一冊でわかる北欧史  村井誠人他  2022.11.13.

 

2022.11.13. 世界と日本がわかる国ぐにの歴史 一冊でわかる北欧史

 

監修

村井誠人 1947年東京都生まれ。早大名誉教授。西洋史(北欧史)専攻

大渓(おおたに)太郎 1981年新潟県生まれ。早大文学学術院非常勤講師。ノルウェー近現代史専攻

 

発行日           2022.9.20. 初版印刷          9.30. 発行

発行所           河出書房新社

 

知ってびっくり! 北欧の4つの秘密

Chapter 1           過去に北欧諸国が1つにまとまっていた?

14世紀末には、同じ王の下で連合関係にあった

Chapter 2           シェイクスピアの名作は、デンマークが舞台だった!?

『ハムレット』のモデルは、デンマークの歴史

Chapter 3           フィンランドの人々は、スウェーデン語が話せる!?

フィンランドでは、スウェーデン語も公用語とされる。5%がスウェーデン語を母語とする

Chapter 4           なぜ北欧諸国の国旗には、「十字」が使われている?

「十字軍」が結成された名残り

 

プロローグ  日本で浸透している北欧の文化

この地域のまとまりを北欧各国の言語ではいずれも「北」を意味する「ノルデン」で表す

真夜中になっても太陽が沈まない状態が見られるのは北極圏内。北極圏は北緯6633

北欧を特徴付けるのが氷河地形――雪が降り積もった大きな氷原の「氷床」の北西側の縁を、氷床が氷河となって山間を侵食しながら抜けるときに、大きなU字谷をつくり、海面が上昇すると長い湾が生じるのが「フィヨルド(峡湾)」で、最長のソグネ・フィヨルドは200km

北欧は、同緯度の他の地域に比べて最も平均気温が高く、デンマークは西岸海洋性気候の中にあり、スカンディナヴィア半島の西岸にもその海洋性気候が及び、海が凍らない

北欧の範囲は、5か国に加えて自治が認められているデンマーク領のグリーンランドとフェーロー諸島、フィンランド領のオーランド諸島が含まれる

デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの3王国は立憲君主制、フィンランドとアイスランドは共和制。言語ではフィンランドを除く各国の公用語は、インド・ヨーロッパ語族の北ゲルマン語群(ノルド諸語とも)に属し、フィンランドではウラル語族のフィン・ウゴル語派に属するフィンランド語が使われるが、長くスウェーデンに組み込まれてきたために、西岸・南岸中心にスウェーデン語系住民が存在するためスウェーデン語も公用語とする

スカンディナヴィア3国として3王国を指すのは、スカンディナヴィア半島南端のスコーネ地方が1658年までデンマークに属していたためで、スコーネが語源

 

Chapter 1        ヴァイキング時代

l  先史時代のスカンディナヴィア

スカンディナヴィア半島に人類が居住し始めたのは約12000年前、地球の寒冷期が終わったころから、気温の上昇と共に植物が北へ分布を広げるとともに動物も移動

気温上昇と共にスカンディナヴィアがユトランド(ユラン)半島から離れ、バルト海が誕生

ノルウェー最北部の「アルタの岩絵」は、BC4200BC500年にトナカイ狩りの様子や人々が乗った船などが岩の表面に描かれたもので、ユネスコの世界文化遺産

l  ローマ人との接触

BC1000年頃からスカンディナヴィア南部に進出したインド・ヨーロッパ語族に属するゲルマン人が、1世紀にはローマ人との間で活発な交易をおこなう

先住民はサーミ人と呼ばれ、『アナと雪の女王2』に登場する架空の民族のモデル

ゲルマン人が、ローマ人が放棄したブリテン諸島に移り、その後に北ゲルマン語系の人々が定住

l  専業の海賊ではなかった

811世紀にかけて、スカンディナヴィアの人々は、ヨーロッパ各地に船で出かけ、海賊として恐れられたが、実際には農民であり、捕鯨者、商人、傭兵が多い

l  遠征に適していた船

海洋国家として、すぐれた造船・操船技術を武器にヨーロッパ各地へと遠征し、海の覇者になっていく

l  ノルウェー・ヴァイキング

793年、初のヴァイキング襲撃が、イングランド北部の修道院に記録されている

9世紀後半、ノルウェーに最初の王朝成立――スウェーデンの名族イングリング家の末裔といわれるハーラル(美髪王)がノルウェーを統一

l  ヴァイキング時代のアイスランド

870930年、ノルウェーからアイスランドへの入植――1874年にアイスランドで植民後1000年祭挙行

l  デンマーク・ヴァイキング

9世紀初頭のデンマークを支配していたのはデーン人で、強大なフランク王国との境界線に土塁を築いて防備。土塁「ダーネヴィアケ」はユネスコの世界文化遺産

l  スウェーデン・ヴァイキング

東に向かい、フィンランド、ロシア、ウクライナなどに進出

東ローマ帝国のコンスタンティノープルへもイスラム銀貨を求めて遠征

l  スウェーデンの統一

10世紀後半に統一したのがエーリック(勝利王)で、イングリング朝を創設

l  ヴァイキング時代のフィンランド

ヴォルガ川流域の住民が西進して、3つの地域に分散して定住

l  ヴァイキングの文化

アース神の存在を信じている

ルーン文字を使用――ルーンは「神秘」を意味し、主に儀式で使われた

l  北海を挟んで形成された王国

1013年、イングランド王位が空くとスヴェン王が即位、その息子クヌーズに引き継がれ、デンマーク、ノルウェーと勢力を拡大するが長続きせず

l  ヴァイキング時代の終わり

1066年イングランド軍に敗れて撤退してヴァイキング時代は終わりを告げる

 

北欧の偉人① 赤毛のエイリーク(950ごろ~1003ごろ)

ノルウェーかアイスランド出身のヴァイキング。982年に殺人で追放刑を受けアイスランドを離れ無人島へ、島をグリーンランドと名付けて入植者を募る

 

Chapter 2        内乱から王国の統一へ

l  キリスト教の伝来

9世紀にキリスト教伝来するが、当初多神教のアース神信仰と対立

王は自身の権力強化のためにキリスト教を活用、王権の確立とともにキリスト教も拡散

抵抗が強かったのはスウェーデンだが、次第に布教が進み、北欧独自の教区を樹立

l  北欧とハンザ同盟

11世紀ごろから、バルト海を超えた東方へのキリスト教布教と共に、各地に教会が建てられ、同時に商人の活動範囲も広がり、主要都市ごとに商人がギルドを結成し、「ハンザ」と呼ばれるようになる――バルト海沿岸や北海沿岸の諸都市同士同盟を結成

l  ハンザに取り込まれた経済

各地にハンザ同盟が出来ると、外部の商人に依存せず成立していたデンマークやノルウェーの経済もハンザ同盟によって解体され、その経済圏に組み込まれていく

l  内乱の中から王権が成長

1113世紀のスカンディナヴィアでは内乱が頻発するなか、君主が豪族を従えて地方を統治するシステムが確立されていく――地方の豪族の中から「貴族」(領主)という身分が生まれ、王が臣下を貴族と認めその権利を守る

l  ヴァルデマ時代

デンマークの王位継承争いで最後に残ったのがヴァルデマ1世で、4世までの200年間平和が続く――ヴァルデマ時代

l  王が治める領地がない

ヴァルデマ2世の時代には神聖ローマ皇帝からエルベ川以北の地の支配者として認められ

1286年、浪費をカバーするために王が有力者から自分の領地を担保に金を借り、徴税権を放棄したため、王には治める領地がなくなる事態に

l  偉大なノルウェー王

ノルウェーでも王権を統一する動きは鈍く、しばしば内乱状態にあったが、1217年スヴァッレ朝のホーコン4世が正統な王位継承者と教会に認められ内戦が終結に向かい、世襲王制が確立、イングランドやハンザ同盟と通商協定を結んで国が栄える

l  王国参事会の設置

1112世紀のスウェーデンも内乱の時代

2つの家系が交互に王位に就くとともに、王国参事会を常設の機関として、王権の強化が図られる

l  フィンランドの形成

12世紀にはキリスト教化と毛皮の獲得のため、スウェーデンの北方十字軍がフィンランドの南西部を支配下に置き、1240年にはさらに東方へ進撃するが、東方正教会を信奉するノヴゴロド公ネフスキーに阻まれ、同地域はモスクワ大公国を経てロシア帝国となる

1323年にはドイツ商人の仲介によりスウェーデンとノヴゴロドとの間に線引きができ、北欧という地域の東側の境界が明確となる

徐々にフィンランドの地位が向上、スウェーデンの内乱をきっかけに自治が始まり、司教座も置かれて独立した司教管区となっていくが、支配層はスウェーデン出身者が占める

 

北欧の偉人② サクソ

書記としてロシア大司教に仕え、ラテン語でデンマーク人の歴史を書く

コペンハーゲン大学の歴史学科は、サクソ研究所という

 

Chapter 3        カルマル連合

l  人口減で財政難

1113世紀は産業の発展により人口が増加していたが、1300年頃から厳しい気候にあって減少に転じ、1416世紀には黒死病でさらに拍車がかかる

人口減少が王国の財政を圧迫したため、関税の徴収を始めるが、王国参事会が中に入って有力貴族による緩やかな連合状態を保持。そこに乱入してきたのがイングランドやフランドル地方の商人

 

l  新たな同君連合の誕生

3王国の王位継承の中で、お互いにカバーし合っていく中で同じ君主を抱く同君連合状態になる

 

l  デンマークの再興

1340年、ヴァルデマ4世が即位すると、ドイツ人の支配から国土を取り返して統一したので、再興王と称されるが、ハンザ同盟と対立して敗れ、和議が結ばれ、ハンザ同盟のバルト海における自由な交易が保証される

 

l  3か国連合が誕生――カルマル連合

1397年スウェーデン南部のカルマル城にスカンディナヴィア3国が会し、ヴァルデラマ4世の娘でノルウェー王妃となったマルグレーテの養子ボンメルンを共通の王として推戴することとなり、カルマル連合誕生。3国は独立した王国として統治される

 

l  動揺する連合

ボンメルンは、ハンザ同盟や南の国境をめぐってドイツ諸侯との戦いが始まる

 

l  連合の崩壊

1523年、スウェーデンは新たな王グスタヴ1世を迎えてヴァーサ朝が始まり、カルマル連合は崩壊

 

l  フィンランドとアイスランド

フィンランドは、グスタヴ1世治世下でスウェーデンの支配が強化され、アイスランドは自前の船を所有していないところから、地理的に近いイングランドなどから漁船が入港し、新たなタラの漁場を開拓

 

l  今に伝わる北欧文学

代表的なものは散文学「サガ(サーガ)」、「言われたこと、語られたこと」の意で、多くは作者不詳、アイスランド語で13世紀に主に書かれ、数百点が現代に伝わる

体系的な教育機関の整備はキリスト教の普及とともに進み、北欧最古のウップサーラ大学は1477年聖職者の教育機関として創設

 

北欧の偉人③ 聖ビルギッタ

カトリックでは死後に「列聖」されるが、1391年スウェーデンで初めて女性で列聖され、ヨーロッパ6守護聖人の1

ウップランド地方の名家の生まれで、夫の死後慈善活動で有名となり、スウェーデンに修道院を創設する許可を得る。実際に作ったのは娘で初代院長となる

 

Chapter 4        バルト海の覇権をめぐって

l  北欧に波及する宗教改革

1517年、ドイツのヴィッテンベルクの教会でルターの宗教革命が始まるが、当時北欧の神学生のほとんどが同地で学んでおり、彼らが帰国してルター派の教えを伝えた時期は、北欧の王家が新教導入を進めることでカトリックからの影響を脱し、王権の強化を求めた時期に重なる

 

l  スウェーデンの宗教改革

1523年、カルマル連合から脱したスウェーデンでは、グスタヴ1世が教会資産を没収し、ローマ教会から独立を果たす。フィンランドでも同様にカトリックの影響が除去される

 

l  伯爵戦争とデンマークの宗教改革

カトリック教会を支持する国王のもとでルター派の貴族との争いが内乱(伯爵戦争)に発展、スウェーデンの助けも借りてルター派が勝利、宗教改革が進むとともに、ハンザ同盟も衰退に向かい、バルト海にはオランダの商船が進出

 

l  ノルウェー・アイスランドの宗教改革

ノルウェーでは、独立の動きが封じられ、教会領もデンマーク王の所有とされ、デンマークから強制される形で宗教改革が進むが、独自の行政は機能

アイスランドでも、教会領がデンマーク王に没収され、デンマークから強制される形で宗教改革が進む

 

l  宗教改革と国語

聖書の翻訳を通じて北欧各国の言語が発達。庶民の識字率も向上し、言語を通じて国民意識も形成

 

l  バルト海を舞台とした争い

ロシアが西方への領地拡大を目論み、ドイツ騎士団領だったバルト海に面するリヴォニア(現在のラトヴィアとエストニア)に圧力をかけてきたのに対し、スウェーデンとポーランドが防衛に動き、以後スウェーデンとポーランドがバルト海東岸を巡り勢力争いを始める

ロシアとの緊張関係が高まると、スウェーデンはフィンランド湾を封鎖し交戦状態に入ると、封鎖で通商を妨げられたハンザ同盟やデンマークがスウェーデンに敵対、1563年北方7年戦争開始。ロシアとスウェーデンの争い(リヴォニア戦争)はその後も継続、スウェーデンはフィンランド湾沿岸を勢力圏に収め、ロシアのバルト海進出を阻止

 

l  才能あふれる2人の若き王

スウェーデンでは、グスタヴ2世が王権強化に努めつつ、中央集権化と身分制議会を確立

デンマーク=ノルウェーでもクリスチャン4世が国力増進に貢献、『ハムレット』の城のモデルとなったクロンボー城を再建、オスロを発展させ1924年まではクリスティアニアと呼ばれたが、アイスランドはデンマークの特定商人に貿易独占権を与えたため打撃

 

l  30年戦争と北欧諸国

1618年、ドイツで教会の新旧勢力が激突し戦争に発展、1625年新教勢力の要請に応じてクリスチャン4世が遠征するが、ドイツ軍に敗れ、以後関与しないことを条件に講和

1630年には、バルト海に進出しようとする旧教勢力に脅威を感じたグスタヴ2世がフランスの支援を受けて参戦、グスタヴ2世は2年後戦死するが、最終的にはデンマークも破って、1648年のウェストファリア条約締結により、スウェーデンはバルト海における覇権を確立、クリスチャン4世は戦死

 

l  バルト海帝国

1654年、スウェーデンはドイツのプファルツ家から従兄弟を王を迎え(ファルツ朝)、ポーランド、デンマークと戦って領土を拡張、18世紀初頭までバルト海周辺を大貴族の領土で固め、「バルト海帝国」を築くとともに、徐々に王領地を回復し絶対旺盛をスタートさせる

 

l  デンマークで絶対王政が確立

スウェーデンとの間にスカンディナヴィア半島南端部や島嶼部を巡る領土争いを続けるが、敗戦を機に国王との一体感を持った市民の側から王位の世襲制の提案があり、1660年絶対王制が成立、身分制議会に代わって官僚制度が整備

同時にノルウェーも双子の兄弟国と呼ばれるようにデンマークと同等の地位を与えられ、1687年にはノルウェー法制定、中央集権化が進む

 

l  スウェーデンの最盛期が終わる

1700年、大北方戦争開始――スウェーデンの周辺国による対スウェーデン包囲網ができ、国王が負けてオスマン帝国に逃亡すると、本国以外の領土をすべて失う

ロシアのピョートル大帝はバルト海進出を目論んで、1712年サンクト・ペテルブルクを建設。フィンランド全域も占領されたが講和で取りもどす

バルト海帝国崩壊に代わって勢力を伸ばしたのがプロイセンとロシア

 

l  ムッサ党とハット党

スウェーデンでは国王の逃亡により貴族に実権が移り、絶対王制が終了、「自由の時代」が到来、身分制議会が権限を持つ

ハト派ムッサ(ナイトキャップの意)党と、親フランス派で反ロシアのタカ派ハット党が対立、タカ派が勝って1741年対ロシア戦争を起こす(ハット党戦争)。敗戦によりロシアの姻戚を将来の国王とすることになり、1751年ホルシュタイン=ゴトープ朝が始まる

 

l  デンマークとロシア間の領土問題

ロシアのエカチェリーナ2世の即位で、ロシアとデンマーク間に領土交換条約が結ばれ国境が安定

 

l  大北方戦争後のデンマーク

1721年の大北方戦争の終結以後、対外不干渉政策を堅持するが、次第にドイツ勢力が力を持つ

 

l  ノルウェーで育まれた愛国心

デンマークの対外政策の下で、実質的にその従属国だったノルウェーも平和で豊かになると、自国の自然科学や歴史を見つめ直す動きが出て、1760年にはノルウェー学術教会の前身が発足するが、両者ともお互いを兄弟民族と感じていて、独立までには至らず

 

l  自由の時代の終わり

1771年、スウェーデンではグスタヴ3世がクーデターを起こし絶対王制に復帰

外交では中立の立場をとり、アメリカの独立戦争では武装中立同盟に参加、1783年には中立国では初めてアメリカを承認

国民の不満の高まりとともに対外強硬策に転換、親フランス路線を強硬に打ち出し、1788年にはオスマンと交戦中のロシアに侵攻、1790年フィンランドへの不干渉を勝ち取る

 

l  北欧諸国の植民地

1718世紀、北欧諸国も植民地獲得に乗り出す

デンマークはアフリカのギニア湾沿岸、西インド諸島、インドやグリーンランドを植民地とし三角貿易や奴隷貿易で利益を上げるが、1792年世界初の奴隷貿易禁止法公布

スウェーデンは、アフリカ大陸や北米、西インド諸島に植民地を保有

1840年以降両国とも植民地を売却

 

l  北欧における学問の発展

1618世紀、科学を始めとした学術研究が北欧でも活発化、次々に王立アカデミー設立

1640年にはフィンランド最古の大学トゥルク王立アカデミー(現在のヘルシンキ大学)

天文学では、後にケプラーに受け継がれるブラーア(デンマーク)、セルシウス(スウェーデン)などが輩出

 

北欧の偉人④ リネー(リンネ)

スウェーデン出身の医学者・植物学者で、動植物の分類に「二分法」を確立――「分類学の父」と呼ばれ、1735年に動物・植物・鉱物という3界の種を「綱(こう)・目(もく)・属・種」に分けた『自然の体系』を出版、動植物に関しては属名と種名を組み合わせて学名を表記することとした。植物においては雄しべと雌しべの形状や数で分類する方法も導入

 

Chapter 5        国民国家の形成

l  ナポレオン戦争と北欧

1789年のフランス革命とともに、北欧の国家間の枠組みに大きな変化がもたらされ、その後の北欧の歴史的な軌道が決定づけられていく

 

l  デンマーク vs イギリス

1800年、イギリスが英仏海峡の航行に制限をかけようとしたため、プロイセン、ロシア、スウェーデンと共に武装中立同盟を結成、イギリスはデンマークに主力艦隊を向ける。冬季は港の凍結でバルト海岸諸国の協調が機能せず、イギリスの圧勝に終わる

トラファルガーで敗れたフランスがロシアを誘って大陸封鎖例に出ると、イギリスはデンマークの海軍力に目をつけるが、イギリス支配下に入ることを嫌ったデンマークとの交渉が決裂すると、イギリスがコペンハーゲンを襲い海軍を壊滅させたため、デンマークはフランスに接近。イギリスの封鎖でデンマークでは経済状況が悪化し破産に追い込まれる

 

l  ロシアに占領されたフィンランド

1808年、ロシアがフランスとの講和条件に基づいてスウェーデンを攻撃(2次ロシア・スウェーデン戦争)、フィンランドを占領、首都サンクト・ペテルブルクを囲む要衝としてスウェーデンから正式に割譲させ、フィンランド大公国へと移行

 

l  母国を敵に回した元フランス軍元帥

スウェーデンは、フィンランドをロシアから奪還するためにフランスに接近し、ナポレオンの片腕だったベルナドット元帥を後継者のいないままに亡くなった国王の後に据える

ナポレオンのロシア遠征失敗後の対仏大同盟に参加しながら、フィンランドは諦め、デンマークを攻めてノルウェーを割譲させる

 

l  スウェーデンとの同君連合

ノルウェーでは、デンマークがスウェーデンに割譲したため、独立の動きがみられたが、承認する国はなく、スウェーデンがノルウェー国王を兼ねる同君連合となる

 

l  フィンランド大公国

1809年、ロシアのアレクサンドル1世がフィンランドの身分制議会を召集、自らが大公となって、ロシアとは別個の政治体制とすることを宣言、旧来の政治体制などが維持

フィンランドでは、農民に自由な土地所有が認められ、身分制議会にも代表者が送られていた――1861年ロシアでの農奴解放の手本になった

 

l  民族ロマン主義の影響

従来の領土関係の変化とともに、「民族」としての歴史的な個性に関心が移る

デンマークにドイツのロマン主義がもたらされると、神話の世界が拡散、北欧の過去を扱った文学作品が数多く生み出され、「文学の黄金時代」を迎える

民族ロマン主義が、社会や政治にも影響を与え、デンマークのドイツ性に疑問を持つ

 

l  ロシア化に備えよ

フィンランドでも独自の民族としての意識が高まり、従来知識層で用いられたスウェーデン語を、大衆の使うフィンランド語に代えようとする動きが広がる

スウェーデン語は今でも公用語として残る

当時のフィンランドの文学で残るのが、ルンロートの『カレヴァラ(カレワラ)』で、人々の伝承を1つの叙事詩に再編したもので、フィンランド人の民族意識の重要な部分を形成

 

l  ノルウェーの書き言葉は2種類

ノルウェーでも民族伝承を集めた『ノルウェー民話集』が大きな反響を呼び、言語も書き言葉が従来のデンマーク語からノルウェー人の話し言葉に代えようとする動きが出て普及するが、今でもデンマーク語の書き言葉は残る

 

l  政治的スカンディナヴィア主義の原点

ウィーン会議で唯一敗戦国として参加したデンマークは、ノルウェーを失う代償として北ドイツの小さな公爵領が与えられ、新設のドイツ連邦の構成員となる

デンマークは、独自の王国と3つの公爵領を同一君主が治める複合国家だが、スリースヴィ公爵領とホルスティーン公爵領ではデンマークから切り離してドイツに帰属させようとする動きが出る(シュエースヴィヒ=ホルシュタイン主義)

デンマークの中で最もデンマーク的でないスリースヴィをデンマークに結び付けて置くために、スカンディナヴィアで最もスカンディナヴィア的でないデンマークが、ノルウェー、スウェーデンとの連帯を必要として生まれたのが「政治的スカンディナヴィア主義」で、デンマークの勝手な事情であり、スウェーデンやノルウェーの思惑は異なっていた

 

l  デンマークの絶対王政の終わり

スリースヴィ問題が流動的なまま、1849年デンマークでは憲法制定議会選挙を経て自由主義憲法が制定され、180年の絶対王制に終止符が打たれる

 

l  クリミア戦争とスウェーデン

1853年、オスマンとロシアが開戦すると、英仏がオスマンを支援して参戦、スウェーデンは中立を宣言するが、英仏からの軍事支援を取り付け、フィンランド奪還を目指してロシアに宣戦布告しようとした直前で講和成立

 

l  分裂するフィンランドの民族主義

フィンランド国内ではスウェーデン復帰の声はほとんど上がらず、民族主義が芽生える

大公国の中では、ロシアの治世下で諸制度の近代的な改革が進む

 

l  デンマークの敗北

デンマークでは、国王の跡継ぎ問題でグラグラしている間に、プロイセンとオーストリアの干渉を招き、1864年には3公爵領をすべて失う

 

l  イギリス向けの食糧供給地

18世紀イギリスに端を発する産業革命が、1830年頃には全ヨーロッパに広がり始め、1870年頃からは北欧へも浸透

北欧は専らイギリスへの小麦や酪農製品の供給基地化して、1914年デンマークにおける輸出品の約90%が農産物で、うち60%がイギリス向け

 

l  鉄産出国の地位を取りもどす

スウェーデンでは木材加工業や鉱業、機械工業が発展

低コストの製鉄技術の開発により、国内の大鉱脈を利用して、鉄産出国としての地位を復活させる――1888年保護関税導入により、国内向け消費財の国産化を決める

 

l  森と海の恵みを活かす経済

ノルウェーの主要産業は、漁業や鉱業、林業――特に林業は第1次大戦の復興特需で大きく発展。漁業も火薬を使った捕鯨銃の開発で世界の鯨油生産の80%を占めた

フィンランドも、経済活動はロシアの制限を受けず、帝国内で最も発展した地域となる

1873年にはデンマークとスウェーデンでスカンディナヴィア通貨連合が結ばれ、統一通貨のクローネが導入され、1875年にはノルウェーも連合に加わる

1次大戦とともに、通貨制度は各国別々になるが、フィンランド以外の4か国の通貨はクローネと呼ばれる

 

l  アメリカへ渡った北欧人たち

1850年代、北欧からのアメリカへの移民が本格化――スウェーデンからは人口の1/5が、ノルウェーでは1/3がアメリカにわたる。ミネソタやイリノイなどに多く入植し、今では自らのルーツが北欧にあると考えるアメリカ人は10百万に上る

 

l  世界に知られた北欧の文化人

ロマン主義の影響が色濃く支配し、デンマークの哲学者キアケゴー(キルケゴール)、ノルウェーの劇作家イプセン、スウェーデンの劇作家ストリンドバリ(ストリンドベリ)らを輩出。スウェーデン出身の化学者ノベッル(ノーベル)は死後にノーベル賞を残す

 

北欧の偉人⑤ H.C.アナセン

ハンス・クリスチャン・アナセン(アンデルセン)はデンマーク出身の詩人・童話作家。1956年には児童文学を対象に国際アンデルセン賞設立

 

Chapter 6        中立への模索

l  フィンランドで大ストライキ

1894年、露仏間にドイツを仮想敵国とする同盟が締結されたのを機に、ロシアではフィンランドをロシア化する動きが出て、軍隊制度も大公国の国民がロシア軍に徴兵されたため、フィンランド国内では大規模ストライキに発展したため、ロシアも旧来の身分制議会に代えて近代的な国民議会が誕生、フィンランド国民の政治参加の意識が高まる

 

l  アイスランドの自治

19世紀に入ると、アイスランドでも民族的自立の気運が高まり始める

1843年にはアルシング(議会)が再興、1854年にはデンマーク商人の貿易特権が廃止され、1874年デンマーク憲法に付随する形でアイスランド憲法制定

 

l  スウェーデン=ノルウェーの連合解消

ノルウェーでも独立の気運が高まり、1905年には同君連合を解消、スウェーデンからの分離独立が平和裏に実現、新たにデンマークからイギリスと姻戚関係にある国王を迎える

1893年に北極探検を成功させたノルウェーの探検家ナンセンが、世界に母国の独立を訴えたのが効果をもたらす。アームンセンも1911年に人類初の南極点到達を実現

 

l  小国中立の苦悩

地政学的に列強同士の綱引きに巻き込まれやすいデンマークは、第1次大戦中中立を守る

ロシアがバルト海から外に出るときの海峡横断の際は、デンマーク人が水先案内人となる

 

l  スウェーデン政治の改革

19世紀のスウェーデンでは、中世以来の身分制議会の改革が課題で、1866年身分を問わない2院制の議会へと変わり、農民の代表が多く当選

19世紀後半には労働者によるストライキも発生、普通選挙運動も活発化

 

l  ヨーロッパ初の女性参政権

20世紀に入ると北欧各国で新たな議会制度や選挙制度が施行

1906年、フィンランドで男女の選挙権、被選挙権が認められる。女性参政権はヨーロッパ初であり、被選挙権も含めた完全な参政権は世界初。以後北欧各国で導入が進む

 

l  緊迫する国際関係の中で

20世紀初めの緊迫するヨーロッパ情勢の中で、北欧各国の基本的な立場は中立で、その維持に腐心

 

l  揺らぐ北欧の中立

1次大戦開戦の際、改めてスカンディナヴィア3国は中立を宣言(マルムー宣言)

両陣営の狭間で苦しい対応を迫られながら、何とか中立を保ち続けて大戦を切り抜ける

 

l  フィンランドの独立と内戦

1917年、ロシア革命を機にフィンランドは独立を宣言、ソ連も民族自決をスローガンとしていたため、独立を承認したが、労働者階級が社会主義革命を望んで赤衛隊を組織、資本家階級の白衛隊と対立し内戦に発展、1919年共和国として再出発

 

l  北部スリースヴィの再結合

ドイツの敗戦で、デンマークは北部スリースヴィの再結合実現のチャンスと捉え、帰属を決める住民投票を実施、1920年に北部一帯がデンマークに再結合され、新たな境界線が引かれる

 

l  平和裏に解決した2つの領土戦争

ノルウェーに対してもドイツの無制限潜水艦戦で受けた打撃に報いるために、石炭鉱床のある北極海のスヴァールバル諸島がノルウェー領に編入

 

l  フィンランドと東カレリア問題

ロシア領カレリアは、叙事詩『カレヴァラ』の収集の地として、フィンランド文化のルーツの地と見做されているが、ソ連は自治を認めるとしたため、フィンランドも納得したが、1921年カレリアにソヴィエト制を導入したため、フィンランドが反発し、しこりを残す

 

l  アイスランドの主権を承認

1904年、デンマークによる総督制が廃止され、独自の行政府がスタート

1918年、民族自決が追い風となって連合条約が結ばれ、デンマークとの同君連合だったが、主権と独立が認められ、「アイスランド王国」が誕生

 

l  国際聯盟での北欧諸国

1920年、国際連盟設立に際し、スカンディナヴィア3国は加盟

国際機関の下での集団安全保障制度の確立を目指し、軍縮を主導して各国に働きかける

スウェーデンの尽力で、ドイツが国際連盟に加盟し、国際社会への復帰を果たす

1930年には、ヨーロッパの小国群として、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクとスカンディナヴィア3国とが「オスロ・グループ」を結成し、国際連盟の内外で連携を強め、自由貿易の促進を図る。フィンランドも準加盟国として参加

 

l  バルト海中立化構想

国際連盟に加盟していないソヴィエト・ロシアのバルト海での脅威に対抗するための集団安全保障体制として提唱されたのが「バルト海中立化構想」だったが、英仏も含めた各国の思惑が一致せず頓挫、1934年ソヴィエトの国連加盟で安全保障は国連に委ねられた

 

l  世界恐慌に襲われる北欧

1929年の世界大恐慌は、北欧では農民への打撃が深刻――海外からの輸入品に怒りの矛先が向けられ、社会の右傾化(保守化)が進む

 

l  福祉国家としての芽生え

1930年代後半になって不況の波が去ると、右傾化の反動として革新政党が政権の座に就き、現代にも繋がる福祉政策が推進される

北欧各国で社会保障制度の拡充が図られる

1924年、デンマークでは世界初の女性閣僚誕生

スウェーデンでは1932年に社会民主労働党の政権が生まれ、国家を1つの家に、国民を家族に見立てた「国民(人民)の家」というスローガンを掲げて強者と弱者の区別なく、すべての国民が幸福を享受できる社会の実現を目指す

 

l  近代国家の中のサーミ人

スカンディナヴィア半島北部に生活するサーミ人に対して各王国の支配は緩く、国境を越えたトナカイの遊牧が認められていたが、19世紀に入ると近代国家から排斥されるようになる。第2次大戦後、サーミ人は1つの先住民族としての意識を高め、1956年には国境を越えて「北欧サーミ評議会」を創設し、独自の存在と文化を認めさせている

 

l  ノーベル賞の創設

1901年、第1回ノーベル賞授与――対象は、物理、化学、整理・医学、文学、平和

経済学賞は、1968年スウェーデン銀行の設立300周年記念で創設

平和賞のみ、ノルウェー評議会が授与するが、スウェーデンと同君連合を組んでいたことの名残かも

 

l  20世紀前半に活躍した北欧出身者

学術分野ではデンマークの理論物理学者ボーアが際立つ。量子力学の父

音楽ではデンマークのニールセン

 

北欧の偉人⑥ シベーリウス

《フィンランディア》作曲当時、フィンランドはロシア帝国内の大公国で、祖国の独立を求める人々を勇気づけ、民族意識を大いに高めた

 

Chapter 7        2次世界大戦

l  北欧に再び迫る大戦の足音

1936年、オスロ・グループの名義で、国際連盟が定める侵略国への制裁義務を留保する声明を出し、国連による集団安保体制に見切りをつけ、中立路線への復帰をはかる

 

l  フィンランド vs ソ連

北欧4か国は、比較的充実していたスウェーデンの軍事力を前提に、バルト海の中間に位置するオーランド諸島の要塞化を図り、中立同盟を結ぼうとしたが、ソ連が要塞化に反対

北欧経由でのドイツの侵入を警戒したソ連が、国境付近の領土割譲を要求、フィンランドが拒否したため、1939年ソ連が侵攻を開始(冬戦争)、ソ連は国連から追放され、英仏の介入でソ連も休戦に応じるが、カレリアを中心に領土の1/10を割譲させることに成功

 

l  デンマークにドイツ軍が侵攻

1939年、デンマークはドイツと不可侵条約を締結するが、スウェーデン産鉄鉱石の輸出港だったノルウェー制圧を期して1940年ドイツはデンマークに侵攻、デンマーク国王は流血を避け数時間後には降伏

 

l  ノルウェー政府がロンドンに亡命

ドイツのノルウェー侵攻も同時に開始、フィヨルドで善戦している間に国王は内陸部に退避、姻戚だったイギリスの支援も受けて2か月間抗戦を続けるが、英軍が態勢立て直しのため引き揚げることとなり、国王も共にロンドンに亡命し、国内ではナチスの操り人形の政権が支配、国王はロンドンからレジスタンスを指揮

 

l  フィンランドの「継続戦争」

フィンランドはソ連への警戒からナチスと密約を結び、ドイツ軍の領土内通過を認める

1941年、独ソ戦開始に際し、ソ連はドイツ軍駐留を理由にフィンランドを空爆、第2次フィンランド・ソ連戦争が始まる(冬戦争から継続している戦争なので「継続戦争」と呼ばれる)。イギリスは、結果としてドイツを利する継続戦争に対し、フィンランドに休戦を求めたが、フィンランドが拒否したため宣戦を布告。ソ連が巻き返してカレリアに進出したため、’44年フィンランドは休戦。連合軍に敗れた形となり国境は冬戦争終結時で確定

 

l  ノルウェー、デンマークでの抵抗運動

ノルウェーでは’43年ごろからミーロルグと呼ばれる地下軍事組織の活動が激化、レジスタンス活動の成功例として伝えられる

デンマークでは、政府の迅速な決断の見返りとして内政不干渉が約束され、占領軍が駐留してはいたが形式的ではあるものの独立が維持される。’41年には防共協定に加盟

‘43年のソ連の反転攻勢を機に抵抗運動が活発化したため、ドイツの軍政下に入れられる

ドイツ降伏の2日前に占領軍がイギリス軍に降伏、解放政府が樹立され、連合国はドイツへのレジスタンス運動を評価し、建前上は中立だったデンマークを連合国として扱う

 

l  交戦国との関係に悩むスウェーデン

スウェーデンは、他国からの侵攻を受けなかった分、中立国として戦争当時国との関係に悩まされる――冬戦争では同志を助けつつソ連との関係悪化回避のため、「中立」ではなく「非交戦」の立場をとり、交戦国への支援は義勇兵の派遣という形で行う。デンマークやノルウェーに対しても、ドイツの占領後はドイツの領内通過を認めつつも、両国への支援も行なう

ドイツ軍の劣勢が明らかになると、連合国からの要求に対して譲歩

 

l  ユダヤ人を救ったスウェーデン人

ドイツの反ユダヤ政策に敢然と立ち向かった1人がヴァッレンバリ(ワレンバーグ)で、'44年アメリカ主導でユダヤ人救済を目的とした戦争難民局が創設されると、中立国のスウェーデンも積極的に協力するなか、ハンガリー駐在の外交官として多くのユダヤ人避難に尽力したが、ソ連侵攻の際アメリカのスパイの嫌疑がかけられ行方不明となり、スウェーデン政府によって死亡が確認されるのは2016年のこと

 

l  同君連合を解消したアイスランド

1918年、アイスランドは戦時中立を宣言したが、国際的に自治国の中立宣言は認められず、1940年イギリス軍の占領下に置かれ、アメリカの軍事基地がおかれる

デンマークとの連合条約は更新されないまま、’44年同君連合解消を宣言、新憲法を採択して正式に独立、戦時下に独立式典挙行

 

l  北欧が生んだ世界的名優

新たな文化として映画が登場、北欧からも著名な監督や俳優が輩出—―スウェーデンのバリマン(ベルイマン)、グレタ・ガルボなど

 

北欧の偉人⑦ ムンク

ノルウェーの生んだ世界的な画家。若き日クリスティアニア・ボヘミアンと呼ばれる急進派グループと交流、自身の内面を曝け出すような画風を確立。美術史においては象徴主義に位置付けられ、後のシュルレアリスム(超現実主義)に大きな影響を与える

 

Chapter 8        国際国家のパイオニア

l  北欧諸国が国連に加盟

1945年国連設立にあたり、ノルウェーとデンマークが原加盟国となり、スウェーデンとアイスランドは翌年、フィンランドは’55年に加盟

初代事務総長はノルウェーのリーで、亡命政府の外相、米英ソからの信任が厚かった

2代目事務総長(‘53)も、スウェーデンのハンマルシュルドで、国連機能強化に尽力し、ノーベル平和賞を受賞(’61)するが、直後にコンゴ調停の最中飛行機事故で墜死

 

l  東西陣営と北欧

米ソ冷戦の始まりにあたり、フィンランドを除く4か国はアメリカのマーシャル・プランに参加したが、フィンランドはソ連との関係修復が最優先課題で、’44年の休戦協定の履行によって国際社会での信頼回復に努める

1948年、ソ連はフィンランドに対し、「友好協力相互援助条約」締結を提案、フィンランドは中立願望を前文に織り込むことで他の東欧諸国とは異なる立場を明確にした

NATOとワルシャワ条約機構との狭間にあって、ノルウェー・デンマーク・アイスランドはNATOに加盟、スウェーデンは是々非々の対応を取り中立を堅持

2022年、ロシアのウクライナ侵攻を受け、スウェーデンとフィンランドはNATO加盟を申請したが、フィンランドにとってはロシアとの良好な関係を最重視してきた外交政策(パーシキヴィ・ケッコネン路線)の大転換

 

l  北欧の戦後10年の復興

デンマークでは、終戦の混乱期に南部スリースヴィにドイツからの難民が多数押し寄せ、デンマークへの帰属を求める運動が起こったが、デンマークは国境は変えないと宣言

一院制への政治改革とマーシャル・プランによる経済復興を遂げる。EECに対抗してイギリスが作ったヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)に加盟

ノルウェーは、亡命政府に代わって労働党が政権を掌握、マーシャル・プランの支援を得て、高福祉国家を目指して始動

フィンランドでも1952年オスロと同年に夏季オリンピック開催、戦後復興の象徴となる

スウェーデンは、戦争の打撃が少ない分いち早く復興を遂げ、「国民の家」構想を推進

 

l  ノルディック・バランス

アイスランドは、アメリカの駐留を拒否、空港使用のみ認めることで妥協し、NATO設立時加盟するが、基地存続問題は2006年の米軍撤退まで断続的に政争の焦点だった

ノルウェー、デンマークとも平時における外国軍の駐留を拒否(非基地政策)。北欧をヨーロッパにおける冷戦体制の緊張緩和地帯にしようとする各国の意思は一致していた

冷戦の緊張下の'61年、ソ連はフィンランドに軍事協議申し入れたが、フィンランドの説得により北欧の中立が守られる――北欧各国が一定の均衡を保ち合っているというのが北欧諸国の安全保障体制の実情で、この中立志向の均衡状態は「ノルディック・バランス(北欧の均衡)」と呼ばれた

 

l  北欧会議の結成

1953年、北欧会議発足。フィンランドはソ連との関係を考慮して2年間参加見合わせ、’70年以降は自治領の島嶼部も参加――北欧の地域としてのまとまりが強固に

 

l  黄金の60年代

1950年代の経済成長が、高福祉国家実現のレールを敷く

 

l  自由の追求

1960年代後半の激動の時代、自由で開かれた社会を求める動きが活発化

 

l  ヨーロッパの中の北欧

1940年、ECが発足すると、ノルウェー、デンマークはイギリスと共に加盟を申請するが、ノルウェーは国民投票で否決され、'73年北欧ではデンマークのみが参加

EUの発足にあたり、スウェーデンとフィンランドは冷戦終了を機に加盟に動くが、ノルウェーは国民投票で否決。共通通貨のユーロ使用は北欧ではフィンランドだけ

アイスランドは、リーマン・ショックによる経済破綻からEU加盟に動くが手続き開始に至らず

 

l  グリーンランドとフェーロー諸島

グリーンランドは、1814年ノルウェーがデンマークから分離したのち、デンマークの植民地となり、第1次大戦後にノルウェーが東部グリーンランドの領有権を主張したが、国際司法裁判所で認められず。第2次大戦中、デンマークがドイツの占領下にあったため米軍が駐留、現在でも引き続き空軍基地がおかれている

1953年、デンマークの1地方としての地位が認められ、’79年には自治政府創設、漁業資源の管理権確保のためECから「域外化」されている

フェーロー諸島も、デンマークの自治領として認められ、EC/EUには非加盟

 

l  王位継承も男女平等へ

デンマークでは、1953年の憲法改正の際、王位継承法も改正され、男系男子のみの継承の縛りをなくしたため、1972年にはマルグレーテ2世が即位

スウェーデンでも1979年の憲法改正で、男女を問わず第1子優先の王位継承権が認められ、第2子の長男から第1子の長女ヴィクトリアへと移る

ノルウェーでも、1990年の憲法改正で第1子優先の王位継承が決まり、現在の王太子の次から適用される

デンマークでも、2009年男女を問わない長子相続に変更

 

l  女性リーダーたちの活躍

王室の変化は、社会においても例外を許さない男女平等、社会的マイノリティの権利拡大・機会均等などの概念浸透をもたらす

アイスランドでは1980年世界でも初の女性大統領選出、翌年にはノルウェーにも女性首相が誕生、2000年にはフィンランドも女性の大統領

 

l  北欧が生んだ児童文学作家

スウェーデンのリンドグレーンやフィンランドの『ムーミン・シリーズ』のトーヴェ・ヤーンソンなど

 

l  そして21世紀に

2018年、15歳の少女グレーテ・テュンバリは議会の前で地球温暖化による気候変動の危険性について大人世代の責任を訴えた

2022年のスウェーデンとフィンランドのNATO加盟申請のほか、デンマークでも同年の国民投票によって「ヨーロッパ内の防衛・安全保障に関わらなくてもよい」というEU内でデンマークのみに与えられてきた特典の放棄を可決

 

 

ひみつコラム

   十字があしらわれた北欧の国旗

「スカンディナヴィアン・クロス」または「ノルディック・クロス」と呼ばれ、起源は13世紀

北方十字軍と呼ばれた遠征の中で、デンマーク王ヴァルデマ2世が1219年エストニアに侵攻した際、赤字に白の十字が描かれた旗が空から舞い降りてきたと言われ、その逸話を基にしてデンマークの国旗が作られた

14世紀末のカルマル連合では、黄色地に赤の十字が描かれた旗が使用されたが、敵対したスウェーデンは離脱後青地に黄()色の十字の旗(「金十字旗」)を使用

以後、各国とも北欧に共通する十字の図柄を取り入れている――アイスランドは青地に白で縁取りされた赤の十字、ノルウェーは赤字に白で縁取りされた青の十字、フィンランドは白地に青の十字(「青十字旗」)。グリーンランドだけは例外

 

   スカンディナヴィア3国の王室

デンマークのマルグレーテ2世女王は舞台や映画の衣装のデザインなどで国民のアイドルのような存在、その息子のフレゼリク王太子はオーストラリア出身の女性と結婚

スウェーデンのカール16世の長男ヴィクトリア王太子の配偶者ダニエルは平民、王太子の看病がきっかけで交際がスタート、父親の反対を説得して結婚

ノルウェーのソニヤ王妃も平民。その子の王太子ホーコンがパートナーに選んだのはシングルマザーで、薬物使用の過去があったが、真摯な態度が好感され国民の支持を得る

 

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