都市廻廊  長谷川堯  2020.6.6.


2020.6.6. 都市廻廊 あるいは建築の中世主義

著者 長谷川堯

発行日           1985.6.25. 印刷     7.10. 発行
発行所           中央公論社(中公文庫)

単行本は1975.7.相模書房刊
論文掲載誌
『建築』19731月号より12月号まで ⇒ 原題『日本の中世主義』
但し、第2章の『〈囲い地〉について』及び『囲壁の内側』については、『現代詩手帳』19749月号

明治末から大正にかけての日本近代建築の中に「中世主義」の水脈を見出し、その後の近代都市の機能主義が圧殺してしまったもう一つの都市の可能性とユートピアを開示する。毎日出版文化賞受賞作


第1章         
ü  「所謂今度の事」をめぐって
大正時代が現在と色々な意味で対応するものをたくさん持っている。時代としての大正は、人々を透明な幽閉と無意識の被支配へともたらす文明の将来と結末への不信を、断続する警鐘として鳴らした、日本の歴史における最初の本格的なエポックだった
文明は主たる所有者を国家においていることは確か ⇒ 文明とその所有者である国家との関係を、それに対する根源的な否定を通して立った「自己」の内面に捕獲したのが時代としての大正で、その動きは明治40年代にすでに始まっていた
アメリカ・フランス留学からの『新規兆社」として派手な活躍を始めようとしていた永井荷風の著作が発禁になったことに対し、啄木が憤慨して『時代閉塞の現状』を著し、国家権力が思想と行動を通して自己を立てようとする者へ向ける苛酷な弾圧に深い憤りを持つようになっていく
同じ頃啄木より1歳年上の大杉栄は、国家権力と文明の癒着をもっと直截的に告発、国家権力によってがんじがらめに縛られている状況からの自立を叫んでいたが、私たちは今半世紀に及ぶ時間を跳躍して大杉に問われている

ü  叛逆者
明治が帝国自体の躯体の強固さを昂奮の中に確認しようとしたまさにその時に、明らかにそれに逆らって、20代を中心とした若い世代の中に、反戦あるいは厭戦的気分が盛り上がり、それらが反明治の思想的土壌を耕し始めた ⇒ その代表が幸徳、大杉、啄木等
同時にプレ大正としての明治40年代を飾る華々しい動きが、明治43年に始まる「白樺」の活動。芸術至上主義的な方向だが、明治という時代、社会に対する嫌悪が根底にあるのは同じ。ロダンの彫刻に熱狂し、後期印象派に「革命の画家」をイメージした
雑誌『白樺』で唯一30代だった有島武郎は、ロダンの芸術の本質を、いわば反近代的性格のものとして、近代以前の中世との関連において捉えようとして、叛逆者を演じる。中央集権的な近世近代国家への反感の背面として、自治的都市と美しい田園を持つ「相互扶助」的な西欧中世社会への愛着を見ることができる

ü  大正元年のCOCA COLA
有島の見たロダンを、高村光太郎は内面的な動態において詩のなかに表現。大正元年の『白樺』に彼が『狂者の詩』と題して発表した作品には、エポックとしての大正が産み落とそうとする1人の「自己」の内側を吹きすさぶ嵐のようなものが表現されている ⇒ 明治以後日本の文学が初めて本格的に、人間の内面と都市との絡み合いを描写し始めている

ü  三田の丘の上
慶應義塾の図書館で「白樺」の若者たちの熱気溢れる文章を読みながら、そこに中世主義と呼べるような傾向があると考えたが、図書館の建物自体が中世主義とでも呼ぶべき中世願望の中で設計された明治末の美しい作品 ⇒ 創立50周年(明治41)記念で完成は4年後。設計は明治建築界の大御所の曽禰達蔵と「新帰朝者」だった中条精一郎

ü  小さいものから
19世紀から20世紀の初めにかけてヨーロッパおよびアメリカで美学として地歩を占め、建築においてもその系列のかなりの作品を残した中世主義 ⇒ 思想の系譜は、直接的には18世紀後半から盛んになった古代遺跡の発掘の成果やフランス革命などの政治的変動の中で時代的要請として19世紀初頭に盛んになった新古典主義に対する反感として始まった。反古典主義を旗印とするロマンチシズムを1つの土壌としていることも確か
その流れの中で一貫した中世への憧憬の強さ、卓絶した筆力、芝居気十分の論争好きなどによって、他の追随を許さなかった中世主義者がラスキン ⇒ 建築についての代表的著作は『建築の7つのランプ』と『ヴェニスの石』。中世のヴェニスを讃美し、ルネサンス以降の文明の意匠に激しい非難を浴びせ、彼等が最大の侮蔑を以て名付けたGothic(ゴート的な、野蛮な者たちの意)を敢えて新たな価値あるものとして自分たちの旗章とした

ü  高松政雄のラスキン
明治33年、ラスキンの訃報、享年81
日本でラスキンが注目されるのは明治40年代以降で、若手建築家の間に広まる
高松政雄は明治43年東京帝大建築科卒、伊東忠太門下。最高の建築を実現するのは人格の修養にあり、究極的には自然への愛を通じて実現されると主張。ラスキンの建築における装飾の重視に共鳴し、彼の思想の中にある濃厚な反近代主義、中世主義の鼓舞を受ける

ü  新しい心斎橋と日本橋
建築構造の形式を通して中世建築の讃美に至るという論理の展開は、ラスキンを踏襲
コンクリートのアーチの前の段階として、組積造(メーソンリー)アーチが、ラスキンの建築思想との直接的な関連を持たずに、日本でかなり大規模で実現していた点は注目に値
石あるいは煉瓦によるメーソンリー・アーチが大規模に応用された例が、妻木頼黄の東京の日本橋と、野口孫市の「意匠設計」になる大阪の心斎橋という2つのメガネ橋
心斎橋 完成明治42年 橋長31m 幅8.3m 総面積271㎡ 総工費76千円
日本橋 完成明治44年 橋長49m 幅27m 路面積1336㎡ 総工費520千円

ü  りうりうと仕上がったのでお芽出度い
日本橋は、花崗岩で外装されたいわゆる「ルネッサンス式」といわれる意匠を与え、更に麒麟と獅子のブロンズ装飾を決め、制作を東京美術学校の教授だった岡崎雪声に依頼
3500tの重量を支えることになる2つのアーチの「橋架の取り外しを行う」時の緊張と、「りうりうと仕上がった」、つまりアーチ架橋のための支持仮枠を取り払ってもしっかりと安定していることを発見した時の感動は心理的な昂揚で、雑誌記者が直截的に書いた「お芽出度い」と言う言葉に尽きるだろう
当時の日本橋川は、今の溝(どぶ)池のような光景ではなく、かつての江戸の頃程の運河としての交通上の重要性は失っていたとしても、まだ近くに東京中の台所を賄う魚河岸があり、各地から海路運ばれてきた物資を貯蔵する倉庫が運河に面して軒を並べるなど、江戸以来の海上輸送路として河は生きていた

ü  河のなかの「江戸の唄」
「パンの会」 ⇒ 世紀末のドイツで流行した、ヨーロッパの世紀末の空気とアール・ヌーボーの熱気に似たものを東京の河岸でも醸し出そうとした若い文学者や美術家の集まりで、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、石川啄木らが中心で、高村光太郎や荷風、谷崎なども顔を出していた
彼らは、そのころ盛んだった自然主義文学に反対し、ロマンチシズムとエキゾチシズムと中世主義に心酔し、そのような心理的な陰影に共鳴する舞台として下町の川端を選び、光り輝く明治の中に、陰としての中世を象徴する「江戸の唄」への憧憬を浸透させようとした

ü  妻木頼黄という建築家
妻木は安政6年江戸の生まれ。妻木家は代々美濃国にあって徳川家に仕え、旗本(父は長崎奉行)。工部大学在学中にコーネル大へ私費留学、明治17年同大建築科卒。東京府勤務、ドイツに再留学し、帰国後は大蔵省関係を中心にドイツ系の建築デザインを進め、国会議事堂関係に従事したが、議事堂の建築に当たっては、東大と辰野金吾が公のコンペを主張したが、桂首相の後ろ建てもあって特命受注したため、妻木は建築学会からも総スカンを食らい、更に大正初めの閥族打倒を叫ぶ大衆運動によって桂が失脚後死亡、それを追うようにして大正5年妻木も病没(享年57)。日本橋の建設は議事堂受注騒ぎの最中だったこともあり、辰野金吾支配下の『建築雑誌』では短く完工が報じられただけに留まる
高級官僚である妻木が国家権力を背景にドイツ系のデザインで辣腕を振るったのに対し、辰野を中心とする東大のイギリス系デザインが強く反発した争いの頂点が議事堂建築
妻木は悪役としての印象が濃いが、「ルネッサンス様式」といわれる日本橋を、実は彼が隠れた中世主義者として、その記念碑的な作品としてデザインしていたのも事実。明治の官僚機構の中で成功していながら、実は密かに明治という時代と文明を無意識にあるいは隠れた意識において憎み続けていたと推測される

ü  「陸の東京」への咆哮
日本橋が、なぜ妻木というデザイナーによって、橋の上を通る人や電車や車のために意匠を考えているように見せながら、実は反対に河面の側からすべての意匠的な統合が目指されていたか。妻木は日本橋の意匠という、建築設計の仕事としては、サイド・ワークともいうべき対象においてさえ、彼自身の基本的な性向に従ってデザインを考えていたことが分かる。明治に対する凝視あるいは嫌悪、それに対応する江戸に対する憧憬――この設計活動への根源的な性向に駆り立てられながら、設計者の視座を道路面にある明治の文明的日常性から、河面に佇む江戸の文化的非日常性へと決定的に旋回させていた。「橋の袂」が「比較的寂しい」という評価も、妻木にとっては「寂しい」状態にしておくべき裏の顔に過ぎなかったからで、巨費を投じて「新しい東京=陸の東京の起点」になるべきアーチ橋を、非常にアイロニカルな記念碑にしようとしたに違いない
橋脚に載せられた一対の麒麟のブロンズ像が、陸の東京に向かって激しく咆哮しているのも、妻木の明治という時代への怨恨の青銅という素材への結晶とも見える

ü  水上のシャン・ゼリゼ
欧米から遥かな航跡を引きずってやってきた文明は、海から陸へと上陸して、江戸を東京へと変貌させたように、文明は最初から「陸(おか)」のものとして始まり、その中で育った人々の意識と視座が、数百年にわたる江戸の生活環境を性格づけていた最も基本的な都市構造である「河と運河」を忘却していったのも無理からぬことではあるが、こうした「陸」の視点が、1つの都市的構築物をいかに誤解していくことになったかという一例が新日本橋についての批評。外国人の方が、「江戸を世界の中でも、気候や緑の豊かさ、多くの河川など、自然に最も恵まれた町」と評価するなど、余程江戸の地理的特徴を捉えている
江戸城の堀から海に放射している運河の中では、日本橋運河を第1に、京橋運河を2番目に重視しなければならない
妻木の意図は、あたかもパリの目抜き大通り(プールヴァール)シャン・ゼリゼの一方の端がエトワール広場の凱旋門で始まるのと同じように、明治国家の胎内に反明治の拠点としての幻視の都市の凱旋門として新日本橋を建造し、続く水のプールヴァールの奥に同じく幻のカテドラルとして、明治6年に焼失した江戸城本丸の楼閣を鮮明に虎視していて、楼閣の代わりに、幻の都市を実現するために議事堂をもってこようとした
「陸」の東京に現実に作られた凱旋門は新橋停車場であり、横浜居住のアメリカ人技師ブリジェンスのクラシカルなデザインで設計され明治4年に完成。プールヴァールは、明治5年会津藩邸から出火して銀座築地の4,000軒が焼けた後の復興を兼ねて街区計画が立てられ、大阪の造幣寮の設計で古典主義的デザインの手腕を見せたイギリス人ウォートルスにより実現した銀座煉瓦街で、明治7年完成。急造の2階建てあるいは平屋の煉瓦建築は、ファサード1階に列柱廊を持つ、クラシシズムそのものの市街空間を生み出し、やがて京橋から日本橋へと続く東京の表通りとなって新時代の軸線となる
都市や建築の設計は常に権力によって実現していくというリアリズムの浸透と並行して、設計者の想像力の収縮が起こったのも当然の成り行きで、日本のこの100年間のデザインはあらゆる分野において恐るべき不毛を生み出した。その不明の盲目の上に、まさに屋上屋を重ねて、「陸の東京」の上に現代自動車文明のための「中空の東京」つまり高架自動車道の飛翔を許し、その結果日本橋川の河面を陰気で悪臭に満ちた下水道の如きものにまで転落させた。鉄骨が立ち始めた光景を見ながら、その進行する事態の悲劇性に気づくことができなかったのは不明の至り。過去の都市環境に対しこれ程の暴力的な破壊力を発揮した例は、ファシズムやナチズムの支配下でさえ起らなかった

ü  荷風の中世主義
「掘割の景色が大好きだ。東京もこれがある為にやっと市街の美を保っている。東京の市街が今日一国の首府らしい美麗と威厳を保っているところは、宮城をはじめとして皆江戸の人の建設したものばかり」と書いたのは、欧米から戻ったばかりの30歳の荷風で、中世主義的立場から「明治」を徹底的に糾弾する方向に、若い新進の文学者としての基盤を決め、作品の中で予告した。荷風が強調しているのは、中世風の寺院建築が欧米の大都市において「竣工無期限」という悠長な仕事振りの中で続けられていことに感嘆

ü  日和下駄に蝙蝠傘
荷風の初期の作品をよく観察すると、都市的環境の表現が主題であることがよくわかる
「日和下駄に蝙蝠傘を持って歩く」と書き出した『東京市中散歩の記事』(大正3年『三田文学』連載)で懸案の都市論を文学的に集大成 ⇒ 江戸切図を手に現代の街路を江戸と比較対照しながら散策する目的は、江戸の環境を再発見し、それを単に旧時代の、死すべきものとしてではなく、文明に逆らう別の価値として記録し、後押しすることで、産業革命の進行する19世紀イギリス産業社会の中で、古い歴史を持つ都市ヴェニスの栄光を世間の常識に逆らって熱心に説きまわったラスキンの行動につながる

ü  裏町と横道を行こう
荷風の人生や文学は、建築や都市の中世主義の展開の考察に関係する部分が多々ある
荷風こそ、明治から昭和への文明の進展という現実の進行を「防御」したのであって、決して江藤淳が言うように現実から「遁走」し耽美主義へ沈潜したり快楽へ没入していたりしたわけではない

ü  軽蔑なしに羨ましい
大正を代表する中世主義者の1人が後藤慶二(東大卒明治42年、豊多摩獄舎の設計者)39年には岡田信一郎、36年には佐藤功一、佐野利器、30年には野口孫市と、3年周期でデザインに優れた名が残る。42年の同期で最も注目すべきは長谷部鋭吉。住友の設計部に入り野口孫市の下で中世主義の1つの成果である大阪倶楽部を設計、後に長谷部竹腰事務所として独立

ü  細長い「囲い地」
荷風が活写するような路地は、いわば最も厳密な意味での都市の内部空間をリアライズしている場所であり、江戸の運河網の中に見たものと同じ性格がある。路地とは地下水道

ü  コバルトの空の下の虞美人草
アール・ヌーボーやセセッションの動きが、ラスキンやモリスに、その源流を持つ中世主義のデザイン思想の展開の中に生まれ出でたものであることはよく知られているが、それらの新しいデザインが明治末に日本へ輸入された時に、日本のデザイナーや建築家たちは、そのことを欧米人とはまた違った感覚の中ではっきりと意識していた。彼らは、それらの新デザインの中に、日本の中世特に桃山から江戸にかけての芸術の影響が非常に色濃く現れているのを認めた。光琳風等を加味したものと思われる点が多々あるのは、例えば間格(いちまつ)模様だの魚鱗(うろこ)模様だの渦紋だの斗(ます)の様なものだの、皆日本風だし、二階の根太(ねだ:床板(ゆかいた)を支えるため、床の下に渡す横木)を表して天井の装飾としたのも日本の商店を見て学んだのではないかと思われた
明治末から大正にかけての建築家たちの文章は、自分の内的な気分を1つの心象風景として具象的なイメージ群に託し、お芝居の1場面のようなものとして、言葉で抽出することにしばしば驚くほどの巧みさを発揮する。村野藤吾の文章などには今でもその名残があるが、その直接の先輩にあたる中村鎮などはその最も典型的な人物。これには海外留学生の帰国によって続々と伝えられた西欧の新しい造形運動の内容、例えば後期印象派やフォビズムや表現派の美術のもたらすイメージがどこかで関連していたかもしれない

ü  水上都市の構想
大正元年、中村は『東京のヴェニス』と題して、東京の下町の掘割を利用した「水上都市公園計画」を発表

ü  「メイゾン鴻の巣」
中村が公園計画の中で特筆したのが1軒の酒場「メイゾン鴻の巣」で、当時日本橋界隈の人気のあった若者たちの溜り場で、その頃の文学史や思想的な出来事が語られるときには必ず登場する1つの名所。小網町のほとりに明治41年開業。東京初のCafe

ü  芝の上に居る
妻木が日本橋の建設で示した企みも、中村が水上都市の企画で考えたことも、元を正せば彼らの絵を描こうとする真剣さに由来している。彼等の「芝居っ気」の逞しさである。「芝居っ気」の試される場所は、現実の社会そのものの真っ只中に選ばれなければならない
芝居の語源は、秀吉が淡路の人形遣いの操り人形を京都の四条河原の陣屋で人々に見せた時に、観客は芝の上に居ながらそれを楽しんだが、それを以て芝居芸と称し始めたという説がある。舞台が劇的空間の中で主役を占めるのと違って、芝居では客席の側が主座に居直るということだとすれば、「芝居っ気」ということの内容も芝の上に座を占め、その位置から世界を定位しようとする土間の側の意識の内的充実に深く関わっているもの

ü  復元街区
妻木や中村の「芝居っ気」が枯渇して久しいが、建築家たちがこの半世紀の間に「芝居」的視角ではなく、「演劇」的な指導理論に憑りつかれてきたことは間違いない。「舞台」の上から生活者たちに向かって働きかけ、ホリゾントの向こうに新たな表通りとしての「近代都市」や「近代建築」を説き、それに向かって飛び掛かることを説き続けてきたのが全面的に功を奏して、合理主義の陽の降り注ぐ近代的環境へと足を踏み入れた結果が日本橋の上を走る高速道

ü  小屋談義
東大を卒業した後藤が司法省に入って手掛けた処女作が監獄の設計だったとは皮肉だが、自らの創造力と「芝居っ気」によって、監獄を1つの「囲い地」もしくは都市のようなものに見立ててしまった

ü  「物いひ」
表通りからの単一的な視界が最も象徴的に、最も激しく顕在化したのが現在の劇場建築であり、芝居小屋があの薄皮饅頭のように薄いが、しかしヒリヒリと痛いように身体に迫ってくる内的な被膜性を失ってしまい、代わりに外ヅラだけが妙に硬質な劇場建築に変質したことの中に、近代の文明が現在の都市空間を、都市の空間として失格させてしまった事態が正確に対応する
木下杢太郎の短い詩『物いひ』は、酌婦のくせにあられもなく思わず大声で勝たせたいと思う贔屓の力士の名前を叫ぶ女を歌ったものだが、共同的な時空が、一度外から犯そうとしてやって来る敵対的な力に直面すると、その「芝居」を共有する者たちは、それをディフェンスするために一気に立ちあがる。そのような現象は西洋にせよ日本にせよ、都市史を繙けば数多く見られるものだが、今の私達にはその種のあられもなく声を張り上げてしまうような「芝居っ気」に呼応するような環境を持ち合わせていないことは悲しむべきこと

ü  42年組
大正45年の「虚偽論争」 ⇒ 火付け役は山崎静太郎(楽堂)で、当時盛んに行われた木造建築の上に煉瓦で被覆し洋風組積造に見せかける手法を「虚偽構造シャム・コンストラクション」として糾弾したのを、明治建築界の大御所の1人だった東大教授の中村達太郎が耐火や防湿上必要な物として「虚偽」は当を得ないと窘めたのが発端。山崎の親友でありライバルだった後藤が参加して山崎と論争

ü  山崎静太郎の構造の主体性の主張
後藤は、意匠上の虚偽であって、言葉遣いが正確ではないとの主張に対し、山崎は構造と意匠は一体不可分と主張

ü  反論
2人の微妙な差は、「中世主義」や「囲い地」の思惟の追跡に少なからぬ関連を持つ

ü  レアリテとヴェリテ
2人の論争は、近代思想の底流でもある実在論(リアリズム)と観念論(アイディアリズム)の対立でもある ⇒ 山崎の美学が一種の構造リアリズム論であり、後藤のは観念論的な建築の認識論
日本の現在の都市及び建築的不毛の原因の1つは、実在論と観念論を建築的な実存論によって超える試みの追求が、大正期を最後に中断してしまったことの中にある

第2章         
ü  「囲い地」について
都市とは何らかの意味で「囲い地」だが、「囲い地」とは「生」の保存容器を形成しようとする、人間の永遠の企画。外に向かって閉じること、その姿に様々な変様を見せながらも都市はいつもこの鎧で身を包む

ü  囲壁の内側
外への志向を閉鎖した世界は、内攻する空間を醸造する。この発酵はどこかに解放しなければ都市空間は爆発する。その安全弁が都市につきものの広場。もともとはマーケット

ü  都市改造の根本義
大正6年に今和次郎が発表したのが『都市改造の根本義』⇒ 都会への工業と人口の集中という「近代」社会にとっての運命的な現象である都市化現象の最も初期的な兆候が日本の各地に顕在化し始め、それとともに田園の荒廃が始まりつつあった時代を背景に建築の本質を見直す議論を始める。岡田信一郎、村野藤吾、中村鎮らの薫陶を受ける

ü  バラック
今氏の都市論は、原野から田園そして都市へという図式の中で、常に空間に身を晒しながら考える、常に空間を体現するという形で環境を思惟する
今氏を昂奮させたのが、関東大震災によって突如出現した「バラック帝都」であり、バラックの生態を記録することを通して、ひとが人間となるために獲得していく変化に富んだ環境の形成過程を、最も原始的な、最も赤裸々な姿で把握しようとした

ü  相互扶助
同年大杉栄が翻訳・出版したクロポトキンの『相互扶助論』が大きな影響を与えていた

ü  復興都市の建築美
今氏はデザインという多様な創造場面の中で、特に「装飾」という造形行為を中心的な主題として取り出してくる

ü  賀川豊彦の学会での講演
大正8年、賀川が建築学会で行った「貧民の生活状態について」と題する講演で、建築家たちに最下層の都市生活者たちの実態を、自分の経験と統計的な把握を交えて熱心に語っている ⇒ 日本に初めて都市計画的な視野から2つの法案「市街地建築物法」と「都市計画法」が成立したころで、建築界に都市問題への関心が高く、住宅問題の一環としての貧民窟の実情の解明や社会的処方の検討が話題となっていた
賀川の貧民窟への生涯を通じての社会活動を始める契機に、これまで私たちが「中世主義」と呼んできた一連の時代思潮が関連
賀川は明治40年明治学院高等学部神学予科を卒業後神戸神学校に入るが、結核の悪化で生死を彷徨い、42年神戸の貧民窟に移り住み伝道を始める。大正3年プリンストン神学校へ留学し、同6年貧民窟に戻り社会活動家として独り立ちするが、明治38年既にラスキンを翻訳、ラスキンが労働問題の解決を終生の目的としていたことに共鳴したことが、彼の中世主義的傾向に大きく影響を与えている

ü  ギルドとサンジカ
賀川の労働組合論は、中央集権的なマルクス社会主義に反対して中世紀の宗教的結社を中心として発達したギルド社会主義に賛成すると公言。愛と相互扶助の精神によって成し遂げるべしとし、大正の時代的精神を背後で支える「中世主義」の思潮の中に深く身を沈めていたかがよくわかる
大杉も賀川に賛同しつつ、労働運動の進め方の方法論で差異を見せる ⇒ 賀川が「組合」運動を政治運動としての性格から切り離し経済要求に主眼をおき、闘争も非暴力主義を取ったのに対し、大杉はあくまで直接行動を説き、労働組合を政治的な血液によって活性化しようとした
両者の間の思想的な脈絡は強く深い。賀川はイギリスのギルド社会主義を範とし、大杉はフランスのサンジカリズム(直接行動を主とする労働組合運動)を参考にする。内容的にはかなり異なるニュアンスを持ちつつ、いずれも「労働組合」を重要な社会単位とし、この「組合」によって近世近代社会において政治的経済的な実権を集中的に手中にしようとするあらゆる国家の権力に敵対し、空洞化させようとする点において、共通した意図と精神的な基盤を持っていた

ü  「都市」としてのハワードの発明
日本の経済成長政策の最も初期的な段階における建築家としての同調者が東大助教授だった佐野利器だが、今氏はその生産第一主義に対する疑問を表明。直接的な関係はなかったにしても賀川豊彦的な視界が多く見られる
明治末から大正にかけてヨーロッパで1つの流行となり、暫くして日本にも入ってきた、いわゆる「田園都市」の構想が、日本の建築界に与えた影響を見る
元はGarden Citiesの訳語。基本的な構想は1898年エベネザー・ハワード(1850-1928: 近代都市計画の祖)が提唱したもので、都会における人口密集による住環境悪化を回避するため、農業地を中心として、新都会を建設しようとするもので、ロンドン北郊にTownCountryの止揚としての現代「都市」を目指し、自ら移住して建設を開始
時を同じくしてクロポトキンも『田園・工場・仕事場』『相互扶助論』を相次いで著し、中世都市解体の原因を追求しながら、「大部分の都市の最大かつ最悪の誤りは、その富の基礎を商業と工業とに置いて農業を忽(ゆるが)せにしたことだった」と看破したが、その結果的な解答がハワードのガーデン・シティの内容だった

ü  『ガーデン・シチーに就て』
中条誠一郎は、ハワードのガーデン・シティを実地見学し、その感想を「転(うた)た健羨(けんせん)に堪えざるものあり」と書き、住宅区域と市区の関係を閑却した為政者を非難
最初期の報告として詳細なのは美校建築コースの主任教授・大沢三之助(野口孫市らと同期)の『ガーデン・シチーに就て』(明治45)

ü  樹木をよける道
ハワードの実験的建設が始まったころに現地を視察、第1の目的たる「人民の健康」という視点から最も重要視されたのが「空気と光線」だとしている。第2が「貴賤の接近」で最後が「便宜」という順序は、現在の都市計画を全く逆転した発想

ü  コテージ
大沢は、建築と街路の関係に注目 ⇒ 道路計画に特徴があり、ルネッサンスやバロックの特徴だった幾何学的な斉合性を誇る街路は避け、わざと不規則な曲がりくねった中世都市の迷路のような道に似た複雑で曲線的な街路網を配置
多くの住宅は、イングリッシュ・コテージ即ち英国田舎家風を基礎として、それに近代の要求を適宜加味したものだったのも、反近代、反大都会文明といったものの代償としての中世の「都市」や「田園」への憧憬への傾斜を現している

ü  内部のふくらみ
エクステリアに対してあまり関心を払わず、コテージ風の住居の内部空間を、内的な世界へと変革していく ⇒ 居間と食道の融合など

ü  日本のカントリーハウス
大沢の報告は、明治と大正の間に起こる建築思潮の画然として変化を予告
日本で集合住宅の建設が新しい関心事となっていくのは大正後期から昭和初期で、日本版「ガーデン・シティ」ともいうべき主に電鉄資本による郊外住宅地開発が始まり、東京近郊では国立、田園調布、成城学園など、大阪での宝塚、甲東園、大美野、香里園など、今日結果的に高級住宅地となってしまった住宅地の多くが「田園都市」的イメージを追いかけながら造成された。ドイツ建築界の有力な中世主義者だったブルーノ・タウトが来日したのも偶然ではなく、彼はドイツの田園都市建設の先駆的な設計者の1
カントリーハウスも、明治期の儀式的な洋館建築に代わって、大正期の流行となる

ü  ヴォ-リズと近江八幡
ゴシック風の、特にチュードル・ゴシックによるハーフティンバーの住宅を最も高い完成度で日本に紹介したのがヴォーリズで、中世主義的色彩が濃い住宅をかなり残している
彼の宗教的精神と中世主義的意匠との関連に注目したい

ü  モリスと云ふ先生
明治末から大正にかけての住宅とその内部空間や装飾の変化については、ウィリアム・モリスの思想や意匠の日本への伝達にも注目 ⇒ モリスを紹介したのは、大沢の美校の卒業生でもあった富本憲吉(陶芸家、明治422人目の卒業生)
モリスは、ラスキンに衣鉢を継ぐ独創的なデザイン論の主唱者で、イギリスのデザイン改革運動の中心的人物。富本の紹介により一大ブームが起こる

ü  ある提案
仕事の範囲を建築設計製図に限ったが、同じ理屈を世の中全体へ押し広げようというのが建築家・山本拙郎(大正6年早稲田建築卒)の提案で、今生きている自分にとって一番肝心の場所から始めて、その場所を自分の内的な世界との連続において身体化し得るように変え、そこを拠点としてすべての世界への手掛かりを発見していこうという方向

第3章         
ü  『様式の上にあれ』
今氏の『都市改造の根本義』の末尾には師・岡田信一郎に加え、早稲田で出会った個性的な若者たちの助力への謝辞が書かれており、中村鎮、山本拙郎、村野藤吾の名が見える
中村は大正3年早大卒、チン・ブロックというコンクリート・ブロック建築を中心に教会設計に注力、代表作は本郷基督教会(大正15)。ラスキンのヴェネツィア礼賛に含まれているようなビザンチン好み、東ローマの中世芸術への礼讃の余韻がある
山本は、住宅建築を専門にした「あめりか屋」の技師長として洋風住宅建築に腕を振るい、人間的尺度による住宅空間の形成を重視
村野は大正727歳で早大卒。翌年大阪と東京の建築専門誌に、それぞれ『様式の上にあれ』、『無目的なる現代様式の煩悶と其の解釈』と題して、当時の日本の建築教育や設計実務が目標としていたような「様式再現論」が極めて無意味な努力であることの、若者らしい激しい口調での告発を行う。「私は厳格なるプレゼンチストである。現在に生の享楽を実感する現在主義者吾等に、過去と未来の建築様式を与えんとすることは不必要である、寧ろ罪悪である。用折敷的意匠に固執することの現代における「不道徳」を非難し、私は道徳に一致しない一切の美を排斥する。私にとって真実なる美は道徳である」。建築の「民族主義」の必要を説く。「自己が他己の内に調和進展せんが為には、唯に建築問題と謂わず一切の自主的文化を有するより外はない」

ü  考え方の変化
村野のその後の建築設計の軌跡を見ると、当時の溌剌としたモダニズムの文章とはズレがあるように思われる。自身の作品に様式主義的な面影もあるし、過去の日本の折衷主義的な建築を歴史的に評価するような発言もあり、職人たちの苦しい労働によって作られる装飾的な意匠よりも「一度にキャストされたプレーンなコンクリートの壁の方がどんなにありがたいか」と宣言したにも拘らず、今日の日本の建築界では氏は、建築を最もクラフト的に作る建築家として知られるし、戦後の氏は「単位面積における労働力を出来るだけ少なくしようという近代産業の傾向というものが支配的な形を取ったということは、これはある意味で非常に嘆かわしい事」とまで言っている。「民族自決」といった主題についても、氏の現実の創作の軌跡はどちらかといえば回避的であり、その種の国家的なあるいは民族的な意匠への接近には極めて神経質に、極力接触しないように心掛けているように見える。万博の時でも直接的にそれに参加することはしないで済ませた
学生時代、スタイリッシュなデザインの訓練はほとんど受けず、ラスキンやモリスに傾倒し、ハワードの田園都市計画に虚無的な心を癒し、そのあとに来た最新のデザインとして日本でもてはやされていたセセッションに熱中していたが、10余年勤めた事務所での渡辺節の影響が大きい。事務所でみっちり様式的な建築の意匠を覚える機会を得たことが、独立後の自分のデザインの基本になったことは氏も認める。大戦後の社会不安の中で、社会主義運動の先駆者の1人である安部磯雄から影響を受け、建築を考える場合の思想的中心を建築家の倫理観におくことを学ぶ。若い頃から今日まで氏が『資本論』を愛読書としているのも安部の影響
村野は、建築を構成する素材に非常に神経を使う人として知られる。そうした設計者としての配慮は、総じて古典主義者たちが熱心なように自分の建築を永遠に残そうということではなく、「過程」の唯一の真としての現在を、現在として確実に掌中に収めようとする意図に発した結果である。それは単に素材の選択に限らず、平面の設計や立面の形態の決定など総てにおいて行使される原理である。過去へ帰入することも、また未来へ投身することもなく、過去の様式も未来の様式も、結局は形骸として現在にフォルマリズムの桎梏をかける障害なのだ。「目的」よりも「過程」を、未来や過去よりも現在を重視するという氏の原理は、最初からほとんど変わっていない。変わったのは氏を取り巻く歴史的な状況

ü  未来への遁走
村野が独立した時期、一転して「折衷主義建築」を擁護する発言をしているのは、渡辺事務所での経験だけでなく、当時コルビュジェやグロピウスに熱狂して日本の折衷主義建築を全否定するような動きに対する警告

ü  現在
村野の作品は、中世的というより、初期ルネサンスに最も近い。ルネサンスへの愛着は早稲田の恩師・佐藤功一の建築史の講義に触発されたところが大きい
村野はしばしば建築に対する評言で口にするのは、「その建築は全体的な輪郭の面白さやその量塊の迫力といったところに真価があるのではななく、いわば建築の細部のそれぞれのものが謳っている、その響きの繊細さと音色の豊かさにある」
村野が自らを「プレゼンチスト現在主義者」と規定したのは、現代が「窮極」を持たない「無目的」の世界であり、その意味で現在にしか価値を見出すことができないという、ある意味ニヒリスティックな理解に基づいている

ü  神の臨在
村野は建築家として非常に宗教的な作家で、宗教的な建築が多くはないが建築家としての経歴に大きな意味を持つ作品が多い ⇒ 南大阪教会(昭和6)は処女作、広島の世界平和記念聖堂は戦後建築史の出発点を象徴する建築、宝塚カトリック教会(昭和42)、西宮トラピスチヌス修道院、日本ルーテル神学大学(ともに昭和45)3部作は氏の最後期を代表する作品群
事物の現在の「未完結性」こそ村野の建築の本質の重要な側面であり、「キリスト者の見方」が「未完成、未完結、ダイナミックな運動、過程といった考え方」だったとしたら、それは村野の「見方」でもあった。村野は「科学をヒューマナイズする」つまり、未来へと遁走しようとする科学技術を現在化しようとする企ての中で、世界を「人類の為の聖地」へと実現しようとする意図を表明していた

ü  量塊・表面・平面
1つの偉大な時代が始まりつつある」という予言者コルビュジェの言葉は、日本でも建築家の心を刺激したが、量塊(ヴォリューム)・表面(スユールファス)・平面(プラン)3つを、幾何学的角度からとらえた建築の倫理的姿態について論じている

ü  陰影
昭和35年、短波放送の「建築夜話」で村野が幸田文と対談
建物と陰影について、日本の昔のお座敷はみな北向きで、冷たい霞かヴェールでもかかっているようで、すべてのものが柔らかく見えるし、深みのこもった哲学的な、いくらか宗教的な味を持つようになるから好きだった(陰影礼讃)が、今はみな明るいほうがいいということになって困る

ü  北への視界
広島記念聖堂設計に際し、欧州を回った中でエストベリーのストックホルム市庁舎の建築に出会い、パンテオン以来の建築の傑作と絶賛し、広島に様々な意匠を持ち込んでいる

ü  ストックホルムの石
村野の後輩・今井兼次は大正8年早稲田卒。現代北欧建築の最初の紹介者

ü  バルセロナで
今井は大正15年サグラダ・ファミリア見学。ガウディを日本に紹介

ü  雪の中に立つ
今井は30年間早稲田での教育活動に献身、60を過ぎて設計意欲が突然開花、碌山美術館(昭和33)、大多喜町役場(34)、長崎の26聖人殉教記念館(37)と相次いで完成。碌山美術館はあたかも中世北ヨーロッパのロマネスクの素朴な教会堂を思わせるような形態と素材によって構築。降雪のなかに立ちつくす美術館のイメージが今井自身の建築界での立場の心象風景のように思える

ü  部分から全体へ
大多喜町役場から長崎記念堂に至って、今井のガウディ風のタイルモザイクの制作は最高潮に

ü  手と機械
今井の陶磁片モザイクの建築への導入には、「中世主義」の現実の建築の上へのよみがえりという60代の今井の悲願が込められていた。彼の内面には、建築というものは製図板の前に座って図面を引くだけで出来上がるものではなく、多くの職人の手わざの苦心や、機械の唸りの中で働く建設労働者の汗の中で形作られるものだということを、もう一度自分の肉体を現場に晒すことによって体現してみたいという衝動があった
今井の建築制作に示した態度は、村野の設計態度にも通じるものがあるが、建築制作における手の介入に対して、昭和の建築界の全体的反応は極めて冷淡

ü  私のロマネスク
ローマ文明の場合、文明のエッセンスは、キリスト教の修道院のような、一種の歴史的ノアの箱舟に乗せられて保存され、やがてそれが中世の都市の文化へと継承された。修道院の活動の面白さは、その箱舟の中に、高度に発達し巨大化して古代ローマの文明のうちで、文字通りの意味で人間の手におえるもののみを収容して引き継いだ点である。現代文明がカタストロフに襲われた時、何がかつての修道院のような役割を果たすのか。あるいはその修道院の生き延び方を世俗的に敷衍したような中世都市のようなコミュニティはどのようにして実現するだろうか。「囲い地」に興味を持つ理由もそこにある


必然の一冊がもたらした発見 鶴ヶ谷真一 近代建築に潜む江戸の面影
2020/5/2 日本経済新聞 「半歩遅れの読書術」
古稀(こき)を過ぎ、おのずから数々の出会を考えるようになると、偶然の出会がいつしか必然の糸に結ばれていたように思われてきた。本との出会もまた同様。
四十数年前、神保町のある書店に、こちらを待ちうけていたような一冊を見いだした。『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』長谷川堯著(相模書房)。学術書に多い大判(A5判)で、分厚い本文は軽やかなフランス装に包まれ、堅牢そうなボール箱に納まっている。箱の背いっぱいに緑一色で刷られた題字は活字ではなく細身の手書きで、どこかアール・ヌーボーのセンスが感じられる。
本を開くと、ラスキン、ウィリアム・モリス、パンの会といった文字が散見し、副題にある中世主義が即座に納得された。文章は鮮烈にして濃(こま)やか。
明治末年、北原白秋など若き文学者や美術家たちがパンの会と称し、江戸の面影を残す河岸の料亭や西洋料理店につどい、西洋の世紀末と江戸文化の残影に酔いしれた。白秋は高らかに歌った。
 わかい東京に江戸の唄
 陰影(かげ)と光のわがこころ
彼らは若い光かがやく明治東京のなかに、江戸の唄(陰としての中世)をひそませた。
それは幻影のユートピアであり、滔々たる近代の流れに抗するべくもない。だが著者の濃やかな眼差は彼らを敗残者としては捉えない。にわかな近代化に背を向け、江戸切絵図を懐に市中を散策した荷風。さらに明治末年、日本橋を設計した建築家、妻木頼黄に焦点が結ばれる。
妻木は安政6年(1859年)、幕臣の長男として江戸に生れ、外国留学の後、明治草創期の主要な建築に携わり、その頂点が日本橋の設計だった。
日本橋の設計を詳細に検討すると不可解な点が続出する。そうした疑念は、視点を橋上ではなく、橋下の水面に置くことによって氷解する。橋の中央に立つブロンズの柱は、満潮時の水面から柱の頂点までの高さを2等分するよう設計されている。さらに橋上からは見えないアーチの裏側に高価な花崗岩の切石を惜しげもなく使うなど、妻木の設計意図は明らかだった。
川面から見れば、橋は「巨大な石の鳥がゆったりと羽根をひろげて大地へおり立つ瞬間の」優雅で流麗な姿をあらわした。かつての江戸は水の都ヴェネチアに比せられた。近代日本の起点である日本橋を、妻木は江戸を憧憬する水上のカテドラルとして構築したのだった。誰にも知られずに。

(エッセイスト)


文庫版あとがき
この本に収めた文章の大部分は、1973年に連載したもの。20世紀の歴史の上で、重要な屈折点となる年だった
この年オイルショックが世界各国の経済を襲い、社会を根底から揺さぶった
戦後日本経済の基調と考えられてきた高度成長経済が決定的な打撃を受け、「省エネ省資源」といった呼び声が真剣に発せられるような時代が始まった
当時、歴史的転換点に直面しているという実感があったわけではないが、必ずしも無縁なことを書いていたわけでもなかった。例えば、江戸問題を考えたこと、都市の中の大通りに対する、路地や裏通りの意義を論じたこと、更にはまた当時時代遅れの古色蒼然たるイメージに包まれていた「田園都市」の理念の再考を試みたことなど
私がここで「中世主義」の視点といった形で大まかに示したものは、まさにこうした近代主義の視界の死角になった部分に深く関わっていたと思う
最初はほとんど注目されなかった、都市と運河や海との関わりの重要性が多くの人たちによって強調されるようになり、路地や裏通りの持つ人間的なスケールとか、田園都市の現代性といった問題が、それこそ「表通り」に於て盛んに議論されるような時代になってきた
75年、本書が毎日出版文化賞を受けた際、浦部鎮太郎氏が、「この本が何らかの意義を持つ本かどうかは20年たってから評価し直さないとわからない」と言われたが、10年たってみて、本の中でいつの日か実現してほしいと願って書いたことを、現実が追いかけてきて、希望や提案そのものを色褪せたものにしているのではないかという頼りない気持ちも味わっている一方、まだもう少しはこの本の命脈は続きそうだなという不確かな自負のようなものもある
ということもあって、今回は改定や補筆は一切していない





建築史家の長谷川堯さん死去 俳優・長谷川博己さんの父
2019420 1706分 朝日
 建築家・村野藤吾の研究などで知られた建築史家、建築評論家で武蔵野美術大名誉教授の長谷川堯(はせがわ・たかし)さんが17日、がんのため死去した。81歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を開く予定。俳優の長谷川博己さんは長男。
 島根県出身で、早稲田大第一文学部を卒業。近代建築の記念碑性、合理性を疑う論考で知られ、72年に著書「神殿か獄舎か」で建築界に衝撃を与えた。村野らによる豊かな細部を備えた建築や都市の評価に力を尽くした。
 日本建築学会賞のほか、「都市廻廊」で毎日出版文化賞、「建築有情」でサントリー学芸賞を受けた。


Wikipedia
長谷川 堯(はせがわ たかし、1937616 - 2019417[1])は、日本建築史家、建築評論家。武蔵野美術大学名誉教授建築学会賞受賞。島根県出身。息子は俳優長谷川博己
来歴[編集]
島根県松江市生まれ。1960早稲田大学第一文学部卒業。卒業論文でル・コルビュジエらを論じ、雑誌に掲載、評論家活動をスタートさせる。1975年『都市廻廊』で毎日出版文化賞1977年武蔵野美術大学助教授、1979年『建築有情』でサントリー学芸賞受賞。1986日本建築学会賞受賞。村野藤吾の研究などで知られた。2019417日、がんのため死去、81歳没[1]
著書[編集]
『神殿か獄舎か』 相模書房,1972鹿島出版会SD選書2007
『建築-雌の視角』 相模書房,1973
『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』 相模書房,1975中公文庫1985
『建築の現在』 鹿島出版会:SD選書,1975
『建築をめぐる回想と思索 対談集』 新建築社,1976
『洋館意匠』 鳳山社,1976
『建築有情』 中公新書, 1977
『洋館装飾』 鳳山社, 1977
『建築旅愁』 中公新書, 1979
『生きものの建築学』 平凡社1981講談社学術文庫1992
『建築逍遥-W.モリスと彼の後継者たち』 平凡社,1990
『建築巡礼-ロンドン縦断 ナッシュとソーンが造った街』 丸善,1993
『日本ホテル館物語』 プレジデント社, 1994
『田園住宅 近代におけるカントリー・コテージの系譜』 学芸出版社, 1994
『建築の多感 長谷川堯建築家論考集』 鹿島出版会, 2008
『建築の出自 長谷川堯建築家論考集』 鹿島出版会, 2008
村野藤吾の建築 昭和・戦前』 鹿島出版会, 2011


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