ファン・ゴッホの手紙  二見史郎/圀府寺司  2021.4.20.

 

2021.4.20. ファン・ゴッホの手紙

SELECTED LETTERS OF VINCENT VAN GOGH      1990

 

編訳 二見史郎(ふたみ・しろう) 1928年神奈川県に生まれる。1951年東京大学文学部哲学科卒業。愛知県立芸術大学名誉教授。著書『抽象の形成』(紀伊國屋書店、1970)、『ファン・ゴッホ詳伝』(みすず書房、2010)。訳書 リード『近代彫刻史』(紀伊國屋書店、1965)、『ファン・ゴッホ書簡全集』(共訳、みすず書房、1963)、ビビー『未知の古代文明ディルムン』(共訳、平凡社、1975)、『マティス 画家のノート』(みすず書房、1978)、シャピロ『モダン・アート』(みすず書房、1984)、『アルルのファン・ゴッホ』(みすず書房、1986)、ゴンブリッチ『棒馬考』(共訳、勁草書房、1988)、ティルボルフ編『ファン・ゴッホとミレー』(共訳、みすず書房、1994)、『ファン・ゴッホの手紙』(編・共訳、みすず書房、2001)、ダンチェフ『セザンヌ』(共訳、みすず書房、2015)ほか

 

訳者 圀府寺司(こうでら・つかさ) 1957年大阪府に生まれる。1979年大阪大学文学部卒業後、同大学院に進学し、アムステルダム大学美術史研究所に留学(198188年)、文学博士号を取得。オランダ、エラスムス財団よりエラスムス研究賞受賞。現在 大阪大学大学院文学研究科・文学部教授。著書 Vincint van Gogh: Christianity versus Nature, Amsterdam-Philadelphia John Benjamins, 1990. The Mythology of Vincent van Gogh, Tokyo-Amsterdam-Philadelphia, 1992 (編著).『北方ヨーロッパの美術』(共著、岩波書店、1994)、『西洋美術館』(共編著、小学館、1999)、『ファン・ゴッホ——自然と宗教の闘争』(小学館、2009)、『ゴッホ 日本の夢に懸けた芸術家』(角川書店、2010)、『〈ゴッホの夢〉美術館』(小学館、2013)、『ユダヤ人と近代美術』(光文社、2016)ほか

 

発行日           2001.11.12. 印刷              11.22. 発行

発行所          みすず書房

 

 

凡例

²  ハーグ  18728-18735

ハーグのロース家に下宿し、グービル商会に勤めて3年のフィンセント(19)をテオ(15)が訪ねてきたのが兄弟の生涯の文通の始まり。既に父はズンデルトからヘルフォールトの教会に転任していて、テオはそこから南のオーステルヴェイクの学校まで8㎞を徒歩通学していた。書簡2は翌年正月からテオがブリュッセルのグービル商会支店に就職が決まった時のもので、2人の関係が今後深まることを予感させる

1. ハーグ 1872.8.

親愛なテオ:

一緒に過ごした日々は楽しかった

君もオーステルヴェイクまで歩いてゆくのは蒸し暑くて大変だろう

2. ハーグ 1872.12.13.

親愛なテオ:

全くの吉報だった。心から君の幸運を祈る。きっと君はあそこが好きになると思う。とても立派な支店だ。これで君の生活も一変するわけだ。僕たちがこれで2人とも同じ職業、同じ商会に身を置くのはとてもうれしい。僕たちはちゃんと頻繁に文通を交わすようにしないといけない

 

²  ロンドン  18736-18755

13. ロンドン 1874.1.

親愛なテオ:

君が店で順調にやっていることは分かっている

君とまたどんなに美術について語り合いたいことか

できるだけ多く美しいものを見出したまえ

20. ロンドン 1874.7.31.

親愛なテオ:

君がミシュレを読んで、それがよく分かると聞いて僕は嬉しい

 

²  パリ  18755-18763

27. パリ 1875.5.31.

親愛なテオ:

昨日はコローの展覧会を見た

 

²  ラムズゲイトとアイルワース  18764-12

60. ラムズゲイト 1876.4.17.

親愛な父上と母上:

列車の中であれこれ書いたので、それをお送りすれば、僕の旅の様子がわかるでしょう

79. アイルワース 1876.10.31.

親愛なテオ:

先日の日曜日、初めて祭壇で説教をしたので、その話の内容を書いて同封しておこう

 

²  ドルドレヒト  18771-4

85. ドルドレヒト 1877.2.7.

親愛なテオ:

先週この辺は氾濫があった

 

²  アムステルダム  18775-18787

父と同じ道に進みたいというフィンセントの希望をかなえるため伯父の家に下宿して神学部の受験勉強をすることになり、ラテン語とギリシャ語を学び始めたが、わが身に鞭打つ苦行の古典語勉強に意味を見出せなくなり放棄することになる

 

95. アムステルダム 1877.5.19.

親愛なテオ:

君と一緒に過ごしたあの日は実に楽しかった。我が家で君も楽しい時を過ごしたことと思う。君の版画コレクションの足しになるようなものを送る

 

²  ブリュッセルとボリナージュ  18787−18814

1878.7.中旬、ブリュッセルの伝道師養成所に行く。フランドル地方の伝道師になるための訓練所で、8カ月の見習い期間の後、3年の就学を無料で受けてよいと言われたが、生活費を父親に負担させるに忍びなかった。12月にはボリナージュで伝道活動を始めていたが、仮りに6か月の伝道活動が認められた

夏には伝道委員会が言語能力に疑問をつけ仮免停止としたため、画家への道に傾く

一時父母の元に戻るが、放浪しながら素描を続ける

80年春ごろ、家族間でフィンセントを精神病院に入れる話が出て、見送られたが、後を引くことになる

 

126. ラーケン 1878.11.15.

親愛なテオ:

君から2枚の版画をもらってとても僕は嬉しい

 

²  エッテン  18814-12

150. 1881.9.

親愛なテオ:

僕の素描に、その描き方ばかりでなく結果の方でも変化が出てきた

新たな生身のモデルによる制作も始めた

バルグの《木炭画の練習》を粘り強く繰り返し模写したことで僕の人物素描の眼識は向上

僕は寸法の取り方、見方、大きな線のつかみ方を学び、以前自分には到底無理だと思われたことも今では徐々にできるようになった

「工場はフル回転だ」。もし君にその気があって、都合つくなら、漂白しない亜麻布の色のアングル紙のことを忘れないでくれ。出来たら強い方の種類がいい

152. 1881.10.12.

親愛なテオ:

アングル紙を発送したと聞いて嬉しかった

僕が送ったスケッチを見て君自身が進歩を認めてくれたのも嬉しかった

153. エッテン 1881.9.3.

親愛なテオ:

この夏僕がケー・フォスを深く愛するようになって彼女に告げると、彼女は僕の気持ちに応えることはできないというのだが、まだ結着がついたわけでもないのであきらめないことにした

159. 金曜日の晩 1881.11.18.

父さんが僕の意に反して精神病院に入れようとした時のこと――は僕に警戒の心を学ばせた。もし今僕が用心しなければ、父さんはまた何か「やらねばなるまいと思う」だろう

 

²  ハーグ  188112-18839

1881年のクリスマスに父と衝突したフィンセントはすぐ家を出てハーグに住んだ

母方の従姉妹の夫が画家で、その指導を受ける

モンマルトルの支店の責任者となったテオは兄にその頃から月100フランを送金し始める

街角に立つ身重の女に出会い、彼女の家族をモデルに制作し、結婚まで考えるが、テオは反対し、親たちがまた精神病院を考えたり、禁治産の後見人をたてる話になるかもしれないと心配する

出産した母子との生活に「家庭の炉辺」を感じたが、テオの勧めに従って別れ、一人辺境の地に向かう

 

169. パリ 1882.1.5. 

親愛なフィンセント  ←  テオからの返事

両親との諍いを諫める

テオへの返事:

父さんや母さんの生活を辛いものにするよう僕が仕組んだという表現は実のところ君のものではない

178. 1882.3.3.

親愛なテオ:

君からの手紙とお金が着いてこのかた、毎日モデルを使っていた。すっかり仕事にはまり込んでしまっているところだ

192. 1882.5.3.

親愛なテオ:

今日モーヴと嫌なやり取りをして、永久に離れ離れになったことが僕にははっきりした

この冬、僕は1人の身ごもった女に出くわし、その女をモデルに使い、女とその子供とを飢えと寒さから守ってやれた

習作を何点か君に送る。これを見れば彼女がモデルになってくれることでずいぶん助かっていることがわかってもらえるだろう。僕の素描は「僕のモデルと僕」のものだ

僕が一番欲しい紙は、身をかがめた女の姿が描いている紙だが、出来れば漂泊していないリンネルのような色をしたのがいい

 

²  ドレンテ  18839-11

18839月、オランダの東北ドレンテ地方に旅立つ。テオの説得をもっともなことと思いつつ、母子との別れ話を先へ延ばし、精根尽きて辺境の地に来た後も、彼の脳裏には彼女の幻影が現れ、女への同情のあわれみは悔恨の情を募らせる

テオは経営者との軋轢でアメリカ行きを口にしたりして兄の憂愁は不安に揺れる。もうこれ以上はやってゆけないところまできた兄は両親の元に逃れる

 

324. ドレンテ ホーヘフェーンン 1883.9.15.

親愛なテオ:

この地区の最初の油絵習作――荒野の小屋――を模した粗いスケッチを同封する

 

²  ニュネン  188312-188511

12月初め両親の家に戻るが、2年前父の呪詛に傷ついて家を出た時の感情の溝は残ったままで、父の肩を持つテオにも苛立ちの言葉を投げる

 

346. ニュネン 1883.12.15.

親愛な弟:

父さんと母さんが僕のことを本能的にどう思っているのか僕は感じでわかる。僕を家に入れることに対しては、大きなもじゃもじゃの犬を家に入れるときと同じ尻込みの気持ちがある

僕が障碍になっているのは分かっているので、君も父さんも困らせないようにする方策を何か見つける努力をしないといけない

君は僕の命を救ってくれたと僕は思っているし、それを僕が忘れることは決してない

僕としてはこの際完全な和解が得られないのでがっかりしているが、僕にはまだそれが可能ではないかと期待している。しかし、君たちみんなは僕を理解していないし、恐らくこれからも決してわかってくれそうにないなと懸念している

さて弟よ、たとえ、君と袂を分かつようなことになろうと、どんなことになろうと、僕はたぶん、君が承知しているよりも、あるいは感じ取っているよりもっと以上に君の友であること――また父さんの友でさえあること、これを知っておいてくれ。握手を

どんな場合であれ、僕は父さんの敵でも、君の敵でもない。今後も決してそれはない

R43. 1884.3.後半

親愛なる友ラッパルト:

僕の素描に何かとりえがあると言ってくれて僕は喜んでいる

 

²  アントウェルペン  188511-18862

腹の子の父親が潔白なヴィンセントに罪をきせたため、85年カトリックの神父たちから「低い階層の人たち」と親しくなり過ぎないように言われる

11月、絵の勉強の場としてアントウェルペンに移り、借りた小屋の壁いっぱいに日本版画を飾る。彼の脳裏にはレンブラントとは留守が去来するが、感銘を受けたのはリュベンス

86年からアカデミーに籍を置いて、昼は油絵を、晩は古代彫刻のデッサンを学ぶ

絵具代やモデル代に金を注ぎ込んで、過労と全身衰弱に陥り、弟に、一緒ん住んでコルモンの画塾で勉強したいと伝える

 

437.  アントウェルペン 1885.11.28.

親愛なテオ:

土砂降りの雨の中アントウェルペンを歩く。波止場の様々な保税倉庫や格納庫が素晴らしい。係船渠(ドック)や波止場沿いにいろんな仕方で歩き回る

ドゥ・ゴンクゥルの決まり文句の1つが「日本もの、万歳(ジャポネーズリ フォーエヴァ)」だった。なんとこれらの係船渠が途方もない日本趣味、それも風変わりな、独特の、前代未聞のやつだ。君と一緒にあの辺を歩きたい。同じような見方をするか知りたいから

442. 1885.12.28.

親愛なテオ:

50フラン送ってくれたことに感謝している。お陰で今月を切り抜けることができる。最も今日からまたほぼ似たような状態が始まるけれども

数点の習作が仕上がっている。僕は描けば描くほど進歩もしているように思う。金を受け取るとすぐ美しいモデルを雇って頭部の実物大の油絵を描いた

昨日は僕が知らないレンブラントの絵の大きな写真複製を見て、すごく感銘を受けた。最近レンブラントとハルスのことで頭がいっぱいだ。ここの人々の中にあの時代を思い起こさせるようなタイプの人をいっぱい見かけるからだ

僕は相変わらずよくダンス・ホールに出かける。女たちの顔、人夫たちや兵隊たちの顔を見るためだ。少なくとも僕はこの連中の上機嫌な様子を眺めて楽しむことができる

モデルを使ってたくさん制作する。これが僕のなすべきことだ。これが確実な前進の助けとなる唯一の方法だ。ともかく、絵を描くというのは人を消耗させる仕事だ

 

²  パリ  18863-18882

1886.3.1.パリに向かい、テオと一緒に暮らす。胃の障碍を抱え歯の手術

フィンセントは、コルモンの画塾に学んだお陰でロートレックやベルナールと親しくなる

テオは、自身の店を持つ計画が資金面で頓挫したこともあり、兄との生活に疲れて別居を勧められたりするが、兄が芸術家という特殊なケースであることからこのまま続けるしかなく、今彼の勉強の道を断つのは恥ずべきことと考える。問題は金ではなく気持ちが通じ合えないこと。彼の中には2人の違う人間がいるみたい。一方は素晴らしい才能に恵まれ、立派だし繊細だが、もう一方は利己的で、無情。それが交互に現れ、他人に対しても自分自身に対しても人生を難しくしている

印象派の作品に馴染んでいたヴィンセントは87年にはスーラやシニャックら点描派の展示作品に接し彼らと一緒に風景を描く。浮世絵に傾倒

1年前にゴーガンとも知り合い、マルティニック島の作品と自分の絵を交換

ベルナールやロートレックを仲間に加えた「プティ・ブールヴァール派」展を組織

 

459a. 1886.8.

親愛なリヴェンズ氏(アントウェウペンで一緒に学んだイギリスの画家)

パリの生活費は高いが、反面絵を得るチャンスは多い。他の画家たちと絵を交換する機会にも恵まれている。要するに、大いに精力を傾け、自然の色彩を真率で個性的な感情で捉えれば、多くの障碍はあるにせよ、画家はここで何とかやってゆけると言っていい

さて、僕自身がやっている仕事についていえば、モデル代に事欠く状態、さもなければ、人物画に専念していたところです

パリに来られるのであれば、どこか僕が使える間はその部屋とアトリエを共用してもよいと思っている

W1. 妹(ヴィル)への手紙 1887.夏または秋

最愛の妹へ:

君の質問に答える

テオが「とても惨めな」様子だったというが、逆に去年1年の間にずいぶん立派になった

テオがいなければ、僕も仕事の面で十分に長所を活かすことはできないだろう。友達として彼がいる以上、僕はまだ進歩するし、伸びるだろうと思う。僕の計画では、出来るだけ早く、色彩がもっと豊かで、陽光がもっと強い南方へ暫く行っていたい。でも、僕が到達したい目標はいい肖像画を描くことだ

 

²  アルル  18882-18895

18882月予定より1年余り遅れてアルルに到着すると、季節外れの大雪

この地方は明るい色彩効果のためにまるで日本版画を見ているように美しいとベルナールに便りする。春には果樹園の連作に熱中し、その中で駆使するようになった葦ペンの筆法は彼に新しい飛躍をもたらす

ラマルティーヌ広場に面した「黄色の家」を借り、近くに下宿

ゴーガンに画家協同組合の考えを伝え、アルルで一緒に暮らそうと誘い、テオは月1点の絵と引き換えに150フランを払うとゴーガンに提案し了承。10月から共同生活が始まる

ゴーガンが来る前に8月の《ヒマワリ》はじめ、自ら過度の興奮に没入し制作を加速

12月中旬、ゴーガンはテオに、2人の性格の不一致から一緒に暮らすと悶着が起きるとして、パリに帰ることを伝える。その直後、フィンセントが自らの耳を切り落とす事件勃発

 

468. 1888.3.10.

親愛なテオ:

手紙と100フランありがとう

芸術家たちが協同して絵を組合に渡し、組合が会員の生活を保障し、制作が続けられるような仕方で売上金を分配するのが一番いいやり方だ

 

B2. 1888.3.18.

親愛なベルナール:

この地方の空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しく見える

残念なのは生活が安く上がらないこと。何人か一緒ならもっと有利な条件で下宿が見つかるだろう。太陽と色彩を愛する多くの画家にとって南仏に移住すれば実際の利点はあるはずだ。もし、日本人が彼等の国で進歩しつつあるのでないならば、彼等の芸術がフランスで継続されることは確かだ

この手紙の上の部分に、今何がしかの作品にすべく専念している習作の小さなクロッキーを描いて送る

494a. 下書き 1888.5.28.

親愛な友ゴーガン:

僕は君のことをしょっちゅう考えてきたが、やっと今になって便りするのは中身のない言葉を書きたくなかったからだ

つい最近4部屋の家を1軒借りた。もし誰かが一緒にいてくれたら具合がいい。孤独が多少苦になっているが、僕らが一緒に暮らせば多分やっていけるという確信すらある

B6. 1888.6.6.6.11.

親愛な友ベルナール:

前から思っていたが、現代の絵画が完全に己の姿を現し、ギリシャの彫刻家たち、ドイツの音楽家たち、フランスの小説家たちが到達した澄み切った頂きと同じ高みにまで登るために描かれねばならぬ絵というものは孤立した個人の力を越えているだろう。だから、それらの絵は恐らく共通の考えを実現するために結び付いた人たちのグループによって創り出されるだろう。それだけになおさら芸術家たちの間の団結心の欠如が残念でならない

GAC30. P.ゴーガンの手紙 ポン=タヴェン 1888.7.25.

親愛なフィンセント:

芸術では正確さが寄与するところはあまり重要でないというあなたの意見には全く賛成。芸術は抽象だ。残念ながら我々はますます理解されなくなってきた。プロヴァンスへの僕の旅行が実現できたらいいと願っている。病気で衰弱していたけれども、最近の習作では、これまで描いてきたものを凌駕したのではないかと思っている。《ブルターニュの格闘》(格闘する少年たち)を仕上げたところだが、きっとあなたの気に入ると思う

この20日間ほど僕の頭の中は南仏でやってみようと思う絵の妄想でいっぱい

533. 1888.9.8.

親愛なテオ:

君の親切な手紙、同封の300フランありがとう

宿主の所ではいつも払いに窮して頭が上がらなかった。無駄な金をたくさん払わされた恨みを晴らすため、僕への払い戻しという意味で彼の薄汚いぼろ屋の全景を描かせろと言ってやった。宿主は大喜び、前に描いた郵便夫、客の夜の放浪者たち、そして、僕自身も上機嫌で、僕は描くのに3日間徹夜して、昼寝るということとなった

GAC32. P.ゴーガンの手紙 ポン=タヴェン 1888.9.28.

親愛なフィンセント:

僕が病気がちで、心痛からよく虚脱状態に陥り、無為の中に閉じこもることになる

絵の交換の案は気に入ったが、あなたの望みの肖像画をやるつもりだがまだだ

目下僕がそちらに行けないのを苦にしているときなのに、南仏へ来るべきだと僕に証明しようとあなたが努めるのは苦悩をさらに搔き立てるようなものだ

こちらで世話になっている人たちを捨てて出ようものなら、悪事を犯すことになって、ひどく心が乱されるだろう。だから僕は時機を待つことにしよう

僕の才能を好んでくれている弟さんがあまり高く買いかぶり過ぎているのではないかと懸念している

アルルでの生活費をあなたは計算違いしている。レストランは考えないことにして、僕なら3人分の食費を含めて月200フランで家計を賄うことを請けあう

GAC33.  P.ゴーガンの手紙 ポン=タヴェン 1888.10.2.

僕らはあなたの希望を実現した。僕らの2つの肖像画のことだ

544a. 1888.10.3.

親愛なゴーガン:

あなたの肖像画がその象徴となっている印象派全般についてのあなたの考えは衝撃的で、その作品を交換してもらうにはあまりにも重要だという気がする

僕は仕事中です裏絶えずアトリエの事を考えている。そこの定住者はあなたと僕だが、僕ら2人はそこを仲間たちが闘いの最中追い詰められた場合の避難所、逃げ込み場にしたいものだ

545. 1888.10.4.

親愛なテオ:

手紙ありがとう。ゴーガンのためにどんなに僕が喜んでいるか感謝の言葉も見つからない。(ゴーガンの陶器数点を300フランで売ったとテオが報告してきたことに対する謝礼)

今僕はゴーガンの自画像とベルナールの自画像を受け取ったところ。ゴーガンの自画像ではベルナールの自画像が壁に架かっていて、ベルナールの自画像ではその逆になっている

交換にゴーガンへ送る僕の肖像画はそれと肩を並べるものだという自信はある

僕の肖像画の中に自分だけでなく全般的に印象主義者を表現しようとする意味で、僕はこの肖像を永遠の仏陀の素朴な崇拝者である坊主の像として構想したのだ

552. 1888.10.13.

親愛なテオ:

新たに50フランの為替がこんなに直ぐ届くとは全く期待していなかった

どうも僕には出費が多い。そのため僕は時々とても心苦しい思いに駆られる

拙速のスケッチで絵の構図は分かってもらえるだろう。今週着手したカンヴァスが5点なので、30号のカンヴァスの数は15点になると思う――《ヒマワリ》2点、《詩人の公園》3点、《別の公園》2点、…………

僕は一昨日またゴーガンに手紙を書いた。ここなら恐らく病気の回復もずっと早いだろうともう一度言ってやった

557. 1888.10.24.

親愛なテオ:

手紙と50フランありがとう

電報で知らせたとおりゴーガンは元気な様子で到着した。彼はもちろん君が売り捌いてくれたのをとても喜んでいる。Gはきっと今日君に手紙を書くだろう

彼は人間として実に実におもしろい。彼と一緒なら僕らはいっぱい仕事ができるだろうと確信している。僕としては、精神的に打ちひしがれ、肉体的にへとへとになるまでやらないといけないと感じている。結局僕らの出費をいつか取り戻すには他に全く、全くてだてもないのだから

564. 1888.12.後半

親愛なテオ:

ゴーガンと僕は昨日モンプリエ美術館、とくに芸術家たちの後援者だったブリュイヤスの部屋を見に行ってきた。ドラクロワなどによるブリュイヤスの肖像画がある

ゴーガンと僕はドラクロワ、レンブラント等について盛んに論じ合っている。議論はひどくびりびりしている。ときどき議論の果てに僕らの頭は疲れてまるで放電しきったバッテリーのようになる

565. 1888.12.23.

親愛なテオ:

ゴーガンはこのよき町アルルに、僕らの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に少々がっかりしていたのだと思う。確かに彼にとっても僕にとってもここにはなお克服せねばならぬ重大な困難があるということだろう。しかし、これらの困難というのはよそよりむしろ僕ら自身の内にある。結局彼はきっぱり出てゆくことになる、さもなければきっぱり踏みとどまる、そう僕は思う。行動に移す前によく思い直し、思慮を重ねるよう僕は彼に言った。ゴーガンは非常に能力があるし、非常に創造的だが、まさしくそれだからこそ彼には安らぎが必要。ここでそれが見出せないとすれば、よそで彼はそれが見つけられるのだろうか。全く冷静な気持ちで彼が決断を下すのを僕は待っている

 

1224日、フィンセントは市立病院に収容され診察を受ける。翌日アルルを発ったテオは婚約者に、「兄はしばらくの間全く正常な様子だったかと思うと、その直後に哲学的、神学的想念につきまとわれる状態に落ち込んでしまう。その場にいるとひどく悲しい。かわいそうな闘士、かわいそうな受難者。今彼の苦しみを救おうにも何もしてあげられない」と書く

26日、ルーアン夫妻が見舞った時はひどく弱っていて気持ちが落ち込んだ状態

病院は彼を精神病院に移す意向だが、彼は自由を奪われていることに憤慨

1月初め退院、猛烈に描き始めるがひどい疲労となって、2月初め再入院、隔離室に入れられ、毒薬を盛られるという妄想が続き、幻聴も出て、一時帰宅するがまた市民の請願書もあって月末には病院に収容

4月にはテオが結婚、フィンセントはサン=レミの精神病院に移ることを考慮中

 

570. 1889.1.9.

親愛なテオ:

君の手紙より先に君のフィアンセから通知を受け取った。お祝いを繰り返す

今朝また包帯を取り替えてもらいに病院に行った

ゴーガンがまた熱帯に行くという計画を放棄しなかったことを君から聞いてとても嬉しかった。彼にとっては正道だ。彼の計画には光明が見えるような気がする。僕の方は残念だが、彼にとっていい具合に運びさえするなら、それこそ僕の望むところ

GAC VG/PG 1889.1.22.

親愛な友ゴーガン:

手紙ありがとう。黄色の家に1人ぼっちで残されていささかやりきれない思い無きにしも非ずです

今僕は後悔しています――あなたにここへ残って情勢を待つようあれほど懇願し、そのために色々立派な理由を持ち出した僕ですが、今ではきっと僕があなたの出発を決定付けてしまったのではないかと後悔しています

何はともあれ、僕たちはお互い同士好きなのだから、残念ながら相変わらず蓄えもない我々芸術家のこと、文無しでそうした手段が必要となった場合、いざとなればもう一度やり直すことはできると思っています。お手紙の中で僕の画作の1枚、黄色のヒマワリを入手できれば嬉しいとの意向を持っておられる。僕にとってのヒマワリは特別で、あの絵を選ばれたあなたの理解を称えて、まったく同じようなのを2枚描くよう努力します

あなたの持ち物は発送するつもりですが、時々まだ虚脱感に襲われるので、あなたの品物を返送する仕事に手をつけることすらできないでいる

588. 1889.4.30.

親愛なテオ:

51に日に際して(テオの誕生日)、これからの1年の健康を祈る

目下の僕は有り余る体力に恵まれている感じがする

サン=レミでは僕が施設の外で絵を描くことは許されないが、外人部隊に任期5年の志願をすれば狂人の生活を送りながら月100フラン支給してくれる。制作もせずに閉じ込められているのなら治るのも難しくなるだろう

送る荷の中で木枠に入れるだけ価値あるのは以下の通り; 緑のブドウ畑、ゴーガンの肖像

T6 テオからの手紙 パリ 1889.5.2.

親愛なフィンセント:

体力が有り余るというのはよかった

外人部隊に入るという計画は賛成できない。サン=レミの施設の監視が既に心配というのなら軍隊生活のしきたりはなおさら危惧すべき。そうした考えが生まれるのは僕に出費や心配をかけさせることを極度に恐れるからで、君は無益に難問を作り出している。去年は僕にとっては金銭面では悪くなかったので、僕に迷惑がかかるわけでなし、遠慮なく以前通りの送金は当てにしてくれてよい

何かを創造するのが君の望みだったのではないか。君にはこれだけの仕事をする機会が与えられたとすれば、どうしてまたいい仕事がやれる時が来ないなどと絶望することがあろうか。現在どんな社会が悪かろうと、そこで生きる方途はある。君がその気になれば近いうちに君は仕事にまた取り掛かれるだろうと僕は信じている。もっと元気を出してくれ。君の厄災はきっと終わるだろう

 

²  サン=レミ  18895-18905

5月、サン=レミの精神病院に転院。院長の初見は、幻覚、幻聴を伴う激しい神経発作で耳を切り落としたが、現在正気に戻っている。ただ自立して生活する自信がない。発作はてんかん性。悪夢が次第に少なくなっている、とある

鉄格子の窓から眺めた景色を描く。アルルのヒマワリに匹敵するモティーフは糸杉やオリーヴの樹々で、多産だが、あまりにも根を詰めた制作ぶりにテオが心配

制作中に発作が起きることも

9月のアンデパンダン展には、《イチハツ》と《星の輝く夜》が出展

翌年1月にはテオに男児誕生、誕生祝に《花咲くアーモンドの枝》を描く

3月のアンデパンダン展には10点出展、人々の注目を浴びる。ゴーガンは《峡谷》を自分の作品と交換したいとテオに申し入れ

調子が戻ると北仏に帰りたい思いが募る

 

592. 1889.5.22.

親愛なテオ:

ゴーガンが受け取りたいというなら、枠に入れていない《ラ・ベルスーズ》(「揺りかごを揺する女」の意でモデルはルーラン夫人)の写しの1点、ベルナールにも1点友情の印としてあげて欲しい。でももし彼がヒマワリの絵を欲しいという場合は、君が同じように好きだと思う絵を交換に彼がくれる、それこそが絶対公正な話だ

僕は本当にここで調子がいいし、目下のところパリかその周辺の下宿に移る理由は毛頭見当たらない。仕事用の部屋ももらっている

GAC37. P. ゴーガンからフィンセントへの手紙 1889.11.8.

長期にわたって回復され、仕事ができるようになっておられること喜ばしく思う

長いことブルターニュに来ているのであなたの近作を見ることができずにいるが、同僚からの手紙では、あなたの近作が実際大したもの、まことに芸術的、その上他の作品よりもっと想像力豊かであると記してあった

デッサンに関して2人で交わした会話をあなたが忘れないでいることは僕にとって嬉しい

 

²  オーヴェール=シュル=オワーズ  18905-7

1890年、サン=レミを発ってパリに向かい、オーヴェールの安宿を探して投宿し描き始める。ガッシュ医師一家とも交流

テオは独立を画策するが、色々と立ちはだかって実現しない

7月、フィンセントからテオ宛てに理解に苦しむ便りがあった。手紙には制作中の絵のスケッチが3,4枚同封されているが、美しい絵のようだ。テオは、「彼の絵を買ってくれる人が見つかるといいのだが、まだ長い時を要するのではないか。彼が懸命に、実によく仕事をしているときに彼を見放すわけにはゆかない。いつになったら彼に幸せな時が訪れるのか」と妻宛てに書く

27日午後、一人で麦畑に行って拳銃を胸にあてて引き金を引く。気を失い、夜気で目覚めて家に戻ったが、ガッシュが呼ばれて、弾丸が背骨の辺りで止まっていて手術は困難と判断。翌朝テオが駆けつけると喜んだが、29日深夜息を引き取る

 

W22. 1890.6.5.

親愛な妹(ヴィル):

君が病院で病人の世話をしているとはとても興味深く思った

僕の方は北へ戻ってきたことでとてもせいせいした。ガッシュ医師のうちにもう完全な友人を、また新しい兄弟であるかのような何かを見出した。それほど僕らは身体的にも精神的にも似かよっている

641a. 1890.6.12.

母上様:

ニュネンに行かれて、いろいろなものに再会して、それらが「以前あなたのものであったことを感謝している」ように見えた――それで今はそれらすべてを安心して他の人たちに委ねる心境だと書いておたれるのに心を打たれました

僕にとって人生は孤独のまま続くのかもしれません。自分が何より愛着を感じていた人たちのことも、その面影を僕は、わけは謎ながら、まるで鏡を通してかぎ分けるしかないありさまです

それでも、この頃時々僕の仕事に一層調和が出てきたことにはちゃんとわけがあります。絵の仕事はそれ自体ひとかどの何かです。この仕事がまるで理解されないということになっても、僕は時として精一杯努力しているのです。それは僕にとって自分の過去と現在を結び付ける唯一の絆となっています

W23. 1890.6.12.

親愛な妹:

テオ一家が訪ねてきてくれた。彼らから遠くないところに住んでとてもうれしい気持ちだ。ここ何日かたくさん手掛けて速く描いている。こうすることによって現代生活の中で物事がどうしようもなく急速に過ぎ去ってゆくさまを表現しようと努めている

ガッシュ氏を描いた。現代の頭部像の中に、これから長い間眺められるかもしてない、また100年後には多分懐かしく思われるようなものはある。もし、僕がいまのような知見を備えていて10年若かったら、どんなにそうしたものと取り組む野心に燃えたことか。今の状態では僕には大したことはできない

643. 1890.6.17.

親愛な友ゴーガン:

毎日あなたのことを考えています。あなたの素描に厳密に基づいて描いたアルルの女の肖像があなたの気に入ったとのこと僕は非常にうれしい

こう言ってよければ、これはアルルの女の1つの総合だ。あなたと僕の作品、つまり僕らが一緒に仕事をした月日の総括と思ってほしい。僕はこの絵があなたや僕に分かるだけでなく、僕らがそう願っているごく少数の他の人たちから理解されるだろうということも知っている

僕があちらでやった最後の試みとして1本の糸杉と星ひとつの絵があります。この絵やほかの風景やモティーフなどプロヴァンスの思い出となるものをエッチングに彫るだろうから、その時は多少意図的な、凝った全体の総括といったやつをあなたに進呈するのを楽しみにしています

あなたがブルターニュに戻ると知ってとてもうれしい。あなたの許しがあれば、そちらへ行って1か月ほどあなたとまた一緒に暮らせる見込みは大いにあります。そうした日々には、僕たちが向こうであのまま続けられたら恐らくそんな結果になったと思われるような何か表現意図を込めた荘重な作品を作るよう一緒に努力したいものです

T39. テオからの手紙 1890.6.30.7.1.

最愛の兄へ:

子供は快方に向かっているので僕らも喜んでいる。牛乳の飼料と乳牛の取扱に問題があったようで、、全くぞっとする

新入社員みたいに不如意な状態に留め置かれるのであれば、しっかり勇気を出してお互いの愛情とお互いの敬意を支えにみんなで生きてゆけばちゃんと出世できる

僕を一番喜ばせること、それは君が元気でやっていて、素晴らしい君の仕事に取り組んでいることだと知っていてほしい

649. 1890.7.10.

親愛な弟と妹へ:

(テオが義兄とともに自営の道を選ぶ計画について、2人の妻たちの反対で意見が分かれたことを心配)ここに帰って来て、僕もまだとても悲しい思いをしていたし、君たちを脅かしている嵐が僕にもまた重くのしかかってくるのをずっと感じ続けていた

僕はいつもは結構機嫌よくしていようと努めている。しかし、僕自身の人生は根底そのものから脅かされ、僕の足どりもよろめいている。僕は自分が君たちの重荷になっていて君たちにはおびえられる存在ではないかという危惧を感じてていた

あれから、絵筆がほとんど手から落ちそうだったが、それでも自分の望むものはよくわかっていたので、さらに3点の大きなカンヴァスを描き上げた。それらは不穏な空の下の果てしない麦畑の広がりで、僕は気兼ねせず極度の悲しみと孤独を表現しようと努めた

650. 1890.7.10.7.14.

親愛な母と妹へ:

現在、僕は自分が去年よりもっと落ち着いたように感じています。実際頭の中の不安動揺も全く大いに鎮まってきています

僕の方は丘を背景にした小麦畑の果てしない広野にすっかり心を奪われています。僕はほとんどあまりにも大きすぎるほどの静けさの気分、こうしたものを描くのにふさわしい気分にすっかりなりきっています

652. 1890.7.24.(冒頭の余白に「彼がその身に保持していた手紙、729日」とテオが記す。これを書き改めた書簡651.がフィンセントの最後の手紙)

親愛な弟:

(テオの自営計画に対し決定的瞬間に義兄が妻の反対で身を引いたことを聞かされていた)

みんながもっと平静な頭で問題を話し合う機会が持てるようになるには、恐らく時間がかかるだろう

いつも僕が君に言ってきたことだが、出来る限り最善を尽くそうとひたすら精魂込めて考えてきた努力がものをいう全く真剣な話としてもう一度君に言っておく――君はコロー作品の単なる商人とは別の存在だ。絵の制作そのものに参加しているのだ、いつも僕がそう考えていることを重ねて言っておく

さて、僕自身の仕事だが、僕はそこに自分の命をかけ、僕の理性はその仕事で半ば崩壊した。しかし、君は僕の知る限り世間一般の商人ではない。また、君は本当に人間味を持って行動する仕方で自分の立場を選ぶことができる、僕はそう君を見ている。しかし、どうしたらいいのだ

651. 1890.7.24.

親愛な弟:

君の家庭内の平和の状態については僕は平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐も同じように納得できる。確かに僕としては一方と他方の不確定な議論の中でその是非に深入りしたところで何の役にも立たないと思う。ともかく僕の関与することではあるまい

僕に関しては、今すべて注意を集中して自分の絵に没頭している。僕は大好きで感服してきた何人かの画家たちと同じようにいいものを描こうと努めている

こちらに戻ってきて僕が感じたこと、それは画家たち自身がますます窮地に陥っているということで、組合の有用性を彼らに理解させようと努力する時期はもうちょっと過ぎ去ってしまったのではないか

君は印象派のために画商たちが連携するというかもしれないが、これだってまさしく一時的なものだろう

ゴーガンのブルターニュ作品を見て、とても美しかったのが確かめられてとてもうれしい

 

編者あとがき
1990
年、ゴッホ美術館とクレラ=ミュラー美術館で開かれた破格の大展覧会を始めとしてオランダ各地でゴッホ没後100年記念の様々な催しがあった

同年、南仏エックス=アン=プロヴァンスではセザンヌの作品を軸としたサント=ヴィクトワール山の自然と文化を再発見する行事が展開された

その前年にはパリのグラン=パレで長蛇の列を生むゴーガンの大きな展覧会が、95年には同じ会場でセザンヌの作品が多くの人々の心を惹きつけた

展覧会場では世界各地から幅広い観客が集まり、ゴッホが自分の肖像画は100年後の人々の目に突如の幻の出現として映るだろうと書いた手紙の文句を思い起こさせた

ゴッホ書簡と画集を兼ねた初期の代表的な大型単行本は1911年にヴォラールが出した『エミール・ベルナールあて書簡集』で、195254年には生誕100年に因むオランダ版全集4巻が刊行。さらに没後100年には新しいオランダ語版全4巻の全集が刊行された

本書は、1990年版から編者が選んだもので、圀府寺氏は書簡169320の翻訳を分担

これまで「神話化」されてきたゴッホの伝記を修正する研究が近年発表されている

父親がフィンセントを精神病院に入れようとした「ヘール事件」はこの選集にも挿入

売れない画家の兄は弟に依存したが、弟は兄の仕事を共同で進めるという一体感を強めてゆく――軋轢と感謝、不満と感動を縒()り合わせる絆の物語がこの書簡集で、これほど自分の気持ちをさらけ出す文章は滅多にない

社会のしきたりと型にはまらないフィンセントは親を困らせた。彼が描く木の根は人間の根に繋がる。彼の根元(ラディカル)志向は人間が自然に寄生して生き、やがて土と化してゆく現実をまっとうなこととして受け入れる

セザンヌもゴーガンも自然と都市文明の落差を敏感に意識したことでゴッホと共通するだろうが、日々の仕事、自然から受ける感動、女性や貧しく、恵まれぬ人々やすぐれた人物の仕事への関心などを長文で語る日録さながらのゴッホの書簡集はドキュメントとして、また記録文学として抜群の価値を持っている。彼が浮世絵に強い関心を抱いた事だけでなく、1莖の草から宇宙に及ぶ自然への没入が日本の芸術家に見られるとして、その賢者を理想と考える面でも日本の読者はゴッホになお深い親近感を覚えるのではなかろうか

 

 

 

 

「面倒くさい」ゴッホの書簡選集、19年ぶりに新訳出版

田中ゑれ奈

20201022 1000分 朝日

写真・図版ファン・ゴッホ美術館編、圀府寺司訳「ファン・ゴッホの手紙=新潮社提供

 

 西洋美術史が専門の圀府寺(こうでら)司・大阪大学教授は、現存するだけで800通あまりもの手紙を書いたことで知られるゴッホの研究の第一人者だ。日本では19年ぶりの新訳となる書簡選集「ファン・ゴッホの手紙」(税別18千円)を今月20日、新潮社から出した。

 今も流通している最初の書簡全集は、ゴッホの義妹の手で都合の悪い記述が削除されていた。オランダのファン・ゴッホ美術館は2009年、専任スタッフ3人がかりで15年かけ、手紙の日付から言及された美術作品、引用元まで徹底的に洗い直した改訂版を出版した。「ある種の世界遺産。ちゃんと伝えておきたい」と実は嫌いな翻訳作業に腰を上げ、特に重要な265通を6年がかりで訳した。

 小難しい聖書の引用、へりくつこねて金の無心、女に振られて恨み節。そんなプライバシーの塊が「歴史の女神の手違い」で、燃やされず残った幸運に思いをはせる。

 ゴッホが自殺した時、持っていた手紙がある。「ぼくらはぼくらの絵に語らせる以外には何もできない」と書かれたその書きかけの手紙は、ゴッホ美術館が選んだ265通には入らず、ゴッホが書き直して投函していた別の手紙が選集の結びとなった。

 「本人に出す意思のなかった手紙は選ばなかった。日本人の感覚だといかにも物語の終わりにふさわしいが、彼らは学問的にドライに、私情を挟まず判断していた」

 手紙の大半は、画家の生涯を献身的に支えた弟テオ宛て。訳者をも苦しめた面倒くさい手紙の数々を「一回、テオになったつもりで読んでみて」。(田中ゑれ奈)

 

 

2020.11.11. 朝日 好書好日

「ファン・ゴッホの手紙」19年ぶり新訳 へりくつや恨み節プライバシーの塊

 西洋美術史が専門の圀府寺司(こうでらつかさ)・大阪大学教授は、現存するだけで800通あまりもの手紙を書いたことで知られるゴッホの研究の第一人者だ。日本では19年ぶりの新訳となる書簡選集『ファン・ゴッホの手紙12』(新潮社)を出した。

 今も流通している最初の書簡全集は、ゴッホの義妹の手で都合の悪い記述が削除されていた。オランダのファン・ゴッホ美術館は2009年、専任スタッフ3人がかりで15年かけ、手紙の日付から言及された美術作品、引用元まで徹底的に洗い直した改訂版を出版した。「ある種の世界遺産。ちゃんと伝えておきたい」と実は嫌いな翻訳作業に腰を上げ、特に重要な265通を6年がかりで訳した。

 小難しい聖書の引用、へりくつこねて金の無心、女に振られて恨み節。そんなプライバシーの塊が「歴史の女神の手違い」で、燃やされず残った幸運に思いをはせる。

 手紙の大半は、画家の生涯を献身的に支えた弟テオ宛て。訳者をも苦しめた面倒くさい手紙の数々を「一回、テオになったつもりで読んでみて」。(田中ゑれ奈)=朝日新聞20201111日掲載

 

 

みすず書房 HP 

ファン・ゴッホの没後100年を記念して、全4巻からなる新しいオランダ語版の書簡全集が1990年に刊行された。これまでに刊行されてきたファン・ゴッホの書簡集は一部に削除、省略、伏せ字などがあったが、近年それらが開示され、原文の綿密な解読作業による修正もなされてきている。この日本語版の一巻本選集は、この面目を一新した書簡全集の全貌を簡潔なかたちで日本の読者に示そうとして編者が新たに編んだものである。また、アルルでの共同生活前後のゴーガンの手紙もこの選集のなかに組み込まれている。

「これまで〈神話化〉されてきたファン・ゴッホの伝記を修正する研究が近年発表されている。父親がフィンセントを精神病院へ入れようとした〈ヘール事件〉その他、これまで伏せられてきた文章は公刊されてこの選集にも入れられている……売れない画家の兄は弟に依存したが、弟は兄の仕事を共同で進めるという一体感を強めてゆく——あつれきと感謝、不満と感動を縒り合わせる絆の物語がこの書簡集である。これほど自分の気持をさらけだす文章はめったにない。

セザンヌもゴーガンも自然と都市文明の落差を敏感に意識したことでファン・ゴッホと共通するだろうが、日々の仕事、自然から受ける感動、女性や貧しく、恵まれぬ人びとやすぐれた人物の仕事への敬意などを長文で語る日録さながらのフィンセントの書簡集はドキュメントとして、また記録文学として抜群の価値をもっていると思う。また彼か浮世絵に強い関心を抱いたことだけでなく、一茎の草から宇宙に及ぶ自然への没入が日本の芸術家に見られるとして、その賢者を理想と考える面でも日本の読者はフィンセントになお深い親近感を覚えるのではなかろうか」。(編者あとがき)

 

《没後130年》記念出版
ファン・ゴッホの手紙 I・II

Vincent van Gogh
The Essential Letters
I・II
2020
1020日発売

 

『ファン・ゴッホの手紙 I・II』ファン・ゴッホ美術館/編、圀府寺司/訳

【ファン・ゴッホ美術館公式編集】

近代美術史上、もっとも重要な位置を占めつづける芸術家、ファン・ゴッホの独自の思想に触れたいと望むすべての読者のために、最新研究の成果が詰め込まれた21世紀の決定版書簡選集。

現存する903通の手紙の中から、ファン・ゴッホの芸術観や制作意図を知るために必要不可欠な265通をファン・ゴッホ美術館の専門スタッフが精選。

日本におけるファン・ゴッホ研究の第一人者、大阪大学の圀府寺司教授による、約20年ぶりの新訳。

手紙に添えられたスケッチ約100点をオールカラーで収録。

A5判 I巻544頁 II576

美麗な函入り2巻セット 定価 18,000円(税別)

 

702  アルル 一八八八年十月十七日 水曜日
ポール・ゴーギャン宛[仏語]

ゴーギャンへ
 お手紙ありがとう。また、二十日にはもう来られるとの約束、本当にありがとう。たしかにあなたが言うような事情があれば、鉄道での旅も気持ちいいものにはならなかったでしょうし、つらい思いなどせずに旅行できるようになるまで予定を延ばしていたのもうなずけます。でもそれはさておき、この旅行の途中、あなたがいろんな地方、そのさまざまな自然のすばらしい秋景色を見てこられると思うとうらやましいように思います。
 前の冬、僕がパリからアルルに来る旅の途中に感じた心の高まりは、今もしっかりと記憶に刻まれています。「もう日本に着いたか」と、どれほど待ちわびていたことでしょう! まるで子供みたいですが。
 ところで先日書いたように、妙に眼に疲れを感じていました。それで二日半休んで、また仕事を始めました。でも、まだ戸外に出る自信はないので、ずっと装飾のために僕の寝室を描いた三〇号の絵をやっていました。ご存知、白木のベッドのある寝室で、この何もない室内を描くのは、それはもうとても楽しいものでした。
 スーラ風のシンプルさ。
 平坦な色調ながら粗い筆づかいで厚塗りしてあります。壁は淡いライラック色、床は混色して褪せた感じの赤、椅子とベッドはクローム・イエロー、枕とシーツはとても淡い黄緑、ベッドカバーは血のような赤、洗面卓はオレンジ、洗面器は青、窓は緑。ご覧のようにとても多様な色調を使って、僕は絶対的な休息を表現したいと思いました。そして黒い枠の鏡の中にわずかに白があるだけ(こうして絵の中にさらに四つめの補色の組合せを放り込んだ)。
 まあ他の絵も合わせて見てもらった上で話ができればと思います。なにしろほとんど夢遊病者みたいに描いていて、自分がどんなものを描いているのか分からなくなることもよくあるので。
 寒くなり始めています。特にミストラルの吹く日は寒い。
 冬でも明るくできるように、アトリエにガス灯を付けてもらいました。
 もしあなたがミストラルの吹く日に来たら、たぶんアルルに幻滅するのではないかと思いますが、すこし待って下さい……ここの詩情を感じられるまでにはすこし時間がかかるのです。
 この家はまだそれほど居心地良くないと思われるかもしれませんが、少しずつ良くしていけばいいでしょう。出費が多くてそんなに一気にはできませんので。ともかく、ひとたびここに来てもらえれば、僕同様あなたもミストラルの合間に秋の効果を猛烈に描きたくなることでしょう。そして、なぜ好天の日が多い今のうちにこちらに来るよう僕が勧めたかも分かってもらえることでしょう。ではまた。

あなたのフィンセント

 

 

Wikipedia

フィンセント・ファン・ゴッホの手紙(てがみ)では、画家フィンセント・ファン・ゴッホ18533301890729日)が弟テオやその他の家族・友人らとの間で交わした手紙について述べる。

l  成立[編集]

ゴッホ美術館によれば、ゴッホが書いた手紙で現存するものは819通あり、そのうち弟で画商だったテオドルス・ファン・ゴッホ(通称テオ)に宛てたものが651通、さらにそのうちテオとその妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲ(ヨー)の2人に宛てたものが83通である[1]。その他の宛先には、画家アントン・ファン・ラッパルトエミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(通称ヴィル)などがいる[2]

一方、ゴッホが受け取った手紙は83通残っており、うち39通がテオからのもの、2通はテオとヨー連名のものである[1]

ゴッホの最初の手紙は、1872929日、テオに宛てたものであった。当時、ゴッホは19歳で、画商グーピル商会ハーグ支店で働き始めてから3年がたっていた[3]。この夏、まだ学生だったテオがハーグの兄のもとを訪れ、その直後にゴッホが手紙を書いた時から、2人の間の手紙のやり取りが始まった[4]。ただ、最初の3年ほどは、仕事のことなど決まりきった内容が多く、比較的短いものが多かった[3]

1875夏に、ゴッホはキリスト教に関心を抱くようになり、手紙はや宗教書からの引用が急激に増える。この頃、聖書のコリントの信徒への手紙二から「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり」という引用をしているが、彼はその後もこれをモットーのように繰り返している。イギリスラムズゲート、そしてアイズルワースに移った1876春には、長大な手紙が書かれるようになった。しかし、その後アムステルダムでの神学部受験勉強の失敗、ボリナージュでの伝道活動の失敗により聖職者になる道が閉ざされると、1879からは宗教書からの引用は一気に消え去った[5]1870年代終わり頃からは、手紙はゴッホにとって感じたこと、考えたことを表現する手段という意味合いを持つようになった。また、ゴッホにとって、テオが、家族の中での唯一の理解者として位置づけられてくる[6]

1880年頃、画家になることを決意してからは、ゴッホの手紙の中での関心も専ら絵に向かう。そして、テオや、ラッパルト、ポール・ゴーギャン、ベルナールらに対して書かれた手紙からは、ゴッホが最初に素描に専念したこと、新たな画材を試みたこと、構図や正確な描写に苦労したこと、読書、他の芸術家との触れ合いや美術館への訪問などから刺激を受けたこと、色彩についての考え方、南仏でのアトリエの構想など、画家としての成長過程を詳細に知ることができる。一方で、衣食住など彼の日常の生活ぶりについては、情報が少ない[7]

l  保存状況[編集]

テオは、兄からの手紙を含め、大量の書類を捨てずに保管しており、それは、1891にテオが亡くなった後は、妻ヨー、そして息子フィンセント・ウィレムに相続されてから、ゴッホ財団に引き継がれ、現在、ゴッホ美術館に保管されている[8]

もっとも、失われたと思われる手紙もある。18798月から、家族間の手紙が急激に減っており、テオがこの時期は手紙を保管していなかったか、捨ててしまった可能性もあるが、ヤン・フルスケルは、この時期のゴッホと家族との争いを露わにしすぎるという理由で隠滅された可能性があると考えている。1880は、父がゴッホをヘールの精神病院に入れようとした時期である。1883初頭の手紙も失われているとみられる[8]

他方、ゴッホは、自分が受け取った手紙を余り保存しておらず、捨てたり燃やしたりしてしまっているものが多いようである。ゴッホ宛の書簡で残っているのは83通しかない。特に、パリ時代以前の手紙は数通しか残っておらず、77通は晩年2年のもの、そのうち65通は188812月の発作以降のものである。18894月末以降は、テオとヨーからの手紙がほぼ完全に残っていることから、ゴッホは、この頃、手紙を取っておくことに決めたものと思われる[8]

手紙の中に、「手紙をありがとう」、「……からの手紙を受け取った」、「……に手紙を送った」といった言及があるものがあり、これらの表現を手がかりにすると、現存する902通(ゴッホ発819通、ゴッホ宛83通)のほかに、ゴッホが書いた手紙約290通、受け取った手紙約550通があったと推定される。これを合計すると約1750通となる。このほかに、言及されないまま失われた手紙がどの程度あるかは分からない[8]

l  刊行史[編集]

1期書簡集の成立まで[編集]

ヨーによる刊行準備[編集]

テオは、兄から受け取った手紙を保存したまま、18911月に亡くなった。その未亡人ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(通称ヨー)[9]は、同年1114日の日記に、テオが遺したのは、2人の間の子供だけではなく、フィンセントの作品を評価されるものにするという仕事だという決意を書き残している。そして、その間もなく後、手紙の刊行に向けて準備を始めた[10]

189212月から18932月にかけてアムステルダムで行われたパノラマ展のカタログには、ゴッホの書簡からの短い抜粋が掲載された。18938月には、ベルギーオランダ語美術誌『今日と明日オランダ語版)』誌に、これより長い抜粋が掲載された[11]

l  ベルナールによる雑誌への発表[編集]

ゴッホが1890年に死去してから間もなく、ベルナールは、ゴッホから受け取った手紙の公刊に向けて動き始めた。彼は、1891、『現代の人々フランス語版)』誌にゴッホを紹介する記事を書き、その中で、ゴッホから受け取った手紙の刊行は「斬新さと訴求力をもったものになるだろう」と書いている[12]。そして、18934月から、フランスの『メルキュール・ド・フランス』誌上で彼の小伝とともに手紙を少しずつ発表し始めた[13]。最初の4回は4月号から7月号まで毎月掲載された。ベルナールは18921231日に、編集の苦労についてヨーの兄アンドリース・ボンゲルに宛てて「手紙の一部を写したが、とても時間がかかり骨の折れる作業です。書きかけの文を補ったり、不可解な迷路の間を縫って考えを追ったりしなければならないことがしばしばです。」などと書いている。ベルナールは、この時、(1)17世紀のオランダ絵画、(2)新しい絵画、(3)ゴッホの作品と制作状況についての記述、(4)ベルナールの作品に対するゴッホの反応、(5)宗教・社会に対する考え方という5つのテーマに沿って手紙を選んだ。ベルナールは、この時の連載では手紙の抜粋のみにとどめ、「表現がきつく感情を害しかねない部分は採録せず、私自身に関わる部分は公表せず、また当時の友人たちのイニシャルだけを載せることにした」と後に説明している。掲載の順序もランダムにし、私生活の状況は分かりにくいようになっていた[12]

続いて18938月から18952月まで、『メルキュール』誌には、テオ宛ての書簡の抜粋が掲載された。これはベルナールがヨーから借り出したものである。手紙の掲載は、中断を挟みながら、18978月まで続いた[12]

『メルキュール』誌という権威ある雑誌での掲載は、前衛美術に関心のある読者に大きな反響を呼んだ。そして、フランス以外にも翻訳されて紹介された[12]。ドイツでは、ブルーノ・カッシーラーが、美術誌『芸術と芸術家ドイツ語版)』の19041905の号で、絵画作品とともに、『メルキュール』誌と『今日と明日』誌に掲載された書簡のドイツ語訳を掲載した。そして、1906にはアンソロジー的に編纂された単行本を出版し、一般の人々にもゴッホの名を知らせる役割を果たした[14]

l  ラッパルト宛書簡の公表[編集]

オランダ時代に交友があった画家アントン・ファン・ラッパルト

ゴッホがオランダ時代に交流を持った画家アントン・ファン・ラッパルト1892年没)に宛てた手紙は、1905年、オランダの月刊誌Kritiek van Beeldende Kunsten en Kunstnijverheid誌で公表された[15]

l  1期書簡集の成立[編集]

ベルナールによる書簡集(1911年〉[編集]

パリ画商アンブロワーズ・ヴォラールは、『メルキュール』誌での書簡の紹介から15年余りを経て、完全な書簡集を出版しようという企画を立て、19101月、彼はベルナールと契約を結び、1911、これを出版した。この書簡集は、手紙そのものに割り当てられたのが80ページ余りであるのに対し、前書き部分が70ページを占めるものであった。前書き部分には、ベルナールがこの版のために執筆した「序文」に加え、『メルキュール』誌に掲載されたベルナール宛とテオ宛それぞれの序文、計画倒れに終わった書簡集のために書かれた1895年の序文、そして『現代の人々』誌に掲載されたゴッホについての追想文が収録されている[16]。そして、手紙22通と、写真図版100点が収録されている[17]

ベルナールは、「序文」の中で、ゴッホの手紙を修正を加えずにそのまま採録したと書いているが、実際には、名前がイニシャルや仮名で置き換えたり、下品な言葉を伏せ字にしたりしているところがある[16]

l  ヨーによる書簡集(1914年)[編集]

1914、ヨーが、フィンセントの手紙を3巻にまとめた書簡集Vincent van Gogh, Brieven aan zijn broederを刊行した。基本的には、フィンセントからテオに宛てられた書簡で構成され、1889年の結婚後はヨー宛の書簡も含まれる。また、両親宛の書簡、母宛の書簡も若干含まれる[18]

ヨーは、その序文の中で、夫テオがパリのアパルトマンの引出しにフィンセントの手紙を遺したこと、テオは出版を志したが実現を見ずに亡くなったこと、その後約24年が経ったが、それは解読と整理に時間を要したためであるとともに、フィンセントが画家としての正当な評価を受ける時期を待ったためでもあることなどを記している[18]

手紙は、ゴッホが過ごした場所によって時期が分けられている。言語は、ゴッホが書いた言語のまま収録されている。そのため、最初の2巻はオランダ語、第3巻は、パリ時代から始まるため主にフランス語となっている[18]

ただし、この書簡集は手紙の順序や日付が間違っている場合があることが研究者によって指摘されており、ヨーが人名をイニシャルに変えたり、都合の悪い箇所を飛ばしたり、インクで塗りつぶしたりした形跡もある[19]

ヨーと出版社(De Wereldbibliotheek 社)との契約は1911118日に結ばれ、当初は、1912にドイツ語版出版と時期を合わせて出版される予定であった。それが、1914年までずれ込み、2100部が印刷された。出版費用は、ヨーの自費であった[18]

そして、同じ1914年、ブルーノ・カッシーラーのいとこ、パウル・カッシーラーが、ヨーの書簡集のドイツ語訳を出版した[20]

l  旧完全版まで[編集]

ゴッホは、1920年頃までに各国で受容評価され、書簡集も翻訳出版された。イギリスでは1913年、ドイツ語でのカッシーラー版に基づきアンソニー・ルードヴィチ英語版)が一部を翻訳し出版。

日本で最初にゴッホの手紙を紹介したのは、児島喜久雄が『白樺』(19112月以降から)に「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」を掲載紹介(ドイツ版から訳出[21])で、単行判は木村荘八が、1915年に『ヴァン・ゴォホの手紙』(洛陽堂、ルードヴィチ英訳版での訳出)を出版。戦後は林秀雄が、『ゴッホの手紙』を1950年の『藝術新潮』創刊号から連載した(新潮社、新版は新潮文庫1953年に第4読売文学賞を受賞)。

1921年にドイツ語版・ヴォラールのベルナール宛書簡集が出版された(1928年に再版)。1924年にヨー編纂のオランダ版書簡集。翌25年にヨーは没したが、ドイツ語版の再版には、ヨーの息子・フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホによる序文を収録し、伯父フィンセントの作品と手紙を普及周知させるため[22]ヨーが行ってきた努力が紹介されている。

イギリスでは、ゴッホの評価紹介が遅れ、1927年に初めて本格的な英語版書簡集が出版された。1938年美術史家ダグラス・クーパー英語版)の編集で、ベルナール宛書簡集の英訳版が出版された。クーパーは、ヴォラール版を用いず、オリジナルの原稿から訳出を行うとともに、初めて書簡集に学術的な立場から注釈を付した[22]

また、テオ、ベルナール、ラッパルト以外の人物(ポール・ゴーギャン、ジヌー夫妻、ポール・シニャックジョン・ピーター・ラッセルなど)に宛てた書簡も、散発的に公表されていった[21]

フィンセント・ウィレムは、1932年父テオからフィンセントに宛てて1888年から1890年にかけて送られた手紙41通を、Lettres à son frère Vincentとして刊行し、1100部が刷られた。フランス語での出版であった。その中には、ヨーがフィンセントに送ったものも含まれている[23]

1936年、ゴッホのラッパルト宛書簡が、ニューヨークで、Letters to an artist. From Vincent van Gogh to Anton G.A. Ridder van Rappard 1881-1885というタイトルで翻訳出版された。続いて1937年、オランダでも、ラッパルト宛書簡がBrieven van Vincent van Gogh aan Anthon G.A. Ridder v. Rappard 1881-1885で出版された[23]

l  旧完全版(1952-54年)[編集]

1924年に再版されたテオ宛書簡集(ヨー版〉のオランダ版は、194111月に品切れとなった。出版社であるDe Wereldbibliotheek社は更なる再版を望んでいたが、戦争のため断念した。第二次世界大戦後、フィンセント・ウィレムは、ゴッホの生誕100年を機に、それまで公表された全ての書簡を一つにまとめる構想を抱いた。その結果、1952から1954にかけて、オランダで当時の決定版といえる全4巻のゴッホ書簡集Verzamelde brievenが発行された(旧完全版)。そこでは、テオ、ベルナール、ラッパルトなどあらゆる人との手紙のやり取りが網羅されており、ゴッホが書いたオリジナルの言語(オランダ語、フランス語、一部英語)で印刷されている。主にニューネン時代に書かれた、日付がないか書きかけのテオ宛の手紙21通、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(ヴィル)宛の手紙22通など、それまで未発表だった手紙も収録されている[24]

1巻から第3巻までは、フィンセントからテオ宛の手紙が収録されており、ヨー版書簡集で付された書簡番号がそのまま用いられている。新たに収録された手紙には、数字の後ろにabcといった枝番が付されている。ところが、これらの手紙に交じって、ゴッホに関する第三者の文章が参考資料として掲載されており、それにも手紙と同じような数字と枝番が振られているという特徴がある[24]

4巻には、その他の手紙と各種参考資料が収められている。まず、ラッパルト、ヴィル、ベルナール宛の手紙や、テオからフィンセントへの手紙が掲載されている。書簡番号には、それぞれ、頭文字をとってRWBTという記号が付されている。それに続く章に、各種新聞・雑誌・書籍で発表されたゴッホ回想録など、雑多な資料が収録されている。そして、最後の章には、ゴッホ家の家系についてフィンセント・ウィレムがまとめた文章が掲載されている[24]

1955には早くも全2巻での再版が発行され、1973-74年にも再版された。また、イギリスでは1958The complete letters of Vincent van Goghというタイトルで英訳が出版された。この英訳には、フィンセントからテオ宛の手紙5通が新たに収められている。1959にはイタリア語1960にはフランス語、1965にはドイツ語に翻訳された[24]

日本語訳はこの版に基づき、二見史郎・粟津則雄宇佐見英治ほか訳『ファン・ゴッホ書簡全集』(みすず書房[25](全6巻)、196970年、改訂版1984年)、硲伊之助訳『ゴッホの手紙』(岩波文庫 3巻、抜粋訳)が出版された。

l  旧完全版以後[編集]

旧完全版が出された後、さらに、ゴッホからウジェーヌ・ボック宛のものなど、それまで未発見だった手紙がいくつか追加して発表された[24]

ファクシミリ版(1977年)[編集]

さらに、フィンセント・ウィレムは、1977、ゴッホ美術館に保管されているゴッホ晩年の手紙を複製印刷したファクシミリ版を出版した(全2巻のLetters of Vincent van Gogh 1886-1890)。その意図について、フィンセント・ウィレムは、研究者から原本の閲覧を求められることが多いが、原本の劣化を防ぐために、研究用にファクシミリ版を提供することにしたものと説明している[26]

l  ゴーギャンの書簡[編集]

ダグラス・クーパーは、1983、ゴーギャンからゴッホ、テオ、ヨーに宛てた手紙45通を編纂し、45 Lettres à Vincent, Théo et Jo van Goghを出版した。そこには、ゴッホが受け取った未公表の手紙15通以上が収録されていた。白黒のファクシミリ版に加え、1行ごとに活字化されたテキストが示され、注が付されている[27]

l  1990年オランダ語版[編集]

ゴッホ美術館は、ゴッホ没後100年の1990を記念して、これまで発表された全ての手紙をまとめた書簡集De brieven(全4巻)を発表した。

この版では、手紙の相手方によるグループ分けはされず、全ての手紙が時系列順に配列されている。ヤン・フルスケルによる時期特定の研究結果も生かされた。全4巻で手紙に描かれたスケッチも全て白黒で印刷された。その際、スペリングは現代オランダ語のものに直され、フランス語は現代オランダ語に翻訳された。その代わり、非オランダ語読者には読むのが難しいものになった[28]

このオランダ語版をもとにした日本語訳(抜粋編訳)は『ファン・ゴッホの手紙』(二見史郎編訳・圀府寺司訳、みすず書房2001年、新装版2017年)で出版されている。
日本語訳は他に『ゴッホの手紙 絵と魂の日記』(アンナ・スー編、千足伸行監訳、西村書店、2012年)がある。

l  ゴッホ美術館改訂版(2009年)[編集]

ゴッホの手紙の多くを所蔵するファン・ゴッホ美術館は、1994年より世界中の読者がアクセスできるように英語で、最新の研究成果を盛り込んだ新たな完全版書簡集を出す計画に着手した。オランダ王立芸術科学アカデミーのホイヘンス研究所と協働して、手紙のオリジナルのテキストと、英訳、そして注釈を収録することとした。最初の5年は原本を参照してテキストを構成するとともに注釈のための資料を収集するのに費やされ、続く5年は注釈のための研究に費やされた。同時に、英訳作業が進められた。そして、冒頭の解説が執筆された。計画当初は書籍での刊行のみが考えられていたが、2004年頃には、ウェブ上で出版する方針となった。それとともに、注釈を短くした全6巻の書籍版も出版することとなった。こうして、2009年秋、ウェブ版と、英語・オランダ語・フランス語による書籍版が同時に発表された。ウェブ版は無料公開された[29]

この改訂版では、天候の記録や郵便配達日数などあらゆる情報をもとに日付の書かれていない手紙の日付の特定が行われ、旧版の誤りが訂正されている。また、手紙で触れられている作品、人物、出来事に詳細な注が付されている[30]
日本語訳は『ファン・ゴッホの手紙 』(圀府寺司訳、新潮社2020年)で、ゴッホ美術館専門スタッフが精選した265通を収録。

l  意義[編集]

ゴッホの手紙は、美術史研究の上では、絵画作品の制作時期を特定する上で、最上級の史料となっている。また、制作の経緯、背景を知る上でも重要な意義を有する。テオは、画商グーピル商会に勤務し、新しい美術の動向にも詳しかったため、ゴッホが絵画観を語る上で絶好の聞き手であった[31]

加えて、ゴッホの手紙には、彼の家族に対する思い、宗教や芸術に対する情熱、挫折など、内面が率直に吐露されており、その文学的価値も高く評価されている[32]。ゴッホを他のどの画家とも違う特別な存在としているのは、その生き方を詳細に伝える濃密な内容の手紙があることだという評価もある[33]

さらに、ゴッホの死後間もなくから、ベルナールやヨーによってゴッホの手紙が公表されたことによって、ゴッホの生涯、そしてその芸術自体への関心が高まった。特に、1914年にヨーが出版した書簡集は、世界各国で翻訳され、これを基に、様々な伝記、小説が書かれ、伝記映画が作られてきた[34]

l  ギャラリー[編集]

テキスト

自動的に生成された説明

ゴッホが用いた透視枠のスケッチがある書簡2541882年、ハーグ)。

 

新聞に印刷された文字

低い精度で自動的に生成された説明

無料食料配給所のスケッチがある書簡3241883年、ハーグ)。

 

テキスト, ダニ が含まれている画像

自動的に生成された説明

書簡638のスケッチ(18887月、アルル)。

 

草, 敷物 が含まれている画像

自動的に生成された説明

アルルの黄色い家を描いた書簡69118889月、アルル)。

 

テキスト

自動的に生成された説明

ウジェーヌ・ボック宛の書簡693188810月、アルル)。

 

テキスト が含まれている画像

自動的に生成された説明

ポール・ガシェの娘マルグリットを描いた書簡89318906月、オーヴェル=シュル=オワーズ)。

 

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