約束の地 大統領回顧録 I 2021.3.19.
2021.3. 約束の地 大統領回顧録 I 上下
A
Promised Land 2020
著者 Barack
Obama 第44代アメリカ合衆国大統領。08年選出、2期にわたり大統領を務めた。これまで執筆した『マイ・ドリーム バラク・オバマ自伝』『合衆国再生 大いなる希望を抱いて』はいずれもニューヨークタイムズ紙のベストセラー・リストにランクイン。09年にはノーベル平和賞。現在は妻のミシェルとワシントンDCに在住。マリアとサーシャという2人の娘がいる
訳者
山田文 イギリスの大学、大学院卒。西洋社会政治思想を専攻
三宅康雄 早大商卒
長尾莉紗 早大政経卒
高取芳彦 ニュース・書籍翻訳者
藤田美菜子 早大第一文卒
柴田さとみ 東外大欧米第一課程卒
山田美明 東外大英米語学科中退
関根光宏 慶応大法卒
芝瑞紀 青学大総合文化政策学部卒
島崎由里子 早大商、東外大欧米第一課程卒
発行日 2021.2.21.第1刷発行
発行所 集英社
(上巻 そで)
待望のオバマ元大統領の回顧録第I巻。アイデンティティを探し求める青年時代から、自由主義諸国を代表する国の指導者として活躍するまでの、読み手の心を揺さぶる旅路が綴られる。そこには、オバマ自身が政治について学んできたことだけでなく、大統領1期目に起こった歴史的に重要な出来事、さらには私的な部分に至るまでが詳しく描写されている。それはまさに、劇的な変化と混乱の時代でもあった
本書を通して読者は、オバマの感動的で私的な物語を追体験することになる。初めて政治的野心を抱いた時期から、草の根運動の力を示したアイオワ州予備選での画期的勝利を経て、歴史的な転機となった08年11月4日の勝利宣言に至るまで。そしてついに09年1月、第44代大統領に就任し、この国で最高位の職に就く最初のアフリカ系アメリカ人となるまでの過程は読者を惹きつけてやまない
オバマは大統領時代を振り返りながら、大統領権限の強大な力やその限界について独自の考察を示すとともに、アメリカの党派政治や国際外交の力学について非凡な見解を披露する。読者は、ホワイトハウスの大統領執務室や危機管理室の中へ、さらにはモスクワやカイロや北京などへと案内される。そしてオバマと共に閣僚人事について検討し、世界金融危機に対処し、ウラジーミル・プーチンの人物像を見定め、乗り越えられそうにない逆境を克服して医療費負担適正化法を通過させる。また、アフガニスタン戦略について軍指導部と衝突し、ウォール街の改革に取り組み、メキシコ湾原油流出事故に対応し、ネプチューン・スピア作戦を承認してオサマ・ビン・ラディンの殺害に成功するのである
本書の内容は、極めて内省的だ。それは、地域のまとめ役でしかなかった1人の男が歴史に勝負を挑み、世界の舞台で自分の信念を試した物語でもある。オバマは、アフリカ系アメリカ人として大統領選に立候補し、「希望と変革」というメッセージに支えられた同時代の人々からの期待を担い、倫理的問題が絡む課題に対処することがいかに難しいかを率直に語っている。また、自分に敵対的な国内外の勢力について本音を述べ、妻や娘たちのホワイトハウスでの生活をありのままに記し、自己不信や失望について語ることさえ恐れない。それでも、偉大な実験が連綿と行われているこのアメリカではいつでも進歩は可能なのだ、という信念が揺らぐことはない
民主主義は天から与えられるものではなく、共感と共通認識を基に、国民が一丸となって日々作り上げていくものである。美しく力強い筆致で綴られた本書には、オバマのそんな強い思いが表現されている
アフリカ系アメリカ人霊歌『Great
Camp Meeting In The Promised Land』より
おお、飛べよ、飽くことなく
飛べよ、飽くことなく
飛べよ、飽くことなく
約束の地では盛大な伝道集会(Camp Meeting)がある
はじめに
第1部
賭け The
Bet
第1章
1979年、カリフォルニア州のオクシデンタル大入学、2年間で社会運動に興味、特に公民権運動の若い指導者から感銘を受ける
その後のコロンビア大では純粋に理想を追った3年間を送る
レイシズムは必然ではなかったという確信があるからこそ、アメリカの理念、その来し方行く末を見守りたいと思う
アメリカ人であることの誇り、アメリカが世界で一番素晴らしい国だという考えは当然
独立宣言が謳う、「以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり…」。これこそが私にとってのアメリカ。トクヴィルが書いたアメリカ。身分の優劣が存在しないアメリカ。より良い暮らしを求めて西を目指した開拓者たちの、自由を渇望してエリス島に降り立った移民たちのアメリカ
アメリカとは、エジソンであり、大空へと飛び立ったライト兄弟であり、ホームスチールを得意としたジャッキー・ロビンソンだ。アメリカはチャック・ベリーであり、ボブ・ディランであり、ニューヨークの〈ヴィレッジ・ヴァンガード〉で歌うビリー・ホリデイであり、カリフォルニア州立フォルサム刑務所でライブを行ったジョニー・キャッシュだ。それまで見過ごされていたり、打ち捨てられたりしていたものを拾い上げ、誰の見たことのない美しいものに変えたはみ出し者たちだ
アメリカとはゲティスバーグで演説したリンカーンであり、シカゴでセツルメント運動に取り組んだジェーン・アダムズであり、ノルマンディーで激しく戦ったGIであり、ナショナルモールで勇気を持とうと同胞と自分自身に呼び掛けたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師だ
そして、合衆国憲法と権利章典。短所もあるが才能に溢れる思想家たちが考え抜いて作り上げた、揺るぎない、それでいて変化も受け入れる体制
それが、私の納得できるアメリカなのだ
1983年大学を卒業して始めたのがコミュニティ・オーガナイジングという、地域の課題解決に向けて普通の人たちを連帯させていく草の根運動で、シカゴを選び、多くの仲間を得た。運動の成果はすでに、ハロルド・ワシントンをシカゴ市初の黒人市長にしたことに現れており、僅か5年の在任の後心臓発作で急逝し、市政は元市長の息子に奪還されていたが、ハロルドの下で着実に世の中は変わっていき、多くの人々に希望を与えた
88年、ハーバード・ロー・スクール入学。2年目には『ハーバード・ロー・レビュー』の初の黒人編集長に選ばれた
第2章
ロー・スクールの1年終了後のインターンでシカゴの弁護士事務所に行き、すでにアソシエイトだった地元サウスサイドで育ったミシェルが教育係となり、交際に発展
ロー・スクールの卒業が迫り、将来の進路として、シカゴに戻ってコミュニティ活動に携わりながら、市民権を扱う小規模な事務所で弁護士として働く、チャンスがあれば選挙に立候補することを考える
1992年結婚
1992年の大統領選で、有権者登録を推進する「プロジェクトVOTE!」に参加、イリノイ州内で史上最大規模の活動
シカゴ大ロー・スクールで教える傍ら、雇用差別を専門に扱う小規模な事務所で弁護士として働き始める。ミシェルは会社法の仕事をやり尽くしてシカゴ市の企画開発局に移り、更に非営利団体で若者のリーダーシップ訓練プログラムを指揮する
1995年、連邦下院議員の不祥事による補欠選挙に立候補しないかとの誘いがあり、共通の知人から紹介された女性の州上院議員が辞めて出馬するのでその後任にと言われ、政界進出を決断、応援してくれる人もいて立候補に必要な700人の登録有権者の署名集めに奔走。連邦下院議員選挙にはジェシー・ジャクソンの息子が立候補して当選したため、敗れた女性上院議員は翻意して州上院選に立候補、オバマには次回との圧力がかかったが、せっかく集めた支持者の声を無視できず、一方現職は不正な署名集めで脱落、念願の州上院議員に就く
イリノイはアメリカ全体の人口構成が最もよく反映されている州
州議会は、圧倒的多数党だった共和党のニュート・ギングリッチの絶対的指揮下にあり、強硬路線を突っ走っていて、90%の有権者は無関心
98年長女誕生のあと、育児を巡って結婚生活がぎくしゃくし始めたこともあり州議会での無力も悟って連邦下院議員への転出を期して出馬したが、現職の黒人が選挙運動期間中に息子が銃撃で死亡した同情票もあり、30ポイント差で大敗
第3章
01年次女誕生の頃、州下院の多数党だった民主党が州選挙区見直しの権利を獲得したこともあって、民主党の政策実現のために州内を遊説して回り、改めて州内のあらゆる階層の人たちの結びつきこそ共通の目的実現に必須だということを知る
アメリカの人種的、民族的、宗教的分断に、そして私の人生を構成する様々な要素に”橋を架ける活動”こそ、自分が追求していたものだと悟る
本気で現状を変えたければ、出来るだけ幅広い層に向けて、出来るだけ幅広い層を代表して語る必要がある、そのための最良の方法は、例えば連邦上院に出馬すること
これまでもアフリカ系アメリカ人が国政に転じており、前上院議員のキャロル・モズリー・ブラウンもその1人、当選した時は国中が沸いが金銭スキャンダルで落選
上院議長への就任が決まっていた私の政治顧問や、ジャーナリストからメディアコンサルタントに転じていたデイヴィッド・アクセルロッドの支持を得て上院への立候補を決断、ミシェルにも最後の挑戦だといって説得
当時はまだ連邦上院にアフリカ系アメリカ人はいなかった
民主党では、現職が再出馬せず、キャロルも大統領選を選択、州議会でも立法で成果を出すことに邁進して評価を得、ジェシー・ジュニアは立候補せず
02年10月の反戦集会でのスピーカーに招かれたのが試金石、「すべての戦争に反対するのではない。アルカイダとの戦いに決着をつけ、抑圧的な政権を支援するのをやめて、中東石油への依存度を下げるべき」と話したことが、やがて爆撃開始、混迷が深まり、民主党が反戦の立場をとるようになると、先見性のある内容だったとして脚光を浴びた
草の根的に人々の意見を聞こうとし、その意見を街頭演説に活用した
州の5大紙が私への支持を表明、対立候補の家庭内DVが発覚したことも手伝って、04年3月の民主党の州予備選では53%の支持を獲得、同時期の共和党の投票総数をも上回る
あらゆる層から票が集まったことが、全米の公選公職者の目を引き付けた
さらに、総選挙まで5カ月残したところで、共和党の対立候補にいくつものスキャンダルが露呈し、選挙戦から撤退。ジョン・ケリーから7月の民主党全国大会での基調演説の依頼が来る。8分の予定を17分に延長してもらい、すべて自分で考えていたことを草稿にしたが、 全米に生中継され、一気に知名度を上げる
上院選では、共和党が苦し紛れになんと黒人の保守派の扇動主義者を立ててきたが、妊娠中絶や同性愛を非道徳と決めつける過激な発言がイリノイ州で受け入れられるわけがなく、州の上院選史上最大の差で彼を破ったものの、国政選挙全体では大統領選、上下両院選とも共和党が圧勝
上院議員に当選して、絶版になっていた本が再版されてベストセラーになり、新しい著書のために目の飛び出るような前払い金を提示
新米の上院議員として参考にしたのは、4年前に鳴り物入りで上院議員となったヒラリー・クリントン。勤勉さ、中身のある活動、有権者への配慮で評価を高めていた
上院で少数民主党を率いてきたサウスダコタのトム・ダシュルの番狂わせの落選で職を失った首席補佐官ピート・ラウズは、30年の連邦議事堂での経歴・経験と幅広い人脈から「101人目の上院議員」と呼ばれていたが、私の首席補佐官を引き受けてもらう
同じイリノイ州選出の先輩上院議員ディック・ダービンが懇切丁寧に上院デビューを助けてくれたし、あらたに民主党院内総務になったハリー・リードも応援してくれる。ネバダの寒村の極貧家庭からのし上がった苦労人で、分が悪い状況を乗り越えよとする意志が共通していたからこその意気投合だったのだろう
上院には党派を超えた友情のようなものが育まれていた。特に最も偉大な世代Greatest Generation(主に1901~27年生まれの第2次大戦世代)においては顕著だったにもかかわらず、近年ではイデオロギー的にぎすぎすするケースが多いが、私は保守的な議員との間にも共通点を見出すことがよくあった
連邦上院議員だからこそ携われることの1つが外交政策。早速委員長に手紙を書いて、核兵器不拡散の問題で仕事をしたいと意思表明、さっそく05年には委員長に同行してロシア・ウクライナ・アゼルバイジャンを歴訪。その間にハリケーン・カトリーナが来襲
ハリケーンの被災者への支援のもどかしさや、イラクを訪問して泥沼化しつつある戦況に心を痛め、もっと早く変化を起こすために自分がどんな役割を担うのかを決める必要に迫られる
第4章
個人の一生は思いがけない災難や偶然によって、受け入れがたいほど大きく左右される。せいぜい自分たちにできるのは、正しいと思うことを信じ、混乱の中にも何らかの意義を見出し、配られた手札でその一瞬一瞬、品位と度胸を持って勝負することぐらいだろう
人気が沸騰し、各州の党員集会や候補者たちからゲストに招聘され、08年の大統領選への出馬さえ取り沙汰され始め、先輩に勧められてテッド・ケネディに助言を仰ぎに行き、「君が機会を選ぶのではなく、機会の方が君を選ぶのだ。君にとって唯一となるかもしれないこの機会をきみ自身の手で掴むか、そうでなければ機会を逸したという思いを一生抱えて過ごすか、そのどっちかだ」と言われる
ミシェルは、まだ生活が落ち着いていないとして大反対
中間選挙の数週間前に2冊目『The Audacity of Hope(邦題:合衆国再生―大いなる希望を抱いて)』が出版され、ますます大統領選出馬へヒートアップしていく
ネットには”オバマを大統領に”という運動が立ち上がる
ブッシュ政権やイラク戦争への嫌悪感といった追い風で、中間選挙では民主党が主要な戦いをほぼ制し、上下両院で多数を獲得。勢いをかって大統領選への準備を開始
自分が思い描くアメリカは実現可能で、自分の信じる民主主義は手が届くところにあることを証明するための戦いが始まる
第2部
YES WE
CAN
第5章
07年2月、イリノイ州議会議事堂前で大統領選出馬宣言。リンカーンが「分かれたる家」の演説で、聖書の言葉を引きながら、奴隷制度を巡り解体に進みかけていた連邦国家の危険性を訴えた同じ場所で訴えたのは、抜本的な変化の必要性、医療サービスや気候変動といった長期的問題に取り組む必要性、ワシントンに巣くう党派政治から脱却する必要性、国民の積極的な政治参加の必要性
民主党内の対抗馬はジョン・エドワーズとヒラリー・クリントン。エドワーズは、ジョン・ケリーの副大統領候補になったのち貧困者救済センターの立ち上げなどで話題をさらっていたが、労働者階級の出身にも拘らず、身につけたばかりの大衆迎合主義はどこか表面的に聞こえたが、国民皆保険構想には感銘を受ける。ヒラリーは、素晴らしい才能と人柄にも拘らず、ホワイトハウス時代の恨みやわだかまり、硬直化した思い込みから逃れられないだろうと思えた
資金調達では圧倒的に不利な立場にいたし、当選した暁には間違いなく富裕層の税率を上げることになるため、大口資金提供者の何人かを失ったが、支持者の間には私の選挙戦が特権や地位のためのものではないという共通の認識が出来がっていき、月を追うごとに資金提供者の構成が変わり、少額の寄付が、大部分はネットを通じて続々と集まるようになる
さらに陣営の気持ちを盛り上げてくれたのが、アイオワ州選対チームの活動 ⇒ アイオワ州では州の代議員が支持する候補者を決めるために党員集会の形をとる、対話集会型民主主義なので、出来るだけ多くの無党派層に集会への参加を呼び掛けることが必要で、私自身も1年の内87日間をアイオワ州で過ごし、街の隅々に浸透する努力をした
サウスカロライナの集会で救われたのは、全米有色人種地位向上協会の支部で活躍する中年の黒人女性が、突然立って皆に、「Fired up(燃えているか)!」と叫ぶと、聴衆も「Ready to go(さあ行くぞ)!」と答え、call and responseでその場を盛り上げてくれて、落ち込みがちだった気持ちを奮い立たせてくれたこと
有権者に教えられたことの1つが、一般的な通念をただオウムのように繰り返しても有権者には響かないこと、自らの正しいと信じることを率直にぶつけなければいけないことを学ぶ
アイオワ州の討論会の後、世論調査で僅か1%の差だがトップに立ち、マスコミにも注目されるとともに確実に反応を肌で感じられるようになるが、9月の全国ベースの調査では活動の遅れもあってヒラリーとは20ポイントの差
11月のジェファーソン・ジャクソン・ディナー(民主党が資金調達のために年1度開く夕食会、伝統的に党員集会の日に向けたラスト・スパートの行事とされ、その時点での情勢を知るためのバロメーターとされる)のスピーチで3年半前の党全国大会で得た時と同じしっかりした手ごたえを感じた。一方で、危機感が芽生えてきたヒラリー陣営からの攻撃が増してくる
第6章
アイオワ州を8ポイント差で制したニュースは全米を駆け巡る。ヒラリーは3位に落ち、バイデンは選挙戦から撤退
5日後のニューハンプシャーの予備選の直前になって、ヒラリーが女性中心のグループと面会した時に、「厳しいハンデと向き合いながら」公職に人生を捧げてきたことを雄弁に物語るシーンでヒラリーが思わず滅多に見せることのない素直な感情をあらわにする場面がマスコミに取り上げられ、彼女の出馬によりこの国が持っていたジェンダーに関するあらゆる固定観念が表面化し、結果的にはヒラリー有利に働く
敗戦の結果を踏まえ支持者に対し、「どんな障碍が立ちはだかっても、変革を求める声は止められない。この国の歴史はいつも不可能と思えることにもくじけずに取り組んできた多くの人々の希望の上に築かれてきた」といって、さらに「挑戦などできるはずがないと言われ続けた何世代ものアメリカ人たちはその都度その信念をシンプルな言葉にして答えてきた。人々の勇気が集約された言葉、それは”Yes We Can”」というと、みんながその言葉を大声で繰り返し始めた。3つの単語をスローガンにしようと提案したのは上院議員選挙の時のアクセルロッドだった(第3章)
次のネバダ州は、最初からヒラリーが圧倒していたが、結果はヒラリーの12人に対し、オバマは13人の代議員を獲得
「黒人のアメリカも、白人のアメリカも、ラテン系のアメリカも、アジア系のアメリカもありません。あるのはアメリカ”合衆国”だけです」この言葉を教えてくれたのは白人の祖母。04年の民主党大会のオバマの演説のなかで最も人々に記憶されているフレーズ。共通する人間性の方が互いの違いよりも重要だという考えかたは、オバマのDNAに刻み込まれている。民主主義社会において大きな変化を起こすためには過半数が必要となるが、アメリカにおいてそれは、人種や民族の垣根を超えて連携することの必要性を意味している
人種問題を前進させるための即効薬はシンプルで、選挙で勝つことであり、そのためには私がホワイトハウスで働く姿を想像するなどとてもできないという層からも支持を得る必要がある
一方で、私の出馬に対する黒人有権者の反応は複雑で、その多くは恐怖心によって駆り立てられた反応。これ以上やったらすべてを失い兼ねないことを恐れることからくる防御的な悲観論というべきか、黒人コミュニティには、ヒラリーがより安全な選択肢だという感覚があるようだった
あらゆる層の支持を得て、安定した過半数の票を集結させ、不平等や教育機会の不足の解消といったアジェンダを国政の議論の中心に据えて、しかも成果が出せることを示したかった。そのためには全員の心に届く政策を掲げ、白人を変革への障碍ではなく仲間として巻き込む必要があるし、アフリカ系アメリカ人の苦闘を公平・公正・寛容な社会を実現するための戦いとしてより大きな文脈に位置付けなければならない
ジェレマイア・A・ライト・ジュニア牧師と初めて出会ったのは、私がコミュニティ・オーガナイザーとして活動していたころ。彼のトリニティ・ユナイテッド教会はシカゴでも最大規模の教会。バプティスト派の家に生まれ、黒人教会の伝承に染まって育ち、一方で大多数が白人生徒の一流校に通う。ブラック・パワー運動の力強い語り口を吸収し、アメリカの社会秩序に対する左派的な批評の視点を身につけた。白人の圧倒的に多い宗派の教会でアメリカ最高の牧師の1人と言われるまでに頭角を現し、私も熱心な信者ではなかったが、牧師に憧れ、大統領選出馬表明の日も聴衆の前でライト牧師に祈りを捧げてもらう予定だったが、直前になって「この国は白人の優越性を信じ、黒人の劣等生を信じ、神への信仰よりも強くそれらを信じてきた」との発言が飛び出し、聴衆の面前での祈りは取りやめに
この出来事によって、私の中に燻ぶっていた国政の最高位を目指すことへの不安が改めて掻き立てられた。私は異なるルーツを持つ自分の人生を1つに統合しようと努めてきた。長い時間をかけた末に黒人社会と白人社会の間を違和感なく行き来できるようになり、友人たちの間をつなぐ懸け橋になり、広がり続ける自分の世界を結び付けられるようになってこそ1つの世界なのだという認識に辿り着いた
第7章
次がサウスカロライナ。アフリカ系アメリカ人の割合が高く私たちに有利といわれていたが、ネガティブ・キャンペーンの始まりで、白人票の支持が伸び悩む。討論会も乱打戦となり一気に戦いの激しさが増す。”犬笛政治”(特定の集団に向けて人種差別意識を煽る政治手法)と同様な卑劣の陰を感じる。選挙直前白人の支持率は10%にまで下がったが、結果は黒人票の80%、白人票の24%を獲得して圧倒
スーパーチューズデーの前にキャロライン・ケネディが私への支持を表明、翌日にはテッド・ケネディも続く
スーパーチューズデーでは、22州(米領サモアを入れると23)中13州で勝利、ニューヨーク、カリフォルニアを僅差でヒラリーに譲ったが、全体の代議員獲得数では13人上回る
共和党支持者の多い”赤い州”で圧勝したことも喜ばしい結果
デジタルネットワークを取り入れたことが勝利に貢献。メールに貼られたリンクが陣営のメッセージ拡散を後押しし、孤立していた人々の間に新たなコミュニティが形成された
9.11を契機に星条旗のラベルピン(背広の下の襟につけるピン)をつけ、国民としての連帯を表現していたが、ブッシュのイラク侵攻でピンをやめていた。上院議員の大半がつけるのをやめていたが、ローカルテレビのインタビューで指摘され、「兵士に敬意を抱いていない」と言って非難された。過去の大統領選では一切話題にならなかったのに
07年5月には、シークレットサービスの警護がつく。私のコードネームは「レネゲード」。通常は党の指名争い決着後だが、私の場合は脅迫の度が増したための例外的措置
08年2月末までには勝利が見えてきたが、ヒラリーは有利な州が残っていることもあって党大会までは指名争いを続けると言明
勝利が目の前に迫った油断から戦略ミスを犯してテキサスで負けた時は、「オバマは白人労働者層の有権者と繋がることができない」と言って付け込まれた
ジェレマイア・ライト牧師の過去の黒人急進主義的な発言の映像が出回った時には、ついに覚悟して初めて真正面から人権について演説を決断。ライト牧師が人種的遺物の表象であることを説明したうえで、白人についても十把一絡げに人種差別主義者と見做すのではなく、彼等が粗暴な黒人に対し抱く恐怖や不快感にも理解を示す。フィラデルフィアでの演説は全国ネットで生中継され、ネットでも24時間以内に100万余りが視聴、当時の閲覧記録を更新、全米の有識者や社説執筆者からも好意的反応
ペンシルベニア州予備選での勝利は難しかったが、支持率は徐々に回復しつつあったのに、この時点で選挙選最大のミスをする ⇒ サンフランシスコの資金調達イベントで、ペンシルベニア州の労働者は自分の利益に反するにも拘らず、選挙で共和党候補を推す人が多い理由を問われた時、「彼等の不満や恨みを表現する手段として、銃や宗教、自分と違う人々への嫌悪、移民への反感、貿易への反感にしがみ付いたとしても驚くことはない」と言ってしまった。言わんとしたことは、「彼等が失望感を抱き、信仰であれ、狩猟であれ、より伝統的な家族観やコミュニティ感であれ、自分の人生で揺るぎなく続いてきた伝統や習慣に目を向けたとしても驚くことではない」ということで、イリノイやアイオワで白人有権者が私に投票した理由も、中絶や移民のような問題で意見を異にしても、私が根本のところで彼らに敬意を払い彼等を気にかけていると感じたからこそ、彼等は私に票を入れた
このわずかな言葉状の御お買いが大統領になってからもずっと、私が白人労働者層を理解していないとか、彼らに手を差し伸べていないという批判の根拠として引用された。その対極を示す立場や政策をとり続けてもなお、こうした批判は消えなかった。歴史を通じ、アメリカの政治家達は経済や社会情勢を巡る白人の不満を黒人等の非白人層に容易に振り向けて来た。それを否定せずとも、白人有権者の不満を理解し、共感することはできる。そんな明白な事実を述べるときにすら、配慮や繊細さが欠かせない。うんざりだった
勢いづいたヒラリーは、銃を持つ権利への支持を盛んに宣伝し、9ポイント差で勝利
次の戦いはヒラリー優位のインディアナとこちらが大幅な優位にあるノースカロライナ
投票の直前、ライト牧師が全米記者クラブに登場、無作法な記者の巧妙な質問責めにあって、激しい怒りとともにアメリカは骨の髄まで人種差別に染まっていると断言、ネーション・オブ・イスラムの指導者ファラカーンを称賛。私も牧師と永久に縁を切ると宣言
ノースカロライナは13ポイント差で勝ち、インディアナも実質的に引き分け、ヒラリーの敗北宣言はなかったものの、実質的に決着がついた
第8章
08年夏には、選対の最優先事項は民主党内の融和に移り、副大統領候補にヒラリーを推す声もあったが、ビル・クリントンが明確な役職のない状態でホワイトハウス内を歩き回れば面倒を引き起こすことは確実で、別な候補を選ぶことに
本選挙は、当選ライン270獲得のために、州ごとの勝利をどう組み合わせる必要があるか、過去20年間、大半の州は共和党支持か民主党支持かで固まっており、残るオハイオ、フロリダ、ペンシルベニア、ミシガンなど勝負の分かれ目となる一握りの州にすべての時間と資金を集中させてきたが、今回は全米に展開してきた選挙運動の盛り上がりを、共和党優位の州でも活用しようとした。特にコロラド、ネバダ等の西部諸州では勝てる確信があったし、マイノリティや若年層の票が延びればノースカロライナで1976年のカーター以来、バージニアでも1964年のジョンソン以来の勝利が見込めると踏む
共和党の候補は早々にマケインで決着したが、特定のイデオロギーに肩入れせず党派を超えた動きをすることで、共和党の「いかれた連中」からは名ばかりの共和党員RENO(ライノー)と見做され、強硬な右派のラジオ司会者を好む層から絶えず非難を浴びていたため、選挙戦の途中から彼等の機嫌をとろうとし始めたところから迷走が始まる
7月党大会の指名獲得を確実にした後に、中東でのアメリカの役割に精通するため、上院外交委員会・軍事委員会の議員2名を伴って9日間の視察へ
副大統領候補を最後まで争ったのは、バージニア州知事のティム・ケインとデラウェア州上院議員のジョー・バイデン。前者は私と同様リベラル派の公民権弁護士、後者はその対極にいた人。1人で熱くなって喋りつづける欠点はあったが、補って余りある実績と何より人柄に感銘を受けたことが決め手となって後者とする
8月末の党大会はデンバー・ブロンコスのマイル・ハイ・スタジアム。大会後には、3か月前に指名を受けていた共和党のマケインに少なくとも5ポイント差をつけていた
3か月たっても盛り上がりに欠けた共和党は、なんと副大統領候補に中央ではほぼ無名の44歳アラスカ州知事のサラ・ペイリンを持ってくる。経歴を見れば白人労働者の支持を獲得するにはうってつけで、”本当のアメリカ人”であることを大袈裟なほど誇示していたが、副大統領にとって最も重要な資質である大統領職を務める能力(特にマケインの年齢や悪性黒色腫(メラノーマ)の病歴を考えれば現実的な懸念)という面においても、また、この国を治めることに関連する問題のほぼすべてについて、彼女は一体自分が何を話しているのかまるで理解していないという事実はすぐ露見、はったりで乗り切ろうとする子どものように取り乱しただけでなく、外交政策や連邦政府の機能に関する基本的な知識は副大統領候補にはそれほど必要ないとまで言い出して大衆を納得させようとした
第9章
住宅バブルが膨れ上がり始め、08年9月にはリーマンの破綻を受けて財務長官のポールソンから金融システムのメルトダウンによりアメリカ経済が道連れにされそうになっているとの連絡が入る。サブプライムローン市場での債務不履行の急増を受けた住宅金融機関の破綻で金融メディアの不穏な見出しに気付き始めたのは07年春。9月には経済担当チームに対策の検討を命じていた
08年春には本格的な景気後退局面に入り、住宅バブルと低金利によって10年間隠されていた経済の構造的弱点が一気に噴出。ブッシュ政権は、税制優遇と税還付によって消費支出を喚起し、経済を刺激しようと1680億ドルの経済救済策について超党派の合意を取り付けるが焼け石に水
ポールソンからの協力依頼に応じたものの、マケイン陣営にはなんも対策はなく、逆にこちらの協力申し出には懐疑的で、大統領選の一時休戦を提案してきた
上下両院議長を交えたトップ会談で合意されたTARP不良資産救済法案は、民主党が賛成、共和党が反対という逆の結果となり否決、ダウは1日の下げ幅としては最大の778ポイント暴落
共和党は経済政策での無様な失態で、勝敗を分けるとされる重要州ミシガンでの選挙戦撤退を表明、戦局は一気に私に有利に展開
選挙活動の締め括りとなるバージニア州での集会の直前祖母が亡くなり遊説原稿が書き変えられた。「祖母は隠れた英雄で、そういう人がアメリカのあらゆる場所にいる。日々懸命に働き、家族のために我が身を捧げている、ひたすらすべきことをしようと努めている。それがアメリカという国です。私たちはそのために戦っているのです」
11月の投票日、ABCニュースが私の勝利を報道。リンカーン記念堂の写真を見ながら、リンカーンが考えていたことを反芻。「1つの民として見た、自分たちアメリカ国民の本質のことを。そして、この民主主義というものが辿ってきた軌跡のことを」
第3部
反逆者 RENEGADE
第10章
当選後初めてブッシュ夫妻の招待を受けて大統領執務室Oval Officeに入る
早速政府人事に入るが、対象は想像されるほど多くはない。連邦政府雇用の軍民300万の内、政治任用は数千人、さらに直接大統領と中身のある連絡を定期的に交わしているのは高官と個人補佐官を合わせ100人足らず
第1歩が大統領首席補佐官で、元シカゴ市長デイリーの資金集めの責任者からクリントン政権のenfant terribleと呼ばれ、08年当時はシカゴの下院議員、民主党が多数派を奪回した06年の下院選挙では党の議会選対委員長として旋風の仕掛人だったラーム・エマニュエルを抜擢
経済担当チームは、喫緊の課題への対処のため経験を優先、ニューヨーク連銀総裁のティモシー・ガイトナーを財務長官に、クリントン政権の財務長官ローレンス・サマーズを国家経済会議NECの委員長に起用。サマーズの方が上位だったが、横柄な態度と人種や性差別に関わる不適切発言から他のポストに回し、サマーズの特別補佐官として彼とともに出席してきたティムを長官に起用
次いで国防長官は、ロバート・ゲイツの留任。共和党支持者で冷戦タカ派、これまで接点もなかったが、現実を優先。イラクでの戦闘任務を徐々に減らし、アフガニスタンにテコ入れするという根本的な戦略の合意ができた以上、更迭する意味はなく、政治的にも、私が掲げていた絶え間ない党派的遺恨に終止符を打つとの公約の実践という意味で意義
安全保障担当チームの人選では、国連大使には元外交官のスーザン・ライス、CIA長官にはクリントン政権の大統領首席補佐官で党派を問わず高い評価のあったレオン・パネッタ、国家情報長官には退役海軍大将のデニス・ブレア
閣僚候補の中で論争のタネになったのが国務長官に指名したヒラリー。彼女の愛国心と職務への献身性を信頼、その人気と人脈を利用しない手はない。夫ビルの社会活動との利益相反の懸念もあって固辞されたが、何とか説得
第11章
最初の法案に署名したのは就任9日目。「リリー・レッドベター公正賃金法」で、雇用差別の禁止を謳う公民権法に基づく損害回復の訴え提起の期間を延長したもの
最初の難題は経済状況の回復で、公的支出拡大による景気刺激策
ワシントンでは超党派的な協力が見られた時代へのノスタルジーが広まっていた。世界においてアメリカ経済の優位が脅かされることはなく、外交政策も共産主義の世界的脅威によって規定され、社会政策の根底には、女性も有色人種も自らの立場をわきまえるという確信が潜んでいて、何れも両党が共有するものだった。そういう環境だからこそ、必要に応じて両党議員とも、遠慮なく党の境界線を跨いだ。慣習的な儀礼を重んじ、党派的な攻撃も強硬な戦術もほどほどの所で収めた。この戦後コンセンサスが崩れたのは64年のジョンソン政権での公民権法への署名。ベトナム戦の泥沼化、フェミニズムの台頭などを通じ政界再編が進行、人種問題やアファーマティブ・アクションの陰で保守的キリスト教政治団体の設立、同性愛の権利が叫ばれ、クリントンの弾劾裁判があって、アメリカの有権者とその代表たちはますます両極に引き裂かれていく
恣意的で不公平な選挙区の区割り(ゲリマンダー)がこの傾向を助長。さらにメディアの細分化と保守系放送局の出現が自分の政治的選好を強化する情報だけに従うことを可能したことで、私の就任前には赤=共和党、青=民主党の”大分断”がほぼ完了、下院の民主党議員は社会問題に関してはリベラル一辺倒であり、南部選出の白人民主党議員は絶滅危惧種となったし、下院共和党では穏健派が一掃され、現代史に例を見ないほど右に傾斜
ニュート・キングリッチ(共和党、95~99下院議長)が極端な右寄りの政策を掲げて42年ぶりに下院多数派を民主党から奪還すると予算案の承認拒否によりクリントン政権と真っ向から対立、政府機関を機能停止に追い込むなどの強硬姿勢に出るが、行き過ぎに批判が集中してやがて失脚、08年の大統領選では3番手につけるが途中撤退。世論は退いていったが、共和党内での影響力は残る
現時点で民主党は下院で77議席、上院で17議席優勢だったが、史上最大の緊急支出法案を記録的スピードで通過させるのは難しく、さらに手続き上の制度化された妨害行為である上院の議事妨害(フィリバスター)とも戦う必要があった。これは憲法上に記載はなく、1805年副大統領のアーロン・バーが、多数党だけが議会での審議を終了して採決を要求できる”採決へ向けた動議”の削除を迫り、審議を終わらせるための歯止めがなくなった上院では演説内容に制約が全くなかったことから多数党からの譲歩を引き出すまで延々と演説を続ける戦術が登場、それを防ぐため1917年には”審議打ち切りcloture"が導入され2/3(? 現在は3/5)以上の賛成でフィリバスターを打ち切れるようにしたものの、2000年からはフィリバスターを宣言するだけで有効とされるようになったため乱発・悪用が頻出、Super majorityと呼ばれる60票がないと実質的に上院通過が困難となり、共和党の票を少しでも取り込むためにオバマは悩まされる
就任第1週に作成したアメリカ復興・再投資法(復興法)は8000億ドル規模で、緊急給付(=失業保険の補填)、中間層をターゲットにした減税・企業を対象とした控除、将来に向けた公共投資の3本柱とする
共和党上院院内総務のミッチ・マコーネルと下院院内総務のジョン・ベイナーは徹底して拒絶反応を示し、民主党上院院内総務のハリー・リードや下院議長のナンシー・ペロシの尽力で党内の支持は何とか取り付けたものの、上院でのフィリバスター阻止には共和党議員の2票が必要で、そのためには下院でも丁寧な対応が求められた
下院共和党の集会に初めて大統領として参加、大半が中年の白人男性で、他には10人余りの女性と2,3人のヒスパニックやアジア系がいるだけ
裏付けもとらずに政治家の言い分だけを報道したり、言動の細部を切り取って激しい批判の対象とするメディアやSNSの普及によって、少数党の支持を取り付けるのは至難の業
中道共和党上院議員3人からの数々の要求と妥協して漸く復興法が両院を通過
第12章
建国の父たちが政府に権限を付与して以来、国民が政府に対して求める役割は、過去2世紀を経て変容してきた。初期の民主主義は多くを個人の自由に任せた結果、貧困とみじめさがもたらされ、新しい社会契約を構築する。社会の複雑化につれ、政府機能のますます多くの部分が社会保障に割り当てられるようになる。社会は繫栄し、誰に対しても公平な機会を与え、誰も沈むことのない地盤を築こうとする社会の利点は一般に理解されていた
こうした社会契約を維持するには信頼が不可欠で、一種のコミュニティとして成員の誰もが疎かにされることなく、1人1人が全体について発言できるようでなければならない
長い年月を経て、こうした信頼を維持するのが困難であることが明らかになった。とりわけ人種間の断絶がこの信頼に徹底的なダメージを与えた。アフリカ系アメリカ人やその他マイノリティグループが政府の追加支援を必要としているかもしれないと思えるようになるには、一定レベルの仲間意識と呼べるような共感が必要。彼等の個々の選択によるものではなく、残酷な差別の歴史の結果だということを理解しなくてはならないが、それは多くの白人有権者にとって容易なことではない。南北戦争時代の”40エーカーとラバ1頭”(解放奴隷に約束された補償)から、アファーマティブ・アクションに至るまで、人種的マイノリティを支援するために作られたプログラムはあからさまな敵意に晒され続けている
経済状況が厳しくなると、政府に対する市民の信頼は損なわれ、人々の視野は狭くなる一方で、政府の公正さなど信じられないという意見に靡いていく
現代の共和党を特徴付けているのは、信頼ではなく憤りを増幅させるストーリーを人々にアピールするやり方で、政治家たちはこのストーリーを中心的なテーマに据えている
金融危機への対応としてティムが提案した主要19の金融機関に対する”ストレステスト”の導入により、3カ月後には健全な銀行と不良債権の存在が明確に切り分けられ、救済策がピンポイントで働くようになり、リーマンの破綻から9カ月で危機を脱出
先手を打ったアメリカと対照的だったのが日本の”先送り”戦略で、そのせいで日本は経済が停滞した”失われた10年”を経験することになった
次いで崩壊の危機に見舞われたのが自動車メーカー。フォードはまだよかったが、他の2社は倒産寸前。クライスラーにはフィアットが興味を示していたので、GMのみに資本を投入、経営陣を入れ替えて危機を脱出
危機から10年以上が経過した今日でも対策の是非をめぐって激論があるが、結果については文句のつけようがないはず。TARPのほぼすべての融資は完済されおつりが来た
第13章
次いですべきことは軍事戦略の見直し。就任1カ月前にブッシュがイラクと地位協定を締結、段階的な米軍撤兵に合意、軍が提出した09年6月撤退開始、11年末までに完了の計画は私の選挙公約より3カ月遅く、イラク軍の訓練と支援のために5万を超す非戦闘員を残留させることから批判も多かったが、一層の混迷を避けるべく承認を決断
アフガニスタンの戦闘は、対テロ作戦として必要と考えていたが、状況はさらに危険なものとなっていて、現場からは派兵倍増の要請が来ている。新たに元統合特殊作戦コマンドの司令官マクリスタル中将を迎え、現地の状況に関する詳細な報告書を作成させ、新たな作戦計画で対応
金融危機の際、従来はグローバル経済の年中行事と化していたG20の緊急会議をワシントンで開催し、各国の協力を取り付けることに成功したが、アメリカのリーダーシップに対する信頼はすでに揺らいでおり、イラクへの対応やハリケーン・カトリーナへの対処、ウォール街のメルトダウンなどがその理由。経済の脆弱な後進国を一時的にアメリカが介入して事態を収拾したが、緊急融資やグローバル資本市場への継続的なアクセスと引き換えに通貨の切り下げや多くの緊縮策の実施など劇薬を飲ませたため、各国の人々を窮地に追いやっていた
第4部
グッド・ファイト THE GOOD FIGHT
第14章
サミットの顔ぶれには見知った人も何人かいた
イギリスのゴードン・ブラウン首相は、ブレアのようにきらりと輝く政治的才能の持ち主では決してなく、10年に及ぶ労働党政権に国民が飽き飽きしていた時に首相の座に就いたことは不運でもあったが、思慮深く責任感があり、国際金融を熟知、首相としては短命に終わったが金融危機の最初の数か月の協力関係が築けたことは幸運
第2次大戦後、独仏の和解はヨーロッパ連合のかつてないほど長期にわたる平和と繁栄の礎となり、ヨーロッパが一体となって動くことができるのは両国首脳の協調志向によるところが大きい。ただ、両首脳は性格的にこれ以上ないほど正反対
メルケルは、生真面目で分析的な感性を持つ。激しい感情や大袈裟な弁舌には懐疑的
サルコジは、激しい感情と大袈裟な弁舌そのものという人物。裕福な家庭に育ちながら、自分はアウトサイダーだという感覚を抱き、それが自らの野心の原動力になっていることを公言して憚らない。メルケル同様中道右派政党の指導者として名を上げたが、政策に関しては一貫性を欠き、メディアの大見出しや政治的な都合に左右されることもしばしば
BRICSの中では、ブラジルのルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルヴァ大統領はかつて労組のリーダーで軍事政権に抗議して投獄された経歴を持つが、02年大統領就任後は現実的な改革により経済の急成長をもたらしたものの、賄賂など不正の噂も絶えない
ロシアのメドヴェージェフ大統領は、新生ロシアの若き象徴的存在だが、技術官僚に過ぎず、真の実力者はプーチン首相であることは明白。ロシアによるジョージア侵攻・占拠の直後で、ロシアの公式見解を繰り返すだけだったが、私からの米露関係の”リセット”の提案には乗り気で、非軍事分野での協力関係には熱意を示す
南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領は新任。マンデラの党に所属し近代化への改革を説いていたが、大半の黒人は貧困と絶望から抜け出せないでいた
インドのマンモハン・シン首相は、自国経済の近代化を成し遂げた経済学者、シーク教徒。思慮深く聡明・誠実な人。経済発展にも拘らず、国全体では宗教とカーストによる分断は大きく、変化を嫌う偏狭な官僚主義が国を麻痺させていた
アメリカの優位性に挑戦しようとしているのが中国だが、まだ数十年先のことと確信。胡錦涛国家首席は強力なリーダーではないというのが一般的な見方。印象的だったのは経済政策を統括する首相の温家宝で、金融危機の現状について高度な見識を示した
G20では、世界金融危機への対応に関して合意に達したが、全体的な印象としては、冷戦終結後に世界を席巻した民主化と自由化と統合への潮流が後退しつつあるということで、一例がトルコ。急成長後エルドアン政権のやり方を見ていると、民主主義と法の支配の遵守に懸念を抱かざるを得ない。ヨーロッパ諸国間での極右政党の台頭も懸念材料
第15章
中東歴訪の旅に出て、カイロでは満員の聴衆を前に、民主主義について、人権と女性の権利について、宗教的な寛容について、そして安全なイスラエルと独立したパレスチナ国家との真の恒久平和について語りかけ万雷の拍手を浴びたが、その模様は私からの強い要求でエジプト社会の幅広い層に公開された
後年、私を批判する人のみならず支持する層の一部までが、その時の志高く希望に満ちたトーンと、2期にわたる大統領任期中に中東で起こった残酷な現実とのギャップをあげつらった。純朴さは罪であるとし、ムバラクのようにアメリカに協力的な人物の基盤を弱らせることで混沌を深める結果を招いたというのだが、今後とも同じ主張をし続ける
第16章
09年3月、国民皆保険制度の法制化に動き出す。過去7人の大統領の下でテッド・ケネディが果敢に戦ったテーマ。キックオフには病をおかして出席。1912年セオドア・ルーズベルトが選挙公約として掲げ、誰でも利用できる手頃な医療は特権ではなく権利であるという思考の種が撒かれ、医師や南部の政治家たちが共産主義的だとして反対し、大統領選は敗北したが、第2次大戦中の賃金統制下にあって、労働力確保のために各企業は民間医療保険や年金制度を導入。雇用ベースの保険制度が戦後も維持されたのは、労働組合がより充実した福利厚生を確保することによって新規加入者を勧誘しようとして個別企業の保険制度維持を擁護したからで、そのため政府主導の皆保険については動こうとしなかった
ジョンソン政権の「偉大な社会」政策で、現行保険制度の穴埋めから始め、全高齢者を対象に公的医療保険制度(メディケア)と、連邦と州が共同で資金を提供する低所得者向けの医療保険制度(メディケイド)が創設。80年代初めまでに国民のおよそ80%をカバー
医療産業の革新によって医療費がさらに高騰、様々な矛盾の噴出して、アメリカの国民1人当たりの医療費負担は他の先進国を大きく上回っていた
私の就任時点で保険未加入者は43百万、過去10年で家庭の保険料負担は倍増
クリントン政権では、ヒラリーが皆保険に言及して炎上していた
大がかりな医療保険改革法案は、アメリカ経済の1/6を再編することを意味した
新政権では、保健福祉省HHS長官に元カンザス州知事キャスリーン・セべリウスの下に医療保険チームを作る。上院の議席数が60を見込めるようになったことも追い風
4月にはメキシコで新型インフルエンザSARS発生、直ちにせべリウスの下で専門家集団に対応を一任。指示したのは、①最新の科学に基づいて決定を下すこと、②政府の対応を1つ1つ国民に説明する、政府が何を把握し何を把握していないかを詳細に伝えること
1年余りでパンデミックは収束
さらに、最高裁判事の欠員補充の機会が来たことも追い風。プエルトリコ系の黒人女性、連邦裁判事で第二巡回区控訴裁判所判事だったソニア・ソトマイヨールを抜擢
法案審議を進める中で起こったのがまたも人種関連の事件。ケンブリッジで黒人の研究者としてアメリカ随一の名声を誇るユダヤ系のヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア教授が自宅に入ろうとして鍵のトラブルで格闘していたところを近隣の住民から通報され駆けつけた警官の身分証提示要請を拒否、警官を人種差別主義者呼ばわりする。身分証は提示したが警官に罵声を浴びせ公共秩序を乱したとして逮捕される事件が発生。最高峰の経歴を有する黒人と、最上級に寛容な白人という環境をもってしても、この国の人種問題の歴史がもたらす暗雲から逃れることはできなかった。感想を求められた私は、「誰でも腹を立てるだろう。自宅にいると証明された人物を逮捕した警官は愚かな行動をした。この国にはアフリカ系アメリカ人やラテン系の人々が法執行機関によって不相応に呼び止められてきた長い歴史があることを私たちは認識している」と話したところ、「愚かな」の一言が物議を醸す。最終的にゲイツと警官をホワイトハウスに呼んでビールを飲みわだかまりを解消したが、黒人層からは大統領の対応に不満の声
第17章
09年7月には保険改革法案が下院を通過、最後は上院財政委員会を残すのみ
夏の間遊説に出た際、強烈な反対勢力として登場したのが”ティーパーティー”で、変わりゆくアメリカに対する人々の偽りのない恐怖心を右翼的政策と結びつけようとする組織的な活動で、TARPや復興法への反対集団から育ち、共和党内におけるポピュリスト的うねりを体現していた
漸く上院財政委員会を通過させたが、残るは民主党内の結束で、特に上院では必要な票ぎりぎりだったため、すべての議員がキャスティングヴォートを握ることとなり、様々な要求が出てきた。さらに、8月にケネディが死去、翌年1月の補欠選挙で民主党優勢が覆され、フィリバスターが現実の障碍となって、最後に残されたのが上院案を下院が無条件で承認すれば成立するという手法。議論の過程をテレビ中継することで、共和党の反論の論拠は薄く、対案も全くないことが暴露され、逆に民主党員には30百万の保険未加入者を救済するという法案本来の趣旨を改めて認識する機会となり、党内結束が高まる
10年3月、いくつかの修正を経た上院案を7票差で下院が可決
第5部
今ある世界 THE WORLD AS IT IS
第18章
ゲイツとは仕事上で密接な関係を構築。安全保障についての意見は一致
イラクでは、米軍の撤退にも拘らずアルカイダが支援するテロ攻撃が減り続け終わりが見えてきたが、アフガニスタンは逆に追加派遣にも拘らず混迷の度を増していた
現地の声に押されて国防総省は、大幅な増派計画を提出、メディアにもその計画をリーク
09年10月、ノーベル平和賞受賞決定
アフガニスタンではタリバーンを根絶やしにするのは非現実的として諦め、追加派兵はするが、現地政権の立ち直り強化に重点を注ぐことで一致
第19章
大統領選で私は、9.11以降に採用されてきた外交政策を変更すると約束。ワシントンではあらゆるものを脅威と見做し、歪んだプライドを掲げて一方的なやり方で突き進み、軍事行動を外交問題解決の常套手段とする考え方が支配的だったが、安全保障は他国との同盟と国際機関の強化にかかっていると確信。軍事行動は最後の手段であるべき
最も効果的な広報外交の手段として、外国訪問の際若者を集めての対話集会を活用
最初の1年間で、特にイラン、ロシア、中国の指導者とのコミュニケーションを通じて、強硬で無慈悲な指導者の思惑を変えさせることを目的とした”アメとムチ”のやり方が如何に困難であることを知る
09年7月、メドヴェージェフからの招待で、大統領として初のロシア公式訪問、家族帯同。核兵器の1/3削減、アメリカの畜産物に対する禁輸措置の一部解除の合意には成功したが、プーチンからは旧ワルシャワ条約機構諸国のNATO加盟承認や周辺国家を民主主義促進のもっともらしい口実で支持した結果ロシアに敵対するようになったことなど過去の米政権の取った行動への不満を長々と聞かされた
第20章
09年11月、初の中国公式訪問
中国の監視能力は国外においても際立っていて、遠隔操作であらゆる携帯電話を録音機器に変えられることは広く知られていた
中国とアメリカが30年以上にわたって表立った対立を避けてこられたのは、中国が鄧小平の教えを忠実に守り、”力を隠して好機を待った”のだ。その間工業化を優先、アメリカの支持を取り付けてWTO加盟を果たし、アメリカ市場で多額の利益を上げる。国際通商におけるルールのほぼすべてを巧みにかいくぐり、捻じ曲げ、破り続けていることを誤魔化しながら”平和的台頭”を推進、アメリカの知的財産の窃取にも関与していたが、アメリカは甘い対応し終始してきたし、グローバル化の過熱は中国との関係維持でアメリカにも大きな利益をもたらしていたので、対中批判の声は少数派にとどまった
世界経済が危機に瀕するなか、中国は金融危機管理において必要なパートナーだったが、アメリカ側からの強い圧力なくして中国が貿易慣行を変える積りはなさそうだった
訪中の機会に、日韓とも協力して中国に行動を改善させようと試みる。ASEAN会議にも出席してアメリカの方針を伝える
最初の訪問国は日本。話し上手ではないが感じのいい鳩山は、ここ3年足らずの間で4人目の首相、これは過去10年にわたって硬直し、迷走していた日本の政治を象徴、7か月後には首相の座を去る。天皇皇后陛下との面談は強く印象に残る。完璧な英語で挨拶され、振る舞いはフォーマルだが控えめで、声は雨音のように柔らかく、両陛下の来し方を想像した。皇后は自らが作曲したピアノ曲を贈ってくれて、孤独に襲われるときがあっても愛する音楽と詩のお陰で乗り越えられたのだと、驚くほど率直に語ってくれた
両陛下にお辞儀をしたことにアメリカの保守派コメンテーターが「国家への反逆だ」とまで言って騒いだが、アメリカでは一体いつの間にこれほど多くの保守派が正気を失う程の恐怖と不安に支配されてしまったのだろうと思った
中国でも数百人の大学生と交流、厳選された学生で他国の集会における若者のほとばしるようなエネルギーは感じられなかったが、少なくとも彼等の強い愛国心はすべてがうわべだけというわけではないと感じた
6月、国連安保理がロシア、中国の賛成も得てイラン制裁の決議
第21章
環境問題への取り組み ⇒ 温暖化対策が最優先事項にしたが、民主党系の大手利益団体、特に労組は雇用を脅かしかねない環境対策には盡く抵抗、共和党支持の有権者の傾向はさらに強い
1970年、環境保護庁EPA設立。政府の環境保全活動によって石油業者などが長い間苦しめられていた南部や西部に共和党の支持基盤が移るにつれ、党は環境保護を党派間争いの新たな材料にし、ブッシュ政権下では温室効果ガス削減のための国際的な取り組みに参加しようともしなかった
私は選挙戦では票を失わないよう気を付けながらできる限り環境問題にフォーカス、「排出権取引」制度を支持
クリントン政権下でEPA長官を務めたキャロル・ブラウナーを各主要機関の環境対策を統括する”気候変動の皇帝(climeateツァー)”と呼ぶべき役職に就け、長官にはアフリカ系アメリカ人の女性化学技術者リサ・ジャクソンを任命、温暖化対策チームを構成
景気刺激策予算8000億ドルのうち900億ドル余をクリーンエネルギー関連事業に充当
1963年制定の大気浄化法が90年に両党の賛成で改正され車の排出CO2を規制できるはずだったがブッシュ政権は放置、最高裁の判例もあって、さらにTARPで巨額の資金投入の見返りとして自動車労連も燃費基準の引き上げ等の規制強化を受け入れ
1992年、のちに「地球サミット」と呼ばれた国際会議がリオで開催され、その合意に基づく「京都議定書」が締結され、国際的な協調行動を詳細に規定し、各国が批准したが、クリントンは弾劾後の任期を全うするため共和党が多数を占める米議会上院への提出を断念、次のブッシュ政権で米国参加の可能性が消えた。批准しなかったのは他にバチカン市国、アンドラ、台湾、アフガニスタンのみ
12年に約束期間が終了する京都議定書を引き継ぐ協定の交渉が国連主導で進んでいた
12月には国連気候変動サミットに8年ぶりで復帰、それまでの議定書では責任のなかったインド・中国・ブラジルなどにも相応の負担を強いる「共通だが差異のある責任」をベースとした削減案を提唱、3か国とは30分の直談判で妥協点を見出し、それによってヨーロッパ諸国も同意、6年後には革新的なパリ協定が実現
第6部
苦境 IN THE BARREL
第22章
政権2年目はほとんど丸1年樽の中。問題山積で自己嫌悪に陥りなす術もなく底を打つまで落下していくような錯覚に陥る
夏のティーパーティー旋風と医療保険改革法案を巡る混乱から支持率が下がり続け、メディアの報道も例外なく批判的なトーンを強める
政治生命が下降線を辿った最大の要因の1つが経済の低迷で、”遅行指標”である失業率が1980年代初頭以来最悪の10%を記録
金融業界も大きな打撃を受けたにもかかわらず、国の経済的苦境に最も責任を問われるべきリーダーたちがとてつもなく裕福なままだという事実に変わりなく、国民の多くには露骨な不公平さばかりが漂い、10年初めのマサチューセッツ州始め中間選挙の年に行われた知事選などでの敗北が続く
フランクリン・ルーズベルトは、アメリカを不況から救い出すには、ニューディール政策を完璧に実行することより、取り組み全体が自信に満ちたものだというイメージを発信し、政府が状況に適切に対処していると国民に印象付けることが大事なのだと理解していた
私は、自らの政権の高潔さがいつの間にか欠陥に変わってしまったのかもしれないと危惧、10年3月の雇用統計で07年以来となる16万件余りの雇用が創出されたことが判明したことをメインに全国遊説で政権の浮揚を試みようとしたところに、ギリシャの金融危機が表面化、ヨーロッパ各国はいずれも自分のことで精一杯であるうえに中道右派政権が多く、ヨーロッパ全体の問題として捉える発想にはならなかった
アメリカ経済も年初に見えてきていた回復が急停止、6月の雇用統計はマイナスに戻り、政権浮揚の機会を逸する
ホワイトハウス内でも、歴代政権の中で最も多様性のある内閣を築いたという事実を誇りに思っていたこともあり、女性や有色人種のスタッフのマネジメントは死角。女性上級スタッフの本音を聞くと、知らず知らずのうちに男性の無意識的な差別に傷つけられていることがわかる
ホワイトハウスを開放、ミシェルが率先して”国民の家"にしようと様々な活動を開始、公共テレビ局とも協力して定期的にアメリカ音楽のコンサートを開催。ポール・マッカートニーやボブ・ディランも来てくれた
政権浮揚の契機と期待されたのはウォール街改革法案 ⇒ 最低自己資本比率の引き上げ、ストレステストの義務付け、FRBに破綻処理権限付与、今回実施した緊急対策の多くを正式に取り入れ、消費者保護の強化策、銀行に自己勘定取引を禁じたボルカー・ルールの復活などを含み、ドッド(上院銀行委員長)=フランク(下院金融サービス委員長)・ウォール街改革・消費者保護法として実現。上下院とも3名の共和党員が賛成に回り、上院は21票差、下院は45票差。フランクは同性愛者をカミングアウトした最初の下院議員
第23章
2010年初め、1930年代終わりに始まったメキシコ湾初の海底油田掘削事業のルイジアナにあるBP鉱区で大爆発発生、大量の原油が流出。直前にはウェストバージニアで最悪の炭塵爆発事故が発生したばかり。BPが全面的に補償を約束したが、海底の原油採掘パイプの破損で流出の規模が拡大、史上最悪の事故に。BPが噴出の現場や油まみれのペリカンの姿をテレビ放映したこともあって政権の無策に対する批判が集中
エネルギー省長官の機転で巨大な防噴のための封孔装置を設置して事故後2カ月で漸く流出を止める
これまでずっと与党は、政権を握って2年目の中間選挙では議席を失ってきたが、今回も劣勢は否めない。結果は投票率も40%、特に若者が大幅に減少、民主党候補は総崩れで、下院で63議席を失い、ルーズベルト政権1期目の中間選挙で72議席を失って以来の最悪の敗北
第24章
10年11月、APEC首脳会議出席のためアジア歴訪へ
中間選挙終了を機にホワイトハウスの職員が次々に退職
首席補佐官のラームもその1人。シカゴのデイリー市長が7期目を目指さないと宣言、かねてからの憧れのポストに挑戦したいというのを止めることは出来ず、シカゴ市長の弟でクリントン政権の商務長官を務めたビル・デイリーに後任を打診。1月就任
初のインド訪問。ガンジーはリンカーン、キング牧師、マンデラと共に私の思想に大きな影響を与えた。人間性は全人類に共通のものであり、あらゆる宗教は本質的に調和するという確固たる信念。すべての人間に平等な価値と尊厳があることを政治的・経済的・社会的制度を通じて認める義務がすべての社会にあるという考え方、これらの1つ1つが私の心に響いたし、その行動は言葉以上に感動的
現在のマンモハン・シン首相はインド経済復興の立役者。暖かく生産的な関係を築いていたが、その陰にはソニア・ガンディーがいた。彼女は故ラジーヴ・ガンディー首相の妻で、91年自爆テロにより夫が殺害された後国民会議派の総裁に就任。多数党となったのち、自らの代わりにシンを首相にし、息子を党総裁の後任に育てようとしていた
移民については制度が破綻していることは明らか。毎年数十万人が3110㎞のメキシコとの国境線を不法に超えており、対策として数十億ドルを費やし警備を強化しているが、不法移民の40%は合法的に入国した後不法滞在を続ける者たちで、総数推定1100万人
アメリカ経済のあらゆるセクターが不法移民の労働力に依存しているにも拘らず、多くの人は排外主義色を強める右派メディアによって扇動され、不法移民の取り締まりを叫ぶ
ドリーム・アクトは、子どもの時にアメリカに連れて来られた不法移民の若者に何等かの救済措置を取り、一定の条件下で合法的に暮らせる一時的な資格と市民権取得への道を与える法案で、2001年以来最低でも10種類が議会に提出
10年末の議会では上院で5票足りずに敗退したが、過去最少の差まで肉薄
中間選挙からクリスマス休暇の間の6,7週間は議会の動きが静かになるが、ブッシュ減税の期限が年末に控えていたこともあり、減税の2年延長を認めるのと引き換えに重要法案を含め99の法律を制定し、議会の生産性を急上昇させ、国民の景気への信頼感と私への支持率上昇に役立つ
第7部
綱渡り ON THE HIGH WIRE
第25章
ユダヤ系アメリカ人は数世代にわたってアメリカで差別を受けていた。トルーマンが外国の指導者として初めてイスラエルを主権国家として正式に承認、アメリカのユダヤ人コミュニティにこの国を支援するよう、国内の公職者たちに強く求めたが、それ以降イスラエルと近隣諸国との問題は、アメリカにとっての問題にもなっていく
1978年、カーターが仲介したキャンプ・デービッド合意は、イスラエルとエジプトの間で長期的な平和が確保され、シナイ半島がエジプトに変換され、ベギン首相とサダト大統領にノーベル賞がもたらされ、イスラエルとエジプトがアメリカにとって安全保障上の決定的に重要なパートナーとなった
1993年、クリントンの仲介によるオスロ合意では、アラファト議長がイスラエルの生存圏を認め、ラビン首相はPLOがパレスチナ人の正統な代表であることを認めパレスチナ暫定自治政府の設立に同意し、限定的ながらヨルダン川西岸地区とガザ地区で意義ある支配権を持つことになる。併せてヨルダンがイスラエルと和平協定締結
01~05年、第2次インティファーダでパレスチナ住民の大規模な抗議活動が暴力化
数百億ドルに及ぶアメリカからの軍事援助のお陰でイスラエル軍は地域最強の存在となり和平への態度を硬化、国境管理を強化するとともにテロも減少
黒人とユダヤ人の経験には本質的な繋がりがあると考える。場所を追われ苦しみを味わってきたが、正義への渇望を分かち合い、他者に深い思いやりを抱いて、コミュニティの結束を強化することで、やがてそこから解放されるかもしれない。そういう物語を共有しているので、ユダヤ人が自分の国を持つ権利を守りたいと強く望むが、共有された価値観故に、占領された土地で暮らすパレスチナ人が強いられている状態も無視できない
アメリカ・イスラエル公共問題委員会AIPACは、アメリカに揺るぎなくイスラエルを支援させることを目的とした強力な超党派のロビー組織。共和党議員はもとより、民主党議員でも共和党議員ほど親イスラエルではないと見做されるのを嫌がっていた
現在のイスラエルのネタニヤフ首相はアラブ人に対するあからさまな敵対心を隠そうともせず、AIPACの最もタカ派のメンバーや共和党の公職者たち、裕福なアメリカの右翼たちとうまく結びつく。安全保障上の最大の脅威はイランであり、核兵器獲得防止に向けた取り組みでアメリカと連携するが、パレスチナとの和平交渉には消極的
和平交渉進展への最初の試みは、ヨルダン川西岸にイスラエルが新たに入植地をつくることの一時停止で、09年6月何とか国連の場を利用して両者を席に着かせ、ネタニヤフから10か月間の入植許可発出停止を引き出したが、アッバースはその申し出を一蹴、カタール管理下のメディア・アルジャジーラの扇動もあってアラブ諸国も同調
硬化した関係を緩和させたのはエジプトのムバラクとヨルダンのアブドラ国王の仲裁で、10年9月に私は4者をホワイトハウスに招き仲介を試みたが、イスラエルとパレスチナが直接2者で会ったのは2回だけで和平交渉に進展は見られないままに終わる
北アフリカも含め、ほぼすべてのアラブ諸国で政府に独裁的かつ抑圧的な性質が見られること、真の民主主義が存在しないだけでなく、権力の座にいる者が自国民に全く説明責任を負っていないように思われることが大きな懸念材料だった
半世紀の間、中東の石油の安定供給確保のため、アメリカは地域の独裁者を味方につけてきたが、私は諦めずに人権問題を追求し続けた。外交政策顧問だったサマンサ・パワーの助言もあって、アメリカの中東政策を全面的に見直し
10年12月、チュニジアの路上で自らの体に火をつけた抗議行動が勃発、アルジェリア、イエメン、ヨルダン、オマーンにも広がる”アラブの春”の第1波の始まりで、一般教書演説では「アメリカはチュニジア国民を支持し、民主主義を求める全ての人々の声を支持する」と表明
重要な展開はエジプトで、ムバラクに対する大規模な反政府デモが発生し、アメリカは両者の板挟みになり、「秩序ある移行」を実現すべくムバラクに思い切った改革を提案、ムバラクも譲歩して次期大統領選への出馬を見送り議会に新しい選挙の予定を早めるよう指示を出したが暴動は収まらず、私は新政府への速やかな移行に着手すべきとの声明を出す
国防総省と諜報機関が私の声明に従ってエジプト軍と諜報機関に連絡を取り、抗議者への弾圧を軍が是認すれば将来アメリカ=エジプト関係に深刻な影響が及ぶと明確に伝え、暗にエジプトへの協力関係とそれに伴う援助はムバラクが政権の座に留まることとは関係なく、自分たちの組織の利害を守るために慎重に考えて行動した方がいいということを伝えていたことが功を奏して、軍主導でデモが鎮静化し、ムバラクは退陣、軍主導の暫定政府が新選挙に向けた準備を始めることを発表
私の声明は、ムバラクには影響を与えなかったが、地域には少なからぬ影響を及ぼし、アラブ諸国は総じて批判的。実際にも多くの国の反政府デモが激しさを増し、いくつかの国では改革が進められ、アルジェリアでは19年続いて非常事態法が解除、モロッコでは憲法が改正されたりしたが、多くのアラブの支配者にとってエジプトの最大の教訓は、どれだけ暴力を必要としようとも、国際社会から批判されようとも、抗議者たちを徹底的に弾圧する必要があるということで、特にシリアとバーレーンではひどい暴力が見られた
リビアのカダフィの弾圧は限度を超え殺戮がエスカレート、私は施政者としての正統性を失ったので権力の座を手放すよう呼びかける。軍事行動以外のあらゆる手段を講じる
アメリカが軍事行動を起こしてカダフィを止めるよう求める声が高まったのは、様々な点において道徳的な進歩の兆しだと思う。他国の殺害行為に軍事介入するという考え方は成り立たなかったが、唯一の超大国となったアメリカが外交政策において残虐行為の防止を重視する義務があるという考えが受け入れられるようになってきた
第26章
リビアに対し、同盟国間での役割分担を明確にした軍事作戦を策定、国連安保理の決議ではロシアは棄権に留まり、アラブ諸国からの支持も得て、NATO軍を前面に出して動き出す
警告にもかかわらずカダフィの攻撃は加速、初の南米訪問と重なったが、現地から大統領として初めてとなる軍事作戦の開始を承認
ブラジルでは、アフリカ系ブラジル人が全国民の半分を占め、アメリカの黒人同様人種差別や貧困を経験しており、私の訪問の重要性を増した
リビアの作戦は成功、米軍戦闘機の機器故障による墜落事故はあったもののほどなく多国籍軍がリビア軍を粉砕、米兵の犠牲者を出すことなく目標達成。新たに発足した国民評議会を裏面で補助
4月には次期大統領選への立候補を表明、資金調達イベントがスケジュールされる
中間選挙での勝利を背景に勢いづく共和党に対し、敗戦をいかに挽回するか。特に大幅な支出削減や法定債務上限厳守を主張する下院共和党をどう取り崩すか
11年2月、不動産王のトランプが、オバマはアメリカ生まれではなく大統領になる資格がない(バーセリズム)と主張しそれを広め始めたのも、政策やイデオロギーの違いとは関係なく、私が大統領であることにほとんど反射的ともいえる感情的な反応から出たもの
トランプも最初の2年間は私の仕事を認めてくれていたらしかったが、私が知る限りの不動産業者や企業経営者はみなペテン師だと言っていた
メキシコ湾の原油流出事故では油井修復の責任者に名乗りを上げたり、ホワイトハウスに大宴会場をつくる提案をしてきたり、何れも丁重に断ってきたが、今回のバーセリズムではメディアがそれに反応したことが意外。その筆頭がFOXニュース、人種にまつわる不安や怒りを煽ることで影響力を高め利益を上げてきた。毎日のようにトランプが登場し出生証明がないとの主張を繰り返していた
トランプに限らず、上院少数党院内総務のミッチ・マコ-ネルも下院議長のベイナーもトランプと大差なく、自らの発言が事実かどうかは重要ではなかった
第27章
01年12月以降、オサマ・ビン・ラディンの正確な居場所は謎
09年5月、ビン・ラディン追跡を最優先課題にすると宣言、CIA中心のチームを作る
アメリカは「テロとの戦い」を標榜してしまったがために、戦略的な罠に陥った。アルカイダの評判を高め、イラク侵攻を正当化し、イスラム世界との関係を悪化させ、この10年間のアメリカの外交政策を歪めてしまったところから、ビン・ラディンを危険な殺人鬼として抹殺すべきことを第一に考える
漸くビン・ラディンの連絡役という人物がイスラマバード郊外の高級住宅地にいることを突き止め、海軍特殊部隊にパキスタン当局との銃撃戦を避ける形の急襲計画を立てさせるトランプのバーセリズムはタカを括っていたらどんどん拡散してきたので、やむなくメディアを集めて全国生放送で問題山積の時にこんな茶番にかまけている暇はないと訴え、ある程度の効果があってトランプも渋々ハワイ生まれを認めたが、彼の主張はいかに浅薄であろうとも日を追うごとに支持を増やし、メディアも彼に放送時間を提供し続け、陰謀説を広めたために追放されるどころかかつてないほど大きな存在になろうとしていた
ゲイツ国防長官は空爆に固執し奇襲に反対、80年のイラン大使館人質事件でのイーグルクロー作戦の失敗の轍を踏んではならないと主張、バイデンも当時の失敗で政治生命を絶たれたカーターを引き合いに奇襲に反対
4月2奇襲作戦を承認し、統合特殊作戦コマンドJSOC司令官のマクレイヴンに全権を委ねる。5月1日「ネプチューン・スピア」作戦始動。ホワイトハウスで大統領として軍事作戦をリアルタイムで目撃したのは最初で最後。ブラックホークで突入後20分して「ジェロニモ特定・・・・ジェロニモEKIA=Enemy Killed in Action」の報告が入る
国内外の関係者に報告、主権を侵害されたパキスタンの大統領も妻がアルカイダに殺害されていたこともあり祝意を表明。既に主要ネットワークはビン・ラディン死亡のニュースを伝えていたが、深夜に声明を発表し全国に生放送される
国民の熱狂と一種のカタルシスを目にしながら、国民全体が同じ目的意識を共有することによるこうした一体感は、テロリストを殺害するという目標がなければ生まれないのだろうかという疑問も湧いてきた。それは私の大統領としての仕事が、いまだ理想にはほど遠い状況にあるということだと感じ、まだまだやるべきことはあると考えた
(書評)『約束の地 大統領回顧録 1』(上・下) バラク・オバマ〈著〉
■人間の魅力と分断の重苦しさと
政治家の回顧録は、自己弁護や自慢ばかりでつまらない。リベラルなオバマは、現実離れした理想ばかり語っているのだろう。こうした予断は見事に裏切られる。
小説のように五感を刺激する描写や、葛藤や失敗を自省する筆致。こうした魅力ゆえ、退屈とはほど遠い。ユーモアもある。訳文はこなれており、印象的な写真も多い。しかも前半は、痛快な成長と成功の物語だ。さまざまな失敗や挫折、あるいは妻ミシェルとの行き違いも経験しながら、オバマは一気に大統領まで駆け上がる。肌の黒い自分が大統領になれば、マイノリティーの子どもたちの世界観を変えられるとの思いからだ。
ところが、一転して後半は重苦しい。大統領となったオバマは、金融危機やイラク・アフガン戦争といった積み残しの案件や、油田事故のような予期せぬ事件の対応に追われる。困難や障害は多く、なにより共和党は最初から一切の対話や妥協を拒む。これは、分断の時代の同時代史だ。
アメリカ政治の研究者たちはオバマとトランプの共通性を指摘している。いずれも、2年目の中間選挙で敗れて議会で少数派となり、強引な政権運営を余儀なくされたからだ。今回のこの回顧録1が扱うのは任期8年のうち、比較的うまく政権運営できた最初の2年半だけで、クライマックスはオバマケアの成立。ビン・ラディン暗殺作戦が物語を締める。こうした構成でも重苦しさが漂うのは、憎しみを煽(あお)るペイリンやトランプの存在感が大きくなるからだ。
興味深いのは、現実主義者というオバマの自画像だ。「理想ではなく現実にできることをする」のが「政治の本質」だという。それゆえ教条的なリベラル派には厳しい批判が向かう。妥協で不完全になった法案でも、成果がないよりましだから。しかし、ただ現実に流されるだけでもない。分断を架橋して、何度も裏切られてきたアメリカの理念や約束を実現したい。本書には、この思いが一貫している。自由や平等という理念をきちんと実現する気があるのか、実現できると本当に信じているか。冒頭の問いかけは重い。
人物描写も印象的だ。スピーチでも質疑応答でも原稿を読むだけの退屈な胡錦濤。シカゴのボスたちのように狭い世界で取引するだけのプーチン。こうした辛辣(しんらつ)な評価は、オバマがめざした理想像とは対極にあるがゆえだろう。この回顧録が生き生きと描くのは、人びとに語りかける能力、知性や自己省察、人間としての魅力に優れたリーダーの姿だ。実際のオバマをどう評価するかは別にしても、こうした政治家像は、健全な民主政治では左右を問わず現実の政治家を吟味する基準になろう。
評・犬塚元(法政大学教授・政治思想史)
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『約束の地 大統領回顧録 1』(上・下) バラク・オバマ〈著〉 山田文、三宅康雄ほか訳 集英社 各2200円
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Barack Obama 61年生まれ。弁護士や上院議員を経て2009年1月から8年間、第44代アメリカ大統領。「核なき世界」を掲げ、09年にノーベル平和賞を受賞。著書に『マイ・ドリーム』『合衆国再生』。
バラク・オバマ回顧録『約束の地』に秘められたメッセージ
ホワイトハウスを去って3年10カ月。話題沸騰の著書のタイトルに込めた思いとは
2020年11月22日
初の黒人大統領として2期(2009~2017年)にわたってアメリカ合衆国を率いたバラク・オバマ氏の回顧録『約束の地(A Promised Land)』が11月17日に発売された。ちょうど大統領選でオバマ政権の副大統領を務めた民主党のバイデン氏がホワイトハウスを奪い返し、現職のトランプ大統領が敗北を認めないという前代未聞の混乱が続いているときだけに、回顧録への関心は高く、爆発的な売れ行きを見せている。日本ではもっぱら、今回の本の中で日本の政治家がどう言及されているかという些細なことに焦点が当たっているが、権力の中枢にあった大統領がこれほど華麗な文章と明晰な観察眼をもって、政治という現象を解き明かし、交渉した政治家の人物像を描いたことがあっただろうか。その一部を紹介するとともに、回顧録のタイトル「約束の地」に込められたオバマ氏のメッセージを読み解いてみよう。
オバマ氏は2017年1月に大統領職を去ってからすぐに回顧録の執筆にとりかかった。当初は1年を使って、500ページくらいの本を書き終えるつもりだった。しかし、書き始めるとどんどん膨らみ、結局に二分冊にすることになった。
今回の『約束の地』はその前半部分、上巻にあたる。2011年5月の米海軍特殊部隊によるオサマ・ビン・ラディン容疑者殺害までをカバーしているが、それでも700ページを超える。刊行も遅れて、ホワイトハウスを去ってから3年10カ月後になった。大統領選の年にぶつかったため、勝敗が判明した後に発売することになった。下巻がいつ刊行されるかは未定である。
興味深いのは、アメリカの回顧録や歴史の本につきものの詳細な注が一切ないことだ。脚注もなければ、巻末注もない。オバマ氏は「私は脚注と巻末注は嫌いだ」とはっきり序文に書いている。
確かに、いちいち注を参照していては、オバマ氏が重視しているストーリーの流れが中断される。そして実際、この回顧録は小説のように読めるのだ。
たとえば、オバマ氏が政権最大の功績と考えている医療保険制度改革を扱った第16章は次のように始まる。
「ホワイトハウスでの最初の春の訪れは早かった。3月中旬には空気は和み、日は長くなった。天候が暖かくなると、(ホワイトハウスの南側にある)サウス・ローンは、探索のできる私的な公園のようになった」
そのあとに大統領官邸の庭の自然を描写し、そこでの一家の暮らしぶりが紹介される。そして就任1年目の最大の喜びとして、4月中旬に家族に加わった愛犬ボーが登場する。このふさふさした黒い毛の犬(ポーチュギーズ・ウォーター・ドッグ)は、ジョン・F・ケネディ大統領の末弟で上院議員を長く務めたエドワード・ケネディ氏と夫人からの贈り物だった。
ケネディ上院議員はすでに不治の病(脳腫瘍)に冒されていて、この年の8月に亡くなる。そのケネディが最後まで願っていたのは、貧しい人でも安心して病院に行ける国民医療保険制度の導入だったとオバマは書いている。そこから自伝の筆は、アメリカにおける医療保険制度改革が挫折し続けた歩みを語り、本題に入っていくのだ。
このように具体的な細かい描写と大きな枠組みの話が巧みに絡まりあい、回顧録自体がすぐれたアメリカ現代史、アメリカ政治のテキストとなっている。
オバマが出会った政治家たち
政治家の回顧録のひとつの妙味は、その政治家が他の政治家をどう見たのか。人物評のおもしろさであろう。オバマ回顧録も例外ではない。
「ケミストリー」が良かったキャメロン首相
好意的に描かれているのはイギリスのキャメロン首相(2010~16年)である。
オバマ氏が最初にあったころは「40代前半で、若々しく、形式にこだわらない振る舞いを見せたが、それはよく考え抜いたものだった(あらゆる国際会議でキャメロンが最初にしたことは、上着を脱いでネクタイを緩めることである)。名門イートン校卒のキャメロンは問題を驚くほど深く理解し、言葉を巧みに操った。人生で逆境など味わったことのない人間が持つ、ゆったりとした自信にあふれていた。意見が対立するときでさえ、私は彼には好意を持った」
英語でいう、いわゆる「ケミストリー」(相性)が良かったということだろう。
プーチン大統領には厳しい評価
いっぽう、不信に満ちた厳しい評価を下しているのは、ロシアのプーチン大統領(2000~2008年、2012年~)である。
オバマ氏は、プーチン大統領のような人物には、どこかで出会ったような奇妙な感覚を覚えた。側近にロシアの大統領の印象を聞かれたとき、「監獄を支配するボスに似ている。ただし、核兵器と国連安保理の拒否権を持っている点では違うがね」と答えた。
この発言は笑いを誘ったが、オバマ氏は回顧録でこう続ける。
「私は冗談でそういったのではない。プーチンが私に想起させるのは、かつてシカゴやニューヨークの都市政治を牛耳った連中だ。タフで世知に長けて非情な連中である。彼らは自分の強みをよく知り、自分たちの狭い経験の外の世界には決して出ない。親分子分関係、賄賂、ゆすり、詐欺、そして時には暴力をふるうことも、商売の正当な手段だとみなしている。プーチンにとってもそうだが、彼らにとって人生はゼロサムゲームだ。自分たちの仲間でない人とも取引はするが、結局、信頼はしない。自分だけで自分のためだけに行動する。そういう彼らの世界では、ためらいがないことや、権力の増大以外に高尚な志を持ち合わせないことは、欠点ではない。むしろ長所なのだ」
外国の指導者に対してこれほど辛辣な言葉が書かれたことがあっただろうか。
短い言及にとどまる鳩山首相
日本については、2009年11月の訪日に触れる形で、ほぼ1ページを割いているが、その大半は、当時の天皇皇后両陛下に会って深く感銘した思い出を克明に綴っているものだ。当時の鳩山由紀夫首相については、10行にも満たない。
「私がアジアに旅してから20年以上が経っていた。7日間のアジア歴訪は東京から始まった。私は東京で日米同盟の将来についてスピーチし、鳩山由紀夫首相と会談して経済危機、北朝鮮、沖縄の海兵隊基地の移転計画について話し合った。鳩山は不器用だが好感の持てる人物(A pleasant if awkward fellow)だった。3年足らずの間で4番目の首相で、私が就任してからは2番目だった。そのことは(頻繁に首相が交代したことは)過去10年の日本を苦しめた、動脈硬化に陥り目標を失った政治の現れだった。その鳩山も7カ月後にはいなくなってしまった」
700ページに及ぶ回顧録で日本の記述がこれでほぼ尽きてしまうのは、現在の日本の存在感の小ささを示すようで、寂しい限りである。
エピソードの宝庫のような回顧録の紹介はひとまずこのあたりにして、回顧録のタイトル『約束の地』について触れてみたい。
実は、回顧録のタイトルを知ったとき、私自身は思わず声をあげてしまった。その選択に、オバマ氏の秘めた思いを見たような気がしたからだ。
この話を語るには、歴史の時計を52年前に戻さねばならない。
暗殺前夜、キング牧師の最後の演説
52年前、1968年という年はアメリカにとって大激動期だった。
ベトナム戦争は泥沼化し、どこにも出口が見えなくなっていた。反戦運動の盛り上がりがジョンソン大統領を再選出馬断念に追い込み、政治は混迷した。いっぽう黒人差別の撤廃を求めた公民権運動は関連法案を成立させたが、差別の実態はいっこうに改まらない。都市部では黒人の怒りが爆発し、警官隊との銃撃戦が繰り返された。騒然とした日々が続いていた。
そのなかで、全米を揺るがす事件が起きた。4月4日、南部テネシー州メンフィスを訪れていた公民権運動の指導者マーティン・キング牧師が凶弾に倒れたのだ。キングは暗殺される前夜、自分の運命を予感するような最後の演説を行っていた。
「われわれの前途には困難な日々が待ち構えています。しかし、私にはそれはもう問題ではありません。なぜなら私は山頂に登ってきたのですから」
「神は私が山に登ることをお許しになりました。私は回りを見渡しました。そして『約束の地』(the Promised Land)を見て来ました。私はみなさんと一緒にそこにはたどり着けないかもしれません。ですが、私が今晩みなさんに知ってほしいことは、私たちはひとつの民として『約束の地』にたどり着くのだ(we, as a people, will get to the Promised
Land)ということです。ですから私は今晩幸せです。何も心配していません。私の目が主の来臨の栄光を見たのですから」〈演説の日本語部分は、黒崎真『マーティン・ルーサー・キング――非暴力の闘士』(岩波新書)から〉
それは嵐が吹き荒れた晩だった。だが、会場の教会を埋め尽くした2000人の聴衆は感動の涙を流した。当日の映像が残っているが、力強い演説には預言者の風格すらある。語り終えたキング牧師は、同僚に抱えられ崩れるように席に着いた。
見事に重なる二つの演説のキーワード
それから40年後。2008年11月4日は大統領選の投開票日だった。
この日の深夜、シカゴのグラントパークには、史上初の黒人大統領誕生を祝う2万人の観衆が集まっていた。オバマ氏は共和党のマケイン候補から敗北を認める電話を受けたあと、会場に姿を現した。そこで後に「変革の時」と題される勝利演説を行った。
「前途は長い道のりです」「1期4年では、目的地にたどりつけないかもしれません。しかし、アメリカよ、私は今夜ほど希望に満ちたことはありません。みなさんに約束します。我々は国民として結束して、そこにたどりつくのです(I promise you---we as a people will get there)」(三浦俊章編訳『オバマ演説集』、岩波書店)
私はこの演説を聞いたとき、キング牧師の最後の演説を思い出した。オバマ氏は自分が黒人であるだけに、自分が特に黒人を代表しているかのようにとらえられないように、いつも慎重だった。2008年の勝利演説もキング牧師の名前は出てこない。だが、両方の演説のキーワードは見事に重なっている。
キング牧師は宗教者である。自分は「約束の地」に行けないかもしれないと語った。そのうえで、ひとつの民としてそこにたどり着くのだと語った。オバマ氏は政治家である。自分のリーダーシップで国民を目的地へと導くと誓った。これは、差別のない世界を目指したキング牧師の意思を継ぐという決意表明ではないか――。
勝利演説を聞いたとき、私はそう思った。
オバマ氏はキング牧師を意識した……
勝利演説の12年後、オバマ氏は政権を振り返る回顧録に「約束の地」というタイトルを付けた。今回の回顧録の冒頭には、「約束の地」という言葉を含む黒人霊歌が引いてあり、それが典拠ということだろう。だが私は、タイトルの選択には、キング牧師を意識した秘められたメッセージがあるように感じるのだ。
キング牧師の演説と黒人霊歌の「約束の地」は定冠詞のtheが付いている。もともとは、聖書で神がアブラハムとその子孫に約束した地を指す言葉で、比喩としては、希望の地、幸福になれる地、あこがれの状態も意味する。だが、オバマ回顧録の「約束の地」は、さりげなく不定冠詞のaが付いている。自分が語るのは、ひとつの「約束の地」であり、目指すものを絶対視しているわけではない……。
オバマ氏にとって、アメリカとは、たえず理念の実現に向けて前進し続ける存在である。その途中段階の、ひとつの形としての「約束の地」(”A Promised Land”)なのではないだろうか。言葉をおろそかにしないオバマ氏らしい、よく考え抜かれたタイトルだと思う。
オバマ回顧録については、まだまだ語りたいことがある。回を改めてさらに紹介したい。
Wikipedia
バラク・フセイン・オバマ2世(英語:Barack Hussein Obama II[2] [bəˈrɑːk huːˈseɪn oʊˈbɑːmə] 、1961年8月4日 -
)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士。同国第44代大統領(在任: 2009年1月20日 - 2017年1月20日)。
民主党に所属し、イリノイ州議会上院議員(在任: 1997年1月8日 - 2004年11月4日)やイリノイ州選出の連邦上院議員(在任: 2005年1月3日 - 2008年11月16日)などを歴任した後、2008年の大統領選挙で当選し、初めてのアフリカ系アメリカ人・有色人種・ハワイ生まれの大統領となった。2012年の大統領選挙でも再選され、合計8年の任期を務めあげた。
目次
概要[編集]
1961年8月4日にハワイ州ホノルルで誕生する。1983年にコロンビア大学を卒業後、シカゴでコミュニティ・オーガナイザーとして働く。1988年にはハーバード・ロー・スクールに入学し、黒人として初めてハーバード・ロー・レビューの会長に就任した。卒業後は公民権弁護士となり、1992年から2004年までシカゴ大学ロースクールで憲法学を教えた。オバマは選挙政治に目を向け、1997年から2004年までイリノイ州第13区の代表を務め、上院選挙に出馬した。2004年には3月の上院初当選・7月の民主党全国大会での基調講演・11月の上院選挙での地滑り当選で全国的に注目されるようになった。2008年アメリカ合衆国大統領選挙においてヒラリー・クリントンとの接戦の末に民主党の大統領候補に指名され、共和党のジョン・マケインを抑えて当選し、2009年1月20日にジョー・バイデンと共に就任した。その9ヶ月後には2009年のノーベル平和賞受賞者に選ばれた。
オバマは就任して最初の2年間に多くの画期的な法案に署名して法律を成立させた。可決された主な改革には、医療保険制度改革(一般的に「アフォーダブルケア法」または「オバマケア」と呼ばれる)、ドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法、2010年のドント・アスク、ドント・テル廃止法などがある。2009年アメリカ復興・再投資法、2010年の税制救済・失業保険再承認・雇用創出法は、大不況の中で景気刺激策としての役割を果たした。国の債務上限をめぐる長い議論の後、彼は予算管理法とアメリカ納税者救済法に署名した。外交政策では2001年アフガニスタン紛争でのアメリカ軍の増派・アメリカ合衆国及びロシア連邦との間で新START条約による核兵器の削減・イラク戦争への軍事関与の中止などを行った。リビアでは軍事的介入を命じ、ムアンマル・カダフィ政権の打倒に貢献した。また軍事作戦を指揮し、アメリカ同時多発テロ事件を引き起こしたアルカイダの最高指導者オサマ・ビンラディンやイエメンのアルカイダ活動家アンワル・アウラキの死をもたらした。
2012年アメリカ合衆国大統領選挙において共和党の大統領候補であるミット・ロムニーを破って再選を勝ち取ったオバマは、2013年1月21日に2期目の大統領に就任した。この任期中に彼はLGBTのアメリカ人のためのインクルージョンを推進した。オバマ政権はブリーフィングを提出し、最高裁判所に同性婚禁止令を違憲として破棄するよう求めた(United States v. Windsor and Obergefell v.
Hodges)が、2015年にはObergefellで同性婚が法制化された。サンディフック小学校銃乱射事件を受けて銃規制を提唱し、アサルト武器の禁止を支持した他、地球温暖化や移民に関する広範な行政措置を行った。外交政策では2011年のイラク撤退後のISILの増長に対応してイラクへの軍事介入を命じ、2016年のアフガニスタンでのアメリカ軍の戦闘活動を終了させるプロセスを継続し、2015年の地球温暖化に関するパリ協定につながる議論を推進し、ロシアのウクライナ侵攻と2016年アメリカ合衆国大統領選挙でのロシア連邦の干渉後に再びロシアへの経済制裁を開始し、イランの核開発問題を仲介し、アメリカ合衆国とキューバの関係を正常化した。キューバ・広島平和記念公園・アフリカ連合本部を訪問した初の大統領である。オバマ大統領は最高裁判所に3人の判事を指名した。ソニア・ソトマヨールとエレナ・ケイガンが確定したが、メリック・ガーランドは党派的な妨害に遭い、確定しなかった。
オバマ大統領の任期中にアメリカ合衆国の海外での評価は大幅に向上した[6]。彼の大統領職は一般的に好意的に評価されており、歴史家・政治学者・一般市民の間での彼の大統領職に対する評価は、アメリカ合衆国大統領の中で上位に位置している。オバマは2017年1月20日に退任し、現在もワシントンD.C.に居住している[7][8]。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1961年8月4日にハワイ州ホノルルにある、女性と子供のためのカピオラニ医療センター(英語版)で生まれる。 実父のバラク・オバマ・シニア(1936年から1982年)は、ケニアのニャンゴマ・コゲロ出身(生まれはニャンザ州ラチュオニョ県Kanyadhiang村[9])のルオ族[10]、母親はカンザス州ウィチタ出身[11][12][13]の白人、アン・ダナム[14]である。 父は奨学金を受給していた外国人留学生であった[15][16]。2人はハワイ大学のロシア語の授業で知り合い、1961年2月2日に結婚。[17]
父と同じバラクというファーストネームは、旧約聖書の登場人物で、古代イスラエルの士師(軍事指導者)であるバラクに由来する。
バラク・オバマ自身はプロテスタントのキリスト教徒であり[18]、キリスト合同教会(英語では"the United Church of Christ (UCC)"で、キリスト連合教会、合同キリストの教会、統一キリスト教会などとも訳される。)に所属している[19][20]。オバマは自伝で、「父はムスリムだったが殆ど無宗教に近かった」と述べている[21]。
バラク・オバマは自分自身の幼年期を、「僕の父は僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた。父は真っ黒で、母はミルクのように白く、そのことが心の中ではわずかに抵抗があった」と回想している[22]。彼は自身のヤングアダルト闘争を、「自身の混血という立場についての社会的認識の調和のため」と表現した[23]。
1963年に両親が別居し、翌年の1964年に両親が離婚した[16]。両親が別居するとオバマ・ジュニアは母のもとで暮らした。 1965年に父はケニアへ帰国した後、政府のエコノミストとなる。父はハワイ大学からハーバード大学を卒業したため、将来を嘱望されていた。 バラク・オバマの両親は双方ともに結婚歴が複数回あるため、異父妹が1人・異母兄弟が7人いる[24]。 1971年に父と再会を果たした [25]。(尚お一切血の繋がりが無い存在として、異父妹の異母弟妹も存在する。)
インドネシアへ[編集]
バラク・オバマはインドネシアに行った。 バラク・オバマの母であるアンはオバマ・シニアとの離婚後、人類学者となった。 その後アンはハワイ大学で親交を得たインドネシア人留学生で、後に地質学者となったロロ・ストロ(Lolo
Soetoro1987年没)と再婚する。
1967年、ストロの母国であるインドネシアにて、軍事指導者のスハルトによる軍事クーデター(9月30日事件)が勃発すると、留学していた全てのインドネシア人が国に呼び戻されたことで、一家はジャカルタに移住した[26]。オバマ・ジュニアは6歳から10歳までジャカルタの公立のメンテン第1小学校に通った[注 1]。1970年には、母と継父のあいだに異父妹のマヤ・ストロが誕生する。
ハワイへの帰還[編集]
1971年、オバマ・ジュニアは母方の祖父母であるスタンレー・ダナム(英語版)(1992年没)とマデリン・ダナム(英語版)(2008年没)夫妻と暮らすためにホノルルへ戻り、地元の有名私立小中高一貫のプレパラトリー・スクールであるプナホウ・スクールに転入し、1979年に卒業するまで5年生教育を受けた[28]。在学中はバスケットボール部に所属し、高校時代に飲酒・喫煙・大麻・コカインを使用したと自伝で告白している。また2014年には大麻について問われた際に、「悪い習慣だという点では若い時から大人になるまで長年吸っていた煙草と大差無い。アルコールよりも危険が大きいとは思わない」と述べている[29]。
なお1972年に母のアンがストロと一時的に別居し、実家があるハワイのホノルルへ帰国し、1977年まで滞在する。同年に母はオバマ・ジュニアをハワイの両親に預け、人類学者としてフィールドワーカーの仕事をするためにインドネシアに移住し、1994年まで現地に滞在した。このあいだに、1980年にアンと継父のストロとの離婚が成立した。母のアンはハワイに戻り、1995年に卵巣癌で亡くなった[17]。以上のように青年時代のオバマはハワイにおいて母親と母方の祖父母(ともに白人)によって育てられた。
大学時代[編集]
1979年に同高校を卒業後、西海岸で最も古いリベラルアーツカレッジの一つであるオクシデンタル大学(カリフォルニア州ロサンゼルス)に入学する[30]。2年後、ニューヨーク州のコロンビア大学に編入し、政治学、とくに国際関係論を専攻する[31]。
1983年に同大学を卒業後、ニューヨークで出版社やNPOビジネスインターナショナル社(英語版)に1年間勤務[32][33]。その後はニューヨーク パブリック・インタレスト・リサーチグループ(英語版)で働いた[34][35]。ニューヨークでの4年間のあと、オバマはイリノイ州シカゴに転居した。オバマは1985年6月から1988年5月まで、教会が主導する地域振興事業(DCP)の管理者(コミュニティオーガナイザー)として務めた[34][36]。オバマは同地域の事業所の人員を1名から13名に増員させ、年間予算を当初の7万ドルから40万ドルに拡大させるなどの業績を残した。職業訓練事業の支援・大学予備校の教師の事業・オルトゲルトガーデン(英語版)の設立と居住者の権限の確立に一役買った[37]。
1988年にケニアとヨーロッパを旅行し、ケニア滞在中に実父の親類と初めて対面している。同年秋にハーバード・ロー・スクールに入学する。初年の暮れに「ハーバード・ロー・レビュー」の編集委員[38]に、2年目には編集長に選ばれた[39]。
1991年、法務博士の学位を取得、同ロースクールをmagna cum laudeで修了[注 2]しシカゴ大学の法学フェローとなる。
弁護士時代[編集]
ハーバード大学ロー・スクールを修了後、シカゴに戻り有権者登録活動(Voter registration drive)に関わった後、弁護士として法律事務所に勤務。 1992年、シカゴの弁護士事務所において、親交を得たミシェル・ロビンソンと結婚。 1998年にマリア、2001年にサーシャの二人の娘に恵まれた。
1995年には、自伝「Dreams from My Father(邦題:『マイ・ドリーム』 )」を出版する。 また、1992年から2004年までシカゴ大学ロースクール講師として、合衆国憲法の講義を担当した。
イリノイ州議会議員[編集]
人権派弁護士として、頭角を現し、貧困層救済の草の根社会活動を通して、1996年、イリノイ州の州議会上院議員(イリノイ州議会は両院制である)の補欠選挙に当選を果たした。 1998年と2002年に再選され、2004年の11月まで、イリノイ州議会上院議員を務めた。 尚、2000年には、連邦議会下院議員選挙に出馬するも、オバマを「黒人らしくない」と批判した他の黒人候補に敗れた。
アメリカ合衆国上院議員[編集]
2003年1月にアメリカ合衆国上院議員選挙に民主党から出馬を正式表明し、2004年3月に7人が出馬した予備選挙を得票率53%で勝ち抜き、同党の指名候補となった。対する共和党指名候補は私生活スキャンダルにより撤退し、急遽別の共和党候補が立つが振るわず、2004年11月には、共和党候補を得票率70パーセント対27パーセントの大差で破り、イリノイ州選出の上院議員に初当選した。アフリカ系上院議員としては史上5人目(選挙で選ばれた上院議員としては史上3人目)であり[41]、この時点で唯一の現職アフリカ系上院議員であった。
2004年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジョン・フォーブズ・ケリー上院議員を大統領候補として選出した2004年民主党党大会(英語版)(マサチューセッツ州ボストン)の2日目(7月27日)に基調演説[42]を行った。ケニア人の父そしてカンザス州出身の母がハワイで出会い自分が生まれたこと、次いで「全ての人は生まれながらにして平等であり、自由、そして幸福の追求する権利を持つ」という独立宣言を行った国、アメリカ合衆国だからこそ、自分のような人生があり得たのだ、と述べた。そして「リベラルのアメリカも保守のアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ。ブラックのアメリカもホワイトのアメリカもラティーノのアメリカもエイジアンのアメリカもなく、ただ『アメリカ合衆国』があるだけだ」「イラク戦争に反対した愛国者も、支持した愛国者も、みな同じアメリカに忠誠を誓う『アメリカ人』なのだ」と語り、その模様が広く全米に中継される[43][44]。長年の人種によるコミュニティの分断に加え、2000年大統領選挙の開票やイラク戦争を巡って先鋭化した保守とリベラルの対立を憂慮するアメリカ人によりこの演説は高い評価を受けた。
なお、ケリーのスタッフが当時イリノイ州議会上院議員だが全国的には無名であったオバマを基調演説者に抜擢したのは、オバマがアフリカ系議員であることから、マイノリティーの有権者を惹き付けられるであろうこと、若くエネルギッシュで雄弁であるからである。また、オバマが同年の大統領選挙と同時実施の上院議員選挙における民主党候補(イリノイ州選出)に決まっており、党大会の基調演説者としてアピールできれば、上院議員選挙にも有利に働くであろうと民主党が期待したことなどからである[45][46]。2006年には連邦支出金透明化法案の提出者の1人となっている。
2006年を通してオバマは外交関係・環境・公共事業・退役軍人の問題に関する上院の委員会に課題を提出した。また2007年1月に彼は環境・公共事業委員会を出て、健康・教育・労働・年金・国土安全保障及び政府問題委員会に伴う追加課題を扱った。 また彼はヨーロッパ問題に関する上院の小委員会の委員長になった。
2008年11月4日に行われた2008年アメリカ合衆国大統領選挙で勝利したオバマは、次期大統領(英語版)として政権移行に向けた準備に専念するため、11月16日に上院議員(イリノイ州選出)を辞任した[47]。後任は州法の規定によりイリノイ州のブラゴジェビッチ州知事(民主党)の指名を受けたローランド・バリス(英語版)が就任した。
大統領候補[編集]
大統領予備選挙[編集]
立候補[編集]
2004年以降2008年アメリカ合衆国大統領選挙の候補として推す声が地元イリノイ州の上院議員や新聞などを中心に高まっていった。本人は当初出馬を否定していたが、2006年10月にNBCテレビのインタビューに「出馬を検討する」と発言した。翌2007年1月に、連邦選挙委員会に大統領選挙の出馬へ向けた準備委員会設立届を提出し、事実上の出馬表明となった。そして2007年2月10日に地元選挙区であるイリノイ州の州都のスプリングフィールドにて正式な立候補宣言を行った。
出馬の演説でオバマは「ここ6年間の政府決定や放置されてきた諸問題は、われわれの国を不安定な状態にしている」と述べ医療保険制度や年金制度、大学授業料、石油への依存度等を、改革が必要な課題として挙げ、建国当初のフロンティア精神へ回帰することを呼びかけた。グローバル資本主義には懐疑的であり、アメリカ国内にブルーカラーを中心に大量の失業者を生んだとされ、新自由主義経済政策の象徴である北米自由貿易協定(NAFTA)に反対し、国内労働者の保護を訴えるなど、主な対立候補となったヒラリー・クリントンよりもリベラルな政治姿勢とされた。
予備選挙前半[編集]
当初は知名度と資金力に勝る元ファーストレディのヒラリー・クリントンの優勢が予想されたものの、大統領予備選の第1弾が行われるアイオワ州の地元紙(電子版)により、予備選直前の2007年12月に行われた世論調査では、オバマの支持率がヒラリーを上回りトップであった。2008年1月3日に行われたアイオワ州党員集会では、保守傾向にある下位の他候補の支持者や20代の若者など幅広い層からの支持を集めて、ヒラリー、ジョン・エドワーズ、ジョセフ・バイデンを初めとするほかの候補者を10ポイント近い大差で破り、オバマが勝利した。
同年1月8日に行われたニューハンプシャー州予備選挙ではヒラリーに僅差で敗北。しかし本人は「私はまだまだやりますよ」と今後の選挙戦勝利に意欲をのぞかせた。1月26日に行われたサウスカロライナ州予備選挙で、アフリカ系や若い白人及びヒスパニック層などから圧倒的な支持を受けてヒラリーに圧勝した。CNNでは投票締め切りと同時に「オバマ勝利」と報じるほど他の候補を圧倒した。なおこの頃よりエドワーズやバイデンなど他の候補が次々と予備選挙からの撤退を表明し、事実上ヒラリーとの一騎討ちとなっていく。
ジェレマイア・ライト[編集]
選挙の盛り上がりとともに、かつて家族とともに20年間に亘って所属したトリニティー・ユナイテッド教会に関して、長き時を私淑したことで多大な影響を受けていると言われている牧師のジェレマイア・ライトについての論争がしばしば活況を呈した。その過程でライトの反アメリカ政府的とされる様々な説教の内容が取り上げられている[注 3]。
予備選挙最中の2008年3月にはオバマとトリニティー・ユナイテッド教会、そしてライトとの決裂が伝えられた。上記のような過激な発言がABCニュースに報道されたのが原因とされている[48][49]。報道直後、オバマはシカゴのアフリカ系アメリカ人社会に対する貢献を挙げてライトを弁護しようとしたが、その後も人種差別的だとされる発言を続けたことを理由にライトと絶縁した[50][51]。その一環として「もっと完璧な連邦(A More Perfect Union)」と題するオバマの演説が人種問題に言及した[52][53][54][55]。
5月25日にはトリニティー・ユナイテッド教会に招かれた神父のマイケル・フレガー[注 4]が説教中にヒラリーを(アフリカ系アメリカ人に対する)人種差別主義者とみなし、クリントンの泣真似をして喝采を浴びる件があった[57]。オバマはこの件について失望の意を表し、31日に「私は教会を非難しないし、教会を非難させたがる人々にも関心が無い」が、「選挙運動によって教会が関心に晒され過ぎている」として、教会から脱退する[58]。
「スーパー・チューズデー」[編集]
なおヒラリーとの一騎討ち状態になったことで、その後選挙戦から撤退したエドワーズやバイデンがオバマ支持に回った他、ジョン・F・ケネディ元大統領の娘で、民主党内に一定の影響力を持つとされるキャロライン・ケネディがニューヨーク・タイムズ紙でオバマに対する支持を表明した。
だが、2月5日に22州で行われた「スーパー・チューズデー」ではオバマが13州を抑えたものの、ヒラリーが大票田のカリフォルニア州や地元のニューヨーク州を抑えるなど、ヒラリーとの決定的差はなかった。しかし、スーパー・チューズデー後はミシシッピ州やワイオミング州、ケンタッキー州とオレゴン州を抑えるなど予備選で9連勝し、一気に指名争いをリードした。
クリントン陣営の混乱と「失言」[編集]
これに対してヒラリー陣営は2月10日にパティ・ソリス・ドイル選対主任が「選挙戦の長期化」を理由に辞任した(実際は選対内の意見対立が原因とも言われている)ほか、ヒラリー本人が、2月23日にオハイオ州シンシナティで行われた集会で、オバマ陣営が配布した冊子の中でヒラリーが進める国民皆保険計画について「国民に強制的に保険を購入させる内容である」と記載していたことに対して「恥を知れ、バラク・オバマ」[注 5]と、オバマを呼び捨てで非難した。これに対して多くのマスコミや民主党内からは「理性を失っている」との批判が沸き起こった[注 6]。
なおヒラリーはこのような失点があったにもかかわらず、3月4日には大票田のテキサス州とオハイオ州で勝利をおさめたが、各種調査の結果「選挙戦において完全に劣勢に立たされた」との評価を受けることが多くなった。この様な状況を受けてヒラリーと、夫で元大統領のビル・クリントンが「クリントン大統領、オバマ副大統領」の政権構想を民主党内やマスコミに対して一方的に喧伝し始めた。これに対してオバマは「なぜより多くの支持を得ている私が副大統領にならなければいけないのか理解できない」と拒否した。
その後もオバマの優位は揺らぐことは無く、5月には特別代議員数でもヒラリーを逆転した。完全に劣勢に立たされたヒラリーは同月に「(敗北が確実視されているのに)選挙戦を継続する理由」として、かつて大統領候補指名を目指したものの、予備選最中の1968年6月に遊説先のカリフォルニア州ロサンゼルスで暗殺されたロバート・ケネディ元司法長官の例を挙げた。これは「オバマが予備選挙中に暗殺されること(そしてその結果自分に勝利が転がり込んでくること)を期待している」と受け取られ大きな批判を浴び、その後ヒラリーはケネディの遺族とオバマに対して謝罪した。
但しこの予備選挙の最中、ノーベル文学賞受賞のイギリスの女性作家ドリス・レッシングがキング牧師暗殺事件の例を引き合いに「オバマは暗殺される可能性がある」と発言するなど、アメリカ世論でも黒人候補であるオバマが暗殺の危機に晒されていると見られていた事は事実ではある。
予備選挙勝利[編集]
同年6月3日に大統領予備選挙の全日程が終了し、全代議員数の半数(2,118人)を超える2,151人の指名獲得を集めたオバマはヒラリーを下し、民主党の大統領候補指名を確定させた。なお予備選挙の最中に、2006年に次いでグラミー賞朗読部門賞を受賞している。
一般投票に向けて[編集]
オバマは2008年民主党党大会3日目の同年8月27日、民主党大統領候補の指名を正式に獲得し、副大統領候補に上院外交委員長を務めて予備選挙で戦ったものの、その後オバマへの支持を表明した上院議員のジョセフ・バイデンを指名した。
オバマは民主党党大会最終日の8月28日にコロラド州デンバーのアメリカンフットボール競技場「インベスコ・フィールド」において、8万4000人を前に指名受諾演説を行った。オバマは「次の4年を(ジョージ・W・ブッシュ政権下の)過去8年と同じにしてはならない」、「未来に向けて行進しよう」と民主党内の結束を呼びかけた。外交問題については「粘り強い直接外交を復活させる」とし、「明確な使命が無い限り、戦地に軍を派遣することは無い」と表明した。ジョージ・W・ブッシュ政権で行われたイラク戦争については、「責任を持って終結させる」とした。
オバマは共和党大統領候補として対決するジョン・マケインを、「ブッシュ大統領を90パーセント支持してきた。残り10パーセントに期待するわけにはいかない」と批判した。またオバマは1963年の丁度この日にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、ワシントン大行進においてアメリカにおける人種差別撤廃への夢について語った演説「I Have a Dream」を踏まえ、「われわれの夢は1つになることができる」と述べた。
同年10月29日のプライムタイムには、全米4大TVネットワークのうちの3つ(CBS・NBC・FOX)及びユニビジョン(ヒスパニック向けのスペイン語ネットワーク)などを含む7つのテレビネットワークから放送枠を買い取り、30分のテレビCMを全米に放映した。このような大規模な宣伝を行えた背景には、7億4500万ドルという史上類を見ない豊富な選挙資金の存在が有った[60][注 7]。
一般投票勝利・当選[編集]
2008年11月4日に全米で行われた2008年アメリカ合衆国大統領選挙(大統領選挙人選出選挙)においてオバマは、地元のイリノイ州・伝統的に民主党地盤である大票田のニューヨーク州(クリントン元候補の地元)・カリフォルニア州・ペンシルベニア州に加え、過去2回の大統領選挙で大激戦となったフロリダ州・オハイオ州・さらには長く共和党の牙城とされてきたバージニア州・ノースカロライナ州・インディアナ州でも勝利した。
また近年ヒスパニック系住民の増加が顕著な南西部のうちマケインの地元であるアリゾナ州以外の3州(コロラド州・ニューメキシコ州・ネバダ州)でも勝利を積み上げ、選挙人合計365人を獲得[注 8]してマケイン(173人)を破り、第44代アメリカ合衆国大統領に確定した。一般投票の得票率は52.5パーセント(マケイン46.2パーセント)だった。獲得選挙人数はクリントン(1992年は370人で1996年は379人)には及ばなかったものの、得票率が50パーセントを越えたのは民主党候補では1976年のジミー・カーター以来だった。
現地時間11月4日午後10時頃、オバマの地元のシカゴ市内中心部のグラント・パークで、約24万人の聴衆が見守る中[61][62]、公園内に備え付けられたスクリーンに「オバマ、大統領に当選」というテロップが流れると、会場は熱気と興奮に包まれる。約1時間後、家族とともに登壇したオバマは、歓声と拍手にどよめく会場で「アメリカに変革が訪れた」と勝利演説を行なった[63][64][65][66][注 9]。会場の一般観客席では、1984年と1988年の民主党予備選挙に出馬しアフリカ系アメリカ人初の2大政党大統領予備選挙有力候補となったジェシー・ジャクソンが感涙に咽ぶ姿も映された[67]。
勝利後の11月7日に大統領就任後の最重点課題として、サブプライムローン問題が表面化した後の世界金融危機による信用収縮や、国内の雇用情勢の悪化を阻止するため「必要な全ての手段を取る」と表明し、アメリカ国内における信用収縮の緩和と勤労世帯の支援、経済成長の回復などの経済対策に注力すると表明した。
12月15日に各州とワシントンDCにおいて選挙人による投票が行われ、明けて2009年1月8日のアメリカアメリカ合衆国議会両院合同会議にて、オバマが選挙人票の過半数の365票を得たことが認証され、正式に大統領に選出された。選挙人票が黒人に投じられた例もこれが初めてである。
当選後[編集]
なおオバマの勝利後、アメリカ国内で銃器の売り上げが一時急増したという。これはオバマや副大統領候補のバイデンが銃規制に前向きであると見られていたからであり、オバマ政権発足後の銃規制強化を懸念した人々からの注文が増加しており、ライフルや自動小銃の売り上げが伸びているという[68]。
オバマの後任の上院議員選出を巡り、イリノイ州知事ロッド・ブラゴジェビッチが候補者に金銭を要求したとの容疑がかけられ、2008年12月9日に連邦捜査局により逮捕され[69]、翌年1月29日にイリノイ州上院の弾劾裁判にて罷免された[70]。
アメリカ合衆国大統領[編集]
1期目[編集]
大統領就任式[編集]
2009年1月20日正午(ワシントンD.C.時間)、アメリカ合衆国大統領就任式における宣誓を以てオバマは第44代アメリカ合衆国大統領に正式に就任した。オバマはアメリカ合衆国建国以来初の非白人の大統領であり、初のアフリカ系アメリカ人(アフリカ系と白人との混血)の大統領であり、また初のハワイ州生まれの大統領であり、かつ初の1960年代生まれの大統領である。また大統領就任時の年齢は歴代で5番目に若いものとなった[注 10]。
オバマは大統領就任宣誓を予てからの予告通り、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが1861年の1期目の就任式で使用した聖書に左手を置いて行なったが、その際にジョン・ロバーツ最高裁判所長官が宣誓文を読み間違えたことを受け(20日の宣誓は法的には有効)、2009年1月21日にホワイトハウス内にて宣誓をやり直した[72]。
なお「オバマの大統領就任式を見るために、ワシントンD.C.には全米から約200万人を超える観衆が集まったと言われており、史上最高の人数である」と報じられた。
詳細は「バラク・オバマ大統領就任式」を参照
指名された高官らの不祥事[編集]
政権発足後にオバマが指名したスタッフらによる不祥事の発覚が相次いだ。アメリカ合衆国財務長官候補のティモシー・フランツ・ガイトナー、アメリカ合衆国保健福祉長官候補のトム・ダシュル、行政監督官候補のナンシー・キルファーに納税漏れが発覚し、加えて支持者からダシュルへのリムジン提供が明るみとなり、上院での指名承認が大幅に遅れる事態となった[73]。この事態を受け、ダシュルとキルファーは指名を相次いで辞退した[73]。批判を浴びたオバマは、ダシュル指名を「大失敗」[73]だったと認めて謝罪した。
また、アメリカ合衆国商務長官候補に至っては、指名者が次々に辞退する異例の事態となった。最初に指名されたビル・リチャードソンは、自身に献金していた企業が捜査対象となったため、連邦議会での承認手続きの前に指名を辞退した[74]。続いて指名されたジャド・アラン・グレッグは、オバマとの政策的な対立が解消せず、同じく指名を辞退した[75]。
また、国家経済会議議長のローレンス・サマーズが、D・E・ショウから顧問料として年間520万ドル超の収入を得ており、さらにリーマン・ブラザーズやシティグループから講演料との名目で年間約277万ドルを受領していたことが、ホワイトハウスによる資産公開にて明らかにされた[76]。
論功行賞に基づく大使人事
大統領選挙中、オバマはジョージ・W・ブッシュ政権の外交官(特命全権大使)人事に対して「政治利用しすぎる」[77]と強く批判しており、自らが政権を獲った際には「実力を優先する」[77]と断言していた。しかし、実際に大統領の地位に就くと、オバマは前言を翻し縁故や論功に基づく人事を繰り返した。
特命全権大使に指名された者のうち、職業外交官以外が占める割合は、ブッシュ・ジュニア政権では3割程度に過ぎなかったのに対し、オバマ政権では6割を占めている[77]。かつて情実人事で批判を受けたケネディ政権ですら3割に留まっており、過去の歴代政権と比較してその割合は突出している[77]。
さらに主要国に駐在する大使には、オバマに対し多額の献金を行った支援者らが次々に指名されている[77]。具体例として、駐日本大使のジョン・ルース、駐フランス大使のチャールズ・リブキン(英語版)、駐イギリス大使のルイス・ズースマンらは、いずれもオバマに対し多額の献金を行っていたことが知られており、外交経験がほとんどないにもかかわらず指名された[77]。市民オンブズマン団体「公共市民(英語版)」の代表者らは「大口献金者を優先する大使人事は相手側諸国への侮辱」[77]に値する行為であると指摘するなど、オバマの論功行賞的な外交官人事は厳しく批判された。
他国との外交[編集]
詳細は「バラク・オバマ政権の外交政策」を参照
イギリス
2009年3月、同盟国のイギリスからゴードン・ブラウン首相が訪問した。しかし、イギリスのマスコミは首脳会談の時間が短いと指摘するなど、オバマ側の応対に懐疑的な論調が強まっていた[78]。首脳会談に際し、ブラウンは、イギリス海軍の帆船の廃材を加工したペンホルダーをオバマに贈呈した[79]。その帆船は奴隷貿易撲滅活動に参加した経歴を持ち、姉妹船の廃材はホワイトハウスの大統領執務室の机にも使われていることから[79]、考え抜かれた贈答品であると評価されていた[78]。ところが、オバマからの返礼の品は、『スター・ウォーズ』など25枚のDVDであり[78]、しかもイギリス国内では再生不可の規格「リージョン1」であった。
同様に首相の妻であるサラ・ブラウンは、オバマの娘たちのためにトップショップのドレス、ネックレス、イギリス人作家の本を贈ったが、ミシェルからの返礼の品はブラウンの男児のためのマリーンワンのおもちゃ2つであった[78]。さらに、ホワイトハウスによりサラとミシェルの会談の写真が公表されたが、公開された写真は1枚のみでサラの後頭部しか写っていなかった[80]。これらの応対の様子が公になると、『デイリー・メール』が「無作法な対応」[78]だと指摘し、『タイムズ』に至っては「これほどサラ夫人を見下し、うぬぼれた意思表示は無い」[78]と厳しく指摘するなど、火に油を注ぐ結果となった。
2009年4月、オバマ夫妻はバッキンガム宮殿を訪問したが、その際もミシェルはイギリス女王エリザベス2世の背中に手を回し身体に触れるなど、外交儀礼を無視した行動をとった[81]。
日本
日米安全保障条約を締結するなどアメリカと関係の深い日本との間では、沖縄県の普天間基地移設問題などで民主党政権に移行した日本政府との間で軋轢が生じた。
政権交代以前の:2009年2月、日本から麻生太郎首相(当時)がアメリカを訪問し、オバマにとってはホワイトハウスで開催される初の外国首脳との会談となった。オバマとの首脳会談に際し、麻生ら日本側は外務省を通じて共同記者会見の開催を懇願したが、ホワイトハウスが拒否したため、共同記者会見は開催できなかった[82]。日米首脳会談後に共同記者会見が開催されないのは極めて異例である。この麻生の訪米の以前に、アメリカはヒラリーを日本に派遣しているが、日本側は皇后とのお茶会を用意するなど、ヒラリーを閣僚クラスとしては破格のもてなしをしている(ヒラリー側の強い希望によるもので、宮内庁は外交儀礼上現職閣僚では無く元大統領夫人として招待)。そのため両国の対応の違いを比較して「アメリカは麻生政権を重視していないことの表れではないか」(江田憲司)という批判的な解釈をする論者もあった。
2009年11月にシンガポールで開催されるAPEC首脳会議に出席する途中の13日にオバマは来日(翌14日まで滞在)した。本来12日に来日予定であったが「テキサス州の陸軍基地で起きた銃乱射事件の追悼式に出席するため」として13日に変更された。13日から14日にわたる日本滞在では鳩山由紀夫首相主催の晩餐会と鳩山首相との首脳会談で「日米安保」について会談した。この会談でオバマは、鳩山が敬愛する第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの著作『勇気ある人々』の初版本を持参しプレゼントしている[83]。なお、同共同記者会見では、9.11事件のムハマド被告の裁判に付いて触れ、公正な裁判が期待される旨を述べている(引用されたノーカット版では、「モハメド被告は…厳しい形で裁かれる」と通訳されているが、大統領自身は「justice」という用語を用いており、「公正に裁かれる」の意。なお、NHKでは、その様に通訳、報道されている。)[84]。また、サントリーホールで特別に招待された小浜市長を含む日本国民を前に演説した[85]。さらに皇居御所(スケジュールの都合で宮殿ではなく天皇の自宅にあたる御所となった)で天皇・皇后と昼食会など準国賓並みの待遇を受けた。この時天皇と握手した際に最敬礼に近い角度で深々とお辞儀をしたが、アメリカ国内の一部メディアからは「大統領が他国の君主に対して頭を下げるのは不適切」との批判の声が挙がった[86]。このお辞儀についてケリー報道官は11月16日の記者会見で「天皇に対する尊敬の表れ」と述べて問題は無いとし、さらに「日本の国家元首と初めて会う際に敬意を示すことは、大統領にとって自然な振る舞いだ」と述べた[87][88]。退任後も日本を訪れ、安倍首相と会談して旧交を温めてる[89]。
2010年11月13日、菅直人内閣総理大臣との日米首脳会談で、日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りを支持することを表明した[90]。
また、ロシアや中国との領土関係問題での対応に苦慮する日本政府の立場を支持したり、北朝鮮による砲撃事件を契機として安全保障面での協力関係強化を主張するなど、日米同盟を基盤とした関係強化を重視した。
メキシコ
メキシコはアメリカ合衆国と国境を接する国の1つであり、大統領就任前後に首脳会談を行うことが半ば慣例となっているなど両国関係は深い。しかし麻薬を巡る非難の応酬によりメキシコ首脳部が激怒する事態を招いた。
2009年1月12日にオバマとカルデロン大統領との非公式会談が行われたが、その直後アメリカ国防総省幹部が「メキシコは、いつ崩壊してもおかしくない国」[91]と名指しで批判したことが明らかになった。オバマ政権発足後も国務省が公文書中で「メキシコは、失敗国家」[91]と名指しで批判したことが発覚するなど、麻薬の蔓延が深刻化するメキシコへの批判が繰り返されたが、その中で世界最大の麻薬消費国であるアメリカについての自己批判や、アメリカの麻薬犯罪組織摘発の失敗などについては言及されなかった。
一方、カルデロン大統領は麻薬撲滅を最重要政策の1つとして掲げており[92][93]、捜査当局に摘発の強化を厳命した結果、およそ1年2ヶ月で捜査員や麻薬組織関係者ら約7300人の死者を出すほどの厳正な捜査が進められていた[91]。ところが、その捜査によりアメリカ側の公務員が事件に関与していた疑いが強まり、アメリカの警察関係者800名近くが摘発されていた[91]。このような経緯があるにもかかわらず一方的な非難が繰り返されたため、穏健な親米派と目されていたカルデロンが「麻薬撲滅の障害はアメリカの“汚職”だ。ギャングと癒着している自国の政府関係者もいるが、アメリカはもっと酷い。何人逮捕されていると思っているのか」[91]と激怒する事態となった。さらにカルデロンは「麻薬問題が解決しないのはアメリカが最大の消費国だからだ」[91]とも指摘している。
同年4月16日の首脳会談では、アメリカ国内の麻薬に対する需要がメキシコを混乱させた一因であることをオバマが自ら認め、メキシコとの関係改善を図っている[94]。また、アメリカ合衆国からメキシコへの銃器の流入が麻薬組織と警察や軍との抗争を激化させている点も認めたが[94]、流入防止のための銃規制強化については実施する考えがないことを明らかにした[95]。
中華人民共和国
オバマ個人としては、異父妹の夫が中国系カナダ人であり、また異母弟にも中国人妻と結婚している者もいることから親戚筋を通じて中国と関わりを持ってはいる。
政権発足当初は、中華人民共和国との関係を深めようとする関与的な協調路線を採ったため、「親中派」であると評された事もあった。米中戦略経済対話の冒頭演説では、中国の思想家、孟子の教えを引用し、米中両国の相互理解を促した[注 11]。また米中が緊密な協力関係を結ぶ新時代の幕開けへ向け、気候変動や自由貿易、イランの核開発問題など多くの課題で協力していくことで合意した。このような協力関係はG2と呼ばれた時期もあった。
2009年の米中首脳の会談の時点では、チベットや新疆ウイグルの独立問題や、中華人民共和国と中華民国の間における、いわゆる「台湾問題」では、中華人民共和国の立場を尊重し[注 12]、それに対し中国の胡錦濤国家主席は「アメリカ側の理解と支持を希望する」と述べた。他にオバマはダライ・ラマ14世の訪米での会談を見送っており、人権派議員らに「北京への叩頭外交だ」と批判された。
しかしオバマ政権は、ブッシュ前大統領と同じように、2010年に入ると台湾へ総額64億ドル(約5800億円)に上る大規模な武器売却を決定するなど台湾関係法に準じた対応を行った[96]。
2010年2月18日にオバマは訪米したダライ・ラマ14世と会談した際、中国政府と中国共産党は会談以前から猛烈な抗議と非難[注 13]を行ったが、アメリカ政府は中国の抗議に取り合わない姿勢を表明していた。その後も中国政府は、オバマとダライ・ラマの会談に対して最大限の非難を繰り返した。
2010年9月には、東アジアの軍事バランスの変化を重要視するアメリカとASEAN諸国との共同声明において、南シナ海の資源を狙って軍事活動を行う中国の動きを牽制する内容が盛り込まれた[98]。ただし、米中の信頼醸成のために環太平洋合同演習(リムパック)への中国の参加を認め、環境政策では協力できるとしてパリ協定に中国と同時批准を行った[99]。退任後も釣魚台国賓館で中国の習近平国家主席と会見して中国との交流を深めたいと表明してる[100]。
軍事[編集]
パキスタンへの攻撃
大統領就任直後の2009年1月23日のオバマはパキスタンのイスラム武装勢力に対する無人機によるミサイル攻撃を指示した[101]。その後もパキスタンに対する越境攻撃を繰り返し行ったため、現地では多数の死傷者が出るなど被害が拡大している[102]。上院の審議にて、アメリカ合衆国国防長官ロバート・ゲーツは政府高官として初めて越境攻撃の事実を認めたが、今後も攻撃を継続すると証言した[102]。その後、国土安全保障・テロ対策担当補佐官ジョン・オーウェン・ブレナンの提案した無人機による標的殺害(英語版)作戦「ディスポジション・マトリックス(英語版)」(通称キルリスト)が推進されることとなった[103]。
イラク戦争の終結
大統領選挙期間中、オバマは「大統領就任後16ヶ月以内にアメリカ軍のイラクからの完全撤退」を公約として掲げてきたが、就任後にこの公約を修正・撤回した。2009年2月27日にオバマはノースカロライナ州で演説し、2010年8月末までにイラク駐留戦闘部隊を撤退させ、その後は最大5万人の駐留部隊をイラクに残すという新戦略を発表した[104]。これは、完全撤退に対する反対意見が根強い共和党や軍上層部からの意見に配慮したものと見られる。2011年12月14日には米軍の完全撤収によってイラク戦争の終結を正式に宣言した[105]。
文民統制の不徹底と綱紀の緩み
2010年6月にアフガニスタン駐留軍司令官スタンリー・マクリスタルはマスコミの取材に応じ、副官らとともにジョセフ・バイデン副大統領らオバマ政権の高官に対する痛烈な批判を展開した[106]。ところが、マクリスタルが批判した政府高官らはいずれも文民だったことから、文民統制の観点から騒動となった。
マクリスタルは、かつてイラク駐留軍の司令官としてイラクに赴任し、現地の治安の改善を実現させるなど[107]、その手腕が高く評価されていた。マクリスタルらの問題発言が報じられると、オバマは「マクリスタル司令官と彼のチームが、粗末な判断を下したのは記事で明白だ」[108]と批判しつつも「決定を下す前に彼と直接、話をしたい」[108]とも語った。また、ロバート・ギブズ大統領報道官が「大統領は怒っていた」[108][109]と語るなど、政権内から厳しいコメントが相次いだ。しかし、更迭すればアフガニスタン政策の混乱を如実に示すことになり、続投させれば「軍を統制できない大統領」であることが露見することになるため、いずれの対応を採っても政権にとっては苦渋の選択だと報じられた[108]。さらに、北大西洋条約機構の報道官が「(ラスムセンNATO)事務総長はマクリスタル司令官と彼の戦略に全幅の信頼を置いている」[110]とのコメントを発表するなど、内外を巻き込む騒動となった。
最終的に、オバマはマクリスタルを解任しないものの、マクリスタルが自主的に辞任を申し出ることで決着が図られることになり、後任にはデービッド・ペトレイアスが充てられた[107]。
リビア内戦への介入
2011年にリビア内戦が発生したため、3月12日にアラブ連盟は国際連合安全保障理事会にリビア飛行禁止空域を設定するよう要請した。この要請は通り、結果を受けてアメリカはイタリア、デンマーク、ノルウェーと共にオデッセイの夜明け作戦を実施し、リビア国内へ空爆を行った。
ビンラディン殺害作戦
2011年にジョージ・W・ブッシュ政権から捜索されてきたアメリカ同時多発テロ事件の首謀者であるオサマ・ビンラディンの身元特定に成功し、4月29日にオバマはウサーマ・ビン・ラーディンの殺害を命じて長きにわたる対テロ戦争に一区切りをつけた[111]。5月2日、ホワイトハウスのシチュエーションルームで中継される作戦を見守った。
ISILへの攻撃
2014年、イラクとシリアで活動する過激派組織ISILに対して武力攻撃する生来の決意作戦を有志連合で行い、アルタンフ基地(英語版)を設置するなどシリア領内にアメリカ軍を駐留させた[112]。また、2015年にはシリアでのISILに対する空爆においてホットラインの設置など米露両国の衝突を回避する措置でロシアと合意した[113][114]。。
2009年ノーベル平和賞受賞[編集]
2009年10月9日にノルウェー・ノーベル委員会はオバマの「核無き世界」に向けた国際社会への働きかけを評価して2009年度のノーベル平和賞を彼に受賞させることを決定したと発表した。ノルウェー・ノーベル委員会はオバマの受賞に関して冷戦終結を促した政治活動をしたヴィリー・ブラント、ミハイル・ゴルバチョフと比較してオバマは受賞するに値する活動をしたと判断したと述べている。就任してから1年も経っていない首脳の受賞は極めて異例である。ノーベル平和賞受賞者には賞金1000万スウェーデン・クローナが授与されるが、オバマは全額を複数の慈善団体に寄付することを表明した。
現職のアメリカ合衆国大統領にノーベル平和賞が授けられるのは、1906年に第26代アメリカ合衆国大統領に在任していたセオドア・ルーズベルト、1919年に28代目アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンに続いて3人目である。またアメリカ合衆国大統領経験者の受賞は2002年のジミー・カーター以来である。
セオドア・ルーズベルトは日露戦争の講和、ウィルソンは第一次世界大戦の講和における努力の成果を評価されての受賞であったが、オバマは未だはっきりした成果をあげておらず、受賞に関して「時期尚早」との意見が強く世論は内外で賛否が分かれた。日本の鳩山首相や秋葉忠利広島市長は受賞を評価した。一方、ロシアは奇異と評し、アフガニスタンではターリバーンが「2万人以上の増派を行い、戦火を拡大させたオバマが平和賞を受賞するのは馬鹿げている」と批判した[115]。また、ベネズエラのウゴ・チャベス大統領は「オバマはこの賞に値する何をしたのか」と述べ [116]、キューバのフィデル・カストロは「(ノーベル)委員会の姿勢にいつも賛同できるわけではないが、今回については前向きな決定だ。今回の決定は、米国の大統領への賞というよりも、かの国の少なからぬ大統領が続けてきた大量虐殺政策への批判だと受け止めたい」と賞賛している[117]。イスラエルは自国への支援の削減を危惧した。
オバマ支持層の民主党系やリベラル派からも批判や当惑が噴出している。リベラル派の女性コラムニスト、ルース・マーカス(英語版)は「この受賞はバカげている、オバマはまだなにも達成していない」と書き、民主党系外交コラムニスト、ジム・ホーグランド(英語版)もオバマが中国の機嫌を損ねないようにダライ・ラマ14世との会談を避けたことも、平和賞にそぐわないと批判し、トーマス・フリードマンは「ノーベル委員会は早まって平和賞を与えることでオバマ大統領に害を及ぼした」と書き、「世界で最も重要な賞が、このように価値を落とすことには落胆した」と述べた[118]。イギリスのニュースサイトであるポリティックス・ホームの調査によると、イギリス人の62%、アメリカ人の52%がオバマは受賞に値しないと答えている[119]。
オバマはこれらの批判にも配慮してか、受賞に対して「歴史を通じて、ノーベル平和賞は特定の業績を顕彰するためだけではなく、一連の目的に弾みを付ける手段として用いられることもあるということも承知している。故に私は、この賞を行動への呼び声として――21世紀の共通課題に対処せよと全国家に求める声として――お受けする所存である」との声明を出した[注 14]。
2012年アメリカ合衆国大統領選挙[編集]
オバマは現職のアメリカ合衆国大統領として2012年アメリカ合衆国大統領選挙に再選を賭けて出馬。9月の民主党全国大会で候補者に正式指名を受けると、アメリカ共和党候補者のミット・ロムニーと激しい選挙戦を展開し、第1回討論会などの結果を受けて一時は苦戦を伝えられた。
10月25日に現職のアメリカ合衆国大統領として、初めて期日前投票をした[120]。
11月6日に選挙が執行され、ロムニーとの激しい接戦の末、大票田のカリフォルニア州・激戦区となったオハイオ州で勝利を収め、残り2州の結果を待たずに大統領選挙人を300人以上獲得して大統領再選を勝ち取った[121]。オバマの再選はハリケーン・サンディの対応が高く評価されて、最終的な後押しになったとの論評がある[122]。
2期目[編集]
大統領就任式[編集]
2013年1月20日にアメリカ合衆国憲法の規定に基づき、ホワイトハウスに於いてジョン・ロバーツ最高裁判所長官、大統領夫人と2人の娘が立ち会う中で就任宣誓式を執り行い、オバマ政権の2期目がスタートした。しかしこの日は日曜日であることから翌日の1月21日に改めてアメリカ連邦議会前にて正式な就任宣誓式を執り行うとされた[123]。
2013年9月27日にイランのハサン・ロウハーニー大統領と電話で会談した。これはイラン革命後初めてのアメリカ合衆国・イラン両国首脳の接触となった[124]。
シリアの化学兵器問題[編集]
2013年8月21日にかねてから内戦状態であったシリアの首都ダマスカスの郊外で化学兵器サリンが使用されたと報じられた。ジョン・ケリー国務長官はシリア政府が使ったことは「否定できない」と発言するが、化学兵器の使用をシリア政府が行ったものか、反アサド政権組織が行ったものかは特定されなかった[125]。こうした中、オバマは国連安保理の決議無しでもシリアへ軍事介入する姿勢を見せ、化学兵器の使用についてアサド政権によるものだとの結論に達したと述べ、また、イラク戦争と今回の違いを主張した[126]。しかし、イギリスの参戦が見込めなくなり、また国内からのオバマに対する批判の声が多々挙がり、8月31日にオバマはアメリカ合衆国議会の承認を得た上でアサド政権に対する限定的な武力行使に踏み切ると表明した[127]。オバマは議員との夕食会に参加し武力介入の支持を求めている[128]。
化学兵器の使用は反体制派に拘束されていた記者が反体制派内の会話から「欧米の軍事介入を誘発するために実施したものだ」と聞いている[129]。また、調査報道記者のシーモア・ハーシュは、シリア内戦に参戦している反アサド政権組織アル=ヌスラ戦線がサリンの製造方法を熟知し、大量に製造する能力を持つという報告が既にオバマに対して上げられていたが、オバマは軍事介入への正当化のためその情報を意図的に排除していたと指摘している[130]。9月にシリアの化学兵器を国際的な管理のもとで廃棄していくこと、並びにシリアの化学兵器禁止条約への加盟をロシアは提案した。この提案にアメリカも合意をしたことからシリアへの侵攻は見送られた。
現職のアメリカ合衆国大統領初の広島訪問[編集]
伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日に安倍晋三内閣総理大臣とともに、現職のアメリカ合衆国大統領として初めて広島平和記念公園を訪問した。広島平和記念資料館を視察後、慰霊碑に献花し、「人類が悪を犯すことを根絶することはできないかもしれない。しかし大量の核兵器を持つアメリカなどの国々は恐怖から脱却し、核兵器のない世界を追求しなければならない」として、「核兵器なき世界」に向けた所感を述べた。また「広島に原爆が投下された、あの運命の日以来私たちは希望を持てるような選択を行ってきた。そしてアメリカと日本は同盟関係を築いただけで無く友情を育んできた」として、日米同盟が世界平和のために果たしてきた役割の重要さを強調した[131][132][133][134]。
詳細は「バラク・オバマの広島訪問」を参照
他国との外交[編集]
日本
2014年4月24日に日本の安倍晋三首相と会談し、その後の記者会見で、日本の尖閣諸島は日米安全保障条約第5条の適用対象であり、アメリカは防衛義務を負うことを表明した[135]。
キューバ
詳細は「キューバの雪解け」を参照
オバマは2013年春にキューバとの「ハイレベルでの接触」に着手した[136]。アメリカとキューバの1年半にわたる秘密交渉では、カナダ政府とローマ教皇フランシスコが仲介役を担った[137]。2013年12月10日には、南アフリカ共和国で執り行われたネルソン・マンデラの追悼式でオバマはスピーチの前にキューバ国家評議会議長ラウル・カストロに握手を求め、両首脳は双方の歩み寄りを示唆する握手を交わした[138]。
2014年12月17日にオバマとカストロは国交正常化交渉の開始を電撃発表した。数か月以内に大使館を開設し、銀行や通商関係の正常化を話し合うことでも合意した[139]。『ニュー・リパブリック(英語版)』はこの雪解けを「オバマ政権の最大の外交成果」だと位置づけている[140]。
2015年7月1日にアメリカとキューバは54年ぶりに国交を回復することで正式合意した。オバマとカストロが親書を交わし、大使館を相互に開設することで一致した[141]。2015年7月20日にワシントンD.C.の「キューバの利益代表部(英語版)」とハバナの「アメリカの利益代表部(英語版)」が大使館に格上げされ、アメリカとキューバ両国は1961年の断交以来54年ぶりに、国交の正常化を実現した[142]。
2016年3月20日に現職のアメリカ合衆国大統領として1928年以来88年ぶりにキューバを訪れた[143]。
退任後[編集]
退任後はワシントンD.C.に残る、ウッドロウ・ウィルソン以来のアメリカ合衆国大統領経験者になる[144]。
アメリカ合衆国大統領退任後の年金額は20万7,800ドルと現職時の報酬の約半分が支給される他、事務所経費や旅費・医療費などの手当も支給される。また、シークレットサービスの身辺警護は生涯続く[145]。
2018年10月25日、BBCによると、デビー・ワッサーマン・シュルツの名前を騙ったパイプ爆弾の爆発物が、ヒラリー・クリントン、バラク・オバマ、CNN、ジョン・オーウェン・ブレナンCIA長官、エリック・ホルダー司法長官、ジョージ・ソロスに送られたが爆発しなかった[146]。10月26日にFBIは指紋からフロリダ州在住の熱烈なトランプ支持者の56歳の男を逮捕した[147][148]。
2019年4月25日、自身の政権の副大統領だったジョー・バイデンが2020年の大統領選挙への出馬を表明したことについて、オバマの広報担当者は、オバマがバイデンを副大統領に選んだことは「自分が下した中で最高の決定の1つ」で、2人は「力強く特別な絆」を築いたと述べていることを明らかにしたが、この段階ではバイデンへの正式な支持表明をしなかった。オバマの支持表明がなかったことについて質問されたバイデンは「オバマ氏には支持を表明しないようお願いしたし、オバマ氏も支持を望んでいなかった。(中略)この予備選を勝ち抜くのは、自力で勝利をつかめる人だけだ」と答えている[149]。
バーニー・サンダースが党指名候補争いから撤退を表明してバイデンが党候補に確定した後の2020年4月14日に正式なバイデン支持表明を出した。人の痛みを知るバイデンなら、新型コロナウイルスに苦しむ国民をいたわり、団結させることができると呼びかけた。また「科学を無視」するドナルド・トランプ現政権や、「権力」しか興味のない与党・共和党を批判した[150]。
その後は応援演説や選挙資金集めのイベント開催などでバイデンを支援した[151]。
8月29日の民主党全国大会における演説では「(トランプは)自分自身と友だちを助ける目的以外で、大統領の強大な権限を使うことに関心を示していない」「この政権は勝つためであれば、我々の民主主義を破壊する用意を見せている。だから、(選挙に)全力を投じる必要がある」「(トランプに大統領の職務を引き継いだ時)我々の国のためにトランプ氏が仕事を真剣にすることにいくらか関心をもち、職務の重さを感じ、自身に託された民主主義への敬意をもつようになるのでは、と願っていた」「しかし、一切そうならなかった。トランプ氏が成長していないのは、できないからだ」「失敗の結果は深刻だ。(新型コロナウイルスで)17万人の米国人が死亡し、数百万人の雇用が失われた。我々の国際的評価は落ち、民主的な機関はかつてないほど脅かされている」「(トランプは)政策で勝てないと分かっているので、投票を可能な限り困難にし、投票は重要でないと思わせることで勝とうとしている」「彼らに民主主義を奪われてはいけない」と述べ、現職大統領で共和党候補のドナルド・トランプを痛烈に批判した。アメリカでは任期を終えた元大統領は党派が異なっていたとしても現職大統領を批判することはほとんどなく、オバマもこれまではトランプに批判的な姿勢は示しつつも、正面切って批判することはなかったが、大統領選を前に姿勢を一転させる形となった[152]。トランプもオバマの演説に激しく反応し、演説中に「(オバマは)私の選挙陣営をスパイした」といったツイートを連投した[152]。
その後もオバマはバイデンの応援演説でトランプを痛烈に批判し続けた。トランプのことを「頭のおかしいおじさん」と呼んだほか「人種差別主義者」と呼び[153]、「(トランプの)無能さと無関心さにあと4年間も米国を委ねる余裕はない」と述べた。バイデン陣営幹部は「オバマ氏には、辛辣なトランプ批判を聞きたい都会の若者や黒人、ヒスパニック系など少数派のリベラルな支持層を活気づけ、バイデン氏を補完する役割が期待されている」と述べている[154]。
11月3日の大統領選挙でバイデンの当選が確定した後に出演したCBSの朝番組『サンデー・モーニング』の中で「私にできる形で、彼(バイデン)のサポートはしていくつもりです。でも今は、また突然ホワイトハウスで働くような予定はありません」と述べている。また将来閣僚になる可能性はあるかという質問には「いや、やらないと思う。ミシェルに捨てられちゃうから」と冗談交じりに答えている[155]。
映像制作[編集]
バラクとミシェル夫人は2018年5月22日に、二人の創設した映像会社Higher Ground ProductionsがNetflixと複数のドキュメンタリーとフィクション映像を製作する契約を結んだと発表した[156][157]。第一作目の映画『アメリカン・ファクトリー』は第92回アカデミー賞でアカデミー長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した[158]。『マイ・ストーリー』はプライムタイム・エミー賞の4部門にノミネートされた。
政権[編集]
政権スタッフ[編集]
職名 |
氏名 |
任期 |
バラク・オバマ |
2009 - 2017 |
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2009年1月5日に、表にあるような各長官の任命を行い、同年1月21日に前日のオバマの大統領就任を受けて正式な政権として発足した[注 15]。この人事は国務長官に大統領選挙を戦ったヒラリーを起用するなど、オバマのと対立的立場の人材を起用したことから、オバマの敬愛するリンカーンの政権人事「チーム・オブ・ライバルズ」に似ていると評されている[170]。
経済政策[編集]
世界同時不況への対応としてアメリカ再生・再投資法(ARRA法)を2009年2月に成立させ、積極的な財政政策を行った。同年6月には製造業としては史上最大の倒産をしたゼネラルモーターズ(GM)を国有化することで救済した[171]。連邦準備制度理事会(FRB)
議長に再任したベン・バーナンキによる大規模な金融緩和にも支えられ、2010年から2016年にかけてアメリカは主な先進国の中で最も高い年率2.09パーセントの経済成長を達成し[172]、2009年7月から始まった景気拡大は後任のトランプ政権下の2020年2月まで持続して史上最長の128カ月に達した[173]。
金融政策では、2010年7月にドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法を成立させ、大恐慌以来の金融規制改革をもたらした[174][175][176]。
医療保険制度改革[編集]
詳細は「医療保険制度改革 (アメリカ)」を参照
医療保険制度改革を内政の最重要政策として掲げ、国民皆保険制度の実現を図るために国民の保険加入を義務付けるといった医療保険改革法案を2010年3月に成立させた[177]。
環境政策[編集]
気候変動に関する協議に積極的に参加すると述べ、主要企業に二酸化炭素排出量の上限(排出枠)を設定する「キャップ・アンド・トレード」方式の排出量取引を開始し、2020年までに温室効果ガスの排出量を大幅に削減する意向をカリフォルニア州の地球温暖化関連の会合に寄せたビデオ演説で表明した。パリ協定採択にも関わった[178]。
後任の大統領であるドナルド・トランプがパリ協定から離脱を表明した直後、「地球の未来を拒否する一握りの国に加わった」とトランプ大統領を非難するとともに、アメリカの各州や各都市、全ての企業には「国民一人ひとりが政権を頼らずに率先して、今後も地球温暖化対策をしっかり取り組んでくれるだろう」との期待を示している[179]。その期待に応えてワシントン・ニューヨーク・カリフォルニアの3州による、パリ協定順守を目的とした米国気候同盟の結成[180]に繋がった。また、退任後のパリ訪問時においては「パリ協定に米大統領の指導力が一時的にないなんて嘆かわしい」とトランプ大統領を改めて批判している[181]。
外交・安全保障[編集]
イランとは核合意を成し遂げ、キューバとは国交を樹立させるなどアメリカと長らく敵対してきた国と対話する路線に転換した。第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの湾岸戦争を評価しており、アメリカ主導の国際協調を理想とした。しかし、保守派からはこの路線が「弱腰」と叩かれたかつてのジミー・カーター大統領の姿勢と似通っていると批判されていた[182]。また、アメリカは「世界の警察官」をやめると宣言した初めての大統領でもある[183][184]。
イラク戦争には一貫して反対しており、開戦直前の2003年3月16日にジョージ・W・ブッシュ大統領がサダム・フセインに対して48時間以内のイラク撤退を求める最後通牒を出した際、シカゴでの反戦集会で聴衆に対して「まだ遅くない」と開戦反対を訴えた。就任後は段階的な撤退を目指すとした。
「イラクに拘ればアフガンで泥沼にはまる」と述べ、治安が悪化しているアフガニスタンやパキスタンのアメリカ軍の増強を検討。州兵に頼らない10万人の正規兵を増派した。
2012年11月19日には現職のアメリカ合衆国大統領として初めてミャンマーを訪問した[185]。
尖閣諸島については2014年4月の日米首脳会談後の記者会見で、「日本の施政下にある領土、尖閣諸島を含め、日米安保条約第5条の適用対象になる」と述べ、尖閣諸島は日米安保条約適用範囲内でありアメリカが防衛義務を負うことを表明した[186][187]。オバマはこの会談の前にも、読売新聞によるインタビューの中で同じ趣旨の発言をしているが、現職のアメリカ合衆国大統領が尖閣諸島への安保適用を明言したのはオバマが初めてである[188]。
核兵器政策[編集]
「国際的な核兵器禁止を目指す」とも発言しており、ロシアと協力し双方の弾道ミサイルを一触即発の状況から撤去し、兵器製造に転用可能な核分裂性物質の生産を世界的に禁止、更に米ロ間の中距離弾道ミサイル禁止を国際的に拡大することを目指した。
それに関連して2009年4月5日にチェコの首都プラハで行った演説で「アメリカは核兵器を使用した唯一の核保有国として、行動を起こす道義的責任を有する(As the only nuclear power to have used a
nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act.)。」と1945年の広島市、長崎市への原爆投下に対するアメリカの責任に言及した[189]。
これを受け、2009年8月6日の広島市平和記念式典において秋葉忠利広島市長は平和宣言の中で「オバマジョリティ (Obamajority)」という造語でこれに言及し、「Together, we can abolish nuclear weapons. Yes,
we can.(我らはともに核を廃絶できる。できるとも)」と初めての英語での演説でオバマの決め台詞を使用し核廃絶を訴えた。
しかし2010年オバマ政権は臨界前核実験を行い、各方面から疑問の声が上がった。オバマのノーベル平和賞受賞をかつて支持した秋葉広島市長からは、「激しい憤りを覚える」とする抗議文が駐日アメリカ合衆国大使館に送付された[190][注 16]。
政権1期目では、ロシアとの間に第四次戦略兵器削減条約(新START)を結んでいる。
先住民政策[編集]
オバマは先住民に対する政策に熱心であり、先住民の生活改善に30億ドルの財政支援を行う方針をした。大統領候補時代にクロウ族の居住地に訪問し、オバマの演説は先住民をもひきつけ、大統領就任式では先住民もパレードに参加した。2009年8月には「大統領自由勲章」をクロウ族のジョセフ・メディシン・クロウ(英語版)に授与した[193]。
またオバマはチェロキー族の女性をホワイトハウス上級顧問に任命した[注 17]。ちなみにオバマの母のアン・ダナムはイングランド、アイルランド、そして先住民のチェロキー族の祖先を持つため、オバマはアフリカ、ヨーロッパ、新大陸のルーツを持っているのである。
しかしウサーマ・ビン・ラーディン殺害作戦のコード名が「ジェロニモ」と、あたかもビン・ラディンが「ジェロニモのようなもの」だといわんばかりの作戦名に対して先住民団体から抗議が起きた[194]。
オバマによる任命[編集]
オバマはアジア系、アフリカ系、ヒスパニック系、そして先住民を重要ポストに就任させる政策をとっており、それまで以上に様々な人種で構成されるようになった。日系では退役軍人長官にエリック・シンセキを任命し、中国系では商務長官にゲイリー・ロック、エネルギー長官にスティーブン・チューを任命した。アフリカ系では司法長官にエリック・ホルダー、アメリカ合衆国通商代表部にロナルド・カークを任命、インド系のアニーシュ・チョプラ(英語版)を米政府初の最高技術責任者に指名し[195]、ソニア・ソトマイヨールをヒスパニック系としては初となるアメリカ連邦最高裁判事に指名した[196]。
移民制度改革[編集]
オバマは2008年アメリカ合衆国大統領選挙において包括的な移民制度改革の実現を掲げ、ヒスパニック系の有権者から膨大な支持を取り付けて当選した。オバマは大統領就任1年目の政策としてこの移民制度改革の実施を公約としていたが、オバマは公約を反故にした[197]。2010年12月になって、オバマは移民改革法案を提出し可決を求めたが[198]、上院において民主党内からの反対票も有り法案は否決された[199]。オバマ政府は再度 移民制度改革法案を提出し、2013年7月に上院で可決された[200]。オバマは反対意見が根強く採決に至らない下院に対して2013年中の法案の成立を求めている[201]。2014年6月、同改正法案は下院による採決見送りのため廃案となった。オバマは下院の共和党議員を激しく非難したうえ、議会の承認を得ずに法案の成立を求める考えを示した[202]。このようなオバマの強硬姿勢に対しては大統領弾劾の可能性も取り沙汰されていた[203]。
同性婚への支持[編集]
2012年5月9日、現職のアメリカ合衆国大統領として初めて同性婚支持を表明した[204]。
2015年4月8日、同性愛者やトランスジェンダーの若者の性的指向や性自認を変えることを目的とする「転向療法」をやめるよう呼びかける声明を発表した[205]。
オバマ政権の時期には、同性愛者など性的少数者の権利の向上が進行した時期であった。2012年12月7日、合衆国最高裁判所は「結婚を男女に限定した」「結婚保護法」を違憲無効とする判決を出した[206]。
2015年6月27日に連邦最高裁が「デュープロセス条項の自由」を謳ったアメリカ合衆国憲法修正第14条を根拠に、アメリカ合衆国のすべての州(首都ワシントンを含む)に同性結婚を認める判決を出した。これによって同性結婚を認めない州法は直ちに無効となった[207]。
オバマは最高裁判決によってアメリカ合衆国が同性婚を認める国になったことに関して「アメリカにとっての勝利である」「同性婚合憲判決でアメリカが完璧な国にほんのわずかながら近づいた」と判決を肯定した[208]。
有給病気休暇[編集]
2015年9月7日、アメリカ合衆国連邦政府の契約業者の従業員に年間最大7日間の有給病気休暇を認める大統領令に署名した[209]。
プロチョイス(中絶権利擁護派)[編集]
人工妊娠中絶に対して賛成であり、プロチョイスの立場を取っている[210]。オバマはアメリカの中絶病院チェーンであり、プロチョイス(人工妊娠中絶権利擁護派)の団体であるプランド・ペアレントフッド(全米家族計画連盟)からの支援を受けており、その会議にも出席し、演説している[211]。また、プランド・ペアレントフッドへの助成を廃止しようとする共和党の予算案に対し、拒否権を行使すると発言した[212][213]。
人物像[編集]
名前[編集]
オバマは母親とは別姓であり、名前の「バラク」とは「神に祝福されし者」を意味するスワヒリ語であり(さらに遡れば、アラビア語)、姓の「オバマ」はケニアに住んでいるルオ族に見られる姓である。過去のアメリカ合衆国大統領はイングランドやドイツ、アイルランド、オランダなど、ヨーロッパにそのルーツを持つ姓や名を持つ者のみであり、アフリカにルーツを持つ姓や名、そしてイスラムにルーツを持つミドルネームを持つ者がアメリカ大統領になる事は史上初の事である。奴隷時代の影響でヨーロッパ系の姓と名前であるアフリカ系アメリカ人のミシェル夫人は初めてその名を耳にしたとき「バラク・オバマ? 変な名前だわ」「少し変わり者で、オタクっぽい人に違いない」と思ったという[214]。
なお、姓を「オサマ」と呼び間違えられることがある。過去にCNNや上院議員のテッド・ケネディ、2007年10月にはマサチューセッツ州知事(当時)のミット・ロムニーがオサマ・ビンラディンを説明中にうっかり言い間違えている[215][216]。
2008年6月頃から主に若者のオバマ支持者の間でメールアドレス、Facebookなど一部のSNSや会員制サイトのハンドルネーム、また買い物の会員カードなどその他名前を登録するあらゆる機会においてミドルネームに「フセイン」と入れる、いわゆる「フセイニアック現象」が起こり、選挙前にはその盛り上がりがピークを見せた。元々イスラム教に由来するこの名前は、イスラム教徒に限らずあらゆる人種や家系や宗教の若者の間でオバマへの支持を表明する手段となった[217]。
演説[編集]
かつては知名度で元大統領夫人であるヒラリー・クリントンに差をつけられていたが、演説の巧さと人を惹きつけるカリスマ的魅力があり、遊説を続けるごとに支持者を獲得した。
政策は具体性に欠け抽象的・理念的な話が多いという評価がある一方、演説の説得力はジョン・F・ケネディの再来とも形容される。演説では、"we"(我々)、"you"(あなた)を多用した短いフレーズを重ねていく手法を採用している。とりわけ「Change」(変革)と「Yes, we can.」(私たちはできる、やればできる)の2つのフレーズは、選挙戦でのキャッチコピーとして多用された。
演説用原稿のライティングは1980年代生まれの若手のライターであるジョン・ファヴローが抜擢された。彼はこれまで数々の「名演説」を書いてきた。彼はかつてジョン・ケリー陣営で修行を積んでいたこともある[218]。
一方産経新聞は、オバマが意味不明な発言をすることもあるとしている。同紙によれば、オバマはソマリア沖での海賊行為を特殊部隊で鎮圧した際の記者会見で、「われわれはあの海域での、プライバシーの台頭に終止符を打つ決意を固めています」と発言していたという(海賊行為は、綴りが似ている「パイラシー」が正しい)[219]。在米ジャーナリストの西森マリーは、オバマはスピーチライターの書いた原稿を読んでいるだけであり、事前に通知されていない問いには、とんでもない返答を再三行っていたと述べている[220][219]。
懸念材料[編集]
オバマは「アメリカ史上初の黒人大統領」である[注 18]。
1964年のジョンソン政権時に成立した公民権法が施行されてから40年以上が経過しているが、未だにアメリカは南部を中心に深刻な人種差別問題を引きずっており、今回の「黒人のアメリカ大統領」誕生が与えるイメージ変化は計り知れず、そうした面から当選を願う声も多かった。
反面、「人種差別の過激派(KKKなど)が暗殺を企てるのではないか」と指摘されたこともあり、当選後も厳重な警護がなされている。因みに「KKKの支部がヒラリー・クリントンに反対する動機からオバマ氏に献金した」という報道(Ku
Klux Klan Endorses Obama〈2008年2月8日時点のアーカイブ〉)は捏造とされる[221]。また、元KKKで後年自身のKKK参加を誤りとしたロバート・バード上院議員はオバマを支持している[222]。
また予備選においては意識的に自らの人種を強調しない戦略をとったにもかかわらず、オバマ一家と関係の深い牧師のジェレマイア・ライトが白人を敵視するかのような発言を繰り返すなど選挙戦でも人種問題と無関係ではいられない状況にあった。
なお20世紀以降に大統領となった人物の多くが知事か副大統領としての行政経験を持ち、若さを売りにしたケネディでさえも、上下院合わせて10年以上も連邦議員を経験してから大統領となっている。州議会議員の他は上院議員1期だけという政治経歴は例外的に短い。このことは「既成の体制から自由である」という清新なイメージを与える点で大きな強みとなるが、一国の大統領として国家を率いていけるかという根強い懸念を生んでおり、対抗馬による攻撃対象の一つとなっていた。
問題点と疑惑[編集]
オバマに対しては、イリノイ州上院議員時代からいくつかの疑惑が報道された。それらを大きく分類すると、汚職関連問題や極左ウエザーマン活動家(テロ前歴者を含む)及び人種間の衝突を扇動する個人や団体との関係が挙げられる。
別件で政治関連の贈賄罪等で有罪判決が確定されたトニー・レズコ(英語版)の妻はオバマ夫妻が一戸建ての自宅を購入する際、隣接の土地を購入し後にその一部をオバマ夫妻に転売することにより、実質上の不正寄付を行ったと批判されている[223][224]。
オバマの出生地はハワイ州ではなくケニアもしくはインドネシアであり、アメリカ領土において出生したことをアメリカ国籍の要件とする当時の法律に照らして大統領となる資格を有しないとの主張があり、これに関連した訴訟も提起されている。このような意見は共和党主流派からも批判されるなど一般に陰謀論とみなされているが、ティーパーティー運動参加者を中心に根強い支持が存在し、同様の主張をする者はバーサー(birther)と呼ばれている。オバマは当初抄書のコピーを提示するだけで済ませていたが、2011年になりドナルド・トランプが取り上げメディアの注目を集めたため、正式な出生証明書を公表した。(バラク・オバマの国籍陰謀論)
オバマの大統領選時の選挙陣営は「ロビイストからの献金は受け取らない」と宣言していたが、市民団体の調査では606人のbundlerがおり、その内17人がプロのロビイストだと判明している[225]。
2005年12月に起こった原子力発電企業に関する公害問題で立ち上がり、原子力関連施設の規制強化を目指したが業界は反発しロビー活動を強化した。程なくしてオバマは修正に応じ法案を再提出したものの「業界には屈さなかった」とコメントした。しかし、修正法案の中身は業界に大幅に譲歩したものであった事が『ニューヨーク・タイムズ』紙に報じられ明るみに出た[226][227]。なお後に、問題を起こした原子力発電企業の取締役達は大統領選挙におけるオバマ陣営の最高額献金者リストに加わっている[228]。
大統領選挙期間にインターネットを経由しての少額献金から莫大な選挙資金を獲得したと信じられており、選挙責任者のDavid Plouffe (David
Plouffe) は平均献金額は100ドル以下と話したが、ワシントン・ポスト紙が連邦選挙管理委員会のデータを詳細に調査した結果、200ドル未満の少額献金者は全体の4分の1に過ぎないことが判明している[229]。これは2004年度の再選キャンペーン時にジョージ・W・ブッシュが獲得した比率よりも低い。
2008年2月、オバマ候補はNAFTA(北米自由貿易協定)のチェンジを求めているとカナダのテレビ局が報じた。それを危惧したカナダ政府がオバマ・チームに真意を伺ったところ、「ご安心ください。あれはアメリカの労働者向けのジェスチャーですから」と返事したという[230]。
オバマは大投資銀行UBS(Union Bank of Switzerland)[注 19]総裁でアメリカのUBSグループの頭取であるロバート・ウルフ(英語版)と非常に親しく、一緒にゴルフをしている姿が度々報じられている[231][232]。ウルフはオバマの大統領候補指名選挙戦の資金として2006年に25万ドルを献金し、2012年の大統領選においては50万ドル以上を献金している[232]。2009年2月、彼はオバマ大統領によってホワイトハウスの景気回復諮問委員会(英語版)の委員に任命された[233][234]。
家族[編集]
1992年に結婚した妻のミシェル(Michelle)、1998年生まれの長女のマリア(Malia)と、次女で2001年生まれのナターシャ(Natasha、「サーシャ(Sasha)」と呼ばれることが多い)の4人家族である。なおナターシャは初の21世紀生まれのホワイトハウス住人である。
2014年には、娘のマリアとナターシャの2人が米タイム誌の「2014年の最も影響力のある25人のティーン」に選ばれた[235]。
愛犬[編集]
歴代のアメリカ合衆国大統領と同様、大統領当選後よりホワイトハウスにおいて愛犬を飼うことを表明し、様々な団体や政府から愛犬の譲渡の申し出が相次いでいた他、動物愛護施設からの譲渡も検討されたが、マリアに軽度のアレルギーがあることもあり、愛犬探しは難航した。
しかし最終的に、テッド・ケネディ上院議員よりポヂュギース・ウォーター・ドッグが贈られることとなり、2009年4月14日にお披露目され、同時に「ボー(Bo)」と名付けられたことも発表された。
親戚[編集]
継父ロロ・ストロと実母アン・ダナムの間に生まれた異父妹のマヤ・ストロがおり、マヤはマレーシアから来た中国系カナダ人のコンラッド・イングと結婚して娘のスハイラを出産した。
また実父のシニアは他に3人の妻との間に子供がおり、ケジア・オバマ(Kezia Obama)との間にはマリク・オバマ(Malik Obama) 、アウマ・オバマ(Auma Obama) 、アボー(サムソン)・オバマ(Abo Obama) 、バーナード・オバマ(Bernard Obama)という4人の子供、ルース・デサンジョ(Ruth Ndesandjo)との間にはマーク・オバマ・デサンジョ(Mark Okoth Obama Ndesandjo) 、デイヴィッド・デサンジョ・オバマ(David Opiyo Ndesandjo Obama)という2人の子供、Jael Otienoとの間にはジョージ・フセイン・オニャンゴ・オバマ(George Hussein Onyango Obama)という1人の子供がいる。
2013年、マリクはケニアで知事選に立候補したが落選している[236]。マリクはスーダンのイスラム・ダワウ機関(IDO)の事務局長を務め、オマル・アル=バシール大統領の側近とされている[237]。彼はケニアにおいて、アメリカ合衆国内国歳入庁からの資金援助などを承認されたバラク・H・オバマ財団(BHOF)と言うオバマ一族が経営する慈善団体の経営者でもある[238][239]。またマリクはエジプトのムスリム同胞団を資金支援していると疑われている[240]。
アウマは作家やジャーナリストとして活躍し、オーストラリア生まれのアボーはアラブ首長国連邦でリンクトイン上のnidale trading llcの人事部長を務めた。マークは中国を拠点に慈善事業を運営し、中国語も堪能で妻も中国人である。デイヴィッドは1987年にオートバイの事故で死去した。またマークとデイヴィッドはユダヤ系アメリカ人の血を引いていた。兄弟の中で一番若いジョージはナイロビのスラム街にある小屋で暮すが、その前は数年間野宿暮らしをしていた。2009年に大麻所持の疑いで逮捕されている[241]。
バラク・オバマ・シニア(実父)
- ケニア人のルオ族
アン・ダナム(実母)
- イングランド人、アイルランド人、チェロキー族
スタンレー・ダナム(母方の祖父) - イングランド人、アイルランド人。
マデリン・ダナム(母方の祖母) - チェロキー族
ロロ・ストロ(義父)
- インドネシア人
マヤ・ストロ(異父妹)
- イングランド、アイルランド、チェロキー族、インドネシア人
マーク・デサンジョ(異母弟)
- 在中。中国人と結婚。
ミシェル・オバマ(妻)
- アフリカ出身の黒人奴隷の子孫
クレイグ・ロビンソン(英語版)(義兄) - アフリカ出身の黒人奴隷の子孫
コンラッド・イング(義弟)
- カナダ出身の中国系マレーシア人
以上のようにバラク・オバマの家族や親戚は様々な国に起源を持っている。
ルーツ[編集]
オバマ本人は自らのルーツの多様性を「小さな国連」と形容した[242]。大統領就任演説では「ケニヤ人の子」といい、アイルランド訪問時にはアイルランド風に"O'Bama"と名乗ろうと思ったことがあると発言したことがある。また日本訪問時の演説では自分を「アメリカ史上最初の『太平洋人大統領』」と称した。
オバマの母方の祖先はイングランド王ヘンリー2世の庶子であるソールズベリー伯爵に遡る。このため子女をたくさん儲けたヘンリー2世の子孫であるジェームズ・マディソン、ウォレン・ハーディング、ハリー・トルーマン、リンドン・ジョンソン、リチャード・ニクソン、ジェラルド・フォード、ジョージ・H・W・ブッシュ歴代大統領やロバート・リー南軍司令官、ウィンストン・チャーチル英首相、アルベルト・シュヴァイツァー、スコット・フィッツジェラルド、ジャン=ポール・サルトルは遠縁に当たる。ジョージ・W・ブッシュとは10親等、ブラッド・ピットとは9親等、ディック・チェイニー[注 20]とは8親等離れた親族である[243][244][245][246]。
また、アフリカからの留学生と白人の間の子であって、アメリカの黒人コミュニティの主流である「元奴隷の子孫」ではないと言われていたが、2012年には、1647年に年季奉公を放棄、逃亡した罪で奴隷身分とする判決を受けたジョン・パンチ(英語版)(アメリカ最初の黒人奴隷)が、白人である母親の先祖のひとりであると、系図会社の Ancestry.com(英語版) が発表した[247]。Ancestry.com が古文書とDNA解析により調査したところによると、パンチと白人女性の間に生まれたムラートである子は自由民となり、その子孫はヴァージニアの地主の家として代々続いたという[248]。
エピソード[編集]
喫煙者として[編集]
アメリカでは責任ある地位にある者に対して自己規制能力を強く求める傾向があるため、喫煙者や肥満などの者は否定的な評価を受ける。そんな中、オバマは就任当時、現職大統領で喫煙者であった。大統領選挙出馬時にミシェル夫人が選挙運動への協力する条件に禁煙を求めたことや、ホワイトハウスが禁煙になっていることから、オバマの禁煙への挑戦とその結果が世間の注目を集めた。2011年には禁煙に成功した[249]。
スポーツ[編集]
オバマはスポーツ好きとして知られる。特に好きなのは学生時代からプレーしているバスケットボールであり、現在もプレーを続けている。2008年の民主党予備選期間には、予備選・党員集会の投票日の朝にはバスケットをプレーするようにしていたという[250]。2010年11月26日、休暇中に家族や友人らとバスケットの試合に興じていた際、対戦相手の肘が上唇を直撃し12針を縫う怪我を負った[251]。
NBAチームではシカゴ・ブルズのファンであり、大統領就任後も試合を観戦に訪れている[252]。好きなNBA選手はブルズでキャプテンを務めるルオル・デン。NBAのスーパースター、レブロン・ジェームズが移籍先を交渉中の際は、公式会見でブルズへの移籍を薦めた(結局レブロンはマイアミ・ヒートに移籍)。NCAAカレッジバスケットボールでは、ノースカロライナ大学を応援している[253]。
基本的に地元シカゴに本拠地を置く北米4大プロスポーツリーグのチームは全て応援しており、地元のMLBチーム・シカゴ・ホワイトソックスやNFLチーム・シカゴ・ベアーズ、NHLチーム・シカゴ・ブラックホークスのファンであることを公言している[254][255]。シカゴ・カブスについては、ファンではないものの、シカゴを代表するチームの1つとして敬意は示している[254]。NFLでは、ベアーズを除くとピッツバーグ・スティーラーズが一番好きだという[256]。カレッジフットボールに関しては、「そろそろカレッジフットボールにプレーオフを導入する時期だと思う。もうコンピューターによる格付けにはうんざりしている。」とコメントし、制度の改革を望んでいる[257]。
2009年のMLBオールスターゲームでは始球式を務めたが、それに先立ってイチローと対面し、イチローからサインボールを手渡された。その際、イチローの大のファン(Big fan)だと語った[258]。
また、インドネシア滞在時にサッカーをプレーしていた経験があり、オバマの2人の娘はサッカーをプレーしている。2003年の訪英時にプレミアリーグ・ウェストハムの試合を観戦して以来、ウェストハムのファンであるという噂も流れていた[259]。2014 FIFAワールドカップの際には決勝トーナメント1回戦に挑むアメリカ代表の試合をホワイトハウスで観戦し、その後選手たちの健闘を称えるダイレクトコールを送っている。
ゴルフも得意であり、スポーツ全般に関心が高い。2016年夏季オリンピックの開催地に立候補しているシカゴ市の招致活動[260]や、2018年もしくは2022年のFIFAワールドカップ招致活動[261]にも全面的にバックアップをすることを表明していた。
音楽[編集]
大の音楽ファンであり、iPodユーザーとしても有名である。幼少期はエルトン・ジョンやアース・ウインド&ファイヤーなどを愛聴していた。現在のiPodの収録リストには、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、ジェイ・Z、ローリング・ストーンズ、シェリル・クロウなどが入っている。他にもジャズやクラシックなど音楽の趣味は幅広い[262]。
もともと民主党は音楽産業や映画産業などからの支持が厚いが、オバマの支援に関してはかつてないほどの盛り上がりを見せた。大統領選挙の応援演説にはブルース・スプリングスティーンが駆け付けた他、伝説のロックバンド・グレイトフル・デッドが応援のために再結成、さらにウィル・アイ・アムがオバマの名演説「Yes We Can」を元に新曲を制作するなど、様々な動きが起こった。その他にもアメリカ国内外を問わず、多数のアーティストから支持表明を受けている[263]。
2009年1月18日にはオバマの大統領就任を記念した特別コンサートが開催された。主な顔ぶれは、ブルース・スプリングスティーン、スティービー・ワンダー、U2、ビヨンセ、ウィル・アイ・アム、アッシャー、シェリル・クロウ、メアリー・J. ブライジ、ジョン・ボン・ジョヴィ、ハービー・ハンコック、ガース・ブルックスなど。オバマ本人も出演し、ステージの最後にスピーチを行った[264]。
2010年6月2日、ポール・マッカートニーにガーシュウィン賞が授与され、ホワイトハウスにてパフォーマンスを行った。ミシェル・オバマ夫人が主催となっており、「ホワイトハウスでプレイしたくて仕方なかった」というビートルズ時代の楽曲「ミッシェル」などを熱唱した[265]。
「オバマを勝手に応援する会」[編集]
福井県小浜市では市名にちなみ観光協会のメンバーを中心として「オバマを勝手に応援する会」を発足させ、親書と市名産の「めおと箸」を送るなどしている[266][267]。
また長崎県雲仙市小浜町の小浜温泉でも同様に勝手連が発足し、応援活動を行っている[268]。福島県二本松市小浜にある二本松市立岩代図書館は大統領就任を記念したコーナーを2009年に設置した[269]。
この活動についてはオバマも承知しており、2008年アメリカ合衆国大統領選挙後の麻生太郎との電話会談にて、「小浜市については知っている」と述べた[270]。
専用車[編集]
2009年1月14日にはオバマ専用の車としてゼネラルモーターズ社の最高級ブランドである「キャデラック」のフラッグシップ・モデルである「DTS・リムジン」の新型特装車が一般公開された。この新しいDTS・リムジンは、前任者のブッシュ前大統領専用車のDTS・リムジンと比べ装甲がさらに強化した他、最新の通信機能が装備されたが、これらの装備で車重が増したために最高速度は時速100キロ程度であると発表されている。
この車のシャシーにはGMC・トップキックのものが使用されており、アメリカ大統領専用車として初のディーゼルエンジン車である。また、フロントノーズの国旗と大統領紋章旗が夜間にLEDでライトアップする新機能が追加された他、負傷時の対応を考え、オバマの血液が車内に常に用意されている。この車両の防護装備や、性能等については警護・保安上極めて重要な機密事項であるため、一切公開されない。
なお、かつては大統領就任パレード用のオープンカーも併せて用意されていたが、テロリストによる狙撃を防ぐことが困難なため、1980年代以降は用意されておらず、大統領専用車にも同様に用意されていない。
2016年5月27日の広島訪問時にはオバマと共に、現職のアメリカ合衆国大統領専用車としては、初めて被爆地『ヒロシマ』の地を踏んだ。
発言[編集]
2009年3月、NBCのトーク番組であるザ・トゥナイト・ショーにゲストとして出演した際、自身のボウリングの腕前を、「スペシャルオリンピックスの様だ」と発言し?メディアなどから大きく取り上げられる。これを受けホワイトハウスは、「オバマの発言はスペシャルオリンピックを貶めるものではない」と釈明したが、オバマはスペシャルオリンピックス会長のティモシー・ペリー・シュライバーに謝罪している。
アフリカでの評価[編集]
ケニアではオバマが英雄視されている。同国の大統領ムワイ・キバキは「オバマの勝利はケニアにとっての勝利でもある」と発言し、11月6日をケニアの祝日に定めた。ほかのアフリカの国々でも、それぞれ「オバマ・デー」の名の祝日が急遽できたようで、タンザニアやガーナでも祝っていた。ガーナ出身で黒人で初めて国連事務総長となったコフィ・アナンは「オバマの勝利は彼の卓越した資質とともに、世界の変化へのアメリカの適応能力を証明している」と祝福した[271]。また、南アフリカで初めて黒人大統領になったネルソン・マンデラは「アメリカ建国以来初の黒人大統領の誕生は希望のシンボルだ」と述べ、「この勝利は、より良い世界を築きたいとの夢を持たない人物はこの世界にはいないということを示してくれた」との祝福をオバマに送った。さらにケニア国内では、「オバマ」「ミシェル」と子供に命名する親が急増した[注 21]。2009年の7月にはガーナ訪問し、家族と共に奴隷貿易の拠点だったケープコースト城を訪れた。
2015年7月には現職のアメリカ合衆国大統領として初めてケニアとエチオピアを訪問し[272][273]、ケニアはオバマの父の出身国ということもあってケニア市民から歓迎を受け[274]、エチオピアではアディス・アベバのアフリカ連合本部でアフリカの民主化を演説して聴衆から拍手喝采を受けた一方で[275]、中国に対するアメリカのアフリカ支援の遅れから「中国のお金で建てたアフリカ連合本部に行き、中国が造った道路を旅した」と揶揄する声もあった[276]。
学校教育[編集]
2009年9月8日にオバマはバージニア州アーリントンの高校の始業式で演説し、「高校を中退したらよい職業につくことはできない」、また「高校を中退することは、国を見捨てること」とアメリカ全体的に発言した。なお、よい職業の例としては「医師、教師、警官、看護師、建築家、弁護士、軍人」を挙げている[277]。これは全米の学校に映像が配信され、なるべく多くの生徒が視聴できるように準備が整えられ、テレビやインターネットでも全米に配信されている。この演説に対し、共和党支持者が「子どもたちに政府に都合のよい思想を吹き込もうとしている」などと非難したため、ホワイトハウスは演説内容を事前に公開した[278]。
服装[編集]
政務では選択・意思決定することが多く、余計なことで選択する労力を使いたくないという事からスーツはほぼ紺系か灰色系に限られている[279][280]。
身長[編集]
身長は6フィート1インチ(約185.4センチメートル)である[281][282]。
著作[編集]
2010年11月16日、オバマ自身が著した絵本が出版社Knop Books for Young Readerから「Of Thee I Sing:A Letter to My
Daughters」という書名で出版された。イラストはローレン・ロング(英語版)。日本語訳は2011年7月6日、『きみたちに おくるうた――むすめたちへの手紙』というタイトルで明石書店から刊行された。訳者はさくまゆみこ[283]。
大邸宅の購入[編集]
2019年、大統領時代から休暇を過ごしてきたマサチューセッツ州のマーサズ・ヴィニヤード島にある大邸宅を1,175万ドルで買い取った[284]。
注釈[編集]
1.
^ 保守系フォックス・テレビがイスラム神学校で教育を受けたと報じたが、後にCNNの現地取材によってこれは否定された[27]。
2.
^ ハーバード・ロー・スクールではトップ10%の成績の者に与えられる[40]。
3.
^ 例えば、
『アメリカ合衆国政府は彼ら(アフリカ系アメリカ人達)にドラッグを与え、より大きな刑務所をつくり、3回重罪加重懲役法を成立させたくせに、我々(アフリカ系アメリカ人)に「神よアメリカに祝福を (God bless America) 」と唱わせようとする。とんでもないことだ。このようなことをする国に対して聖書は「神よアメリカに断罪を (God damn America) 」と唱えよと教えている。我が市民(アフリカ系アメリカ人達)を人間以下に扱っているアメリカに神よ断罪を。自分があたかも神であるかのように、かつ至上の存在であるかのようにふるまっているアメリカに神よ断罪を』
なかでも最も大きな論争を起こしたのが、アメリカ同時多発テロ事件の直後に発していた次のような説教であった。
『・・・我々は広島を爆撃した。我々は長崎を爆撃した。そして我々は核爆弾を落とし、このたびニューヨークとペンタゴンで殺された数千人よりもはるかに沢山の人々を殺害した。我々はこのことから目を背け続けている』
4.
^ カトリック教会神父だがプロテスタントのトリニティー・ユナイテッド教会に招かれて説教した。カトリック教会はフレガー神父の発言内容を譴責し停職処分を下した[56]。
5.
^ "Shame on you, Barack Obama."[59]
6.
^ ヒラリーはオバマ陣営のパンフレットが根拠を欠き不当であると冷静な口調で長々と筋道立てて説明した後に「恥を知れ」と発言したのだが、テレビ報道では時間枠の都合やテンポの問題もあり、説明の部分が大幅にカットされて「恥を知れ」発言に焦点を合わせた映像が繰り返し放映された。
7.
^ オバマに対する献金の4分の1は200ドル以下の少額献金により賄われ、残りをゴールドマン・サックス、ユービーエス・エイ・ジー、JPモルガン・チェース、リーマン・ブラザーズ、 シティ・グループなどからの大口献金が占めた[60]。
8.
^ en:United States presidential
election, 2008
9.
^ en:Barack
Obama presidential acceptance speech, 2008
10. ^ 就任時年齢が若い順に、42歳 322日セオドア・ルーズベルト(第26代)、43 歳 236日ジョン・F・ケネディ(第35代)、46歳154日ビル・クリントン(第42代)、46歳311日ユリシーズ・グラント(第 18代)、47歳169日バラク・オバマ(第44代)[71]
11. ^ オバマ大統領が引用したのは、孟子「尽心章句」の一節。「山中の小道は、人が通ってこそ道となる。しばらく通らなければ、茅(かや)でふさがれてしまう」と引用した上で、大統領は「子供の世代のために誤解や埋めがたい溝を避けるよう努力を」と訴えた。
12. ^ オバマは「両国人の交流は極めて大切。民間人の交流を全力で支持する」、「台湾問題は“ひとつの中国”というアメリカの政策は不変」、「チベット独立は支持しない」、「新疆問題については、中国の主権と領土の保全を尊重する」と述べた。
13. ^ たとえば、2010年2月5日付の中国共産党機関紙・光明日報は「オバマ、中国人13億人はおまえを軽蔑する」と題する記事を掲載し、その中でオバマに対し「オバマのいうエセ平和の恐るべき正体」「面従腹背、二枚舌のうそつき野郎」「狼のような野心の何と恐るべきことか」との“文化大革命”調の悪口雑言を並べた[97]。
14. ^
15. ^ 各長官は上院の承認を経て正式に就任するため、就任日にばらつきがある。
16. ^ 2014年2月にもアメリカは臨界前核実験を成功させているが、アメリカのメディアでは殆ど取り上げられなかったこともあり、オバマに対する非難の声は報じられなかった[191][192]。
17. ^ ただしアメリカ先住民は社会進出は遅れているものの絶望的な貧困であえいでいるわけでなく、エニ・ファレオマヴァエガのような下院議員になる者も現れ、先住民の血を引く白人や黒人もかなり多い。
18. ^ 奴隷制時代を経験した先祖を持たないケニア人の父と、後述のように奴隷制時代を経験したアフリカ系の先祖を持つ白人の母親の間に生まれた混血。しかし社会的にはオバマは黒人と認知され、エスニックグループとしての黒人社会に帰属するものとみなされている。
19. ^ UBSは、世界中の金持ちたちが自国での脱税目的で秘密口座を持っていることで知られる。その口座の数は5万以上という。脱税を助けてきたことに対して、アメリカ政府はUBSを相手取って民事刑事告発をしていたが、2009年2月、UBSが780億円の罰金を払うことで決着。この罰金はアメリカの保険会社AIGにUBSが掛けていた保険で支払われた。
20. ^ オバマとチェイニーの共通の祖先は17世紀にフランスから移住したマリーン・デュバル(英語版)である[243]。
21. ^ アフリカ支援をしたブッシュ前大統領もアフリカでは「ジョージ・ブッシュ」と命名する社会現象があった。
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