後列のひと  清武英利  2021.4.17.

 

2019.2.8. 後列のひと 後ろの列の目立たぬところで人や組織を支える人々の物語

清武英利 ノンフィクション作家 後ろの列の目立たぬところで人や組織を支える人々の言葉を頼りにノンフィクションを書く。その人のことを思うと胸が熱くなる

 

²  2月号 「失敗したら、すぐ忘れることです」 林紀幸(元宇宙科学研究所課長)

「ロケット班長」と呼ばれる。430機以上のロケット打ち上げに立ち会い、退職後も「打ち上げ応援隊」を仲間と組織して現場に駆け付けた

父親は旧中島飛行機のテストパイロット、42年一式戦闘機「隼」二型のテスト飛行中に殉職、享年33。紀幸はまだ3歳未満。隼の設計に当たった1人がロケット開発の父といわれた糸川英夫

糸川と父の交遊を聞き出して高卒で就職する際糸川に、中島飛行機の後身の1つである富士精密工業への斡旋を頼んだが不合格、その代わり糸川は一緒にロケットをやろうと誘う

当時糸川は、東大技術研究所に糸川研究室を設け、ロケットの飛翔実験に明け暮れていた

3年前に全長23㎝のペンシル型から始めて、120㎝のカッパ(K)型と次々にロケットを打ち上げていた

富士精密は、プリンス自動車、日産を経てIHIエアロスペースと名を変えた今に至るまで宇宙開発の格となって日本のロケット開発を支え続けた企業で、東大工から富士に入った垣見恒男は社命でロケット開発に加わり、糸川の右腕と呼ばれるようになった

58年研究室に入った林は糸川に可愛がられてあらゆることをこなしていった

糸川が角栄や二階堂といった政治家を説得して予算を取り付け、秋田県道川海岸のロケット実験場から多いときには年間45機も打ち上げ、K-9型は高度310㎞に達し、人工衛星まで手の届くところに来たが、次のラムダ(L)型で人工衛星打ち上げを狙ったが2度失敗し、バッシングを受けて67年東大を去る  「落ちたロケットや失敗した過去のことをぐちゃぐちゃ言ってもしょうがない。失敗したら、すぐ忘れること。禅の世界にも放下著(ほうげじゃく)という言葉がある。捨て去ることだ」

林は研究所に留まり、3年後にはL-4S-5号機でわが国初の人工衛星「おおすみ」誕生の瞬間に立ち会う

林は糸川のことを忘れず、「組織工学研究所」を設立した糸川に対し、鹿児島に移った実験場から打ち上げを電話で実況中継

林は、宇宙科学研究所観測部企画管理課長として開発の工程管理をする一方、ロケットや打ち上げ現場を点検する監視役で、糸川没の翌年退官

以後、講演会や学生へのセミナーなどで、ロケット評論と糸川の時代を語り伝えている

 

²  3月号 後列のひと 「人間は逆境の時だけ成長する」 糸川英夫(ロケット博士)

日本のロケット開発を先導した工学博士・糸川英夫の終の棲家は長野県丸子町(現上田市)

東大教授退官後、妻や子供を置いて、19歳下の美容師岩泉定江と丸子町の古民家に移住、「じねんや糸川」という喫茶店を開く

67年教授会で辞職表明、「組織工学研究所」を開設し、かつての仲間とともに官民プロジェクトに多様な提言をし企業のコンサルタントのような仕事を始めるが、在野の天才科学者として大活躍していた頃、全てを家族に渡して家を捨て、夫とうまくいっていなかった定江の美容室兼自宅に身一つで転がり込む。博士ともあろう人が、なんであんな下品な女に、と言われても意に介さなかったが、離婚問題を回避するために結婚はしていない

美容室で月2回聖書講義をし、人と同じということは最大の侮辱であり、人それぞれが役割をもってこの世にやってきたのだから、みんな違っていい、人に役に立つ独創力こそ神が与えた宝物だと説く

自ら10年に1度、仕事を変えてきたというのが自慢  22歳で中島飛行機の航空機を設計、29歳で東京帝大助教授、36歳で音響工学を研究、42歳でロケット開発開始、54歳で組織工学研設立、62歳でベストセラー『逆転の発想』を書き、79歳でバイオリンを制作

人間は逆境の時だけ成長すると話し、あまり過去を振り向くことがなかった

99年死去、享年862年間闘病生活したが、褥瘡がない遺体は初めてと医者が言うほど、付き切りで定江が献身的に看病。遺影と遺骨を巡って遺族と定江や弟子たちが争いになり、一切渡さないとする遺族に対し、弟子や看護師たちが遺族の目を盗んで焼けたままの遺骨をハンカチにくるんだり素手で火傷しながらとって定江に渡したという。聖書講義の生徒で糸川に心酔した赤塚は、骨片を糸川が愛したイスラエルの地と、鹿児島県内之浦町(現肝付町)に祀り、定江は糸川が好きだった伊東の城ヶ崎海岸の吊り橋から散骨

定江は古民家に残り15年後に病死したが、赤塚はその遺骨も一緒に祀っている

 

²  4月号 後列のひと 

「指の飛んだ作業員を前に切実な改善が生まれる」 トヨタ養成工1期生 板倉鉦二

 

愛知県豊田市(元拳母市)  自治体が名前そのものをそっくり企業名に変えた唯一の例

「養成工1期生」  トヨタ源流の職工たちで、トヨタの技能者養成所で育成。近隣の中卒者を選抜し、3年間でモノ作りとトヨタ精神を仕込む企業内訓練校。1期生は339人、うち生き残りは31人。大正1314年生まれ

板倉鉦二(せいじ)の誇りは2つ。1つは誰よりも長くトヨタの工場で働いたこと。15歳でトヨタに入社、本社第2技術部試作課の工長で定年を迎え、更に下請けで75までの20年、計60年きんむ。もう1つは創業者の豊田喜一郎とともに会社を大きくしたこと

養成所の門をくぐったのは1939年、創業から3年目のこと。完成直後の拳母工場に入り、旗本として忠臣になってトヨタを担えと激励

政府の技能者養成令が出て、本格的な学校が開校、豊田英二から教え込まれる

喜一郎は副社長兼研究部長で、すでに「ジャスト・イン・タイム」を唱え、拳母工場で実現に移すところ  毎日、必要なものを必要な数だけ作る、余分につくるな

徹底的に鍛えたのが機械工場長(75年に社長)の大野耐一で、「かんばん方式」として定着

養成所はトヨタ工業学園と改名

当初車作りは、米国車の分解、コピーから始まったので、用語はすべて英語

トヨタは戦争特需で急成長、年1516千台のトラックを生産

指が1本吹っ飛べば、その時、反省が働く。安全装置が11つできる。指1本が次の世代に長く続く安全を作った

ただ効率を求めるのではなく、改善を提案し、その工夫が喜ばれ、工場内の表彰に繋がる、そんな小さな向上が、日々単調な労働のなかの人間性回復に繋がる

板倉の一番の喜びは、「自分たちがトヨタを世界一の自動車工場にする」を合言葉にして働き、その完成を目撃したことだと言い、理想向上への坂道を語り、トヨタの20期の養成工となった次男(69)は品質保証部で働いたが、世界一といっても給料が1位にならなかったら生産台数だけ1位になってもと、本当に豊かな労働とはについて論じる

 

²  5月号 「急げ! iPS」 郡司由紀子(元山一證券社員)

97年山一破綻の際志願して、有志による社内調査委員会に入る  事務局長が取締役業務管理本部の長澤。メンバーの多くは「場末の組織」と呼ばれていた本部の元部下

郡司は元警察官の娘、女も手に職をという母親の躾で幼稚園教諭から71年山一に。山一の株に投資したが、87年の高値で60百万円以上となった2万株は反故に

今年2月膵臓癌で死去、享年68。いきなりがんのステージ4を宣告されてから14か月後のこと。公にせず1人で死への準備をしていた

1年遅れで再就職し、不動産会社を経て勧角証券へ。山一時代も、多くの資格に挑戦し乗り越えて、女性初の検査役として臨店検査にも乗り込む。歯に衣着せぬ物言いで女性からも好かれた彼女だったが、勧角で9年働いたあと、親の介護に専念

つましい生活の末に残った財産を京大のiPS細胞研究基金に寄付してほしいとの遺志で、残る一部をユニセフ協会に寄付とあり、財産は家を買えるほどの金額になっていた

 

²  6,7月号 「人は自分で考えているよりも10倍の力を持っている」 筒井宣政(東海メディカルプロダクツ会長)

私立東海高(柔道で全国制覇)、関学経卒。東海メディカルプロダクツを起業。企業育成センターの債務保証、ベンチャー助成金、通産系の技術改善補助金など公的融資を集めて、980百万円を人工心臓と医療機器の開発に投入

68年生次女が生まれるが、心臓に異音がして、精密検査を受けるには成長するまで待たなければならないという

当時父親から引き継いだ東海高分子化学というさんちゃん経営の樹脂加工工場が150百万円の借金を抱えて窮地に立たされていたが、商社のアドバイスでビニールひもをナイジェリアまで行って売り込みに成功、家業の立て直しに成功

次女が9歳になって検査を受けたところ、三尖弁閉鎖症といって心臓の右心房と右心室の間にある三尖弁が先天的に閉じて血液が正常に流れないうえに心臓に穴が開くという難病で、更に肺動脈も欠損していて肺高血圧症も併発。手術不可能、余命10年との宣告

儲けた金を使い道もないまま女子医大に寄付しようとしたら、女子医大から次女のための人工心臓を共同製作しようと持ち掛けられる

当時38歳の筒井は、円高からアフリカへの輸出に限界を感じて、医療機器への転向を目論んでいたこともあって、医用高分子研究会などを通じて着手

1981年東海メディカルプロダクツ設立。動物事件まで漕ぎ着けるが、資金が枯渇

不運に見舞われた子が、その親たちを高みへと連れて行くことがあるが、妻の陽子は次女・佳美によって長い坂を上り切った1人。陽子は裕福な貿易商の家の生まれ。金城学園で短大迄キリスト教に基づく品位と尊厳を躾けられ、愛読書は聖書。柔能剛制の男子高出身の宣政が妹の友達の陽子に一目惚れして口説き落とした

女子医の医師に勧められて人工心臓の研究に挑み、転じて日本初のIABP(大動脈内バルーンポンピング)カテーテル開発に着手するが、対象は心筋梗塞で娘を救うことには繋がらない

佳美は小学生の頃から肺高血圧症でよく倒れ、留年も経験。色白で紫色の唇をしているのを見て虐められたが、中高一貫の金城に入って笑顔が戻る。病気のことは明かさなかったが、陽子が付き添って修学旅行にも行く

IABPの対抗製品は米国製の為日本人に合わず医療事故に繋がっていた

開発に没頭して1年半後ようやく完成するが、動物実験や臨床実験のため大学病院に持ち込んでも相手にされず。日米の体格差を研究テーマにして持ち込んだ結果1人の若い医師が興味を示し、医療機器の承認に結び付き、徐々に現場に口コミで広がり大学病院でも使われるようになった

88年末に初の売上が立ち、3年目で爆発的に売れ5億の経常利益を記録

91.12.14.佳美逝去、享年23

以後28年間でカテーテル製品の幅も広げ、総販売数は14万本近い。億万長者にはなれなかったがそれだけの患者を救済

陽子にも小さな満足が残る。それは佳美が難病で生まれたのに陽子のことを大好きでいてくれたこと

 

²  8月号 仕事の9割は我慢すること 多田哲哉(トヨタ車両開発責任者)

トヨタ本社には「Z(ゼット)」と呼ばれるエンジニア集団がいる  新車開発の企画から販売まで、現場の決定権を握り責任を負うチーフエンジニアのこと、以前は「(車両担当)主査」と呼ばれ、部長職で車種ごとに現在21名在籍

製品開発方式を確立したのは、後に5代目社長となる豊田英二

多田はスポーツカーZRの開発責任者。今年スープラ(5代目)を復活させた

2年前定年を迎えたが、嘱託採用後もチーフエンジニアのままで、レーサーになりたかった夢を、作る側に立って実現

7年もの回り道をしてトヨタを選んだ  57年新居浜市生まれ。父は住友重機のエンジニアで車好き、家族ドライブだけでなくラリーにも挑戦、四国地区大会に優勝してのめり込み、中学生の多田も助手席でナビゲーターとなって同じ夢を追った

父の愛知県転勤で名古屋大工学部に進むが、専攻は友人とロックバンドを組んでいたことから電気工学科。成績が振るわずゼミ教授の推薦を受けられなかったため自ら就活をし、79年卒業時ラリーで名を馳せていた三菱自動車入社を果たす。配属先は技術センター。当時カーエレクトロニクスの新時代の幕開けで電子制御の新技術の開発に電気系統のエンジニアが必要だった

ラリー部門を希望したが受け入れられず、趣味でラリーをはじめ年間地区チャンピオンにもなったが、仕事で関わりたいと考え3年後に退職。マイコンブームに乗ってゲーム開発会社を起業するが働き過ぎて体調を壊す

86年大学時代の友人に誘われてトヨタの中途採用に。新設の電気関係の部署に配属。90年裾野の東富士研究所に転属。7年後に名大自動車部の先輩だったチーフエンジニアの都築から声がかかる。3年のドイツ駐在から東富士に戻りABS(Anti-lock Brake System)を発展させたブレーキアシストの開発に没頭していた頃で、トヨタのブレーキアシスト1号車は彼が関わったもの。それを見て都築が誘ったもので、都築は手動変速機の新機構で特許を取った逸材、既に4代目スープラを開発していたが、一番小さな車を担当するZLチームを率いていた

トヨタの主査制度は、戦後初の国産乗用車初代クラウンの製品開発体制として、53年頃に制度化し、以後の乗用車・商用車の製品開発でも慣習・不文律として踏襲。文書規定はなく、朝令暮改、日進月歩も許される柔軟な制度

続きの後を継いでチーフエンジニアになったのは01年。小型車を次々に送り出すが、驚異的な販売台数を毎年のように上乗せし続ける会社方針に従って開発が加速されるのに疑問を持った時悟ったのが、自分の仕事の9割は我慢することだということ

回り道した経験から、誰とでも折り合いをつけて仕事ができるのが役立った

多田が変わったと言われ始めたのは、スポーツカー復活のチームZRのチーフを命じられてから。夢の実現に近づき、この車だけは好き勝手に作ると決意、安く作るためにスバルとの共同開発にこぎつけ、12年には2ドアクーペ「86(ハチロク)」を売り出して大ヒットに。開発時副社長の豊田章男が「本当にいいスポーツカーを作ってくれたら万難を排して売る」と宣言したのが後押しになったが、多田が自分で作ってSNSで発進したスローガンはファンに受け、その言葉をあしらったTシャツや関連グッズまで売り出された

Built by passion, not by committee! (合意して作るんじゃない。情熱で作るんだ!)

最近チーフエンジニアになりたいという若者が少ないことに悩む。三菱時代の同僚だった妻も何を言っても驚かないのが悩みの種

 

²  9月号 開発は情熱であり知的好奇心だ 北川尚人(元トヨタ自動車CEチーフエンジニア)

トヨタは語録や金言が大好き。無駄を嫌う一方で、言霊や言葉が鞭打つ力を信じる会社

「出来ないという前にまずやってみよ」(織機王・豊田佐吉)

「何も変えないことが最も悪いこと」(8代社長・奥田碩ひろし)

北川は、カムリやレクサスを開発し、「試作車レス開発方式」や「大部屋開発制度」を考案した名物エンジニアで、CE24時間戦える体力・気力を培えと檄を飛ばした

背の高いコンパクトカー「ファンカーゴ」を作るとき、開発費用半減を命じられて考えたのが「試作車レス開発方式」で、最も費用のかかる試作車数十台の製造費用を0にした

新車開発期間を短縮し、関係部署の調整の無駄やミスをなくすためにとった策が「大部屋開発制度」

06年ダイハツに出向し役員の目がなくなり、トヨタの7不思議とまで言われたが、専務で退職し企業コンサルタントをしていたが、65歳を迎えた昨年末故郷の豊田市に戻って自費出版したのが『僕の履歴書』で、新車開発の苦闘に加え、「Z」と呼ばれる中枢のエンジニア集団で伝承されてきた技術者心得や、北川自身のCE心得17か条が記されており、トヨタ関係者の注目を集める

その1、車の企画開発は技術力よりも情熱だ。寝ても覚めても独創商品の実現を思い続けよ

その2、高い目標を完遂できる段取り力を身につけよ

その3、誰よりも旺盛な知的好奇心を持て。自動車に限らず色々な分野に興味を持つこと。興味が持てなくなった時はCEを辞める時

2001年東京モーターショーでただ1度ソニーとトヨタが共同制作したIT活用の近未来カー「Pod」の制作に、北川は15人のエンジニアを連れて1.5年参加。「ただの道具としてではなく、人を理解し、ともに成長するような車を作ろう」との構想だったが、企業文化の壁に阻まれ難航。ソニーはコンセプトカーにエンジンは不要と主張するが、北川は走らなければ車ではないと言って生真面目に走らせる

北川を育てたのは7年先輩のCEだった都築功(故人)だが、彼の語録は「車のすべての分野に精通しているCEはいない。自分の得意分野1つを持ち、あとは専門部署と話ができるレベルまでその都度勉強すればいい」と言い、「即決のススメ」というのもあって「他の部署が相談に来たら、即断即決し背中を押してやることが重要で、間違っていることに気付いたらそのときに訂正すればいい」。「約束と(開発)日程は絶対に守らなければならない」の教えは、北川のその13に、「CEは、開発日程遅れを最大の恥と思え。竹槍精神の無理な日程は引き受けるな。が、一旦引き受けたら何が何でも死守すべし。日程遵守はCEのマネジメント能力が最も問われる」と、激しい言葉になっている

トヨタの主査制度は1953年技術部の中に主査室が発足したのが始まり。初代主査に就いたのが中村健也。長岡高専卒の1938年入社、クラウン・コロナ・センチュリーの生みの親。「若いうちは専門性を身につけ、視野を広くするように。13時間は読書すべし」「トヨタは世界の生産台数の1割を占めるので、義務としてリーダーシップを1割は執らないといけない。伸びる会社なら2割は執らないといけない」

1989年から主査をCEと呼ぶが、98年中村の死を機に会長だった章一郎の発案で追悼文集が作られ、会長自ら序文に「主査制度が確立され、他者を凌ぐ車両開発制度として定着した」と書いた

社長を恐れない主査のもう1人が中村の3つ下の長谷川龍雄。パブリカ(61)、カローラ(66)の開発者。最後は専務。39年東大工学部航空学科卒、立川飛行機入社、設計主任としてB29を迎撃する高高度防空戦闘機94”を設計、戦後の復興期自動車の設計に転じる。カローラの開発ではコロナとの競合を心配する英二副社長を説得し、執念で説得したという。主査に関する10か条をまとめ主査制度を定着させたと言われるが、「哲学的」とか「あまりに高邁過ぎて真似できない」と言った疑念もあった

その1、主査は物事を繰り返すことは面倒がってはならない。毎日自分のやっていることの是非を反省し、上に向かって自分の主張を繰り返せ。協力者に自分の意図を周知徹底さすために少なくとも5回は繰り返せ

その2、主査は物事の責任を他人のせいにしてはならぬ。体制を変えてでも良い結果を得る責任がある。権限はなくあるのは説得力のみ。真実なら無限の威力を持っていることを知るべし。人のせいにして言い訳を言うな、結果について人を怒ってはならぬ

その3、主査と主査付きは同一人格でなければならぬ。エンジニアリングに上下はない、本質的なことで権限委譲してはならぬ。仕事に隔壁を作るな。主査付きを「仕事のやり方」について叱ってもよいが「仕事の結果」について叱ってはならぬ。叱りたい時は自分を叱れ

長谷川の下で働き副社長になった和田明広は、主査10年の間にセリカやカリーナを設計した主査のヌシのような存在だが、10の「CEの心掛け」を作り、中堅エンジニアの心構え・勘所を説いたが、部下への指示・対応を巡る警句が多いのは、それが組織の最大の問題だから

1.   日頃から考える。何にでも興味を持つ。幅広い知識を持つ

2.   指示は具体的に。無手勝流は最も恥ずべき事

3.   部下から、「言った、指示した」と言われた場合、「言っていない」と言い張ってはいけない

4.   相手が説明している時間に反対事象を頭の中で整理する。反対意見は説明後直ちに伝える努力をする。Yesと言っておいて後のNoMin.(最小限度)にすべき。自分の判断が四分六まではYes。相手のヤル気の方が大切(相手が6割正しいと思えば認めてやり、彼のヤル気に任せよという意味)

5.   市場調査ほど、信頼できないデータはない。過去の事実は素直に評価すべきだが、将来の動向には十分な検討が必要。売れないと言われて売れた車、逆の車も多い

6.   決断は速く、下手な考えは休むに似たり

7.   広く網を張った開発も必要であるが、効率に注意

8.   常に大勢集めての会議を控える。会議中は仕事が停まっていると思うべき

9.   現在、図面に全部目を通すことは不可能かもしれないが、設計部からはいつも検図されていると思われていなければならない

10.          CE付けを育てること。また、信用し任せる努力をする

 

 

²  10月号 仁が心の真ん中にないとだめなんだ カオ・ミン・タイ(ヴィ・グエン社長)

2007年東芝研究開発センター環境ラボラトリー研究主幹を中途退職してベトナムに帰って豆腐造りに専念

82年東工大大学院を卒業、工学博士を取って東芝入り、リニアの電気絶縁材料の研究では10の特許を持ち、リニアに使う樹脂開発では社内表彰も受け、原子力事業部の要請を受けベトナムへの原子力技術の売込みに関与したこともあり、25年間東芝一筋に生き、外国人として初めて研究主幹に昇進、年収10百万以上を捨てての起業

夫人も元ベトナム留学生。慶應大のベトナム語講師からNHK短波放送のアナウンサーなど多才な仕事をするバリバリのキャリアで、夫の起業に反対

カオが豆腐造りに向かった理由は3

    ベトナムで豆腐の凝固剤に石膏を使ったという告発記事に憤慨

    根っからの研究者で、豆腐を食べた時から豆腐造りにのめり込んだ

    19歳で日本留学以来35年も日本料理を食べ、両国の味に精通した結果、どちらの舌にも合うのが豆腐だと発見

カオが大事にしている言葉が「ニャン=仁」  漢方医の祖父の後を継ごうとして戦争のために貧しい物売りになった父から常に言われたのが、「仁が心の真ん中にないとだめだ」ということで、儒教の影響から来たのだろうが、人間として正しく、あるべき姿を求めることで、同時に人のために行動することを意味したので、東芝のキャリアを捨てるに十分な動機となる

東芝の早期退職金20百万円を元手に、ホーチミン市郊外に工場を建てる。手助けしたのが豆腐ビジネスコンサルタントの南川勤。単身ベトナムに戻り、ヴィ・グエン(味の源の意)という会社を興す

南ベトナム出身のカオは、留学中に祖国が崩壊し無国籍となり、そのまま日本に留まるが、妻もその中にいた。祖父は抗仏戦争時に逮捕・流刑されたこともある筋金入りのベトナム共産党員で父もベトコンの秘密工作員で、祖国統一は期待が持てたが、戦争と動乱は続き、ベトナム戦終戦後5年目に漸く結婚の報告に帰国したが、荒廃した祖国に失望、日本に帰ると学生仲間を集めて祖国の再興に日本の経験を学ぼうと勉強する

良質な水を求め高級な豆腐を作って売り出したが、生ものを食べる習慣がないベトナムでは豆腐も火を通して食べるため、固めの豆腐でないと鍋から掬えない

凝固剤を工夫することで崩れない豆腐を「HIYAKO」ブランドで売り出したところ、右肩上がりで売れるようになる

水の良い場所で作って供給するためには、フランチャイズ方式確立が必須だと信じて広げようとしている

 

 

²  11月号 人生の半分だけ預けますわ 鈴木清明(広島東洋カープ常務球団本部長)

チーム編成の責任者。24年間我慢を続け、ようやく2016年から3連覇。「彼の苦労もやっと報われた」という人がいるが、鈴木の考えは少し違う

日本プロ野球協約では、ホームゲームを主催する球団役員が「試合管理人」となって試合を見つめる。他の球団は親会社からの出向社員だが、鈴木は29歳で東洋工業を辞職して球団に転職。77年慶應を出て経理部に配属。留学から戻った創業者一族の松田元(社長耕平の長男)と席を並べる

77年東洋工業は経営不振から住友が経営支援に入り、松田一族はカープに追いやられ、元も82年にはカープに転職、鈴木を誘う。そのとき鈴木が元に言ったのが「人生の半分だけ預けますわ」で、83年転職

最初が新事業の女性をターゲットにしたフィットネスクラブの店長

次いで、現監督の緒方孝市ら若手3人を連れてバージニア州の1Aチームに5か月の野球留学

次がドミニカにあったカープの野球アカデミーの開設。選手育成に注力

91年のリーグ優勝以来成績は低迷するなか、00年チーム付けに

今年は、優勝争いの最中3番打者のバティスタのドーピング違反が明るみに

 

 

²  12月号 土地のことは土地に聴け 桝本行男(71歳、不動産鑑定士)

業界仲間は最近になって、小柄なこの男の奥底に強固な職人魂が据わっているのを見て取った。東京都や大会社に反立する不動産鑑定を1人で引き受けたから

事務所に貼った尊敬する日本不動産鑑定協会初代会長の櫛田光男の言葉が表題

日本には8269人の不動産鑑定士がいる

「地道に現場を歩け」という意味に受け取って、東京中を自転車で走り回る

18年夏、炎天下を自転車で走っている最中に心筋梗塞で倒れる

以前も証券会社系の不動産会社に勤務していた頃、毎月160時間前後の残業をこなしていたとの自信があったが、その後独立。現在は跡継ぎの息子と個人事務所を経営

荒川区の生まれ。東浅草で地元の皮革製品を商う家に育ち、明治大政経学部卒。

鑑定書を書くきっかけとなったのは、倒れる1年前、NPO法人区画整理・再開発対策全国連絡会議事務局長の遠藤から、晴海に建設中の五輪選手村用地に関するシンポジウムに誘われたこと

東京都が13.4haの土地を民間デベロッパーに二束3文で売り渡す。価格は12,960百万円。単価96,800/㎡ということを聞いて仰天

払下げ先は、国内大手のマンション開発業者の11社連合で、1418階の宿泊棟21棟を建て、組織委員会に38億円の家賃で貸し、五輪後は都と組織員会が445億円を負担してリフォームし、50階のマンション2棟や商業施設を加えた5,632戸の新しい街「晴海フラッグ」を誕生させる

11社連合は、今年夏閉幕後を見越して600戸の第1期分譲を行ったが、希望者が殺到

桝本は、激安払い下げ価格に関心を持つ。以前国交省が地価公示に際し土地鑑定委員会から委嘱され江東・台東・墨田地区の鑑定評価員を務めた

17年の公示価格では、選手村から徒歩4分ほどの晴海5丁目の地価は985千円、同2丁目は1,550千円、勝どき3丁目が1,200千円

驚くことに、この超安値にお墨付きを与えたのが業界の権威である一般社団法人「日本不動産研究所」。1959年誕生、267人の鑑定士を抱える日本最大の不動産総合調査研究機関で、162月都に鑑定書類を提出

日本不動産研究所の初代理事長が櫛田で、大蔵省理財局長から国民金融公庫総裁を歴任後、不動産鑑定士を弁護士などの権威ある資格にしようと尽力、彼の残した『不動産の鑑定評価に関する基本的考察』は業界関係者のバイブルであり、「不動産鑑定の父」と呼ばれる

櫛田やその支持者が重んじる不動産鑑定評価は、土地を投機や利益の対象として見るのではなく、土地を含めたその地域の歴史や住民の生活、人と土地の関わりの中に価値を見出すことを求める

都の都市整備局の説明では、11社連合との特定建築者契約締結は、との事業費圧縮や、マンション売れ残りリスク回避のためとされ、土地価格については、選手村の仕様に対応した住宅等を整備し、事業の完了までに長期間を要することなど、事業の特殊要因を考慮し、その上で特殊要因を評価に反映できる適格な不動産鑑定士に調査を委託したというもの

住民らは178月企業連合に適正な土地代を請求するよう都知事に求める住民訴訟を提起、同業者が都や日本不動産研究所を相手に尻込みする中、桝本は住民団体や弁護士に頼まれて訴訟に加わり鑑定評価に取り組む

日本不動産研究所が都に提出した書類は、あくまでも「調査報告書」であって「鑑定書」ではないため、周辺の公示地価が書き込まれていないだけでなく、その代わりだろうか、選手村の「直近の新築分譲マンションの実績」を分析した項目があるが全て黒塗り

選手村事業の複数の関係者からもたらされた調査報告書の原本には、取引事例比較法と収益還元法を比較しながら不動産価格を導き出すのが本来の姿にも拘らず、いくらでも数字をいじって評価額を操作できる開発法というやり方だけで価格を決定している

都側は、5つの街区を一括して11社連合に譲渡するという条件を指定して、これほどの大きな土地取引の事例はないため、土地取引比較法は使えないと主張

189月桝本の「鑑定評価書」完成、評価額は161,118百万円(単価1,203千円/)

住民訴訟の弁護団に提出した後、母校・明治大の不動産鑑定士会会報に『晴海オリンピック選手村土地投げ売り』と題して寄稿、心に溜め込んだ憤りが垣間見える文章

住民訴訟はこれから調査報告書と鑑定評価書を巡って長い論争が続くことだろう

日本不動産研究所は、今年4月山梨県上野原市の用地買収を巡って市の依頼で作成した鑑定書を甲府地裁の判決で根底から否定されている  保育園用地として市が前市長から買い受けた土地が高すぎるとして住民が起こした行政訴訟で、市長が事前に示した金額と乖離しないように恣意的に結論が出され、合理的な鑑定評価が行われているとは評価し難いと厳しく断罪

不動産鑑定士が、政治家や企業、役所から不当な鑑定を出すよう依頼される事態が相次いでいるため、日本不動産鑑定士協会連合会は、これを「依頼者プレッシャー」と呼んで、「依頼者プレッシャー通報制度」を創っている

 

²  20201月号 「唯、今を生きていこう」 當間(とうま)元吾(ベトナム残留兵の末裔)

當間(56)が父・元俊(げんしゅん)たちがベトナムで「戦争の神様」と呼ばれていたことを知ったのは働き先のサンディエゴで、開高健の『ベトナム戦記』を手にしたとき

元俊は1919年沖縄生まれで、太平洋戦争敗戦時にベトナムに残った約600の残留日本兵の1人。終戦時カンボジアに駐留、ベトナムを超えて帰国を目指したが、ベトミンに囚われ、軍事訓練を頼まれるうち、故郷の沖縄が全滅したことも聞いて帰国を断念、世話役としてつけられた地元女性と結婚、元吾たちを設ける

終戦から20年後、サイゴンに移って日本工営に就職、工事現場でベトコンに捕らえられた際、かつて軍事訓練をした際部下だった将校がいて、解放される

沖縄に、「元俊は生きている」との報をもたらしたのは『戦場カメラマン』の著者で首里出身の伝説的な報道写真家石川文洋で、ベトナム戦争取材中に開高から元俊を紹介され意気投合。石川がTBSのプロデューサーに掛け合い、朝の情報番組で一時帰国を実現させる

帰国の話もあったが、学歴もない元俊に先行きの見通しは暗く、結局ベトナムに戻って家族と暮らす。クボタに移り、トラクターを売りながらつつましやかに過ごす

77年サイゴン陥落で生活が一変。ベトナム政府から日本人などに帰国要請が出るが、日本政府は日本国籍者しか帰国を認めず、1年余りの交渉の末、家族8人そろって帰国が認められ、兄の世話で沖縄に住む。子供はそれぞれに苦労して就職。4男の元吾はコンピュータの専門学校を出て上京、一部上場企業に就職、IT技術者としてアメリカにわたり20年近く過ごしたが、沖縄に戻り通訳業務などで暮らす

元俊は8969歳で死去。ベトナム人の貴子は0778歳で死去。ひ孫まで入れると一族は20人を超える

ベトナム残留兵は700800と推定。残留動機の第1が、独立運動の支援で、インドシナ3国の独立に貢献した日本人は多い。元俊のような残留日本兵のことを「新ベトナム人」と呼ぶ

 

²  20202月号 「年金の少なさが働くエネルギーだ」 石川文洋(報道写真家)

石川は沖縄生まれの81歳、現役

65年から4年間ベトナム戦争に従軍、戦場カメラマンとして活躍し、ピュリッツァー賞の沢田教一とともにベトナムで死臭を嗅いだ2つ年下の石川は生き残った

その後もカンボジア、サラエボ、ソマリア、アフガニスタンと世界中の戦場を歩く

上諏訪駅から2㎞、標高900mに立つ「雑草庵」が唯一の贅沢品

ベトナムを書いたものを中心に写真集や著作は60冊を超えたが、カネには縁がない

米国でタイム・ライフ社とボストン・パブリッシングにより共同刊行された『ベトナム戦争全史シリーズ』の第22巻『戦場の軍隊』に『石川文洋の写真エッセー』として8ページにわたる個人特集が掲載。個人特集が組まれたのは世界で5人、日本人としては初めて

ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館には石川の作品を200点展示する常設コーナーがあり、98年には国賓として招待された

南北のベトナムを取材した報道写真家は石川だけ

カメラは押せば写るとして、問題は撮る側の心だという

父は極貧の物書き、沖縄では名の知れた存在。船橋で、男ばかり4人兄弟の2男として生まれる。親子3人で新聞配達。中卒後、両国高定時制へ。昼間は毎日新聞社で「給仕」と呼ばれる事務補助員。59年卒業と同時に毎日映画社入社し、ニュースカメラマンの助手に

3年後退社して香港へ行き、米国人経営の映像制作会社に就職、ベトナムの取材を経験

65年、カメラとレンズを買ってベトナムに向かい、南ベトナムの政府軍について従軍取材

抗仏のインドシナ戦争以降死んだジャーナリストは172人  地雷に巻き込まれたロバート・キャパやアメリカ人女性として初めての戦死者となったディッキー・シャペルらがいる。日本人も沢田を含め15

69年、開高とともにベトナムに特派された朝日のカメラマン・秋元啓一から沖縄の基地紛争取材の声がかかり、米軍ヘリに乗せられて基地や演習場を詳細にカメラに収めたのがスクープとなって朝日に入社。15年在籍してフリーに。以後現在に至るまでフリー

以後55か国を訪れ、日本写真協会年度賞や日本ジャーナリスト会議特別賞など数々の賞に輝き、05年にはベトナム政府から「文化通信事業功労賞」を授与

19年、2度目の徒歩による日本横断達成。宗谷岬から那覇までの3500㎞を11か月かけて歩く

20年は、ベトナム戦争終結45周年なので、取材に行く予定

正社員の期間は20年で、年金受給額は月十数万円にしかない。その少なさが今も働くエネルギーになっている

 

 

²  20203月号 「友達にこんなアホがいるって、なんか嬉しい」 竹岡和彦

竹岡は、同志社大文卒、大阪・天満の中堅広告代理店の代表者

かつては、森下仁丹社長で参議院議員の森下泰(たい)を「師匠」と仰ぐ大阪府会議員

「いっちょかみ(一丁噛み)」「おちょけ」「まあ、とにかく無茶しおる奴や」

酒は飲まないのに、どこまでも素面で付き合い、関西の政財界に広い人脈を築く

72歳の今、末野に訴えられた話が起こる

「浪速の借金王」こと、元末野興産社長末野謙一は、土建屋から大阪の花街の買収に転じて飛躍したが、バブル崩壊で住専から2,549億円の借金を背負って破綻、懲役4年、罰金35百万円の実刑判決を受け、今も整理回収機構からも7,668億円の返済を請求され、年14%の損害遅延金が上乗せされ、返済額が1兆円を超える日も遠くない。そんな末野と28年間交遊を続けてきたのが竹岡で、96年の「住専国会」に末野が参考人招致された際に同行したり、刑期終了時加古川刑務所に迎えに行って出所祝いまでしてやったりした

19年、末野が竹岡相手に960百万円の返還訴訟提起

19年末、竹岡が『無鉄砲。団塊世代の狂詩曲』を自費出版。文庫版サイズで3冊の自伝

政治の世界に導いてくれたのが森下とサントリーの佐治敬三。26歳で北新地の寿司屋のマネージャーをしていたころに常連客だった佐治から森下を紹介され、選挙運動を手伝うことになり、全国の薬局に証紙なしの事前運動用のポスターを張って公選法違反を問われた際身代わりで自首、執行猶予判決を受けたが、当選後は秘書として選挙の責任者に抜擢される。総理の田中角栄来阪の際は世話係を買って出る

86年、森下事務所に入って12年後、大阪府会議員補選に出て当選、2度目は落選、森下を心不全で失い、参院選へ出馬するが2年後に政界引退

それから30年、ハワイでゴルフ場開発を手掛け、不動産業を営み、パチロット事業にも絡んでしぶとく生き残る

 

 

²  20204月号 「明日、仏さまにないやっとごわんど」 板垣豊・レイ子

60年、29歳の板垣が鹿児島県加世田市の割烹旅館「飛龍荘」に1人娘の山下レイ子を訪ねる

2人があったのは羽田。豊は31年山形の生まれ。三菱鉱業勤務の父が樺太の産炭地勤務となり、終戦を迎えて2年後に引き揚げ。山形の駐留軍に勤務、閉鎖後はKLMオランダ航空勤務。レイ子は上京して羽田空港近くの唯一のレストランで店長をしていた時、客で来たのが豊で、同じ年のレイ子を見初めて求婚するが、レイ子は母である女将の手伝いとして帰郷

飛龍荘に来た豊は、そのまま加世田に居ついて、飛龍荘の雑用をしているうちに主やレイ子の兄たちと親しくなる

44年薩摩半島西岸の吹上浜に万世(ばんせい)飛行場が急造され、沖縄特攻の前進基地となり、飛龍荘にも将校が宿泊し、1階では特攻隊員が散華前夜に宴会

1年後、豊は両親に結婚を申し込み結婚。半年後義父から跡継ぎを要請されるが、レイ子が豊の性格ではできないと断り、豊はKLMに復職

70年、レイ子の前に苗村七郎と名乗る男が現れる。大阪・天満橋で民芸蕎麦屋や串揚げ屋を営むが、もともとは特別操縦見習士官の1期生。関西大航空部の主将を務め、学生時代から有名なパイロットで、その技量を惜しむ上官の計らいで待機や飛行機調達に回って終戦を迎えたが、いきなり加世田の収入役のもとに30万円(当時大卒初任給が5万円未満)を寄託、万世の記録の掘り起こしと慰霊碑の建設資金のためと申し出る  23年後に実現する「万世特攻平和祈念館」の最初の寄付で、最初の賛同者が義母と板垣夫妻

苗村は豊に万世基地の出来事を語り始める。彼の所属した六六戦隊は220人で編成。うち3割は戦死。基地のことは秘匿事項でほとんど記録に残っていなかったため、全国の遺族を回って基地の全貌を明らかにしたいと話す。地元紙の報道がきっかけとなって全国の遺族などから情報提供や募金の問い合わせが殺到。苗村からの頼みで板垣夫妻も仕事の合間をぬって協力。苗村は祈念館建設まで1億ともいわれる私財を投じ、板垣も給料をはたく

2人で突き止めた万世の犠牲者は201人、うち士官が学校出は9人のみで、あとは20歳までの予備役や未成年。義母が母替わりで面倒を見たが、終戦直後飛龍荘にも係員が来てすべての記録や遺品などを持ち去ったため、当時の記録はなにも残っていない

終戦の1か月後、米海兵隊宿舎として接収。2年後接収は解除されたが、使い物にならず、割烹として細々と営業を続け、91年義母が高齢のため廃業、94年には解体

義母は0197で死去。苗村もその11年後に死亡。豊は祈念館の前庭に苗村の顕彰碑を建立、今も特攻隊員たちの慰霊に尽くす

 

SMBC日興証券会長 久保哲也(1)

万世の桜

日本経済新聞 夕刊 2020323 15:30

金融人の端くれとしてロンドン、香港、そしてニューヨークと海外暮らしが長かった。それでも初春の今ごろ、どこにいようと日本を懐かしむのが常だった。

米国の首都ワシントンやドイツの古都ボンをはじめ米欧にも「SAKURA」の名所は少なくない。だが列島が南から北へとピンク色に染まり、その散りぎわを愛でるのはこの国だけだ。とりわけ私の心を揺さぶるのは故郷の桜である。

万世特攻平和祈念館に咲く桜
薩摩半島の南端、人口約2万人の旧加世田市(現南さつま市)万世の出身だ。

実家ではコメや野菜、さつまいもを細々と栽培し、豚やニワトリも飼っていた。それでも現金収入は十分ではなかったのだろう。

旧海軍出身の父親は戦後、神戸にあった川崎製鉄の製鉄所に1人赴任した。家に戻るのは正月だけだ。農作業は母と祖父母が担う兼業農家の典型だった。

畑仕事をさほど手伝うでもなく、農閑期には田んぼで仲間と草野球に伸び伸び興じていたのが私の少年時代だ。兄と私の2人兄弟を大学まで出してくれた両親への感謝の念が、この歳になってこみ上げる。

そんな私のふるさとは、重い歴史を背負っている。

太平洋戦争末期、海岸沿いの敷地に「万世飛行場」が突貫工事で整備された。本土防衛――。文字通りの最前線だった。

鹿児島の特攻基地といえば、知覧や鹿屋があまりに有名だ。これに対し「まぼろし」とも称される万世が稼働したのは終戦間際の4カ月にすぎない。だが全国から集められた2百人の若者が南洋へ、飛び立った。

3年前、三反園訓知事の音頭で「かごしま青年塾」が発足した。地元出身の若手ビジネスリーダーの育成と輩出が目標だ。同郷の片野坂真哉さん(ANAホールディングス社長)らとともに手弁当で、講師役を仰せつかっている。

岩倉使節団の大久保利通、米カリフォルニアのワイン王として名をはせた長澤鼎……。海外に雄飛した先達の華やかな系譜は、我々薩摩人の誇りである。

いま飛行場跡地には万世特攻平和祈念館が建ち、周囲には桜並木が植えられている。幾度となく足を運んできたが、痛切の念と涙なしにこの場を立ち去るのは難しい。

「万世の桜」。戦争と平和。その重みを次世代に語り継ぐ。残された者の、せめてもの使命なのだ。

くぼ・てつや 1953年鹿児島県生まれ。76年京大法卒、住友銀行へ。英国駐在などを経て2003年三井住友銀行執行役員・香港支店長。06年常務執行役員・米州本部長、11年副頭取。13SMBC日興証券社長、16年から会長。

 

 

²  20205月号 「1人の100歩より100人の1歩」 阿部涼介(東電社員)

東電には31, 700人の送配電部門のプロ作業員

l  「カラス」  送電部門で、鉄塔(40149m)作業員

l  「モグラ」  送電部門の地中線業務

l  「ハイデン」  電柱(12,3m)への昇柱作業員。配電設備の補修、改修、停電時の復旧作業。約5,000

l  「ヘンデン」  変電設備のメンテナンス

作業員の企業内訓練所として、中卒を対象に東電学園高等部があったが、09年閉校

阿部は、114月入社のハイデン作業員。県立修善寺工業高校(現・伊豆総合高校)の電気科でトップの成績で、担任から東電行きを勧められた。原発事故で内定取り消しも覚悟したが、無事入社し沼津支店配属となり、伊豆エリアの配電保守を担当

危険と隣り合わせの業務だけに厳しい職場で、職場には怒号が飛び、いつかあの先輩たちを褒めさせようと頑張った

福島事故後は世間の風当たりが厳しく、会社のロゴ入りの作業着を隠して作業することも

停電時に復旧作業を終えて電柱の上の箱型スイッチの赤色の入り紐を引っ張った時に、暗闇にパーッと温かい明りが数百軒の家に一斉に点るのを見るとき、阿部の顔が誇りを取り戻す

毎年墜落や感電で死者  18年はグループ全体で79人が負傷、1人死亡

19年から組合専従に。執行委員長から聞いたのが「1人の100歩より100人の1歩」で、そのほうがより大きな力になるという意。個人の人間力で企業を支えた時代は終わり、1人ではない100人で耐えるとき

震災の翌年から、毎年復興の支援活動のボランティアが続く

震災の時期になると、各部署で「3.11」のディスカッションをし、反省点や改善点を話し合う。忘れないため、責任を自分たちが持ち続けるため、風化させないため

阿部は今年から法大大学院の労働組合論のプログラムをとる。いつかまた怒鳴ったり怒鳴られたりの現場に戻る。その時に自分を支えてくれるのは、暗闇に火を灯す、ハイデンの小さな矜持なのではないかと思う

 

²  20206月号 No.17 「勲章はいらない」 矢内清六(やないきよむ:画家)

30からジャガイモを描き続け85歳になった今も銀座の画廊にジャガイモの絵を飾る

アクリル塗料と鉛筆で精緻刻明に描かれた絵で、まめやかという言葉そのものの作品と矢内の人生

4年前に逝った妻は、栃木の地方紙に「我が凡夫」と題して書き残した。「北窓のアトリエは寒い。暖房をしないで毛布にくるまったダルマのような格好での仕事が続く。大みそかの夜にも「明日も同じだよ」と言われる。長く絵を描いて欲しい」

栃木県の自宅は平屋だが、アトリエだけ天井が高い。自然な陽光だけが入る。部屋の空気とそこに置いた植物の自然な姿を変えたくないから

矢内ほど質素で、楽しまず、染まらない人を見たことがない。ラジオをかけながら、1年中、畑や野のものを描いている。修行僧のような、仙人のような暮らし

「人間に生まれ変わりたくない、ゴキブリでもいい」というのは、彼の戦争体験に根差しているのだ

35年福島市の生まれ。10人兄弟の7番目。両親は菓子や果物にかける紙袋を製造。つましいが温かな暮らしだったが、戦争で長兄が万世から特攻出撃して散華。勲章が送られてきたが、母は「勲章なんかいらない!」と叫ぶ。10歳の矢内に深く暗い傷を残す

遺品が送られてきて、父が遺書を読んで聞かせてくれた

高校では美術クラブに入り油絵を描く。大学進学は経済的理由で断念。川口の鋳物工場に住み込みで働く。職人から「こんなとこにいてはだめだ」と言われて福島に戻り家業を手伝うが、親戚の画家・吉井忠を頼って上京。職業美術協議会中央美術研究所を紹介され、修行時代が始まる。武蔵野美術学校に顔を出しながら絵を描き続ける

水天宮の貿易会社に就職して宣伝コピーを書いているときに8歳上のシングルマザーだった女性と出会い結婚。日本画を習っていたこともあって、矢内の絵の評論家となる

30歳で仕事を辞め妻の実家に入り、妻の連れ子と同居、アトリエを作って絵に専念

生計は妻が支える

矢内の絵は大きく変わる。仲間と競い合うように描き、セザンヌを好み、ピカソを超えようとしていたが、栃木の自然の中で生きるうちに画家の呪縛のようなものから解き放たれる。「あるが儘を表現したい。自分の心の有様によっていくらでも変化する。私の生き方そのものの問題でもある」と悟り、師事した工藤直江の言葉、「師匠は自然だ」が身に染みる

74年『よろづよに――最後の陸軍特攻基地』発刊。万世基地の護衛飛行隊員だった苗村七郎の自費出版でNHKの報道番組でも取り上げ。散華した201人の兵士の存在を掘り起こしたもので、矢内は手もとの日記と突き合わせ兄の足跡を辿ると、兄が練習機に乗って米軍機の標的になったことが判明、こんな非道い戦略を考える人間にだけはなりたくないという考え方に辿り着く

16年妻逝去。享年89.通夜も葬儀もせず、墓も建てていない。遺骨には万一忘れたら嫌だと花も線香もない

妻の死後も夜明けとともに起きて日没まで絵を描いている。「妻が僕を画家にしてくれた」と繰り返し、妻を亡くして生きる理由が見つかったという。「これからが画家としての本当の人生。妻に恩返しがしたいので、もう少し生きたい」

 

²  20207月号 No.18 「相場師は身もだえする」 長谷川陽三(相場師)

「六本木筋」と異名を取った相場師。大豆の先物相場で07年に大儲けした後、課税優遇地シンガポールに移住したため、「伝説の」という冠を付けて呼ばれる

6年前会った時、66歳で1000坪の大邸宅に住み不動産会社経営者に収まっていた

相場師の結末はひどいものと知りながら、足を洗えず。ニューヨーク・マーカンタイルで取引されるWTI原油先物で100億ほど稼ぎ、娘の教育のためにニューヨークに移住、永住権を持つシンガポールと日本と3カ所を行き来、「永遠の旅行者」と呼ばれる生き方をする。徒手空拳から出発し、72歳にしてなお相場で家族と社員を支える

資産は、14年に2300億。74年先物取引会社に入り、100億をとる「大相場師」と言われるのが2,3回。73年三重で「桑名筋」と呼ばれた坂崎喜内人(きなんど)が毛糸相場で100億取り、紛れもない世界一の相場師

相場師は吉原の女郎みたいなもので、足抜けしても普通の生活に戻れない。散々辛酸をなめても退屈したことはなく、やり続けてしまう。相場師であり続ければ必ず滅びる

坂崎ですら、81年の小豆相場で2度目の100億を取りながら翌年はパンク

父は、母親の実家の商売を手伝っていたが繭取引で大損し夜逃げ同然で上京。何をやってもうまく行かないのに、競馬、麻雀の類が大好き

陽三も3男で小さい頃からアルバイト、都立北園高卒後空き瓶回収会社を作る。ベトナム特需でまとまった金が入り、新所沢駅前に喫茶店やマージャン店を開業、繁盛させたところに、商品先物取引の外務員が飛び込んできて乗ったのが始まり。大損したのが悔しくて、商品先物取引会社に入って修行、大手の「小林洋行」の歩合外務員に転じ手張りをする

梶山季之の「赤いダイヤ」がバイブルであり、男の生き方。陽三も小豆に執着

相場観が外れることを「曲がる」といって、曲がっているものはエビでも嫌う。反対に「当たる」は歓迎され、フグは好んで食べた

町井久之という暴力団「東声会」のドンが小豆相場に手を出して「六本木筋」と言われたが、82年に相場が大暴落して買い方の坂崎、町井とも大きな痛手を受けたが、その時相場を仕手崩れに追い込んだのが陽三。以後陽三が「六本木筋」と呼ばれる

相場と博奕は似て非なるもの。カジノで儲けることは出来ない

投機家であって投資家ではない。「機会」に賭ける。一般心理の逆を行く張り方。相場は情報でも感でもなく見通しと商品知識

米相場で巨利を得た本間家にも「相場手出し無用」という家伝があるように、陽三も不動産会社を任せている息子たちに対し、相場はやるなと言っている。天賦の才が必要

日本ではキャピタルゲイン課税が20%だが、シンガポールはゼロ。アメリカではE-2( 投資駐在員)ビザを取り、滞米が120/年未満ならUS Personと見做されない

ヘッジファンドに数学的なアプローチを入れたジェームズ・シモンズの「ルネッサンス・テクノロジーズ」に挑戦してみたい

 

²  20208月号 No.19 「功は部下に譲り、部下の過ちは自ら負う」(「次室士官心得」より:海軍若手士官に対する教え) 小寺芳朗(亀田製菓副社長)

ジャカルタに2年駐在

小寺が社長の「尾西(おにし)食品」は」、長期保存食品の製造販売会社で、災害時の非常食を主力とする。社員120人。イスラム教徒向けのハラル対応食品の保存食が作れないかと検討。世界3大炊き込みご飯の1つ「ビリヤニ」(他には松竹ご飯とパエリア)やナシゴレン、ダイ風焼き飯「ガパオライス」の保存食を抱えてサウジに乗り込んだのが1811

1998年、長銀の金融商品開発部参事から経営危機最中の広報室長に異動

慶應の端艇部で、3年にはインカレ優勝の経歴を持ち、78年入行

副頭取の上原をはじめ、何人かが自殺

長銀がリップルウッドの傘下で出直しする003月を前に退職。小寺44歳、長女は大学生、長男は高校生

再就職先は、元取引先の中堅不動産開発会社「モリモト」で、取締役総務部長として上場の手伝いを頼まれる。次いで鳥取の「用瀬(もちがせ)電機」の経営企画部長

高松一高時代飲酒で放校、都立目黒高に転校、そこで知り合った同級生と結婚、彼女はハリストス正教に改宗し小寺より熱心な正教徒となる

鳥取の次が「アコム」。インドネシアやベルギーの駐在経験を買われ、海外事業開発部長として同社の海外展開を手伝うが、消費者金融として見下される

09年、「亀田製菓」の社長がネシア時代の先輩で、5年後子会社の「尾西食品」に出向、巡礼食も昨年納入に成功。今年亀田製菓の副社長に

 

 

²  20209月号 No.20 「吉と出すしかない」 甲斐将行(元トヨタ自動車、現・マグナシュタイヤー社プロジェクトリーダー)

201912月、甲斐はドイツから帰国すると、20年間務めたトヨタ自工を辞職、46歳の決断。「ドイツで車づくりがしたい」の一念で独立

73年ドイツ北部のブラウンシュバイク生まれ。父親は同地の国立歌劇団の首席フルート奏者、ピアノ留学していた母と知り合って結婚、3歳下の妹もバイオリン奏者で、甲斐もバイオリンを習う。ベルリンの壁崩壊の5年前、一家は子供の教育のために甲斐が小5で帰国。3年後甲斐はバイオリンをやめ、当時はやっていたF1に憧れ、レーサーへの夢を育てる。東大工学部に入学、「モーター同好会」に入り、先輩からトヨタのスポーツカー「ハチロク」を買い受ける。大学で知ったのは、桁違いにすごい奴がいくらでもいることで、大事なのは自分の土俵を探すことと痛感

甲斐の場合、他人より勝っていたのは、車に対する愛情と実行力で、大学院に進み、機械工学科の修士を出てトヨタに入社、第2シャシー設計部配属。3年目に結婚と同時にトヨタが参戦を決めたF1チームの技術者として選ばれ、02年ケルンのトヨタ・モータースポーツに派遣され、シャシーの設計に加わり、31歳で帰国

スポーツ車両統括部のチーフエンジニアCEから、ドイツ語の能力を買われて、BMWプロジェクトの手伝いを直接頼まれる。トヨタが17年ぶりでBMWとの共同開発で本格的なスポーツカー「スープラ」を復活させるプロジェクトで、問題は言葉と文化の壁

当時、大衆車のヴィッツをレーシングカー使用にして売り出すプロジェクトを任されていた甲斐は、申し出を断ってCEを驚かせたが、9か月後自分のプロジェクトに目途をつけると、CEは未だ待ってくれていて、すぐにBMWとの交渉窓口をやらされる。時に40

BMWとの間の問題はコミュニケーションだった。14年ミュンヘンに事務所を開設して技術者4人が赴任したが、BMWはエンジニア11人に決定権があるのに対し、トヨタは何事も合議制で意思決定に時間がかかる。漸く17年末に試作車第1号がオーストリア工場から出てきた。19年にはドイツで最も権威ある「ゴールデンステアリングホイール賞」受賞。達成感が余りに強かったため、全てを燃焼し尽くしたように感じた

1910月、オーストリアに本社のある「マグナシュタイヤー」というエンジニアリング会社のドイツ拠点に転職。自動車メーカーからの委託を受け車のことなら何でもする会社

田舎の寺の息子だった父も、芸大ピアノ科出身の祖母の影響を受け、フルートがやりたいと言って渡独したこともあり、甲斐も自分がどれだけやれるのか試してみたかった

椙山女学園大学心理学準教授のキャリアを投げうってドイツに来てくれた妻は猛反対したが、長女がドイツに残ると言って応援してくれ

半年の試用期間を終わって197月正式採用、現在はアウディプロジェクトのチームリーダー。選択が吉と出るか凶と出るかはまだわからない

 

 

²  202010月号 No.21 「思うのはあなたのことばかり」 妹尾敬冶(家事調停委員)

近畿地方の家事調停委員。4年前整理回収機構の取材で知り合う

毎月15日ほど裁判所に登庁、「家族法」関連の案件に携わり、3年間に関与した調停は140件に上る。岡山大法出身。勤務した銀行が2度破綻。彼ほど組織の中でぶつかった人を私は知らない、先のことを考えずに、筋を通した男

それ以上に彼について驚いたのは、55歳の誕生日に高校の同級生だった妻の節子から暖かそうな上下の服とともに、「今日もまた思うのはあなたのことばかり」と書いたラブレターをもらい、堂々と語ったこと

岡山の農家で生まれた次男坊、親が苦労して大学までやってくれたので、きちんとした職に就こうと、親が勧めた公務員の試験を受けようとしたが、仕事ぶりがだらしなく見え、親から常々言われている「背筋を伸ばして生きろ」という教えにそぐわないと諦め、大学のOBがいた兵庫相互に就職。枚方支店に配属され、残業が続く中、次長から「残業代が儲かっていいな」と言われ反発、残業代相当の額を突き返した

入社3年目に結婚、30歳で国際企画部に配属、ロンドン研修を命じられ、半年の研修を終えて帰国。89年普通銀行に転換したころにはバブルと融資先とのしがらみにまみれながらバブル崩壊を迎える

関連事業部次長としてノンバンクの再建模索を命じられたが、95年の震災で本体の資金繰りが逼迫、自転車操業に堕ちていくのを目の当たりにする

93年、大蔵省から元銀行局長の吉田正輝が社長に着任、再建に乗り出すが、958月末野興産による木津信の預金引揚の噂が広まると、大蔵省は兵庫銀行と木津信の業務停止命令を発出。翌年からみどり銀行と改称して再スタートするが、33か月後には経営危機に陥り、阪神銀行に救済合併

総合企画部副部長として合併業務を進めるが、人員削減や給与カットにあって自らは残留を断念、みどり銀行の不良債権を処理するため整理回収銀行に行くが、8日後には住宅金融債権管理機構に吸収合併され、整理回収機構に統合、社長は中坊公平

03年末の石川銀行まで、破綻したり合併した金融機関の数は171

雇用は1年ごと、最長5年だったが、制度が変わり半年で正社員となり、53歳の時は豊和銀行の整理に大分まで行かされ、58歳で退職、自給自足の生活に

今まで経験したことを活かして社会の役に立ちたいという気持ちが芽生えたところに、そのままじゃもったいないと誘ってくれる人があって調停委員に

多少の難題があっても、「大したことはない」と思える度胸がついている

妻からも、「あなたは、私の人生そのものなの」と言われた

 

 

²  202011月号 No.22 「心が病気ではありません」 大神省二

9月に「余命2年」を宣告。3年前に膵臓癌手術し自宅療養中に、肝臓への転移と余命を告げられ、咀嚼するのに「昨日・今日・明日」という言葉を深く噛み締める

71歳、もともと大分県下の駐在所の巡査で、今は日本ミツバチの養蜂家。日本ミツバチを誘引する蘭の一種「キンリョウヘン」の栽培家でもある

12年前に自己免疫性すい炎と閉塞性黄疸の診断、2年後には間質性肺炎で入院、68歳で心臓のバイパス手術とステント治療、3日後に肺梗塞で入院、心筋梗塞と膵臓癌の手術、70になって皮膚癌、さらに2度目の膵臓癌手術。90㎏の体重が20㎏も減る

周囲から励まされると、「まだ、私の心は病気になってませんから大丈夫」と言って、「病あり」という人生を受け入れ

49年大分県龍王山の麓の生まれ。8人兄弟の末っ子。父は和菓子屋、無類の鳥好き

子供の頃から愛鳥家の父の影響で、鳥小屋の中に自分の家を作る夢を持つ

飼っていたセキセイインコを100羽盗まれたのを機に、盗人退治用に蜂の巣を置いたのが日本ミツバチとの出会い

68年高卒と同時に大分県警の警察官を拝命、激しい訓練についていくのがやっとだったが、手先が器用で何でもこなした

校長の娘と結婚、妻は50まで看護師として働きながら2人の娘を育てる

警察官として真面目に42年間奉職、巡査部長に近くの小学校から感謝状が届き、04年には治安維持・交通安全への功労で県知事表彰を受け、テレビ東京の「小さな村の大スター」にも密着取材で取り上げ

09年警部補で定年退職、日本ミツバチの飼育に挑戦

最近は、気候変動とウィルスを敏感に感じたのか、かなりの数のミツバチがいなくなった

 

²  202012月号 No.23 「死ぬまで相場や!」 板崎喜内人(きなんど)

ニューヨーク在住の先物相場師・長谷川陽三(7月号参照)は、『建玉推移』と題したビジネスメールを毎週発信。トランプを「暴君」と呼び、黒田日銀総裁を「買い占め屋」と批判

そこに近年頻繁に登場するのが桑名筋と言われた老相場師・板崎で、85歳の伝説的な存在

2人は小豆相場を巡って激しい仕手戦を演じ、長谷川が板崎を破滅の淵に追いやったことのある宿敵同士

板崎は、脳梗塞で半身不随、妻も亡くして高齢者施設に入ってもゴールドの相場を張り続けている。長谷川は敬意を込めて、「金を滅多買いしている。197273年の狂乱物価の中で、毛糸相場で100億儲け、人呼んでインフレの寵児で、自分のような似非相場師とは違い、正真正銘の大相場師」と記す

自宅は桑名市の高台にある「小豆御殿」、金を買い増しして、今や20億円までいった

全盛期には桑名市に1億を寄付、地元では隣国の戦国武将に因んで、「昭和の道三」と持ち上げる声もある

金価格は着実に上がり続け、この8月、予想した2000ドルをつける

沢木耕太郎が商品相場の街を歩いて『調査情報』に書いた『鼠たちの祭り』(75)の主人公でもある。「使い切れない金をいくら持っても紙切れと一緒」だという

長谷川との共通点は、「玄人と素人の差は利食いをいかに我慢できるか」と投資家に説いたことと、相場師と呼ばれること自体に誇りを持っていたこと、そして2人とも高卒で先物取引会社で相場の道を叩き込まれてから相場師として独立・起業

1次オイルショックの際、板崎は「相場荒らし」と新聞で叩かれ、週刊誌では「日本一の相場師」「乱世の英雄」と騒がれたが、オーストラリアの大旱魃で羊がバタバタと死ぬのを見て相場勝負に出たもので公明正大な儲けだと反論、角栄の物価対策、食糧政策を批判

81年には暴力団「東声会」の町井久之と組んで買い方に回り大仕手戦を演じて100億稼ぐが、長谷川に崩され小豆相場は暴落、すべてを失って表舞台から去ったことになっている

長谷川は「六本木筋」と呼ばれ、07年には大豆相場で100億稼ぎ、板崎の末路を教訓に日本から脱出したが、今でも板崎のように相場の世界を全うした男はいないと確信

小豆相場の後板崎が商品取引会社を買収してオーナーになったのを見て、沢木は『鼠たちの祭り』の末尾に、「死ぬまで相場を張り続けるといった敗れざる男板崎はどこに行ったのか」と書いたが、板崎は老人施設でまだ相場を張っている

 

²  20211月号 No.24 「回収の鬼が校長になった」 石川裕二

京急南太田駅近くの県立横浜清陵総合高校は合併でできた総合学科を謳う新設の実験校

石川は2年前まで不良債権回収の国策会社整理回収機構の取締役で、「回収の鬼」「ゴジラ」と呼ばれていたが、04年民間人校長に応募して採用される

横浜銀行の役員店舗・横浜駅前支店長だった石川は、1年で整理回収機構へ出向

早大商卒、父も勧銀OB。組合員長を経験するが、従業員優先で経営への忖度とは無縁

銀行業務でも、変額保険推奨販売に異を唱え、バブル融資にも手を染めなかったが、バブル崩壊によって銀行への集団訴訟に発展すると、その対応を任される

00年整理回収機構に異動、2代目鬼追明夫の下で、血も涙もある回収を心掛ける

1年後、銀行から再就職を斡旋されるが、「自分の道は自分で決める」と言って断り、2年の任期を終えて銀行に戻るが行き先はないと告げられ、探したのが校長の公募

生徒が普通高校と商業高校、工業高校の科目を自由に学べることを謳い文句にした実験校で、1学年240名、2つのレベルの違う学校を1つにしたので、やんちゃん子供も結構いる荒れたところもあったが、5年勤め上げた後、県立総合教育センターの教育指導専門員や産業能率大学講師を務め、今は翔光学園、横浜創学館高校の副理事長

清陵を去る時女生徒からもらった、「校長を慕って清陵に来た。先生が守ってきたこの学校はもっと良い学校になるので後2年頑張る」とのメッセージが誇り

 

 

 

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