評伝 ゲルハルト・リヒター  Dietmar Elger  2018.4.3.

2018.4.3.  評伝 ゲルハルト・リヒター
Gerhard Richter, Maler        2017

著者 Dietmar Elger 1958年ハノーバー生まれ。ドレスデン美術館内にあるリヒター・アーカイブのディレクター。84年から2年間リヒターのアトリエで秘書を務める。近現代美術に関する執筆多数。現在、リヒター作品の新たなカタログ・レゾネを作成中

訳者 清水穣 1963年東京生まれ。美術評論家。写真批評家。同志社大教授。ゲルハルト・リヒターに関する著作、訳書が多い

発行日           2017.12.16. 初版第1刷発行
発行所           美術出版社


絵画がこの不可解な現実を、比喩において
より美しく、より賢く、より途方もなく、より極端に、より直感的に、
そして、より理解不可能に描写すればするだけ、
それはよい絵画なのです                             リヒター


1.    ドレスデン
リヒターは1932年ドレスデンの生まれ
この町が歴史に登場するのは1206年、政治的・文化的に頂点をむかえたのは18世紀、ドイツロマン派を代表する画家カスパー・ダヴィフォ・フリードリヒは1798年からドレスデンで暮らしていたし、1905年にはキルヒナーを中心に、表現主義の芸術家集団「ブリュッケ」が誕生
4歳の時、父親の勤め先の関係で小さな町へ移住、39年父親は徴兵され、戦後復員
終戦で文学が解禁され、図書館に通ううちに絵画への興味が芽生える
17歳で描いた水彩の自画像には、芸術家を目指す青年の才能がはっきり現れている
デッサンの才能が見込まれて、48年広告会社の助手、次いで市立劇場の舞台美術部の見習い、(写真のラボの実習生というのは間違い)の後、ドイツ広告宣伝協会の専属画家として働きながら、ドレスデン芸術大学に入学。そこで伝統的ジャンルの画法を幅広く身につけることが要求されたのが、芸術に対するある種根元的な信頼を持つことになり、モダンな芸術家であろうとするといつも抵抗を覚える
49年のドイツ民主共和国成立とともに、芸術家はソ連の手本に倣った社会主義リアリズムの中だけでの活動に制限されたため、リヒターはその中でも最も自由度があると思われた壁画コースをとる ⇒ 大学院に進み、各所で壁画を制作
西側のモダニズムに憧れ、特にゴーギャンやピカソから受けた影響は、リヒターの当時の作品に明瞭に見て取れる

2.    2回ドクメンタ、1959
戦後の現代美術の紹介にフォーカスしたもので、抽象画こそ新しい「芸術の世界言語」であると主張
リヒターも、ハンブルクやパリにも旅行、58年にはブリュッセル万博にもいっているが、いずれも元の指導教官が保証人となってくれた 
1961年 芸術的な新展開を求め、唯一西側への抜け穴として残されていた西ベルリンへ亡命

3.    新たなスタート、デュッセルドルフ
デュッセルドルフは、まだ若いドイツ連邦共和国におけるアートとアーティストの新たな首都へと発展していた ⇒ ラインラントの感性豊かで購買力のあるコレクター層に支えられ、アーティストたちの交友関係から様々なグループが誕生
リヒターは友人を頼ってデュッセルドルフへ向かい、同地のアカデミーに入学し、もう一度絵画を学び直す ⇒ 集中的に抽象画に取り組み、抽象形式には人間の実存を表現する力があることをリヒターがより深く理解していたことが窺える作品群を残す
62年 初の二人展で初めて本格的なギャラリーでの展覧会を企画

4.    クットナー、リューク、ポルケ
62年夏、国際的アナーティストグループ「CoBrA」のメンバーでアカデミー教授に招聘されていたカール・オットー・ゲッツのクラスに入り、自由な活動の中で親友を得る
アメリカのポップアートが重要な模範となる ⇒ 特に影響を受けたのはリキテンステインの《冷蔵庫》とウォーホル
63年 リヒターは既に自作をシステマティックに撮影し、カタログ化することを始めていたが、公表したのは69年になってから ⇒ 作品1は、62年の《机》で、イタリアの建築デザイン雑誌『Domus』の写真からとった白黒で描かれた机が、激しく旋回する筆致によって部分的にかき消されている、絵の一部に新聞紙を貼り付け、新聞紙が濡れた絵の具に張り付いて、今でも印刷された活字が認識できる
写真を選んで絵のモチーフとすることで、コンポジションや色や形態のことを考えずに済み、それらを絵画に変換すればよかった ⇒ 極力凡庸な日常的なモチーフを選び、感光した紙片ではない別の手段で写真を作り、絵画表現へと翻訳。具象絵画への裏切り

5.    資本主義リアリズム
63年 リヒター、クットナー、リューク、ポルケの4人による展覧会 ⇒ ドイツ初のポップアート、ジャンクカルチャー、帝国主義ないし資本主義リアリズム、新具象、自然主義、ジャーマン・ポップといった概念に特徴づけられるような絵画を発表
リヒターが影響を受けたフルクサスの作家たちは、絵画はブルジョア的芸術理解の典型であるとして拒絶、因襲的で固定された「作品」の概念を解体し、美的プロセスへと導くこと目指す ⇒ 造形的作品は、美的行動をドキュメントする遺物としてのみ制作され保存される

6.    初期の個展――ミュンヘン、デュッセルドルフ、ベルリン、ヴッパータール
デュッセルドルフのアカデミーでは、写真として新たに制作される絵画という独自の作風を確立し、ギャラリーとの契約を獲得
64年 ミュンヘンにて初の商業的な個展 ⇒ ギャラリー間の口コミで実現したものだが、地元紙にも好評で、ギャラリーからも今後の方向につきアドバイスを得た
ミュンヘンのギャラリーでは買い取り制で、(+)x係数という方式でリヒターの係数は3、この金額をギャラリーと作家で折半
デュッセルドルフでは肖像画を多数描いたが、家族写真のモチーフを油絵に加工するという自分の作品コンセプトに完全に適合していたのがその理由
ベルリンやヴッパータールでも次々に展覧会の開催が決まる
リヒターの関心は、絵画を用いて写真に似たクォリティを獲得し、それによって真正性や客観性といった写真的特性を自作にも付与することだったが、同時に写真と絵画という2つのメディウムの間でバランスを保ち、絵画を絵画として維持しようともしていた
フォト・ペインティングの絵画性と、その元になった写真との間の複雑な関係について、写真と競合しようとしたわけではなく、そこから何か別のものをつくり出した。それが自分の絵画で、写真性という点ではたいてい写真より劣っていたが、絵画は絵画として機能すべきであって、写真とは全く異なる性質を持つべきと考えた
初期の作品では、具象的なモチーフの端のほうを表現主義的なタッチで崩して、絵画性を強調していたが、本来不必要なことではあったが、当時としては過激な写真性を帯びたものとして人々から敬遠されることに対する妥協として必要悪だった
写真を絵に起こすのは、イメージの機械的な転写作業であり、当初は模写していたが、64年にはプロジェクターを使って、転写の際避けがたく入り込むあらゆる様式化を排除

7.    初期のフォト・ペインティング、そしてマルセル・デュシャン
64年に芸術家としてのキャリアで重要な1歩を踏み出す ⇒ 作品の値段を抑え気味に保ったので、80年代中盤以降は需要が供給を明らかに上回る
ギャラリスト間の評価が上がっていく
65年マルセル・デュシャン(18871968)の回顧展がヨーロッパ諸都市を回り、リヒターは大きな影響を受ける ⇒ デュシャンこそ、伝統的絵画がその特権的地位を喪失し、あらゆる因襲から解き放たれ拡張された作品概念へと道を譲る、パラダイム転換の象徴であり、その概念がオブジェやコラージュ、抽象への道を開いた
早い時期に油絵を放棄したデュシャンは、既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えただけのものをオブジェとして提示した「レディ・メイド」を数多く発表した。1913制作の『自転車の車輪』が、最初のレディ・メイドといわれている。レディ・メイドのタイトルの多くは、ユーモアやアイロニーを交えた地口や語呂合わせで成り立っており、一つだけの意味を成り立たせないように周到に練られている。デュシャンは、レディ・メイドについて明確な定義が自分でもできないと語っていた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f6/Duchamp_Fountaine.jpg/250px-Duchamp_Fountaine.jpg

アルフレッド・スティーグリッツによって撮影された写真の一枚である。
なかでも、普通の男子用小便器に「リチャード・マット (R. Mutt[6])」という署名をし、『』というタイトルを付けた作品
デュシャンの作品群に啓発されて、彼のオリジナルを別メディアで複製するという手法で数多くの作品を描いている ⇒ 妻のヌード写真を撮って油彩でぼかしを入れた66年の《エマ(階段状のヌード)》は代表作の1
67年 ゲルゼンキルヒェン市の「ユンガー・ヴェステン芸術賞」授与 ⇒ 初の授賞
同年、空想的リアリズムの巨匠パウル・ヴンダーリヒの推薦でハンブルク芸術大学の客員教授に

8.    無名の画像――家族の物語
6267年のリヒターのフォト・ペインティングには、内容面でのコンセプトを認めることは困難 ⇒ リヒターの肖像画に関する博士論文を書いた人も「特徴なし」と断じ、無選択、無構成、無様式、無内容、これがリヒターの作品を特徴づけていると言っているし、本人も、自分が何をしたいのかを知らず、一貫性がなくて、いい加減で、自分が好きなのは漠然としたもの、寄る辺のないもの、持続的な不確実性だと言っている
しかし実際には、はっきりとした基準に従って選ばれている ⇒ モチーフを平凡な物体や家族写真から美術史迄首尾一貫して拡張していき、描き方にも変化をつけている

9.    カラーチャート
《エマ(階段状のヌード)》を描いた直後、作風に大きな変化が現れたが、その1つがカラーチャートのシリーズ ⇒ フォト・ペインティングとは根本的に対立するもので、くっきりとした単色がそのままダイレクトに並んでいる。画材専門店の店頭で見た色見本を拡大した絵画で、いかなる感情表現も帯びない非具象の絵画
数多くの国際展に参加、芸術賞も受賞。セオドロン・アワードを受賞した作品は、セオドロン基金が買い上げてグッゲンハイム美術館のコレクションとなる

10. 風景
69年 初めて作家自身により選び抜かれた作品リストが完成 ⇒ リスト自体が芸術作品としてのステイタスを獲得
68年 初めて家族といったコルシカ島への旅行を機に、風景画に没頭 ⇒ 以降50年以上も継続され、関心を捉え続ける主題となった

11. リヒターとパレルモ
70年 リヒターはパレルモとともにニューヨークへ。モダニストに自分たちの絵を見せたところ、案に相違して抽象作品より風景画を気に入ってくれた

12. ヴェネチア・ビエンナーレ、1972
ビエンナーレのドイツ館の単独の代表としてリヒターが推挙され、初めてヴェネツィアに旅行 ⇒ 《48人の肖像》を制作、百科事典の中の人物写真をモチーフに選んだが、後に男性ばかりであることに批判が出たときも、あくまで形式美学上の決定だったと主張

13.
72年北極海横断の旅行で沢山の写真を撮影 ⇒ 以前見ていた《氷の海》という作品を参考にモチーフを求めて行ったもの。かつては《砕かれた希望》という名で知られた絵画で、ちょうどこの時エマとの離婚が進んでおり、その気持ちを隠すための旅行だった

14. 新しいカラーチャート
73年に再開した70年代の新しいカラーチャートはコンセプトを拡張して、254254の巨大カンバスがこまかい無数のラッカー絵の具で埋められていく ⇒ 作家の造形意志をミニマムに抑制し、構成もイリュージョンも許さず、いかなる意味内容も込めないというコンセプトで、「完全に自立する」絵画が成立したという

15. グレイ・ペインティング
グレイ・ペインティングは伝統的な絵画表現に対するリヒターの究極の拒絶 ⇒ すべての色彩が本当に混ざり合って無表情なグレートーンになり、芸術的な造形表現の臨界
破壊と、それに続く救済の絵画 ⇒ 当初は失敗した具象画を塗りつぶして灰色の絵として残そうとしたものだったが、塗りつぶした灰色の表面の質の相違に気付き、個人的なジレンマを普遍化することによって悲惨が構築的な表現へと変わり、やがて相対的な完全さと美になり、絵画となったと説明
77年 リチャード・ロジャーズとレンゾ・ピアノの設計によるポンピドゥーセンターが企画した開館記念展の1つとしてリヒターの個展が開かれ、近代美術館長はリヒターをドイツにおけるポスト・ヨーゼフ・ボイス世代の傑出した芸術家として讃えたが、パリ在住のドイツ人批評家には、作品選択が常軌を逸した失敗でありフランス人観客を侮辱したようなものと批判された

16. コンストラクション
グレイ・ペインティングがリヒターを芸術上の袋小路に追い込む ⇒ 作品が没個性的に、一般的になって、モノクロームの灰色というか絵の具が並んでいるほかには何一つ残らなくなった
袋小路から抜け出すために正反対のものを描こうと決心 ⇒ 76年複雑に構造化された色彩豊かな抽象画コンポジションを描き(作品名《コンストラクション》)、次のアブストラクト・ペインティングへの扉を開いたのが今日まで続く最も作品点数の多いシリーズとなる
作品を計画的に「コンポーズ」しようとするといつも、美的にもコンセプト的にも極めて不満足なものしかできないが、かといって反対に、単なる恣意や偶然からも納得のいく結果は生まれない ⇒ 解決策として編み出したアブストラクト・ペインティングにふさわしフォルムとは、計画性、コンポジション、そして統一性を一方の極とし、自発性、恣意、偶然、破壊、そして距離感を他方の極として、それらを交互に投入すること
偶然を制作に引き込むために最も重要雄な道具はスキージSqueegeeで、それを使って絵の具を塗ることで生じる擦れたような滑らかなテクスチャーを作家が完全にコントロールすることができないので、制作の途中に驚きの瞬間がもたらされ、それが作品に新しい方向性を与える
1984年の展覧会への出品作によって国際的なマーケットで決定的なブレイクスルーを果たす ⇒ 輝く黄色い抽象の大作群を出すことで、以降堰を切ったように声がかかり始め、飛ぶように高値で売れていく
マスコミにも好評で、他のアーティストにない芸術的意義を強調、リヒターでなければ、大量に写真が流通する現在において絵画の可能性を検証することなどなかっただろうと言われた
風景画と並べて展示

17. アブストラクト・ペインティング
76年に開始されて以来40年以上にわたって描き続けられているアブストラクト・ペインティングは、リヒターの作品の中でも突出して数の多い作品群
68年以降のロマンチックな風景画、6266年のフォト・ペインティングもリヒターを代表する作風ではあるが、アブストラクト・ペインティングはリヒターの芸術表現を拡張
リヒター自身も驚いているように、アブストラクト・ペインティングの形式や色彩のレパートリーは発展し変容し続け、絶えず刷新されていく造形言語に、もう終わりだといつも考えてきたが、そうするとまた何か新しいものが現れると言っている

18. 19771018
88年の連作《19771018日》は、19771018日の仕事に1つの切断を標す作品で、15の作品群からなり、リヒター芸術全体の中で中心的な位置を占め、突出した意義を持ち、20世紀末の芸術において、この連作ほど批評家たちに関心を持って取り上げられ、議論や批評を呼び起こした作品はない
日付はドイツ国家とそれに対抗するドイツ赤軍のテロリズムの闘いが、破滅へ向かって激化していった時期で、その日の事件とそれに関連するモチーフを扱っている
直近の政治的事件を扱った挑発的な連作絵画群は、リヒターの作品では例外的であり、作品で政治的主張をすることを避けてきた画家が、そんな主題と共に公の場に現われることが驚きで、対立陣営の両サイドから批判があったが、それとは対照的にほとんどの展評は連作の優れた美的価値を評価
事件は60年代の学生によるベトナム戦争やアメリカ帝国主義、いまだ克服されぬままであったナチスの過去に抗議する非暴力のデモだったが、67年以降激化し暴力化、70年代のテロに発展、一旦政府が抑え込んだが、第2世代、第3世代と破壊行動を繰り広げ、そのクライマックスを迎えたのがこの日
独房内で首を吊ったり射殺されたりした人、独房内での対面、逮捕の瞬間、葬列などをモチーフとした作品で、どれも灰色で、大抵はボケている ⇒ 連作の存在感は、事件の恐ろしさと、全ての説明を拒否することの耐えがたさに拠っていて、何を問い掛けているのか自分にもわからないとし、希望も救いもないことを通じて非党派性を訴えていると、作家自身がメモを残している
批評家たちは、現在の歴史画として祭り上げ、美術史上の伝統の文脈で、タイトルやここの絵のモチーフを過去の作品に求めたが、リヒターは政治的な議論は自分の意図でも関心事でもないと主張。リヒターにとっての事件は、あらゆるイデオロギーの非人間性と不可避的な破壊の比喩であり、特定のイデオロギーに関係なく、イデオロギー的行動一般の犠牲となった人をモチーフとしているのは、革命を起こすことと破滅することとの間のジレンマを描こうとしたから
95年ニューヨーク近代美術館MOMAが連作を300万ドルで買い上げ ⇒ ドイツ国内ではショックだったが、作家によれば、ドイツ国内では誤解されかねないが、アメリカでは作品の普遍的なテーマ、即ち、イデオロギーを信じ込むこと、熱狂と狂気の、普遍的な危険性を読み取ってもらえると思ったからだという

19. 類似とモデル
芸術作品とは全て類似物であり、抽象でも具象でも、我々を取り巻く現実世界の類似あるいはモデルとして理解されるべきであり、絵画はこの現実世界の複雑さや矛盾を再構成したモデルである
絵画とは、曖昧で理解不可能なものに対して1つの類似物を作ることによって、それに形を与え、扱えるようにすること。良い絵は理解不可能で、くだらないものは常に理解可能

20. アートマーケットと展覧会
88年のブラックマンデーの結果、国際アートマーケットは退潮したが、リヒター作品の需要には影響はなかったものの、リヒター自身は作品のクオリティを保ち続ける
91年何の目的もなしに日本で映画を撮ろうということになって2週間の旅行に出たが、結局何も実らずにプロジェクトは打ち切り
93年ヨーロッパ各地で過去30年の作品の回顧展開催 ⇒ 現代美術の標石(マイルストーン)となる
90年代、ドイツ統一後に建設された新しい官庁の建物のために、大規模な芸術プログラムが推進され、リヒターとポルケにはライヒスターク(国会議事堂)の表玄関ホールを囲む左右の高い壁が割り当てられ、リヒターは幅2.96mx高さ20.43mの巨大なガラス製の《黒、赤、金》というドイツ国旗の3色に塗り分けたオブジェを取り付けた
02MOMAがリヒター回顧展開催 ⇒ 美術館の増改築のための長期閉鎖直前の開催であり、21世紀の新たな始まりに位置するとともに、MOMAの歴史の1つの時代を締めくくるもの。その後全米各地を移動。全190点中多くがアメリカの個人と美術館のコレクションになっていたことを証明。「21世紀の芸術にとって基礎となり基準となる芸術家」

21. ガラスと鏡
ガラスを使った新しい作品シリーズ ⇒ ガラスや鏡は過去にもリヒター芸術の決定的な転機に現われる
1215年 豊島に恒久展示される作品《豊島のための14枚のガラス、無益に捧げる》を制作 ⇒ 建築と作品を1つの統一体として造り、高さ50cmの木製の台座上に、190180cmの透明のガラス板を60cm間隔で、不規則に垂直の中心軸から6度捻って固定。タイトルは終わることのない束の間のイメージの群れを受け取る人々を襲う「徒労感」を示唆。「いかなるイメージも、最終的で絶対的な真実をもたらしはしない」と語っているよう
9.11の際は、ニューヨークでの新作個展のためにニューヨークに向かう機中にいて、ハリファックスへと針路を変えた。そのときの衝撃から生まれた作品は何年間も発表しなかったが、青い空を背景にした2つの塔と爆発の雲の有名な写真が脳裏から離れず、08年遂にニューヨークではなくパリのギャラリーでの最初の個展で展示
07年 ケルン大聖堂の南翼廊のステンドグラスのデザイン ⇒ カラーチャート《4096の色彩》をヒントにして、7174年に偶然性の原則に従って1024色までを配色したカラーチャート作品をベースに、各色の正方形を9.79.7cmに決定、72色を乱数プログラムによって配置、全体の色調を青味~黄味~赤味の間で微細に調整し、一様に輝く色彩のリズムが生まれるべく各色の頻度を調整し配分した ⇒ 見る人は純粋に抽象的なモチーフであってもそこに神の実在を感じるだろうし、それがここではスペクタクルな色彩のシンフォニーとして祝福されていると同時に、突出した中心を持たず非序列的な秩序で並べられた色面は、キリストの代理人を頂点とするカトリック教会の序列構造に対する現代の平等主義的・民主的な対抗モデルでもある

22. ビルケナウ
10年~ ガラス絵シリーズ始まる ⇒ 素材の実在性とそこから生まれる幻想的なイメージの間のギャップが特徴。偶然の効果を観察しながら操作してできたもの
11年~ ストリップのシリーズ開始 ⇒ 90年の《アブストラクト・ペインティング》が基礎となって導き出されている。アブストラクト・ペインティングをコンピュータ上で縦に4096分割し、1本が0.3mm幅の極細の帯状の断片を横に反復延長してストリップを完成させる
14年 《ビルケナウ》連作 ⇒ リヒターがホロコーストの主題と芸術的に対峙した3回目の試み。長年心に引っ掛かっていた未解決の芸術的主題にけりをつけることができ、救済であり解放された ⇒ すべてを片付けて自由になった

訳者あとがき
本書は、著者が02年出版し、08年に増補版を出した伝記を著者自身が短縮し、17年までの事項を追加した改訂新版の日本語訳で、リヒター公認のもの
未公認の伝記は、マリアンネ叔母の死がナチスの優生学的政策の実践者だった義父と関係することをジャーナリスティックに描写したもので、リヒターの芸術全体がそこに収斂するかのような記述にリヒターが不快感を持った
リヒターのトラウマ体質 ⇒ ドレスデンの爆撃から9.11まで、衝撃的な事件が一度憑りつくと、作品となって昇華されないうちは決して離れない
リヒターと日本の関係は68年まで遡る ⇒ 新しいことを試みるための格好の舞台だった。日本の代理店はワコウ・ワークス・オブ・アート



評伝 ゲルハルト・リヒター ディートマー・エルガー著 画家の冷ややかな批評精神
2018/2/24付 日本経済新聞
 ゲルハルト・リヒターは、今日の画家にもっとも大きな影響を与えている存在に違いない。1932年に東ドイツに生まれ、ベルリンの壁ができる直前に西ドイツに脱出すると、デュッセルドルフで資本主義リアリズムと称するデモンストレーションを行った。出自の地の保守的な社会主義リアリズムと西側の前衛であるポップアートとを重ね合わせたこのアイロニカルな言葉は、その後の制作を支配する冷ややかな批評精神を象徴するものだ。画家の軌跡を詳細に辿(たど)った本書は、虚無的なまでに客観的で、いかなるメッセージも発しないはずの作品群を、時代状況の中に正当に位置づける難題に誠実に取り組んだ労作である。
(清水穣訳、美術出版社・4600円)
▼著者は58年ドイツ生まれ。ドレスデン美術館「ゲルハルト・リヒター・アーカイブ」ディレクター。
※書籍の価格は税抜きで表記しています
(清水穣訳、美術出版社・4600円)
著者は58年ドイツ生まれ。ドレスデン美術館「ゲルハルト・リヒター・アーカイブ」ディレクター。
書籍の価格は税抜きで表記しています
 肖像写真などをもとにしたフォト・ペインティング、色見本帳的なカラーチャート、プロジェクションされた画像を描くアブストラクト・ペインティグ。こうしたシリーズは、一見、脈絡を欠いているようだが、「解釈可能な意味がない」という点ではどれもが同じといえなくもない。
 しかし無内容さは実は「自らの個人史と生活を作品に昇華」させたものだと著者は記す。たとえば広告の画像をコピーした《折りたたみ式物干し》(62年)はかつてリヒターの家庭にあったもので「それが新聞に載っているのを見たとき、ショックを受けた。突然、そこに私自身が現れていたのだ」。しかも演出のないモチーフの背後には「しばしば恐ろしい意味が隠れている」。《マリアンネ叔母さん》(65年)は幼いリヒターを抱えた叔母の肖像だが、精神を病んだ叔母はナチスの優生学プログラムの犠牲になった。「不完全で悲劇的な現実の日々と、希望に満ちた私的生活のユートピアのあいだの矛盾こそが、リヒターの作品に緊迫感を与えているのだ」
 衝撃的なのは《19771018日》シリーズであろう。ドイツ赤軍の暗澹(あんたん)たるクライマックスを描いたもので、刑務所で射殺され、あるいは自殺したテロリストたちなどがソフトフォーカスで描かれている。リヒターはここにメッセージはなく、単に死者のイメージを描いたと語る。「死と苦悩といえば、いつの時代でも芸術の主題だったのですから」。画家なる者のなんという冷徹な眼差(まなざ)し……
《評》多摩美術大学学長 建畠 晢


Wikipedia
ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 193229 生まれ)はドイツ画家 現在、世界で最も注目を集める重要な芸術家のひとりであり、若者にも人気があり、「ドイツ最高峰の画家」と呼ばれている。
略歴[編集]
旧東ドイツドレスデンに生まれる。地元の芸術アカデミーで1951年から56年まで絵画を学ぶが、共産主義体制に制約を感じ、ベルリンの壁によって東西ドイツの行き来が禁止される寸前の1961年、西側のデュッセルドルフに移住。デュッセルドルフ芸術大学に入学。独自の作風を展開していく。1971年からデュッセルドルフ芸術大学教授を15年以上にわたり務めた。2012年、競売大手サザビーズがロンドンで行った競売で、エリック・クラプトンが所有していたゲルハルト・リヒターの抽象画「アプストラクテス・ビルト(809-4)」が約2132万ポンド(約269000万円)で落札された。生存する画家の作品としては史上最高額。
作風[編集]
初期の頃から製作されているフォト・ペインティングは、新聞や雑誌の写真を大きくカンバスに描き写し、画面全体をぼかした手法である。モザイクのように多くの色を並べた「カラー・チャート」、カンバス全体を灰色の絵具で塗りこめた「グレイ・ペインティング」、様々な色を折りこまれた「アブストラクト・ペインティング」、幾枚ものガラスを用いて周囲の風景の映り込む作品など、多様な表現に取り組んでいる。これらの基礎資料であるかのような五千枚以上のドローイングや写真からなる数百を越えるパネルからなる作品として、「アトラス」がある。これはアビ・ヴァールブルクの「ムネモシュネ・アトラス」の影響を受けた物である。初期の作品は主として油彩であったが、近年ではエナメル印刷技術を用いた物が多くなっている。
日本で展示されている作品[編集]
日本には瀬戸内海のほぼ中央に浮かぶ無人島の豊島(とよしま=愛媛県上島町)「ゲルハルト・リヒター 14枚のガラス/豊島」が展示されている。この作品は、190センチ×180センチの透明な14枚のガラス板が、連続してハの字を描くように少しずつ角度を変えて並ぶ作品。全長約8メートルで、リヒターによるガラスの立体作品としては、最後にして最大のもの。

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