聖地巡礼 Beginning  内田樹 ⅹ 釈徹宗  2016.2.26.

2016.2.26. 聖地巡礼 Beginning

著者 内田樹 釈徹宗 Wikipedia参照

発行日           13.8.23. 第1刷発行          13.9.4. 第2刷発行
発行所           東京書籍

この「聖地巡礼」というプロジェクトで目指したとりあえずの目的は、霊的感受性を敏感にして、「霊的なものの切迫を触覚的に感じること」
武道と哲学研究のための学塾「凱風館」の「部活」の1つである「巡礼部」が対談の聞き手として参加
聖地の周りで暮らす人は、土地の徳を感じて暮らしている  浄土真宗に言う「土徳」で、土地が持つ徳みたいなものに人は育てられると考える

キックオフトーク
なぜいま、「聖地巡礼」なのか  社会の変革期には、昔から聖地を目指す宗教ツーリズムが湧き起っている。なすすべもない悲しい出来事を求心力に変える装置として聖地を目指す
大阪・上町台地は、2㎞にわたってお寺が立ち並ぶ世界でも珍しい場所であり、霊的な磁力が強い。大阪に元気がなくなったのは、本来この土地が持つ霊的エネルギーを賦活する装置が機能しなくなったから(内田持論)
日本の巡礼の原型は西国33所で、元は平安時代の観音信仰、熊野から大阪、奈良、京都、滋賀と巡る

Chapter 1.   大阪・上町台地――かすかな霊性に耳をすませる
水に流すのが日本人  神道の基本的な儀礼が掃除であるというのは、土地そのものが発信している霊的なシグナルにノイズが混入しないように清めることを最優先する意味
日本は種々雑多な文化の吹きだまりみたいな場所で、そこには明確な原理や軸を持ち込んだら具合悪い。日本人の本来的な問題解決法というのは対立的ではなく、むしろ同化的ソリューション。話の筋目をぐちゃぐちゃにして、対立点をぼかして「水に流す」というもので、責任の所在もはっきりさせない
霞ケ浦は、阿波一族という海民の自治領があった場所。海民のラインは韓国の済州島から始まり、日本列島を貫く長いもので、霞ケ浦もその拠点
『船頭小唄』は海民の鎮魂歌
日本列島は日没を見る文化圏で、夕日が宗教性に直結する
内田は、中退したけど日比谷高校に通っていた。戦前は府立一中。1年生は臨海学校に全員参加。「水褌」と称する白いサラシのふんどしを巻いて、5日ほど合宿する。指導するのは学校の先生ではなくて、一水会という卒業生の団体。全員着物を着て、袴を穿いている大学生とか院生たち。その人たちが神伝流の古流泳法を教えてくれる。そういうアナクロなイベントがあった。面白いことに、そこでは泳法と一緒に歌を習う。一水会の歌。ずいぶん練習させられたのでまだ覚えている。「狭霧晴れゆく暁の、鏡ケ浦の浦風に、白帆かかげて船人の雄々しき今朝の船出かな」 房総から霞ケ浦にかけてのエリアには阿波一族の海民文化の影響が感じられる。だいたい日本の近代海軍は、勝海舟や坂本龍馬の時に、平安時代から「塩飽水軍」とか「村上水軍」とか呼ばれた瀬戸内海の海民たちを水夫に編成して作ったわけだから、海民的エートスの中に海民文化が混淆していて当然。僕たちが歌わされた一水会の歌も多分、阿波一族の海民文化と海軍的エートスが混ざり合った形で旧制中学校の臨海学校の歌になっていったんじゃないか。
海民から日本という国を考えると、また別の姿が見える

Chapter 2.   京都・蓮台野と鳥辺野――異界への入り口
船岡山は、今日における戦いの要所  ここに陣を張ると京の様子がよくわかる。平安時代に京都中の穢れを集めて神輿に乗せ鴨川に流したのがこの船岡山。それを淀川経由で難波の海まで流したのが源頼光の四天王の一人で大江山の鬼退治をした渡辺綱の一族。近代になって分散させられ、一部は大阪の大きな被差別部落地を生み出す
頂上付近には魔界スポットである「磐座(いわくら)」という自然の石を祀って神様が降りられる依り代(よりしろ)としたものがある
船岡山の南東にあるのが建勲神社。祭神は信長で、秀吉が信長の廟所として定めた。創建は明治天皇が決めた
京都の四神は、船岡山が北を守る玄武で、南を守る朱雀は池、東が青龍で鴨川、西が白虎で山陽道・山陰道
京都の3大墓地は、蓮台野(れんだいの)と化(あだし)野と鳥辺野
連台野の入り口近くにある千本ゑんま堂、正式名が「引接(いんじょう)寺」で、引接とは仏が我々をあの世に導いてくれるという意味
東山五条が鳥辺野のふもと。右に行くと大谷道で、死者の谷に入り、左に行くと清水寺の表参道へ

Chapter 3.   奈良・飛鳥地方――日本の子宮へ
飛鳥の橘寺周辺が日本仏教伝来の地。思想的に人々が仏教を咀嚼し始めた場所の1
三輪山の麓にある大神(おおみわ)神社は、日本最古の神社であり、その周辺には日本最古の道といわれる山辺の道が通る


Wikipedia
内田 (うちだ たつる、1950930 - )は、日本哲学研究者コラムニスト思想家倫理学者武道家翻訳家神戸女学院大学名誉教授京都精華大学人文学部客員教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など
現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰
東京大学文学部卒業。京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。学位は修士東京都立大学1980)。
専門はフランス現代思想だが、取り上げるテーマはユダヤ人問題から映画論、武道論まで幅広い。
『私家版・ユダヤ文化論』(6回小林秀雄賞)、『日本辺境論』(2010年新書大賞)
経歴[編集]
東京都大田区下丸子に生まれ育つ(父親は19歳で家を出て満鉄に入社[1]。戦時中は政府機関に所属した。戦後、サラリーマンを経て会社を経営し、日中友好協会に関わった)。1963大田区立東調布第三小学校を、1967大田区立矢口中学校卒業1966東京都立日比谷高等学校に進むが、高校2年で成績が学年最下位になり、のち品行不良を理由に退学処分を受け、ジャズ喫茶でアルバイトをする。しかし家賃も捻出できず、親に謝罪し家に戻った。
大学入学資格検定に合格。1969東京大学入試中止の年に京都大学法学部を受験するも不合格。1年間の浪人生活を経て、19704月、東京大学文科III入学19753月、文学部仏文科を卒業。指導教官は菅野昭正
大学時代、畏友竹信悦夫から多大な影響を受けてレヴィナスの研究を志す。東京都立大学大学院に進む。大学院生時代には友人の平川克美とともに学習塾を経営した。1977年、平川を社長とし自身は取締役として翻訳会社「アーバン・トランスレーション」を設立[2]1980、東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。指導教官は足立和浩修士論文モーリス・ブランショ[3]19824月、東京都立大学人文科学研究科博士課程を中退し、東京都立大学人文学部助手となる。1989、一人娘の内田るん[ 1]をひきとって最初の妻(元岐阜県知事・元衆議院議員の平野三郎の娘)と離婚した[ 2]1990から神戸女学院大学文学部助教授[4]。同・総合文化学科教授。
2009大倉流小鼓能楽師高橋奈王子と再婚[5]。同年11月、『日本辺境論』(新潮新書)を刊行。コラムニストの加藤嘉一によると、現代日本人を理解するテキストとして、中国の大学では、ルース・ベネディクト著『菊と刀』とともに『日本辺境論』が親しまれているという[6][ 3]。同書は20102月に第3新書大賞を受賞し、1年弱の間に30万部を突破した[7]20107月から201211月まで平松邦夫大阪市長のもとで特別顧問に就任[8]
20113月、神戸女学院大学教授を退職。同大学名誉教授合気道7段、居合道三段、杖道三段の武道家でもあり、同大学の合気道部顧問を務める。同年4月、第3伊丹十三賞を受賞[9]。同年11月、東灘区JR住吉駅前に道場兼能舞台の「凱風館」が完成した[ 4]20154月、京都精華大学人文学部客員教授に就任した[11][12]
思想[編集]
政治的な立場[編集]
自由民主党公明党による連立政権である安倍内閣に対して、独裁[13]という強い表現を使って反対の立場を表明している。『しんぶん赤旗』のインタビューで、「共産党に期待することは、マルクスの教えのもっとも本質的なところ、すなわち『ものごとを根底的にとらえる』という意味でラディカルな政党であってほしいということです」と述べている[14]
護憲派としての側面[編集]
護憲派である。「『憲法九条自衛隊 この『双子的制度』は、アメリカのイニシアティヴのもとに戦後日本社会が狡知をこらして作り上げた『歴史上もっとも巧妙な政治的妥協』の一つである」「憲法九条と自衛隊がリアルに拮抗している限り、日本は世界でも例外的に安全な国でいられると私は信じている」と述べている[15]。共著に『9条どうでしょう』(毎日新聞社)がある。
すばる20071月号で高橋源一郎矢作俊彦と対談した際、矢作の「有事に現自衛隊法では自衛隊員は銃を撃つこともできない、こういった「あいまいさ」は関東軍と同様で危険だ」という意見に対し、「日本人は原理原則が行動原理ではないので、憲法もあいまいなままでよい」と主張した。
保守的側面[編集]
初期の著作より一貫して、自身の経験とレヴィナスの思想をもとにマルクス主義批判(マルクス批判ではない)、学生運動批判、フェミニズム主義批判(フェミニズム批判ではない)を行なっている。『敗戦後論』を巡る中道派の加藤典洋左派高橋哲哉との論争に関して、加藤に対するシンパシーを、一方高橋に対しては強い違和感を表明している。ただし、『諸君!』、『正論』やネット右翼に対しては批判的である[ 5]
教育問題における立場[編集]
教育/学習については、その効果は予見的に測定不可能である、との立場をとっている。「事後的に有用性が明らかになるモノを先見的に拾っておく」感性について繰り返し述べており、「その教育/学習はどのような効果が見込まれるのか」という問いを厳しく批判している。この観点から、アウトプットの定量を要求する経営主義的な学校運営に反対している。
教育行政については、一貫して政治や政治家は教育に関わるべきではないとする立場をとっている。学校教育という制度が、非常に惰性の強い制度であって、急激な変更はなじまないと考えている。つまり、政治家が替わるごとに教育に急激な変化が起こるのは、決して良いものではないという考えである。たとえば、大阪市長特別顧問に就任した際の記者会見において、平松市長に対してこう述べている。「私が市長にお願いしたいことが一つあります。一つだけです。それは地方自治体の首長は教育行政に関与して欲しくないということです」[17]。この政治が教育行政に関わりすぎるべきではないという点において、大阪維新の会の教育政策には批判的である[ 6]
公立中学校での武道の必修化について
公立中学校での武道の必修化については、内田樹は反対の立場である[18]。なぜなら、その目的が礼節や愛国心を身につけるためという功利的なものだからである。礼儀正しく振る舞うのは、手段であり目的ではない。したがって、武道の必修化では手段と目的が逆転しており、武道に対する敬意を欠いている、と主張する。
愛国心及び君が代起立問題[編集]
国家は私事であり擬制であるという意味で幻想である、という考えである[19]。本質的に恣意的な構築物である国家に服従を強制すべきできないと考えている。その恣意的な「つくりもの」の国家を遠い昔からそこにあった自然物のように敬うことができるというのは、市民的成熟の一つであるとする。そのため、国旗国歌に対して敬意を抱けない人間は、ただ市民的未成熟の段階にあり、彼らに起立などを強制し、それに反するものは処罰をするということに反対している[19]
格差社会論批判[編集]
格差社会論を一貫して批判し続けている。格差社会は裏返せば拝金主義であり、金のことなど気にしなければ良い、と主張している[20]
特に内田が問題視するのは朝日新聞の「ロスト・ジェネレーション」論を始めとする、「ロスト・ジェネレーション」と「団塊の世代」の世代間格差を問題視する論であり、内田は格差社会論は全てこのような「資源の不当な収奪への異議申し立て」であると定義し[ 7]、こうした議論については徹底的な批判を加えている。その論法は教育論におけるそれと同様、「ロスト・ジェネレーション」の内面が「ロスト・ジェネレーション」の問題を創り出しているというものである[22]
学力低下論[編集]
同学齢集団内の競争というシステムが、「他人のパフォーマンスを下げる」という相対優位の戦略を取らせると主張している。学力低下問題では、大学の入学定員の多さが学力低下の一因であるという指摘を認めず、逆に「大学教育によって高校までの教育の不完全さを補っているのだ」との論陣を張った[23]。教育問題については、以前は現場の教員の指導能力に教育問題の元凶を求める論調が強かった。しかし、講演会などを通して、現場の教員との交流が始まった後は、むしろ教育行政や保護者・児童・生徒の教育観を問題視する立場にシフトしている。教育行政がリアリスティックに「勉強すれば金になる」というイデオロギーによって政策を決定し、それを親も教師もメディアも政治家も賛同しているからであると主張する[ 8]。安倍政権が成立させた教育関連三法案には、断固反対の態度を貫いた。また、中央教育審議会文部科学省の施策には、批判的ことが多い。
「地球温暖化で何か問題でも?」[編集]
地球温暖化問題については、池田清彦の説に依拠し、大気中の二酸化炭素濃度上昇と温暖化の関係は実証されていないと考えている。そして、やがて地球は再び氷河期に向かうのでそれほど怯えていない、という意味のことをブログで述べている。現在の温暖化問題は、「現状と違うこと」が起こると困る「政府」が必要以上に騒いでいるだけかもしれない、と主張している[25]
ナイアガラー[編集]
大滝詠一を知ったのは、19763月、スキー旅行の夜だったという。仲間のひとりが「麻雀のテーマソング」としてカセットに入れていた「楽しい夜更し」に衝撃を受ける(「楽しい夜更し」は19755月発売のアルバム『NIAGARA MOON』に収録された楽曲)。以後、ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』の熱心なリスナーとなる[26][27][28]。ブログ開設間もない頃から大滝に対する信仰告白を幾度となく行っている[ 9]。内田は「ナイアガラー」(大滝詠一の信奉者)の語義を次のように説明している。「『ナイアガラー』というのは、大瀧詠一さんが実践してきた音楽活動(には限定されないもろもろの活動)をフォローすることを人生の一大欣快事とする人々の総称です。」「ナイアガラーは『日本のフリーメーソン』であるから、どこで知り合っても『私、ナイアガラーなんです』とカミングアウトすればたちまち百年来の知己となることができる。これは他のミュージシャンにはあまりないことである。」[29][30]
2005819日に大滝と初めて会う[31]。このとき行われた対談は『文藝別冊 KAWADE夢ムック 大瀧詠一』(河出書房新社、200511月)に収録された。2008年から2012年までの間、「ラジオデイズ」のオーディオ・コンテンツとして大滝との座談会を平川克美らと共に計5回行う。
ブログ[編集]
「内田樹の研究室」というブログを運営している。著書の多くは、このブログのテキストを編集者がテーマ別に編集したものである。
ためらいの倫理学』など初期の著作は、ブログに移行する前にサイト(1998年開設)に掲載された文章が収録されている。『ためらいの倫理学』は、編集者(冬弓舎の内浦亨)が内田のサイトのテキストを発見したことから刊行された(初版は1200部であった)。
かつてブログにはコメント機能が設けられていた。しばしば主張への批判や反論が書き込まれていたが、本人からの反批判や再反論は少なかった。これについて内田は、「どちらが正しいかは読んだ人の判断に任せる」との立場を取っていた[ 10]
内田の著書の多くは、ブログの再編集により成り立っているため、類似のエピソードないしは同じ主張が複数の本に採録されている。内田は、このことについて、名人落語家の十八番(5代目古今亭志ん生の「火焔太鼓」)のようなものと主張している[33]。特に映画『エイリアン』についてフェミニズム論、映画論などテーマを変えて何度も論じているが、これも火焔太鼓のようなものと述べている[34]
「書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうこと」との考えから、ネット上での公開物については「著作権放棄」の考えを示しており、剽窃での出版すら容認する発言をしている[35]これはロラン・バルトの「作者の死」に着想を得ていると思われる[36]。一方、講演については謝礼が必要(ノーギャラは仕事の価値を認めていない)としている[37]


徹宗(しゃく てっしゅう、1961 - )は、日本宗教学者浄土真宗本願寺派如来寺住職相愛大学人文学部教授[1]特定非営利活動法人リライフ代表。専門は比較宗教思想[2]・人間学。[要出典]
来歴・人物[編集]
大阪府池田市出身。大阪府立大学大学院人間文化研究科比較文化専攻博士課程修了。その後、如来寺住職の傍ら、龍谷大学文学部非常勤講師、兵庫大学生涯福祉学部教授を経て、現職[3]。その他にはNPO法人リライフ代表も務める。内田樹と親しく、共著を多く出している。
2012から開催されている釜ヶ崎芸術大学で講師を務める[4]
論文『不干斎ハビアン論』で第5回涙骨賞



コメント

このブログの人気の投稿

大戦秘史 リーツェンの桜 肥沼信次  舘澤貢次  2012.10.13.

昭(あき)―田中角栄と生きた女  佐藤あつ子  2012.7.14.

ヴェルサイユの女たち 愛と欲望の歴史  Alain Baraton  2013.9.26.