李王家の縁談  林真理子  2021.4.17.

 

2020.1.1. 李王家の縁談

 

著者 林真理子

 

『文藝春秋』 20201月号~ 連載

 

1

梨本宮伊都(いつ)子妃といえば、美しいだけでなく聡明で率直なことで知られる

進取の気性に富んだ鍋島家の令嬢で、日本赤十字を支え活躍した伊都子妃が、「最新の月経帯」を考案した時は「さすが鍋島のお姫(ひい)様」と世間が感心

父の鍋島直大(なおひろ)公は、幕末にはいち早く西洋医学と軍事を取り入れ、我国で初めて反射炉による大砲を作り、維新後は岩倉使節団の一員としてアメリカに渡り、その後イギリスに留学。伊都子は父がイタリア特命全権公使としてローマ駐在中に生まれたので伊都子と命名。母は鹿鳴館の花とうたわれた美貌の栄(なが)子。明治29年、15で梨本宮守正と婚約

当時、天皇は素晴らしい方だが、宮家というのは、幕末に宮家は4つしかなく、男子は出家することに決まっていて、江戸時代京の天皇家は常にお手元不如意、身分も5摂家の下。そんな中一気に躍り出たのが伏見宮邦家親王の4男・久邇宮朝彦親王。9歳で本能寺に入るが、尊王攘夷を唱える志士に担がれ、孝明天皇のたっての願いで還俗、40にして新宮家を立てる

梨本宮守正王は明治7年生まれ、朝彦王の4男。本来出家するところを、梨本宮家当主が急遽山階家を継ぐことになり、11歳の守正がその後を継ぐことになった

朝彦王の子どもたちは勿論、他の宮家の男子も新宮家を立てたため、伊藤や山縣は皇室典範で養子を禁止、明治天皇は苦々しく思い、自分の娘たちを次々と宮家の次男、三男に降嫁させ、3つの新宮家を作る

大正4年の今、宮家の整理が進み、繁栄の中にあり、人々の崇敬も高まり、華族とは文字通り格が違った。伊都子の生んだのは娘2

栄子から、皇太子妃に久邇宮良子が決まったと教えられる。守正の兄、邦彦(よし)の娘

明治43年の皇室親族令では、「天皇皇后を立つるは皇族又は特に定むる華族の女子」と明記され、この華族とは元の公卿たち5摂家で、皇太子妃に相応しい年齢の女子は宮家だけで11人、条件に合う華族を入れると18人だが、本命は良子か方(まさ)子と噂されていた

良子に決まったからには、方子の縁談を急がなければならないとして、栄子と伊都子は天皇の1つ下の弟・淳宮(あつのみや)に的を絞る。淳宮は方子の1つ下

明治33年夏、新婚の嘉仁皇太子と節子妃が日光・田母沢の御用邸に静養に行かれた折、突然鍋島別邸にダックスを連れて来られ、伊都子に一目惚れしダックスの世話をさせると口実を作り、その後足繁く両家を往復したため、節子が怒って実家に戻ってしまったことがあった

嘉仁殿下のお妃は、伏見宮禎(さち)子女王と内定、伊都子も昔から親しかったが、肺病の疑いから破談、次に選ばれたのが九条公爵令嬢節子姫。学習院で「九条の黒姫様」と呼ばれ、健康の外は取る所なしといわれたが、病弱な殿下をよく支える賢い皇后となられた。男子を3人も上げられたのは御手柄で、まだご懐妊中。一方の禎子は山内侯爵に降嫁したが子供はない

裕仁殿下の婚約を聞いた時、伊都子は20年前を思い出し、やはりと感じたひやりとした思いを拭えないが、こうなったからには仕方ない。殿下の発表がある前に決めなければならない

節子皇后が自ら後の2人の親王のお妃選びをしている以上、淳宮は無理。他に宮家に方子と釣り合う年齢の男子は6人いるが、2人は年下、2人は婚約済み、1人は素行が悪く側室に子どもを産ませている。対象を伯爵まで広げて見るが、伊都子の頃より遥かに宮家の価値は高くなり、華族との区別をはっきりつけられている。方子も宮家に嫁ぐか華族の嫁ぐかで、従姉の良子に対する頭の下げ方が違ってくる

久邇宮の得意顔が浮かぶ。夫の兄だが、尊大さは人を不快にさせるし、時々守正を見下す態度をとる。妻の俔(ちか)子は島津の出で、同じサムライの娘なので伊都子と気が合った

明治42年、守正がフランスの陸軍大学留学を終えて帰国する際、欧州各国の王室を訪問するため伊都子を呼び寄せた。ベルリンでは久邇宮夫妻に、ロンドンでは伊都子の妹の松平恒雄夫妻とも会って、ロシア経由で帰国したが、満州は貧しく不潔、韓国に入ってほっと一息つき、日本の圧力で退位させられた高宗の跡を継いだ純宗(スンジョン)皇帝の歓待を受ける。辺鄙と思っていたが、皇后は習っているという流暢な日本語を喋り、皇帝は日本に留学している弟の李垠(イウン)について、何かあったら面倒を見てくれと頼む

伊都子は、伊藤が李垠を連れて帰国した際東京駅の出迎えで会っている。李垠は、伊藤の暗殺後も日本に留まって学習院から陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校と軍人の道を歩み、上司の守正を何度か私邸に訪ねていて、梨本宮家は李垠を部下の軍人としてではなく隣国の皇太子として遇した。いま李垠は、陸軍士官候補生で、日本の皇族と同じ地位を約束されている。伊都子は、この方ではいけないのかと思う。他国といえども皇太子であり、裕仁殿下と同じ立場で、方子に惨めな思いをさせることはないかもしれない

 

2

昨今の金持ちは三井に岩崎だが、かつての有力大名も負けていない。維新後に受け取った莫大な金禄公債をうまく運用。2つの戦争を経て株も上がるばかり。鍋島家もその1

鍋島邸(現在の首相官邸)は明治25年に完成。2万坪の敷地に日本館と西洋館各300坪が建つ

伊都子は実家に行って方子の結婚のことを相談するが、栄子は、何も急いで異国に嫁がせることはないと反対するも、父は鍋島の祖先が朝鮮征伐の折、何人もの陶工を連れ帰って窯を開かせ、それが我が鍋島の家を盛えさせてくれた因縁を思い起こし、時代は変わる、娘が嫁ぐのも鍋島の使命かも知れぬと言う

父の話に勇気づけられたが、話をどう進めるかが難題。まず皇族・華族の事務方全般を請け負う宮内省宗秩寮に、日朝友好を前面に出し結婚があり得る話なのかどうか照会。それを聞いた佐賀出身の宮内大臣が皇室典範の増補が必要というが、伊都子が日朝友好をそこまで考えてくれていることに感激して寺内正毅朝鮮総督に知らせるという

 

3

元老山縣の秘蔵っ子だった寺内が返事をしてこないのは、久邇宮家との縁をよく思っていない山縣が、方子の皇太子妃としての可能性を残しておきたいという

一方で伊都子は、方子の説得にかかるが、いきなりよその国の方に嫁ぐ気はないと拒絶、その後も何回か説得を試みるが方子の頑固な態度は変わらず

大正5年、寺内から返事が来て、李王純宗も受け入れ、天皇陛下も「日朝融合の証としてめでたい」と仰せになったといわれ、後戻りはできなくなる

方子の意思とは関係なく、陛下を始め各皇族、伏見宮、閑院宮へ報告

方子は、新聞に李王世子のご慶事との記事が出て知らされる

 

4回 

方子は部屋に閉じこもったまま、伊都子は皇族の立場を言って聞かせる

学校に行くと、級友から祝福を受けるが、多くが小さな棘を秘めた言葉を口にしたため、方子の負けん気を掻き立てることになり、王世子の立場に同情する

皇室典範と皇室親族令による婚儀とされたが、これを巡っては帝室制度審議会(伊東巳代治総裁)と枢密院(山縣有朋議長)とが後に長々と議論をし、なんと婚儀の後まで持ち越された

山縣は、枢密院での王世子婚姻に関する議会で、「これは植民地問題であり、皇室問題にあらず」とまで言い放ったが、伊都子には伝わっていない

訪日していた純宗が梨本宮家を訪問、方子が朝鮮語で挨拶を始めたのには伊都子もびっくり

大正7年、皇太子の結婚が決まる。皇室典範の増補が公布され王公族への降嫁が可能となり、12月には陛下から勅許が出て方子も納采を実施

翌日からは脅迫状や電話の脅かしがかかる

納采の3日後に初めて李垠が梨本宮家を来訪。2人は初めて会う。伊都子は青年の素直さに好感を持つ。謙遜というのでもなく、高貴な人だけが持つ態度

 

5

李王家の財産は伊都子の予想を遥かに上回るもの。その上年150万円の王族費がある

婚約指輪は5カラットのダイヤを中心に李王家の紋章である李(すもも)を形作り見た事も無い見事さ。良子女王もこれ程の指輪は質素を旨とする皇室からはもらえないだろうし、節子皇后が許さないだろう。皇后は息子の許嫁を余り気に入っていないようだし、久邇宮家にも不満があると聞く。難しい姑のいるところに嫁がせなくてよかったとも思う

王世子との婚約を機に、庶民の間で「内鮮結婚」が増えているという。在日朝鮮人はこの6年で22千人と7倍以上になり、日本人と朝鮮人が結婚する際の法律も新たに制定され、まさに「日朝融合の証」となったことも伊都子は得意に思う

更に、李王家は結婚を機に紀尾井町に新御殿を建設するという

方子は、勲二等宝冠章を授かる。花嫁道具を客たちに披露

婚儀の直前、李垠の父・高宗死去。婚儀は1年延期され、李垠が日曜毎に梨本宮家来訪

 

6

延期の間に守正の師団が満州へ移動、悪い風に罹り危うく再延期になるところだったが回復

大正94月、婚儀執行

王世子の父・李太王が亡くなられた後、その死に憤った学生たちの蜂起をきっかけとして朝鮮各地で暴動が起こったが、それは後に三・一運動と呼ばれる朝鮮独立戦争だった

夫婦仲は伊都子の想像以上に良好

久邇宮家の三男邦英王の色覚異常が発見、色盲の遺伝子が皇系に入るのは一大事と山縣がいきりたって、皇太子の婚約を妨害しようとする

年が明けて方子が母に懐妊を報告。「子供が出来ぬ体なので皇太子妃を外され、朝鮮に嫁がせることになった」との噂話に悔しい思いをしていた伊都子だけに喜びは一入

 

7

大正10年は、伊都子にとって大きな不幸と幸せが訪れる

不幸は6月の鍋島の父・直大の死。享年76.最後の藩主、最初の藩知事。岩倉使節団の1員として最初にヨーロッパを見た日本人の1人。外交官として活躍

李王家世子との縁談にしても、父が「日朝融合のために、それも一案かも知れぬ」と言ってくれたのがどれだけ支えになった事か

喜びは8月の男児誕生。39歳にして祖母になる。晋(チン)と命名されたが、伊都子は「シンちゃん」と呼ぶことにする

王世子の兄・李(イガン)の息子李鍵(イゴン)は陸軍幼年学校に留学、よく王世子邸を訪問

大正114月、王世子以下3人は朝鮮での正式のお披露目のために京城に向かう。帰国の前日になって晋が発熱、あっという間に薨去。毒殺が続く朝鮮王宮の衛生状態を心配した伊都子の懸念が現実となる

晋の死の1か月後、久邇宮良子女王に結婚の勅許下る

翌年、方子は懐妊の兆候を見たがすぐに流産。関東大震災勃発。伊都子の妹信子の一家・松平恒雄と娘の節子が避難してくる。朝鮮人による暴動の噂が入り、近衛兵が屋敷を警戒

 

8

王世子一家は、梨本宮邸に避難してきたが、暴動の報を受けて宮城内のテントに移動

暴動の噂は間違い

梨本宮家は全員無事だったが、他の皇族は避難先で命を落としている

翌年、自身で延期されていた皇太子・裕仁と良子女王が結婚

同年秋、娘の規子(のりこ)に縁談。相手は山階宮武彦王。震災で懐妊中の奥方を亡くされていた。規子は皇族妃にふさわしいとは思えず、やんちゃな次女気質で、通知簿に「丙」を取ってくる。両親とも喧嘩が絶えず、伊都子も卵巣嚢腫の術後ということもあって辞退したが、是非にと言われ、本人に確認すると、「空の宮さま」なら飛行機が好きな自分とは話が合うと言って乗り気

武彦王は、学習院から海軍兵学校を経て、今は海軍中尉。横須賀海軍航空隊に入り、自ら操縦桿を握ることで有名

伊都子は、前夫人の賀陽宮佐紀子王女を少女時代から知っていただけに、死後1年での再婚ということもあって気が進まなかったが、武彦王から矢の催促もあり、話を受けて準備を進める。山階宮家は厳格な家風で質素。武彦王の母は九条家出身で、皇后節(さだ)子の姉

妃殿下逝去後武彦王は健康がすぐれず、二宮で静養が続く

15年になって、葉山(天皇)は夏を越せるかどうかとなり、祝い事は一日も早いほうがいいということになって伊都子は結婚を急ぎたかったが、無しの礫だと思っていたら、武彦王から健康がすぐれず婚約は破談と言ってくる。夫人に先立たれ精神疾患を患っていた

規子はめきめきと美しくなり、公務も増え、新聞や雑誌記者に追いかけられ、露出度も高まってきただけにショックは隠せない。宮家の男子は払底。4人の内親王が次々に降嫁して新しい宮家を作り、本来なら臣籍降下して侯爵、伯爵となる所を皇族になっている

代わりの相手を探そうと華族名簿を見ると、以前とは歴然とした格差があり、家老級のみか平民の経済人まで華族の列に加わる一方、貧しい華族も増えてきた。鍋島の母の実家・広橋家はその最たるもので、伯爵でありながら身動きが取れないほどに零落していたが、跡取りが帝大を来年卒業、内務省勤務が決まっていることを思い出し、規子の相手にしようと決意

 

9

1512月、規子女王と広橋家真光(まさみつ)伯爵との婚儀

2年前、皇太子と久邇宮良子女王との婚儀の直後に、久邇宮家の嫡男、朝融(あさあきら)王が酒井伯爵家の娘、菊子との婚約破棄を言い出す。久邇宮家は良子女王との婚約を巡り、邦彦(くによし)王が婚約を絶対に廃棄しないよう皇后に直接訴えた張本人だけに、朝融王の臣籍降下の声まで出たほど。酒井家から辞退となって決着を見たが、周囲が奔走して菊子と前田利為(としなり)侯爵との婚約を決め、わずか3か月後には祝言を上げた。死別の再婚ではあったが、夫婦仲もよくすぐ子をなす。婚約解消から間を置かずに結婚相手を決めたことで破棄された女の体面を保つことが出来たこの事件から、伊都子も学んでいた

広橋との縁談はすべて伊都子主導で行われ、全てを簡略化、規子が無邪気に幸せに酔っているのが救い。神泉の牧野伸顕邸内の1軒を借りて新居とする。帝大出の初任給は75円だが、鍋島家の惣領から5万円、母・栄子から2万円、皇后から5万円の下賜があって、披露宴の費用15千円を差し引きして若夫婦の財産とし、梨本宮家の資産担当者が運用

牧野伯爵の媒酌で、自宅で婚儀が執り行われる

方子は、王になった男の妃殿下ということで、急遽勲一等宝冠章拝受

年末大正天皇崩御、昭和が始まる

山階宮家から破談を申し渡されて以降、伊都子は何度かヒステリーを起こし、精神科医の治療も受けて来たが、ようやく一息つく

143月、王世子の妹・李徳恵(イトケ、12)が日本に留学のため上京、王世子の父・高宗が女官に産ませた娘、これから方子と同居して学習院に通う

 

10

昭和3年、秩父宮妃に松平大使令嬢・節子、伊都子の妹・信子の娘、信子は外交官の松平恒雄に嫁いだが、恒雄は会津藩主・容保の息子ゆえ、分家して華族を離れたため、節子は平民の娘であり、伊都子にとっては親しい姪ではあるが、直宮(じきみや)のお妃が平民の娘などありえない。そのため節子は本家・保男の養女となっているが、保男でも子爵で、義姉になる皇族出身の良子とは釣り合わない。それ以上に、事前に妹が知らせてこないことに伊都子は怒る

母・栄子は、皇族に嫁いだ伊都子の苦労を思って、信子は自らもイタリア大使夫人だった経験から自由な外交官に嫁がせたのに、その娘が皇族に嫁ぐことになるとは、と言って嘆く

伊都子はそれ以上に、節子を選ぶくらいなら規子の方が身分が上と悔しがる。方子の時は、皇太后が伊都子を妬んでいたので皇太子妃はあり得ないと諦め、直宮の時も、既に方子が王世子と結婚した後だったので、朝鮮の王と相婿になることはあるまいと諦めていただけに、誰にも打ち明けられないこともあって、余計ショックを受ける。

鍋島家で勢津子(皇太后を思い憚り節子から変えた)のお別れの会が開かれ、40人ほどの女たちが集まる。伊都子の腹違いの姉・朗子(さえこ)も加賀の前田家に嫁いだだけに豪華な装いで出席

翌年、伊都子は徳恵を大磯の別邸に連れていく。徳恵は病弱なうえに友達も出来ないようで、先般母親が48歳で乳癌で亡くなったというのに、身分の低い女官だったために皇族である徳恵は喪に服することも出来ず、不憫でならない

 

11

昭和4年、広橋伯爵に嫁いだ規子に女児・樹勢子誕生

李王家は、紀尾井町の2万坪に新築、宮内省内匠(たくみ)寮の工務課長が心血を注いだもの

子供を毒殺された方子は不妊治療に加え、子宮後屈の手術を受け、再度妊娠したが流産

李王家には、方子の義妹の徳恵(トケ)がいるが、「早発性痴呆症」と診断され、容態が安定しているうちに婿選びをしなければと伊都子は独り焦る

大正天皇の3男の高松宮と公爵徳川慶久(慶喜の7男、37歳で自死)の次女・喜久子姫との婚儀。喜久子の母は有栖川宮の女王で、男子がおらず絶えた有栖川宮の祭祀は高松宮が引き継ぐことになっていたので、2人の婚約は子供の頃から決まっていた

伊都子は、天皇の崩御とともに赤坂離宮の大宮御所に移られた節子皇太后から2度にわたってお茶に呼び出される。皇太后は学習院で伊都子の2つ下で、それほど親しい間柄でもなかったので、不審にも思ったが、徳恵を皇太后の実家の縁筋の宗武志(たけゆき)伯爵にどうかという話。大宮は九条家の出。兄の公爵・道實が当主で、宗は姻戚の子、父に死に別れ道實が後見人、帝大の英文科に通い、北原白秋の門弟。目的は李王家の財産

頭と心が弱っていると打ち明けるが、先刻承知で、宗はどんな娘でも心を奪われるという

 

12

伊都子が徳恵の縁談を持ち込むと李王は朝鮮のしかるべきところに嫁がせたいといって承服しかねるのを見て、さらに大宮の思し召しだと押し付ける

11月初旬、宗と徳恵が見合い。両親・養父母共にいない宗には九条道實公爵が親代わりとなり、徳恵には李王夫妻が付き添う。婚約が整った挨拶に来た宗を見て伊都子も安心

1931年、宗が帝大を、徳恵が女子学習院本科を卒業し、永田町の伯爵邸で婚儀、夕方から縁者50人を招いて華族会館で披露宴

披露宴で方子の気分がすぐれないのを注意すると、妊娠3カ月が判明

宗夫妻は上目黒の新築の家に引っ越し、故郷の対馬に新婚旅行し大歓迎を受けるが、途中で徳恵が突然笑い始めたという。地元の新聞にも笑った徳恵の姿が載る

 

13

宗は徳恵の病を知って結婚を承諾、出来る限りの寛容さをもって耐える

10月には李王の甥・李鍵(イゴン)公と松平佳子が結婚。直前に松平家から、王族に嫁ぐために佳子を華族にしてほしいと頼まれる。佳子の母・俊子は伊都子の異母妹で、高松松平支藩の伯爵のまた分家に嫁ぎ、夫は海軍大佐。こうした家の娘は学習院ではなく東洋英和や三輪田に進むが、佳子は実践を卒業

妹・信子の娘で秩父宮妃となった勢津子とはまったく違い、付き合いもなかったが、俊子から懇願され、本来なら鍋島家に頼むべきだが、当主である伊都子の兄がいい顔をしなかったらしい。伊都子は一時のことと割り切って、規子に命じて広橋伯爵の妹にした

12月末近くになって方子が無事出産、29代当主となる男児誕生。玖()と名付ける

参内して大宮から「お家安泰」との言葉を賜ったことを聞いた伊都子は、立て続けに4人の女児を生んで、「おんな腹ではないか」と公然とささやかれている皇后良子の心中を思いやる

徳恵にも女児誕生(正恵)、同日李鍵夫妻にも男児誕生。ただ、徳恵の症状は悪化の一途を辿り、自分の子も分からないようだった

 

14

1932年上海事変の後、伊都子は病院への慰問を始め、傷病兵に労いの言葉をかけ、他の妃殿下たちに呼びかけて慰問袋も作るようになった

193312月、ついに良子皇后に待望の親王誕生、明仁・継宮と命名

日本の女性がエチオピアの王子と婚約とのニュース。たまたま来日した王子が日本を気に入って日本女性と結婚しようと、朝日新聞を通じて募集したところ、久留里の華族令嬢が応募、宗武志の姪と聞いてやり切れなくなったが、エチオピアに権益を持つイタリアが大反対をして破談に

さらに、李王の甥(兄の次男、李鍵の弟)が李王の承諾もなしに名門貴族の孫娘と自由結婚。少しでも李王家に日本のめぼしい娘を探してやるつもりだった伊都子は落胆を隠さない

 

15

1937年、支那事変勃発。12月には宮城前で提灯行列

皇族妃は、皇后の思し召しにより、各地の病院を慰問。伊都子の割り当ては、大分、福岡、佐賀

さらに海外に及び、伊都子も旅順と大連に行き、満州の発展ぶりに度肝を抜かれる

愛国婦人会総裁の東伏見宮周子妃(かねこ、岩倉具視の孫)からの依頼で総裁代理に就任、各地の総会に出席

41年母逝去、享年85

42年元旦、皇族妃として最後の正式拝賀。ダイヤモンドの王冠に勲一等宝冠章を飾って参内

45524日、B29200機が襲来。建坪700坪の御殿が焼け落ちる

すべての宮家、宮城の一部と大宮御所を焼いたが、李王家の紀尾井町の邸は無傷

 

16(最終回:20214月号)

終戦の詔を河口湖の別邸で聞く。陛下のお気持ちまで身に沁みてわかった。これ程切なく悲しい陛下の声を聞いたのは初めて。聖帝(明治天皇)に対して顔向けができない

仮の家を建てたが焼け残った蔵に寝たものの、トタンで囲っただけのトイレには音を上げて、李王邸に駆け込む

10月には従前どおり新嘗祭が宮中で、11月には靖国神社で臨時大招魂祭が行われ、多くの皇族も儀式に臨んだが、直後にGHQの財産調査が始まる

梨本宮家は485万。戦時中供出を無視して隠し持っていた宝冠や指輪も入っていた

12月には梨本宮が戦犯指定、巣鴨に勾留。宮内大臣に文句を言うが埒が明かない

464月、梨本宮釈放

GHQから256万の財産税課税(財産評価368万に対し税率約70)、納税のため宝石類を処分、河口湖の別邸も売却

4710月、臣籍降下により11宮家は平民となり、区役所に戸籍を届け出

何度も職員に持ち逃げされたり、詐欺まがいの事件に遭遇

李鍵と佳子夫妻が挨拶に来て、日本人になって桃山虔一(けんいち)・佳子と名乗るという。その後渋谷の闇市で使用人が始めた汁粉屋を手伝ったり、様々な事業に手を出す。佳子も社交クラブを経営したが、結局離婚。伊都子は人聞きが悪いと腹を立てる。さらに虔一が子どもの出生を巡り佳子の不義の子だとして裁判を起こすと聞いて絶句

李王家も、年120万の歳費がなくなり、朝鮮からの収入も途絶えて、広大な屋敷を参議院議長公邸として貸し出し、自分たちは侍女部屋に住む

徳恵は松沢病院に入院中

李王家の一人息子玖がアメリカ留学へ。送別の宴で宗と再会した伊都子は、李王家から別れを持ち出され、徳恵を幸せに出来なかったことを悔やむ気持ちを聞かされ、仲を取り持った自分を恨んでいないかと聞くが、宗はとんでもないと答える

伊都子は、3年前に3宮を残して皇籍離脱した皇族について大宮が、「あの人たち母が食い過ぎたのですよ」と言ったことに深く腹を立てる。いかにも大宮の言いそうなことだと

守正は51年逝去、大宮も同年崩御。1人になった伊都子は土地を切り売りしながらの毎日

李王家も紀尾井町の邸まで売却、相手は堤康次郎。その金で方子夫妻は玖に会いにアメリカに行く。玖はMIT建築科を卒業、ニューヨークの建築事務所に入り、同僚のアメリカ人と結婚

伊都子は、もう国際結婚にも離婚にも驚くことなく、渋谷の80坪を東海銀行に売却して新居を建てる。皇太子が民間の娘を見初めたと発表されるのをテレビで見ながら、妹の信子から皇后さんが結婚に反対で機嫌が良くないと聞かされる。これまで見たこともないような美しい娘、華族には見ない丸顔でおかしがたい気品と知性に溢れ、女子大を首席で卒業したという、伊都子が初めて目にする新しい女だった

伊都子の脳裏に、方子、徳恵、佳子の顔が浮かぶ、幸せではなかった女たちの顔が。しかし伊都子はそんなことは認めたくない。最後の日記にこう記す。「朝から婚約発表で埋め尽くした。憤慨したり、情けなく思ったり、色々。日本ももだめだと考えた」

 

 

 

 

 

Wikipedia

梨本宮(なしもとのみや)は、伏見宮貞敬親王の第10王子守脩親王が創設した宮家。明治初期に数多く立てられた伏見宮系の新設宮家のうち、唯一邦家親王の兄弟によって創設されている。東京都渋谷区の旧宮下町ミヤシタパーク一帯)は梨本宮家の邸宅下方に位置したことに因む。

系譜[編集]

l  梨本宮守脩親王[編集]

詳細は「梨本宮守脩親王」を参照

初代守脩親王は文政2年(1819)に誕生する。天保4年(1833)に親王宣下して、円満院に入って出家し覚諄入道親王と称した。天保6年(1835)には梶井円融院を相続して昌仁入道親王と改名した。明治元年(1868)に還俗して梶井宮と称し、次いで明治3年(1871)には梨本宮と改称した。貞敬親王にはその長男・邦家親王と同じく多くの子女がいたが、還俗して宮家の当主となったのは嫡子・邦家親王の他にはこの守脩親王のみである。1881明治14年)、63歳で薨去

l  梨本宮菊麿王[編集]

詳細は「山階宮菊麿王」を参照

守脩親王には実子がなかったため、1881山階宮から生後間もない菊麿王(山階宮晃親王第一王子)が入り、梨本宮を継承する。しかし、菊麿王は1885(明治18年)に山階宮に復帰した。

代わって、久邇宮朝彦親王の王子多田王が梨本宮を継承して守正王と改名した。

l  梨本宮守正王[編集]

詳細は「梨本宮守正王」を参照

3代守正王は、1874(明治8年)の誕生。1900(明治33年)に侯爵鍋島直大の二女伊都子と結婚し、方子女王規子女王をもうけた。公的な記録上では、梨本宮2代(菊麿王が山階宮に復帰したため)とする。元帥陸軍大将、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁などを歴任した。1943(昭和18年)、伊勢神宮祭主に就任する。戦後唯一の戦争犯罪人に指定されて巣鴨プリズンに半年間拘置された。1945(昭和20年)、皇典講究所6代総裁就任。1947昭和22年)GHQの指令により1014皇籍離脱し、1951(昭和26年)、78歳で逝去。

l  守正王妃伊都子[編集]

詳細は「梨本伊都子」を参照

守正王の妃。19471014日に皇籍離脱。守正王が亡くなった後は、梨本家の祭祀を継承し、子の規子と橋真光の二男であった広橋儀光(後に離縁)、守正王の甥で久邇宮多嘉王の三男であった龍田徳彦(梨本徳彦、太平洋戦争前に臣籍降下して華族の伯爵として「龍田」を賜っていた)を養子に迎えた。徳彦が梨本家を継承した後、1976(昭和51年)に94歳で逝去した。

l  方子女王[編集]

詳細は「李方子」を参照

守正王の長女。李氏朝鮮最後の皇太子李垠(イ・ウン)と結婚し王公族となった。戦後は日本国籍と王公族の身分を喪失したが、大韓民国に渡って福祉事業などに尽くした。子に李玖李王家の最後の直系子孫)がある。

l  規子女王[編集]

詳細は「広橋規子」を参照

守正王の二女。1926年(大正12年)に広橋真光へ嫁ぎ、臣籍降嫁した。1985年(昭和60年)、78歳で死去。子に一時、母の伊都子の養子となった広橋儀光がある。

l  皇籍離脱後の梨本家[編集]

梨本宮は皇籍離脱時点で、守正王と守正王妃の伊都子の二人であり、宮号であった梨本を「氏」とした。

梨本守正(守正王) 1947 - 1951

梨本伊都子(守正王妃) 1951 - 1976

梨本徳彦(守正の甥多嘉王の第3男子、元・華族・龍田伯爵、伊都子の養子) 1976 - 2007

 

 

李王家(りおうけ、이왕가、イワンガ)は、李氏朝鮮の歴代国王を出した家系。韓国併合後は日本王公族となり、皇族に準じる待遇を受けたが第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴い、その身分を失った(身位喪失)。

l  概要[編集]

1910(明治43年)の韓国併合ニ関スル条約は、その第3条で「日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其の后妃及後裔をして各其の地位に応し相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すへきことを約す」(片仮名を平仮名に改める)として、韓国皇帝以下韓国皇族に対し、相応の待遇や称号付与をすることを定めていた。

また第4条ではそれ以外の韓国皇族についての類似の規定をしていた。この条約に基づき、王公族として李王家が立てられ、日本の皇族に準じる待遇を受けた[1]。「王」「王世子」「公」等の身位と、殿下の敬称が与えられた。

1947(昭和22年)53の日本国憲法施行に伴い、その身分を失った(身位喪失)。

また「日鮮融合」のため、李王垠は日本の皇族・方子女王と、他に李鍵公や李徳恵も日本人(華族)と、それぞれ国際結婚が行われた。しかし戦後、李垠・方子夫妻以外はそれぞれの理由で離婚している。

l  王・太王・当主[編集]

l  徳寿宮李太王 [編集]

詳細は「高宗 (朝鮮王)」を参照

朝鮮王朝第26代国王にして大韓帝国初代皇帝、高宗(生没年1852 - 1919、在位1863 - 1907)。韓国併合後は、「太王」の地位を与えられた。

l  昌徳宮李王 [編集]

詳細は「純宗 (朝鮮王)」を参照

高宗と王后閔妃の間に生まれた嫡男の李は、1875明治8年)王世子に冊封された。ハーグ密使事件を起こしたことによって、高宗が退位させられた後、1907、最後の皇帝(朝鮮第27代国王)純宗として景福宮で即位した。結婚はしたが子女はいない。日韓併合条約の調印に伴い、韓国皇帝の身分を離れ、その地位に相当する「王」(李王)の称号を明治天皇から賜る。併合後は昌徳宮に住んだ。1926大正15年)425に薨去。

妃・尹氏(純貞孝皇后) - 1906に皇太子妃となり、純宗の即位により皇后となる。韓国併合に伴い「王妃」となる。

l  昌徳宮李王 [編集]

詳細は「李垠」を参照

李垠(イ・ウン、り・ぎん)は、1897に高宗と純献貴妃厳氏との間に生まれた。純宗の異母弟。英親王に冊封される。1907(明治40年)の純宗即位と同時に韓国最後の皇太子となったが、幼少時より日本で教育を受けた。韓国併合と同時に日本の王公族として「王世子」に封じられた[2]。のち、東京赤坂の邸で暮らす[3]

1917(大正6年)に日本の陸軍士官学校を卒業(第29期)、翌年日本の皇族梨本宮守正王の第一女子である方子女王と婚約、1920(大正9年)に結婚した。純宗が薨去した1926(大正15年)には李王家当主を正式に継承し、「王」(李王)となった。李垠は日本の軍人として宇都宮連隊長などを経て、終戦時には中将にまで昇進した。

日本の敗戦後、1947(昭和22年)の日本国憲法制定により李垠夫妻は王公族の身分と日本国籍も喪失した。しかし、李承晩政権時代には彼らの大韓民国への帰国は許されず、夫妻が帰国できたのは朴正煕政権が成立した1963(昭和38年)のことだった。1970(昭和45年)に死去。

妃・方子 - 1920(大正9年)に成婚により「王世子妃」となる。

l  李玖[編集]

詳細は「李玖」を参照

李垠・方子夫妻の次男・李玖(り・く、イ・ク)は、1931(昭和6年)1229東京で生まれ、「王世子」の位を得た。戦後、アメリカ合衆国マサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958(昭和33年)、ヨーロッパ系アメリカ人女性のジュリア・マロックと結婚してアメリカに帰化した。1963(昭和38年)、韓国に帰国して実業家になったが、経営していた新韓航空1979(昭和54年)に倒産、1982(昭和57年)にはジュリア夫人とも離婚した。離婚後は再度日本に渡ったが、2005平成17年)716心臓麻痺のため、赤坂プリンスホテル(旧李王邸)にて死去した。

李玖には嗣子が無かったため、公(李垠の兄)の孫である李源が養子になった。

l  現在[編集]

複数ある李氏の末裔による団体それぞれが、の末裔である李源李錫を当主として承認しており、係争中となっている。

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詳細は「」を参照

公(り・こう、イ・カン)は、高宗の五男(母は貴人張氏)。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王李垠がいる。李氏朝鮮時代には義和君に、大韓帝国時代には義親王に封ぜられていた。日韓併合によって「公」となった。抗日運動にも参加した。1930(昭和5年)に隠居。1955に死去した。

139女の子があり、長男・李鍵、次男・2人の男子は「公族」とされた。他の子女は庶子として公族譜には記載されていない。十男が現在韓国で有名な李錫(イ・ソク)である。李錫は若い頃韓国で歌手として売れたが、住んでいた宮殿が国に没収されたため、一度米国に移住したことがある。この李錫の娘が現在女優を名乗る李洪(イ・ホン)となる。李王家の後継者となった李源は、李公の九男・李鉀の長男である。また、次女・李海瑗も女帝として後継者を名乗っていた。

妃・金氏 - 1893年、李と結婚。韓国併合に伴い「公妃」となる。

l  李鍵公[編集]

詳細は「桃山虔一」を参照

李鍵公(り・けん、イ・コン)は、李公の長男。母は鄭氏。李の隠居により「公」位を継ぐ。陸軍軍人。戦後は日本に帰化し、「桃山虔一」と名乗る。

妃・誠子 - 1931(昭和6年)に成婚により「公妃」となる。戦後「桃山佳子」と名乗ったが、1951年に離婚。

l  李熹公[編集]

李熹公(り・き、イ・ヒ、李載冕)は、興宣大院君の長男で、高宗の兄。李氏朝鮮時代には完興君に、大韓帝国時代には興親王に封ぜられていた。韓国併合により「公」となった。併合後まもなくの1912(大正元年)に死去した。

妃・李氏 - 韓国併合に伴い「公妃」となる。

l  李埈公[編集]

李埈公(り・しゅん、イ・ジョン、李埈鎔)は、李熹の長男で、純宗の従兄弟。永宣君に封ぜられていた。韓国併合により男爵、さらに侯爵となった。李熹の死去により「公」を襲系。1917(大正6年)死去した。

妃・金氏 - 李埈の公位の襲系に伴い「公妃」となる。

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詳細は「李グウ」を参照

公(り・グウ、イ・ウ)は、李公の次男。母は金興仁。李埈が跡継ぎの男子なく死去したため、養子となって「公」を襲系。陸軍軍人。広島で原爆により死去。

妃・朴賛珠1935(昭和10年)に成婚により「公妃」となる。

l  その他の人物[編集]

l  徳恵翁主[編集]

詳細は「徳恵翁主」を参照

韓国併合後の1912(明治45年)、李太王(高宗)と側室・梁氏との間に生まれた。1925年(大正15年)の王公家軌範制定により李太王の子として王公族となったが、女子であるため「公」の位や爵位は受けていない。1931年(昭和6年)5月、伯爵宗武志との結婚により、王公族から華族となる。戦後に離婚。のち韓国へ帰国し、1989(平成元年)死去。李朝直系としては最後の王族となった。

l  日本の皇族・華族との親戚関係 [編集]

梨本宮守正王の娘方子女王は、日本に留学中の李王垠と婚約し、1920年に結婚している。その間に男子を一人儲けたが、夭折した。日本の敗戦後、李王家は王族の地位を失い、韓国が独立。李夫妻は韓国への帰国を希望したものの、韓国政府に拒否されたため無国籍となった。朴正煕政権下でようやく韓国籍の取得が許され、1963年に夫妻は韓国へ帰国した。方子女王はしばしば「日本の朝鮮支配の犠牲になった悲劇の王妃」と呼ばれた。夫が死んだ後も韓国に残り、韓国の社会福祉活動に貢献した[4]

他に李鍵公が伯爵廣橋眞光の養妹(高松松平伯爵家分家の松平胖の娘)誠子と結婚。また李徳恵宗武志伯爵と結婚している。しかし戦後、李垠・方子夫妻以外はそれぞれの理由で離婚している。

脚注[編集]

1.    ^ 『「李王家」,「李鍵公家」,「李公家」には、それぞれ麹町区紀尾井町1番地、及び渋谷区常磐松町101番地上に「東京御殿」が存在していた』ことが昭和14年版の時事年鑑に記載されている。(社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),58頁より)

2.    ^ 日本の『華族』となった朝鮮貴族 朝鮮王朝 李王家の最後の皇太子 李垠

3.    ^ 施工時の李王家東京赤坂邸

4.    ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 李方子 (コトバンク)

 

 

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