美術の物語 E.H.Gombrich 2018.4.8.
2018.4.8. 美術の物語 改訂第16版
The Story
of Art 1950、1958,1960、1972、1978、1984、1989、1995
著者 E.H.Gombrich(メリット勲位、3等勲位、英国学士院会員) 1909年ウィーン生まれ。36年ロンドンのウォーバーク研究所員。59~76年同研究所所長兼ロンドン大古典学科教授。72年ナイト爵、88年メリット勲位。ゲーテ賞(94年)、ウィーン市ゴールドメダル賞(94年)など、世界各地で多くの賞
訳者 天野衛、大西広、奥野皐、桐山宣雄、長谷川摂子、長谷川宏、林道郎、宮腰直人
協力 田中正之
発行日 2007.1.24. 第1刷発行
発行所 PHAIDON
『美術の物語』ほど有名な、広く読まれた美術書は少ない。原始の洞窟壁画から現代の実験的な芸術にいたる、美術の全体を論じた入門書として、50年以上もの間、この本の右に出るものはなかった。全世界の、様々な背景を持つ、あらゆる年代の読者が、ゴンブリッチ教授こそは本当の美術史家だと考えている。彼は、知識と知恵を持つだけでなく、論じる芸術作品への深い愛を直接に伝える稀有の才能を備えている。
『美術の物語』が長く人気を保っている理由は、率直で単純な文体と、物語をくっきりと浮かび上がらせる話術にある。著者の狙いは、「もっと本格的な美術書が出てくるいろんな名前や時代や様式を、わかりやすく整理できるように」することだという。視覚芸術の心理学に造詣の深い著者は、「絶えず変化しながら連綿と続く伝統の中で、一つ一つの作品が過去を語り、未来を指さす」ような美術史、「伝統という生きた鎖が、ピラミッド時代の美術から現代美術にまで延々と連なる」物語としての美術史を、まさに目に見えるように描き出している。すでに古典となった本書が、装いも新たに第16版として世に出る。未来の読者にも暖かく迎えられ、これまで通り、美術の門を叩くすべての人が最初に手に取る本となることを願わずにはいられない
タイムズ紙文芸附録――1950年初版本の書評
この本はきっと広い読者を獲得し、新しい時代の思想に影響を与えずにはいないだろう。ゴンブリッチは親しく話しかけるように語っている。彼の学識の深さは美術の関係者ならだれでも認める所だが、それが強く表に出てくることはなく、しかも、どんな話題に関しても新しい考え方が示される。彼は僅かな言葉で一時代の全体的空気を浮かび上がらせる力を持っている
ニール・マグレガー――1995年ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長
同時代の美術史家はみんなそうだが、絵に関する私の考え方はゴンブリッチに多く負っている。私が『美術の物語』を読んだのは15歳の時だったが、この本の刊行以来、100万人の人が感じたように、私はその時大きな世界の地図を与えてもらったのだと感じた。この地図があれば、ひるむことなくさらに探検を進めることができると思った
J.カーター・ブラウン――1995年ワシントン・ナショナル・・ギャラリー名誉館長、米国美術委員会議長
一般の人々と美術とを結びつける大事業の要ともいうべき書物の新版が出た。私の感激を言葉にするのは難しい。図版と本文とがぴったり合った優雅な新しいデザイン、面目を一新した豪華なカラー図版、最新の時代をも扱う明快な文章――それらが1つになった見事な新版である。装い新たなこの名著からは、ヴィンテージ・ワインの香りが漂ってくる
クリストファー・フレイリング――1995年ロンドン王立美術大学文化史教授
過去45年間、美術史家、美大生、学者を問わず、美術の世界に人々を引き入れるのに、ゴンブリッチの『美術の物語』ほど大きな力を持った本は他にない。素晴らしい物語を描いた偉大なる歴史家ゴンブリッチの、専門語に頼らぬ率直な語り口と情熱は、今後も広く受け入れられていくだろう。新版の刊行は、ゴンブリッチの本と共に成長した私たちにとっても朗報だが、それにもまして、これからこの本と共に成長していく人々にとって朗報である
はじめに
美術という心惹かれる世界の道案内が欲しいと思っている読者を想定して書いた。特に美術の世界を自分で発見したばかりの10代の読者を前提に、美術の専門用語をなるべく使わないようにした
第1の規則.
図版を取捨選択し、載せてない作品については語らない
第2の規則.
本物の芸術作品のみを対象とし、趣味や流行の見本は除外
第3の規則.
傑作を個人の好みで締め出さない
序章
これこそが美術だというものが存在するわけではない。作る人が存在するだけ
普遍的な「美術」が存在するわけではないのに、いまや「美術」が怪物のようにのさばり、盲目的な崇拝の対象になっている
人は現実世界で見たいと思うものを、絵の中でも見たいと思う。だからそれを絵に描き残してくれた画家たちに感謝する
絵の主題に魅力がないと、つい反発を感じる
絵の美しさは、必ずしも描かれた対象の美しさにあるのではない
美や好みの基準が人によって大きく違うので、何が美しいのかはわからない。感情表現についても同じことが言える
目に見える世界を忠実に再現する技術と忍耐力は、間違いなく賞賛に値する ⇒ ドイツの巨匠デューラーの《野うさぎ》(1502)はそのもっとも有名な例
絵が正確でないからといって文句をつける前に留意しなければならないのは、①画家が見た物の姿を変形するのにはそれなりの理由があったのではないか、②不正確な描写だからといって作品を非難すべきではない、ということ
すぐれた作品を楽しむうえで、習慣や先入観を捨て去る気になれないのは困ったもの。特に聖書の主題に対しては感情的になりやすく、伝統的な表現形式から離れることを神への冒涜と考える人が跡を絶たない
「美術作品」と呼ばれるものは、神秘的な活動によって生み出されたものではなく、あくまで人間によって、人間のために作られたものであり、手で触れ売り買いされ、喧嘩のもとになったり、心配の種になったりする、人間臭いもの
作品に見られる特徴の1つが、芸術家自身の決断の結果であり、仕事に取り掛かるときに想定していたある特定の状況と目的に合わせて制作されたもの
芸術家の日々の創作活動の中で、美や感情表現の占める割合はそれほど大きなものではなく、「これで(作品が)決まり(完成)」だと言えるかどうかが問題で、それが芸術家にとってどういう意味を持つものか、それを理解した時に初めて、彼らが本当に求めているものに1歩近づくことができる ⇒ 色合い1つとっても、画家はカンヴァスの上で何百もの色合いや形を調整して「これで決まり」というところにもっていかねばならない
ラファエロの《草原の聖母》(1506)では、2人の子どもを見下ろす聖母の表情が見事だが、4つの習作デッサンを見ると、画家が努力を重ねて獲得しようとしているのは、人物間の正しいバランスであり、全体が最もよく調和するような配置だったことがわかる
美術作品を楽しむには、新鮮な心を持たなければならない。ちょっとした手掛かりも見逃さず、隠れた調和にも反応するような心を持たなければならない
美術の歴史が少しでもわかれば、芸術家の創作の意図に迫り、美術作品の特色を見抜く目が鋭くなり、一層微妙な差異も感じ取れるようになる
この本で学んで欲しいのは、絵画鑑賞にあっては、目を開くことであって、饒舌になることではない
1.
不思議な始まり――先史、未開の人々、そしてアメリカ大陸の旧文明
美術がどのように始まったのか
原始的な人にとって、絵は美しいものではなく、「使って」威力を発揮するもの
2.
永遠を求めて――エジプト、メソポタミア、クレタ
美術は地球上どこにも存在するが、人類の連続する営みとして美術を語るには、約5000年前のナイル川流域に遡る必要がある ⇒ ギリシャの名匠はエジプト美術から学び、現代の我々はギリシャ人の生徒
エジプト美術の特徴は、幾何学的な調和と鋭い自然観察の目を兼ね備える。ある瞬間にどう見えたかではなく、ある人や場面についての知識こそがエジプト美術の基本
3.
大いなる目覚め――ギリシャ,前7~5世紀
紀元前1000年頃、東地中海の島々、特にクレタ島の美術がギリシャ本土、中でもミュケナイ地方に広がっていった ⇒ ホメロスの叙事詩では、クレタ美術の栄光と美を伝える
ギリシャの都市国家の中で、美術市場とびぬけて有名かつ重要なのがアッティカ地方のアテネ ⇒ 紀元前6世紀のこと、美術史上最も驚くべき革命が結実
古来の定式を出発点としつつも、それを神聖不可侵のものとは考えず、ありのままの自然の形と短縮法を発見
芸術家とは、手を使って生計のために働く人間のことで、上流階級の一員とは見なされることなどありえなかった
アテネの美術の歴史が頂点を極めたのは、ペルシャの侵略軍を撃破したBC480年で、破壊された建物の再建に取り掛かる
現存するギリシャ美術のオリジナル作品のうち、芸術家たちの得た新しい自由を最も見事な形で伝えているのは、パルテノン神殿の彫刻群
エジプト美術にあった幾何学的で堅苦しい不自然さがなくなり、全ての線が一つに結び付いて、単純な調和が生まれている、この調和を初めてこの世にもたらしたのが紀元前5世紀のギリシャ美術
4.
美の王国――ギリシャとその広がり 前4~後1世紀
美術が自由な表現に向けて大きく動き出したのがBC520~420年
美術の担い手が、伝統や様式、技術を競い合うようになり、ギリシャ美術の多様性を生み出す ⇒ 教養あるギリシャ人たちが、詩や劇を論じるように絵画や彫刻を論じるようになり、絵画や彫刻の美を称え、その形式や着想を批評するようになる
ヘレニズムの時代にギリシャ美術の全体が変化 ⇒ BC160年頃のペルガモン神殿に見られるように、ギリシャ彫刻の優美さや調和は消えて、荒々しい戦闘の場を描いて強烈な劇的効果を狙っている
5.
世界の征服者たち――ローマ人、仏教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒 1~4世紀
ローマはヘレニズム王国の廃墟の上に帝国を建設したが、美術についてはあまり変化は見られない ⇒ コロッセウムはローマ風の構造にギリシャの様式を組み合わせた建築法だが、帝国全域にわたって作られた凱旋門はアーチの使用というローマの特徴を表す
インドでは、ヘレニズムの影響が及ぶはるか以前にも優れた彫刻作品が作られていたが、仏陀像がレリーフ(浮彫り)として最初に現われたのはヘレニズムの影響を受けた辺境の地ガンダーラで、これがその後の仏教美術の模範となる
ユダヤ教では、説教用に聖なる物語を図解するようになる ⇒ シナゴーグの壁面を旧約聖書の絵で飾る
キリスト教美術の制作者たちが、初めてイエス・キリストと12使徒を表現するよう求められた時、拠り所となったのもギリシャの伝統
6.
歴史の分かれ道――ローマとビザンティン 5~13世紀
311年キリスト教が公認されると、大規模な教会の建物が必要となり、キリスト教会と美術との関係は根底から考え直さなければならなくなる ⇒ 教会の装飾と読み書きできない人たちに教えを広めるための画像が必要とされたため、おのずと描かれる物語はあくまで単純で明快なものに限られる
教会における美術の目的がどこにあるかという問いは、ヨーロッパ史全体を揺るがす重要な問題 ⇒ ビザンティウムを首都とし、ギリシャ語を公用語とする東ローマ帝国は美術の使用についても抑圧的に動く
7.
東方を見てみると――イスラム、中国 2~13世紀
イスラム教は、7~8世紀にペルシャ、エジプト他を征服して勢力を拡大したが、図像についてはキリスト教以上に厳格で、制作自体を禁止したが、人物像の制作が許されなかったために、模型や図形に創造力の捌け口を見出し、アラベスクで知られる精緻極まるレース模様を生む
中国美術の始まりについてはさらに不明な点が多い ⇒ 早くからブロンズの鋳造術に長けていて、祭祀に用いられた青銅器にはBC1000年以上にまで遡るものもある。紀元前後の数世紀、埋葬の習慣はエジプトに酷似しているが、エジプトのような厳格な角張った形の代わりに大きく弧を描く曲線を好む
中国美術に対する仏教の影響は、作り手たちに新しい課題を提供したのみならず、古代ギリシャにもルネサンス以前のヨーロッパにもなかった、絵を描くことに対する深い尊敬の念を生み出す ⇒ 「画家は霊感を受けて創作する詩人と対等だ」という考えが中国が最初
8.
るつぼの中の西欧美術――ヨーロッパ 6~11世紀
ローマ帝国崩壊後は「暗黒時代」と呼ばれ、美術の世界でも数多くの異なる様式がせめぎ合い、漸く統一に向かうのが1000年頃 ⇒ 混沌の中でも学問と芸術を愛し続けたのが修道僧や聖職者の中にもいて、権力者の宮廷でその能力と影響力を発揮したが、ゲルマン系の諸民族の前に屈した
繊細な金属細工が発達したり北方の職人たちの伝統をキリスト教美術に生かそうとした
キリスト教会が布教のために絵を活用することができたのは、ギリシャの遺産があったから ⇒ わかりやすさを追求する傾向は写本彩飾や彫刻作品にも表れる
9.
戦う教会――12世紀
1066年
ノルマン人がイングランドに上陸、最新の建築様式が持ち込まれた ⇒ ロマネスク様式
時の権力者が、この様式の大修道院や教会堂の建立によって権力を誇示
十字軍によってビザンティン美術と触れ合う機会が増え、彼らの威厳に満ちた聖像を模倣し、張り合おうとした ⇒ 色や形についても自然界の模倣から解放され自由に超自然の世界を表現し始める
10. 栄光の教会――13世紀
東西の差異は、東方では同じ様式が何千年も続いたが、西欧では不変不動は考えられず、常に新しい考え方を求めた ⇒ 13世紀に入るとロマネスク様式に代わって北フランスで発祥したゴシック様式が広まり、石とガラスによるゴシック大聖堂の核心ができた
奇跡のような大聖堂は、天の栄光を高らかに宣言しているように見え、ノートルダム大聖堂のファサードが最も完成度が高い
彫刻家たちもゴシック様式似合う作品に没頭、独自の存在で個としての尊厳を備えたものとなった ⇒ 聖なる物語を感動的に説得力を持って語ることを目的とし、そこに秘められた意味をいかに表現するかが重要とされた
画家の世界でも13世紀に入ると、お手本から離れ、自分の興味を惹かれたものの描写が始まる
イタリアでは、特にヴェネツィアなどではビザンティン帝国との関係が密接で、そこから霊感を得ていたために、教会もまだ「東方ギリシャ風」の荘厳なモザイク画で飾られていた
彫刻と絵画とを隔てる壁をイタリア人が乗り越えることができたのもビザンティン美術のお陰で、そこに残されていたヘレニズム絵画の成果を吸収 ⇒ フィレンツェのジョット(1267頃~1337)が、ビザンティンの保守主義の呪縛を断ち切ってゴシック彫刻の写実的な人物像を絵画の世界に持ち込むことに成功、新しい時代の始まりとなる
ジョットは、平面上に奥行きを生み出す方法を再発見 ⇒ 「言葉代わりの絵」ではなく、聖書の物語をまるで目の前で起こっているかのように表現
ジョット以降、美術史が偉大な芸術家の歴史となった
11. 宮廷と都市――14世紀
12世紀半ばのヨーロッパは、アマダ人口密度の低い農業地帯で、権力と学芸の中心は修道院と有力貴族の城館であり、その中で有力な司教の管轄する町は立派な大聖堂を自前で持とうとした、それは町の住民が市民としての誇りに目覚めた最初の兆候
14世紀になると、都市は商業の中心地となり、市民は教会や封建領主の権力からの自由を実感するようになる。荘重よりも洗練を好む
最も14世紀らしいのは、貴金属や象牙の小品
ヨーロッパの各都市間でのギブアンドテイクによって、14世紀の終わり頃に新たな様式が生まれる ⇒ 国際様式と呼ばれ、鋭い観察眼と繊細で美しいものを喜び、身の回りの世界を描写することにも活用された
写生が習慣となるにつれ、画家が生きた動物を入念に観察するようになり、作品を見る側も自然を写し取る技術に注目し、魅力的な細部を画家がどれだけ描き込んで見せたかによって絵を判定するようになる ⇒ さらに画家のほうは視覚の法則を探求したかった
12. 現実を捉えた美術――15世紀前半
イタリアではジョットの芸術を古代ギリシャやローマの巨匠の作品の再来(ルネサンス)といって称賛するとともに、古典古代に栄えた美術と科学と文芸を蘇らせ新しい時代を作り出そうとする動きをリードしたのが富裕な商人の都市フィレンツェ、ダンテとジョットを生んだ町
リーダーとなったのが大聖堂を作ったブルネッレスキ(1377~1446)で、ルネサンス建築の創始者であり、絵画の分野でも遠近法という画期的な発見をした
彫刻家の代表はドナテッロ(1386?~1466)
13. 伝統と変革 I ――イタリア 15世紀後半
絵画が聖書の物語を感動的に伝えるのに役立つだけでなく、現実世界の断片を鏡のように映し出すことにも使えるという考えに、画家もパトロンもみな夢中になり、目覚ましい効果を求めて冒険精神を発揮して実験に取り掛かる
都市の重要性が増すと、芸術家たちも他の職人たちと同様それぞれの都市のギルドに組織されていく
この時代の代表がボッティチェリ(1446~1510)で、遠近法を使った自然描写と手前の人物像を一体として描く矛盾を解決した成果が《ヴィーナスの誕生》(1485頃)
14. 伝統と変革 II ――アルプス以北 15世紀
15世紀には、複雑なトレイサリー(網目模様)と幻想的な文様装飾への好みが一段と強くなり、豪華で創意に溢れたおとぎ話いでてくるような建築が出現、ゴシック建築の装飾デザインの可能性が限界に達し、新しいもっと単純な様式を生み出そうという動きが出てくる
14世紀後半から15世紀のイングランドの教会では「垂直式」の名で知られる、前時代の「装飾式」に代わる現世的なシンプルなデザインになっていく
15世紀の中頃、ドイツで発明された印刷術によって、特に絵の印刷は木版刷りにより活字本の印刷より数十年早く行われ、木版画が布教のために活用された
木版の技術に対して、枠の中に活字を配置するという発明をしたのがグーテンベルクで、銅板に彫る技術を開発、木版画の陰画となっている
15. 勝ち取られた調和――トスカーナとローマ 16世紀初頭
イタリア美術が最も名を成す時代であり、歴史上最も偉大な時代 ⇒ ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノ、コレッジョ、ジョルジョーネ、北方ではデューラーとホルバインらの巨匠が同時期に活躍
芸術家がただの職人から自立し自分の考えを持つようになり、名声と栄光を求めて鎬を削るようになった ⇒ あと押ししたのがパトロンたちの名声欲
ダ・ヴィンチは、芸術を科学的に基礎づけることに腐心 ⇒ 《最後の晩餐》では、構図とか描写とかの技術的な問題を超えて、人間の行動と反応についての深い洞察力、それを現実の場面のようにありありと見せてくれる想像力こそ真に称賛すべきもので、さらに《モナ・リザ》では、正確な描写と調和の取れた構図とをうまく結びつけ、自然を征服したがために画家たちが新たに直面することになった課題を解決している
ダ・ヴィンチとミケランジェロは、フィレンツェ市議会会議場の壁画を競い合って描くことになり、美術史上の劇的瞬間となったが、途中でミケランジェロが教皇の墓碑建造に引き抜かれたために決着は見送られた ⇒ 墓碑の建造は取り止めとなり、代わって教皇が依頼したのがシスティーナ礼拝堂の天井画
ラファエロの《大公の聖母》(1505年頃)の命溢れる充実感は比類のないものであり、《ガラティア》に見る人物の純粋な美しさは、必ずしも自然に忠実な描写に固執したものではなかった
16. 光と色彩――ヴェネツィアと北イタリア 16世紀初頭
フィレンツェに次ぐ重要都市のヴェネツィアは、遅れてルネサンス様式を取り入れたが、新たに陽気さや華やかさ、温かさを加えた
光と色を楽しそうに使って画面に統一感を出す手法に没頭したのがジョルジョーネでありティツィアーノで、絵の具使いの抜群の技術で色彩によって統一感を取り戻すことに成功、生き生きとした描写で絵に生気をもたらした
17. 新しい知の波及――ドイツとネーデルランド 16世紀初頭
イタリア・ルネサンスの巨匠たちによる画期的な発明と偉大な成果がヨーロッパ北部の国々にも強い印象を与える
イタリアの成果である、①幾何学的遠近法の発見、②解剖学の知識とそれに基づく美しい人体の完璧な描写、③建築における古典形式の知識、が伝播していく
デューラーは、どんなに丹念に誠実に実物を模写しても、それだけでは得も言われぬ美しさをものにすることができないことを知り、いろいろな規則を当てはめて人体のプロポーションを探求し、バランスや調和を探し求めた結果が《アダムとイヴ》(1504)に現われる
18. 美術の危機――ヨーロッパ 16世紀後半
完成の域に達した絵画を超えようと、過去の世代よりも面白くて風変わりなものを創り出そうとして躍起になっていた ⇒ 目先を変えて注目させる
エル・グレコ(1541?~1614)はクレタ島の出身、現実の色や形を無視し、心を震わせるような劇的なヴィジョンを絵にする ⇒ 厳密で正確なデッサンに拘らず、ティントレットの型破りな構図から多くを学び、不自然な形や色を取り入れた大胆な図柄となったため、第1次大戦後になって、現代の芸術家たちが、すべての芸術作品に「正確さ」という同じ基準を当てはめるべきではないと説くに至ってやっと再発見され理解されるようになった
北方では、宗教改革によって、多くのプロテスタント信者が、聖人の絵や彫刻をカトリック的な偶像崇拝の印と考え、教会に置くことに反対したため、芸術家たちは生存の危機に直面、ホルバインはイングランドに渡って肖像画を確立
絵画の領域が狭められた結果、画家たちは専門化への道を進み、特定のテーマを描いた絵、特に日常生活を描いた絵に特化 ⇒ ブリューゲル(父)の《農民の婚礼》(1568頃)に代表されるジャンル画/風俗画
19. さまざまなヴィジョン――ヨーロッパのカトリック世界 17世紀前半
ルネサンス様式の次がバロック様式だが、「バロック」という言葉は、17世紀の風潮に反発した後世の批評家たちが、それを笑い物にするために使ったもので「馬鹿げた、グロテスクな」というのが本来の意味で、古代建築の厳格な決まり事を無視するのは、趣味の堕落であり嘆かわしいことだったので、バロックというレッテルを貼った
古典様式とバロックの差異は、現代ではさほど明確ではないが、1575年初めてローマに出現した教会堂は革命的な衝撃を与えた ⇒ 渦巻や曲線を多用して建物全体に統一的なパターンを生み出すために大胆奇抜な工夫が施される
絵画の世界も、バロック同様、行き詰まりを脱してより可能性に富んだものへと展開、その代表がカラヴァッジョ(1573~1610)で、古典的な手本から脱して自分が見たままの真実を追い求めた。美醜を問わず自然を忠実に写し取ろうとした
フランドルからローマに来たのがリュベンス(1577~1640)で、変化に富む物の表面を表すためにあらゆる手段を駆使して布地や皮膚の感触を表現しようとした
リュベンスの手法を受け継いだのがアントーン・ファン・デイク(ダイク、イギリスの宮廷画家、1599~1641)やベラスケス(スペインの宮廷画家、1599~1660)
20. 自然の鏡――オランダ 17世紀
オランダは、スペインのカトリック支配に反旗を翻し、富裕な商業都市の大多数の市民がプロテスタントの信者になる ⇒ 絵画の世界では影響が大きく、宗教的な抗議を恐れて、限られて分野でしか描けないようになる中、生き残ったのが肖像画、風景画
レンブラント・ファン・レイン(1606~69)が代表 ⇒ 一連の自画像が生涯の記録となっていて、鏡の中の自分を誠実に観察して人間の顔に潜む神秘にどこまでも迫ろうとする画家の透徹した目が感じられ、晩年破産したことがはっきりと描かれている。エッチングと呼ばれる銅版画技術を使い、銅板にエングレーヴィングした場合とは線描きの繊細さが異なる絵を残す
レンブラントの1世代後に出たのが専門画家の中で最大と言われたヤbb・フェルメール・ファン・デルフト(1632~75) ⇒ 主題は典型的なオランダの家庭内に質素な人物が立っている絵、全くユーモアの要素を失った静物画で、物の質感と色彩と形態を、非の打ち所のない綿密さと正確さをもって表現するという奇跡を起こす
21. 権力と栄光 I ――イタリア 17世紀後半~18世紀
16世紀後半から、古典様式の約束事を無視した、変化にとんだ人目を引く表現を求める動きが加速、建築や装飾のために目も眩むような新機軸が次から次へと打ち出され、17世紀半ばまでにはバロックと呼ばれる様式が十分成長を遂げた
18世紀のイタリアの画家は室内装飾を得意分野とした ⇒ 化粧漆喰の技術と巨大なフレスコ画の手腕により絢爛豪華な空間を作り出す
22. 権力と栄光 II ――フランス、ドイツ、オーストリア 17世紀後半~18世紀初頭
17世紀のヨーロッパの王侯たちもローマ教会と同様、権力を美術によって飾り立てて人心を掌握しようとした ⇒ 典型がルイ14世で、ヴェルサイユ宮殿は彼の強大な権力のシンボルとなり、バロック様式の火付け役となって時代の想像力が燃え上がった
カトリック世界の多くの町や風景が装いを一変させる ⇒ メルク修道院
23. 理性の時代――イギリスとフランス 18世紀
イギリスでは、バロックに対して距離を置く ⇒ 天国という別世界のヴィジョンを信者たちに呈示する教会と違い、プロテスタントの協会は信者の礼拝のための巨大ホールで、人々を深い瞑想へと誘うことを目的とした、威厳に満ちかつ簡素なものでなければならなかった
フランスでも、イギリスと同様、権力の美化とは無縁の、普通の人間への関心が生まれ、それが肖像の芸術に大きな実りをもたらす
24. 伝統の解体――イギリス、アメリカ、フランス 18世紀末~19世紀初頭
フランス革命を機に、多くの前提に終止符が打たれ、美術に対する考え方も変わる ⇒ 理性の時代
フランシスコ・ゴヤ(スペインの宮廷画家、1746~1828) ⇒ モデルになった貴人たちを容赦せず、人物に潜む虚栄心や醜悪さ、貪欲さや軽薄さは隠しようもなかった。エッチングにアクアティントという新しい技法を使うと、線だけでなく濃淡も自在に表すことができた
一段低い分野とされていた風景画の隆盛 ⇒ J.M.W.ターナー(1775~1851)とジョン・コンスタブル(1776~1837)は同時代人でも対照的。ターナーが伝統と張り合いそれを乗り越えようとして、感動的で劇的な効果を狙ったのに対し、コンスタブルは目に見えるものに忠実であろうとし真実を追い求め、目の前のモティーフに拘り正直に執拗に自然の探求を続けた
25. 永久革命――イギリスとフランス 19世紀
産業革命が堅実な職人技の伝統を破壊し始めると、建築の世界では様式や約束事が無視され、伝統の解体が進むと同時に、絵画や彫刻の世界でも伝統の解体によって無限の選択肢の前に立たされることになった
ウジェーヌ・ドラクロア(1798~1863) ⇒ 偉大な革命家の連綿たる系譜に連なる画家、アカデミーが画家に進める教養主義的な主題に飽き足らず、北アフリカに出掛けてアラブ世界の燃えるような色彩と馬や人間を彩るロマンティックな装飾を子細に学ぶ
ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796~1875) ⇒ フランスの風景画家。モティーフの細部より、全体としての形態と色調に留意
ジャン=フランソワ・ミレー(1814~75) ⇒ 自然を新鮮な目で見直そうとする
ギュスターヴ・クールベ(1819~77) ⇒ 写実主義として美術に革命を起こす
エドゥアール・マネ(1832~83) ⇒ ドラクロア、クールベに続く絵画革命の第3の波を起こす。既存の固定観念から離れ、自分の目の中心の中で混じり合った生き生きとした色彩の混合体を表現しようとし、ギリシャ人が形の表現にもたらした革命に匹敵するように、色の表現に革命をもたらす。伝統的な色彩調和の規則を無視した大胆な色使いで場面に奥行きを出すような手法は世間から理解されず、当初は伝統的な「サロン」から締め出され、激しい30年論争を惹起。新しい理論は、戸外の光の下での色の扱いを問題にしただけでなく、動くものの形という問題にも取り組む
クロード・モネ(1840~1926) ⇒ マネに賛同し、新しい考えを広めることに協力。細部より全体の効果に気を使う、一見ぞんざいな筆使いが批評家たちの腹立ちの種となり、一瞬の印象だけで絵が出来上がっているとして「印象派」と言われて嘲笑された
印象派の最初の頃の展覧会を取り上げたジャーナリズムは、「精神病の患者が道端で石ころを拾って、ダイヤモンドを見つけたと思い込むのに似た錯覚」との批評を載せる
ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841~1919)の《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(1876年) ⇒ 印象派の発見した原理を、風景画だけでなく実生活の場面にも適用し、明るい色彩の陽気な乱舞を浮かび上がらせることと、日光がどんな効果を及ぼすかを研究した成果
印象派の画家は、突然全世界が絵の主題を提供し、美しい色調の組み合わせや、色と形の面白い構成や、日射しと彩られた影との心地よく陽気な戯れを見つけたら、画家はどこでも画架をセットし、受けた印象をカンヴァスに移すことができるようになり、自分の感受性だけを頼りに、何を描くか如何に描くかを決める自由を得た
印象派が新しいモティーフと新しい色使いを求める冒険を始めたとき、最初の援軍は写真の登場で、肖像画などが写真に取って代わられた。さらに、第2の援軍となったのが日本の浮世絵で、庶民生活に取材した色刷りの木版画が大胆な発想と磨き抜かれた完璧な技術から誕生したが、日本の教養ある趣味人からは相手にされず、日本からの輸出品の包装紙程度に使われていたものがマネの周辺にいた画家たちの目に留まる
エドガー・ドガ(1834~1917)は、浮世絵の可能性に最も強い影響を受けた画家
オーギュスト・ロダン(1840~1917)は、彫刻の世界で「モダニズム」を推進、印象派と同様、見る人に想像の余地を残すことを好んだ
26. 新しい基準を求めて――19世紀末
1890年代「アール・ヌーヴォー」の始まり ⇒ デザインの新感覚と素材固有の可能性を引き出す新しい感受性を重視
ポール・セザンヌ(1839~1906)は、印象派に対する批評家の雑音から身を隠し、自身の芸術上の問題解決を図る。印象派は輝きがあるがまとまりがない、その無秩序を嫌って明快な図柄を求めると同時に強烈な色彩を熱望
フィンセント・ファン・ゴッホ(~)は、独学で技術を身につけ、全ての人に喜びと慰めを与えるような、飾り気のない絵を描きたいと望む
ポール・ゴーガン(1848~1903)も独学同然で絵を始め、ゴッホとアルルで共同生活をしたが、ゴッホの発狂に遭ってパリに逃れ、後にタヒチに移住
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864~1901)は、ドガの後継者で、浮世絵と同じような画面の単純化によって、新しいポスター芸術を生み出す
27. 実験的な美術――20世紀前半
フランク・ロイド・ライト(1869~1959)は、「美術」としての建築から離れ、飾ることを全面的に否定し、本来の目的に照らして考え直そうとして、成功をおさめた
ドイツのグロピウス(1883~1969)によって建てられたバウハウスは、美術と工学が新しい関係を持った大胆な試みとして受け入れられた
エドワルド・ムンク(ノルウェー、1863~1944) ⇒ 内面の表現の可能性を探求してゴッホより遥かに先まで進んだ
オスカー・ココシュカ(オーストリア、1886~1980)は、物事の明るい面だけを見ることを拒否して、社会に衝撃を与えて画家の1人。ありきたりの正確さに欠けるが、モデルとなった子供の内面の動きをすべて表現するには、正確な描写という常套手段に頼ることはできなかった
ヴァシリー・カンディンスキー(ロシア、1866~1944)は、純粋な「内面性」の芸術によって世界を再生させようと願う神秘主義者。純粋に色彩だけによる心理的効果の存在を強調し、「抽象芸術」という全く新しい世界を切り拓く
アンリ・マティス(1869~1954)は、「フォーヴ」(野獣、野蛮人の意)の代表格。洗練され過ぎた芸術の心地よさと決別、形態と色彩の追求へと大胆に突き進む
パブロ・ピカソ(1881~1973)は、セザンヌの作品に示された新しい可能性に最も感銘を受けた画家
アンリ・ルソー(1844~1910)は、デッサンの技術も印象派の技巧も知らず、ごく普通の色を生のまま使い、はっきりした輪郭線を持って描く
マルク・シャガール(1887~1985)は、ルソーがリードした素朴で無邪気なものに人々の好みが集まった中で、ルソーのようにもともと質素な生活を送ってきた画家たちが有利な立場に立つことになったが、その中にいた1人
サルヴァドール・ダリ(1904~89)は、代表的なシュルレアリストで、夢の世界のおかしな混乱をそのまま絵にしようと試みる
28. 終わりのない物語
l モダニズムの勝利
美術作品は、多くの時代において、当時の華やかな流行を反映したものだったが、作品を味わう上で忘れてならないのは、絵は今も魅力を失わないのに、流行は廃れてしまうということ
近代以後、芸術家たちは自然の外観を再現するのとは違う、新たな道を探り始め、色彩と形態の実験というあの広大な領域が切り拓かれたが、この実験の結果はまだ出ていない
「美術」とは言っても、時と所によって違った意味を持つ
「抽象表現主義/アクション・ペインティング」という新たな実験の登場
現代社会における美術とその作り手の位置が変化し、過去のどの時代よりも美術がもてはやされるようになってきた ⇒ ①19世紀以降の社会が現実に進歩と変化を経験してきた、②科学・技術の発達、③自発性と個性の価値に信念を抱いている、④美術教育、⑤写真の普及
l モダニズムの退潮
既にポストモダンが話題になりつつある
l 変わり続ける過去
人々が古代に憧れ、古典美術の遺物を組織的に探索し始めたのはルネサンス期
次いで、ナポレオンのエジプト遠征が新たな時代の幕開け、ヒエログリフ(神聖文字)の解読でエジプトの遺跡の重大な意義が判明
さらに、19世紀後半、先史時代の洞窟壁画の発見により、美術の歴史は数千年も前に遡らなければならないことが判明
その他にも世界の各地でのいくつもの発見によって過去が明るみになるにつれ、繰り返し修正を迫られるがそのこと自体が過去の時代の研究のスリルに満ちた一面
岩井克人
古代エジプトからセザンヌまで 事物の「本質」描く歴史学ぶ
日本経済新聞 朝刊 2018年3月10日
子供の頃、家にあった薄い美術書の中の1枚の静物画を何度も眺めた。描かれたいくつもの色鮮やかなリンゴがもつ存在感に、訳も分からず圧倒されたからである。作者がセザンヌだと知ったのは後のことである。
20代後半にヨーロッパに滞在する機会をえた。現地で読むようにと友人に薦められたのが『美術の物語』(ファイドン)である。著者のゴンブリッチはウィーン生まれ。ナチズムを逃れて英国に移った美術史家である。
睡眠の助けになるかなと機中で読み始めたが、古代エジプトの章で逆に目を覚ました。
それまで私は古代エジプトの人物画を幼稚だと思っていた。横顔の中に正面を見据える片目が描かれ、前を向いた上半身に横を向いた手足がついている。その姿は不自然でぎこちない。
だが、古代エジプト美術は現代とは異なる「目的」をもっていたとゴンブリッチはいう。それは事物の「本質」をできるだけ完全に示すことにある。人物の場合、顔は横の輪郭、目と上半身は正面、手足は側面に本質がもっとも現れる。部分部分の本質を組み合わせることによってはじめて、完全なる人物が示せると考えていたのだという。
この解説によって古代エジプト美術に対する見方が一変した。そして人物画を眺め直すと、そのぎこちなさが不思議にも美しく見えてきたのである。
古代中世近代へと流れる美術の歴史を辿(たど)り、19世紀末に至ってさらに目が覚めた。セザンヌの絵に再会したからである。
ゴンブリッチは、絵の中の食卓や果物皿が不自然に前方に傾いていることに注意を促す。それはあの古代エジプト人のように、リンゴの「本質」である丸さや堅さや色鮮やかさを余すことなく示すために他ならない。
ギリシャを起源としルネサンスを経て印象派へと発展した近代絵画は、事物を目に映るままに描くことを「目的」としてきた。セザンヌはまさに古代エジプトに回帰することで、その流れに終止符を打ったのである。そこから出発したのがピカソやクレーの抽象美術である。
私は興奮しながら飛行機を降りた。子供の頃なぜあのリンゴに圧倒されたかを理解したからだけでない。同時に「歴史」を学ぶことをも学んだからである。
それは現代の視点から身を離し、その時代の人々がどのような「目的」をもって行動したかを内側から理解することに他ならない。そして、歴史は単線的には発展しないということも。
同書は700万部も売れた美術書最大のベストセラーであるという。
(経済学者)
Wikipedia
エルンスト・ゴンブリッチ(Sir Ernst Hans Josef Gombrich; 1909年3月30日 - 2001年11月3日)はオーストリア系ユダヤ人の美術史家。研究活動の大半を英国で行った。(アーンスト・ゴンブリック、エルンスト・ゴンブリヒとも表記)
彼はオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで、富裕なユダヤ人一族の子として生まれた。一族は20世紀の初頭に神秘的なプロテスタントに改宗していた。彼自身は宗教を拒絶していたが、ユダヤの出自を強く意識し、それはオーストリアがナチズムを受け入れるとともに強く意識されるようになった(彼は常に自らをオーストリア系ユダヤ人と称していた)。ウィーン大学で学んだ後1936年に英国に渡り、アビ・ヴァールブルクの設立したヴァールブルク研究所で研究助手の職を得た。
第二次世界大戦中、彼はBBCの特派員として働いた。戦後はロンドン大学(1956-59年)に移り、次いでヴァールブルク研究所(1959-76年)で幾つかの研究員のポストを経て、最終的には所長を務めた。1960年に英国協会会員、1966年に英帝国勲爵士、1972年にナイトの称号、1975年 エラスムス賞受賞、1988年にはメリット勲章を授与される。
ゴンブリッチの『美術の歩み (The Story of Art)』は1950年の出版後版を重ね、美術批評の重要文献として広く認められ、視覚芸術に関する最適の入門書としても評価されている。同書は若い読者を想定して書かれたもので、20以上の言語に翻訳され、何百万部も売れている。また『芸術と幻影(Art and Illusion)』(原著1960年)は広範な影響力を持つ研究として知られる。論文集として『棒馬考』(原著1963年)、『装飾芸術論』(原著1979年)、『イメージと目』(原著1981年)がある。
『芸術と進歩 進歩理念とその美術への影響』 中央公論美術出版、1991年
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