劉暁波伝  余傑  2018.4.19.


2018.4.19.  劉暁波伝
Liu Xiao Bo

著者 余傑Yu Jie 1973年中国・四川省生まれ。作家。97年北京大卒。大学院に進み、00年文学修士取得。北京大在学中に発表した評論で注目され、新進気鋭の作家として論壇にデビュー。02年アメリカ・ニューヨーク万人傑文化新聞基金「万人傑文化新聞賞」、06年長編青春小説『香草山』が香港湯清基督教文芸賞。鋭敏な感性と優れた洞察で独裁体制を痛烈に批判したため中国本土のメディアやインターネット空間から完全に封殺され、12年米国に事実上亡命し、精力的に言論活動を続ける
編者 劉燕子Liu Yanzi 作家、現代中国文学者。北京生まれ。湖南省長沙で育つ。大学で教鞭を執りつつ日中バイリンガルで著述・翻訳。日本語での著書も多数

訳者 劉燕子・横澤泰夫 1938年生まれ。61年東外大中国語学科卒。同年NHK入局。94年熊本学園大外国語学部教授(10年退職)。著書『毛沢東側近回想録』など
和泉ひとみ 関大非常勤講師。博士(文学)。関大大学院文学研究科博士課程後期課程満期退学

発行日           2018.2.10. 第1刷発行
発行所           集広舎


第1部        伝記篇
序  余英時 2012.5.15.
本書の注目すべき点は以下の3
第1段階                 劉暁波個人のライフヒストリーや思想は孤立しているのではなく、歴史の変動という大きな脈絡に位置付けられているので、彼の精神的な成長のステップが明瞭に示されている
Ø  6676年 文革の時期、精神的な呪縛から解放され、自由自在になれるという一種のメリットをもたらす
Ø  7789年 文学博士号取得、専門領域を突破して思想や文化の世界を闊達に駆け巡った
Ø  8910年 劉個人として遭遇したことは歴史のコンテクストと緊密に相関 ⇒ 短期的な監禁、自宅軟禁、「労働教養」などは彼の言動が政権に与えた脅威に相応
08年の「08憲章」は、「一党独裁」への最大の脅威となり、ジャスミン革命の首謀者として秘密裏に拘禁され、11年の刑を受ける
第2段階                 劉暁波の思想と価値観が詳述され、彼の思想成熟のプロセス全体を把握できる ⇒ 「徹底的な思想」こそ彼の自由な精神の発現であり、早くから権威に挑戦する心性を形成。モンゴル下放中における自由の探求を通じて得たロマンティックで奔放な自由こそ「徹底的な思想」の核心
荘子との関連 ⇒ もっとも純粋な自由の精神が表現されている
第3段階                 劉暁波の精神と品格の成長過程 ⇒ ガンディーが最終的に到達した精神的な境地と同じ

プロローグ  4幕劇の人生
劉暁波の存在、苦難は、あらゆる人たちに1つのことを気づかせる ⇒ 我々は決して1人でこの世界に存在しているのではなく、自分たちの周囲の世界を考え、共同の責任を担わなければならないということ。劉暁波は自身の良心に従い、責任を負うという姿勢でものごとに取り組み、それにより1つの手本を示し、出処進退をいかにすべきかを我々に思い至らせてくれた
第1段階      7789年 大学入試合格、独立した知識人となる起点(77)から、勉学、始動、名を成す時期。80年代の思想解放運動
文芸批評と美学の領域から、中国の伝統文化、中国知識人、政治制度の批判へと進む
第2段階      8999年 入獄、受難、沈潜の時期
経済が急速に発展した半面、知識人集団が壊滅し、(自由、人権などの)基本的価値にブレーキがかかった
劉は積極的に人権活動に関わったため、前後3回、6年近く自由を失う
第3段階      9908年 政治評論を執筆し、公共知識人、人権活動家として行動
政治体制改革が停滞、腐敗問題が悪化、社会の矛盾が先鋭化
公民社会が芽生えるが、犬儒主義(シニシズム)も浸潤し、変革のエネルギーを失う
第4段階      09~現在 自由喪失、11年の重刑に
中共独裁政権の本質を暴き出した劉暁波の存在を社会生活から消し去ることはできなくなる

第1章        黒土に生きる少年
父は31年生まれ、東北師範大卒で教職に就き、85年から解放軍大連陸軍学院の教員
母も同じ大学で30年学び、そこの保育園で働く
両親は正統的な革命思想の持ち主、仕事を革命の一部とみなし、家庭より革命を重視
父親は中共の古参党員で晩年には少将となり、暁波を獄中に尋ね転向を勧めるが、晩年は暁波のせいで監視下に置かれ、11年病死
文革の時は11歳で、闘争に加わる資格がなく、自由を謳歌していた
早くからタバコを吸って母親にこっぴどく叱られる悪ガキだったが、その後知識青年として農村に住み着き、学校と家庭に2重の束縛から完全に免れた
中学になって74年にまた吉林省の田舎に下郷、村の党支部書記と折り合いが悪かったためなかなか都市に戻れなかったが、764人組が倒され文革が終って解放される
劉暁波の文筆活動は知識青年として農村の生産隊に住み込んだ時に始まる
197年代劉暁波の一生に大きな影響を与えた3つの事件 ⇒ 林彪事件(71)、毛沢東の死(76)、鄧小平の復権と大学統一入学試験再開・吉林大中国語言文学部合格(77)
78~年 大学生活始まる。大学の娯楽活動は脱毛沢東の足取りと緊密に結びつく
民主の壁運動
文学の黄金時代

第2章        首都に頭角を表す
82年大学卒業と同時に初恋が実って結婚、北京師範大学の研究所に合格、引き続き博士課程の研究に進み、独創性と影響力に富む徹底性に長けた思想家になる
魯迅を代表とする「五・四」文学と西側の現代派文学を参照し、「文革」終息後の「新時期文学」の成果を大胆に否定するとともに、中国の現代文学には「何も読むものがない」と判定を下し、中国知識人の民族的惰性は一般大衆より深刻で濃厚と批判、伝統的古典文化を徹底的に否定することにより理性化、教条化の束縛からの解放を訴える
88年「美と人間の自由」と題する論文で文芸学の博士号を申請 ⇒ 中国の儒家が伝統として強調する「和諧(調和、融合)を美と為す」とはっきり対立して、「衝突を美と為す」と唱え、「美の理解により自由を得る(自由の覚醒)」と主張
博士論文の公開審査を経て「文革」後第1号の博士として名を上げる
中国の知識人は古来「四体勤めず、五穀分かたず(労働せず、農作物の見分けもつかない)」、運動がだめだとされたが、暁波は頑健なスポーツマン
86年清華大学で個人主義を鼓吹する講演を行ない、「現代の学生の重要な任務は、徹底的に既成の価値観を変えることだ」と訴え、学生を夢中にさせた

第3章        天安門学生運動の「黒手」
88年オスロ大学に中国現代文学の講師として招聘され出国 ⇒ 趙紫陽たち改革派の抵抗で「反自由化」キャンペーンが弱まった中、スムースに出国が認められた
土着の千里馬(中国の人文社会系学者・文化人)と「西洋の伯楽(西側の中国問題研究者)」の異常な関係を指摘、北欧の中国研究者に有識者はいないと批判、ハワイ大アジア太平洋学院中国研究センターに移って現代中国政治・知識人について研究 ⇒ 数多くの論文を執筆したが、全て天安門事件以後は「反共反人民の重砲弾」と見做され罪状の証拠にされた
89年アメリカのコロンビア大の1年の研究プログラムに招聘 ⇒ 78年の民主運動「北京の春」で活躍し87年ハーバードの博士課程に留学して以来海外における中国民主運動の理論と実践の両面で一貫して中心的役割を果たしてきた胡平と親交を結ぶ
89年鄧小平ら長老により総書記を事実上解任された胡耀邦の急逝を機に天安門事件勃発
劉暁波は胡平らと連名でニューヨークから「改革建言」を公表、連帯を呼び掛ける
「建言」は北京大学などに貼り出されたため、劉らは当局から「黒手(ヘイショオ)」と見做されるが、既に帰国して北京師範大学入り口のハンスト大学生たちを鼓舞
80年代、劉は個人の自由と超越の哲学を至上の価値として、大衆運動などを見下していたが、今回は中国の情勢の変化に居ても立ってもいられなかったための帰国であり、大衆運動への参加 ⇒ どの段階の反逆でも、それぞれ直接的・間接邸に専制制度と当局のイデオロギーへの批判となっているとして、知行合一で現場に向かった
劉暁波は、学生運動のリーダーたちの中に積極的に入っていったが、全体として知識じんと学生リーダーの間には信頼関係が築き上げられなかった ⇒ 天安門民主運動の未解決の問題の1
まず手を付けたのが北京師範大学の民主化のプロセス
学生のハンストは天安門広場に向かい、ゴルバチョフの歓迎式典の妨げになることもあって、劉は学園の民主化を訴え、広場からの撤退を訴えたが、逆に学生運動に火をつける形となり、軍隊の出動につながる
劉の書き直した「提案」の中で、上海の週刊誌白金の張本人として当時の上海市党委員会書記だった江沢民の責任を追及したところから、徹底的に憎まれ当局の厳重な監視下に置かれたと言われる
劉の思想の深淵は複雑で多彩 ⇒ キリスト教的な原罪意識、ニーチェの超人哲学、実存主義的な「向死而生」、ナルシズム、自己超越などが絡み合い合成されている
広場では、一貫して平和的に非暴力の原則を堅持すると訴え、一時は撤退に傾いたが、戒厳部隊によって広場が制圧されるに任された ⇒ 広場のハンスト参加者にとって「六・四」が永遠の心の痛みとなり、中国にとっても深い傷となる
一時外交団の住むマンションに逃避したが、表に出た途端に逮捕される
天安門事件の虐殺の模様が世界中に放映され、劉逮捕の報に世界各地で釈放の署名運動が起きる。ノルウェーの知識人はノーベル平和賞委員会に候補者として指名することを提案、21年後に実現した

第4章        ゼロからの出発
北京市内の公安省の直接管轄による高級政治犯の拘禁施設に入れられ、父親が来て罪を認めるよう説得され、反省文を書かされ、自ら甘んじて精神的な自虐、或いは心魂の自殺と観念したが、そのお陰で刑事処分免除、即時釈放となるが、大連の実家に護送
反省文を書いたことは生涯の汚点として、真の反省をもって恥をそそぐ道を歩み始める
さらに、劉が「自分の見る限りでは、1人の市民も解放軍兵士も殺されたのを目撃してはいない」と言ったことを当局が利用して「北京では殺戮は行われなかった」と世界中に触れ回ったことで、受難者や遺族から激しく非難されたことを深刻に受け止め、これを通して傲岸不遜な劉が穏やかで謙虚へと180度変化したという
91年釈放され大連に護送されたが、妻は暁波に絶望して離婚、渡米して新生活を始める ⇒ 劉の受賞後マスメディアは彼女を探したが、何の消息もなかった
大連でパスポートを申請したが拒否され、国内亡命者となるなかで、精神的に「中国人」という既成概念に束縛されず、開放的な「世界人」となる一方で、中国の民主化に身を捧げる「中国人」であり続けた
劉暁波は、廉恥と自責の念に覆われて深く反省し、再び惨劇を起こさないためにこそ闘わねばならないと思い、人を分け隔てすることなく平等に関心を向け、具体的に苦難に思いを寄せ、それにより尊厳のある生き方をしようと努めた ⇒ 詩という文学的表現で凡庸な虐殺者に対しては粘り強く問いかけ、かつ犠牲者の魂と対話したが、そのことが後年評価され、09年米国ペンクラブが獄中の劉にバーバラ・ゴールドスミス賞を授与
中国の詩人は、「哀しみで傷(やぶ)らず、怨みで怒らず」を詩歌の最高の境地として信奉してきたが、劉も毎年天安門事件の犠牲者を追悼する詩を発表

第5章        ぼくは屈しない
90年代初めの中国は、中共当局がますます専横になり、人々が全て物を言わない時期
95年 劉暁波は全人代大会宛に「反腐敗の建議書」を発表
01年独立ペンを創立したことは、21世紀初めにおける最も重要な活動となる ⇒ 主要メンバーは海外の亡命作家グループで、2年後にはネットを通じて国際的な大会を開催
アメリカの民主基金会から資金的支援を受ける
さらに、劉は同基金の支援によって成り立っていた「民主中国」サイトの編集長となる
08年には中国でブログ・ブームが起こり、劉もブログで、中国におけるインターネット統制の実情を踏まえ、政治的影響が相対的に小さな文学評論のような文章や情報をアップ、しばしば当局に削除されたが、投獄後もなお正常に閲覧でき、劉の名前と写真も削除されなかった ⇒ 09年劉暁波の裁判開始後もしばらく維持されたが、ある日突然ブログの情報がすべて消去され、サイトが全面的に禁止となった
ネットの中国に与えた影響は革命に他ならない ⇒ 中共当局は02年以降ネットの規制を始めているが、次々に誕生する新しいサイトをすべて規制することはできず、「五毛党」(ネットを密告して5毛もらう輩のこと)は非難・排斥される悪名高い職業となる
独立ペンの最も重要な成果は、中国大陸で集会と結社の制限を打ち破った唯一の民間組織になったこと ⇒ 憲法では保証されながら、実際は幾重にも制限されていた
劉暁波は人生で4度の投獄を経験 ⇒ 90年代を通して、日常的な嫌がらせ、軟禁、「強要された旅行」などの他、084度目の投獄までの間に、2度にわたり長期に自由を失う
最初は半年、2度目は96年「労働教養」3
04年実質軟禁状態で、電話やインターネットが不通、05年警官が常時監視

第6章        08憲章」と「私には敵はいない」の思想
084度目の投獄の原因は「08憲章」 ⇒ それまでの30余りの公開状と声明の「集大成」であり、老年、壮年、青年の3世代の独立知識人と社会に責任を持つ公民がこの時代に書き与えた最も真摯な覚え書き
国家政権の転覆扇動罪で11年の判決
「私には敵はいない。憎しみもない」という信念

第7章        劉霞 土埃といっしょに僕を待つ
86年頃には、劉と劉霞はそれぞれ家庭を持ち、文学を愛し、カフカとドストエフスキーに傾倒、文学サロンで白熱した議論を交わす
劉霞の父親は中国銀行幹部
ノーベル賞受賞で、劉霞の軟禁状態がエスカレート、家の中の電話もネットも遮断
113月国連人権委員会が劉夫妻の自由の剥奪を恣意的拘禁に該当すると認め、釈放し賠償するよう要求したが、政府は暁波は国家煽動の罪での拘束であり、劉霞には何らの強制手段もとっていないと回答

第8章        ノーベル平和賞――桂冠、あるいは荊冠
10年中国の基本的人権の確立のために長期にわたる非暴力の戦いを継続し、中国の人権状況の改善を推進する者の中で傑出したシンボル的存在であるという理由で、ノーベル平和賞を劉暁波に授与 ⇒ 天安門事件当時の無血撤退実現から21
ノーベル賞委員会は声明で、一貫して人権と平和は緊密に関連しあっていると信じており、中国政府の国際法違反と自身の憲法違反を厳しく指摘
中国は、ノーベル委員会とその背後にある「欧米色の反中国勢力」を猛烈に非難し、「国家の敵」と見做し、その程度は89年に平和賞がダライ・ラマ14世に与えられた時を超えてさえいた。当時は天安門事件の事後処理に追われ、国際社会の批判と経済制裁もあり、何より内部の安定が急務だったが、今回は「大国の勃興」という元手があり、オリンピックと万博の追い風を鼻にかけ、ノルウェー産サケの輸入を停止し、居丈高になってノルウェーという小国を懲らしめた
ドイツ紙は、「異なる声と交流することは一種の成熟であり、中国共産党は今回の問題でその成熟ぶりを示す機会を逸した」と指摘
受賞式当日はノーベルの命日であり、国際人権デーでもある。授賞式は本人欠席のまま行われ、地元の女優が30分以上もかけて朗々と「私には敵はいない――最終陳述――」を代読。判決前の法廷では全文を読み上げることはできなかったと伝えられるが、劉霞がネットに公開し、そこでは自分は無罪で、自分の執筆活動は中国の憲法が国民に賦与している言論の自由という基本的な権利の実践であると主張
1935年ドイツのジャーナリストで平和活動家のオシエツキーへの平和賞も、投獄中だったが、ヒトラーはノーベル委員会が監獄に赴き受賞することを許可 ⇒ 身分不詳の弁護士が賞金を横領したため、委員会はその後本人が来られず、受賞者の代理となれる親族がいない場合は、メダルと賞金等全て授与を延期すると決定
75年サハロフの受賞ではモスクワが誹謗の手段を尽くし、本人の出国と受賞を禁じたが、世界の良識者の義憤に配慮し、夫人が代理で受賞することを許可
83年のワレサの境遇も似たようなもので、彼は出国後帰国が許されないことを危惧し、妻が代理で授賞式に臨む
91年のアウンサンスーチーのケースは、ミヤンマーの軍事政権を怒らせ、彼女も授賞式には出られなかったが、夫と息子が代わりに受賞
03年イランの人権派弁護士エバーディーの受賞では、イラン政府は不本意にも出国と受賞を許可、駐ノルウェー大使も出席すらしていたので、エバーディーはインタビューで、中国の人権状況はイランよりもお粗末と表明。ただ、劉の授賞式には中国の圧力のため欠席、その時彼女は、イラン政府の措置は遺憾であり、何も考えずに中国の真似をしたやり方は、イランが政治的に独立自主を欠いていることを明示したと発言
中国政府は、オスロの各国大使館に対し、授賞式のボイコットを呼びかけ、「誤った選択をするならその結果を引き受けなければならない」と警告。最終的にロシアなど17か国が式典参加を見送る。国内でも劉の親戚はもとより人権活動家、異見知識人などは自宅軟禁か「強制的旅行」を余儀なくされ、北京市内での多勢の会合を禁止する等神経質な動きを取る
劉暁波は、決して受賞を望まなかったのではなく、より大きな責任を引き受けることになると言って喜んだ ⇒ 中国民主化のシンボルとなり、中国を自由な国に非暴力で変革する諸力をまとめる存在となり得るだろう


「中国の劉暁波」から「東アジアの劉暁波」へ――日本の読者へ
本書を通して、単に劉暁波という、サハロフやヴァーツラフ・ハヴェル級の知的巨人の姿を知るに止まらず、その中から日中関係を見極め、共産党一党体制が有する日本やアジアの平和に対する深刻な脅威を理解し、日本が中国の民主化の過程でどういう役割を演じることができるかを考えていただくことを願う
劉暁波は、中国の熱狂的な民族主義を批判し、一部からは「売国奴」に列せられているが、民族主義は中国の制度の遅滞、文明の崩壊、環境の悪化など焦眉の難題を解決することはできないと指摘し、「片刃の毒剣」であり、一服で中毒になる高純度のヘロインでもあると
70年代末、「改革開放」を始動したばかりの中国は、西側に接近、日中交流や友好が主流となる
復活した鄧小平は日米の2か国しか訪問せず、訪米は西側最強国家による政治的支持を得るためであり、訪日は経済復興に必要な資金、技術などを得るためであり、鄧も毛沢東の日和見主義外交を継続し、日中間の歴史的恩讐や尖閣の紛争を棚上げする代わりに日本による経済的支持を取り付けたと批判
江沢民の後期から習近平に至るまで、反日は中国共産党の絶対失敗しない「錦の御旗」となったが、劉は有名な反日事件を列挙し、勇敢にポピュリズムに立ち向かい、「後ろ指をさされた」人物の側に立って応援した。反日の狂気じみた潮流が武漢大学の桜にまで波及、桜が日本から来たものであることから、花見が「国辱」となったことにも言及し、洗脳による知識の欠如、知的障碍かと見紛う指弾を痛烈に批判
良質な殖民主義を評価すべきとし、日本の殖民主義についてもアジアの近代化の中で果たしたプラスの貢献を評価
劉は日中関係を論じた文章において、日本政府が「利益外交」から「価値観外交」に転ずるよう提案している ⇒ 深く歴史を反省し、誠意を尽くして謝罪するとともに、アジアの民主化に相応の責任を持つこと。外交面で中国の人権擁護の改善や政治の民主化の推進に注力すれば、中国のみならず日本自身の助けともなり、中国が民主主義国家となれば、自由で平和な共に栄える新アジアの誕生が実現する




第2部        資料篇
Ø  「天安門の4人」の「ハンスト宣言」 (1989.6.2.)
Ø  08憲章」 (2008.12.9.)
Ø  私には敵はいない――最終陳述――


あとがきに代えて 編訳者の覚え書き
1.    201181日の「建軍節(人民解放軍記念日)」が過ぎても、北京では政治的に「敏感」な空気が重苦しいまでに徘徊している中で余傑に面会し、本書の初稿を受領ノーベル平和賞受賞式の前日、余傑は公安当局に自宅から連行、平和賞の仕返しとして拷問を受け、劉の伝記をやめるよう脅迫
習体制発足後、強権体制は一層強化、学者、ジャーナリスト、人権弁護士らが検挙される件が頻発、国内亡命者が出たり、投獄されたりした
余傑は直後にアメリカに亡命、必ず劉の伝記を出すと告げ、劉自身の原文を加え、新たな日本語版として刊行することとした
2.    10年以降の劉の最晩年を記す
妻の劉霞まで事実上の軟禁状態に置かれ、夫婦とも沈黙を強いられる
176月下旬、中国政府が末期がんで病院に移送との発表に対し、「08憲章」の最初の署名者が中心となって劉の救出声明を発出するが、かえって弾圧に遭い、劉は2週間後に死去、火葬に付されその日のうちに海洋散骨した動画が公開
香港で出版予定の妻の写真集のために劉が寄せた序文が「最後に書かれた文章」としてネットで紹介、この「遺書」の抒情を彩るのは「氷のような激しい愛、真っ黒で一途の愛」
各地で追悼会が厳戒態勢の中で挙行され一部には逮捕者が出た
7月以降も政府はソーシャルメディアのサイトから携帯電話など個人の情報ツールにまで検閲システムを拡大、劉追悼のメッセージは次々に削除
3.    劉は、89年ニューヨークで執筆した『中国当代政治与中国知識分子』の「後記」で、自分自身が愚昧で砂漠のような文化の中に長く閉じ込められていたために、「狭隘な民族主義の立場と西洋文化に盲目的に媚びる浅薄な知識」しかないことを痛切に認識するとともに、西洋文明は現段階において中国を改造するために役立つのみ、未来において人類を救済することまではできない、と西洋文明の限界をも指摘
命を燃やし尽くすまで「知行合一」のポジションを貫徹、その中で自分自身をも絶えず激しく問い続けた
ソクラテスの「無知の知」に通じる自己認識がある
中国のネット空間では今なお、「08憲章」「劉暁波」「天安門事件」を検索しても、「関連する法律と政策」を理由に結果が表示されない
この伝記を切り口に、自由の力は行動によると提唱・精励・実行した劉暁波に多角的多層的にアプローチすることに役立てたい






劉暁波伝 余傑著、劉燕子編 中国 体制外知識人の生き方
2018/4/14付 日本経済新聞
 ノーベル平和賞を受賞しつつも、中国政府による拘束が解かれないまま、2017年に癌(がん)により他界した中国の知識人で民主活動家の劉暁波の伝記である。台湾で出版された『我無罪――劉暁波伝――』(時報出版社、12年)を底本としつつも、部分的に反復箇所を割愛したり、「劉暁波自身の原文を加え」たりして、日本語版としてオリジナリティのある著作となっている。昨今、中国では表現の場が抑制されている中で、中国国内では出版できない書籍を日本で出版する動きが見られている。香港や台湾とともに、日本がそうした表現の場を中国の人々に提供しているのだろう。
(劉燕子ほか訳、集広舎・2700円)
著者は73年中国・四川省生まれ。作家。北京大在学中に発表した評論で注目された。2012年に米国に事実上亡命し、言論活動を続ける。
 本書を繙(ひもと)けば、天安門事件前後から習近平時代に至るまで、民主と自由のために闘ってきた代表的な体制外知識人の生き様(ざま)を感得できる。「荘子」を論じ、「知行合一」を旨とした劉暁波の眼(め)を通して、天安門の若き活動家のメンタリティや性の問題、「08憲章」にまつわる動向や、中国政府による弾圧の方法、裁判の模様などが、きわめて内在的に、そしてヴィヴィッドに描かれている。また、パートナーである劉霞との出会いやその信頼関係も本書のひとつのモチーフだ。
 そして、「日本の読者へ」と題された部分は日本語版のオリジナルだ。劉暁波は、しばしば歴史の問題や日中関係について論じた。民族主義的な反日思想を批判しつつも、天安門事件後に日本が対中宥和(ゆうわ)政策をとったことを功利主義的外交だと批判した。また歴史の面では、満洲国の統治を、バランス感覚を以(もっ)て評価しようとした。日中関係を「友好/非友好」の二分論で単純化して見てはならない、そして中国政府との関係だけで評価してはならない、という強いメッセージである。
 民主や自由のための活動だけでなく、中国でのインターネット空間の可能性と限界をめぐる言論も紹介している。劉暁波の意志と活動力は傑出しているが、このような冷静な眼で物事を見据える知識人が中国には現在も多数いる。日本の読者が、こうした知識人の抱える問題を自らの問題として受け止めたり、あるいは彼らの目線を踏まえた上で中国や日中関係について考えたりする上でのよき窓口を提供するだろう。
《評》東京大学教授 川島 真


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暁波(りゅう ぎょうは、リウ・シャオポー、19551228 - 2017713)は、中華人民共和国著作家。文学博士(北京師範大学大学院)。元北京師範大学文学部講師。民主化運動を始め広範な人権活動に参加し、度々投獄された。
人物[編集]
生い立ち[編集]
吉林省長春市生まれ。1969上山下郷運動が行われている間、父と共にホルチン右翼前旗に移る。吉林大中国文学を学んだあと、北京師範大学に進学。1984修士号取得後、同校で教職に就く。
1980年代半ば、文学評論家李沢厚に対する批判で、中国文壇の「ダークホース」と呼ばれた[1]
1988、「美学と人間的自由」により、同校で文学博士号取得[2]。その後、オスロ大学ハワイ大学コロンビア大学で客員研究員。
人権活動期[編集]
1989に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じる。六四天安門事件直前、他の知識人3名(侯徳健高新周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加した。人民解放軍天安門広場に突入する寸前、4人は学生たちに武器を捨てるよう説得する一方、軍と交渉し、「四君子(4人の指導的知識人)」と呼ばれた[1]。事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他の政治リーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。
2008、「世界人権宣言」発表60周年を画期として発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、再び中国当局に身柄を拘束された[3]。以後は外国要人訪中や人民代表大会会期中は自由を失い、電話・インターネットによる交信が遮断された[要出典]
20102月に「国家政権転覆扇動罪」(クーデター扇動[4]による懲役11年および政治的権利剥奪2年の判決が下され[5]4度目の投獄となり遼寧省錦州市錦州監獄で服役した。
2010ノーベル平和賞を受賞し[6]、中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった[7]。劉は、「この受賞は天安門事件犠牲になった人々のに贈られたものだ」と語り、涙を流したとされる[8]。投獄中の人物に平和賞が贈られたのは、1935に受賞したカール・フォン・オシエツキー以来2人目である(1991に受賞したアウンサンスーチーは獄中ではなく自宅軟禁中)[9]。受賞から辞世まで一度も解放されなかったノーベル賞受賞者は劉暁波のみである。
壮絶な最期[編集]
劉暁波の追悼デモ
2017626日に遼寧省監獄管理局がおこなった発表によると、末期の肝臓癌と診断された劉は、家族による治療のための仮出所申請が許可され[10][11]、監獄から当局の厳重な隔離措置の下に置かれている中国医科大学付属第一病院中国語版)に移された[12][13][14] 国際社会からは劉を国外に移送し治療すべきとの声が高まり[15]ドイツアメリカ合衆国も受け入れを表明したが、中華人民共和国の政府及び医療チームは容態を理由に拒否[16][17][18]
7
10日、当局は劉が危篤状態に陥ったと発表[19][20]。そして現地時間713日午後535分、劉は妻・劉霞ら家族に看取られ、肝臓癌による多臓器不全のため死去。 61歳没[21] 当局によれば、最期の言葉は妻に対する「あなたはしっかり生きなさい」「幸せに暮らして」だったと伝えられているが[22][23]、妻は北京当局による隔離措置の下に置かれたままである[24][25][26] 訃報を受け、ノルウェー・ノーベル委員会は北京当局のずさんな治療責任に対して非難声明を公表した[27]
投獄中にノーベル賞平和賞を贈られ獄中で死去したのは、1935に受賞したカール・フォン・オシエツキーに次いで2人目である[28]
ノーベル平和賞受賞[編集]
選考段階[編集]
中国政府は劉がノーベル平和賞の選考で候補となった時点で、ノルウェーのノーベル賞委員会に対し「劉暁波に(ノーベル平和賞を)授与すれば中国とノルウェーの関係は悪化するだろう」と述べ、選考への圧力と報道された[30]
受賞[編集]
2010108、劉のノーベル平和賞受賞が発表された。ノーベル賞委員会は受賞理由として、「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことを挙げ、劉への授与の決定は有罪確定時の同年2月には「不可避の状況になっていた」こと、選考は全会一致であったことなどを発表した[31][32]
受賞後の影響・反響[編集]
各国の反応[編集]
受賞直後の中華人民共和国を除く各国の主な反応には以下がある。
前年度のノーベル平和賞受賞者でもあるアメリカ合衆国大統領バラク・オバマは「劉暁波は、民主主義という万国共通の価値を平和的に推進する勇気あるスポークスマン」「基本的人権は何よりも尊重されるべき」と発言し、劉を釈放するよう中華人民共和国政府に要求する姿勢を示した[33]
国際連合事務総長潘基文は「人権向上の実践を求める国際世論の高まりを示すもの」と劉暁波氏の受賞を評価した[34]
欧州連合バローゾ欧州委員長は「ノーベル賞委員会の決定は、個人的な犠牲を伴って自由と人権を追求するすべての人々を支持する強いメッセージだ」との声明を出した。
フランス外務大臣のベルナール・クシュネルは「フランスはEUと同様に逮捕直後から懸念を表明し、繰り返し釈放を求めてきた」と声明を出した[35]
1989のノーベル平和賞受賞者でもあるダライ・ラマ14は「ふさわしい時に、ふさわしい人が選ばれた。劉氏の後ろには数千人の市民がおり、中国の変化に大きく寄与するだろう」「中国は変わらなければならない。」と声明を出した[36]
アメリカ合衆国亡命中の中国人反体制物理学者の方励之は「彼(劉暁波)の受賞は、中国の民主化に積極的な役割を果たすものと思う」旨のコメントを発表した[37]
日本菅直人首相は参院予算委員会で「中国において普遍的価値である人権と基本的自由が保障されることが重要」「釈放されることが望ましい」と述べた[38]
中国政府による抗議と対抗措置[編集]
受賞発表直後に中華人民共和国外交部は「(劉の受賞は)ノーベル平和賞を冒涜するもので、我が国とノルウェーの関係に損害をもたらす」と批判した[39]。更に中華人民共和国政府は在北京のノルウェー特命全権大使に対して劉のノーベル平和賞受賞に強く抗議を行った[40]。また中華人民共和国の国内でノーベル平和賞授与決定を放映中のCNNNHKワールド報道番組が遮断され、その後もインターネット上のメール検索などの遮断が続いていると報道された[39][41][42]。翌9日、中国各誌は授与を批判する中華人民共和国外交部報道局長の談話を報道する形で間接的に報道し、人民日報系の環球時報は「ノーベル平和賞は西側の利益の政治的な道具になった。平和賞を利用して中国社会を裂こうとしている」と批判した[43]
受賞直後、海外メディアが自宅に住む妻劉霞にインタビューを試みたが、現地公安当局によって厳しく規制線がはられており、劉霞自身も電話インタビューに応じた直後、電話回線が通じなくなっており、事実上当局による軟禁状態にある。
中国のネット検閲」も参照
また、世界各国での受賞への賛同意見に対し、中国外交部は定例会見で「中国への内政干渉は許さない」、「現状で、中国の関係部門がノルウェー政府との協力推進を望まないことは理解できる」、「劉暁波は犯罪者だ。彼に平和賞を与えることは中国国内で犯罪を奨励することにほかならず、中国への主権侵害でもある」と主張した[44]
20101021日には、劉の釈放を求める署名活動を行っていた崔衛平北京電影学院教授が拘束された[45]
1029日には、ノーベル賞の歴代受賞者により劉の釈放を求めるグループが結成されダライ・ラマなどが参加していると報道された[46]
英国デイリー・ニューズ紙によると、2010年に開催された第60ミス・ワールド大会では、開催国である中華人民共和国側から選考委員に対して「ミス・ノルウェーは低い点に抑えるよう」との圧力がかけられ、ミス・ノルウェーのマリアン・バークダルは、5位にも入ることができなかった。これは劉の受賞に対する中国政府の対抗措置であるといわれている[47]
受賞式典への影響[編集]
中国政府は201010月下旬以降に、ノルウェーにある欧州各国の大使館に対し、1210オスロ市庁舎において行われるノーベル平和賞授賞式の式典に参加しないよう求める書簡を送った。書簡では式典当日に劉暁波を支持する声明を発表しないようにも求めた。また北京においても、数カ国の外交官に対して同様の要請を行った[48]
授賞式当日は17か国が欠席した(中国ロシアカザフスタンチュニジアサウジアラビアパキスタンイラクイランベトナムアフガニスタンベネズエラエジプトスーダンキューバモロッコ)[49]。授賞式当日には、中国政府は人権活動家のモンゴル族ハダを釈放したが直後に拘留した[50]
「オスロの誓い」[編集]
劉のノーベル平和賞受賞を機に、世界で活動している中国人民主化活動家(民主中国陣線中国民主団結連盟)チベット独立派ウイグル人独立運動家らがオスロに集結し、横の連携を誓う「オスロの誓い」が公表された[51]。各団体はこれまでに主導権争いなど内部対立の問題を抱えることもあったが、オスロでの会談の結果、運動をまとめる展開が見えたとした。
ニューヨーク在住の胡平(雑誌「北京の春」編集長)は「世界中に散っていた私たちが一堂に会することができた。当面は力を合わせて『劉暁波氏の釈放』を求めていくことで一致した」とし、またスイス在住のチベット独立運動家ロブサン・シチタンも「これまでは中国人活動家とほとんど関係なく活動してきたが、これからは一緒にやっていきたい」と語り、ウイグル人独立ペンクラブ会長カイザー・ウーズンとともに中国人活動家らとの連携を示した[51]
解放要求[編集]
アメリカ議会下院[編集]
2010128日、アメリカ合衆国下院本会議は、劉の釈放を中国政府に要求する決議案を賛成402、反対1の圧倒的多数で採択した[52]
ノルウェー・ノーベル賞委員会[編集]
20101210日に開かれたノーベル賞授賞式において、ノルウェー・ノーベル賞委員会委員長のトルビョルン・ヤーグランは演説の中で「劉は何も悪いことはしていない」と、釈放を求めた[53]
年譜(略)[編集]
19551228: 吉林省長春市生まれ。
1969 - 1973: 両親と共に内モンゴル農村へ。
19747: “知識青年として吉林省農安県へ。
197611: 長春市にて建築作業員。
1977 - 1982: 吉林大学文学部。1982年同校学士号取得。
1982: 北京師範大学文学部修士課程入学、1984年同校文芸学修士号取得。
1984 - 1986: 北京師範大学文学部で教鞭を取る。
1986 - 1988: 北京師範大学文学部博士課程を履修、1988年文芸学博士号取得。
19888 - 11: ノルウェーオスロ大学の要請を受け、中国現代文学を教える。
198812 - 19892: 米国ワイ大学の要請を受け、中国哲学、中国現代政治と知識人のをテーマに研究と授業。
19893 - 5: 客員研究者として米国コロンビア大学へ。期間中に帰国、六・四事件に参加。
1989427 - 64: 民主化運動に参加。
198966 - 19911: 「反革命罪」で投獄される。
19899: 全ての公職を失う。
19911 - 1995: 北京にて文筆活動、人権運動、民主運動に従事。
1995518 - 19961: 再び入獄、釈放後民主化運動、文筆活動を継続。
1996108 - 1999107: “労働教養(中国特有の監禁刑罰)に処せられる。釈放後、北京の自宅でフリーライターとして、大量の時事評論や学術論文を発表する。
200311: 独立中文筆会第二任会長に当選。
2005112: 引き続き独立中文筆会会長に当選留任。
20081210: 「零八憲章」の起草者となるも発表直前に身柄を拘束される[3]
2009623: 「国家政権転覆扇動罪」などの容疑で北京市公安局に正式に逮捕された(新華社通信報道)[54]
200912: 11日に起訴され[55]25日に北京の第1中級人民法院で「国家政権転覆扇動罪」により懲役11年の判決を言い渡された[56]
2010211: 北京の高級人民法院が劉暁波氏の控訴を棄却し、懲役11年および政治的権利はく奪2年の判決が確定[57]
2010108: 民主化と人権の促進への貢献でノーベル平和賞を受賞。
受賞歴[編集]
1990年・1996 - 国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチによる人権賞「ヘルマン・ハメット助成金
2003 - 中国民主教育基金会第17回「傑出民主人物賞」
2004 - 国境なき記者団」・フランス基金会の「言論の自由を守る賞」、月刊誌『開放』20041月号「マスコミの腐敗は最早ニュースではない」で第9回「人権ニュース優秀賞」
2005 - 月刊誌『開放』20049月号「権力者の天国、弱者の地獄」で第10回「人権ニュース優秀賞」
2010108: 民主化と人権の促進への貢献でノーベル平和賞を受賞。
劉暁波判決文(20091225日)[編集]
「告発、答弁、証言、判決」のうち、「判決」(抜粋)は以下のとおり[58]
判決
本法廷は、被告人劉暁波が我国の人民民主独裁による国家政権と社会主義制度の転覆を目的として、インターネットは情報伝達が速く、伝播の範囲が広く、社会的影響力が大きく、大衆の注目度が高いという特徴を利用し、文章を執筆してインターネット上に発表するという方法により、我国の国家政権と社会主義制度を転覆するよう他者を誹謗かつ扇動し、その行為は国家政権転覆扇動罪にあたると考える。(略)。重大な罪を犯した犯罪者として、法律に基づいて厳重に処罰されなければならない。(略)。インターネット上に誹謗中傷を行う文章を発表したことは、我国の国家政権と社会主義制度の転覆を扇動する行為であり、劉暁波の行為は言論の自由という範疇を明らかに超えたもので、犯罪である。(略)。(略)有期懲役11年、政治的権利剥奪2年に処する((略)2020621日までの期間)。(略)。
思想と主張[編集]
陳述「私に敵はいない」[編集]
20091223日に「私に敵はいない」と題する陳述が発表され、その二日後の1225日に、国家政権転覆扇動罪により懲役11年の判決を言い渡された。また、この「最後の陳述」はノーベル平和賞授賞式で代読された[59]
この陳述で劉は次のように発言している。
私の自由を奪った政権にいいたい。20年前にハンスト宣言で表明した「私に敵はいない、憎しみもない」という信念に変わりはない。私を監視し、逮捕し、尋問してきた警察、起訴した検察官、判決を下した裁判官はすべて私の敵ではない。監視や逮捕、起訴、判決は受け入れられないが、当局を代表して私を起訴した検察官の張栄革と潘雪晴も含め、あなた達の職業と人格を私は尊重する。
また劉は、1998年に中国政府が、国連の国際人権規約国際人権法などの国際条約の批准を約束したこと、また2004年に中国政府が憲法改正し、「国家は人権を尊重し、保障する」と初めて明記し、人権が中国国内統治の基本的な原則の一つになったことを「中国共産党は執政理念の進歩を見せた」と賞賛している。
なお、中国政府はのちに国家人権活動計画を提出している[60]。また、これまでの二度の拘禁について、北京市公安局第一看守所(拘置所。通称「北看」)の進歩を見たとしている。
1996年の古い北看(北京市宣武区半歩橋)での拘禁と比べ、現在の北看は施設と管理が大きく改善され、「柔和になった」としている。
さらに劉は
私は中国の政治の進歩は止められないと堅く信じているし、将来の自由な中国の誕生にも楽観的な期待が満ちあふれている。自由へと向かう人間の欲求はどんな力でも止められないのだから、中国は人権を至上とする法治国家になるだろう。こうした進歩が本件の審理にも表れ、合議制法廷の公正な裁決、歴史の検証に耐えうる裁決が下ると期待している。
としたうえで、「私の国が自由に表現できる場所となり、すべての国民の発言が同等に扱われるようになること」を望むとした。
ここではあらゆる政治的見解が太陽の下で民衆に選ばれ、すべての国民が何も恐れずに政治的見解を発表し、異なる見解によって政治的な迫害を受けることがない。
私は期待する。私が中国で綿々と続いてきた「文字の獄」の最後の被害者になることを。表現の自由は人権の基礎で、人間性の根源で、真理の母だ。言論の自由を封殺するのは、人権を踏みにじり、人間性を窒息させ、真理を抑圧することだ。
と、劉暁波氏は同陳述で述べた[61]
その他の主張[編集]
1996に発表した論文冷戦からの教訓」の中で、「アメリカ合衆国を盟主とする自由主義陣営は、人権を踏み躙るほぼ全ての政権と闘ってきた。アメリカが関わった大きな戦争は、おしなべて倫理的に擁護できる」と結論付けるなど、親米的な姿勢が顕著である。パレスチナ問題でもアメリカの政策を支持しており、諸悪の根源は「挑発的な」パレスチナ人にあるとしている[62]
また、2004に刊行した著書「アングロアメリカ自由同盟に勝利を」でも、当時のブッシ政権によるイラク戦争を支持。同書の中で劉は、冷戦以後アメリカが主導した戦争を「如何にして現代文明に適する形で戦争を行うべきかを示した好例」として褒め称え、「イラクには自由で民主的かつ平和な社会が出現するであろう」とした[63]
批判[編集]
丸川哲史による批判[編集]
日本の文藝評論家丸川哲史は、劉およびそのノーベル賞受賞を批判している[64]岩波書店20112月に刊行した『最後の審判を生き延びて――劉暁波文集』「訳者解説」において丸川と鈴木将久はノーベル賞受賞については「問いを立てておく必要」があるとして疑問点を述べ、
「人権や表現の自由という理念それ自体に関しては、実のところ誰も反対していないのであれば、劉氏への授賞の理由「長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国において人権問題で闘い続けてきた」こととは別のところで、授賞は劉氏と「〇八憲章」の思想にある国家形態の転換に深く関連してしまう、ということである。平和賞授賞は、中国政府からすれば、やはり中国の国家形態の転換を支持する「内政干渉」と解釈されることとなりそうだ。その意味からも、ノーベル平和賞が持っている機能に対する問いを立てざるを得なくなる。」
とノーベル賞受賞に対して疑問点を提出した。
また丸川は、柄谷行人との「長池講義」において、劉暁波の思想が、ネオコン政治思想家として著名なアメリカのフランシス・フクヤマの思想を踏襲したものと解釈し[65]、とりわけ『〇八憲章』14条における土地の私有化、15条における「財産権改革を通じて、多元的市場主体と競争メカニズムを導入し、金融参入の敷居を下げ、民間金融の発展に条件を提供し、金融システムの活力を充分に発揮させる」という箇所について、新自由主義的であると指摘している。
この丸川哲史らの解説および岩波書店について子安宣邦が厳しい批判を加えている[66]。子安によれば、岩波書店および雑誌『世界』は、劉暁波が零八憲章200812月に公表してから、中国民主化運動に関心を示すどころか、劉のノーベル賞受賞について雑誌において全く言及しないほど一貫して無視してきたにも関わらず、劉のノーベル賞受賞後、一転して劉暁波文集についての独占的出版権を得た。これに対して子安は「「良識」を看板にしてきた岩波書店の商業主義的な退廃はここまできたか」と驚いたとしたうえで[66]、さらに丸川らの「訳者解説」について子安は
「これは実に曖昧で、不正確で、不誠実な文章である。劉暁波問題という現実とあまりに不釣り合いな、いい加減な文章である。これを読んで、何かが分かるか。分かるのはこの「解説」の筆者が中国政府の立場を代弁していることだけであろう。劉暁波は中国の国家体制の転覆を煽動する犯罪者であり、その国内犯罪者に授賞することは内政干渉であるとは、中国政府が主張するところである。丸川・鈴木はこの中国政府の主張と同じことを、自分の曖昧な言葉でのべているだけである。この曖昧さとは、これが代弁でしかないことを隠蔽する言語がもつ確信の無さである。私はこれほど醜悪で、汚い文章を読んだことはない。」
と強く批判し、岩波書店に謝罪と訂正改版の処置を公開で要求した[66]。なお、丸川哲史、鈴木将久、岩波書店とも、子安宣邦の批判に反応していない。


(耕論)中国、国境超える検閲 ティム・プリングルさん、長平さん、及川淳子さん
20181230500分 朝日
 中国の言論に対する検閲の「輸出」が広がっている。英ケンブリッジ大学系出版社の学術誌にまで及び、学問の自由を揺さぶる。対岸の火事ではない。背景にあるものとは。
 閲覧制限求められた論文 ティム・プリングルさん(英チャイナ・クオータリー編集長)
 私が編集長を務める「チャイナ・クオータリー」は、1960年代に創刊され、現代中国の研究で国際的な影響力をもつ学術誌です。英ケンブリッジ大学傘下の出版社が発行し、インターネットを通じて世界で読まれています。
 中国と国際社会の接点が広がるにつれて、中国共産党は自らが指導する権威主義体制が外部から影響を受けることについて、恐れを強めていると思います。(習近平〈シーチンピン〉体制が発足した)2012年ごろから、中国内の大学などに対する引き締めだけでなく、外国の組織にも手を伸ばし始めました。それが、いよいよケンブリッジにも及んだのです。
 昨年8月、中国側から出版社に対して、315の論文について、中国内のネット上で読めなくするように要請がありました。天安門事件文化大革命、人権、ウイグル、チベット、香港、台湾など、中国当局が政治的に敏感だとする言葉を含む論文です。
 こともあろうに、出版社はいったん受けてしまった。ほかの論文や出版物を守るためには、雑誌の中でも数%に満たない論文を犠牲にするのは仕方がない、という判断だったと説明されました。ありえないことです。学問の自由の根幹にかかわり、議論の余地はありません。
 雑誌全体の評価にもかかわります。わずかな比率であっても検閲を受け入れたとたん、掲載の基準を含めて疑念を呼ぶ。しだいに当局の要求は増えるはずです。中国市場は巨大でも、読者も評判や信頼の形成の場も、中国だけに存在するわけではない。
 欧米などの大学の著名な中国研究者で構成される編集委員会のメンバーも、このアクセス遮断を解除すべきだという意見でした。世界中の研究者から大学や出版社に抗議が相次いだのも大きかった。大学とも話し、数日で戻すことになりました。
 同時に強調したいのは、学問の自由に対する圧力や攻撃は、中国だけから来るものではありません。英国や米国、日本にだってある。大学が企業のように利益を生まなければならないとする考え方は、学問の自由に対する共通する大きな脅威と言えます。自己規制や忖度(そんたく)まで含めると、より複雑です。
 たとえば、権威主義が強まるトルコでは政権を批判した数多くの研究者が捕らえられたり職を失ったりしています。先日、中国、トルコ、バングラデシュ、英国それぞれの問題について考えるセミナーを開きました。中国だけの問題にとどめず、普遍化させる努力が大切です。
 学術誌として我々の役割は新しい知識を示し、オープンに議論する場を設けることです。誰かが嫌う意見だとしても。議論がなくなれば、学問とはいえなくなります。(聞き手 編集委員・吉岡桂子
     *
 Tim Pringle 59年生まれ。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院上級講師(労働など)。中国の労働問題に詳しい。
 経済力背景に、世論も誘導 長平さん(元南都週刊副編集長)
 中国の報道には「高圧線」があります。触れると感電死するほど政治的に敏感なテーマを意味します。政治、少数民族、軍事、国境、宗教などが該当します。
 (自由な改革派メディアで知られた)南都週刊の副編集長だった十年前のこと。北京五輪を控えた時期に英紙フィナンシャル・タイムズ中国語版に寄稿したチベット問題にかかわる記事が、その高圧線に触れてしまったのです。
 もちろん、チベットが政治的に敏感なテーマだと知っていましたが、中国当局が認める議論の幅は時によって変わる。その土俵を広げる可能性を試したかった。しかし、筆を折るように求められ、香港で新しいメディアの創刊にかかわったものの、今度は(中国)当局による圧力で滞在ビザがでない。流罪のようなものです。ドイツの基金の支援を受けて移住し、ジャーナリスト活動を続けています。
 習近平政権になって、議論の土俵はますます狭くなった。天安門事件以降、過去の政権は本音かどうかは別にして、中国も民主主義を目指しているが、発展段階として至らないので西洋と同様の制度は難しいと説明していた。今は違う。西側の唱える民主主義は欠陥があり、発展する中国を封じ込める道具にすぎない、と堂々と言っている。
 自由や民主といった普遍的な価値などなく、すべては利益を生み出すための手段とする考えが広がっています。習氏の個性というよりも改革開放を始めたトウ小平(トンシアオピン)時代から続く路線で、1990年代以降に教育を受けた若者に浸透しています。
 若い世代の多くは、天安門事件で当局によって殺された庶民の存在を知っても、「発展のためには仕方なかった。ソ連のように分裂しないためには必要だった」と感じる。
 報道を禁じるよりも世論を誘導する、洗脳するとも言えますが、こちらの方が影響は大きい。とりわけ、ネットの時代、独裁国家に集積するビッグデータは世論の誘導に非常に強い影響力を持ちます。
 普遍的な価値を唱えてきた欧米は相対的に国力を落とした。冷戦後、イデオロギーの闘争も終わったとして、欧米は国際宣伝を縮小したが、中国は逆です。経済力を高め、自らのやり方を世界に広めることに、最先端の技術と多くのお金を使えるようになった。冷戦時代の米国の手法もよく研究しています。
 財源の乏しい大学は多い。中国の大学と一緒にセミナーを開き、予算は中国側が多く負担してくれたら助かるでしょう。政治的に敏感なテーマを避けることは大したことではない、いや仕方ない。そう、多くの研究者やメディアが考えたとしたら? このことがもたらす帰結を、考える時期が来ていると思います。(聞き手・吉岡桂子
     *
 チャンピン 68年生まれ。調査報道で知られた南方報業伝媒集団(広東省)で記者、編集者を務めた。11年から独在住。
 隣人の抵抗に、日本も学べ 及川淳子さん(桜美林大学専任講師)
 読みたいものが読め、書きたいものを書ける。会いたい人に会える。日本で当たり前のことが、いかに貴いことなのか。教えてくれたのは、ノーベル平和賞を受けた劉暁波(リウシアオポー)さんら中国の知識人でした。
 10年以上前、胡錦濤(フーチンタオ)政権のころ、元気だった劉さんに北京でお目にかかりました。その後、劉さんは共産党一党支配の放棄と民主化を訴えた「08憲章」を友人と起草し国家政権転覆扇動罪に問われました。昨年、十分な治療も受けられず、肝臓がんで亡くなりました。妻も自由に行動ができません。彼や人権派弁護士は、共産党体制を真っ正面から批判し拘束されました。
 一方で南都週刊の長平さんのように、体制内のメディアで権力を批判する人たちもいました。雑誌「炎黄春秋」や新聞「南方週末」も改革派メディアの代表でした。彼らは政治的に敏感な問題について「尺度を測る」と言い、ラインぎりぎりの「エッジボール」を打ち込んだものです。
 しかし習近平政権1期目の後半ごろから言論統制が強まりました。経済成長が鈍化するなか、生活に根ざした人々の不満や権利意識が高まり、ちょっとしたことでも体制批判につながりかねません。権力の側は、不満の芽を早くから摘んでおきたいのです。
 「炎黄春秋」は編集部が乗っ取られ、骨抜きにされました。今、既存のメディアで「頑張っているな」と感じるところは残念ながらありません。改革派ジャーナリストが海外に「亡命」すると、影響力を失い、読者に忘れられてしまうのも厳しい現実です。
 日本の研究者にとって、緊張を強いられる場面もあります。中国は豊かな資金力に物を言わせ、アプローチしてきます。例えば日本の大学が中国と合同でシンポジウムを開くことがあります。敏感なテーマが中国側に拒否されるならまだしも、日本側が「こんなテーマはやめておこう」と自己規制すれば、研究者としての信念が問われます。
 香港民主化を求めた「雨傘運動」(2014年)で、学生たちが「日本の皆さん、ぜひ投票に行ってください」と英語で呼びかけた動画があります。私はこれをいつも、選挙権を得た18歳の日本の学生たちに見せ、考えさせます。
 日本では憲法で学問や言論の自由が保障されています。しかし日本人は、そうした権利の上に眠っているのではないでしょうか。職場や地域社会で、何かおかしいぞ、と感じたら、思考停止に陥らずに声を上げる。メディアも同じことだと思います。
 中国や香港で権利を抑圧された人たちは、敏感に反応し抵抗しています。それは、決してひとごとではありません。私たちは共感を持って、同時代に生きるアジアの隣人から多くを学ぶべきです。(聞き手・桜井泉)
     *
 おいかわじゅんこ 72年生まれ。北京の日本大使館専門調査員を務めた。専門は現代中国社会研究。中国の言論事情に詳しい。



 ■2017年死亡者7月 ⇒ 朝日新聞
13日 劉暁波(リウシアオポー)(61) 中国の人権活動家。民主化を訴えてノーベル平和賞を受賞。投獄され、入院先の病院で病死


(ザ・コラム)モンモンの悩み 「中国の夢」と向き合う欧州 吉岡桂子
201712280500
 クリスマスでにぎわうパリのサンジェルマン・デ・プレ教会の前に、真っ赤なパンダの像が現れた。3メートル近い大きさで赤い竹をくわえている。セーヌ川左岸、哲学者サルトルらが集ったカフェに沿う並木には、パンダのお面もぶらさがっている。
 近くのテントでパンダのぬいぐるみを20ユーロ(約2700円)で買うと、パリの子ども病院に寄付される。慈善活動の主なスポンサーは、中国系企業である。
 日本では上野動物園で公開が始まったシャンシャン香香)が話題だが、フランスでは夏に生まれた赤ちゃんの名前がユワンモン(円夢)と決まったばかり。中国語で「夢がかなう」という意味だ。
 名付けには、仏中首脳の夫人がかかわっている。近平(シーチンピン)国家主席の政治スローガン「中国の夢」を思い出さずにはいられない。パンダは台頭する中国のこわもてを払拭(ふっしょく)し、ソフトな外交を担うはずなのに、国家臭が消えない。動物園に訪ねたマクロン大統領の妻、ブリジットさんに「ガウゥ」とほえたことも現地で話題になっていた。
 中国のパンダ外交の主戦場は近年、欧州だった。習政権の対外戦略の柱「一帯一路」の目的地であり、経済を軸とした良好な欧中関係の象徴として、数多くのパンダが西へ向かった。
    
 ただ、ドイツベルリン動物園へ6月にやってきたモンモン(夢夢)は、ちょっと悩んでいるようすだ。これまた習政権のスローガンそのものの名前だが、近ごろ姿を見せない日もあるという。私が見に行った今月初旬、もう一頭のチアオチン(嬌慶)はササを食べていたが、モンモンは出てこなかった。飼育担当者によれば、思春期を迎えて神経質になっているそうだ。
 「ドイツの中国への見方は、変わってきています」。ベルリンで取材したアンジェラ・シュタンツェルさんは言う。彼女の父は日本と中国で大使を務めたドイツの外交官、母は台湾出身。彼女も中国で6年暮らし、中国語も使える中国研究者だ。
 分岐点の一つは、ロボットメーカー大手「KUKA(クーカ)」の中国企業による買収だった。昨年、中国からドイツへの投資は前年の10倍近くに伸び、先端技術が買われた。続く半導体関連の企業は、安全保障が問題となり買収にはいたらなかった。
 付け加えると、ドイツでは日本の書店にあるような「反中本」の棚は見かけない。日本と同じく高速鉄道の技術を中国に売ったが、「パクリ新幹線」に類する批判も聞かない。フォルクスワーゲンにとって世界最大の市場は中国で、両国の首脳の往来は盛んだ。それでも、中国の台頭を好機とばかりは言えなくなってきた。
 影響が欧州の懐に伸びてきたからだ。
 「東シナ海をはじめ安全保障の問題を抱える日本に比べて、地理的に遠いドイツは中国にポジティブすぎる。そう、日本の友人から指摘されてきたけれど、ドイツでも中国には注意も必要だという声が増えました」とアンジェラさん。ドイツフランスに働きかけて、欧州連合(EU)域外からの買収について審査を強化するように動いた。中国を念頭に置いたものである。
    
 中国流の価値やルールが輸出される現実に、欧州は向き合わざるを得なくなった。
 中国当局は英語やドイツ語で発行される雑誌にまで、天安門事件チベット問題など気にくわない言葉を含む論文の検閲を強める。偽のSNSアカウントを作って、官僚らにも近づこうとしているという。
 ノーベル平和賞受賞者で7月に中国で事実上の獄死をとげた劉暁波氏をめぐって、が中国の人権を批判する声明を出そうとしたら、加盟国のギリシャから反対されて挫折した。財政難のギリシャは、中国マネーが頼みの綱だ。中東欧でも、ハンガリーがEUの基準を離れて中国と組んで高速鉄道の敷設をもくろむ。
 「中国は欧州を分裂させるつもりか」。ドイツ政府内から、そんな声もあがる。
 人間関係もそうだが、共有する悩みは美しい夢以上に媒介役になりうる。
 日本にとって中国とのつきあい方を語り合える相手が増えた、とも言える。だからこそ、他者への想像力と自らを客観視する力もまた、試されている。
 (編集委員)


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