斎藤氏四代  木下聡  2020.6.14.


2020.6.14.  斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず

著者 木下聡(さとし) 1976年岐阜県生まれ。07年東大大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東大大学院人文社会系研究科助教。著書に『中世武家官位の研究』『室町幕府の外様衆と奉公衆』

発行日           2020.2.10. 初版第1刷発行
発行所           ミネルヴァ書房 (ミネルヴァ日本評伝選)

長井新左衛門尉(?1533?)・斎藤道三(150456)・義龍(152961)・龍興(154773)美濃国の戦国大名
僧侶から土岐氏重臣に上り詰めた長井新左衛門尉。下克上により美濃国主となった斎藤道三。父親を倒して国威を増した義龍。織田信長の攻勢により破れた龍興。稲葉山城を舞台に勃興し没落していった4代の軌跡を描く

人天(にんでん)を守護し、仏想を伝えず
義龍の残した言葉。「三十余年 守護人天 刹那一句 仏想不伝」。晩年禅に傾倒したことを示すような辞世の句ならぬ偈(けつ)


はしがき
斎藤道三といえば、「まむし」で知る人も多く、信長の正室・濃姫の父であり、うつけと呼ばれた信長の真の姿、恐ろしさを見抜いた人物として知られる
道三の前後を知る人は少ない。土岐氏、道三以外の斎藤氏について連想されやすいのは、滅亡時のだらしないイメージだが、龍興は元服間もないのに信長の侵攻を数年にわたって防ぎ、義龍も父子争いのあとを速やかに収拾し、道三の仇を討つべく攻撃の隙を窺う信長に対しつけ入る隙を与えない手腕を見せた
六角承禎条書の発見が、本格的な斎藤氏研究の始まり
本書のタイトルを『斎藤氏四代』としたのは道三だけでは戦国期の美濃とその周辺を理解するのに不十分であり、かつ道三と同じぐらいに興味深い一生を遂げた新左衛門尉・義龍・義興にも光を当てるため
4代のうち「斎藤」苗字だけを用いたのは1人もいない。『岐阜県史』『岐阜市史』にもあまり筆を割かず、資料も少なく、徐々に研究対象となってきているので、さらなる議論の活発化を目指して本書を呈上

序章 前斎藤氏の隆盛と衰退
戦国大名の斎藤氏はもともと斎藤氏ではなく、美濃国守護代斎藤氏の苗字を名乗ったものであり、便宜的に元々の斎藤氏を前斎藤氏、戦国大名を後斎藤氏と呼び習わすことが研究史上行われている
美濃の守護は南北朝初期の土岐頼定以降戦国期に至るまで一貫して土岐氏。守護代は1444年に富島氏から斎藤(入道宗円)氏に代わる
1525年、美濃国内で跡目争いが起き、浅井方の土岐頼芸が家督を奪取するが、その中で頭角を現したのが長井新左衛門尉

第1章        長井新左衛門尉の台頭
長井新左衛門尉とは、かつて道三の前半生とされていた生涯を過ごした人物で、僧侶から還俗し、美濃に来て土岐氏の重臣に上り詰めたことが、『六角承禎条書』で明らかにされた
同書では、「道三が長井惣領を殺して乗っ取り、斎藤苗字を獲得」ともある
一昔前は、北条早雲と斎藤道三を下克上の代名詞としたが、北条早雲は室町幕府政所執事伊勢氏の一族の伊勢新九郎盛時が前身だったことが分かり、幕府内のエリート武士で、現在は実際に称していた伊勢入道宗瑞(そうずい)の名がよく用いられる
道三も、自身守護家重臣の立場からスタート、主君土岐頼芸(よりのり)に取って代わってはいるが、極端な下克上ではない。父の方が出世具合は上
新左衛門尉の父とされる日野氏の北面の武士・松波氏は実在するが、基宗の名は見えず、詳細は不詳。生地、年代ともまた不詳
日蓮宗の僧侶であることは、現在道三と義龍の肖像画があり菩提を弔っている鷲林山常在寺も日蓮宗なので、まず間違いない
還俗後美濃に来て斎藤氏重臣長井氏に仕えるが、その間の経緯も不詳
長井新左衛門尉の史料上の初見は、1526年東大寺定使が荘園のある美濃に来た際現地の有力者に贈り物をした相手方として記載
土岐家中全体が激動の時代を迎えていた

第2章        「斎藤」氏へ
道三の生年には2説、1494年と1504年とあるが、本書では『美濃国諸旧記』により1504年をとる。実名は当初長井新九郎規秀
土岐家中の争いで、道三はかなりの功績を挙げた模様で、土岐家内での立場を一層強固なものへと高める

第3章        道三、美濃国主へ
1543年、大桑城の攻防を巡る戦い ⇒ 土岐頼芸が滅ぼした兄頼武の息子頼充が家督の早急な引き渡しを求めたため道三が攻めたものだが、尾張に追われていた頼充が朝倉・斯波の支援を受けて美濃帰国を目指したのが翌44年の戦いで、頼芸と道三は協力して防戦するも北から朝倉、南からは織田信秀(信長の父)が稲葉山城下に迫り火を放ってかなりの損害を与えるが、最終的には道三の勝利に終わり、翌年和議で、家督は頼充に譲ることを確認したうえで、道三が頼充を婿に取る
47年、頼充急逝。道三の関与が疑われる。『信長公記』には冒頭道三について多く記述しているが、その中に次郎(頼芸の子としている)を毒殺したとあり、その後頼芸を追放したことを記し、道三の行状を揶揄した落書「主を切り、聟を殺すは、身の終わり 昔は長田 今は山城」が稲葉山の登り道に掲げられたとある。「身の」は美濃、「終わり」は尾張をかけ、昔は義朝を殺した長田忠致(ただむね)、今は土岐次郎を殺した斎藤山城守道三だという旨趣
次郎の死後、その兄弟たちも悉く道三によって殺害されたことが知られている
その後信秀が何度か美濃を攻めるが道三に撃退され、松平を吸収した今川氏が東から攻めてきたり、織田家の内紛などが絡んで、道三の娘を嫡子信長の室として迎えることを画策、実現したのが49年と推定
50年、道三が頼芸を追放 ⇒ 頼芸と姻戚関係にあった六角氏が三好氏の台頭で近江に避難してきた将軍の面倒を見るのに汲々としていたこと、朝倉も代替わりで脅威とはならなくなっていたこと、土岐家中には道三の実力が知れ渡っていたことから大した摩擦もなく追放は完了。頼芸は当初六角氏を頼ったが、その後は武田信玄に寄寓し、信長によって討たれた際生け捕られ、旧臣の稲葉一鉄によって美濃への帰国が叶い、同年没した
道三の国主としての統治に関わる史料はほとんど残っていない ⇒ 発給文書46通のみ
美濃は将軍直臣で軍事・支配の要である奉公衆・外様衆家の数が非常に多い国で、道三が土岐氏を追放したと言っても、美濃国全体を支配したわけではない
幕府との関係では、頼芸が追われた直後、美濃帰国のために今川・織田へ協力するよう指令が出ているので良好とは言い難いが、53年の伊勢神宮正遷宮費用供出には道三も頭数に入っているので、美濃国主として黙認されていたことが分かる
朝廷との関係でも、1555年に太刀を下賜されたお礼を献上していることが史料に見える程度 ⇒ 前年に義龍に家督を譲ったことに関してのこと?
近隣では、六角氏が当面一番の敵。近江浅井氏は義龍の室に浅井亮政の娘を迎えているので問題なし。越前朝倉氏は代替わりであまり干渉せず。織田氏は信秀が52年病没したが信長が娘婿であり最も頼りになる相手。本願寺とは美濃に一向宗徒が多い関係上門徒の横暴に対処してもらうためにも盛んに交流がなされ良好な関係

第4章        道三と義龍
道三には多くの子女がいるが、嫡子が義龍なのは不動、その他は資料によってまちまち
庶長子と言われるのが隼人佐。出家入道して不甘(ふかん)と名乗っていた。義龍の8歳上。元は東の抑えとして兼山城に住む
次男・孫四郎、三男・喜平次(いずれも名前については異説あり)は、義龍が病と称して床に就き、そこへ見舞いに来た2人を殺害して、父道三と決別する契機とされた
道三の遺言状というのがいくつかあり、文章に異同があるが、主な内容は、美濃を信長に譲ることと息子を京都の妙覚寺に入れて出家させ、その功徳により成仏が約束され、道三は戦場で悔いなく戦えることの2つだが、息子が誰を指しているのかは不詳
娘は系図では10人前後とされるが、正確には不詳。濃姫(名は帰蝶といわれるが後の創作の可能性大)が有名で、子がないことは知られるが、没年などは不詳。他に嫁いだ先は土岐頼充(濃姫と同一人物である可能性がある)、筒井順慶(?)、稲葉貞通(一鉄の嫡子)
道三の室は、義龍の母とされる、俗に「三芳野」「深芳野」などと呼ばれる女性。頼芸との間で行き来し、両者の関係の深さを示す一方で、義龍が頼芸の落胤であることを示す最大の要因となっている。出自は不明。単に頼芸の愛妾とするのがほとんど
濃姫の母とされるのが、明智姓の「小見の方」で、光秀の祖父の娘とされるが不確か
1554年初頭には道三から家督が義龍に移譲された ⇒ 多くの戦国大名は、当主がはっきり交代するまで、家督継承者へ権限を委譲せず、移譲後は先代はほぼ何もしない政治形態をとるが、道三の場合は移譲後も道三が同様の文書を発出している
道三・義龍の対立の始まりは、『信長公記』によれば、老いて智恵の曇った道三が、義龍を愚か者と判断し、弟2人を利口の者として扱ったため、弟たちも図に乗ったことがきっかけとしている。その上に道三が信長を気に入って支援するようになったことがあり、聖徳寺での会見は著名な逸話 ⇒ 道三が信長を見極めようと招いたところ、正装とは真逆の出で立ちで軍勢を引き連れてやってきた信長が、寺についた直後に正装へと早変わりして道三を待ち、対面して杯を交わして挨拶したという。帰路道三はたわけの門外に馬を繋ぐことになる(家臣になる)と家臣に話し、以後道三の前で信長をたわけと呼ぶことはなくなった
155511月、義龍決起。弟2人を、死に直面して話しておきたいことがあると呼び寄せ殺害。道三に報告したところ、道三は城下に火を放って長良川の対岸に退却、翌年4月川を隔てて両軍が対峙。多勢に無勢で義龍が勝利し、道三の首が長良川に晒された。道三の援護に出陣した信長も、道三が討ち取られた後は士気も振るわず撤退

第5章        義龍の領国支配
義龍と道三の統治の差異は、6人衆(6奉行)による連署状を出すことで、自身の政務の補佐をさせたこと ⇒ 6人の連署で初めて出した文書は1558年に用水相論にまつわるもので、紛争を裁断するもの
義龍は33歳の短い生涯のうち何度も名を変えている ⇒ 元服当時は斎藤新九郎利尚(としひさ)。前斎藤氏も代々「利」字を用い、道三も斎藤氏を名乗った時に「利政」に改めており、道三と同じ新九郎という仮名(かみょう)と併せて、道三の嫡子として申し分ない
58年、朝廷に治部大輔(じぶのたゆう)任官を申請し認められ、近江から京都に戻った将軍義輝に拝謁し、室町幕府相伴衆(しょうばんしゅう:幕府内の最高位の家格)に列せられている。翌年には丹後の守護で、相伴衆では管領に次ぐ第2位の序列にあった一色家家督の地位も幕府から与えられ一色義龍と改名
義龍と信長の関係は最悪で、義龍は信長の兄弟たちの調略を図って信長の動きを牽制、庶兄信広や弟信勝などに加担。武田氏とは義龍と不仲だった長井隼人佐が独自に通じ支援を受けていたため、緊張関係が続く。朝倉氏は一向一揆との戦い以外は積極的な派兵はしていないので、比較的北方は安定。西の六角氏とは険悪だったが、上洛する経路にもあり、娘を六角氏の子へ嫁がせる。寺社勢力との関係では、京都の禅寺・妙心寺派が隆盛を誇り、義龍は幕府から朝廷まで動かして勢いを止めようと画策したが、その最中に急死して幕

第6章        義龍の死と信長の侵略
義龍には3人の妻がいて、最初が浅井亮政の娘で龍興の母
義龍の死因は不明。常用していた薬の副作用との説が有力
義龍死の直後、信長は西濃に侵攻するが、軽い牽制に留まる
龍興の実際の政務については、特に国内の統治に関する文書が一切なく窺い知れない。これをもって龍興が政務を放棄し、暗愚な太守としてのイメージが長らく保たれてきたが、重臣による政務体制が確立していたと見ることもできる
1564年、竹中半兵衛(重治)とその岳父・安藤守就(6人衆の1)が稲葉山城占拠。龍興が城外に追われる。半兵衛は菩提山城主の息子。龍興を諫めるための決起とする説が多いが、半兵衛の人を驚かせたいとの気が強かったとの説、取り巻きの重臣の驕りを主君に代わって成敗したとの説もある。占拠はかなりの期間続き、信長が城を明け渡せば美濃の半分をやると誘ったが乗らず、8か月後に兵を引いて自分の城に引き揚げ

第7章        龍興の没落とその後
1565年、信長が勢いを増し、犬山城落城、稲葉山城に迫る
まだ近江にいた将軍・義昭(義輝の弟、出家後還俗)の上洛呼びかけに積極的に呼応したのが信長で、将軍からは濃尾和睦の呼びかけがあり龍興に対し織田軍上洛に道を開けるよう協力依頼があったが、龍興は織田を信用せず、織田軍の進撃を自分への攻撃だと思って兵を起こす。木曽川で対峙している間に、義昭は三好氏の攻撃を受けて越前に逃れ信長は間に合わず。面目を潰された信長は龍興への攻勢を一層強め、龍興は武田と結んで対抗。間に立ったのが恵林寺の快川紹喜
1567(かつては64年とされていた)、稲葉山城落城 ⇒ 信長が動き出し、伊勢に続いて岐阜を攻める。まだその頃の信長は兵力もそれほどではなかったため、龍興の降伏を仕向け、伊勢長島への逃避を許容。信長はその足で義昭を擁して上洛の途に就き、近江の六角氏を破り、三好三人衆を蹴散らし、義昭を征夷大将軍につけ美濃に凱旋
龍興は三好三人衆を頼ったと見え、その後三好三人衆の一角を担って、軍を展開、義昭とも一戦を交えるが、最後は美濃への帰還を狙って越前に向かい73年討死
龍興の室・子女のことは殆どわからない

第8章        語られる道三・義龍・龍興
道三――梟雄・悪逆・下克上
マムシ道三 ⇒ 1952年の坂口安吾の新聞連載小説『信長』が「マムシ」と呼んだのが始まりだが、翌年道三を主役として描いた『梟雄』では「マムシ」を使っていない。一気に広まったのは司馬遼太郎の『国盗り物語』(『サンデー毎日』6365)以後で、73年NHK大河ドラマが道三=マムシのイメージ定着に貢献
残忍、酷薄な所業が残されているが、一方で茶の湯への造詣の深さもあった ⇒ 有名な茶人が道三の懇望に応えて下向した記録が、茶道具の配置図『数寄厳之図』と共に残されている。もともと土岐氏を始め美濃国自体が茶湯及び茶道具に造詣が深かった
義龍――天道(=宗教を超越したもので、現実の生活・行動・内面倫理を超自然摂理に結び付ける観念)に背く不孝。必ず神仏の罰が下る
龍興――信長・半兵衛の引き立て役
信長の行き過ぎた評価を糺す形の再評価が進むが、一方で信長に滅ぼされた大名は多くがこれまで不当に低い評価を受け、残された史料が滅ぼした信長側のものであることもあって、未だ扱いが変わっていない者もいて、龍興はその1
慶長年間の記録では、龍興が有能な人材を遠ざけたので重臣たちが信長に通じたとされ、行状の宜しからぬ人物とされ、17世紀中頃の記録でも「極て痴人也」とある。『美濃国諸旧記』でも「闇弱」な龍興が忠臣の建言を斥けたために稲葉山城が落城したとある
竹中半兵衛が隠遁したのを秀吉は「斎藤の不道を疎み」と語り、半兵衛を秀吉が訪ねた際には「暗々たる斎藤」「金言は耳に逆い、良計は用られず」「君暴にして臣侫なり」と言われた
半兵衛の稲葉山城乗っ取りについては、君側の奸を切るという説もあるが、客観的な史料は残されておらず、軍師という身分についても当時は存在せず、実際の半兵衛は秀吉に付与された与力であっただけ。江戸期の人たちによって理想の軍師像に最も近い人物として拡大解釈され、我欲の無い偉大なる軍師へと仕立て上げられていった
4代の評価 ⇒ 長井新左衛門尉は、ほぼ徒手空拳から土岐氏重臣まで上り詰めたのは評価されるべきだし、息子に無事政治基盤を継承させ、大往生を遂げたのは見事
道三は、新興の1重臣から守護代に匹敵する地位を手に入れ、更には主君を追放して美濃国主に納まり、城下を安定させ、今日の岐阜の基礎を築いたことは評価されるべき
土岐氏一族を葬り去ったことで多くの敵を作り、周囲の大名との関係を悪化させ、改善しようとしなかったのは悪手
人間道三を物語る史料はあまりなく、垣間見える姿は、世に梟雄と称されるものに近いところはあるものの、娘婿に傾倒したり、子供のうち下の子を可愛がったり、侮っていた嫡男にまんまとやられる人間臭さや、主君を殺すことはしない戦国期の武士階級に共通した倫理観、和歌・茶湯を嗜む風雅を持っているのも事実
義龍は、早死にさえしなければ、信長の美濃制圧はどうなっていたかわからない。6人衆を用いた領国統治など見るべきものは多い
龍興は、江戸以来の低評価をそのまま引きずっている
斎藤4代に明らかな欠陥はなかったものの、小さな失敗や不運はあり、それが積み重なり、隣国に強大な敵がいたことが運の尽きであり、滅びた大きな要因といえる



(書評)『斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず』 木下聡〈著〉
2020425 500分 朝日
写真・図版
 道三はいつ「マムシ」になったか
 戦国大名斎藤道三(どうさん)。非常に有名な人物だが、その実像は意外に知られていない。かつては油売りから美濃一国の主にまで登りつめたと考えられてきたが、「六角承禎条書(ろっかくしょうていじょうしょ)」という史料の発見によって親子二代の国盗(くにと)りであることが明らかにされた。すなわち、京都から美濃に流れてきて土岐氏に仕えたのは、道三の父である長井新左衛門尉(しんさえもんのじょう)だったのだ。現在放送中の「麒麟がくる」も、この見解に沿っている。
 本書は新左衛門尉・道三・義龍・龍興の斎藤氏四代の歴史をまとめた評伝である。最新の研究成果を踏まえつつ、著者独自の新知見も随所に織り込んでおり、現時点で最も信頼できる人物伝と言えよう。
 道三というと、婿の織田信長に影響を与えた先駆的な革新者の印象が強い。しかし主君土岐頼芸(ときよりのり)の一族を暗殺し、頼芸を追放するといった謀略によって美濃国を奪った道三には信頼できる家臣が少なく、道三の独裁色が強かった。今川・武田・北条といった他の戦国大名と比べて、統治システムや法整備ははなはだ未熟だった。
 一方、父道三を討った義龍は、六人衆と呼ばれる重臣たちを通じて安定的な美濃統治を実現した。著者は、義龍が早死にさえしなければ、「信長の美濃制圧は倍以上時間がかかっていた可能性が高く、むしろ美濃を落とせなかったかもしれない」と評する。暗君のイメージが強い龍興に対しても、父義龍の急死で家督継承したにもかかわらず、信長の侵攻を数年にわたって防いだ、と再評価を促している。
 こうした実像だけでなく虚像の形成過程を解明している点も興味深い。義龍の実父が土岐頼芸である(頼芸の愛妾を道三がもらい受けた)という説は江戸中期以降に創作されたという。道三の「マムシ」という異名に至っては、坂口安吾の『信長』が初見というから驚かされる。小説の影響力、恐るべし。
 評・呉座勇一(国際日本文化研究センター助教・日本中世史)
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 『斎藤氏四代 人天を守護し、仏想を伝えず』 木下聡〈著〉 ミネルヴァ書房 3850円
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 きのした・さとし 76年生まれ。東洋大准教授(日本中世史)。博士(文学)。著書に『中世武家官位の研究』など。



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斎藤 道三 (さいとう どうさん)斎藤 利政(さいとう としまさ)は、戦国時代武将美濃戦国大名道三流斎藤氏初代当主。
名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。現在では坂口安吾「信長」や山岡荘八「織田信長」といった小説の影響により美濃の蝮(マムシ)という綽名でも知られる。
父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。また、長井道利長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』)とも、または道三が若い頃の子であるともされる。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫織田信長正室)など。
l  概要[編集]
北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(15564月に河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。
かつては、「道三は油商人から一代で美濃を平定(国盗り)した」とされてきたが、1965 - 1973年に発行された『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかという説が有力となっている。
l  生涯[編集]
史料に見る道三の来歴[編集]
下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾海音寺潮五郎司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において永禄3年(15607月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。
斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。
同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の親子二代にわたるものである可能性が高くなった。父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(15266月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8219日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(15336月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年1126日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見えるが、真偽の程は不詳である。
前半生[編集]
以下は通説として、かつて知られていた一代記としての道三像で叙述する。
明応3年(1494)に山城乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが、生年については永正元年(1504)とする説があり、生誕地についても諸説ある。『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。
その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、商人となり山崎屋を称した。大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種のパフォーマンスを見せるというもので、美濃で評判になっていた。行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。 その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。
勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現し、土岐守護の次男である土岐頼の信頼を得るに至った。頼芸が兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(15278月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530)正月ないし天文2年(1533)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗った。
この頃、土岐頼純が反撃の機会を窺っていた(この頃、政頼は既に死去している可能性が高い)。 天文4年(1535)には頼芸とともに頼純と激突し、朝倉氏、六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がった。
天文7年(1538)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。
これらの所伝には、父新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高い。大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。さらに、天文2年の文書に藤原(長井)規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている。 また公卿三条西実隆の日記にはこの年、道三の父が死去したとある。同年1126日付の文書(岐阜県郡上市の長瀧寺蔵、岐阜市歴史博物館寄託)では、長井景弘との連署で主家を重んじる形式となっており、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものである。また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄33月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっている。しかし、この後天文39月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)には道三単独の署名が現れ、それ以降、景弘の名がどの文献にも検出されないことから、この頃までに景弘が引退または死亡したと推定される。
l  美濃国盗り[編集]
天文10年(1541)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。こういった行いから落首が作成され、それは「主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう)」というものであった。 
しかし、織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(これ以前にその父政頼は死去していたと推定される)と連携を結ぶと、両者は土岐氏の美濃復辟を名分として朝倉氏と織田氏の援助を得、美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純(あるいは政頼も生存し行動をともにしていたかもしれない)は革手城に復帰した。
天文15年(1546)、もしくは天文16年(1547521日に道三が出した書状には、陣中見舞いとして枝柿五十とともに抹茶を贈られていることが確認でき、道三が実際に茶の湯を嗜み、陣中においても余暇を利用して茶事に興じていたことが窺える。
天文16年(15479月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い、ただし時期には異説あり)。一方、頼純も同年11月に急死した。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。
帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺(現在の愛知県宮市冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐよう(家来)になる」と述べたと『信長公記』にある。
この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城長屋景興揖斐城揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。
l  晩年・最期[編集]
天文末年頃、不住庵梅雪から稲葉良通相伝の茶の座敷置き合わせの『数奇厳之図』を伝授されている。この史料から、不住庵梅雪の茶の湯座敷の置き合わせ法が斎藤道三に伝授され、そこから稲葉良通に相伝され、さらに志野省巴に相伝されたという茶の湯の系統が明らかになっている。
天文23年(1554222日から310日の間に、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城隠居した。
道三の突然の引退は家臣達により強制的に行われたと思われ、道三は国内統治者および主君としての資格なしと家臣に判定された。当時他の戦国大名が次々に打ち出している民政の新しい施策に匹敵するものの片鱗すら窺えなかったのである。
しかし道三は義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。
国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(15564月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わず戦死した。享年63
l  信長への遺言と息子への最後の評価[編集]
戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を信長に渡したとしており、京都の妙覚寺大阪城天守閣に書状が存在するほか、江濃記にも記録されている。道三は義龍を「無能」と評したが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。道三の首は、義龍側に就いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。なお、首を討たれた際、乱戦の中で井上道勝(長井道勝)により鼻も削がれたという。
l  墓所[編集]
道三の墓所は、岐阜県岐阜常在寺にあるほか、同市の道三塚も道三墓所と伝えられている。常在寺には道三の肖像や「斎藤山城」印などが所蔵されている。
l  子孫[編集]
後に江戸時代には、旗本の井上家や松波家などが道三の子孫として存続した。井上家は長井道利の子孫、松波家は道三の子、松波政綱を祖とする。江戸町奉行を務めた松波正春が著名な子孫である。
道三の娘は稲葉貞通に嫁ぎ、稲葉典通を産んだ。典通の子孫からは臼杵藩主となり幕末に至った者、皇室へ血を繋げた者、公家へ血を繋げた者などがいる(斎藤道三 - 稲葉典通 -(略)稲葉知通 - 稲葉恒通 - 勧修寺経逸 - 勧修寺ただ子 - 仁孝天皇 - 孝明天皇 - 明治天皇 - 大正天皇 - 昭和天皇 - 明仁上皇 - 今上天皇)
l  道三まつり[編集]
現代に至ると、岐阜のまちづくりの基礎を成した道三の遺徳を偲び、昭和47年(1972)から岐阜市にて毎年4月上旬に道三まつりが開催されている。なお、岐阜城内に展示されている道三の画像には、信長室寄進の文字が確認される。




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