蔓延する東京 武田麟太郎 2021.4.15.
2021.4.15. 蔓延する東京 都市底辺作品集
著者 武田麟太郎 1904年大阪市生まれ。第3高等学校卒、東京帝国大文退学。同人誌『真昼』を経て、1929年『凶器』でデビュー。プロレタリア文学者として活躍するが、やがて「市井事もの」と呼ばれる作風に活路を見出す。36年雑誌『人民文庫』を創刊、反ファシズム文化戦線の後退戦を担う。41年報道班員としてジャワ島に従軍。敗戦直後の46年、藤沢市にて没
編者・発行者 下平尾直 共和国代表
発行日 2020.12.25. 初版第1刷印刷 2021.1.1. 発行
発行所 共和国
1929年 東京都市計画区域図
山手線内時計回りに、中心に麴町區、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川の15區、その外周に荏原郡、豊多摩郡、豊島郡、南安達郡、南葛飾郡、さらにその外周に橘樹郡(川崎)、QRコード南多摩郡、北多摩郡、北足立郡、南埼玉郡、北葛飾郡、東葛飾郡(千葉)
1929~39年の間に、作者が東京の社会的底辺をテーマに描いた短編小説、ルポルタージュ、エッセイの中から撰び、発表年順に収録
² 凶器
おしのが120円で売られて東京に来たのはこの夏(1929)。人買いが「めしや(飯屋)だあね、めいしや(銘酒屋)ぢやねえんだ」といって娘を連れていく慣わしだったから、おしのも「めしやだね」とくりかえしたずねた
工場の塀に戦争反対のビラを貼る。通行人に見られたので隠れたが労働者風だったのでまた貼り紙を続けていたら、突然通行人に拘束される。労働者はすぐ騙される。味方づらした中にたくさんの敵がいることをすっかり忘れていた
(『江東』という長編のほんの最初の部分です)
² 暴力
徴兵検査に不合格となり、都市計画にかかった家屋敷を処分して東京に出る。東京で唯一の知り合いだった中等学校の同級生で社会主義にかぶれた男は該当した住所におらず、代わりの男に連れられて「掠」の実地見学をする。目星をつけた会社に行って庶務課長に会い「浪人しているので扶助を願いたい」というと、黙って何がしかの金品を入れた封筒を渡される。「我々の兄弟の生き血を搾っているのだから、取られたものを取り返すのに何の不思議がある!」というのがその理屈
徐々に社会主義運動の仲間入りし、ボル(共産主義者)が多く活動している大衆政治行動団体の全国大会をぶち壊しに出動
² 色彩
貧乏人夫婦に部屋を貸したら、突然荒くれ男が3人住みついて、表に「xx労働組合」の看板を掲げる。部屋の裏の食堂の娘が彼らの毎日の様子を見て興味を覚え、掃除や洗濯にやってきた。男たちの人気者になって、部屋もこざっぱりとして来た。洗濯物を持って帰るついでに煙草の空き箱をくれという。錫を剥がして丸めたのが大きなボールになっていた
² 場末の童謡
街に映画の撮影隊がやってきた。この街をダシに使って金儲けしていると母親は怒る
失業した父親と一緒に歩きながら、男の子は、金持の所では早くお正月が来るに違いないと考えた
男の子は、4歳の妹の面倒を見るよう言いつけられたが他の男の子と遊んでいるうちに妹は近所の年上の女の子と一緒に長屋を出ていく。線路を越えたところに行こうとして年上の子は機関車にはねられ即死、妹は気絶していた。夜になって駅長代理助役がやってきて、「もっと子供に気を付けて貰わないと困る」といって紙包みを置いていく。中から紙幣が2枚出てきた。それで医者の払いを済まし、幾許か残ったのでお雑煮の餅に代わった
² 浅草・余りに浅草的な
僕の浅草には12階はない。人は浅草というと必ず12階を言うが、僕は12階の無い浅草を語りたい
浅草は明るくて楽しく、人を満足させるが、とけあわぬ人種もいる
ユスリは多いが、人の顔色で仕事をする。ユスル相手はどこかユルミがあるのだそうだ
ユスラレタ人はまだ十分浅草を享楽していない人だ。そこから多かれ少なかれ縁の遠い人で、ここに来ればみんな兄弟のような気持にならねばウソだ
ここにいるのは被圧迫階級で、野師(てきや)の口上を聞けば、資本家地主を罵倒しプロレタリアという言葉を乱発、そうでなければ彼の売ろうとするマヤカシモノの本や薬を取り出すまで聴衆は耳を貸してくれない――浅草はそんな人間の集まる所
浅草の始まりは観音様だろう
浅草について語り出すときりがない。無盡蔵だからだ
² 託児所風景――柴田おきつさんのために
主人に死に別れて働きに出る母親が託児場に子供を預けに来る
その子が毎日白いご飯しか持ってこないのを見て、気の毒に思った保母さんは自分のおかずを分けてあげるが、そのうち母親がそれに甘えてわざとご飯しか持たせないのではと思い、慈善を期待する奴隷根性を小さい子供に吹き込むようなものになってはいけないとやめる。母親にその旨告げると、母親も思い違いをしていたと詫びる
ある日その子が新しい着物を着て白粉までしてやってきた。ご馳走もうんと食べたという。さらに「あたしんち、お父ちゃんが出来た」と告げる
² 新宿裏旭町界隈
甲州街道と青梅街道が出会う三角地帯、新宿という宿場はずれで、宿場と街道であまり芳しくない仕事をして稼ぐ連中が隠れ住んだ巣であり、昔から生え抜きのルンペンが親子代々ここを塒(ねぐら)として新宿を飯櫃として暮らしてきた。そんなわけで3000の人間の心はみな一つにまとまっている
² 上野ステーション
バラック建ての上野ステーション。朽ち果てた用材はくすんだ色彩を強く人々に印象させ、あたりの空気をこの上なく陰鬱にしている。牛のような眼をした、影ある東北人の表情と、土臭い訛り声は、汚らしい待合室の椅子や壁にしみついてる
² 隅田川附近
今までの短篇小説で隅田川のどこか一部を描いていないのは珍しい位、縁の深い奴だが、仲間と《隅田川》という映画を共同で作ることになって脚本を担当したが3か月たっても完成されていない。そこで、自分は、1つには川風に吹かれて見たく、1つには隅田川を見物して見ようという気になった
吾妻橋に出ると、体調を壊して藤澤桓夫のいる富士見高原療養所に行っていたが回復して東京に戻ってきたという堀辰雄が、今日は暖かいので散歩に出たところに行き当たり、一緒に隅田公園の裏手に当たる彼の住まいの小梅の方に向かう
千住から来た汽船が吾妻橋船着場にいる。かつての隅田汽船がストライキで潰れ、今は大阪の資本家の手で航路が復活、5銭均一で働いている
枕橋の際には昔と同じように大福屋と詰将棋屋が出ている。それを越すと東武鉄道のガード下には浮浪者たちの巣が見られる。隅田川に注ぐ小運河を堀は源兵衛堀と言い、自分は源森川という
白髭橋は立派に広くなっていたが、袂の家々は地上げしていないので、土手の下に落ち込んで商売をしている。橋の近くの隅田製鉄は夜業に取り掛かっている。橋銭を取られる気遣いもなく、トラックに震動することもない。ボートレースの時に、群衆がかたまると警官がやって来て橋が落ちては困るからと解散させたことなどこの白髭は知らないだろう
² 日本三文オペラ
浅草公園の裏口、田原町の交番の先にある荒れた墓地に向かってひどく傾斜した3階建ての物干し場で軽気球を上げたり下げたりしているのは、東京空中宣伝会社の地域代理人の中年男は、他に周旋業や日歩貸し、「アバート」と書いて安宿も兼業している
そこで共同生活をする多彩な人間模様を描く
² 蔓延する東京
l 写真集 その1 亀戸区、荒川区、江戸川区一帯の中心地区とそこに働く人々、大東京の美観を害うところの彼等の所謂「不良住宅」の雨の日のぬかるみと晴れの日の満艦飾、女たちや子供たちの表情、蔓延る不正・飢え・乞食性・買淫・泥酔・殺人・宗教、刑務所と警察権、政治的無関心、これらの街を貫通し循環する軍用道路や要塞のような小学校舎を切り取る
〈食ふ物語〉
10月から東京は更に膨れあがる。近接の町村を抱合して、彼等の言う「非常時」を切り抜けるため、xxとxxに便宜を図ろうというのだ。それはちょうど疥癬が新しい皮膚を求めて蔓延してゆく状態を思わせる。新しく資本主義都市制度という病菌に蝕まれてゆく町村は、大東京という輝かしい名称によって呼ばれることに光栄を感じていると彼等はxxしているが、そういう町村は一口に「場末」と呼ばれる町村
新しい荒川区は、従来の北豊島郡の南千住、三河島、尾久、日暮里を含み、人口は28万人
向島区は、従来の南葛飾郡寺島、隅田、吾嬬を編入して、人口は14万
各町村で出逢った人々の姿は、いかに醜悪に外見には見えようとも、すべて食うための努力である。飢えを前提とした彼等の行動を、悪であるという前に、もっと大きな悪、飢えに向かって飢える人間の群れを作っているものに向かって、我々は――いやいうまでもない
三之輪停留場から王子電車に乗る。悪臭を吹き込んできたが、それは東京市汚水処分所から三河島の町に流れているもの。そうでなくともこの町には下水の臭いがある。貧乏の臭いが染み込んでいる。人間の塊が発する汗と脂の臭いがある。そこへ汚水の塊を東京市は持ってくる。まるでここの町の奴らには、どんなものを持って来たって構わないだろうといった人を莫迦にした表情で。そして、悪臭というものは不思議で、最初は耐え難いが知らぬ間に鼻は慣れて鈍感になる、慣れることの恐ろしさ! この術で我々は永い間、貧困と隷属に慣らされ、それらの苦しさを敏感に感じなくなっていた
町屋火葬場前の乞食を撮影しようと向かう。数人が葬(とむら)いの来るのを待っている
火葬場から出てきた一行に纏わりついて恵みを乞い、貰った銅銭を親方に渡す
乞食の中にも搾取関係がちゃんと成立している
尾久一帯には「温泉旅館」が林立。温泉が湧き出ているわけでもないので、「連れ込み」宿に過ぎない。明くれば周囲は泥臭い細民街
表から見れば誰も淫売屋とは疑わないが、寺島町や亀戸町に見るような銘酒屋の存在を思い浮かべる、尾久はそんな町
その辺には珍しい2階建ての建物は表から見れば淫売屋と疑わないが、住民たちの模様を見ればみな普通の家らしい。不景気でも女たちに淫売させる事によって大きな不労所得をおさめている銘酒屋の親父たちと、その存在によって町の「繫栄」を願っている町会の有力者たちが相談して建てたものだったが、許可が下りないままに淫売婦たちも去っていって堅気の家族が住み始めたものらしい
千住警察は、最近刑事の金銭強要が問題化したところ。小菅刑務所を撮影
l 写真集 その2 羽田海岸の潮干狩りの実用的な海水浴、鎌倉海岸との対比、裏口から覗く品川女郎衆を通した暇な遊郭、暇すぎて恋をする人・釣りをする人・昼寝する人・それら相手の子どもの菓子売りも暇、風変わりな商売-温室村・テント別荘屋・門付女芸人・うなぎつりや・船に食物を得る船、早く運転手になりたいー講義を聞いたり、実地練習、映画にあこがれる娘・映画をめぐる争議、大森の魚介―漁夫、網、小売商、料理人、漁村に残る迷信、放置された鳥居の内部-無宿者の宿、清流多摩川-遊泳禁止と泥水プール開業・橋銭もとります・自動車が墜落、大森の水遊びープールある邸宅、移動する東京市境界線
〈遊ぶ物語〉
新東京の西の端を目指し、六郷川の河口地点の羽田海岸に着く
羽田海水浴場に着くと、海の中にプールがある。泳げない海水浴場には人が一面に散らばっていて泥洲の上に水着で潮干狩りという実用的な遊戯に一家総出で没頭
頭上には遊覧飛行のプロペラの音がして、埋め立て地は競馬場
目蒲線の田園調布で降り、多摩川畔に向かうと温室村で、多くの草花が栽培されている
厳密にいうと、八つ山橋を南に渡るところに、こんどの新しい東京市が始まる
女郎部屋の裏側を埋め立て地に向かう。夜の女たちが散を乱して昼寝をしている
品川漁師町を抜けて埋立地に入ると警視庁の自動車運転手の実地試験場がある。30分1円で練習できる
² 一の酉
女郎屋の女同士のいざこざに巻き込まれたまだ17歳の少女が、旦那の浮気の相手をさせれる
² 私の「大学生」
自分の学生生活は実際には京都高等学校で終わりを告げたと考えている。東京の大学で文学部フランス学科に籍を置いてはいたが、もはや純粋な学生とは呼ばれぬものであった
帝大仏文教室が大帝の学生に与えるあの影響は私には全然見られないのだと思う
小林秀雄、今日出海、中島健藏、三好達治なぞの1級下だが、誰が同級か記憶がない
最初こそ講義に出たが、そのうち浅草に入り浸りで、四六時中小説のことばかり考えた
欲念の試験でも、フランス文科以外のものは全部通過したが、肝心の方はどれも駄目
辰野隆の試験でも、試験場に入る時に辰野から「君は誰だ」と誰何され、入学した時「君が武田君か」と言われていたので、おかしな質問をするとむっとしたが、試験には落とされ、その後三好達治の結婚披露宴で、辰野の方からこちらの姓を呼んで寄って来て、「仲直りしよう。君は僕を恨んでいるそうだが、それはつまらん」と言われ、頓珍漢な答えで及第点が上げられなかったといわれ、その夜ほど辰野さんが好きになったことはなく、辰野の言葉を聞いて有頂天になり、名著『ボオドレエル研究所説』が私の愛読おかざる書物になった
落第したので学校をよした。哲学科に入ろうとしたが、辰野から私が怠け者で授業に出ないと聞いた教授が拒否、辰野を恨めしく思った
その前から学生運動の中心を担っていた「新人会」に入り、同人誌『辻馬車』の最左翼として注目を集める一方、大学をやめた後は本所柳島の帝大セツルメントで働き始め、京都の山本宣治の葬式の帰りに刑事に縛り上げられ、亀戸署に留置。最初に「大学生か」と聞かれたのでそうだと答えたら、調べた結果学校が除名していたことが判明、「嘘つきやがって。とっくに追い出されてるんだ!」と怒鳴られ、私の「大学生」はこれではっきり終わったのを感じた
² 一時代の思出
3.15の年、労働農民党、青年同盟が政府から解散を命じられ、新人会も学校当局から解散せしめられた後、昭和3年の春からセツルメントの労働学校の一切の事務を引き受けた
² 東にはいつも何かある
柳島や大島にいた折には、土地が低い上に下水が不完全なので、ちょっとの雨にも水が出て、ゴム長であちこち歩き回ったが、ゴム質は水が透るのか、いつも足指が白くふやけた
大学生の社会事業が禁じられ、帝大セツルメントも閉鎖、献身的に育ててきた穂積重遠博士や末広巌太郎博士はさぞ残り惜しかったとろうと推察
平川橋何丁目と改名した柳島元町のセツルメントから染料会社の排水で悪臭をたてた運河を越すと、いわゆる亀戸の私娼窟があるが、この銘酒屋の町も疥癬か何かのように徐々に東の方へ向けて広がりながら移っていく。寺島町の所謂玉の井の銘酒屋も以前と比べると東へ移っている。玉の井は荷風の『濹東綺譚』で有名だが、銘酒屋の女との出会いからして間違い。女たちが外で見知らぬ男と口を聞くどころか、傘をさして自分の店に連れ込むなどというのはあり得ない。悪くすれば営業停止。描かれたのは亀戸の方で、両者には伝統の翳ある場所と新開地ほどの違いがある
² 大凶の籤
どんな粗末なものでも、仕立て下ろしの着物で町を歩いていて、時ならぬ雨に出逢う位、はかないばかり憂鬱なものはない
何でも、着始めた当座は、一切の汚れを避けたいと、誇張して言えば、小心にも戦々兢々としているが、それはほんのはじめのうちだけで、暫く着古して自然と垢づいてくるともうかまったものではなく、どす黒い足跡のついた畳の上へそのままごろ寝しても気に病まなくなる
日常生活についても、真面目で精励なのに驚かれるが、ふとしたことから、そうした規律が僅かでも乱れ、軌道から少しでも逸れようものなら、もう制御できなくなってしまう
² 好きな場所
私は、今年は最も親しい友だちを2人までも喪っている。そんな年配に入ったのだろう
同年配で片や強靭、片や病弱、不遇のうちに死んだといわれたが、彼らを哀惜するにはもっと他に言葉があるだろう。不遇とは誰に遇しられることなのか。小説家なんて、誰が不遇でない者がある。気持ちを知って貰おうとして書いているのに、これが却々通じない。小説とはそういうもので、書いている方はちゃんと満足しているのを言いたかった
編輯部から、好きな場所を歩いて歳末の風景と感想とを書くことを求められ、三河島の博善社に来て、今年亡くなった2人のことを思い出していた
作品解説にかえて
本書は、日本の20世紀前半で最も重要な小説家の1人の作品集。精力的に活動していた10年間の数多くの著作の中から、「東京」と「社会的底辺」とそこに生きる人々をテーマとした短篇小説などを選び、「都市底辺作品集」とのサブタイトルを付したが、作者の全体像が分かるよう、作品選択に意を払った
日本の首都東京とその近郊は、戦後の高度成長、そしていわゆるバブル期を経て大きな変貌を遂げてきたが、2021年に至るこの数年もまた、メガスポーツイベントの開催と成功(!)を目途として、あらゆる反対意見を犠牲にしながら、激しいジェントリフィケーションに見舞われてきた
新宿、渋谷、池袋などターミナル駅周辺からは暗部が一層、いつまでも「普請中」の札を掲げ、公園は解体され、「カルチャースポット」へと変貌。ベンチと思しきものは撤去されるか肘掛けや仕切りが設けられ、寝そべって休憩したりそこで夜を過ごしたりという、人間として自然な行為すら峻拒されて久しい。ホームレス排除と公言せず、路面にくさび上の凸凹を刻み付けた一角すらある(「公共アート」というそうだ。くそったれ!) セーフティネットとしての機能を放棄した「都市の東京化」はすでに日本全国に輸出され、どこもかしこもリトルトーキョーになったとはいえ、地価や住居の暴騰は無論、居住空間としての東京の非人間的な悲惨さはもう眼を覆わんばかり
そういう東京に住みながら本書の収録作品を読み返していると、なかば絶望的にすら思えてくるのは、ここに描かれている不良住宅や貧困を巡る環境が、90年が経過した今でも全く変わっていないのではないか、ということ、それが言い過ぎなら、これは東京の未来図ではないのか
関東大震災後の墨田区横川周辺は悪臭と煤煙に覆われ、低地のために雨が降るたび掘割の水が氾濫し、糞便が浮いたという。まるで集中豪雨のたびに地下鉄駅に汚水が流れ込み、タワマンの低層階がずぶずぶと浸水する昨今の報道映像そのまま。最新のインフラが完備された快適空間も、一皮むけば1棟のバラックに過ぎない
貧困も同じで、一見街から消えたように見えるホームレスや浮浪者は、決して生活が豊かになって姿を消したのではなく、流動するか死亡させられたか、様々な政策や自助によって歩行者から見えなくさせられているだけ。愚直に働くのは非正規雇用の労働者だけで、儲かるビジネスは資本が移動するたびに中抜きする代理店業か自分の手を汚さずに時間と魂をインターネットで売買し、誰かを騙して出し抜くか。ブルショット・ジョブ(クソで空疎な仕事)とは、1930年代の浅草のチンピラや女衒が人間の搾取に用いた手口や発想の謂(い)いに他ならない
日本の相対的貧困率はG7中米国に次ぐワースト2位、ひとり親世帯で見ればOECD加盟35か国で最悪。気が付けばみなローンまみれでこのまま少子高齢化が進めば、都内の家屋は遠からずスラム化することが、既に近未来の現実として予測されている
かつての文人が先駆的に命名したように、東京の「最暗黒」は未だに連続しているどころか、一層陰湿に再生産され我々の未来に向かって蔓延し続けている。だからこそ、世界や社会を考える視点をその底辺下層に据えることがますます重要だし、だからこそ90年前の武田麟太郎の表現から何かを読み取り、今に読みかえる必要がある、という思いを強くする
武田は、一般的な文学史では、宇野浩二、織田作之助に連なる「大阪の庶民」を描いた作家の系譜に位置付けられるが、これほどまでに”東京の現実”を描こうとしたアクチュアルな作家はいない
この作者ならではの特徴としては、初期のプロレタリア文学時代に用いられた、新感覚派を彷彿とさせるモンタージュとカットバックを駆使した文体や、あるいは「反ファッショ」を標榜した稀有な雑誌『人民文庫』の創刊など列挙できるが、全作品を通じて現在もなお重要な個性は、彼の作品に描かれる世界観が、社会的底辺や弱者の視座を獲得していたことに尽きる。世の中や都市を見る視座をその底辺に据えることで、底辺だからこそ仰ぎ見える”帝都”の実像を、一貫して描こうとした
『凶器』で言及されるが、共産主義者にとってのプロレタリア革命は、工場プロレタリアートや農民を中心とした組織労働者こそが主体となり得る唯一の階級だった
中野重治と同様プロレタリア文学運動の主流派に身を置きながら、自由労働や都市雑業と呼ばれる屑拾いや占い師、浮浪者、路地裏に生きる水商売の女たち、未成年労働者たちに光を当て続けた武田に独自の表現は、同時代に流行した貧民窟やスラムを探訪して猟奇やグロテスクを煽る視線とは全く違うし、戦後の社会学を長く支配した社会病理や調査分析研究の対象として活用する視線や、冷笑交じりの文体とも明らかに異なる表現を獲得
そのことは、武田の作品が「風俗小説」と形容されてきたこととも関係する。武田にとって「風俗」とは、「大衆化」や「通俗化」ではなく、都市の底辺に生きる人々を「暗黒」や「下層」に分類することで、社会を構成する階級や公序良俗に取り込み、同調させるためではなかった。それは勤勉、清潔、秩序、従順、合理性、生産性を始めとする排他的で常識的な価値観やシステム、イデオロギーへの叛逆であり、それらから逸脱してしか生きていけない人間のありのままの姿であり、「反風俗」なのだ――ということを改めて問い直すことが、本書刊行目的の1つ
² 『凶器』
『創作月刊』1929年1月号掲載。翌年、作者にとって初の単著『暴力』に収録
「1928年、秋から冬へ」というサブタイトルは、深刻化する不況を尻目に昭和天皇の即位大礼が巨費を投じて京都で挙行されたことを伝えるための作者からのメッセージ
天皇制国家が支配する戦争、不況、弾圧から「逃れたいの気持」を書くことでデビューを果たした
武田の活動期間は僅か20年足らず。戦争の時間と同期、それは社会や時代と密接に関わるほど、検閲や発表媒体の発売禁止を意識せずには書けない世代を生きたということ
新進のプロレタリア作家として精力的に執筆活動を始めた若い書き手が、初めて商業誌に発表した作品で、このモンタージュ風の商品には労災労働者、活動家とその妻、福島の山間から東京に売られてきた娘、自由労働者、私娼窟、軍需工場、バラック街等が点綴されているが、作者のその後の文学表現のモティーフは、このデビュー作にすべて吐き出されているだろう
² 『暴力』
『文藝春秋』1929年6月号掲載予定で新聞広告まで出たが、発売禁止を恐れた文藝春秋が作品を削除、翌月の編輯後記で菊池寛が「本紙(ママ)は思想的な立場があるわけではないので、発売禁止をリスクする気持ちはない」と弁明。武田と親しかった高見順などが創刊した同人誌『十月』などが抗議声明を出す
著者の初の単行本だが、物語の理解にも影響を与える程の分量の伏字を伴っていた
プロレタリア文学時代の武田の代表作。徴兵検査に撥ねられ、「生の拡充」を求めて関東大震災後の東京に現れるのは1925年前後のこと。非合法共産党の大弾圧がなされた1928年の3.15事件を経て29年右翼に刺殺された労農党代議士・山本宣治の労農葬に出席した辺りまでがこの物語の背景で、アナキストからマルキストへの転向小説(ボル(シェヴィキ)転)でもあり、大手企業や文壇作家たちから(恫喝を含む)活動費を調達する「掠(りゃく)」の光景が描かれている小説としても早いものの1つ
武田は、28年日本左翼文芸家総連合の書記を務めて以来、34年のナルプ(日本プロレタリア作家同盟)解体に至るまで、プロレタリア文学運動の中では主流に位置する立場だったにもかかわらず、プロレタリア芸術運動の機関誌紙に発表した著作は少なく、代表作のほとんどは『中央公論』『改造』などメジャー誌に発表。この戦略は、後にプロレタリア文学が壊滅状態になって若手作家が発表機関を失った時期に雑誌『文學界』『人民文庫」を創刊し、新人会時代の後輩の呼びかけに応じて『労働雑誌』の創刊に援助を惜しまない、という金銭面でも社会運動の最大の援護射撃となった
² 『色彩』
『週刊朝日』1930年1月1日号掲載。単行本『暴力』に収録
² 『場末の童謡』
1929年4月創刊の雑誌『近代生活』1930年1月号掲載。単行本『暴力』に収録
² 『浅草・余りに浅草的な』
『中央公論』1930年3月号掲載。叢書『世界大都会尖端ジャズ文学』の1冊『大東京インターナショナル』(1930年10月)にも収録
吉本興業の榎本健一らの活躍ぶりが興味深い。武田は、浅草公園にあった水族館の2階で、歌や踊りの興行をしていたカジノ・フォーリーの常連客。31年9月創刊の『カジノフォーリーレヴュー脚本集』に、やはり常連だった川端康成と共に序文を寄せている
本作脱稿後3年近くを浅草周辺で暮らし、そこでの生活が『一の酉』など、浅草を舞台とした一連の作品を生み出してゆく
² 『託児所風景』
主に若い女性を対象とした投稿誌『若草』1930年5月号掲載。作者の第2作品集『反逆の呂律』(30年7月刊)に収録
初出時のタイトルは『託児場風景』、収録時に『託児所風景』に変更、本文中は「託児場」のまま
柴田おきつは、小説家の仲町貞子の本名(1894~1966)。婚家を飛び出して詩人と同棲、帝大セツルメントの託児所を手伝い、暫く3人で同居
本文は、貞子の詩『託児所風景』をモティーフに書かれた
² 『新宿裏旭町界隈』
雑誌『文学時代』1931年11月号に『大都会裏面記―場末街を調べた小説』として掲載
単行本『釜ヶ崎』(34年2月)収録時に改題
旭町は現在の新宿4丁目、江戸時代は内藤新宿と呼ばれた宿場町。1889年市制施行の際南豊多摩郡内藤新宿南町となったが、1920年四谷区に編入され旭町となる
南町が本格的なスラムと化すのは明治30年代からで、警察の「宿屋取締規則」によって市中の木賃宿や不良住宅が一定地域に徹底的に集められたことと、市中と市外を結ぶ中継都市としての内藤新宿の急速な発展成長が予見されたため長屋なども急増。特に日露戦後の人口増加により当時「3大貧民窟」とされた四谷鮫ケ橋からの流入者も多かった
大阪の釜ヶ崎も同様にして生まれたもので、貧民窟は、維新後の天皇制資本主義の膨張による都市浄化政策の結果、新たに生み出された
² 『上野ステーション』
『文学時代』1932年3月号掲載、単行本『釜ヶ崎』収録
関東大震災で焼失した初代駅舎の再建工事が30年に始まって32年4月に終了するが、終了間際に書かれたもの
² 『隅田川附近』
『新潮』1932年3月号の特集「東京新旧名所図会」の1篇として掲載。作者最初の随筆集『好色の戒め』に収録
小林多喜二は、翌33年にスパイの密告によって逮捕、築地警察署で特高らによる拷問の末絶命
堀辰雄は武田と同年の小説家。向島小梅町(現・向島1丁目)に自宅を持ち、カジノ・フォーリーの常連。30年に喀血し、長く宿痾に苦しめられるが、武田より長命で53年没
² 『日本三文オペラ』
『中央公論』1932年6月号掲載。単行本『勘定』(34年5月)収録
1928年発表のブレヒトの戯曲を原作とした映画《三文オペラ》は31年ドイツで公開、翌年2月日本でも上映されたが、本作脱稿(5月)までに武田が見たか? 同じ大阪出身の開高健の、戦後の旧砲兵工廠跡を舞台にした同題の小説もよく知られている
この小説は武田の全作品の中でも最もよく知られたものの1つだが、35年発表の『文学的自叙伝』でも、「30年代の仕事はかなり浅薄で、日本プロレタリア作家同盟の中で働きながら創作方向に低迷していたが、『日本三文オペラ』でやっと光を得たかなと感じた」と振り返る
32年3月の満州国建国宣言を後方支援するように文化戦線への弾圧も開始され、日本プロレタリア文化連盟のメンバーだった中野重治、蔵原惟人、宮本百合子、村山知義ら400人が検挙。その最中に発表された、この男女の痴情や争議に負けた映画説明者(黒澤明の兄の須田貞明)しか出てこない小説がプロレタリア文学の主流派から正当に評価されることはなく、さらにプロレタリア文学者として致命的な「右翼的偏向」の烙印を押される
だが、この小説で描きたかったのは、浅草という巨大な大衆空間からさえはみ出してゆく、反動/非反動という2項対立では括り切れない人間の営みに他ならない。2項対立の境界にある、その境界からすら逸脱する領域にこそ、従来の文学表現が見過ごしてきた幅広く豊かな都市空間の現実を見ていたもので、そこに文学の問いが生まれる
本校脱稿後、武田はさらに東京の周縁部、蔓延してゆく境界を経験することで、文学上のモティーフを拡大させる機会を得ることになる
² 『蔓延する東京』
前篇『食ふ物語』は『犯罪科学』1932年9月号に、後篇『遊ぶ物語』は続く10月号に掲載。何れも単行本未収録
1932年10月、市域拡張により隣接5郡82町を吸収合併して「大東京」成立、人口は「大大阪」の240万を抜いて551万となり、ニューヨークに次ぐ都会に。4年後にはさらに千歳と砧が世田谷区に編入
武田は、武狭社が30年創刊したエロ・グロ・ナンセンスを体現した雑誌『犯罪科学』の慫慂で、新たに編入された地域を数日かけて取材。新興写真研究会の堀野正雄の写真がグラビアを飾り、文章とビジュアルによる立体的な特集。これまでの武田作品の最長編
後編脱稿後、入籍のため大阪へ帰省し6カ月滞在するが、本作が彼の代表作と目される『釜ヶ崎』執筆の大きな動因となったことは疑いない
本作以降の武田の小説は、仮にそこに貧民窟やバラックが描かれることがなかったとしても、そこに息づく人間たちの生が常に底辺にあるように思えてしまう
² 『一の酉』
『改造』1935年12月号掲載。短編集『浅草寺界隈』(38年8月)に収録
短編集には他の3作と共に「第一話」とまとめて括られたが、「最も愛着の深いもの。全て浅草とその周囲を背景にしているが、これもまた思えば永いその土地への愛着の果て。小説芸術の正しい通俗性を信じ、それを実行に移したいと考えていた。独り合点の個人主義に立つ無味乾燥を何か高踏的な芸術性とはき違えている態度を打破するのが行き詰まっている小説を救う唯一の方法だ。小説の本道は自ら拓かれ直す機縁に会しているといえる。この1本はそうした私の試みの成果だ」と跋文を付している
² 『私の「大学生」』
原題は『私の「大学生」(序にかえて)』で、短編小説集『若い環境』(1936年9月)の冒頭に収録。併せて収録した『一時代の思出』『東にはいつも何かある』と共に、帝大セツルメント時代を回想したテクストとして貴重
武田の都市底辺への関心は、帝大在学中の28年、本所柳島の帝大セツルメントに住み込み、チューターとして労働学校に関わった頃から形成。関東大震災の罹災者救済を目的に24年設立、智識の分与と社会事情の調査が目的。ここから彼の都市への関心と文学的モティーフが開化。同時に東京合同労組に加入、共産党系の非合法といえる日本労組全国協議会のなかでもとりわけ戦闘的だった組合だが、武田の活動の詳細は不詳
武田のマルクスボーイとしての経験は、いわゆる「市民社会」から逸脱し、マルクス主義の運動においても排除される領域だったスラムや貧民窟の意味と可能性を、その内側から見直すこととなる。その視線の先には、そこに生きる人々も労働や暮らしを営んでいるという、当たり前の現実であり、時にはよこしまでありさえする人間の姿。33年発表の『釜ヶ崎』こそ紛れもないその精華
このエッセイには、文学史上貴重な証言が含まれる。「セツルメントから大島町の靴屋の2階に引っ越し。ダダの詩人(陀田勘助)が大将株だったが、4.16で拘禁され獄中で縊(い)死を遂げた。私はその原因を知らない」
陀田は先鋭アナキスト詩人として知られ、いくつかのアナキスト系自由労組での離合集散の後東京合同労組に加入、詩作も名前も捨ててマルクス主義革命家へと転向。4.16での検挙は逃れたが29年11月には検挙、2年後獄中自死が報じられた
あえて武田が彼の名前を断言しなかったのは、豊多摩刑務所で「獄死」したとされる彼の死因が当局発表の自殺とは思われていなかったためだろう
² 『一時代の思出』
『東京帝国大学セツルメント12年史』(1937年2月)掲載。単行本未収録
時代に抗する精神が横溢
² 『東にはいつも何かある』
『改造』1938年3月号掲載。第二エッセイ集『世間ばなし』(38年9月)収録
『改造』には同時に火野葦平の従軍小説『麦と兵隊』が掲載され、センセーショナルな話題を呼んで、以後文学作品も総力戦の一翼を担わされることになる
² 『大凶の籤』
『改造』1939年9月号に他の3本の新作と同時掲載。同名の短編小説集(39年10月)に収録
舞台の浅草田中町は、現台東区日本堤1,2丁目、東浅草1丁目なので、山谷のドヤ街を舞台にした作品としても重要
1969年中央公論の文学全集『日本の文学』の解説で、三島由紀夫はこの小説家を高く評価、「目の詰んだ、しかも四方八方に目配りのきいた、ギュッと締まって苦味のある、実に簡潔でしかも放胆ないい文章で、戦後我々は水増し文章に慣らされて、こういう風俗的題材を扱った短篇小説の本来持つべき芸術的文体に、接することがすこぶる稀になった。もちろんこれは、西鶴(ことに『置土産』)の影響によるものであろう」と絶賛、本作を「はるかに技巧の勝った、苛立たしいほど技巧の巧みな、苦い短篇」とし、「高等乞食と狐占いの老人との卑しい主従関係というリアリティを追求しているが、武田はこういうものを見落とさないために生きているということを、自分の作家的生存理由にしたかのように見える」と評している
木賃宿を舞台とした作品はいくつかあるが、1930年代のやがて戦争へと突入していく不穏な東京の空気をこれほどまでに巧みに小説として描き出した武田の仕事が、明治期以後の一連の「底辺下層文学」の系譜に歴史的に位置づけられることはなく、武田といえば「大阪の作家」、ご当地作家、庶民派作家の枠に封じ込めてきたのではないか
『大凶の籤』はじめ本書収録の作品には、底辺から社会を見ることによって、我々が一般に抱いている既成の秩序や道徳、価値観を転倒させ、反転させようとする何かが確実に胚胎している
² 『好きな場所』
『改造』1939年12月号掲載。短編小説集『雪の話』(41年9月)に収録
死亡した2人は、36年3月に武田が独力で創刊した雑誌『人民文庫』の執筆グループのうち、最も信頼を寄せていた書き手
同時に『人民文庫』の廃刊も本作に暗さを添えている
右旋回する文学界の状況に反抗すべく、武田が独力で「反ファッショ」を標榜して創刊。上記2人に加え、高見順、円地文子らの同人誌『日暦』を含む「左翼くずれ」を執筆者グループとして、「浪曼主義的なもの」に対置する「散文精神」を掲げ、壊滅寸前の最後の左翼文化運動を闘った。「小説はどこまでも積極的な、社会批判の芸術でなければならぬ。現実から遊離したものの敗残の歌であってはならぬ」として「散文精神」を説く
弾圧の激化により38年1月号までの全26号で命脈が断たれる
武田は後に『人民文庫』と共に生きた数年を、「私にとって重大な意味を持っている」と記すことになるが、本作は親友2人と『人民文庫』不在による大きな精神の空白を描いているかのよう
附記
武田没後まだ70余年なのに、「人民」という言葉は死語となったが、それでも本書を世に出すことにしたのは、現在がそういう時代だからに他ならない
『人民文庫』を発行していた人民社は、高見順、島木健作、金子光晴らの時局に抗う名著を出版していた。その衣鉢を継ぎたい
本書は元々2011年頃インパクト出版会から「インパクト選書」の1冊として刊行されるはずだったが、大震災で他の企画を優先したためにお蔵入りしてしまったもの
今般、インパクト出版会の代表からデータごと譲り受けて刊行が実現
武田麟太郎再評価の契機としてはもちろん、深刻化する経済格差や貧困を是正することなく私利私欲と利権にまみれ続ける腐敗した政治経済や、そこから生じる差別的な社会のあり方に対し疑念を抱き、一緒に考えてゆくための一助になれば出した甲斐がある
「蔓延する東京」書評 低い目線で帝都のリアルを描く
評者: 戸邉秀明 / 朝⽇新聞掲載:2021年04月03日
蔓延する東京 都市底辺作品集 著者:武田 麟太郎 出版社:共和国
関東大震災から復興をとげた1930年代の東京。貧困が深刻化し、戦争に突入する時代に帝都の底辺をアクチュアルに描き出し、ファシズムと対峙した武田麟太郎の都市文学を集成。
蔓延する東京 都市底辺作品集 [著]武田麟太郎[編]下平尾直
表題から、昨今のコロナ禍の話と思われるだろう。だが本書の舞台は1930年代だ。当時、銀座などの都心は関東大震災から復興を遂げて外観を一新した。対照的に郊外や工場街は、雨ですぐに浸水する土地に「不良住宅」がひしめきあい、病菌が「新しい皮膚を求めて蔓延してゆく」ように膨張を続けていた。この「社会的底辺」を描いた作家の小説や随筆、ルポルタージュが精選され、一冊で読めるようになった。
貧困の中で悪臭を放つ街路。屑拾いや浮浪者、女給たちの猥雑な姿。現実は厳しいが、作家自身が住み慣れ、溶け込んでいるから好奇の視線はない。カメラを向けられた娼婦たちが、意外にも「きれいにとつてくれ」と屈託なく応じて男女の戯れを演じる場面を、作家は「眼の底に焼きつけ」る。不遇な子どもや女性の突き放した描写は、抑制された怒りとなって読者に届く。永井荷風が郷愁で美化した浅草や墨東ではない、帝都のリアルだ。堀野正雄の写真や木村荘八の挿絵も豊富で往時をよく伝える。
低い目線と人間観察の力は、学生時代の社会運動や貧困支援の活動で養った。それが、弾圧でプロレタリア文学が総崩れになっても「非常時」への抵抗を続ける武田の支えとなった。
だからどんな短編も、庶民の哀感で終わらず、揺れ動く時代を映し出す。津軽から女衒につれられて上京した身売り娘が、悲運から逃れるために顔を焼こうとした痛々しい包帯傷。上海事変へ向かう軍隊の動員と物々しい警備。旅立つ友人を待つ間、上野駅で出くわすいくつもの光景が、畳みかける簡潔な描写で交叉する。日中戦争下でも、軍需景気でやっとつかんだ「人並の生活」を、人々が「永遠に続くものと幻想」する危うさを見逃さない。
読後、都市機能や社会保障が劣化し続けるいまが、否応なく重なる。文学に「社会批判の芸術」を夢見た作家の思いが、編集の妙で90年後によみがえった。
◇
たけだ・りんたろう 1904~46。小説家。作品に『暴力』「日本三文オペラ」『銀座八丁』『市井談義』など。
戸邉秀明(とべひであき)東京経済大学教授(日本近現代史)
1974年生まれ。共編著に『触発する歴史学 鹿野思想史に向き合う』、共著に『記憶と認識の中のアジア・太平洋戦争』『戦後知識人と民衆観』など。2020年4月から書評委員。
Wikipedia
武田 麟太郎(たけだ りんたろう、1904年(明治37年)5月9日 - 1946年(昭和21年)3月31日)は、日本の小説家。代表作に、『日本三文オペラ』『井原西鶴』『銀座八丁』『一の酉』などがある。長男は詩人の武田文章(1933-1998)、次男は河出書房の編集者の武田穎介(1935-2001)。
l 生涯[編集]
生い立ち[編集]
1904年(明治37年)5月9日、大阪府大阪市南区日本橋筋東1丁目(現・浪速区日本橋東1丁目)に、父・左二郎(数え年28歳)と母・すみゑ(21歳)の長男として生まれた[1]。役所には5月15日生まれとして出生届けが出された[1]。この地は貧民窟であった[1]。
父・左二郎は岡山県倉敷出身で、天王寺警察署詰めの巡査をしており、同じ交番勤務の霧渡薫の長女・すみゑと知り合い、1902年(明治35年)11月に結婚した。左二郎は巡査のからわら、弁護士を目指し関西法律学校(現・関西大学)を1903年(明治36年)に卒業した。強盗犯などを逮捕し有能な左二郎はその後、境警察署会計主任、東警察署警部となり、麟太郎の下に弟3人、妹3人が生れる[1]。
1911年(明治44年)4月、麟太郎は大阪市東平野尋常小学校(現・生魂小学校)に入学。この頃、一家は大阪市南区上本町7丁目(現・天王寺区)に住んでいたが、翌年、父が警察署を退職。その少し前に大阪市電の追突事故に遭い、痛めた腰の療養に単身で有馬温泉や故郷に行くなどして3年間無職生活となった。左二郎は弁護士になる夢が捨てきれなかった[1]。
武田家は困窮し貧しい生活ながらも、麟太郎の成績は良く、3年生の時には副級長に選ばれ、3年と4年の修了時には学業優等操行佳良の1番上の賞を貰った。5年の1学期には級長に選ばれた。この頃、麟太郎は立川文庫などを耽読した。この年に、父も復職し南警察署詰めの巡査勤務から始め、翌年に警部補となったため安定した収入が得られるようになった[1]。
1916年(大正5年)2月、父が住吉警察署の司法主任となり、一家は大阪府東成郡安立町大字安立(現・住之江区安立町1丁目1-20)に転居。5年生の麟太郎は安立尋常小学校に転校した。品行方正学業優秀などで修了し、4月に6年に進級し1学期・2学期の級長となった[1]。
凄腕の父の指揮により強盗事件が次々と解決し、麟太郎も刑事部屋によく遊びに行っては、父にねだって『英語通弁会話』の本を買ってもらい英語も勉強した。小学校時代には、漢学に興味を持ち、懐徳堂の講義も聴いていた。麟太郎は安立尋常小学校を卒業時に、品行方正学業優秀・精勤賞のほか、大阪府東成郡役所からも品行および学業成績佳良の賞として、算盤を貰った。
l 中学時代――母の急死[編集]
1917年(大正6年)4月、両親の期待を背負って受験合格した大阪府立今宮中学校(現・大阪府立今宮高等学校)に入学。麟太郎は背の低い両親に似て、クラスで1番背丈が低く胴長でずんぐりしていたため、「ちんちくりん」「ちび」と渾名が付けられ、運動が不得意であった[2]。夏休み明け、父は岸和田警察署尾崎分署(現・泉南警察署)の署長となり、一家は転居したため、麟太郎は父の姪夫婦の家や、父の元同僚の村上吉五郎巡査の家に下宿した[2]。
麟太郎は村上に連れられて、南区竹屋町の泊園書院で藤沢黄坡(藤沢章二郎。藤沢南岳の次男)の講義を聴きに行き、黄坡の長男で同校の藤沢桓夫と顔見知りとなった。背が高くお洒落で垢ぬけていた恒夫は、小柄な麟太郎を可愛らしく思った[2]。
中学の友人らの影響で文学に興味を持った麟太郎は、1919年(大正8年)の3年生の頃は、島田清次郎、徳冨蘆花などを読み、小説好きの母・すみゑが愛読していた尾崎紅葉の『金色夜叉』、泉鏡花、岩野泡鳴なども読んだ。父の職業の影響でそれ以前にも探偵小説なども読んでいた[2]。
1920年(大正9年)正月、『文章世界』新春特別号の「文士録」を見て小説家に成る野心が芽生えた麟太郎は、それを母に告げた。母は、岩野泡鳴くらいに大成しなければ意味がなく、それは困難だろうから、文官高等試験に合格し官吏として堅実な道を行くことを諭した[3][2]。
そんな妊娠8か月の身重の母・すみゑが、1月20日、洗濯中に子癇で倒れて21日に病院で死去した。その寒い夜、号泣し悲嘆にくれた麟太郎は「やはり、小説家になろう」と決意した[3]。その後、猩紅熱で寝込んだ麟太郎だったが、無事に3年を修了した[2]。
4年になった麟太郎は背が約5センチ伸びたが、母の急死の打撃で授業は欠席がちとなり、様々な文学作品を読み漁っていた。小説家の目標とした岩野泡鳴が自分の誕生日に死んだことで何か因縁を感じ、自分と同様に作文の上手く、よく先生から読み上げられる他のクラスの藤沢桓夫を常に意識していた[2]。
シネマが好きだった麟太郎は、妹たちを連れて九条新道の松竹座や敷島倶楽部に行き、チャップリンやロイドの映画をよく観ていた。この年の12月に、習作「牛」「銅貨」を書いてみた[2]。
1921年(大正10年)、4年の成績は落ちたまま修了し、5年に進級。父の再婚話が倉敷にいる父の姉から持ち込まれ、29歳の美代乃が武田家に後妻としてやって来た。その日、麟太郎は夜遅くまで家に帰って来ず、家族は心配した。妹たちは継母を受け入れたが、麟太郎だけはずっと新しい母に馴染めず、「お母さん」とは呼べなかった[2]。この今宮中学時代に小品「老人」が、『中央文学』1921年5月号の懸賞散文佳作に掲載された 。
1922年(大正11年)、今宮中学校を卒業し、同級の藤沢桓夫や小野勇は、新設の大阪高校を受験し合格したが、麟太郎は京都の第三高等学校を受験して失敗した。5月、父と共に池田の豊能郡役所に行き、小学校教員の就職を依頼するが、応募が多く欠員の見込みもないため、やはりもう1度、受験のため浪人することになった[2]。
受験勉強の合間に様々な作家の小説を読み、自身も『中学世界』に短編作品を送ったりした。10月には、受験誌『考へ方』に「鈴木君の事」を投稿し、藤森成吉の選考に寄り第一位となった。「鈴木君の事」は翌年の1月・新年号に掲載された[2]。麟太郎は一高受験を希望するが、経済的な理由で父親に反対された[2]。
l 三高時代[編集]
1923年(大正12年)4月、第三高等学校文科甲類(英語必修)に進んだ麟太郎は、ある日学生掲示場の横で、蝦蟇のような顔でズックカバンを肩にかけている目立つ男が気になった。誰かと人に訊くと、落第を2度した「三高の主」「古狸」と呼ばれる男として有名な梶井基次郎(理科甲類)だった[4]。
クラスで一番背の低い麟太郎は高下駄を履き、運動神経のなさなどの劣等感から虚勢をはって弊衣破帽の無頼の恰好で次第に学内で目立つようになった。創作した短編も大阪今日新聞などに投稿し、若山牧水や佐藤春夫を読み、田山花袋の随筆を通じて井原西鶴を知り、永井荷風を愛読した[4]。ある日、3年の中谷孝雄から劇研究会の回覧同人誌『嶽水会雑誌』への寄稿を依頼された麟太郎は、以前に書いた「銅貨」を6月に投稿した[4]。
その後、麟太郎はグラウンドを歩いている時、同誌に作品投稿していた劇研の梶井基次郎から突然話しかけられて自作「矛盾の様な真実」の感想などを求められ戸惑った。今度君がいいものをきっと書いてくれと梶井から丁寧に言われて麟太郎は恐縮した[5][4]。次第に梶井と親しくなった麟太郎は、梶井が卒業する時には愛用の肩掛けズックカバンをもらい受けた[5][6]
麟太郎は、梶井がいた三高劇研究会に入会し、土井逸雄、清水真澄、浅見篤(浅見淵の弟)、楢本盟夫らと同人誌『真昼』を発行し、身辺観察的な短い文章を寄稿した[7]。この誌名は、横光利一の『頭ならびに腹』の書き出しの「真昼である。特別急行列車は…」にちなんで付けられた[4]。
l 帝大時代[編集]
1926年(大正15年)4月、東京帝国大学文学部仏文科に進学し、本郷区追分町11番地(現・文京区向丘2丁目)の長栄館に下宿した。三高の先輩の梶井基次郎、中谷孝雄らと交友し、三好達治とも知り合った[8]。しかし出世欲の強く計算高かった麟太郎は、彼らの同人誌『青空』とは肌が合わずに同人加入はしなかった[8]。
麟太郎は、中学時代の同級生の藤沢桓夫が大阪高校(現・大阪大学)在学中の1925年(大正14年)3月に始めた同人誌『辻馬車』の方に加わった。藤沢は新感覚派的な「首」を5月に発表して川端康成や横光利一から注目されていた[9][10]。
麟太郎は、浅草や場末で遊んで登校せず、やがて労働運動に共感を覚え中退した。1929年(昭和4年)1月に『創作月刊』に「凶器」を発表し一部で注目され、同年6月に『文藝春秋』に「暴力」を発表した。この作品は発禁となり部分的に削除されたが、原文を取り寄せた川端康成に文芸時評で「表現の力強いテンポ」などを評価され、武田はプロレタリア作家として文壇に地位を築いた[9]。
l 市井事もの[編集]
1933年(昭和8年)に林房雄や小林秀雄が創刊した『文學界』に川端と共に参加。1936年(昭和11年)には『人民文庫』を創刊し主宰したが発禁となり、莫大な借金を背負うことになった。プロレタリア文学への弾圧を経て、転向。井原西鶴の浮世草子の作風に学んだ「市井事もの」を著し、時代の庶民風俗の中に新しいリアリズムを追求する独自の作風を確立した。1942年(昭和17年)には、川端が編集代表となり、島崎藤村、志賀直哉もいた季刊『八雲』でも、武田は編集同人になった[9]。
l 戦中・戦後[編集]
太平洋戦争中は陸軍報道班員としてジャワ島に滞在。1944年(昭和19年)1月に無事帰還した。1943年(昭和18年)には、武田が「文学の神」と崇めていた徳田秋声が亡くなっていた。1945年(昭和20年)5月25日の東京空襲で麹町2番町の自宅が全焼し、6月に妻・留女の実家のある山梨県甲府市伊勢町の遠光寺に疎開した。そしてそこでも7月7日の甲府空襲に遭い全焼し、同県の富河村の弘円寺に妻子と共に移動した[9]。
敗戦を告げる玉音放送に気力を喪失した武田は非常に落胆。戦後の作品「田舎者歩く」や「ひとで」には、その心境が反映された[11]。「田舎者」では疎開先から上京し、東京の荒地を見た時の自身の悲痛を、幕末の「天野八郎」に仮託して綴った[12][9]。
ああ戦争は敗けて了つたんだ。取りかへしのつかぬことになつたと、深い破滅の淵をまつさかさまに眼にもとまらぬ速さで顛落して行くに似た幻想に呼吸もとまる位苦しまされたりした。— 武田麟太郎「ひとで」
敗戦の年の12月には、神奈川県藤沢市片瀬西浜の家(妻の友人の柴田静子方)を借りた。武田はその家から東京に通い、共に徳田秋声を尊敬する川端と協力し、秋声の作品集の刊行に向け勤しんでいたが、秋声の息子・徳田一穂の突然の不可解な変心により出版は翌年の3月初旬に頓挫した[9]。武田は新聞小説を2本抱えて多忙であったが、上京時には新橋や有楽町で飲み歩き泥酔の日々だった。中野にいた愛人・千代の家に泊って、自宅に帰らないこともあった[9]。
1946年(昭和21年)3月23日の夜、泥酔していた武田は終電を大磯まで乗り越し、豪雨の中を3キロ歩いて茅ケ崎駅まで戻り、駅中で原稿を執筆した後、徒歩で帰宅。24日の昼に原稿を持って上京し、帰宅後に再び執筆。25日に40度の発熱で寝込んだが、26日から無理をして執筆作業をし、28日に激しい頭痛となり医師を呼んだ[13][9]。
29日に医師がカンフル剤などを注射するが、30日から昏睡状態になり、体中が痙攣を起して危篤状態になった。武田の家に駆けつけた高見順らが東大法医学の医師を呼んで脳炎だと判ったが、近くに緊急の入院先が見つからず、応急処置も効かずに31日に再び発作を起こして死去した。武田は長年の飲酒からか肝硬変になっていた[14][9]。
吉行淳之介は武田の死因について、当時カストリ焼酎などの粗悪な密造酒が流行しておりそれにはしばしばメチルアルコールが混入していて失明する者や命を落とす者が多く、武田の死因もメチル入りの酒を飲んだからだと述べている[15]。
コメント
コメントを投稿