本多静六 若者よ、人生に投資せよ  北康利  2022.11.19.

 

2022.11.19. 本多静六 若者よ、人生に投資せよ

 

著者 北康利 1960年生まれ。『白洲次郎 占領を背負った男』で第14回山本七平賞。安田善次郎、松下幸之助、太田垣士郎、、稲盛和夫などの評伝がある

 

発行日           2022.10.2. 初版第1刷発行

発行所           実業之日本社

 

初出 『ひふみラボnote(レオス・キャピタルワークス社)20214月~229月連載配信された『若者よ、人生に投資せよ 本多静六伝』を改題し、大幅に加筆修正

 

プロローグ 永遠の森

参拝者日本一を誇る明治神宮は2020年に鎮座100年の大祭を迎えたばかり、72haの人工林は、元彦根藩の下屋敷で、維新後代々木御料地、一部は練兵場。ただでさえ粘土質である上に兵士たちによって踏み固められ、およそ植林に向かない場所に永遠の森を創り上げたのが本多静六

明治神宮御境内林苑計画は、50年、100年、150年という長い時間の経過による林相の変化を予想しつつ、植林を施す場所や樹種、大きさなどを吟味し、武蔵野の東端に位置するこの土地本来の植生に近い森を天然更新のみによって再現していこうとする壮大な試み

自然のままに放置され、無秩序のような中に秩序が生まれて、天然林に限りなく近い段階にまで来ている。野鳥の楽園となり、猛禽類のオオタカの繁殖地にもなり、3000種を超える動植物の命を育む豊かな森

本多静六は、肩書でいえば東京帝国大学農学部教授で本邦初の林学博士だが、多方面に活躍した人生は彼の作り上げた森のように豊穣で、肩書だけですべてを語ることはできない

ドイツでは林学が国家経済学の1分野とされるように、林業は国富を生み出す重要な産業であると同時に社会インフラ整備や国土強靭化の役割を担うところから、彼は都市計画などを含む日本の近代化の重要な局面に広く深く携わっていく。目指したのは、今で言う

SDG(持続可能な開発目標)そのもの

「人生即努力、努力即幸福」を地で行ったのが彼の人生。幼い頃の勉強嫌いを克服し、圭角のある性格を矯正し、25歳にして人生の目標を立て、日々の課題を決めた。それが4分の1天引き貯金と11ページの原稿執筆

蓄財の神様として莫大な財産を築くが、驚くべきは資産の使い途で、還暦を機に、故郷の若者の育英資金へと所有山林全てを埼玉県に寄付

晩年は伊東に隠棲していたが、79歳で敗戦を迎えると、国民を鼓舞するために再度立ち上がる。『私の財産告白』を著し、人生における貯蓄と投資の大切さを説き成功の秘訣を開陳したことが反響を呼んで、本多静六ブームが巻き起こる

 

第1章        勉強嫌いのガキ大将

l  折原静六誕生

武蔵国埼玉郡河原井村(現久喜市)に、8人兄弟の6番目として誕生

埼玉が生んだ3偉人、塙保己一、渋沢栄一、荻野吟子(日本の女医1)にも大いに関係

一橋家の所領で、後に静六が養子に入った本田家も一橋家の家臣。新田開発が進んでいた

生家の折原家は代々名主、11代目となる静六の父は副区長、祖父も健在

ガキ大将で強情

l  カケスに教えられた親の愛

曹洞宗幸福寺境内のサイカチの木にあったカケスの巣からヒナを獲ったところ、カケスの攻撃を受けて木から落ちて怪我し、和尚から叱られる

l  幼心に沁み込んだ信仰心

折原家では、江戸時代に隆盛を極めた富士講の一派不二道(ふじどう)を信仰

l  父の急逝

1872年学制公布で小学校入学、常に2番だったが中学には進学していない

父は、文武両道に秀でた人格者だったが、1876年死去。私財を投じで地域住民のために尽くしていたため、多額の借金を残したので、学業どころではなく、家業を手伝う

l  人生の恩人・島邨泰

静六は金を貯めて上京し勉強に励もうとしたが、祖父から一喝されるも、1880年漸く農閑期だけという条件付きで許され、兄が教えを受け、今は大蔵省の役人になっていた島邨泰を頼り書生となる。島邨は元岩槻藩士、異例の出世、農業指導者として活躍

 

第2章        暗い井戸の底をのぞき込んだ日

l  東京山林学校受験

半年毎に東京と河原井村を往復

静六と同年生まれが若槻礼次郎、東大始まって以来の秀才、松江藩の下級武士の家に生まれ、貧窮の中に過ごし、司法省法学校の官費生徒募集に通って在学中に養子となり、帝国大法科大学を首席で卒業、大蔵省に入って次官から政界入りする

1883年、島邨から新たに山林行政を担う官吏養成用にできた東京山林学校を薦められ、年齢も半年誤魔化し、中学卒業の学力も猛勉強でクリアして最下位の成績で合格

l  わが国林学の祖・松野礀(はざま)

江戸時代、幕府や各藩は治山治水の観点や財政に資するため森林を育成管理していたが、明治政府は全てを国有林としたものの手入れが行き届かず荒廃。財政が逼迫すると見境なく払い下げを始める

松野は長州藩の郷士、脱藩同然で上京してドイツ語を学び、1870年伏見満宮(後の北白川能久親王)に随行してプロイセンに留学、同郷の青木周蔵(後の外相)から林学専攻を勧められ、ベルリン郊外のエーベルスワルデ山林学校に入学

1875年帰国して大久保利通の配下として内務省地理寮山林課に配属、山林行政を担う人材育成のため山林学校設立を決意、ミュンヘン大学留学帰りと2人で1882年開校

l  窃盗の嫌疑までかけられた貧乏学生

1884年、東京山林学校入学、寮生活が始まる

島邨家のアルバイトをしながらなんとか勉学を続けるが、同室の友人の財布から50銭が盗まれた事件では貧乏ゆえに嫌疑をかけられた

l  落第でかみしめた師の恩

入学早々、3年の修業年限が5年に延長され、代数・幾何が加わったため、中学の勉強をしていない静六は落第、期待に応えられず死んでお詫びしようとしたが死にきれずにやり直しを誓う。島邨にだけは報告したが、島邨1人の胸の内に収めてくれる

l  エキス勉強法

半年遅れたことで2人の生涯の真の友人を得る――河合()太郎と川瀬善太郎

河合は静六の1つ上、尾張藩士に生まれ、旧尾張藩の奨学金を得て山林学校入学

川瀬は静六の4つ上、紀州藩の出で和歌山師範を首席で卒業。県令の推挙で入学

静六は勉強し過ぎて胃と眼を患い、ノートのエキスだけを抜き出して歩きながら暗記する勉強法を編み出す。お陰で頭の中が整理でき、川瀬と首席を争うまでになる

l  性格と人相を変える努力

勉強に加えて、自分の性格の矯正に取り組む

島邨も、静六が持って生まれた強情の癖が強いのでこのままでは変人になりかねないから悪い癖を直した方がよいと、占いと修身を合体させた天満淘宮術を紹介

島邨は、静六の在学中に他界したようだが、静六がその生涯において貧しい若者の教育支援に絶えず思いを寄せ続けたのは、島邨から受けた恩の大きさ故であったのは間違いない

l  一度は揺らいだ林学への志

1886年、東京山林学校は駒場農学校と合併して、東京農林学校となり、駒場に引っ越す

途中で陸軍士官学校に行きたくなったが思い止まった

l  留学への憧れ

林学の教員養成が急務で、同校の物理学の助教授だった志賀泰山をドイツのターラント山林学校に派遣して養成するのを見て静六も留学に憧れる

金を工面して自費留学しようとしたが途中で挫折、代わりに養子縁組の話が空きて実現

l  銓子との縁談

松野先生から養子縁組の話が来る。相手は彰義隊の元頭取本多晋の1人娘銓子

本多は一橋家の家臣、慶喜の側近の床机廻組、恭順の意を表す慶喜に納得できず、渋沢栄一の従兄成一郎を頭として池上本門寺に陣を敷くが、上野戦争勃発時は怪我で療養中

維新後は逼塞のところ、渋沢栄一の推薦で1870年民部省(大蔵省)に出仕、1880年退官

銓子は幼少より頭脳明晰、東京女学校入学、9歳で首席となり渋沢の長女歌子と共に昭憲皇太后から英和辞書を下賜される。近代医学習得のための成医会講習所に推薦入学し、卒業前の1884年に開業試験の受験資格を与えられたが、なぜか受験せず。その時の試験でただ1人合格したのが荻野吟子で、銓子の13歳上。銓子は4年後に4番目の女医となる

l  折原静六から本多静六へ

静六は、養子に気が進まなかったが、卒業後4年間のドイツ留学を条件に応諾

 

第3章        飛躍のドイツ留学

l  甘美な新婚生活

1889年、銓子は静六の2つ上だったこともあって、すぐに式を挙げ、本多邸での新婚生活が始まる。銓子は東京慈恵委員の産婦人科助手、その時の婦人科主任が岡見京子で、銓子の5歳上、ペンシルベニア女子医科大学で博士号を取り帰国後医者として活躍

l  前田正名校長の英断

1890年、長女輝子(てる)誕生

卒論を繰り上げ提出してターラント山林学校に留学

校長の前田正名は農商務次官を兼務した傑物で後に元老院議員、男爵となっているが、繰り上げ卒業と同時に自費留学を認める

l  三等船室での渡航

1890年、フランス郵船で渡航するが、3000tの船では相模湾から船酔いが始まるが、神戸からは船酔いもとまって、1か月半後にはベルリンに到着

l  ドイツ林学とターラント山林学校

ヨーロッパでは、近代に入って森林は収益の源泉として生まれ変わり、人工的に手が加えられる。ドイツでは職人学校を設け、高級森林官(フォレスター)制度を導入、森林行政と林学の先進国で、ロマン主義の影響を強く受ける

ターラントは先達の志賀泰山の紹介だが、木材不足に苦しんだザクセン王国が招聘したハインリッヒ・コッタ(後のドイツ林学の祖)がいて、自然に敬意を払いつつ森林資源の有効利用を模索。森林の安全や美も利益と考え、特に防雪林や防砂林に注目したのは画期的

隣接の演習林でターラント林学の実地を学ぶ。現在はドレスデン工科大林学科

l  モテモテの留学生活

不二道には種子交換会という行事があり、信者たちがいい出来の趣旨を持ち寄って交換し、品種改良しながら収穫高を上げようとする試みだが、それに従って静六も留学に当たって苗木5種と種子47種をターラント山林学校に贈呈

日本からの唯一の留学生は、地元の人にとっては物珍しく、単身未婚を偽装していたこともありモテモテだった

l  ミュンヘン大学で訪れた試練

たまたま目にした日本の新聞で診察時間変更の広告に銓子が載ったのを見て驚く

基礎をターラントで学び、学位をとるためにミュンヘン大学に転校、ミュンヘンでは林学は経済学の一部で、国家経済学博士を目指す

造林学の権威カール・ガイアーにも目をかけられ、森林をできるだけ自然に近い状態に保つ「混合林」の重要性を教えられる

ルーヨ・ブレンターノ教授の財政経済学にも静六は感動――社会改良の基礎を労働者団結の自由に置く一方、自由貿易の重要性を強調、資本主義の発展の源泉を商人の私利私欲の追求に求めるその主張は社会自由主義と呼ばれ、資本主義の精神の根底にプロテスタンティズムの倫理観があると説いたマックス・ウェーバーとは真っ向から対立

突然養父から仕送りが出来なくなったとの通知、養家の投資先が破綻――後に、投資分散を学び、投資三分法を紹介している

残った手許の金で生活しなければならなくなり、極端に生活費を圧縮し勉学に励む

l  後藤新平との出会い

静六より9歳上で内務省衛生局技師に抜擢された後藤が、静六より2週間遅れでドイツに留学、1891年ミュンヘン大で出会った途端にブレンターノ教授への紹介を頼まれ聴講が許されるが、英語しかわからずにまずはドイツ語から始めることに

l  切腹も覚悟した学位試験

2年で博士論文提出を認められ、測樹学をテーマに論文を書き、口述試験もパスして見事合格。無事関税問題を取り上げた学位授与式の講演も終える

l  ドクトル・ホンダの凱旋

ブレンターノ教授からはなむけの言葉として、「学者でも自由と精神の独立のために財産は必要。財産を得る根幹は勤倹貯蓄と、有利な事業への投資。今の日本では鉄道と土地、山林への投資が効果的」といわれ、静六は教授の言葉を終生忘れることはなかった

帰国は、北里と一緒になり、アメリカ・カナダ経由で1892年横浜へ

l  帝国大学農科大学助教授就任

1892年、帝国大学農科大学(旧東京農林学校)助教授就任、高等官7等従7位に叙任

志賀の推薦があったため、いきなり奏任官(天皇の委任で首相が任命)

江戸時代の林業は社会的に差別されていた杣人(そまびと)の仕事であり、明治に入ってからも山林(3)は天保銭(8:陸士)より安い学問と揶揄され、1886年帝国大学発足時には農科大学はなく、農林学校卒業生に学士号が与えられたのは1889年からと差別され、1890年帝国大学に併合して農科大学となる山県首相の裁可が出たときには、帝国大学の評議会は全員が辞表を叩きつけて抵抗を示したという。初代学長とは農学とは無関係の第三高等中学校長の松井直吉(理学博士)で、1911年の死去まで在任

1894年、静六は『林政学』を皮切りに本格的な林学書を矢継ぎ早に世に送り出し、農学は学問水準が低いとの汚名挽回に努める

l  早稲田大学と実業之日本社・増田義一

1881年の政変で下野した大隈が設立した東京専門学校で課外授業の講師を引き受ける

反政府勢力の養成機関と睨まれ、引き受け手がない中、政府が学問の府に圧力をかけるなど論外として、逆に在野精神や批判精神が横溢していたことを積極的に活用する

早稲田の生徒でトップクラスだったのが増田義一。静六を尊敬し、読売新聞に入って敏腕の経済記者となるが、同級の光岡威一郎が設立した大日本実業学会(後の実業之日本社)に入り、貧乏ゆえに高等教育を受けられない若者のために大学の講義録を出版。それが雑誌『実業之日本』の発刊(1900)に繋がり、購読申し込みが殺到。光岡の早逝で増田が初代社長に。静六も林政学の講義録を担当するとともに、雑誌にも連載を持って応援

l  人生計画と4分の1天引き貯金

静六が晩年まで繰り返し口にしたのが良き人生は良き人生計画から始まるで、助教授になった25歳で最初の人生計画を策定

2540歳   奮闘努力、勤倹貯蓄により、一身一家の独立安定の基礎を築く

4060歳   専門の職務を通じて専ら学問のため、国家社会のために働く

6070歳   報恩のため、一切の名利を超越し、勤行布施のお礼奉公に努める

70            居を山紫水明の温泉郷に卜し、晴耕雨読の晩年を楽しむ

身に染みた貧乏からの脱出を図るために考えた秘策が”4分の1天引き貯金

当時勤倹貯蓄で最も有名だったのが安田善次郎、富山から上京し商家の丁稚となり、やがて独立して乾物商を開店、こつこつと貯めた金を元手に両替に進出、財をなすが、生活費を収入の8/10以内に収め残りは貯蓄するとの誓いを立てた。静六のはその上を行くもの

静六の年俸は800(現在価値にして20百万円)。帝国艦隊建設のための製艦費1割と恩給基金などが引かれて現在価値にして月額145万円程度、そこから1/4を天引きする

l  心強い銓子の支え

やりくりするのは銓子の役目

銓子は、静六の帰国後も赤坂新町に診療所をもって医業を継続、明治天皇の娘昌子内親王(常宮殿下)の侍医だったが、次女美祢子を3歳で亡くすと心が折れ診療所を廃業

l  11ページの原稿執筆

静六は副業の先駆者――勤労生活者が金を作るには、消費の節約だけでなく、本職の足しになり勉強になる事柄を選んでアルバイトにつとめるべきと説く

静六の副業は執筆活動で、天引き貯金と同時に” 11ページの原稿執筆を始める

440時ほどの分量で、出版原稿に限定。8項目に分かれたルーズ・リーフ式の手帳を持ち歩き、絶えず興味を引くものがあると寸法を測って書き留めた

身体を動かして情報を集め、積極的に発信し続ける

生涯の著作は376冊――教養書53、大造林学書30,一般林業書28、公園関係126など

あらゆるものに関し、効率的で経済的なものを愛す――着るものの象徴がターラント学校時代の制服に始まる詰襟

 

第4章        緑の力で国を支える

l  山林王・土倉庄三郎

当時、日本の林業で1人気を吐いていたのが吉野の山林王・土倉(どくら)庄三郎で、静六が尊敬し、謙虚に日本にある造林のノウハウや技術を学んでいる

土倉は、1840年吉野の大滝村の生まれ、代々吉野で林業を営み、密植、紐打ち(枝打ちの一種)、多間伐、長伐期という画期的な吉野林業式施業を考案。節がなく木目も均一かつ緻密で、良質な樽材として飛ぶように売れた。木材の運搬のため吉野川を浚渫、堰を設け、筏にして大量に流す。山奥では木馬(きんま)曳きというそりに乗せて運ぶ技術を考案

利益は社会に還元、地元に小学校を作ったほか、同志社や日本女子大も彼の寄付で設立

廃仏毀釈によって山岳信仰の山だった吉野が寂れ、大阪の商人が全山の桜の木を薪とするため買い取るという話になった時、代わりに金を出して桜を守ったのも土倉の仕事

天竜川の治水で知られる金原明善に植林による堤防の強化を助言したのも土倉

山林の持つ保水力に着目したのも土倉で、静六もドイツで学んだ林業を日本で実践する上で大いに参考とし、うっ閉”(隣り合う材木の樹冠が相接し、林冠に隙間がなくなる状態)を大切にするのは土倉の密植に通じるもの

土倉は息子に跡を譲ると一切事業から手を引いたのが裏目に出て、息子は多角化した事業のすべてで失敗、山林も差し押さえられる中、失意の生涯を終える。享年77

静六は、土倉の恩に報いるため、私費を投じて吉野川の鎧掛(よろいがけ)岩に全長23.6mの磨崖碑を作り、「土倉翁造林頌徳紀念」と刻印――「かけた情は水に流せ、受けた恩は石に刻め」という。大正になって激減した桜を皆に声をかけて植林し守ったのも静六

l  わが国初の防雪林

郷土の偉人、渋沢栄一も静六の帰国を歓迎したが、その席で静六はカナダの鉄道を護っていた防雪林を提案する。前年に上野・青森間の鉄道を開通させたばかりの渋沢はすぐに静六を国策会社の嘱託として水沢の豪雪保線区に防雪林を設置――スギとカラマツを2列に植林、余剰材木の売却代金で次の植林のための苗代や労賃を確保し自給自足体制を確立

l  わが国初の林学博士

1894年、日清戦争勃発に際し、大学を一時閉校し全員で出征の嘆願書を出すが、総長預かりとなって実現せず。開戦前年にも徴兵検査を受けて兵役を志願するが不受理

1899年、静六は日本初の林学博士の学位授与

博士論文では、日本各地の植物帯を調査、気候や風土ならではのあるべき森林姿を確認したが、さらに調査を世界に広げ、シベリアから満洲などへも長期調査に出かける

l  わが国初の大学演習林

大学の森林調査で行った鴨川の清澄寺の山林を大学の演習林にすべく、濱尾総長の了解を得て、寺から336haを無償で譲り受け、1894年日本初の大学演習林が誕生

2011年には、国内大学として初めて500tCO2吸収量の認定を受ける

l  後藤新平のその後

静六の2年後に後藤も帰国、留学前に日本で出版していた本を現地で翻訳してもらい医学博士号を取得、帰国後は長与専斎の後任で内務省衛生局長に大抜擢されるが、相馬事件の誣告罪で投獄されるも無罪放免となり、日清戦争のコレラ罹患帰還兵の防疫責任者となる

北里の支援を得て成功裡に防疫を成功させた後藤は、衛生局長に復職し、そのとき陸軍次官児玉の信頼を得て、児玉が台湾総督になった際にはNo2の民政局長に抜擢される

l  台湾(日本)最高峰への挑戦

1896年、静六は森林調査の名目で、台湾最高峰の玉山3952mの登山に挑戦するが、途中でマラリアにやられて断念。仲間が登頂に成功して、明治天皇が新高山と命名

1898年、民政局長の後藤が農科大学に森林開発事業の協力を要請、新高山を含む広大な国有林の譲渡を申し出、大学は演習林とする。豊富な林業資源だが搬出のための鉄道建設は困難を極め、1914年漸く阿里山森林鉄道開通

l  木曾山林学校

1900年、静六は教授に昇格、2年後に志賀が退任すると、同級生の川瀬、河合と共に林学科を牽引

同年、実業学校の新設を決めた長野県木曾郡は、静六の講演を聞いて山林学校とすることを決定。静六も積極的に支援、初代校長に教え子を推薦

学校は2009年に閉校したが、社会的功績の大きさから、資料や演習林が林業遺産に認定

l  埼玉学生誘掖(えき)

郷土の若者支援のための組織の立ち上げ――1902年、静六は自ら出資の覚悟を示して、渋る渋沢を説得し、セメントの諸井らも加えて発起人となり埼玉学生誘掖会設立、砂土原町に寄宿舎を開設し静六が舎監となる。石坂泰三も寄宿生だった。静六と渋沢は急接近

l  貯蓄から投資へ

貯まってきた天引き貯金を投資に回し始める――日本鉄道(国策会社)に投資すると国有化で一気に余裕ができ、40歳までには現在価値にして10億円超の資産を積み上げる

元手に困らなくなって、次は幅広い銘柄に分散投資を始める

銘柄選定、時節を待つ(「休むも相場」)ほか独自の投資手法を考案――「10割益半分手放し」(手持ち分の原価をゼロにしておく)、「2割上げ利食い」など

1900年頃からは山林投資開始――天領だった秩父大滝村の山林に目をつけ、個別に交渉しながら買収を進める。麓の寄居まで上武鉄道(現在の秩父鉄道)1901年開通開通、日露戦争で木材需要が急拡大し立木を買値の70倍で売却、帝大の演習林用にも山林を売却

投資収益を自分に再投資し、生涯に海外視察を19回行なうが、私費によるものも多い

l  足尾銅山鉱毒事件

17世紀後半から18世紀前半まで、日本は銅の産出量世界一で、銅葺きの瓦が普及したが、明治初期には産出量も減って足尾も閉山寸前となっていた

その足尾を買ったのが古河(ふるかわ)財閥の創始者、市兵衛で、新鉱脈発見に成功

公害が拡大したのを受け、吾妻村(現・佐野市)は被害を県知事に訴え、帝国大学農科大学が調査に乗り出し、原因を銅の化合物だと特定、田中正造が国会でも取り上げ、榎本武揚は現地を視察して余りの惨状に農商務大臣を辞任。田中は天皇に直訴

志賀泰山、後藤新平らの入った調査委員会は鉱毒予防工事の実施を提言するが、砂防工事が大雨で決壊するなど状況は一向に改善されない

静六が委員会の筆頭になって調査すると、鉱毒以上に二酸化硫黄などの有毒ガスの煙害が原因と分かり、賠償金で植林を進めたのが、後に大変な財産になる

調査を通じて静六の中に公害に強い樹木という着眼が生まれ、のちのち神宮の森や大都市の街路樹選定に結実していく

l  東京の水道を支えた奥多摩水源林

東京の水道の歴史は江戸時代の玉川上水に遡り、江戸市内では木管で給水

明治に入ると、淀橋浄水場での濾過、有圧鉄管での給水が計画され、1898年上水道開設

昭和40年代に利根川水系に変わるまで、多摩川・相模川水系に依存していたため、しばしば深刻な水不足に襲われたため、水源林利用による水不足解消を提言したのが静六

静六は1897年奥多摩の山岳地帯を調査、明治に入ってからの荒廃を見て水源林を提案、資金難で難色を示す千家尊富(せんげたかとみ)東京府知事を説得、東京府の嘱託に

日原川流域の御料林を格安で譲り受け、間伐と植林で水源林を造成していくが、寒冷地故の問題が起きて事業は大赤字になると、静六は赤字の半分を私財で補填しながら改良を加え、1910年本来の事業者であるべき東京市に引き継ぐまでの間に1120haの植林を完了

水道事業の事業主体を巡っては東京の府と市の間で論争が纏まらなかったが、1903年市長の尾崎行雄が自ら多摩川上流を踏査し水源林の必要性を確信し植林計画を立てる。静六は東京市の顧問に指名され、植林事業を継続する

l  政治への思いを断った布引丸事件

1899年、孫文などアジア諸国の独立運動支援の動きが広がる中、フィリピンの独立運動支援の話が農林学校時代の恩師で衆議院議員になっていた中村弥六に持ち込まれ、日清戦争の戦利品だった武器の払い下げを画策し、一部をフィリピンに布引丸で送ろうとするが、輸送中に暴風雨で沈没。残りを孫文に送る段になって中村の横領が発覚、信用は地に堕ち、政界も引退して赤貧の暮らしを強いられる。静六は旧友たちと共に生活を支えるが、議員になっても志を遂げることは難しいとわかって、政界進出を断念

l  六甲の緑よ再び!

静六は、全国の緑化運動にも尽力――全国植樹祭のルーツでもあり、提唱者

43日の神武天皇祭に、児童による植樹を提案、1898年には43日が植栽日とされ、1933年には前後3日間を愛林日とし、全国的な植樹運動が展開され、戦後の植樹祭へと繋がっていく。校庭の記念植樹を契機として学校林も現時点で2492校に拡大した

大学キャンパスの緑化にも取り組み、1905年東京帝大総長になった濱尾新は土木総長と呼ばれるように、構内の道路の拡幅など整備したが、その際「正門の佇まいを厳粛な雰囲気にしたい」という総長の注文を実現させたのが静六。厳粛な雰囲気をもたらす樹木として静六が選んだのがイチョウ。同時に赤門にもイチョウ並木を作り、本郷通り沿いにはクスノキの並木を植栽、駒場の苗が本郷キャンパスを緑豊かなものとしていく

六甲山の荒廃は、清盛が大輪田泊を修築し、日宋貿易で栄えるようになった頃から進み始め、秀吉の大坂城築城によって無立木地が増え、花崗岩が露出し、生田川や住吉川の氾濫に悩まされる。1867年の神戸開港により開発が進み、急増する住民の水道の整備のため、1900年生田川の布引谷に日本最古のコンクリートダムを造って貯水池としたが、山が荒廃しているため保水力がなく、水源林の造成が急務。その指導を委嘱されたのが静六

前年に視察して、地獄谷を実感していたが、1901年神戸市長に就任したのが坪野平太郎

静六が留学の際同じ船で逓信省の官費留学生として欧州に留学していた

1903年、六甲西北部の再度山の斜面から、残っていたアカマツを主体に植林を開始、風致地区の指定区域を増やしながら木々を保護し、段々畑のような仕掛けを作る

坪野と静六の友情の証として緑溢れる六甲が甦る

l  赤松亡国論

従来からアカマツは土地が瘦せてしまう危険なサインとされていたが、六甲の惨状がそれを証明。山が荒れると固有の樹種が消え、明るい痩せた地を好み乾燥に耐えるアカマツが繁殖、山は保水力をなくし、河川にも腐葉土が流れ込まないため海に栄養がいかなくなって沿岸漁業が打撃を受ける ⇒ 高山樗牛が『赤松亡国論』として紹介したため大騒ぎに

1932年、ドライブウェイ建設の話が持ち上がった時、静六は両立させる道を模索すべきと説き、自然保護のために細心の注意を払いながら建設が進んだ

1974年、国際植生学会で静六の業績が世界に紹介され、神戸市はこの森一帯を「再度山永久植生保存地」に指定、5年毎に植生や土壌の変化を調査し、六甲山系の緑の維持に腐心

 

第5章        日本の公園の父

l  日比谷公園

1873年、太政官布達により全国に25カ所の公園が設けられ、大衆に開放――東京では、上野、浅草、深川、飛鳥山、芝の5カ所

1903年、わが国初の本格的な洋風公園として設置されたのが日比谷公園

佐賀藩や長州藩の大名屋敷跡で、維新当時は更地となり、練兵場として使用されていたが、東京市が管理することになって公園化の提案がなされるも、最後の辰野金吾の案までが却下されて、市議会議長の星亨は陸軍への返上を言い出す中、公園設計の経験のない辰野が、静六の公園に関する知識を見込んで、白羽の矢を立てる

従来の議論を踏まえつつ、江戸の残り香が恋しい大名庭園を愛する人からも、西洋好きのハイカラな人からも支持され、コストを抑える配慮もしたプランが無事採択される

埋立地ゆえに地下水位が高く、樹木の植栽不適地であることが判明したり、予算が少なかったりと、難題山積だったが、何とか開園に漕ぎ着け、評判は上々

l  首賭けイチョウ

日比谷交差点の東南角辺りにイチョウの古木があり、日比谷通りの拡幅計画で切り倒されることになった際、静六は星亨に直談判、自分の首を賭けて日比谷公園の中央部に移植をさせる。直後に星は政治腐敗の犠牲となって暗殺、活着したイチョウを見ることはなかったが、一時22mまで育ったものの戦時中高射砲陣地の邪魔だとされ大きく樹冠を伐採

l  有徳の人・本郷高徳

図らずも静六は公園の父と呼ばれるようになったが、それを支えたのは助手の本郷高徳

本郷は1877年宮津藩士の家に生まれ、東京英語学校に進学するほどの秀才だったが、ノイローゼになって健康を優先、農科学校の乙科(後の実科)に入る。静六は本郷の才を愛し、自らの助手に引き上げる。静六の姻戚と養子縁組した縁でミュンヘン大への留学が叶い静六と同じ博士号を取得して帰国するが、実科出身ゆえに厳しい差別に遭ったのを、静六が次々に舞い込む公園設計の依頼の処理に本郷を取り込む

l  日本中に公園を!

静六が設計・改良に携わった公園は60カ所を超え、長野には9カ所

長野県内の公園:軽井沢(軽井沢遊園地基本方針)、木曾(木曾の風景利用策)、小諸(懐古園)、須坂(臥竜公園、鎌田山公園)、飯山(飯山城址公園)、山ノ内(山ノ内温泉風景利用策)、飯田(天竜峡風景利用策)、駒ケ根(中央アルプス国定公園の一部―雪の台避暑地)

常磐公園(現・偕楽園)の改良(1920)、埼玉県の氷川公園(現・大宮公園)の整備(1921)、武蔵嵐山の誕生(1928)、大濠公園の設計(1925)、和歌山公園(現・和歌山城公園)の整備(1915、地元出身で川瀬と同級の南方熊楠が旧跡の破壊だと猛反対)

l  日本のバーデン・バーデンを目指せ!

1924年、湯布院から町おこしの講演を依頼された静六は、バーデンバーデンを参考に、町全体を森林公園に見立て、滞在型温泉保養地(クアオルト)を目指せと説く

戦争で中断されたが、大戦後の1955年由布院町と湯平村が合併した際、町名を湯布院町として、静六のプランが実現に向かって始動、併せて周辺の植林も実施

l  明治神宮建設計画

明治天皇の御陵は、遺志により京都伏見桃山に決まったが、東京に御陵をとの市民の声を背景に、明治天皇をご神体とする神社の建設計画が浮上

1913年、渋沢の働きかけで勅令の調査会が発足、実質は静六がリード。渋沢の代々木案に対し静六は練兵場の跡地では植栽に不適と一旦は反対したが、渋沢の熱意に負けて、内苑と外苑の造営が始まる。外苑もイチョウ並木があり、拝殿としての聖徳記念絵画館があり、その背後にはご神体に相当する葬場殿跡がある

最大の特徴は、一般的な神社の境内は内苑の1/15で、ほとんどが森で構成されること

l  明治神宮御境内林苑計画

造営に際し静六が目を付けたもう1人の教え子が上原敬二。深川の材木業の家に生まれ、一高から農科大学を抜群の成績で卒業。研究生活をすべく大学院に入学するが、静六に説得され内務省嘱託として造営に関わる

1915年、明治神宮造営局設置。総裁は伏見宮貞愛親王、神社設計は伊東忠太と建築史家の関野貞、神苑を静六が担当

ヒントにしたのが大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、その森の形成過程を人工的に辿れば神奈備山の森にできると考えた――最初は瘦せた土地に強いマツ類を植栽、150年後の最終段階ではサワラ・ヒノキなどの針葉樹が最上部を支配、カシ・シイ・クスノキなどの常緑広葉樹も順調に育つとの計画

l  神宮の森造営

静六の計画に対する反対派の筆頭は首相の大隈重信――伊勢神宮も日光東照宮も荘厳なスギ林に囲まれているとしたが、尾根マツ、谷スギ、中ヒノキの言い伝えから、関東ローム層には向かないと説得

造営に当たっては、全国からボランティアが集まる

樹木についても、献木を募ると全国から95千本が集まる

1920年、鎮座祭挙行

外苑は、佐野利器の最終案により、明快広闊な気分を横溢せしめる現代式庭園を目指し、絵画館の竣工を待って1926年奉献式挙行

 

第6章        人生即努力、努力即幸福

l  秩父セメント

同郷の異才・諸井恒平は静六の4歳上。本庄の生まれで士族だが、火災などで家運が傾き苦学を強いられていた時、遠い親戚の渋沢栄一が郷里の深谷に設立した日本煉瓦製造に入社。同社は1887年創業の日本初の機械式煉瓦製造工場で、産業振興に貢献

1907年、欧米出張から帰国した静六が、埼玉県の産業振興策について講演した際、欧米では煉瓦からコンクリートに代わっているとして、日本煉瓦にもセメントへの事業転換を勧め、1923年には石灰岩のある武甲山に秩父セメント(現・太平洋セメント)を設立

諸井は後にセメント王と呼ばれるようになるが、その陰で地元の人たちは、ご神体ともされる神の山の山容が崩れるまで採掘されるという代償を払う

l  嫉妬の洗礼

1913年、火災で焼失した学士会館再建の話が持ち上がり、静六が1000円寄付しようとすると、オリザニンの発見で多くの特許を持つ鈴木梅太郎も同額を申し出るが、貧乏くさい静六が大金を持っていることに、学問的成果は別にして、帝大教授に相応しくない言動が目立つとして排斥の声が上がる

静六は家計簿を公開して、こつこつためたお金であることを証明、疑いは晴れる

l  泥棒の取るものがない家

渋谷桜ケ丘の屋敷には60坪ほどの庭があったが、まるで家庭菜園というより農業試験場の様で、温室まであったという

1回泥棒に入られたが、二度と起きないよう貴重品を処分し、家の中には盗まれて惜しいものがないようにしたという

l  天丼会

苦学の頃ご馳走になった天丼が忘れられずに、門下生が集まった時には天丼をご馳走していたところから、薫陶を受けた人々が本多家に集まると天丼会になる

本多家の菩提寺は、港区愛宕の青松寺

l  勤倹貯蓄の大先輩・安田善次郎

1918年、静六は世話人となって日本庭園協会を設立

米騒動の3年後、不満の種となっていた貧富の格差への怒りを鎮めるために、富豪の大庭園を一般市民に開放する運動を始め、安田の大磯別邸寿楽庵に善次郎を訪ねる

善次郎は庭の開放を快諾するが、半月もしない間に政治活動家の手にかかって暗殺。死後、静六の仕事を顕彰するかのように、日比谷公会堂が建ち、本郷には安田講堂が建つ

l  銓子の死

銓子は43歳ごろから慢性腎臓病に罹患

1921年には義父の胃がんも発覚、その看病で銓子は脳溢血で昏倒、5日後に死去

銓子の遺志に従い、東京女子医学専門学校(後の女子医大)に本多銓子奨学金を設定

戦後のインフレで現在は引き継がれていないが、後輩で女子医大の1期生竹内茂代は銓子の死の12年後東京帝大で医学博士号を取得、市川房枝らとともに婦人参政権運動に参加し、戦後衆議院議員に当選した39名の女性代議士の1人として女性の地位向上に尽力

l  関東大震災と復興計画

震災翌日、帝都復興院総裁になった後藤新平が静六に電話をしてきて、復興計画の策定を要請。以前、静六がバルセロナの都市計画図を見せながらいかに優れたものか後藤に話していたことを思い出したもので、取り敢えずのたたき台を徹夜で作り上げる

抜本的な都市改造を目指し、特に意を用いたのが延焼を防ぐ工夫で、緑地による延焼防止効果を重視し大公園を新造、道路の拡幅整備、隅田川の架橋増設を行う

l  東京都とイチョウ

ドイツではゲーテの木と呼ばれるイチョウに魅せられた静六は、東京駅前の行幸通りの設計でも4列のイチョウ並木を取り入れて1926年完成

日本でも古来、イチョウは火伏(ひぶせ)の木と称され、京都の天明の大火(1788)では本能寺や西本願寺のイチョウが人々を救ったとの伝説があり、関東大震災でも浅草の観音堂を護ったのは本堂裏手の大イチョウだと噂された。御堂筋の拡幅の際もイチョウかプラタナスかで議論になり、冬場落葉するので防火の役に立たないと言ってイチョウに反対したのが南方熊楠で、折衷案として淀屋橋以北はプラタナスとしたが、全体としてはイチョウのイメージが強い。1989年、東京都がシンボルマークを制定した際も、「Tを意匠化したもので、イチョウではない」というが、都民の多くがイチョウと認識

l  帝国森林会

1882年、松野が奔走して林業の改良と進歩を期して立ち上げた大日本山林会は、木材需要に沸いた第1次大戦が終わると、戦後不況で会員が減少し財政悪化、民間第4位の山林所有者の三井物産社長で静六の支援者でもあった益田孝の尽力で1919年設立された財団法人帝国森林会が集めた資金で支えられることに。静六も副会長として参加、後に会長に

1927年、帝大教授を退官。正三位勲二等を叙勲。帝国森林会会長職に専念。益田の推薦で副会長に王子製紙の藤原銀次郎が就任、巨額の資金援助を得る

l  国立公園協会

森林が風景美で人の心を癒す重要な役割を持っているところから、静六は風景専門家として認知されるようになる

宇治川電力(現・関西電力)が、平等院正面の風致地区だった仏徳山地中に落差62mの鉄管を通し発電しようと8年の歳月をかけて工事したが、開業直前に土砂が崩落、鉄管が剝き出しになったため京都府が景観復旧の目途がつくまで認可を保留。慌てた会社が風景専門家として府知事が指定した静六に助言を求め認可に漕ぎ着ける。山林は4年で復旧

静六は、水力発電にも強い興味を持ち、埼玉にある山林と水と石灰岩という資源の活用を考え、コストの高い火力発電からの切り替えを主張。渋沢が諸井や浅野総一郎と共に秩父に埼玉県初の水力発電所を建設した際にも協力

自然保護にも配慮、上高地のダム建設には断固反対を建議

国立公園設置にも深く関与――内務省の公園行政を担当していた教え子の発案で、民間組織として国立公園協会が設立され、静六は副会長となり私財提供を申し出て内務大臣を説得、1931年の国立公園法が実現

l  職業の道楽化

人生計画を立案した後も、時折計画通りかどうかを楽しみながらチェックしていた

仕事も、楽しみながら長続きさせることが大きな成果につながる

人生の最大幸福は職業の道楽化にあり、道楽の境地に辿り着くには努力しかないと説く

人生即努力、努力即幸福で、「天才マイナス努力」には「凡才プラス努力」が勝てると確信

l  4分の1天引き貯金余話

静六の没後、家族や弟子たちの思い出として挙がるのが四分の一天引き貯金にまつわる苦労話。皆一様に、静六の真似をするが、大変な目に遭っている

 

最終章 若者にエールを送り続けて

l  優秀な子や孫たち

34女の内次女と次男が夭折、3男も養子に出したが19歳で早世

娘の伴侶には、大学首席を選び、多くの孫、曾孫に恵まれる

長男博は、弁護士で起業家、教育者。佐藤栄作のブレーン(博の葬儀では佐藤が友人代表)

博の1人息子健一は、東大工卒、電気化学の第一人者で、東大・京大教授。本多・藤嶋効果を発見し、人工光合成の研究の基礎を築く。文化功労者。2011年死去

長女輝子の夫は植村恒三郎。東京帝大林学科を首席で卒業、入会地の研究で著名。41女に恵まれ、何れも博士か裁判官

三女伊佐子の夫は林学者で東大農学部長。木炭・パルプの研究で業績。22女に恵まれる

4女康子の夫は大村清一で、森林行政に関係する内務官僚。文部次官から日本育英会の初代理事長。第1次吉田内閣の内務大臣、鳩山内閣の防衛庁長官。その息子も防衛庁長官

「鶏口となるも牛後となるなかれ」が口癖

l  本多静六博士奨学金制度

還暦を前に資産処分を検討

秩父の山林全て約2600haを埼玉県に寄付、収益の半分を奨学金にすることが条件で、1954年から奨学金制度の運用開始、現在まで2500名が利用

帝国森林会に対しては、著作権を寄付。36版を重ねた『森林家必携』というベストセラーの印税で、森林会の収入の一部として貢献。現在も73版が3630円で発売

l  晴耕雨読の楽隠居

太平洋戦開戦と共に、軍部が勤倹貯蓄で知られた静六を広告塔として使い始める

1942年、『決戦下の生活法』発刊して協力するが、出陣学徒が白木の箱に入って帰って来るのを見て、軍部に利用されることに耐えられなくなり伊東市郊外に「歓光荘」を建て隠棲

l  希望を失うことなく

79歳で敗戦を迎え、資産の大半を失うが、1948年敬老の日制定に際し、NHKからの講演依頼を機に講演活動を再開すると、門前市をなす状況に

l  『私の財産告白』

楽隠居を先延ばしにして、人生に関する啓蒙書の執筆に注力、その中の1冊が『私の生活流儀』で、老衰するから働けないのではなく、働かないから老衰すると書いている

大きな反響を呼んだのが『私の財産告白』で、資産形成のノウハウを満天下に公開

人生相談にも手を広げ、各誌に出たものを纏めて『人生案内 実話身の上相談』を発刊

l  帰還兵の若者に夢を語る

1951年、飛び込んできた帰還兵の投資相談にも気軽に乗ってあげる

金儲けのできる人間は偉い人間だと断言するが、根本的な心構えであり、重要なのは生き方の問題だとする

l  楽老期をどう過ごすか

『人生計画の立て方』の中でも別に章を建てて、老境の生き方・暮らし方の秘訣を挙げる

老いの到来を素直に認め、自然な老人化に任せる

早くから陰徳を積み、老年期はその陽報がもたらされるのを、あってもよし、なくてもよしという気楽な気持ちで楽しむこと

l  120歳寿命説

大隈重信の寿命125歳説は、生物の成熟までの年数の5倍が平均寿命だとする動物全般の例に倣ったものだが、静六も成熟を24年とし、120歳を寿命説をうちたてる

釈迦も、「120歳を上寿、100歳を中寿、80歳を下寿とし、それ以下は夭死(わかじに)」と説く

l  身近な者の相次ぐ死

1929年、後藤新平死去、享年71

1931年、渋沢栄一死去、享年91。葬儀では埼玉学生誘掖会を代表して弔辞を読む

同級だった河合(1931)も川瀬(1932)も相次いで他界

1949年、本郷高徳死去、享年72

l  巨木倒れる

自伝『本多静六体験85年』を書き上げたところで心筋梗塞で倒れ入院

1952年死去、享年85

故郷の久喜市は、「本多静六博士を顕彰する会」が発足、生家近くの本多静六博士生誕地記念公園には胸像が建てられ、2008年には三崎の森公園内に「本多静六博士の森」が整備され、2013年には没後60年事業として本多静六記念館開設

 

 

 

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本多静六とは?

東大教授から蓄財の神様に!

本多静六とは「人生即努力、努力即幸福」のモットーのもと、戦中戦後を通じて働学併進の簡素生活を続け、370冊余りの著作を残した「蓄財の神様」である。

東京農科大学(現在の東大農学部)の助教授を務めながら「月給4分の1天引き貯金」と11頁の原稿執筆を開始。研究生活のかたわら日比谷公園の設計や明治神宮の造林など大きな業績を残すだけでなく、独自の蓄財投資法と生活哲学を実践して莫大な財産を築いた。

多くの成功者に絶大な影響を与えた、伝説の億万長者である。

 

略歴――波乱万丈85年の生涯

幼少期

1866(慶応2)年、埼玉県に折原家の第6子として誕生。

地元では有名な餓鬼大将で、学問には無関心。遊びに夢中な少年であった。

しかし9歳のときに父・禄三郎が脳溢血で急死。家に多額の借金が舞い込み、極度の緊縮生活を余儀なくされる。

静六が「人間というものは満ち足りた状態にあるときには、反発心も努力しようとする気も起らないが、不足不遇の状態にあるとかえって求むる心が強くなり、奮発努力するものだ。」と語るように、家運を挽回すべく向学心を高めたこのとき、静六の自覚的努力の第一歩が始まったのである。

苦学時代

静六の向学心は燃え上がり、14歳からは農閑期の半年間は上京し勉学に励み、農繁期の残り半年間は帰省して農作業に勤しむ生活を繰り返す。

そして1884(明治17)年、苦学の末に官立の東京山林学校に入学。

一度は落第するも、雪辱の意気に燃え猛勉強し、次学期には進級し成績も優秀になる。

先生から「お前は幾何の天才だから、もう出席しなくてもよろしい」と言われたときのことを静六はこう振り返っている。

「とにかく私も努力しさせすれば人並み以上、天才近くにもなれるのだという自覚自身が、私の一生をどれだけ力強く鞭撻してくれたかわからない。」

その後も猛勉強を続け、静六は東京山林学校を主席で卒業することになる。

留学

25歳で元彰義隊隊長・本多晋の一人娘、栓子と結婚。

東京山林学校の卒業とともにドイツへ留学し林学を追究する。半年間をターラント山林学校、以降の1年半年間をミュンヘン大学で過ごした。

しかし静六はここでまた苦境に立たされる。本多家が詐欺に遭い、留学中の静六への送金が途絶してしまったのだ。

この経済的受難により、静六は学費を縮小するべく4年間の課程を2年間で修了するという冒険的な計画を立てる。

毎晩34時間睡眠という猛勉強の末、修了試験に合格。ミュンヘン大学博士号を取得した。

このときのことを静六は「終生忘れることのできない光栄のシーン」と振り返っている。

教授時代~晩年

1892(明治25)年、ドイツから帰国すると東京農科大学(現在の東大農学部)の助教授に就任した。大学を卒業して間もなく、また25歳という若さでの就任は異例のことだった。

またこの9月から亡くなるまで、著述原稿として価値をもつクオリティの原稿を11ページ書き続ける行ないを実践。後に370冊以上の著書を遺した礎である。

通常の講義だけでなく演習林の管理、さらに大隈重信からの依頼で東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師を嘱託され、多忙の日々を送る。

1899(明治32年)に学位令が改正されると、日本で初めての林学博士に任命される。また教務の余暇を利用して山林の効用や林学宣伝の啓蒙活動に努めた。

そのほか日比谷公園の設計、明治神宮の造林、国立公園や大学演習林の創設に携わるなど大きな業績を残す。そして1927(昭和2)年の停年退職を機に、家族に最小限度の財産を残し、学校・育英・公益の関係諸財団へ匿名で寄付。

1952129日、満85歳で死去。370冊以上もの著書、各方面での多大なる功績を遺した末の大団円であった。

 

 

 

Wikipedia

本多 静六(ほんだ せいろく、慶応2721866811 - 昭和27年(1952129)は、日本林学者造園家株式投資家。日本の「公園の父」といわれる。苦学して東大教授になり、「月給4分の1天引き貯金」を元手に投資で巨万の富を築き、大学定年退官と同時に全財産を寄付した。旧名、折原静六。孫に光触媒研究の本多健一がいる。

経歴[編集]

武蔵国埼玉郡河原井村(現埼玉県久喜市菖蒲町河原井)に折原家の第6子として生まれた。東京山林学校に入学するまでのあいだ河原井村で少年時代を過ごした。当時の河原井村は、戸数25軒ほどの小さな村だったが、中でも折原家は代々名主役を務める裕福な農家だった。ところが9歳の時に父親が急死すると同時に多額の借金が家に舞い込み、今までとは違った苦しい生活を強いられるようになった。

しかしそれでも向学心は衰えることなく、14歳の年、志を立てて島村泰(元岩槻藩塾長)のもとに書生として住み込み、農閑期の半年は上京し勉学に努め、農繁期の半年は帰省して農作業や米搗つきに励むという変則的な生活を3年間繰り返した。

明治17年(18843月、東京同人学校(後に東京農林学校から帝国大学農科大学)に入学した。卒業時には首席となり、銀時計が授けられた。卒業1年前の明治22年(18895月、元彰義隊隊長本多敏三郎の娘・詮子と結婚し婿養子となった。

東京農林学校(現在の東京大学農学部)を卒業とともに、林学を学ぶためドイツ留学した。ドイツでは、2つの学校に学び、最初はドレスデン郊外にあるターラントの山林学校(現在はドレスデン工科大学林学部)で半年、この後ミュンヘン大学へ転校し、さらに1年半学問を極めた。ドクトル学位を取得後、欧米を視察して帰国。母校の東京農林学校の助教授教授になった。

日比谷公園を皮切りに、北海道大沼公園福島県鶴ヶ城公園埼玉県羊山公園東京都明治神宮長野県臥竜公園石川県卯辰山公園福岡県大濠公園ほか、設計・改良に携わった公園は多数。東京山林学校卒業後に留学したドイツをはじめ、海外に十数回視察に赴き、明治期以降の日本の大規模公園の開設・修正に携わった。

東京駅丸の内口駅前広場の設計も行っているほか、行幸通りも本多が担当し、その後歴代の弟子達が改良設計に携わる。本郷高徳白沢保美関口鍈太郎上原敬二永見健一中島卯三郎田村剛は東大時代の弟子である。また、後藤新平とはドイツ留学時代に知り合い、その後も親交を続けた。後藤から関東大震災からの復興の原案を依頼された際、2昼夜不眠不休で素案を作成した。

また、昭和3年(1928)当時の比企郡菅谷村(現、埼玉県比企郡嵐山町)にある現嵐山渓谷周辺を訪れた際、風景が京都の嵐山(あらしやま)によく似ていることから、武蔵嵐山(むさしらんざん)と命名した。のちに同地周辺の駅名(東武東上線、菅谷駅・現武蔵嵐山駅)や自治体名(比企郡菅谷村)は、町制施行に際して嵐山町(らんざんまち)と改称している。

人物像[編集]

幼少時に父親を亡くした経験とドイツ留学でのルヨ・ブレンターノ教授の教えから、勤倹貯蓄を処世訓とした。奈良県・吉野の土倉庄三郎の書生をしながら直接林業を学び、後に日本で最初の林学博士兼同人作家となった。日々1ページ原稿を書くことを常としたため、376冊に及ぶ著作がある。

ドイツから帰国後、給料の4分の1を貯金する「4分の1天引き貯金」を開始し、貯金を株や公共事業などに投資して多額の資産を形成した。投資家として巨万の富を築いたが、退官を機に匿名でほぼすべてを教育、公共の関係機関に寄付したことでも知られる。ただし、本多静六を称えて地元に記念碑が作られた際には、関係各位に申し訳ないことと恥ずかしさから、息子を代理で出席させている。

数多くの処世訓を残し、「経済の自立なくして自己の確立はない」「職業の道楽化」「見栄を捨て生活を合理化する」などの処世訓を残した。

久喜市では本多静六博士顕彰事業を行っている。1992年、生誕地に近い国道122号線沿い(当時)に本多静六生誕地記念園が完成し、1995年には記念園が埼玉県内で初の「道のオアシス」となった。2000年、菖蒲町生涯学習文化センター内に本多静六記念室が完成した。2013年、没後60年記念事業として、本多静六記念室を久喜市菖蒲総合支所内に移転し、本多静六記念館と改称した。

2002年、千葉県野田市郷土博物館所蔵の「染谷家文書」から川間小学校の設計に深く関わったことが明らかになった。

略年譜[編集]

1880 島村泰氏(岩槻藩塾長)に書生として師事。

1884 東京山林学校(現東京大学農学部)に末席で入学。

1886 東京山林学校廃止にともない、東京農林学校予科3年に編入学。

1887 本科生に進級。

1890 帝国大学農科大学が発足し首席卒業。本多家の養子となる。ドイツ留学。ターランド山林学校(ドレスデン工科大学林学部)、ミュンヘン大学に学ぶ。経済学博士号取得。

1893 帝国大学農科大学の助教授に就任。

1894 東京専門学校(のちの早稲田大学)講師に就任。

189843 本多静六林学博士提唱 神武天皇祭43日が「植栽日」となる。現在の全国植樹祭

1899 林学博士の学位を取得。学位論文は『日本森林植物帯論』。

1899 水源林の保護と育成を東京市および東京府に進言。府から森林調査嘱託の辞令を受け、市に引き継ぐまで、森林経営に携わる。

1900 東京帝国大学農科大学(東京大学農学部)の教授に就任。

1901 日比谷公園の設計調査委員に就任。

1902 鉱毒調査委員を委嘱。

1915 大日本山林会理事に選任され、明治神宮造営局の参与に就任。

1919 帝国森林会理事および副会長に就任。

1930 国立公園調査会の委員に就任。所有していた山林(秩父郡大滝村、現秩父市、約2700ha)を埼玉県へ寄贈。

1938 東照宮300年祭記念調査会の委員長に就任。

栄典[編集]

位階

1892(明治25年)926従七位

1906(明治39年)101正五位

1911(明治44年)1020従四位

1916(大正5年)121正四位

1922(大正11年)120 - 従三位

1927(昭和2年)415 - 正三位

勲章等

1904(明治37年)1227勲六等瑞宝章

1912(大正元年)1218勲三等瑞宝章

1930(昭和5年)125帝都復興記念章

1952(昭和27年)129勲一等瑞宝章

主な公園設計と風景策[編集]

春採公園(北海道釧路市)、1916年(大正5年)、1937年(昭和12年)に再度の改良設計

大沼公園風景利用策(北海道七飯町)、1913年(大正2年)

室蘭公園(北海道室蘭市

松鳥公園経営(宮城県松島町)、1909年(明治42年)

温海温泉改良私(山形県鶴岡市

鶴ケ城公園(若松公園設計案、福島県会津若松市)、1917年(大正6年)

偕楽園改良(茨城県水戸市)、1920年(大正9)

敷島公園改良設計(群馬県前橋市)、1915年(昭和4年)

日光風景利用策(栃木県日光市)、1914年(大正3年)

日光社寺境内改良案(栃木県日光市)、1912年(明治45年)

伊香保温泉の新経営(群馬県渋川市

大宮公園(氷川公園)(埼玉県さいたま市)、1885年(明治18年)9月開園。1915年(大正4年)に策定した東京市嘱託職員長岡安平・同市技師井下清による拡張計画案に代わり、1921年(大正10年)の本多と田村剛による「氷川公園改良計画」により本格的な公園整備

清水公園千葉県野田市)、1929年(昭和4年)拡張開園の際に改良設計。

飯能遊覧地(埼玉県飯能市

森林公園と奥秩父(埼玉県秩父市

羊山公園(埼玉県秩父市)

南房総国定公園(千葉県鴨川市

日比谷公園東京都[2]1901年(明治34年)

奥多摩風景利用策(東京都奥多摩町

大磯公園(神奈川県大磯町

箱根風景利用策(神奈川県箱根町)、1914年(大正3年)

舞鶴城公園改良設計(山梨県甲府市)、1923年(大正12年)

遊亀公園(山梨県甲府市)

軽井沢遊園地設計方針(長野県軽井沢町)、1911年(明治44年)

懐古園改良設計(小諸公園)(長野県小諸市)、1926年(大正15年)

臥竜公園(須坂町公園)(長野県須坂市)、1926年(大正15年)に設計。昭和6(1931)築造。「日本さくら名所百選」及び『日本の名松100選』選定。

山ノ内温泉風景利用策(長野県山ノ内町

城山公園(長野県飯山市

天竜峡風景利用策(長野県飯田市

村杉温泉風景利用策(新潟県阿賀野市

卯辰山公園(石川県金沢市)、1923年(大正12)設計方針

芦山公園(福井県武生市

中村公園愛知県名古屋市

清洲公園(愛知県清須市

定光寺公園(愛知県瀬戸市

日本ライン風景利用策(愛知県犬山市

岡崎公園改良設計(愛知県岡崎市)、1917年(大正6年)。1989年(平成元年)に「日本の都市公園百選」「日本さくら名所百選」。

鶴舞公園改良(愛知県名古屋市)、1909年(明治42年)開園の名古屋市初の公園。1912年(明治45年)に改良設計。

岐阜公園岐阜県岐阜市

養老公園(岐阜市養老町)、開園は1880年(明治13年)、1912年(大正元年)に改良設計

大津森林公園(滋賀県大津市

琵琶湖風景利用策(滋賀県)、1912年(明治45年)

箕面公園(大阪府箕面市)、1913年(大正2年)

住吉公園(大阪府大阪市

浜寺公園(大阪府堺市

有馬温泉風景利用策(兵庫神戸市

城崎温泉改良(兵庫県豊岡市

布引水源村(兵庫県神戸市)

六甲山公園設計(兵庫県神戸市)   

奈良公園奈良県奈良市

和歌山公園和歌山市)、1901年(明治34)に公園として開放。その後1915年(大正4年)本多によって改良設計された。 

城山公園島根県松江市

広島市の風景利用策(広島県広島市)

宮島公園 厳島公園改良案(広島県廿日市市)、1912年(明治45年)

帝釈峡風景利用策(広島県庄原市

日和山公園(山口県下関市)、1914年(大正3年)

岩国風景利用策(山口県岩国市

大濠公園福岡県福岡市)、1924年(大正13)に新設の公園として設計

東公園西公園(福岡県福岡市)

帆柱公園(福岡県北九州市

清滝公園(福岡県北九州市)

由布院温泉発展策(大分県由布市

青島保護利用策(宮崎県宮崎市

霧島公園(鹿児島県霧島市

金華山公園(宮城県)、1911年(明治44年)

門司公園(山口県)、1923年(大正12年)

広島県佐伯郡桜尾城址公園(広島県廿日市市)、1912年(大正元年)

尾道公園(広島県)、1915年(大正4年)

南山公園(韓国ソウル)、1917年(大正6年)

天王川公園(愛知県津島市)1919年(大正8年)

常盤公園(茨城県水戸市)、1920年(大正9年)

八幡市公園(福岡県)、1920年(大正9年)

壽山紀念公園(台湾高雄)、1925年(大正14年)

蔚山城址公園(朝鮮蔚山)、1926年(大正15年)

新馬山公園(朝鮮馬山)、1927年(昭和2年)

小諸公園(長野県)、1937年(昭和12年)

著書[編集]

『私の財産告白』実業之日本社(1950) ISBN 4-408-39582-X、文庫版(2013)

『私の生活流儀』実業之日本社(1951)、文庫版(2013)

『人生計画の立て方』実業之日本社(1952) ISBN 4-408-39584-6 文庫版(2013)

『本多静六体験八十五年』大日本雄弁会講談社1952『本多静六自伝 体験八十五年』実業之日本社(2006、改題・再編集されたもの) ISBN 4-408-39586-2、新版 (2016)

『わが処世の秘訣』本多静六著 三笠書房 ISBN 4837900593 知的生きかた文庫(1985)

DVD[編集]

『学問と情熱 35 本多静六 いのちを育てる 森の実学』紀田順一郎(総合監修)/仲里依紗柄本明(ナレーター) 紀伊國屋書店

係累[編集]

本多静六は三男四女の子沢山であった。次女の美祢子は3歳、次男の武は5歳、三男の勝は19歳で早世。「祖父は学業成績優秀なことを大切に考え、娘の婿にすべて成績一位の者を選んだ」(三浦道義)

植村恒三郎 林学博士東京帝国大学)、九州帝国大学教授(娘婿)静六の長女の輝子(てる)と結婚し四男一女を儲ける。

植村敏彦 医学博士東京帝国大学)、国立療養所東京病院第一内科医長、第一診療所長(孫)恒三郎長男

植村誠次 農学博士東京大学)、林業試験場土壌部土壌肥料科長(孫)恒三郎次男

植村秀三 東京高等裁判所判事、弁護士(孫)恒三郎三男

植村恒義 工学博士東京大学)、東京大学名誉教授(孫)恒三郎四男

植村栄治 法学博士東京大学)、元・慶應義塾大学法科大学院教授、現・大東文化大学法科大学院教授(曾孫)

河内十郎 文学博士東京大学)、東京大学名誉教授(曾孫)植村恒三郎と輝子の長女である河内幸子の次男

三浦伊八郎 林学博士東京帝国大学)、東京帝国大学農学部長(娘婿)静六の三女のイサ子と結婚し二男二女を儲ける。

三浦高義 農学博士東京大学)、東京大学教授(孫)伊八郎長男

三浦道義 大蔵官僚を経て第三銀行頭取(孫)伊八郎次男

大村清一 衆議院議員防衛庁長官内務大臣(娘婿)四女の康子と結婚し三男二女を儲ける。

大村襄治 衆議院議員、防衛庁長官(孫)清一長男

本多博 弁護士(長男)

本多健一 理学博士パリ大学)、工学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、東京工芸大学長(孫)博の長男

正木隆 農学博士東京大学)、森林総合研究所森林植生研究領域長(健一の三女の夫)

遠山益 理学博士東京教育大学)、お茶の水女子大学名誉教授(曾孫の夫)

その他[編集]

l  首かけイチョウ - 道路拡張により伐採されることになった日比谷見附のイチョウの大木。当時移植は不可能という声が多かったなかで、「自分の首にかけても」と日比谷公園への移植を実行し、成功させた[28]。推定樹齢400年。日比谷公園松本楼の脇。

l  本多静六博士育英奨学金埼玉県に寄贈した山林に基づく奨学金制度。1954年から貸与を行っている。

l  鉄道防風林 - 東北・北海道の鉄道を雪から守るための防雪林を作ることを提案したことでも知られる。

l  赤松亡国論 - 1900年(明治33年)に「我国地方ノ衰弱ト赤松」という題名で発表した論文。林学者の生態学的研究が林業に応用された最初の事例とされる。アカマツの跋扈する森林の処方対策について述べている。同論文は高山樗牛によって「赤松亡国論」と呼称され、この呼称を本多自身が講演等でしばしば用いたため、「赤松亡国論の本多」と紹介されることになる。

l  由布院温泉発展策 - 1924年(大正13年)、由布院町(後の湯布院町、現在の由布市)の依頼で講演、ドイツのバーデン=バーデンを紹介し、町全体を森林公園に見立てる温泉町形成を促した。

l  魯迅の短編「髪の話」中、登場人物が留学時代に読んだ新聞に本田博士へのインタビューが掲載されていた話が登場する。

 

 

 

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