わん」として入城を果たし、直ちに領国境界への対応を図って、自ら積極的に岡崎領の支配と松平一族の統制に取り掛かる

今川氏からの干渉はなく、駿府から竹千代を残し築山殿と長女の亀姫を迎え入れている

岡崎が対織田氏勢力の最前線となったため、たびたび交戦

氏真は、この年に始まった越後の謙信の関東侵攻に対する北条・武田との共闘に集中して、西三河までは手が回らず。そうした状況の中で、元康も自家の生き残りを懸けて今川氏との従属関係見直しの決断を迫られる

 

l  今川氏への敵対

今川氏からの保護を得られない状況の中で、1561年元康はまず織田氏からの和睦申し出を受け入れるが、信長が和睦を求めたのは、美濃一色(斎藤)氏との戦いに専念するため

元康と信長が清洲城で対面したというのは史実にはない

この頃、元康が将軍足利義輝からの飛脚馬所望に応えて嵐鹿毛1匹を納めたことが資料に残され、将軍家との直接繋がりを持つことによって、今川家からの独立を示し始めていく

1561年、牧野氏の牛久保城を攻撃、反今川の狼煙を上げ、周辺の国衆にも味方するよう促したため、三河国は今川・松平両派に分裂して内乱状態に(「三州錯乱」)

 

おわりに ――戦国大名・徳川家康の誕生

l  今川家従属下における松平元康の実像

広忠に至るまでの岡崎松平家が内外で抱える不安定な事情から、その対応として、駿河今川氏へ政治的・軍事的な保護を求めるようになり、従属を強めていく

広忠の頓死によって、幼少の身で当主となった元康は人質として今川の庇護の下、駿府で育てられるが、惨めな立場ではなく当主として過ごした

岡崎松平家も解体されることなく、今川氏の直接管理下に置かれ、松平家家臣らの政治運営に任され、当主と家臣の関係は継続

元康と松平家の姿は、戦国大名と国衆との関係に基づくもの

義元の庇護の下で、元康も当主の立場を維持、松平家も存続を果たしたが、桶狭間での敗戦により、今川氏の勢威は失墜、勢力範囲は縮減し、西三河が織田氏勢力との「境目」に

元康は今川氏の承認を得た上で自ら岡崎領の保全と支配に取り掛かるが、今川の支援を得られないまま、自家の存立と岡崎領の安泰を維持するために、今川氏との従属関係の見直しを迫られ、織田との和睦を通じ今川に反旗を翻す

 

l  今川氏との戦争を続行

1562年、足利将軍義輝から今川・松平両名に対し、関東の通路を妨げないため和睦するよう指示が出されるが、両名とも従わず、膠着化した戦況が続く中、人質の交換で竹千代を取り戻す

1563年、義元からもらった「元」を捨て、家康に改名

 

l  三河平定への途

1564年、岡崎領内では、対今川氏戦争への事態対応から兵粮の強制徴収に反発した一向一揆が勃発するが、今川でも「遠州忩劇(そうげき)(遠州国の内乱)の最中であり、家康に侵攻の隙を与える

 

l  戦国大名・徳川家康となる

1566年、家康が牛久保城を抑え、「三州錯乱」を平定、三河国が松平家の領国として統合され、家康が三河国を統治する国主=戦国大名となる

家康は三河国内の秩序を打ち立て、その秩序を確固とすべく「徳川」への改姓を進め、朝廷からの官位獲得に手を打つ

「徳川」は、世良田と同様、足利一門新田源氏に連なる名字

足利将軍義輝は、三好・松永らに殺害(永禄の政変)された後、跡目争いで、弟の義昭が還俗して擁立され、各地の大名や国衆に協力を呼び掛け、いち早く応じたのが信長であり家康

家康は、近衛前久に任官を働きかけ、源から藤原に氏姓を変えて徳川とし、1567年従五位下三河守の叙位任官を認められた

 

 

 

 

 

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