赤星鉄馬  与那原恵  2020.6.1.


2020.6.1. 赤星鉄馬 消えた富豪

著者    与那原恵 1958年東京都生まれ。96年『諸君!』掲載のルポで編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞受賞。14年『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で第2回河合隼雄学芸賞、第14回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞。

発行日           2019.11.10. 初版発行
発行所           中央公論新社

プロローグ
195111月鉄馬は体調を崩し死去。元千代田火災保険監査役、大磯の自宅で仮性尿毒症で死亡。享年69、との死亡記事が載る
明治15年東京で生まれ、激動の時代を生きた鉄馬は、自らの記録を書くことも、インタビューに応じることもなかった。ただ釣りに関してのみ、原稿を執筆し、雑誌の座談会にも登場
大正14年ブラックバスを日本に移入したことで、ルアーフィッシングの世界では名を残す
ゴルフ草創期にも顔を覗かせるスマートな趣味人として語り継がれ、時の流れの中に姿を消したが、恐らくそれが彼の望んだことだった
私が鉄馬の名を最初に知ったのは、釣りやゴルフとは異なるアプローチで、日本初の本格的学術財団といわれる啓明会の創設資金を提供した当時36歳の実業家として、印象的なその名を目にした
大正7年設立の啓明会の特色は、「特殊の研究、調査、著作を助成」することにあり、他の研究機関では取り上げられないテーマでも「独創的特異的」研究を積極的に支援する方針で、とりわけ基礎的な文献や資料の収集、編纂、出版に注力
多岐にわたる助成は280件に達し、近代日本の学術研究の基礎を築く。当時は国内の全研究助成の1/5を占める程の存在感を示したが、今ではその存在は忘れ去られている
啓明会は鉄馬個人が100万円(現在の価値で20億円)を提供したが、財団に「赤星」の名を冠することを固辞、赤星関係者も運営に関わらない方針を貫く。資金提供者からこれほどまでに独立した学術財団は世界的に見ても珍しい
明治43年の『大日本百万長者一覧表』に当時28歳の赤星の名があり、資産300万円。東京市の地籍台帳には、洋館の自邸がある麻布鳥居坂のほか、東京の1等地に複数の土地を所有、大磯にはジョサイア・コンドル設計の別荘を構える
資産は、明治37年に他界した父・弥之助から受け継いだもの
幕末、動乱期の薩摩で生まれた弥之助は、薩摩の人脈を背景にして主に海軍関係の事業によって巨万の資産を獲得したが、詳細はよくわかっていない。人事興信録では「金貸業」
明治期の富豪列伝にも弥之助は一切描かれておらず、新聞のゴシップでは評価は芳しくない
美術品蒐集でも名を馳せ、鰐が大口を開けたように豪快に買い漁ったが、50歳の絶頂期にあっけなく終わる
父の遺産を継いだ鉄馬は米国留学中のぼんぼん。ペンシルベニア大在学中現地財閥師弟との華麗なエピソードもあったが、父の死により通算8年の留学を終えて帰国
帰国後の鉄馬への風当りは厳しく、「富士山が一夜で出来たような不可思議な富豪」と揶揄されたが、父子が新聞で取り上げられたのは、大正3年の海軍高官への贈賄事件「シーメンス事件」で、他界して10年以上も経た弥之助と海軍の関係が取り沙汰され、日清戦争などに乗じて「濡れ手で粟」のように得た資金を鉄馬が引き継いでいることを非難していた
シーメンス事件から3年後の大正6年、鉄馬は膨大な美術品を売却。空前絶後といわれた「赤星家売立て」で、総額510万円。その1/5を翌年啓明会の創設資金として提供
薩摩閥の人脈を背景に泰昌(たいしょう)銀行を開業したり、朝鮮で大規模な「成歓農場」も起こす。現在は国立の畜産科学院
赤星家の土地は、知人の財界人に売却され、泰昌銀行も昭和の大恐慌で人手に渡り、成歓農場も敗戦ですべてを失ったが、鉄馬はそれを嘆くことさえなかったという
啓明会は、当初の理念通り資金提供者から独立した学術財団として、終戦間際まで研究助成事業を続行、終戦後も細々と運営を続け、終止符が打たれるのは平成22年、鉄馬の没後60
青山霊園に赤星家の墓がある。高さ4mの両親の墓碑と、側に兄弟姉妹13人の名を刻んだ1mの墓碑がある
弥之助が築いた資産はあらかた失われたが、鉄馬は近代学術研究という目には見えない大きな資産を後世に残した
彼を通じて日本近代史の一端に触れられる予感がする

第1章       父、弥之助
鉄馬は明治15年神田猿楽町の生まれ。父弥之助にとって女児2人のあとの待望の長男
事業欲に燃える弥之助を支えたのが7歳下の妻静。薩摩藩士の長女で樺山資紀(海軍大臣・台湾総督・内務大臣など歴任)の姪。明治8年結婚、67女を設ける
弥之助と実兄長沢鼎(磯永彦輔)は、幕末から維新にかけて激動する薩摩を体現する兄弟。とりわけ兄は13歳で藩の英国留学生の一員として渡英したのち、アメリカを舞台に波乱に富んだ生涯を送る
弥之助は嘉永6(1854)磯永孫四郎周徳の5男として誕生、幼少時に赤星家の養子
河内国磯長(しなが)村を出自とし、室町時代に鹿児島に移住したので、磯永を名乗る
16世紀半ば、南蛮船との交易で財を成し、豪商で知られる。享保年間(171636)に鹿児島城下に呼び出され、江戸に出て幕府の暦官となり、後に薩摩藩が幕府の許可を得て独自に使用した「薩摩暦」の礎を作る
弥之助の父・周徳は50代半ばで藩命により長崎海軍伝習所に、五代友厚らと共に派遣
弥之助は安政6(1859)6歳で赤星家の養子となるが、赤星家のルーツは熊本の可能性が高いが不詳。赤星はさそり座の1等星アンタレスの和名。「火星に対抗するもの」というギリシャ語に由来
1864年下関戦争勃発の年、弥之助は11歳で造士館入学。先に入学していた兄・彦輔は、同年藩が創設した洋学校「開成所」に選抜され、英語を学ぶ。その時の学友が森友礼。半年後にはイギリスへの派遣留学生に選ばれる
渡英留学生は15名。幕府が海外渡航を禁じていたため、変名での密航。彦輔は長沢鼎を名乗り、生涯この名で通す。その後アメリカの新興宗教・新生兄弟社に惹かれて渡米
磯永家は没落して五代の経済的支援を受け、弥之助も故郷を出て慶應義塾に入り福沢諭吉の推薦で、実業家の高島嘉右衛門が私財を投じて71年に横浜に開設した私塾「高島学校」の教授陣として荘田平五郎らと共に入る
弥之助は、一旦鹿児島に戻って結婚、西南の役を日本人同士の無益な争いと批判し、桜島に避難。旧城下士族は家を失い、生活は困窮を極め、弥之助も神戸を彷徨した後、五代を頼って大阪に行った模様。80年五代が設立発起人となった「東京馬車鉄道」の出資者として名が見える。弥之助の出資金20(2,000)の出所は不明
80年、弥之助は「神戸桟橋建築願書」を内務省に提出、82年許可が下りると五代に工事や株式募集を依頼。この事業を通じて弥之助と藤田伝三郎との関係が始まる。倉庫、桟橋が完成したのは84年。在京鹿児島県人会の末尾に弥之助の名があるのは将来を嘱望されたのか
85年五代逝去のあと、藤田が大阪商法会議所の第2代会頭に就任。86年の呉鎮守府の海軍施設建設工事では、工事請負人の藤田の代理として弥之助が鍬入れ式を仕切ったという
さらに藤田・大倉喜八郎が手を結んで軍関係の工事請負会社を設立するが、弥之助も参画

第2章       武器商人
87年、海軍次官樺山資紀の欧米視察に弥之助同行。樺山の後ろ建てで軍関係のビジネスに乗り出す。イギリスにもわたり、アームストロング社の代理人となって武器購入の仲介を果たすが、正規の随行員だった山本権兵衛少佐の記録では、うるさくて困ったから追い払った男となっているものの、代理店契約を手始めに築地明石町に代理店を開き、コミッションで潤う
長沢鼎は、新生兄弟社に残って永住を決意、カリフォルニア州サンタローザに移住してワイナリーを建設。成功して漸く訪日したのは97年のこと
麻布区鳥居坂(国際文化会館敷地)の約4,000坪に建つ弥之助の新居は、元井上馨邸。87年、茶会をしばしば催し茶道具蒐集でも知られた井上の邸宅に移築されたのが「茶祖珠光の遺物という東大寺塔頭四聖坊の茶寮と伝えられる「八窓庵」で、移築披露には明治天皇が行幸。その5年後久邇宮家が買い上げ、9900年頃弥之助が八窓庵に拘って手に入れたという。既に茶道具や書画骨董の蒐集でも知られていた
井上を中心に茶文化が新興実業家の間で復興。代表格が益田孝(鈍翁)で、その「大寄せ茶会」の招待者リストには弥之助の名もあり、「道具界の鰐魚(がくぎょ)」として名を馳せていた
98年、弥之助は大磯に別荘地購入 ⇒ 85年に海水浴場が開設され、87年鉄道駅設置を契機に別荘地として発展。政界の奥座敷といわれる
弥之助は、武器ビジネスから離れた後、種々の事業に出資、「金貸業」として興信録に記載
多忙な弥之助に代わって子供たちの面倒を見たのが静の従弟樺山愛輔で、鉄馬のアメリカ留学も勧めたのは愛輔

第3章       米国留学
01年、19歳の鉄馬が留学したのは、やがて弟たちも合流するニュージャージー州の全寮制「ローレンスビル・スクール」で、国内で特に有名なボーディングスクール(私立寄宿学校)10校の1(1810年設立、1987年まで男子校)。総て愛輔が準備を整えた。現地での保証人は長沢で、日本の新聞では在米成功の日本人の筆頭として紹介され、それを機に在米邦人が急増
日露戦争勃発の翌月、松方正義、井上馨らが主導して結成された「帝国軍人援護会」には弥之助も評議員として名を連ねるが、04年がん?で急逝。享年50。八窓庵の茶室開きもせず
鉄馬は、葬儀で一時帰国した後、学業を無事卒業して帰国
弥之助は多くの土地、多数の企業の株式などを鉄馬に残す。10年の「大日本百万長者一覧表」によれば、肩書は「土地持」で、その資産300万円は三井、浅野、森村ら財閥形成者と同額
06年、アメリカに戻ってウォートン校に入学、08年まで滞在。同時期ロックフェラー研究所で研究生活を送っていた野口英世との出会いがあり、休暇のヨーロッパ旅行では画家の有島生馬に出会っている。09年経済学の学位を取得して卒業、前年には帰国
08年、鉄馬は「1年志願兵」として騎兵第1連隊(麻布)に入営 ⇒ 徴兵令の優遇措置として、通常3年現役、4年予備役のところ、中卒以上全額自己負担であれば1年現役、2年予備役に短縮できた。そのために帰国を繰り上げた可能性もある
10年、清野文(ふみ)と結婚 ⇒ 大阪医学会の礎を作った医者の4女。裕福な薩摩2世仲間の夫人の妹。新婚旅行は世界一周

第4章       華麗なる人脈
鳥居坂での新婚生活が始まるが、近隣は六本木5丁目から鳥居坂に向かって右側には李王家世子邸、三条公爵邸、川崎金三郎(川崎財閥当主、甥の肇と鉄馬がウォートンの学友)邸、赤星邸と続き、左側には鍋島(桂次郎、神代鍋島家16代当主)邸、住友吉左衛門(15代当主)(旧大鳥圭介邸)、実吉安純(薩摩出身の医学者)邸、三井守之助(高泰)邸、高木兼寛(日本初の医学博士、慈恵医大創設者)邸、久邇宮家別邸等
11年、「済生勅語」によって皇室からの下付金で設立された「恩賜財団済生会」の招待会に鉄馬の名も見える。最大の10万円の寄付を行い目を引く
世間は軍艦のコミッションで一瞬間で暴富を勝ち得た財界の風雲児として非難していたが、寄付などの要請が相次ぐ ⇒ 柳田國男には出版事業資金として3,000円を提供、無名の書き手による本の出版に貢献。自然災害への義援金もあり、詐欺事件まで引き起こす
長男、二男と相次いで誕生、赤坂台町にコンドルの設計した新邸に移る
鉄馬を彩る人脈:
薩摩閥
費府(フィラデルフィア)大学同窓会 ⇒ 02年設立。会長は岩崎久弥。弥之助も出資者同士、大磯別荘仲間として久弥と親交あり
大磯別荘族
自動車愛好家団体「日本自動車倶楽部」の会員
「東京倶楽部」会員 ⇒ 12年新会館竣工。倶楽部総裁は閑院宮。14年ゴルフ倶楽部設立
釣り仲間 ⇒ 東京倶楽部の釣り愛好家が中心となって14年「丸沼鱒釣会」結成。英国スタイルの釣りを愛した。奥日光の丸沼にアメリカ産紅鱒が放養。隣組の鍋島に誘われた。ブラックバス移入を考えるが、稚魚の入手と輸送の困難から難航
実業界に登場 ⇒ 13年設立の千代田火災の監査役に名が出る(愛輔が取締役)。同年設立の孫文と渋沢が発起人総代となった日中合弁の対中国投資会社「中国興業株式会社」の出資者の1人。14年には泰昌銀行設立。続いて朝鮮に「成歓牧場」建設に着手。父方の従兄が朝鮮総督府で担当していた勧業模範場での実用乗馬生産事業に乗る形で始め、純血アラブ種馬を輸入し馬匹の研究に没頭。更には大規模な開墾作業にまで発展

第5章       啓明会
1914年シーメンス事件勃発 ⇒ 海軍に無線装置などを納入したシーメンスの社員が東京支店から重要書類を窃取し、会社を脅迫したとして、ベルリン地裁で有罪判決を受けたが、その際日本海軍高官への高額なコミッションの支払いの事実が露見。山本権兵衛内閣の弾劾決議案が否決されると、群衆が警官隊と衝突、内閣は総辞職に追い込まれる
弥之助が軍艦購入の際に莫大な手数料を取ったことまでが追求され、そのとばっちりで鉄馬までが一夜にして不可思議な富豪になったと誹られる
17年、弥之助のコレクションを売却 ⇒ 理由は不明。16年頃から特需で経済が急速に回復し、美術市場も活況。伊達家を皮切りに、国宝級の逸品が売りに出され、異様な興奮を惹起
赤星家の第1回売立てでは総数300点、総額395万円に達する(最終510万円)。現国宝の南宋中期の宮廷画家・梁楷の【雪景山水図】は初めて20万を超える21万で三井家が落札
18年、売立て総額のうちから100万円を拠出して日本初の本格的学術財団「啓明会」を設立
1次大戦後、世界と互していくためには「独創力」「創造力」が必要とされ、その基礎となる「研究調査」「発明発見」の重要性が唱えられた。アメリカでは11年にカーネギー財団や13年にはロックフェラー財団が、ドイツでも11年にはカイザー・ウィルヘルム学術促進協会が設立され、新研究開拓のための大規模な助成がなされていた
啓明会の年間助成予算は5万円、文部省の奨励費年間総額が145千円、帝国学士院が56千円であり、日本の全研究助成費の1/5を占めた。際立つのは当初から啓明会と赤星家の私的関係を一切排除したことで、公平性維持のためには必須。事業の特色は、諸外国の理解、国際社会における日本の立場などのテーマも取り上げたことで、会が委嘱した事業の1つに、歴史学者坪井九馬三の『最近政治外交史』の著述出版がある

第6章       釣りと建築
1931日が朝鮮独立のための大規模運動の始まり
成歓牧場でも激しい運動が展開されたが、それよりも旱魃の被害が甚大で、鉄馬は地域の復興事業に巨費を投じる
20年、株価大暴落を機に戦後恐慌と呼ばれる長期慢性不況が続く
21年、皇太子訪欧に反対する社会主義者が、西園寺八郎を麻布の自宅で襲撃。釣りとゴルフの盟友の被害に鉄馬は愕然とする
21年、安田善次郎が大磯の別邸でテロリストに刺殺。1か月後には原首相刺殺
3人の弟はいずれも「ローレンスビル・スクール」に学び、すぐ下の弟・喜介はプリンストンに進学、その下の四郎はペンシルベニア大に進学、末弟の六郎はプリンストンに進学。五郎だけは留学せず慶應を卒業し泰昌銀行に入る
喜介は、一時成歓農場に関与
四郎は、スタンダード・オイル日本支社に入社したが、ゴルファーとして独立、26年、28年のアマ・チャンピオンとなり、コース設計にも打ち込む
六郎も、ゴルフの全米アマ・トーナメントの1つで優勝。日本オープンの初代チャンピオン(27)
23年の震災で、全員無事だったが、鳥居坂の邸宅は崩壊
24年、震災から半年後に研究助成が決定した「琉球芸術調査」は啓明会の特色を示す1件で、いわゆる「琉球処分」により沖縄が日本の一部となって半世紀が過ぎた当時、本土との一体化が加速し、琉球独自の文化に着目する人は殆どいなかったが、帝大教授の伊東忠太と美大研究生の鎌倉芳太郎が連名で琉球史研究を進め、美術・建築分野の研究を深めるために助成を受け、第2次大戦で資料を失う中、82年に大著『沖縄文化の遺宝』を発刊
25年、東京アングリンド・エンド・カンツリー倶楽部設立 ⇒ 中禅寺湖西ノ湖を借り受けて鱒釣を紳士的に行うため、アイルランド人で西南の役で西郷軍の軍需物資調達に貢献して巨利を得たハンス・ハンターと、グラバーの息子倉場富三郎らが中心となって仲間を集めた
倉場はグラバーと日本人女性の間に生まれた長男。アメリカに留学し生物学を専攻した後トロール漁にのめり込むが失敗。文化活動に熱心で、『魚類図譜』を遺す
クラブハウスを設計したのがボヘミア生まれの建築家アントニン・レーモンド。ライトが帝国ホテルの設計を請け負った際に日本行きを誘われ1931歳で来日。コンドルと並んで日本の洋風建築を二分
25年、鉄馬は念願のアメリカからのブラックバスの稚魚移入に成功。長沢の協力も得て、東大の学術研究魚として米国政府の許可を取得、同時にヨーロッパで購入したアラブ種馬10頭、プレムスロック種鶏、カリフォルニア州のヴァレイ・クェール(鶉の一種で狩猟用)、食用鳩、ジェルシイ乳牛も輸入。数年後には「害魚」として非難されるが、鉄馬の名はブラックバスを日本に最初にもたらした人物として日本釣魚史に名を残す

第7章       恐怖と暗殺の時代
罹災を機に、吉祥寺に移り住み赤星家本家とする。池袋から移転したばかりの成蹊に子供たちを学ばせるため。岩崎小弥太の全面的な支援で吉祥寺校舎完成。学園都市も三菱が作る
27年の金融恐慌によって、銀行が特定企業と深く結びついて放漫貸し出しを行っていた実態が暴かれ、台湾銀行と鈴木商店の関係と並んで、十五銀行と薩州閥・松方系企業の癒着関係はその代表例で、十五銀行の取り付け騒ぎに伴いその傘下にあった泰昌銀行も営業を昭和銀行に譲渡して整理。鉄馬や愛輔はかなりの私財を投じた。留学中の白洲正子は卒業を繰り上げてもらい、大学進学を断念して大学を卒業していた兄と共に帰国せざるを得なくなったという
十五銀行は、160百万円の不確実資産を抱え、松方一族への個人貸出が140百万円にのぼる(国家予算が1,760百万円)
28年、鉄馬は先行きの不安も感じたのか、弟たち4人へ総財産の1/2を分与すると決断
成歓牧場は、泰昌銀行とは切り離されていたので恐慌の影響はなく、28年から合資会社組織にして五郎が代表社員となり盛業を続ける ⇒ 五郎は朝鮮陶磁器の蒐集に没頭。一大コレクションは64年安宅栄一に買い取られ、75年の五郎の没後2年して安宅は破綻、住友系財界人の尽力により設立された大阪市立東洋陶磁美術館に保存されている
ゴルフを通じて欧米人との親交を深めていたのが四郎・六郎兄弟 ⇒ 大恐慌の直前ハワイのアマチュアチームとの親善試合が、日本初の国際試合。駒沢コースの朝霞移転が決まり、コース設計者としてイギリスから招聘されたアリソンの通訳として兄弟が同行、その後の兄弟によるコース設計の飛躍へとつながる

第8章       最期の日々
32年、鉄馬は公的な場に姿を見せる事は殆どなく、東京倶楽部に顔は出すものの、それ以外の大半の時間は釣りに没頭。長男猪一は成歓牧場の後継者になるべく東京帝大農学部に在学中、次男弥次は同大美術史科に入学、三男三弥が同大薬学科に、四男清造が北大畜産学科に進学
長沢鼎は、世界大恐慌や排日感情の高まりで苦難の日々が続き、鉄馬も資金援助をしていたが、34年逝去。排日土地法によって日本人の相続は認められず、ワイナリーは売却。ほとんど資産は残らず。52年弟弥之助と同じ青山の赤星家墓所に埋葬されたのち、薩摩へ。長沢への再評価が高まるのは後のこと
35年、フォードの日本の新工場建設に際し、政府が国産化のための法制化を進めたため、四郎らが間に入って一役買おうとフォードに申し出たが、計画は頓挫
成歓牧場の馬生産事業も35年に廃止、以降畜産と農業を主軸とし、成歓農場と改称
36年、六郎が「ゴルフコースのレイアウト研究」を目的に渡英米。赤星家の栄華を物語る最後のエピソード ⇒ ベルリン・オリンピックの帰路ロンドンに立ち寄った水泳連盟の会長でもあった末弘厳太郎夫妻とゴルフをしたり、駐英大使に着任直後の吉田茂が六郎をゴルフを通じた親善外交に起用したり、アメリカではローレンスビルを経てプリンストンに在学中の近衛文隆とも初めて日本人として優勝カップを手にしたパインハーストを訪れプレーをしている
37年、啓明会創立20周年を前に記念宴会を開催。助成対象は減りつつあったものの、年平均31千円の助成を続けていたが、これが華やかな場面の最後
戦争一色の中で治外法権的存在だったのが東京倶楽部。鉄馬は会員の投票によって選ばれる10人の投票幹事の1
40年、アングリング倶楽部のクラブハウスが焼失、既に中禅寺湖の借地権も放棄しており、倶楽部の事実上の終焉。正式解散は44
40年、東京ゴルフクラブ朝霞コースが陸軍予科士官学校として譲渡され閉場。戦後はGHQに接収
41年、猪一が成歓農場の代表として赴任
長女・秋子は、「三菱銀行の三羽ガラス(ママ:金融界の三羽ガラス)」とうたわれた黒川久(後に三菱油化社長)と結婚、次男弥次は鉱山学者崎川茂太郎の4女と結婚するが、その母千代は藤村操の恋の相手で、操から送られた高山樗牛著『滝口入道』を死ぬまで保管していた
啓明会創設以来、43年度までの事業実績は、研究助成が267件、約966千円。完成したのは201件。44年度も11件の助成を決定
44年、吉祥寺の鉄馬邸が陸軍に接収、一家は大磯に疎開
44年、六郎他界、享年46.釣り針が刺さったのが原因の敗血症
傷心の四郎は、日本でゴルフが出来なくなったこともあり、旧知を頼って単身満州に渡り、満州電気化学の吉林工場長として働き、終戦時ソ連兵の下で使役され、帰国したのは46年夏
45年、四男・清造は中野学校の学生隊に選抜
鉄馬は大磯で母・静と共に暮らす
倉場は、終戦の11日後自死。遺言により『魚類図譜』は渋沢敬三に遺贈。その後すべて長崎に変換され、長崎大水産学部によって全5巻の『グラバー図譜』の刊行は四半世紀後
46年、母・静逝去、享年84
46年、財産税施行 ⇒ 鉄馬の課税価格は不明だが、税率7080%と推測。多くの不動産を物納
啓明会は48年には講演会を再開、研究助成も数件行われたが、2010年解散を決断、会の資産300万円は東大に寄贈
57年頃、鉄馬邸は接収解除されたあとアメリカ人家族が暮らしていたが、カトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会に売却され、現在に残る
赤星家は、三男、四男も独立
51年、鉄馬死去、享年69
55年、財団法人国際文化会館の理事長だった愛輔の奔走で、岩崎家から物納され、国有地となっていた元赤星邸敷地の払い下げを受け、会館を建設するが、この敷地に拘ったのは愛輔であり、亡き鉄馬への深い思いがあったのではないか

エピローグ
2015年ソノマのワインカントリーを訪問。鉄馬のひ孫が迎えてくれた
1983年レーガン大統領来日の際、国会演説で「カリフォルニアの葡萄王」長沢の功績を称えたことから、長沢再評価の動きが日米で広がる。彼のワイナリーは分割転売され、宅地として開発が進んだが、隣接するパラダイス・リッジ・ワイナリーのオーナーが長沢の資料室を開設
ひ孫は、赤星家の祖先のことは一切知らされずにワインの世界に入り、ソノマに来て初めて長沢のことを知り、自分の祖先だと知って衝撃を受ける
17年秋、ソノマ、ナパ一帯は大規模な原野火災で東京23区の1.4倍の面積が焼失、長沢の資料室も全焼し、ワイナリー再建には時間がかかるだろう
16年には成歓を訪問。現在は国立畜産科学院となっているが、鉄馬が100年以上前に移築した韓国伝統様式の建物「翠遠閣」は06年に修復され健在。農場の痕跡は何も残っていない


あとがき
鉄馬とは何者か。自身は釣りに関することを除いて書き残していない
絶大な力を持った野心的な父・弥之助に対して複雑な思いも抱いたであろう鉄馬だが、通算8年に及んだ米国留学の体験は彼の内面に大きな変化をもたらした。更に兄のような存在の愛輔の尽力もあって、「啓明会」が誕生し、近代学術研究の蓄積という大きな遺産が今日に残された
鉄馬は、莫大な資産を受け継いだゆえの苦悩もあっただろう。彼が愛読したと思われる『釣魚大全』の一節に、「富がなくても不幸があるように、富があっても多くの不幸を避けることはできない」とある如く、やがて赤星家の資産はあらかた失われた。鉄馬の資産は、後世のために有意義に使われ、彼自身は静かに消えていった



2020.1.25. 朝日
(書評)『赤星鉄馬 消えた富豪』 与那原恵〈著〉
 ■学術研究の基盤築いた謎の人物
 本書は評伝であるが、主人公の赤星(あかぼし)鉄馬はほとんど知られていないのではないか。薩摩出身の富豪の息子であり、米国のペンシルベニア大学を卒業、日本初の学術財団「啓明会」を設立し、多くの研究者を支援した。趣味の釣りでも活躍し、ブラックバスをアメリカから持ち込み、日本で繁殖させた。とはいえ、今日、その名を記憶する人は多くないだろう。
 本書を読めば、赤星の人となりが浮かんでくる。自然科学を含む多くの学術研究を支援し、公共的目的の組織への寄付を惜しまない。現代的に言えば、メセナやCSR(企業の社会的責任)の先駆者であるが、売名を嫌い、ほとんど前に出ることはなかった。自ら役職につくこともなく、組織を私することを抑制した。
 このように書くと、謙虚ではあるが、地味な人物の一生に見える。だが、赤星はけっして地味ではなかった。その名のごとく、戦前の日本における文化的公共圏の明るい星であった。赤星は吉田茂や樺山愛輔(白洲正子の父)、岩崎小弥太らと若き日から接し、終生の友人であった。彼らは日常を共にし、ビジネスだけでなく文化的事業でも志を共有した。
 そのようなネットワークは政治的にも意味を持った。赤星自身は非政治的な人物であったが、大磯の別荘の隣人である吉田や樺山らは終戦工作を行っている。彼らの多くは元勲の子孫であったが、欧米の大学に学び、リベラル派であった。赤星もまた、そのような人脈に連なっていた。
 とはいえ、赤星の真骨頂は幅広い学術を、短期的な成果を求めず支え続けたことだろう。高群逸枝を含む女性研究者を支援する一方、古琉球の文化の保存にも関心を持つなど、その後の学問の基盤を築いた。にもかかわらず、本人は戦後改革で財産を失い、静かに消えていった。鳥居坂の自宅跡に現在は国際文化会館があるのが、なんとも象徴的である。
 評・宇野重規(東京大学教授・政治思想史)
     *
 『赤星鉄馬 消えた富豪』 与那原恵〈著〉 中央公論新社 2750円
     *
 よなはら・けい 58年生まれ。ノンフィクション作家。『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』など。


Wikipedia
赤星 鐡馬(あかぼし てつま、1883明治16年)111 - 1951昭和26年)119)は、日本の実業家である。泰昌銀行頭取。
経歴[編集]
東京出身。海軍への物資調達で巨万の富を築いた赤星弥之助の息子(六男六女の長男)として生まれ、莫大な遺産を相続した。赤星家の財産はこの弥之助が築いたものである。1901(明治34年)に東京中学を卒業後渡米し、ローレンスビル・スクールに入学。留学中にペンシルベニア大学卒業後、1910年(明治43年)に27歳で帰国し、大阪の開業医の娘と結婚。政府関係者に随行して、夫婦で世界一周の新婚旅行をした。父親の死去にともない、家業を継ぐ。
1917大正6年)、父・弥之助死去に伴い、保有していた美術コレクションを売却。後に国宝となった物件が多数含まれたことから『赤星家売立』と呼ばれた。総額5,100,000円以上にのぼる高額の落札額を記録し、当時の最大規模の売立となった。
1918(大正7年)88文部省(現文部科学省)管轄としては日本で初めての学術財団となる財団法人啓明会を設立し、美術品売却益の五分の一に相当する、当時の金額で100万円を奨学資金として投資した。資金は出したが、赤星自身はこの財団の運営に一切関わらず、親族にも関わらせなかった。
赤星家の資産運用保管の目的で1913(大正2年)に設立された泰昌銀行の頭取であったが、1920年に松方巌松方正義の長男)率いる十五銀行に経営権を譲渡し、1923(大正12年)の時点では千代田火災保険の監査役だけが肩書きで、新聞では「一向事業という様な事業をしてない」と評された。
1923年の関東大震災麻布鳥居坂の邸宅が倒壊した。震災後は東京府北多摩郡武蔵野村(現在の武蔵野市吉祥寺の一角。成蹊大学前のカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会の敷地)に転居した。当初はアメリカから持ってきた住居を移築して住んでいた。鳥居坂の邸宅跡には国際文化会館が建てられている。
1925(大正14年)、 公害や乱獲、ダム建設などでバランス[要出典]の崩れた河川湖沼の回復を目的に、味がよく釣って面白い魚という触れ込みで芦ノ湖オオクチバス(ブラックバス)を移入した。移入の経緯を含めたブラックバスについて記した遺稿が、1996年に書籍として刊行されている。
1934昭和9年)にアントニン・レイモンド設計の新居が完成する。この住居は今でも残っており、外観は修道院の門から見ることができる。邸宅の敷地は3万坪あり、その一部は成蹊大学となっている。
人物[編集]
趣味はの研究と釣りバラの栽培で、新橋花柳界では粋人として知られた。朝鮮京城附近に広い牧場(成歓牧場)を所有し、道楽として馬を飼養した[2]
家族[編集]
父、赤星弥之助(18531904)は武器などの軍需品を扱う政府御用達貿易商として富を築いた実業家鹿児島県出身。磯長孫四郎の子で赤星家の養子となり、東京で金貸し業などの事業に関係し財をなした。旧薩摩藩の海軍御用掛、神戸港の建設などで巨富を得た。平塚市立美術館に黒田清輝筆による肖像画が所蔵されている。
母シズは樺山資紀の姪。樺山は弥之助のいとこでもあった。弥之助は樺山の視察団に加わって欧米を回り、アームストロング社から大砲販売の独占販売代理店、すなわちエージェントになる権利を取得した。その後、クルップ社の仕事にも関わった。いわば「死の商人」の日本代理店であった。
弟に赤星喜介、赤星四郎、赤星五郎、赤星六郎がいる。四郎と六郎はゴルフ界で活躍し、プロ育成やコース設計に尽力して日本の近代ゴルフの礎を築いた。二人とも鉄馬同様、アメリカの大学に留学歴がある(四郎は鉄馬と同じペンシルベニア大学)。四郎の妻は木間瀬策三の長女。喜介の妻は錦鶏間祗候野村龍太郎の四女。五郎は千代田火災保険、泰昌銀行の取締役で、妻は京都の弁護士で古美術収集家(現・京都国立博物館守屋コレクション)として知られる守屋孝蔵の長女。妹フサは商工省商務局長、資源局長官などを務めた錦鶏間祗候川久保修吉の妻となった。鉄馬同様、四郎の週末別荘、喜介の自邸もレイモンド事務所が手掛けた(どちらも担当は吉村順三)。
妻の文は学者清野謙次の妹。
叔父(父・弥之助の実兄)に磯長吉輔と長澤鼎。磯長家は代々藩の天文方を勤め、吉輔・鼎・弥之助の父親の磯永孫四郎は儒学者。 吉輔の子に写真師・上野彦馬の弟子の磯長海洲。
親戚に樺山愛輔(父・弥之助の母方の親族)。鉄馬に次いで泰昌銀行の頭取となった松方巌の後を引き継いで同行取締会長を務めた。
著書・評伝[編集]
『ブラックバッス』、福原毅編/イーハトーヴ出版、19966
与那原恵 『赤星鉄馬 消えた富豪』中央公論新社201911月、ISBN 4-12-005244-3


東京)実業家・赤星鉄馬の旧邸を取得へ 武蔵野市
2020212 1030分 朝日
 東京都武蔵野市にある実業家・赤星鉄馬の旧邸(祥寺本町4丁目)を、市側が今夏にも取得する。現在のチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドが設計し、1934年に建てられた。市は「敷地内には貴重な緑が残り、建物にも歴史的・文化的な価値がある」と説明している。
 市によると、所有者のカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会と13日、取得のための基本合意書を締結する。約4500平方メートルの土地は、まず市土地開発公社が買い取り、その後に市が取得。建物は修道女会から寄付を受ける。所有権移転後、建物は調査し、国の有形文化財登録を目指す。土地は将来、公園として市民に開放する考えだ。建物の活用策や公園の開設時期は今後検討する。
 赤星は明治期の生まれで、米国に留学。実業家だった父親から莫大(ばくだい)な財産を継いだ。その後、学術財団「啓明会」を立ち上げて、幅広い分野の研究者を支援した。ただ財団に自分の名前を冠することも、運営に口を出すこともなかったという。交友関係は広く、米国からブラックバス芦ノ湖神奈川箱根町)に持ち込んで繁殖させたことなどでも知られる。51年に亡くなっている。
 レーモンドは旧帝国ホテルなどを手がけた建築家フランク・ロイド・ライト19年に来日。日本に長く滞在し、数多くの建物に関わった。76年に亡くなった。
 旧邸は戦後の56年、修道女会側の所有になり、修道女を育成するなどしてきたという。市によると、旧邸は鉄筋コンクリート造りで、修道女会が所有後に増築した建物とつながっている。両方をあわせた延べ床面積は約1200平方メートル(旧邸部分は635平方メートル)。旧邸は建築当時の様子をとどめており、市民らからも保存を望む声が出ていた。(河井健)


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