駒形丸事件  秋田茂/細川道久  2021.4.12.

 

2021.4.12.  駒形丸事件――インド太平洋世界とイギリス帝国

 

著者

秋田茂 1958年生まれ。英国史。阪大教授。『イギリス帝国とアジア国際秩序』で大平正芳記念賞、『大英帝国の歴史』で吉野作造賞

細川道久 1959年生まれ。カナダ史、イギリス帝国史。鹿児島大教授

 

発行日           2021.1.10. 第1刷発行

発行所           筑摩書房 (しくま新書)

 

 

はじめに

バンクーバーのコール・ハーバーの遊歩道脇に「駒形丸メモリアル」の記念碑が建つ

駒形丸は大連市に本拠を置く神栄汽船所有の3085トンの貨客船。1890年スコットランドのグラスゴーで建造、ドイツの船会社が購入してヨーロッパの移民をカナダやアメリカに運んでいたが、1913年神栄汽船に売却され、駒形丸と命名されて、門司・香港間の石炭輸送に使用

1914年、神栄汽船とインド人商人グルディット・シン(18601954)が貸船契約を締結

4月、シンが募ったカナダへの移民希望インド人を乗せ、日本経由バンクーバーに向かう

5月、バンクーバーに到着するも、2か月間接岸許可なく、20人を除く352人を乗せたまま太平洋を戻る

9月末、コルカタ近くに戻るが、20㎞離れたバッジ・バッジに移動させられ、乗客の多数が現地政庁の警察と軍によって監禁・殺害された(コルカタの悲劇/虐殺)

イギリス帝国の自治寮であるカナダが、同じ帝国臣民であるインド人を公然と排斥することはできなかったし、既に南アフリカでマハートマ・ガンディーが排斥に抗議しているように、インド人の処遇問題は、イギリス帝国全体に影響を及ぼしかねなかった

その一方で、イギリス帝国に限らず、欧米世界には、インド人を含むアジア移民を蔑視する考えが根強く、カナダの入国制限は当然視されていた

同時に、インド人移民の多くは生活困窮者だったが、宗主国イギリスのインド統治に対する抵抗運動との関わりの疑いがもたれた。世界各地に支援する知識人がいた。抵抗運動の主力は、パンジャーブ地方の「尚武(しょうぶ)の民」であるシク教徒

駒形丸の乗客の大半はシク教徒で、帰路大戦が勃発し、シク教徒への監視が強まる

コルカタの悲劇は、シンガポール(海峡植民地)で起きたインド軍歩兵部隊の反乱や、パンジャーブ州アムリトサルでの虐殺事件などとともに、戦後インド・ナショナリズム高揚のきっかけとなる

インドはイギリス帝国を経済・軍事面で支えてきた重要拠点だったため、インド・ナショナリズムの台頭に対してイギリスは、同盟関係にあった日本の協力を得ることで、「インド太平洋世界」を安定させ、帝国支配の維持を図ろうとした

「駒形丸事件」は、広域の世界の歴史的動態と結びつけて捉える必要がある

「インド太平洋世界」とは、アジアとアメリカ大陸からなる「アジア太平洋世界」に、南アジアや南アフリカなどを含めた「環インド洋世界」を加えたもので、「アジア太平洋世界」よりも歴史的実態に即し、地域的繋がりを理解するのに有効な枠組み

駒形丸の辿った航路は、自由貿易港の香港でチャーターされ、上海、門司、横浜を経由してバンクーバーに向かい、帰りは横浜、神戸、シンガポール経由でバッジ・バッジに到着。この航路は、19世紀の交通革命によって汽船が登場して以降、海底電信ケーブルなど、様々な技術革新によって結ばれたルートであり、モノ・カネ・情報を運ぶルートでもあって、「インド太平洋世界」は歴史的な実態を伴う「広域の地域」といえる

本書では、ローカル(地方)、ナショナル(国家)、リージョナル(広域の地域)、グローバル(地球世界)4つの層での相互の結びつきを重視するグローバルヒストリーの手法を使って「駒形丸事件」を描き、事件がインド・ナショナリズムの勃興のみならず、イギリス帝国体制の変容、日本を含めた「インド太平洋世界」の台頭を促す契機にもなったことを示す

事件を紹介しながら、それを素材としてローカルな歴史をリージョナルやグローバルな歴史に接合するとともに、移民史・政治史・経済史などと融合させることで、19世紀末から第1次大戦にかけての時期に関する、アジアからの新しい世界史像を提示する

本書は、「駒形丸事件」を素材とした、グローバルヒストリー研究の手法を駆使した「繋がる歴史」である

 

第1章     1920世紀転換期の世界とイギリス帝国の連鎖

1.   イギリス帝国の構造

イギリスの公式帝国の代表的な植民地がインド

もう1つの重要な領域がカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどの白人定住植民地で、19世紀中葉以降、内政自治が認められた。その代表がカナダで、1848年に議院内閣制に相当する「責任政府」が認められ、1867年にイギリス帝国内の自治領として「カナダ連邦」が発足

 

2.   「アジア間貿易」の形成と移民

世紀転換期のアジアでは、杉原薫の提唱によるアジア独自の地域間貿易が形成され、成長率では宗主国向けの貿易を上回る。中心はインドから中国向けのアヘンの輸出であり、世紀転換期以降は綿工業に関わる「綿業基軸体制」によって支えられていた

19世紀は、国際的な労働力の移動(移民)が「自由」な時代であり、モノ・カネ・ヒトなどの生産要素の取引に関しても「自由主義」が貫徹していた時代

18401940年のヨーロッパからの大陸間移動による移民数は53百万人、うち7割が北米大陸、2割が南米、7%がオーストラレーシア。何れも個人の自由意志による移民

白人に民が急増した要因として、1869年のスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道開通があり、自由意志による移民は海外での経済的機会に魅せられた本国の都市居住者が多い

こうして白人自治領(ドミニオン)が形成され、人種的・文化的な紐帯を通じて、本国と緊密な関係を維持、出身国への帰国も容易となり、4割近くは帰還したと言われ、移民が事実上出稼ぎ労働化した

アジアからの移民数は、同時期に46.6百万人だが、地域内に移動する、帰国率の高い出稼ぎ型が多かったが、1807年イギリスの奴隷貿易が、1833年には奴隷制が撤廃され、アフリカ系の黒人奴隷の労働力がアジア人に取って代わられた

 

3.   日英同盟とインド太平洋世界

世紀転換期の帝国主義戦争である第2次ボーア戦争での残虐行為が列強諸国からの非難を浴びると、英帝国は「光栄ある孤立」からの根本的転換を図り、他国との同盟・協商関係に転じるが、その最初の成果が日英同盟であり、05年の第2期の更新では、適用範囲が英領インドまで拡大され、同盟が対外的な勢力拡張を目指した関係に変化

 

4.   「帝国臣民」としてのインド人移民―南アフリカにおけるガンディー

世紀転換期のインド人移民は、熱帯地域の王領植民地で労働力となった年季契約労働者=苦力移民coolie emigrationだったが、当時から賛否両論あり、現地のインド政庁を巻き込んで、契約条件や入植現地での労働環境をめぐって論争があった

最初の苦力移民は、1834年のモーリシャス移民で、ジャマイカや南アフリカにも拡大したが、当初は熱帯王領殖民地の資源開発等への多大な貢献が前向きに捉えられていた

問題となったのは自治植民地で、最初は南アのナタール。1893年に責任政府が認められ、プランテーションの砂糖生産を主力とする1次産品の輸出に依存、年季契約労働者としてインド人移民が不可欠。1893年、イギリスの法廷弁護士の資格を持つマハートマ・ガンディーがムスリム商人の依頼を受けてプレトリア(トランスヴァール共和国の首都)に来て法廷弁護士の地位を確立。翌年、ナタール政府のインド人参政権制限法提出に際し、帰国を中止してインド人移民社会を率いて抗議運動を展開。合法的活動は1915年の帰国時まで続く。「帝国臣民」でありながら、肌の色や人種による差別、資格剝奪に対し抗議。英領インド人がインドを離れた際、他のイギリス帝国の臣民と同様の法律上の地位を享受できるのか、帝国領土間を自由に移動できて友邦諸国において帝国臣民の権利を主張できるのかを問い掛け。帝国内の移動・定住の自由は、大英帝国最大の独自性であり、本国政府が帝国の威信にかけて保証してきた

特にインドでは、世紀中葉の「インド人大反乱」の帰結として、1858年にヴィクトリア女王の「女王布告」が、人種・宗教・言語・文化の違いを超えた平等を掲げる帝国統治の基本原則として、形式的な規定力を持っていた

1896年、ダーバン港騒擾事件 ⇒ ガンディーの抵抗運動が、インド人移民の入国制限やインドへの送還要求を誘発するとともに、彼個人への批判と反発にも及び、一時帰国後のダーバンへの再入国が拒否された事件。インドでのペスト流行を口実に長期間港外に停泊させられ、漸く上陸した際に現地住民から危うくリンチされるところだった

ナタール政府が反インド人法案を提出したのに対し、ガンディーはチェンバレン植民相に「帝国臣民」論を基に抗議を表明。ガンディーは報復として白人を憎まないよう努め、やがてサティーヤーグラハ(非暴力主義)の実践を経て1909年の「ヒンドゥ・スワラージ(インドの自律統治)」論に結実

ガンディーは英領インドがイギリス公式帝国の一部であり、正規の帝国構成員であることを内外に示す努力を重ねる。第2次ボーア戦争やズールー族の反乱ではインド人移民からなる1100人の「インド人野戦衛生隊」を組織してイギリス軍に貢献、高い評価を得る

ナタールでのインド人移民の政治的諸権利の制限は進む一方、02年一時帰国以後のガンディーは南ア最高裁での弁護資格を有する著名な法廷弁護士として、インド系移民の権利擁護に本格的に取り組むが、次第に帝国に対して懐疑心を抱く

ガンディーの帝国への「反乱」の始まりは、1906年のトランスヴァール共和国によるアジア移民登録法案の提出。新たな戦略としてサティーヤーグラハを宣言

1906年、トランスヴァールは自治領の地位を獲得、アジア人登録法を制定し、登録拒否を呼びかけたガンディーは翌年逮捕・投獄

1909年、南アの諸自治植民地統合の動きが現実化、連邦結成によるインド人問題の悪化を懸念したガンディーは本国政府に「帝国臣民」の権利擁護を働きかけるが拒絶

失望したガンディーが編み出したのが「ヒンドゥ・スワラージ」だが、1920年代以降の主張とは違って、あくまで本国の自由主義的価値観、伝統に基づく観光と慣習に敬意を払い、「帝国臣民」としてインド系住民の自己主張を展開する穏健なナショナリズム

 

第2章     インド・中国・日本――駒形丸の登場

1.   中国人・日本人移民の排斥

先住民のカナダに最初に入植したのはフランスで17世紀初頭だったが、1世紀に及ぶ英仏戦争の結果イギリスが勝利し、19世紀中葉には内政自治が認められた

1867年、東部の3植民地がまとまり、4(オンタリオ、ケベック、ノバスコシア、ニューブランズウィック)からなるカナダ自治領誕生、連邦体制が敷かれる

対外交渉権は1931年のウェストミンスター憲章まで、憲法に相当する英領北アメリカ法のカナダへの移管は1982年まで待たなければならない

カナダは、帝国政策への貢献を通じて徐々に自立を目指し支配-従属の関係から対等へと少しづつ変化していくが、その過程で駒形丸事件が起こった

最初のアジア系移民がカナダに来たのは1858年の中国人で、西岸のフレイザー川での金鉱発見がきっかけ。次いで1880年代のカナダ太平洋鉄道の建設本格化に伴うもので、イギリス系中心の白人住民からは、賭博・アヘン・売春の「三悪」の原因として忌避

1860年には既に中国人移民の上陸に当たっての人頭税や、移民制限の要求が出るが、鉄道建設のための労働力確保が優先、85年の鉄道完成後に制限に転じる

1923年中国人移民排斥法発効、47年まで特定の人を除き入国禁止に(史上唯一の例)

日本人移民の第1号は1877年の長崎出身の永野萬歳、23年帰国。本格移民の開始は1880年代後半以降で、上陸したのはバンクーバーで、1887年には横浜との定期航路開設

日本人移民は、中国人移民に代わる安価な労働力として期待されたが、次第に勤勉さが白人労働力の脅威と見做され排斥の動きも出たものの、1906年にはカナダも日英通商航海条約に加盟して、日本との友好関係が優先された

1907年バンクーバー暴動 ⇒ 中国人街と日本人街をアジア人排斥同盟の白人が襲撃、収拾のため日本人移民を年400人に制限するが、定住志向が促され、白人側の排斥熱は激化、第2次大戦での強制収容措置の結果、日本人移民社会は壊滅的な打撃を被る

移民排斥の動きがアジア系に拡大、米加に大洋州の排斥派も加担 ⇒ 黄禍に対する白人側の勝手に引いた防衛線(カラーライン=人種差別境界線)を超えようとしたための摩擦

 

2.   インド人移民排斥――「連続航路規定」

インドからの移民の開始は1897年で、中国移民の代替だったが、1900年代初頭には急増したため排斥熱が一気に高まる

当初カナダ政府はインド人を「帝国臣民」故に排斥できないとしたが、1907年のバンクーバー暴動以後は、人数制限の代わりに「連続航路規定」を設け、出生した国(国籍保有国)から連続航路を通り通し切符でカナダに到来しなければならないとした。コルカタ・バンクーバー間の直行便がなかったために通し切符は不可能

1914年までには、これに最低所持金規定が追加され、再々の移民法違反との司法判断にも拘らず実質インド人を狙い撃ちした規制が続いていた

インド人移民で無視できないのが、反英・反植民地主義の活動家たちの存在で、1906年あたりから、ヨーロッパや日本を経由して北米に到来、特に西海岸では活動が大規模に展開され、監視が強化されていた

 

3.   グルディット・シンの事業計画と日本帝国

駒形丸をチャーターして、香港を拠点に、北太平洋横断航路でカナダや南米・ブラジルへのインド系移民輸送に乗り出したのが、シク教徒の実業家グルディット・シンで、海峡植民地では過酷な苦力労働に批判的な経営者として注目される存在

香港から北米への移住希望者の急増に着目して、移送事業参入を企図、神栄汽船との間で6か月の傭船契約締結、船員は全員日本人

香港を出発、上海や門司・横浜で乗客を追加、総勢376名全員がパンジャーブ州出身

 

第3章     バンクーバーでの屈辱――駒形丸事件

1.   上陸拒否

バンクーバーの検疫は通ったが、移民局からの上陸許可は下りず

移民局の審査・尋問が長引き、シンは不当な扱いに抗議、地元のインド人移民からなる「沿岸委員会」が間に入って上陸の交渉をしたほか、食糧や水、資金面で支援

移民局は武力による強制退去を目論み、連邦政府に打診したが、政府は却下し、控訴審に委ねられる

 

2.   裁判

争点は、移民管理を総督から内務省に移管した1910年の移民法と、同法に沿って具体策を講じた枢密院令(連続航路規定と最低所持金規定、労働移民の上陸禁止規定の3)の州法に対する、1858年の女王布告の効力であり、さらには、「連続航路規定」が外海の航行を制限しているという越権性、所持金規定や労働移民の禁止規定が人種差別であるとの疑念

裁定は、カナダ側に移民に関する法的措置を講じる権限があるとし、移民局の判断の正当性を認めたもので、判断内容自体の評価はせず

乗客側は、連邦最高裁上告の道はあったが断念し、香港への帰還の方策の検討に入る

審理を通して、白人側の人種意識が浮き彫りになったほか、裁定結果が今後のカナダとイギリスの関係、ひいてはイギリス帝国体制の在り方を変えることになった

カナダが入国認可の判断を独自に決められるというのは画期的な裁定。自立を強める自治領の前に帝国の法体系にほころびが生じ、自治領と本国の権限の境界は曖昧になる中、1州の1裁判所による裁定にも拘らず、本国が異を唱えることはなく、1918年には帝国戦時内閣がすべての自治領に移民に関する政策決定を行う権限を承認し、23年の帝国議会で確認され、1931年のウェストミンスター憲章では、イギリスと自治領は王冠への共通の忠誠によって結合された共同体であるBritish Commonwealth of Nationsを築くとされた

この裁定では同時に、カナダが持つ権限の独自性と法的措置の普遍性を前提としながら、アジア人種を他の人種と区別するのは問題ないと判断。欧米世界で広く共有された、人種を「優/劣」「文明/野蛮」で区別する見方を判事たちも抱いていた

インド人移民の排斥を正当化するのに、先住民を引き合いに出しているのは興味深い。先住民に参政権が与えられていないのは、彼らが白人より劣っていて、大人であっても「国王の保護下にある者」。インド人移民は先住民同様劣っており、白人と対等に暮らすのは不適切。インド移民の入国を認めれば、先住民に対し不公平という論理

 

3.   強圧と抵抗

カナダ政府は、250㎞以上の自主退去と引き換えに水や食料の補給を無償で行うとの妥協案を提示する一方で、北米のインド移民の側に駒形丸支援の不穏な動きが散発したこともあって、州移民局は強硬に退去通告を発布、武装警官隊を伴って退去させようとしたが、駒形丸乗客の反抗にあって失敗

 

4.   退去

現地での対応の失敗を受けて、カナダ首相は海軍と閣僚を現地に派遣

本国政府はカナダに干渉せず、パンジャーブ州への悪影響を回避するためにもカナダ首相に対し平和的な解決を要請

連邦政府は、移民局の強硬姿勢を抑えて、乗客との交渉を再開。食糧・物資の補給と引き換えに香港への帰還することで妥結、2カ月ぶりで出航

 

5.   駒形丸退去後のカナダ

カナダ政府が、インド人移民の処遇を、カナダのみならずイギリス帝国の問題として捉えていたことが、穏便な解決に導いた

移民局のNo.2で解決に前向きに奔走していたホブキンソンは、半年後にシク教徒によって暗殺

1915年、インド相のオースティン・チェンバレンは、カナダ首相に、カナダとインドの間に移民政策に対して開きがあることを指摘、カナダの対インド移民排斥にインド政庁が困惑していると伝え、シク教徒が帝国にとって最良の兵士であることに触れたうえで、インドへの歩み寄りを求める

カナダ側も、妻子呼び寄せの許可などに動くが、排斥措置を緩和したのは、割当移民制を導入した1951年で、1967年人種による移民排斥措置を完全撤廃

駒形丸事件から50年間、「ホワイト・カナダ」政策は続いた

 

第4章     駒形丸事件の波紋

1.   寄港地日本での駒形丸――横浜から神戸へ

日本政府は当初から、民事の事項として非干渉の姿勢を堅持したが、現地領事から加藤高明外相宛ての報告では、日本人を含むアジア人排斥の機運の中で、矛先がインド人に向けられていることは日本人移民にとってはありがたいと、自国第一主義を表明

8月、横浜港入港。香港政庁から上陸は望ましくないとの書簡を受領

警視庁は、寄港中にグルディット・シンが在留印度人を扇動し兼ねないとして警戒

現実には、横浜か神戸で持ち込まれたとされる銃器が、後に「コルカタの悲劇」を招く一因となった可能性が高い

神戸ではイギリス総領事館とインド政庁との間で、駒形丸の最終目的地と経費負担の問題が議論され、インド政庁はグルディット・シンの要求を全面的に受け入れ、最終目的地はコルカタと決定

シンガポールでは乗客の上陸は許可されず、飲料水の補給のみ

1週間で無事ベンガル湾を航行し、コルカタ近郊に到着

 

2.   「コルカタの悲劇」――バッジ・バッジ騒乱

1次大戦勃発直後にインド総督が「インド入国管理規定」を制定し、不審者の入国の自由を制限しており、ベンガル政府が駒形丸に適用を決定し、バッジ・バッジで停船した後特別列車で出身地のパンジャーブ州に送還しようとしたが、応じたのはムスリムの62名だけで、シク教徒はグルディット・シンを先頭に徒歩でコルカタに向かおうとしたため、軍隊の出動となり、平和裏にバッジ・バッジに戻ったが、突然警官隊との小競り合いが始まり無差別の発砲で双方に多大の死傷者を出す

総督は、インド人ナショナリスト穏健派を宥めるとともに、大戦へのインド軍兵士募集への悪影響を恐れて調査に乗り出し、一定の効果はあったが、後に出されたグルディット・シンの回想録での主張とは平行線

 

3.   シンガポールにおけるインド軍歩兵連隊の「反乱」

虐殺の背景に潜む根本的な疑問に答えるには、第1次大戦におけるインド軍の役割と、兵士としてのシク教徒の位置を考える必要がある

インド軍は、19世紀初頭から「イギリス帝国拡張の先兵」としてアジア・アフリカ諸地域に派兵され、第1次大戦では派兵地域が世界的に拡大され破格の貢献をする。中でも、シク教徒はネパールのグルカ兵と並んでインド軍の主力部隊を構成するとともに、世界各地でも治安維持にあたる植民地警察の主力を担っていた。中でもパンジャーブ州出身のシク教徒の活躍が際立つ

開戦時にシンガポールに移動したマラヤ土侯国守備隊は、パンジャーブ系ムスリム兵士が東アフリカ戦線への派兵を拒否したため、砲兵を残して元の駐屯地に戻された。その背景には開戦直後から展開されていた北米ポートランドを本拠としたパンジャーブ州出身のシク教徒を中心としたインド人移民による反英武装闘争があり、イギリスの苦境に付け込んで世界各地のインド系住民に立ち上がるよう呼び掛けていた

そんな中で起こったのが駒形丸事件で、植民地当局の情報統制をかいくぐってインド人移民ネットワークに広まり、インド政庁への非難が高まり、政庁側はインド入国者に対する厳しい検閲を維持

19152月、シンガポールにて駐留インド軍歩兵連隊の「反乱」勃発 ⇒ 800名の連隊の大半はパンジャーブ州出身のムスリムで、劣悪な待遇に加え帝国の戦争目標と海外派兵計画に疑念を抱き、香港への移動命令を拒否して蜂起。オスマン帝国が対英交戦状態に突入したことも影響。ドイツ捕虜を解放するも捕虜たちは反乱への加担を拒否。当局は日英同盟を通じて日本にも支援を要請、義勇民兵隊を組織して支援、国際的な軍事協力もあって間もなく鎮圧、首謀者たちは公開処刑

 

4.   「駒形丸事件」からアムリトサルの虐殺へ

シンガポールでの反乱は、穏健派ナショナリストに指導されていたインド国民会議主流派の注目を集めることはなく、15年末の会議では英国王への忠誠が表明された

翌年から、急進派が復帰して、国民会議派とムスリム連盟が共同で自治を要求し始める

会議は指導部は、戦後の自治容認を期待して、イギリスへの戦争協力の方針を堅持し、パンジャーブ州の活動家に対する当局の仮借ない弾圧によって「過激派」は抑え込まれた

大戦終結時、自治容認の期待は「ローラット法案」によって裏切られる ⇒ 戦後のインフレとモンスーンによる死者の増大等厳しい社会経済状況にあって、政庁は批判活動を封じるために強権的な法案を成立させる

最大の兵士を供給したパンジャーブ州は特に戦争による疲弊感が強く、1919年アムリトサルで非武装の不満分子が立ち上がり、軍隊が無差別に発砲、多数の死傷者を出す

政府の調査委員会とは別に、国民会議派も調査を開始、一連の経緯として駒形丸事件にも言及しその記憶が蘇る

20年には、ガンディーもサティーヤーグラハの再開を提起、第1次不服従運動が英領インド全域に拡散、ムスリムとの連携も実現、新たな大衆運動を基盤とする段階に入る

グルディット・シンは、この間パンジャーブ州に潜伏しながら草の根運動を進め、21年自首、5年の刑期を終えた後は国民会議派の熱心な活動家として働く。非暴力不服従運動で3度の逮捕・拘禁を経験。51年ネルー首相に、駒形丸事件犠牲者の追悼記念碑の建立を請願、首相自身による除幕式を見届けるように54年死去、享年93

 

終章 インド太平洋世界の形成と移民

1.   港湾都市のネットワークとトランス・ナショナリズム

駒形丸の航跡は、帝国の「国際公共財」としての国際航路網整備が前提にある

1912年のタイタニック号沈没事件をきっかけに、大西洋航路を中心に、客船への無線電信設備の装備が義務付けられたが、駒形丸には経費の問題から装備されていなかったが、海底電信ケーブルを通じて、船の航跡などの情報は当局には共有されていた

インド革命運動、反英武装闘争などを主導した政治団体ガダル党などでは、世界を繋ぐネットワークが有効に機能していた

バッジ・バッジ騒乱鎮圧の際も、カナダ州政府からの乗客名簿情報の提供により、インド政庁がガダル党員を逮捕・拘禁している

駒形丸事件には、海外や帝国各地への資金送金のネットワーク、植民地銀行の支店網も密接に関わる。傭船料の送金やインド政庁からの経費支援、各地のインド移民社会からの支援金などが、これらのネットワークを通じて流された

以上の諸事例が示すように、世紀転換期から第1次大戦期に、インド人移民の商業活動と移民を通じて、イギリス帝国の自由貿易港のシンガポール・香港を結節点として、東部・南部アフリカ大陸を含む、環インド洋世界、東南アジアと東アジアの海域世界、さらに太平洋を跨いで北米大陸の太平洋岸に繋がる広大な地域が徐々に結びつくようになり、インド洋と太平洋の2つの海洋世界を繋ぐ「インド太平洋世界」形成の萌芽となる

その過程で新興通商国家日本は、経済的には「アジア間貿易」を支える基軸国として、政治外交的には日英同盟を通じた軍事・安全保障面での対英協力政策により、「インド太平洋世界」における諸帝国の共存体制を支えていた。シンガポールでのインド歩兵連隊「反乱」鎮圧への日本海軍の積極的協力はその象徴的事件

 

2.   「帝国臣民」の論理・再考

「帝国臣民」の諸権利の保証と植民地ナショナリズムとの関係性

イギリス本国政府は、広大な公式帝国支配の普遍性と正当性を主張する論拠として、「帝国臣民」の論理を帝国統治の原理として掲げ、地理的移動や定住の自由を保証し、寛容かつ柔軟に運用、世界帝国を自認したイギリス帝国の政策当局にとって誇りにできる独自性を有していた

被支配民族も、自己の権益確保、利益追求のために、「帝国臣民」の論理を積極的に活用・転用することが可能で、南アでのガンディーの活動も、帝国への信頼と幻滅の狭間で、現地インド人社会の権利擁護のために戦略的に展開

グラディット・シンと駒形丸のシク教徒も同じ論理を利用したが、白人自治領も自立性を強め、本国政府と自治領の権限の境界を曖昧にしていた

駒形丸事件を境に、イギリス帝国のありようは大きく変化、自治領の植民地ナショナリズムのあり方を変える転機にもなった

帝国の境界・国境を越えるトランス・ナショナルな民間人の活動・移動が活発に行われたのが「帝国の時代」であり、「帝国臣民」の権利を論拠として、人々が自由に移動・定住できた「帝国の時代」の特異性・独自性を明確に認識できる

日本が築いた帝国は、植民地と本国が異なる法体系を有する「異法域結合」の帝国

フランスの場合は、植民地住民を本国国民と同等に処遇する「同化主義政策」を採ったが、同等に扱われたのはごく一部で、植民地側に矛盾を突かれ批判された

 

 

おわりに

2016年、トルドー首相は連邦下院議会で、駒形丸事件をカナダの恥ずべき過去として謝罪し、多文化・多民族共存がカナダ社会の根底にあると訴えた

1975年、5歳で呼び寄せ移民としてムンバイからブリティッシュ・コロンビアに来たサージャンは、連隊中佐から下院議員となり、今シク教徒初の国防大臣を務め、謝罪に尽力

事件後も長らくインド人移民への排斥は続き、1971年カナダは多文化主義を国是としたが、当時の議論の対象には、アジア系などの非白人移民(visible minority)や先住民は入っていなかった。1982年憲法改正権がカナダに移管されたのに伴い憲法が制定され、同憲法の「権利と自由の憲章」の中に多文化主義の理念が盛り込まれ、さらに1988年にカナダ多文化主義法が制定され、民族集団の文化の保護に加えて、人種差別の根絶や格差是正が謳われた

最高裁がターバン着用を認めたことから、1990年シク教徒初の連邦警察官が誕生

1989年、バンクーバーのポータル・パークに駒形丸事件の記念碑が建てられたが、インド人移民以外の人々が目にする場所に初めて建てられたもので、1990年代に入ると第2次大戦中の対日対中の扱いを巡る謝罪・補償運動の影響を受けて、謝罪を求める運動に発展

2008年州議会が謝罪決議採択。事件を風化させないための記念事業が活発化、ドキュメンタリー映画もあって事件が広く知られるようになり、首相の謝罪へと繋がる

インドでも、ローカルな記憶からナショナルな記憶へと変容が認められる

1952年のバッジ・バッジでの記念碑建立のほか、今日では「インドの自由のための闘い」として広く称えられるようになった

 

筑摩書房 HP

1914年にカナダ・バンクーバーで起きた「駒形丸事件」。インド人移民の上陸が拒否され、多数の死者をコルカタで出した悲劇である。日本ではほとんど知られていない「駒形丸事件」であるが、この小さな事件を通して歴史を眺めると、ミクロな地域史からグローバルな世界史までを総合的に展望できる。移民史・政治史・経済史を融合させることで、インド太平洋からの新しい世界史像を提示するグローバルヒストリーの画期的な成果。

 

 

駒形丸事件 秋田茂・細川道久著 グローバルな歴史魅力凝縮

2021227日 日本経済新聞

1次世界大戦が始まる直前の19145月、インド北部パンジャブ出身の移民約400人を乗せた貨客船がカナダ・バンクーバーに到着した。乗客は官憲によって上陸拒否され、船内に2カ月留め置かれた後、インドへと退去させられた。日本ではほぼ知られていない事件の経緯を、英国史・カナダ史研究者の2人が史料を駆使して描く。そこには広く太平洋とインド洋を結ぶ人、物資、金融、情報のネットワークが立ち現れる。

事件の背景にあるのは当時の覇権国家、イギリス帝国の存在だ。インド、カナダはいずれも帝国の一部を構成し、双方の住民は建前上、帝国内を自由に移動できた。それでもインド人がカナダに入れなかった点に、大きな矛盾がある。アジア人移民の排斥、人種差別という壁だ。

移民船の名称からも分かるとおり、日本の関わりも大きい。船は日本が中国から租借した関東州・大連に本籍を置き、船長以下の乗組員は日本人。船は往復とも神戸や横浜など日本の港に停泊し、インド人移民も英国当局も、日本を必要な資金や物資の調達、情報収集の重要な拠点として活用していた。

ローカルな出来事を大きな世界史像に結びつけて描く著者の手腕は相当なものだ。近年注目される「グローバルヒストリー」の面白さがぎゅっと詰まっている。(ちくま新書・860円)

 

 

 

Wikipedia

駒形丸事件(こまがたまるじけん)とは、日本船籍の「こまがた丸」(駒形丸)に当時イギリス帝国統治下のイン臣民360人が乗ってカナダへ移民を企てて、1914年にヴァンクーヴァーに到着したが、24人だけは上陸が許されたが、他は追い返されてインドに戻った事件。北アメリカでのアジア人移民排斥の代表的例として歴史に残った。

概要[編集]

シーク教徒のビジネスマンであるグルディット・シング (Gurdit Singh)が「英帝国の臣民は帝国内を自由に移動できなければならない。」という原則に反する規則に挑戦するために、私財を投じて日本船籍の汽船「こまがた丸」をチャーターしたもので、19144月初旬に165名の乗客で香港を出発して、途中上海横浜によって乗客を増やして航海し、結局インド人の乗客はシーク教徒340人、イスラム教徒24人、ヒンドゥー教徒12人に上った。こまがた丸は同年5月末にヴァンクーヴァーに到着したが、ごく少数を除いては上陸が認められず、いくつかの悶着の末に、大多数を載せた船は7月末にアジアへ向けて出発して、9月末に西ベンガル州カルカッタへ到着して、バッジ・バッジで投錨している。

最近の再評価[編集]

2012年にヴァンクーヴァー会議場西ウィング(Vancouver Convention Centre's West Wing)前に駒形丸事件の記念碑が開幕した。

2014年にはナダ郵便公社が駒形丸事件の記念切手を発行している。

20165月、カナダ政府はその違法性を認めて、下院議会で謝罪した。

 

 

 

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