典獄と934人のメロス  坂本敏夫  2021.4.14.

 

2021.4.14. 典獄と934人のメロス

 

著者 坂本敏夫 1947年生まれ。法政大学中退。67年大阪刑務所刑務官に採用される。以後、神戸刑務所、大阪刑務所係長、法務省事務官、東京拘置所、黒羽刑務所などで課長を歴任。94年広島拘置所総務部長を最後に退官。著書に『死刑執行人の記録』(光人社)、『刑務所のすべて』(文春文庫)、『誰が永山則夫を殺したのか』(幻冬舎)などがある

 

発行日           2015.12.2. 第1刷発行

発行所           講談社

 

 

一瞬にして帝都を地獄に変えた関東大震災。横浜刑務所の強固な外塀は全壊、さらに直後に発生した大規模火災が迫ってきた。はからずも自由を得た囚人に与えられた時間は24時間! 帰還の約束を果たすため身代わりとなった少女は、大火災と余震が襲い流言蜚語が飛び交う治安騒擾の悪路40キロを走る・・・・・

 

 

 

登場人物

ü  椎名通蔵(36) 東京帝大法卒。横浜刑務所典獄。刑罰の目的は社会復帰教育にあるという教育刑主義を信奉

ü  福田達也(25) 囚人。海軍退役後、無実の罪をきせられて服役中

ü  福田サキ(18) 達也の妹。高等女学校生徒。達也を父代わりと慕う

ü  野村幸男(53) 典獄補。看守から叩き上げのNo.2。若い典獄に反感を抱く

ü  影山尚文(45) 文書主任。典獄の秘書官役だが、まとまりの悪い幹部の取りまとめに苦労

ü  茅場宗則(48) 戒護主任。全囚人を受け持つ筆頭主任としてNo.3。野村に追随する反典獄派

ü  坂上義一(39) 会計主任。最も若い幹部職員。椎名の忠実な部下として司法省への伝令役を任される

ü  天利作治(45) 戒護部門の看守部長。中間管理職である看守部長を取りまとめ、典獄と囚人たちとの信頼関係を取り持つ

ü  山下信成(34) 看守。第六工場の担当。囚人たちからの信頼が厚く、福田達也の無実を信じ早期の仮出獄を後押し

ü  山口正一(45) 囚人。粗暴な問題受刑者として千葉刑務所に移送される予定だったが、復旧作業に活躍

ü  青山敏郎(24) 囚人。兄貴分と見定めた福田に倣い、1人前の社会人として更生しようと決心

ü  河野和夫(40) 囚人。元外国航路の船員でボイラーマンの経歴。男気に富み、囚人仲間から一目置かれる

 

 

序章 1157分、東南見張り哨舎

大震災発生時、囚人は工場から飛び出し訓練通り避難場所として指定されている広場で腰を下ろす。最初に避難を終えたのが第六工場。担当看守が見当たらない中、立哨の看守が代わって「視線内戒護」を全うしようとする

崩壊した外塀を超えて脱出しようとしたのが福田達也、それを第六工場担当の山下看守が、「本物の犯罪者になるのか!」と言って止める

 

第1章     獄塀全壊

ü  ネズミの大移動

震災当日の早朝、刑務所の炊所で炊事夫が食料倉庫をあけるとネズミの大群が飛び出してくるのを目撃

横浜刑務所は1899年、敷地面積9万㎡の土地に、条約改正の条件の1つだった監獄の世界レベルへの改善を充たし、欧米を凌駕する近代的刑務所として竣工

地震当日の職員は140人、開房人員は1135名、うち満期釈放予定4名、男受刑者1038名、女受刑者31名、男未決拘禁60名、女未決拘禁2

横浜は格が高く、代々ベテランの典獄を迎えていたが、4か月前に退官した前任者のあとに来たのが経験年数12年、現場経験皆無の36歳だったため、幹部職員は格落ちかと懸念

 

ü  大地震発生

典獄の椎名は寒河江の庄屋の長男。東京帝大法科政治学科を卒業すると、予想外の司法省監獄局属を拝命。監獄官吏は役人のなかでも最下層とされたが、刑の目的は応報ではなく教育による犯罪者の更生にあるとの刑事法の講義に深く感銘を受けての志願

初の帝大での監獄官吏で、高文合格後2年間の見習いを経て1913年膳所監獄典獄として赴任、6年後水戸監獄典獄に移動、4年後に横浜へ。異常事態の経験も皆無

 

ü  1210分、第六工場

地震の被害は、全外塀倒壊、舎房は全半壊、全7工場全壊、官舎だけが屋根瓦の損壊程度で残る

収容受刑者の救出に奔走

 

ü  南風

強い南風で北側の横浜市街地の火勢は増すばかり

 

ü  司法省行刑局

刑事局長・山岡万之助は1876年岡谷の生まれ。1901年判事に任官、14年司法省入省、21年監獄局長。官房保護課長御時代に少年法と矯正院法(後の少年院法)の成立に尽力、犯罪少年を刑罰によって処分するのではなく、善良な社会人に導くため一定の期間教育的プログラムを受けさせて社会復帰させるという保護処分を導入。22年には行刑制度調査委員会を発足させ、監獄の改革に着手

司法大臣席には平沼騏一郎大審院長がいて、まずは脱獄者の有無確認を指示

 

ü  横浜ハ大震災ニシテ今ノトコロ全滅ト思ハル

震源は横浜市の南西50㎞、相模湾の海底1300m、マグニチュード7.9

港に停泊中の船は、岸壁の崩壊で沖に出て、必死に救助を求める電信を打電

 

ü  火災発生

受刑者の一隊が、官舎への延焼を防ぐために建物の取り壊しにかかる

拳銃を取り出して実弾を装填しようとする看守を椎名が制し、武器の使用を厳禁とした

椎名はこの時、囚人に鎖と縄は必要ない、刑は応報・報復ではなく教育であるべきで、その根底に信頼がなければならないとの信念に確固たる揺るぎない自信を持つ

構内に火の手が移り、行方不明者を残して全員退避

監獄法第22条には、避難の手段なきときは一時解放可、24時間以内に出頭せざる時は処断可とある。260年前、江戸市中がほぼ全焼した明暦の大火の際の「切り放し」制度が解放の起源

椎名は膳所典獄時代、看守と看守部長を対象に監獄法の勉強会を始め、向学心を喚起し、学ぶ気風を囚人にまで及ぼした。無知は犯罪を招くが、教養と知への渇望は更生に繋がるとの信念を持つにいたる

 

ü  解放断行

午後3時、椎名は司法省への報告に使いを走らせ救援を求める

午後5時現在、受刑者の死者38名、重軽傷60名、職員3名死亡、重軽傷18名、行方不明3名。受刑者全員の解放を決断。解放囚は934人、残りは死者を含め197

午後10時に司法省に就いた伝令から囚人解放を聞き行刑局長は絶句

 

第2章     少女、悪路を走る

ü  無実の囚人

解放の詳細な記録は、横浜刑務所はもとより旧司法省にも残されていない。当時の新聞、雑誌等では、解放囚人が悪の限りを尽くし、帝都の治安を悪化させたと書かれている

横浜市が個人の体験記を募集して編纂した『横浜市震災誌』にも被害状況が記載されただけ、さらに240人が帰還せず逃走したことになっている

これが史実として現在までに伝えられているすべて

筆者は、1971年、当時の横浜刑務所長の紹介で、山岸妙子という女性刑務官に会う。福田達也の妹サキの娘。この出会いから真実探求の旅が始まる

福田サキは震災当時18歳、鳩川高女(現県立上溝高校、相模原市)で被災

父は獣医、1905年旅順で戦死、第1次大戦で生糸相場が暴落、生活に困窮。長男達也は実業高卒後横須賀海軍海兵団入隊するも、軍縮の煽りで3年後退役。地元の養蚕組合で働くが、公金窃盗の容疑で逮捕。地元の有力者の使い込み隠蔽のための冤罪だったが、実刑となり服役。9月中の仮出所が決まっていたが、震災直前に受刑者の嫉妬からの挑発に乗って喧嘩となり出所取り消し。地震で救出され脱獄しようとしたところを、目をかけてくれた看守の一言で思い止まり、他の受刑者の救出に加わる

達也は、解放後実家の溝村に向かうが、ほどなく自警団に追い詰められ巡査に捕縛・拘束される。偶然巡査が他の解放囚と出会い、解放の事実を確認できたため達也を解放、朝7時ごろ実家に辿り着く

 

ü  身代わり

サキの親友の安否を確認に行って、その惨状に驚き、先の願いもあって人助けを優先、代わりにサキが典獄に事情を告げに行く。サキは12時半に出立、暴漢に襲われそうになりながらもなんとか門限近くには刑務所に到着し、無事兄の手紙を看守と典獄に渡し、その夜は官舎に保護される

 

ü  大桟橋

河野和夫はハマの吉原と言われた真金町の廓の女を助けに向かう。石炭の山に火が移り、石油タンクが爆発、火炎による旋風でトタン板が1000mも吹き上げられる

停泊していた船舶からの炊き出しを危険を冒して荷揚げする作業が河野の指揮下で整然と行われ、無事炊き出しにありつくことができた

 

ü  朝鮮人を引き渡せ

夜になると、鮮人が暴徒化したとの流言が広まりだす。『横浜市震災誌』にも横浜刑務所にいた鮮人4500人が加わったとの記録があるが、刑務所に鮮人は1人もいなかった

自警団による鮮人狩りに、身を挺して防いだ警察署長や地元の有力者たちもいた

 

ü  囚人自治

残留組と早々に帰還した囚人とが組織的に復旧作業を分担、囚人の自治が動き出す

 

ü  米一粒たりとも

行刑局の担当官は、囚人解放を知って横浜への救援物資送付を拒否するが、千葉刑務所は膳所の後任典獄で椎名を慕う後輩が典獄だったこともあり、船で救援物資を運んでくる

 

第3章     囚人、横浜港へ

ü  天使降臨

横浜公園では商社勤務の女性が、外国人が外用治療薬を提供しているのを耳にして手に入れ、被災者の怪我の手当てをしている。まるで泥沼に天使降臨だとして地元紙に掲載

 

ü  知事からの信書

県知事は猛火に包まれた県庁舎を逃れ出先事務所で指揮を執る

警察部長は、他所との連絡手段確保のため、港内に停泊した船に陣取る

神奈川管轄の第1師団へも出兵と食料の救援要請が発出

船で届けられた炊き出しの陸揚げに受刑者の応援要請が知事からあり、数十名の派遣を決断

午後7時半、刑務所への帰還者は700人余り。陸揚げの志願者を募ると一斉に手が上がる

 

ü  喝采

3日朝、奉仕班70名が桟橋に向け出発。桟橋での活躍に市民から喝采が起こる

行刑局から視察に来た書記官はそれを見て渋面

達也は、サキの友人一家の立ち直りの目途をつけて3日午後実家を発って刑務所に戻り、無事サキとの再会を果たす

 

ü  視察調査

行刑局書記官による視察調査が始まる

監獄法では、刑務所内の行政判断はすべて典獄に委ねられている

椎名の育ての親でもあった大阪控訴院の谷田院長が密かに横浜刑務所の状況視察を命じる

谷田は、山岡の先任の司法省監獄局長として10年にわたり刑務所を統括指導し、椎名を育てたが、密かに教え子を支援

横浜地裁は大法廷開廷中に被災し、裁判所長以下ほぼ全員が生き埋めとなり生存者なし

谷田が、横浜刑務所の囚人の引き取りに動く

 

ü  典獄を孤立させよ

書記官は、局長に横浜刑務所が無法地帯との虚偽報告を出したばかりか、囚人の間に波風を立て、典獄の更迭を目論んで動き回る

 

ü  工作

書記官たちは、典獄補と戒護主任、影山を誘導尋問にかけ、囚人解放に反対したが典獄が独断強行したとの報告書を書かされる

 

第4章     典獄の条件

ü  看守と女学生

サキは医務室の手伝いで残る。他にも2人、夫の身代わりで出頭しそのまま復旧を手伝っている女性がいた

山下の夫人は裁判所に勤めていて生き埋めの犠牲に

 

ü  立ち上がる囚人

視察に同行してきた内務省警保局の男が、囚人に騒擾を引き起こさせようと動くが、デマと知っている囚人たちは一層結束を固めて典獄を守る

 

ü  看守の反乱

警保局の男は立哨中の看守にも接近したが、逆に結束を固めた看守たちは、勝手に典獄の名前を使って、未帰還受刑者にまだ間に合うと帰還呼びかけに動く

 

ü  典獄の手紙

谷田の密かな依頼に基づき名古屋刑務所典獄から、300名引き取りの申し出が来る

受け容れに反対した看守部長は、横浜の統制の取れた状況を見て、改めて受け入れを決意した名古屋と、外塀もないのに見事な統制をしている横浜の両典獄の器の大きさに感じ入る

書記官は、囚人による騒擾の証拠を得ようと県知事を訪問したが、知事からは囚人への感謝の言葉を聞かされ声を失う

 

ü  黄金の繭

6日で救援物資の荷役作業が終わる

未帰還者252

今日で実家に戻るサキに囚人の1人が、クメールの天蚕(やままゆ)で作られた黄金色の豆草履のお守りを渡す。幸運を呼ぶ女性のお守りと知る

サキが椎名夫人の親切の理由がわかったのはずっと後のこと

実家に戻るサキが気がかりになった山下は、未帰還者を探索に行くと言って外出を願い出、サキを追う。途中襲われかかったサキを助けて家の近くまで送り届ける

 

ü  海軍カレー

椎名は、6日になって初めて外出、県知事にお礼に行く

荷役作業を遠目に見る解放囚の認めて、看守に勤務時間内での未帰還者の探索活動を許可、逃亡罪を見逃がそうと受刑者の同行も認めた。効果は抜群で陸続と帰還してきた

名古屋移送の300名については、全員に選択基準を明示したうえで選抜

下痢をした5人を除き295名が最新鋭の軍艦で移送、その夜は海軍カレーで歓待された

 

ü  司法省大臣室

椎名は9日、平沼司法大臣に呼び出され海路司法省に出頭

大臣と2人きりですべてを詳細に報告。未帰還者83名、名古屋移送295名のことも報告

大臣からは、朝鮮人問題は横浜刑務所の囚人解放によって起こった惨劇としなければならないため、椎名の運命を預からせてくれぬかとの提示

椎名は、受刑者の善行に報いて欲しいとの条件を付けて承諾

小菅は外塀が倒壊したが凶悪犯1300名が有馬典獄の愛に報いて1人の逃亡者も出さなかったのは奇跡だと、世界から称賛の声が上がっていたが、横浜は非難されることになるだろうと告げられる

有馬は、「鬼の分監長」と呼ばれて受刑者に厳しすぎる対応をして何人もの犠牲者を出したが、キリスト教の洗礼を受けた後は「愛の典獄」に大変身。小菅でも囚人自治制を試行

平沼は、殉職した職員と受刑者の慰霊祭への協力を申し出、椎名は、併せて横浜地裁の遺体発掘にも出役の許可を願い出、平沼は承知する

平沼は、「薩摩の有馬が英雄で、幕府直轄の寒河江の椎名が貧乏籤を引いたのは、まるで維新だ。申し訳ない」と苦笑い

 

終章 解放囚の奇跡

ü  二人の典獄

21日、2回目135人の受刑者を名古屋に移送

9月末までに仮設の獄舎を建て、裁判所の発掘を無事終了。11月には追悼会を行い平沼が弔辞を寄せる

未帰還解放囚は、19名が横浜に帰還、残る64名が11月までに他の刑務所に出頭、全員の無事を確認したが公表は見送られ、司法省には未帰還者240名の記録だけが残る

有馬は、受刑者を更生させる最良の処遇は社会への貢献と、それに対する評価であると常々語り、構外作業の導入を提唱していたこともあって、椎名の判断・行動を羨ましがった

有馬は、竣工なった横浜刑務所の初代典獄で、不平等条約改正直後の第1号外国人死刑囚を収容、外国人のキリスト教聖職者を読んで教誨を受けさせ、四谷へ移送する際には感謝されたという

 

ü  媒酌人

1929年、椎名は豊多摩刑務所典獄に異動。椎名に見込まれて経験を積み小田原少年刑務所戒護主任に抜擢された山下がサキを連れて椎名の官舎に挨拶に来る。小田原の受刑者の妹がサキの生徒だったという縁。2人の長女が刑務官になった妙子

 

ü  後日談

福田達也は出所後、横須賀海軍砲兵団に入団。高松宮の砲術訓練に当たり、指導教官的立場で高松宮の信頼を得る。第2次大戦では砲兵として軍艦に乗船、フィリピン沖で戦死

高松宮は達也との縁で、1933年呉鎮守府において広島の典獄だった椎名と親交を持つ。これを機に宮は、刑務所、少年院、矯正行政への強力な理解者となり、顧問的な立場で終生矯正職員顕彰などに関わる

椎名は、豊多摩の後、広島、小菅、府中、名古屋、大阪の各典獄を歴任

敗戦後の46年、大阪刑務所典獄兼初代近畿行刑管区長(勅任官)に主任するが、突然辞職を勧告され、GHQに捕虜虐待等の戦犯として逮捕。大阪刑務所で米軍捕虜を収容した際の取扱いを虐待とされたもの。重労働12年の刑を受け巣鴨に服役、平沼と再会を果たす

52年出獄、寒河江で余生を過ごし64年逝去、享年78。終生寡黙を通し、書き物も何一つ残していない

 

あとがき

横浜刑務所解放に人知れぬ謎があると知ったのは1971年、刑務官だった筆者を引き立ててくれた亡父の同期生で横浜刑務所長だった倉見慶記を訪ねた時

倉見は、横浜に着任して関東大震災解放の記録がないことに驚き、古老から受刑者の善行の話を聞いたが記録がないどころか、解放が帝都を大混乱に陥れたとして典獄椎名が悪者扱いにされているのを知って不審に思ったという

筆者は矯正研修所で指導教官から、「行刑の歴史は埋もれているものが余りにも多い」と聞かされていたところからその話に興味を持って調べてみることに

倉見から紹介された横浜刑務所の職員が山岸妙子で、母サキとの面談が実現。山下は3年前に死去。この出会いを契機に、取材を重ねて完成したのが本書

自分の27年の刑務官生活を通じて、刑罰の目的について深く考え込まざるを得なかった

 

 

2021.3.27. 朝日 Be

(フロントランナー)隆祥館書店店主・二村知子さん 心を渡し、支える最強の本屋

 店の評判を聞きつけてやってくるのは客に限らない。出版社の人が、作家が、メディア関係者が、大通りに向かって控えめに間口を開く大阪市中央区安堂寺町の本屋「隆祥館書店」を詣でるように訪ねてくる。

 逸話は数知れない。売り場13坪、町の小さな本屋が、アマゾンや千坪超の大型書店の向こうを張って、日本でトップクラスの販売数を記録する本が何冊もある。他ではあまり出なかったノンフィクション小説が700冊、今もロングランで売れ続けている――

 有名、無名は問わない。販売前の見本に目を通し、ひとたび惚れたら粘り強くセールスをかける。ただ置いて客と「書棚で会話する」のをよしとしない。「なにかお探しですか」「こないだの本、どうでした」。一人ひとりの話を聞いた上で、その人の支えになると思った作品の魅力を心を尽くして語る。だから、マンガ本も参考書も雑誌もあるけれど、人を傷つけるような本はいっさい置かない。「話さなくていいところまで言いすぎてしまって……」と反省こそすれ、黙することはない。熱意と努力が、作家から「最強の本屋」と言われるゆえんである。

 常連客の一人、岡住容子さんは「アマゾンでは絶対に出会えなかった本ばかり。世界が広がる本屋です」と言う。薦める本に「ハズレ」がないのは本の内容を知り尽くし、客と対話を積み重ねてきたからこそ。悩みを聞き、喜びや苦しみを分かち合いながら好みを覚えた客の数は千人に及ぶ。

 シンクロナイズド・スイミングの日本代表選手だった。現・日本代表ヘッドコーチの井村雅代さんから「敵は己の妥協にあり」の教えをたたき込まれている。結婚生活に破れ、父の故・善明さんが創業した本屋で働き始めたのは30代半ばだった。パニック障害を発症し、「生きる価値がない」と考えていたころだ。本を読むことで支えられ、客の笑顔に自信をもらいながら、近所の人たちに愛されて出版業界にも名が通る本屋をつくってきた。

 町からは次々本屋が消え、この20年で半分になった。隆祥館書店も決して安泰ではない。大型書店に優先的に本が届く業界の慣習「ランク配本」にも声を上げた。2011年には、作家を招いて読者と語り始めた。鎌田實、平田オリザ、内田樹……。熱意にほだされ、小さな本屋の集いに大物も参加した。集いはもう少しで300回を迎える。今では著者や出版社から、開催してほしいと申し出を受けるまでになった。「町の本屋は本だけ売っているのではない。心も渡している」。だから今日も、黙ってはいられない。

 (文・斎藤健一郎 写真・水野義則)

     *

 ふたむらともこ(61歳)

 ――お客さんに積極的に声をかけますね。

 様子を見て、邪魔にならなそうならば、です。きっかけは、父の本屋を手伝い始めて、まだ本のこともほとんどわからなかった30代半ば、お客さんに「お薦めの本は?」と聞かれ、恐る恐る浅田次郎さんの本を差し出したことでした。読んだ後、店に来てくれたお客さんが「すごく良かったよ」ととても喜んでくださったのです。趣味や好みがわかればその人に合った本が紹介できる。そうすると、もっと喜んでもらえる。一冊でも多くいい本と出会ってほしいという気持ちで薦めています。

 ――本屋で30代半ばに働き始めたのはなぜですか。

 家庭生活がうまくいかず、娘と実家に戻ったのがきっかけです。毎日死ぬことを考えていました。その時、星野富弘さんの『愛、深き淵より。』に出会ったのです。事故で手足の自由がきかない星野さんが真摯に「生」と向き合っている。涙が止まらなくなり、痛切に「生きなあかん」と思いました。本に命を救われたのです。どんなに苦しいときも、この本屋にいるときだけはしんどくならなかった。本やお客さんが、私に少しずつ生きる自信を与えてくれ、今があります。

 苦しむ町の本屋

 ――本の目利きと評価されていますね。

 父は「本は右から左に売るもんやない。毒にも薬にもなる」と常に言っていました。だから差別を扇動する本は置きません。生きる力や助けになる本をそろえようと心がけています。

 ベストセラーばかりがいい本ともかぎりません。関東大震災時の横浜刑務所の話を書いた坂本敏夫さんの『典獄と934人のメロス』は見本を読み、心がふるえました。絶対読んでもらいたいとお客さんに紹介し続けて700人近い方に読んでいただき、昨年、重版もかかりました。

 ――町の小さな本屋が次々となくなっています。

 本屋の努力が足りないという人がいますが、違います。小さい本屋を苦しめる不条理な慣習が多くあるのです。大手出版社と、本屋に書籍を卸す「取次」が、大型書店を優先する「ランク配本」もその一つです。『佐治敬三と開高健 最強のふたり』の単行本を全国で一番売りましたが、文庫化された時は配本がゼロでした。売りたくても売れない。悔しくて、その時は泣きました。いまは出版社に直談判して直送していただくことも増えましたが、構造的な理不尽さは変わっていません。

 ――それでも町の本屋を続けるのはなぜですか。

 取次に頼らず、自分の好きな本だけを並べるセレクトブックショップにしようと考えたこともありました。でも、うちにはマンガを楽しみに来る子どもやクロスワードや数独の本を楽しみにしているお年寄りもいる。これまで72年、この小さな本屋を支えてくれた人たちを裏切ることはできません。

 ――作家と読者の集いは10年、300回を迎えます。

 ネット書店に出来ないことをやりたい。当事者から真実を聞きたい。そう思って始めました。最初はこんな小さな店に来てくれるだろうかと心配しましたが、手紙を書いて熱意を伝えると多くの作家さんが応えてくれました。一方的に話を聞くのではなく、参加者との対話を大事にしています。出版社も作家もこういう機会を求めていたことがわかりました。

 最近、1万円選書も始めました。20の質問をして、一人ひとりに合った本を選んで送る試みで、500件の申し込みがありました。一人ひとりの人生に向き合いながら、気持ちをこめて選んでいます。

 人生を支える本

 ――数年前、心臓の手術をしました。娘さんも体を心配していました。

 臨床心理士の娘からは、ブレーキのない車だと言われています。先日、ショックなことがありました。オンラインで集いを開いたとき、ある作家さんが本棚をさして「この本はすべてウェブで買った」と言ったのです。その時は笑ってごまかしてしまったのですが、後から思い出すたび、胸が苦しくなります。

 欧州の本屋を2年前、視察したとき、ドイツではアマゾンに負けない早さで本を届ける流通制度が整い、フランスでは「反アマゾン法」で自国の本屋を国が支えていました。いずれも町の本屋は知の拠点であり財産であり、大切な文化だという意識が国全体で共有されていると感じました。

 ある出版社の人が「町の本屋は人間なら毛細血管。これがやられると最後は心臓が止まる」と言ったことが忘れられません。私は本に救われ、多くの人に助けられてきました。だから、本を通じてたくさんの人に恩返しがしたい。本には人生を支える力がある。このまま細るのをただ見ているわけにはいきません。

 健康には気をつけつつ、アクセルは踏み続けます。

 プロフィル

 1960年、書店を営む父母の長女として大阪市に生まれる。3人きょうだい。

 小学2年から水泳教室に通い、16歳でシンクロナイズド・スイミングの日本代表に=写真中央。国際大会にも出場。

 78年に引退して翌年結婚。83年に長女・真弓さんが誕生したが、家庭はうまくいかずパニック障害に。95年から実家の隆祥館書店で働き始める。

 2015年、創業者の父・善明さんが亡くなり、店主に。写真は11年に善明さんと店頭で。

 同書店は1949年創業。休みは正月三が日と第3日曜だけ。休みの日にゆっくり映画を見たり、音楽を聴いたり、お風呂に入ったりが数少ない趣味。

 11年に始まった作家との集いはもうすぐ300回。絵本作家の降矢ななさんや、先日ふらりと来店した芸人の村本大輔さんとの集いを企画中。

 一番好きな本は? 「うーん、難しいなあ。たくさんあって、1冊には絞れません」

 次回は歌舞伎俳優の松本幸四郎さんです。表現の場を奪うコロナ禍下で「劇場が閉じても芝居はできる」といち早く立ち上がり、電脳世界への扉を開きました。

 




 

作家と読者つなぐ書店、座談会200回 二村知子さん

2019525  日本経済新聞

作家や出版関係者らが全国から足を運ぶ書店が大阪の街角にある。創業70年を迎える隆祥館書店(大阪市中央区)だ。店長の二村知子さんは作家と読者をつなぐ座談会を200回以上開いている。出版不況の中、ネット通販や大型書店に負けない魅力を放つ。

本棚の前に立っている女性

自動的に生成された説明隆祥館書店の二村知子さん(写真 松浦弘昌)

40平方メートルのこぢんまりとした店内に、座談会の写真や手書きの推薦文が至る所に貼られている。客の多くは顔なじみで、店に入ると笑顔であいさつを交わす。

「小さい本屋だからこそ、何かやらなあかん」。座談会は2011年に始めた。「著者に会ってみたい」という常連客の声に応え、作家を招いたところ、70人以上が参加した。以降、店の恒例行事として定着した。

193月、刑務所を取り上げた著作がある作家の寮美千子さんと坂本敏夫さんを招いた座談会では、少年たちが犯罪に手を染めた経緯などを2人が語り、会場中が涙した。「読書は日ごろ知ることのない社会の側面に触れるきっかけになる」との思いを強くした。

かつてシンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)の日本代表として活躍し、引退後の1994年に父、善明さん創業のこの書店で働き始めた。あるとき客に「お薦めない?」と聞かれて好きな本を紹介すると、とても喜んでくれた。この出来事がうれしく、読書にのめり込むようになった。

510分話すとその人の好きそうな本が分かる」。頭には常連客数百人の好みが入っている。「二村さんが推薦するなら」とそのまま購入していく客も多い。

小さい店は新刊や話題書の仕入れが難しいこともある。必ず売り切ることをポリシーに出版社と関係を築き、納入してもらえるようになった。

町の書店はネット通販などに押され、閉店が相次ぐ。70年前の開業当初、一日約400人だった隆祥館書店の客は今は80人ほどだ。「実店舗の強みを生かさなければ埋もれる」と危機感は強い。

19年に入り、親子向けに絵本を選ぶサービスを始めた。子育ての悩みを聞き取りながら、解決につながりそうな本を選ぶ。16年から開いている子育て中の母親向けの交流イベントも好評だ。

18年に訪れた米ニューヨークのブルックリンで書店が住民の交流の場となっているのを見て「同じことをやっている」と自信を深めた。「書店は地域の文化発信地」との熱い思いで店に立つ。

 出版社は書店員に内容を知ってもらうため、刊行前に見本を用意する。二村さんは心に残った言葉や表現を丹念に書き込んだ付箋をびっしり貼っている。中には3回以上読み込む本もある。しばしば睡眠時間を削っての作業となるが、本を薦めたときの常連客からの手応えを原動力に続けてきた。「商業主義の餌食になったらあかん。ちゃんとしたものを伝えたい」。2015年に亡くなった父の思いが、自身の信念となっている。

二村さんお薦めの本

隆祥館書店で人気が高く、仕事にも役立ちそうなビジネスパーソン向けの作品を二村さんに薦めてもらった。

1、「佐治敬三と開高健 最強のふたり」(北康利、講談社)

2、「典獄と934人のメロス」(坂本敏夫、講談社)

テキスト

自動的に生成された説明

関東大震災の渦中、横浜刑務所の受刑者934人が24時間後に帰還することを条件に解放される。刑務官だった筆者が当事者から話を聞き、知られざる受刑者と刑務官の究極の絆を描いた。「人としての生き方を考えさせられる。出張のお供に」(二村さん)

 

 

3、「金剛の塔」(木下昌輝、徳間書店)

4、「井村雅代コーチの叱咤激励 当たり前 日めくりカレンダー」(隆祥館書店のオリジナル商品)

文 中川竹美

 

 

講談社HP

内容紹介

一瞬にして帝都を地獄に変えた関東大震災。横浜刑務所の強固な外塀は全壊、さらに直後に発生した大規模火災が迫ってきた。はからずも自由を得た囚人に与えられた時間は24時間! 帰還の約束を果たすため身代わりになった少女は、大火災と余震が襲い流言飛語が飛び交う治安騒擾の悪路40キロを走る……これは、刑務所長がまだ典獄とよばれていた時代、関東大震災の渦中に、究極の絆を結んだ人々の奇跡の物語である。

 

著者・坂本敏夫からのメッセージ

私が横浜刑務所に人知れぬ謎があると知ったのは、昭和四十六年十二月のことだった。当時の刑務所長・倉見慶記を訪ねたときに彼は私にこう言った。

「関東大震災と第二次世界大戦中の記録すべてがなくなっている。戦争関係のものは、本省の行刑局長ら高官が戦犯としてGHQから逮捕されるのを免れるために、全刑務所に焼却等の処分を命じて証拠を隠滅したものだ。戦争の記録がないのはわかるが、関東大震災当時の記録がないのは合点がいかない。一人職員を紹介するから話を聞いてみるか」

そうして倉見が紹介してくれたのが、横浜拘置支所の刑務官・山岸妙子だった。本書に登場する福田サキの長女である。

そして翌昭和四十七年二月、妙子の母・つまりサキ本人を横浜の自宅に訪ねた。老齢のサキは物静かだったが、穏やかな笑みを浮かべて、刑務所に駆け込んだ体験を語ってくれた。

平成六年三月、私は刑務官を辞職した。小説家になりたいという長年の夢を叶えようと勉強をはじめたのだ。本書の上梓までにじつに三〇年余かかった。つまり私のライフワークとなったのである。

主な参考文献

 

 

 

2013.3.5.

関東大震災の真実に涙が止まらない!~90年間抹殺されていた「奇跡の物語」

全壊の横浜刑務所で何が起きたのか

牧村 康正 1953年、東京都に生まれる。立教大学法学部卒業。竹書房入社後、漫画誌、実話誌、書籍編集などを担当。立川談志の初の落語映像作品を制作。実話誌編集者として山口組などの裏社会を20年にわたり取材した。同社代表取締役社長を経て、現在フリージャーナリストとして活動

3.11東日本大震災」で被災者の人々が見せた秩序ある行動と利他の精神に世界中が感嘆し、「絆」という言葉が再認識された経緯は記憶に新しい。

しかし、さかのぼること約90年前の大正12年(1923)、関東大震災の渦中に、横浜で「究極の絆」を結んだ人々の物語を知る者はいないだろう。なぜなら、この奇跡の物語は長らく歴史から抹殺されていたからである。

作家の坂本敏夫氏は30年の歳月をかけてその史実を掘り起こし、感動のヒューマン・ノンフィクション『典獄と934メロス』を著した。

被災地に解き放たれた囚人934

吉村昭氏の名著『関東大震災』でも触れられることのなかった史実について、坂本氏が知ることになるのは、震災で瓦礫の荒野と化した相模原から横浜の根岸までの悪路40キロあまりを6時間で駆け抜けた一人の女性と出会うことから始まる。

その女性とは、福田サキ。本書の主人公である。昭和47年(19722月の取材当時、68歳。物語の舞台は、横浜刑務所。サキの実兄は、冤罪でとらわれて受刑者となっていた。

関東大震災では、震源地が近い神奈川県は、帝都東京を上回るほどの甚大な被害を蒙った。中心部の横浜にいたっては、世界への大玄関であった横浜港に野積みされていた膨大な石炭が燃え、石油が爆発炎上して、火炎地獄と化す。

当時の横浜刑務所典獄(てんごく・刑務所長のこと)は、弱冠36歳の椎名通蔵(みちぞう)。典獄としては初の東京帝国大卒だった。未曾有の激震によって、外塀はなくなり、舎房などが全半壊、38名の死者、多くの重軽傷者を出した。さらに猛火が迫る状況下で椎名は、囚人全員の「解放」、つまり身体の拘束をすべて解いて放免する緊急避難を断行する。

ただし解放囚は、24時間以内に、戻らなければならない。いったい何人戻ってくるのか――解放に反対した幹部職員たちの危惧をよそに、囚人たちは、一人また一人と帰還を果たすのだが、なぜこの機に逃走することなく、そして帰還後、彼らは、なぜ、過酷な救援活動に自ら従事したのか。さらにこうした記録がなぜ歴史から消されなければならなかったのか――

坂本家は祖父から三代続く刑務官一家。宿命ともいえる本書のテーマと出会い、坂本氏は執念の取材を続け、その謎を解き明かした。さらには、刑務所の中の実態、司法省(当時は、裁判所、法務当局、刑務所行政は一体)の役人たちの権力争いといった背景に迫る一方で、主人公・サキを筆頭に、危機に動じない刑務所幹部の妻たちなど、大正期の女性の美しさ、たくましさを坂本氏は生き生きと描き出す。

数あるエピソードのなかでも、当時18歳だった福田サキが、無実の囚人だった兄・福田達也の身代わりになって横浜刑務所へ出頭する事実に、鮮烈な光を当てる。兄の信頼を守るため危険な荒野を走り抜ける少女の姿は、まさに太宰治の「走れ、メロス」そのもの。そして、帰還を信じる典獄のもとに、阿鼻叫喚の被災地に解き放たれた囚人934人の「メロス」は、もどってくるのだろうか

この『典獄と934人のメロス』(以下『典獄』と表記)を発売1ヵ月半で130冊(228日現在で180冊)も売った本屋がある。売り場面積わずか10坪あまり、どこにでもある小さな町の本屋だが、じつは、どこにもない本屋さんでもある。

上梓までにじつに30年あまりかかった『典獄と934人のメロス』。関東大震災の真実!

二村知子さんが経営する「隆祥館書店」は、今年の大河ドラマのクライマックスとなる大坂冬の陣で、真田幸村が難攻不落の「真田丸」を築いた城跡近くの谷町六丁目にある。

近隣のお客さんのみならず、電車に乗ってわざわざこの本屋を訪ねるお客さんもいる。本屋というよりも、店主の二村さんを訪ねてくるようだ。元シンクロナイズドスイミングの日本代表の二村さんの美丈夫ぶりに惹かれるだけではない。「二村推薦の本にハズレなし」、本の目利きとしてみなから頼りにされているようだ。

作家と親密な関係を築く活動にも取り組んでいる。デビュー作『永遠の0』がまだまったく売れなかったころの百田尚樹さんを招いて始まった『作家と読者の集い』は好評を博している。以降、「街場シリーズ」で大人気となった内田樹さん、原発問題に詳しい小出裕章さんなど、彼女がこれだ!と目を付けた本の著者を囲むこのイベントは、これまでに115回を数える。

『典獄』の著者の坂本さんもそのイベントに招かれた作家のひとりだが、いったい二村さんは、『典獄』にどんな魅力を読み取っていただいたのか――そんな坂本さんの問いかけからふたりの対談ははじまった。

「教養と知への渇望は更生につながる」

二村:刑務所の話だから、ちょっと私には縁遠い世界かなと思って最初は敬遠していたんです。でも読み出したらすぐに引き込まれて魂をゆさぶられるような感動でした。

今は人と人との信頼関係がどんどん希薄になって、インターネット上での<友達>なんて本当に友達かどうかもわからない。でも自分のことを本当に信じてくれる人だったら、自分も同じように相手を信頼する。そういうことを実感したから、こんな時代にこそ読んでいただきたい本やと思って、うちのお薦め本にしました。

坂本:ありがとうございます。

二村:小さな本屋なんで、実話を元に書かれた小説好きな方などに、ぜひ読んでいただきたい感動作だと思ったら、あの人も、この人もと、お客さんの顏が浮かんでくるんですよ。名前をバーッと書き出して、そこからお一人お一人に自分が感動した箇所を説明してお薦めするんです。『典獄』でもすぐにお客さんの顔が浮かびました。

『典獄』でまず私が感動したところは、椎名さんが地方の監獄に赴任していた時の話です。そこの幹部たちは「看守に教育なんかいらん」と考えていたんですけど、椎名さんが看守を相手に監獄法の勉強会を始めたら、予想をはるかに超える反響で、向上心は生まれつき人が持っている特性だと感銘され、さらに学ぶ気風が自然と囚人たちにも浸透して「無知は犯罪を招くが、教養と知への渇望は更生につながる」と確信するんです。椎名さんは、「刑務所は人を更生させる場所」やと言ってますもんねえ。

坂本:そうですね。今の言葉では「更生」なんですが、当時の言葉に直すと「お国のために人材を育てる」ということでしょう。刑罰主義ではなく、教育刑主義の立場にたっていたんですね。

二村:ふつうね、東大法学部を出られてたら検事にも弁護士にも裁判官にもなれるのに、自らすすんで刑務所へ勤めはるところがねえ。やっぱり国をよくしたいという気持ちが凄くあって、囚人になった人たちを更生させて、良い人間を作りたいという、気概があるというか、そこがなんか人として大きいじゃないですか。今こんな人いてはるんかなと。

坂本:いません(笑)。刑務所もまったく変わってしまいましたからね。今はただ預かっている期間中、つまり自分の任期中に、何事もなければいい、任期をおえたら後は知らないよ、という感じでしょう。

私が刑務所に勤め出したのは昭和42年なんですけど、当時は戦前戦中を知っている所長がいらした。ですから「獄舎にいる囚人も、官舎に住む刑務官も、まとめて一つの家族だよ」という意識が徹底していました。

私は、自分がまた小さい(幼稚園児の)頃、父の勤務先の、大井久さんという人が所長を務める豊多摩刑務所の官舎にいました。大井さんは椎名さんの一番弟子です。当時うちの親父は課長でしたが、大井さんは受刑者と一緒に官舎の奥さんや子供に映画を見せてくれたんです。

だから私なんか囚人の膝の上で『鞍馬天狗』なんかを見て拍手していたもんです。月に23回は上映会をやっていましたから、当時としては一般人以上に娯楽に恵まれていたかもしれません。そういう「刑務所一家」みたいな椎名さんの教えというのも、その頃までは着実に部下に伝わっていましたよね。

女性が刑務所の治安の支えた

二村:椎名さんは「囚人に縄と鎖は必要ない」と考えて、信頼に基づいた管理を積極的に推し進めたから、震災で解放された囚人たちは椎名さんの信頼に応えて悪事を働くこともなく、つぎつぎに横浜刑務所へ帰ってくるんですね。その後、市内の復旧作業に尽力する。

その解放囚の中でも、河野和夫という人物が特に印象に残りました。お客さんにお薦めする時に河野さんの話をするんです。外国航路の船員で、本当は船を下りてすぐ遊郭へ、なじみの女郎さんのところに行くつもりやったのに、その途中、ほかの船員と喧嘩して捕まってしまう。

でも、解放された後に、まっさきに女郎さんの安否を気遣い、まだ火煙が立ち上る焼け焦げた遊郭に向かう。そこが男の人っぽいというか。でもその後、右往左往する県職員や市民をよそに、てきぱきと統制のとれた動きで一生懸命に救援物資の荷揚げ作業をしたというのは、やっぱり凄い。

日本の船長や船員さんは船が沈んでいく時でも最後まで人命救助をするイメージですけど、そういう人を勝手に想像してしまいます。坂本さん、この船員さんの話も、本当なんですか。

坂本:もちろん実話です。情報源は横浜刑務所の所長に着任していた倉見慶記(くらみけいき)さんが紹介してくれた先輩刑務官たちです。倉見さんはうちの親父と幹部養成研修の同期生で、昭和47年の8月、横浜刑務所の会議室に震災当時の生き証人たちを集めて座談会をやってくれたんですよ。

倉見さんは退官後61歳で亡くなるんですけど、私は、倉見さんのお嬢さんとは小学校、中学校で同級生でしたから日誌を何冊か預かっています。その日誌にもいろいろと記録が残っています。

二村:永峰という司法省の役人が出てくるじゃないですか、いらんことを吹き込んで、かき回す悪い人が。デマを流して、不始末をでっちあげて椎名さんの足を引っ張って。大規模な解放は前例がなかったことやし、不測の事態が起きれば連帯責任を問われるからでしょうけど、もう永峰の名前は忘れませんわ(笑)。でも現代社会でもありそうなことですけど……

坂本:私たちの時代はもっと露骨ですよ。偏差値が幅を利かせ、学校から職場から全部競争になった。同僚同士で足を引っ張り合い、上にはゴマをする。幹部は23年の着任期間ですから新しいことはやらない。前例を破ってトラブルを起こしたら一発で左遷ですから。お役人の社会は無事故で転勤することが出世の鍵なんですよ。

二村:椎名さんへの忠誠と、己の保身の板ばさみで思い悩む横浜刑務所の幹部に活を入れ、瓦礫と化した所内で椎名さんの後押ししたのは、官舎の台所を預かる妻たちでしたね。刑務所全体が家族であるために、奥さんたちがしっかりサポートしてはる感じですよね。だから椎名さんも志を遂げることができたんじゃないでしょうか。

坂本:日本の刑務所は独特で、外国とは違います。たとえばアメリカはガードマンと処遇官をはっきり分けています。処遇官は囚人と会って話をしたり面倒を見たりするんですが、ガードマンは警備だけです。だから銃も持っています。しかも、刑務官は、刑務所から何十マイルも離れたところに棲んでいる。

日本の刑務官は、処遇と警備の二役をこなすんです。そのうえ、刑務所の敷地内に官舎があって、刑務官はそこに家族とともに暮らしています。これ、じつはとても大事なことです。塀の中の「密室」の世界で、絶対的な権力を持っている看守側が、囚人に対して、それを一方的に振りかざして、いじめることを未然に防いでいる。

出所後、お礼参りに来られたら家族が被害者になる――妻子が担保になっているからといえば、あんまりですが、日本の刑務所が囚人の人権を守っていたのはそんな工夫もあったからだと思います。この小説でも、刑務官の妻たちが果たした内助の功を見ればわかるとおり、刑務所の治安の支えとして女性が重要な役割を果たしています。

人間を簡単に差別したらあかん

二村:登場する女性の中でも、主人公の一人、福田サキさんがすばらしいですね。サキの兄・達也は無実の罪で横浜刑務所に服役していて、解放によって母とサキが待つ実家に帰る。もちろん24時間以内に横浜へ戻らなければならないんやけど、被災したサキの友人を見捨てることができなくて苦悩する。

そこでサキは達也の身代わりとなって40キロの危険な道のりをたどり、横浜へ向かうことになります。ご本にもお書きになっていますが、坂本さんは、サキさんと直接お会いされたんですよね。

坂本:これはサキさんに直接聞いた話です。サキさんの娘さんが刑務官になって横浜拘置支所にいまして、その縁で、サキさんのご自宅に訪ねて行って、この特異な体験談を聞くことができたのです。考えてみれば、かなり奇跡的な巡り会いですよね。

この本の取材ではこういう不思議な出会いがいくつもありました。目に見えない導きがあったとしか思えないんですけど。ところで、二村さんは、元シンクロナイズドスイミングの日本代表でいらっしゃるんですよね。

二村:シンクロがオリンピックの正式種目になったのは1984年のロサンゼルス五輪からです。でもその時はソロ競技だけ。私は8人競技のチームのメンバーだったんで出ていません。日本チームの五輪参加はもうちょっと後です。

私が出場したのは環太平洋パンパシフィック大会のメキシコ大会と名古屋大会です。名古屋ではアメリカ、カナダに次いで日本が3位でした。コーチはもちろん、井村雅代さん。とても厳しい方でしたけど、結果を必ず出す方です。また、プライベートでも一番苦しかった時に心に寄り添ってくださる方でした。うちの『作家と読者の集い』にも来ていただきました。

さっきの話の関連で言えば、シンクロの世界でもコーチになって審判の資格を取得し、上級審判員に上がっていったりすると、永峰っぽい人がいましたね(笑)。だから組織のややこしい部分は少し経験しました。どこの世界でもあることなんでしょうけど。

屋外, 人, グループ, ポーズ が含まれている画像

自動的に生成された説明二村さん、3位となった環太平洋パシフィック大会にて(左から三番目。真ん中は井村雅代コーチ)

坂本:本書はさきほど申し上げましたとおり、すべて、取材をもとにして書いたもので、福田達也、サキさんなどは実名ですが、実名にすることで、ご子孫にご迷惑がかかるかもしれない人の名前や、永峰のような悪役など、匿名にしたり、何人かの人物を合成したりしています。ともあれ、『典獄』、二村さんに気に入ってもらってよかったです。

二村:椎名さんの生き方を伝えたいんです。なぜかというと、1000人もいる囚人の顏と名前を全員覚えてはったんですよね。お互いを対等の人間と認める信頼関係を大切にしようと考えておられたと思います。

世の中には、刑務官とか保護観察官とか鑑定医とか、人間相手で理解されづらい仕事って、けっこうあると思うんですよ。学校の先生にしてもね。そこを、この本を読むことでわかってもらえるんじゃないかなって。とくに、この本に教えられたのは、たまたま罪を犯したからと言って差別したらあかんなぁ……ということです。

娘が中学の先生をしています。今ちょっと育休中ですけどね。凄いやんちゃな学校で、いわゆる指導困難校です。娘は一生懸命がんばる先生で、生徒を怒る時は怒るんですけど、怒りっ放しじゃなくて親御さんのとこまで行って、その子をなんで叱ったのか説明したりするから、卒業後も親が電話かけてきはったりするんですよ。「高校を(悪さを咎められて)退学させられるとかこどもがゆうてるのですが……」という相談みたいなね。

そうすると娘はバーッとその高校に電話して「今は休職中だけど、その子の中3の時の担任で、ちょっとやんちゃなとこもある子やけど、けっして悪い人間じゃないから退学にしないでやって欲しい」とお願いするんです。

そしたら今度はその子が交通事故を起こして捕まったと、また親から電話かかってきたらしくて、警察まで行ったらしいんですよ、面会にね。それで、署名とかしたら少年院送りじゃなくて出れるみたいやねんけども、そういうことをやることが、その子にとっていいことなのかどうか、すごく考えたらしいんです。

娘が悩みながら家へ帰って旦那さんに「署名をどうするべきか」ということも含めて相談したら、「もう、自分たちの子供もできてんから(先生の仕事も大切だけど、家族も大事だから)、そういう付き合い控えたらどうかな……」と言われたらしいんです。

ちょうど、私がこの『典獄』を読んでてね、「旦那さんの言い分は違うと思う。やっぱり、あんたがやってることが正しいと思うよ」と言ったんです。そのくらい、この本は人間を簡単に差別したらあかんていうことをしっかり書いてますよね。

坂本:いや、その話を聞いた時にちょっと涙出てきてね。娘さんにもお会いしたんですけど。

二村:私もこの本を読んでなかったらね、どちらかというと娘を止めたかもしれないんですよ。やっぱり親としての人情って、そうでしょう。でも、もっと大切なことをこの本に教えてもらったというか。

解放措置は大失敗ではなかった

坂本:刑務所の話をしますと、実際、一番面白いのは現場で囚人たちと接する仕事なんですよ。ただ、刑務官は試験で入ってきますから勉強ができる子ばかり増えて人の扱い方を知らない。

だから現場の仕事ができない。そうするとその子たちは人の扱いを覚える前に勉強して幹部になる。だから幹部の多くが現場の苦労を知らない。現場の悩みだとか相談を処理できない。右肩上がりの経済が続いていた時代は刑務官のなり手が少なくて世襲が多かったんです。

だけど今の若い人はみな将来に対する不安がいっぱいで、親も含めて公務員志向が強いから刑務官のなり手は増えるかもしれない。ただし、この仕事は安定していることは確かですけど、このままでは刑務所は更生のための教育現場にはならないですよ。

二村:椎名さんが生きていたころのようにはいかないんですか。

坂本:戻したいと思って書いてるんですけど。

二村:そうですね。この本を読んで、椎名さんのような刑務官を志す人がおられたらいいんですけど。

坂本:いてほしいですね。ちゃんと刑務官になろうと思ってなってほしいですね。こういう仕事だとわかってね。じつは典獄や刑務官を描くのは、ライフワークなんです。書き足りていないことはまだまだあります。

命懸けで人生を戦い抜いて報われずに亡くなった人が大勢います。彼らの思いを活字にして真実を掘り起こしていきたいなと思います。刑務所関係だけでも明治以降、戦中戦後、現在に至るまで、真実がまったく伝わっていないことが多いんです。

しかも戦後、世情が落ち着いてきて管理統制がすすむにつれて、刑務所の中は、世間の視線から遮断され、ますます見えなくなっています。

たとえば、本書で椎名さんが断行した「解放措置」は、大失敗だったとされていたんです。解放囚が略奪行為を働き、さらに朝鮮人の虐殺を招いた引き金になった、つまり、帝都一帯を大混乱に陥れた張本人が椎名さんだと、刑務官当時の私も、そう教えられていました。

二村:坂本さんがこの小説を書いておられなかったら、椎名典獄の素晴らしい行いが世の人に伝えられなかった。

坂本:おまけに椎名さんは、敗戦後、司法省のスケープゴートにされて戦犯に仕立て上げられてしまいます。

この本が出た後、椎名さんの故郷の山形県寒河江(さがえ)市に一族がようやく集まれたみたいですよ。つまり、これまで寒河江では、戦犯となったことで、白眼視されて、通蔵さんの三人の娘さんはみな故郷を離れたようです。

「戦争に負けたのはこいつのせいだ」というぐらいの見方までされたようです。椎名家は大地主ですから、やっかみもあったのかもしれません。この本が出るまで寒河江で椎名さんの汚名は晴れなかったんですね。

一族集合の知らせは椎名さんの三女の息子さんからもらいました。出版について感謝の言葉もいただいています。今、山形で本屋さんや図書館回りをして、特設コーナーを作ってくれという話をしているそうです。

二村:坂本さんがこの本を書くことによって椎名さんの一族も救われたし、ちゃんと現代の私たちにも、椎名さんや、横浜刑務所におきていた、ほんとうの史実が伝わったんやから、すごい感謝です。

 

 

 

 

 

 

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