劉邦  宮城谷昌光  2016.1.10.

2016.1.10. 劉邦 上中下

著者 宮城谷昌光 1945年愛知県蒲郡市生まれ。早大文卒。出版社勤務の傍ら立原正秋に師事、創作を始める。『天空の舟』(01年、新田次郎文学賞)、『夏姫春秋』(91年、直木賞)、『重耳』(93年、芸術選奨文部大臣賞、00年司馬遼太郎賞)、『子産』(01年、吉川英治文学賞、04年菊池寛賞)06年紫綬褒章

発行日           2015.5.5. 印刷                 5.20. 発行
発行所           毎日新聞出版

初出 毎日新聞(2013.7.21.2014.1.31.連載)

上巻
始皇帝が天下の方士(方術の士:医術、占星術、卜占(ぼくせん)術、手相・人相の術)をことごとく集めて、本来彼らの知識を内政や軍事に活かすべきところを、不老不死の薬を探させた
探索の過程で、秦を滅ぼすものは北方の異民族の胡族で、いつか長城を踰えて秦王朝を滅ぼし、その後天子として立つものが東南に現れるという予言書を持ち帰る
方士の1人である石公が、東南で天子が放つという五彩の気を見つけたのが劉邦。時に47歳。その地方の警察署長になってから14年、中央政府の転覆をたくらむ族の征伐を命じられていた
間もなく始皇帝が死去、後を継いだのが長子の扶蘇ではなく、末子の胡亥(こがい)
皇帝の墓所建設のための人夫を連れて現場に向かうが、脱走者が出たため打ち首の処分を逃れるため、劉邦も10人余りの部下とともに署長の身分を放って逃走
楚の国の再興を目指す反乱軍の快進撃に恐れをなした沛県が、劉邦を赦免して盾にしようと考える。劉邦は一味を連れて沛県に戻り、民衆の支持を得て県令に代わって沛公となり(沛県の令はすべて「沛公」と呼ばれるが、後世「沛公」といえば劉邦のことを指すようになった)、独立国として行政を始める

中巻
次々に周囲の地域を平定するが、その際、秦の任命したトップだけを殺害し、配下の者は故郷に戻るも、沛公に帰順するのも自由にさせたため、次々に沛公の軍に参加
勢いを取り戻した秦軍に反乱軍が平定されるとともに、沛公も初めて一敗地に塗れるが、やがて挽回して勢力を広げる
若いころ兄や嫂(あによめ)に冷たくされた劉邦は、儒教で言うところの仁を信じないで、むしろ他人の労りに触れたところから、義を重んじるようになった
新勢力として楚の貴門に生まれた項羽が登場、大勢力を率いて秦に対抗
劉邦も、ともに秦を討とうと、項羽の陣営に加わるが、初対面の劉邦は、項羽のことを陰気な男だなと感じる
劉邦が戦った相手にも仁をもって対したのに比べ、項羽は戦闘に入ると人が変わったように狂暴となり理性という制御装置が働かなくなってよく人を殺す。項羽は常に戦う人で、治める人ではない
劉邦も、古典に学ばなかったが、項羽も文字は自分の名前が書ければ十分で、剣術も一人の敵を相手にするだけなので不要、兵法を学びたいからといっても学びぬくことなく途中で分かったとして奥儀を極めようとしない
孫子の末裔の書いた兵法書に、「信(しん)なるものは昌(さかん)となる」とあるが、劉邦軍の強さはこの信があったから
劉邦軍は、進撃する途中でいろいろな才能と兵を拾得して、質を高め、量を大きくしていったが、これこそ諸将の中で劉邦の評判が抜きんでていた証左であり、彼らが後の平定後の劉邦の執政を支えた
劉邦は、項羽とともに新たに楚王朝の復活を期す伯父・項梁の配下に入って秦軍を追うが、途中で章邯に率いられた秦の逆襲に会って項梁が死去
秦軍はその勢いをかって趙を攻撃、趙から援軍を求められた楚王は、援軍を送る一方で、主力軍のいない秦の都・関中を突くことを考え、成功した暁には関中の王にするといって募ったところ、劉邦が手を挙げる。項羽も劉邦に従おうとしたが、楚王から止められ憤慨、楚軍の将を殺害して自ら将に任じられる

下巻
項羽は、劣勢の勢力で大軍の秦に立ち向かい、奇蹟的に勝利を挙げ、楚王の命に背いて函谷関経由で秦の首都に攻め込もうとする
劉邦は、項羽との直接対決を避けるべく、様子を見ながら進軍
劉邦軍は、秦軍の守りがより手薄な武関経由で、項羽より先に関中に入りこむことに成功、そのまま居座って覇を唱え、同時に函谷関を閉じたため、それを聞いた項羽は激怒
項羽の大軍にはかなわないと見た劉邦が、項羽のいた鴻門に詫びを入れに行ったのが「鴻門の会」
劉邦に野心がないと確信した項羽に対し、劉邦の野心を見抜いていた老軍師の范増が歓迎の宴席での劉邦殺害を示唆する。劉邦は、范増の企みを間一髪のところで逃れる
関中に入った項羽は、財宝と婦女を車で運び出し、すべての宮殿に火を放つ
関中の王となった項羽は、范増の進言もあって劉邦を流刑者の郡に加えて漢中の王に封じたので、以後劉邦は漢王となる
劉邦は、焼き払われた関中を目指して進撃を開始、項羽が去った後にいた秦の残党を討伐する形で関中に入ることに成功
遂に項羽に追いつかれた劉邦は一敗地に塗れ逃走するが、それを救ったのが韓信の背水の陣。川を背にして布陣、攻めてくる趙の大軍を撃破し、戦局を逆転する
l  借箸籌策(しゃくちょちゅうさく)  箸を借りて諫め説くこと。逆転に気をよくした劉邦が、自軍に降っていた滅ぼされた国の後裔を探し出して王位につければ皆劉邦に従うという需者の進言を入れようとしたときに、張良が劉邦の箸を借りて、今自軍にいて劉邦に従っているのは領地がほしいだけなので、王位に就いた者はすぐにより強い王に従うことになるので、それが愚策であることを説明した故事による
l  骸骨を賜いて、卒伍に帰る  心身を預けたが、その骨を抱いて、ただの一兵卒に戻るということで、辞職願。項羽が劉邦の策略に嵌って、范増が寝返ったと疑ったため、范増が項羽を見限って戦列を離れた時の言葉
項羽と劉邦が対峙して、何度も漢と楚の間で争奪を繰り返したのが榮陽の地
次第に形勢が逆転して、劉邦は項羽を追い詰めていく
項羽は、周囲の敵兵から流れてくる楚の歌を聴いて、劉邦の漢軍に周りを囲まれたことを悟る  後の世で「四面楚歌」といわれるが、10万の項羽の大軍がすべてを取り囲まれることはありえず、だいぶ誇張がある
項羽は、70余戦闘って初めて敗退、軍を捨てて逃走の上、最後は自刃して果てる
劉邦は、諸侯・諸将に推される形で皇帝となり、最初は首都を洛陽に置き、やがて関中の長安に移る





2015.9.6. 朝日
劉邦(上・中・下) [著]宮城谷昌光
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果敢に動き決断、辛労分かち成長

 人は置かれた環境から多大な影響を受ける。同じく「百金を盗んだ」二人がいても、環境の違いにより一人は死刑になり、一人は無罪になる。生き生きとした歴史小説の叙述に、時代への深い洞察が必須である理由がここにある。
 宮城谷昌光は、古代中国を描ける稀有(けう)な書き手である。かつて『重耳(ちょうじ)』を読んだ時、私は感動して呻(うめ)いた。そこには春秋という時代がみごとにあり、時代に根ざした人物があった。以来、私は愛読者の一人となり、安んじて宮城谷の世界に遊ばせてもらっている。
 本書の主人公の劉邦は現在の江蘇省徐州市豊県に生まれ、若き日は侠客(きょうかく)として生きた。時は秦の始皇が中国を統一し、苛烈(かれつ)な政を布(し)いていた頃。縁あって沛(はい)県・泗水(しすい)の亭長(警察分署長)に納まったが、下級官吏に過ぎなかった。
 やがて始皇帝が没し世が乱れると、40代半ばを過ぎた劉邦がようやく歴史に登場してくる。彼は沛県の県令となって地域をまとめ、反乱軍に加わった。彼とその仲間たちは失敗を繰り返しながら、次第に軍政に習熟していく。反秦勢力の中で頭角を現し、勇将・項羽と競いながら、ついには秦の本拠である関中を占拠した。
 殊功を挙げた劉邦だが、いったんは左遷されて西方の漢中王に任じられる。だが、そこから東進。英布や彭越(ほうえつ)ら外様の勢力を味方に付けながら項羽を追い詰める。そしてついに垓下(がいか)の戦いで項羽を滅ぼし、漢帝国の皇帝に即位する。
 本書があまり重視しない将軍・韓信がいう。私には兵を率いる才がある。兵は多いほどいい。陛下(劉邦)は十万の兵の将がせいぜいである。だが陛下は「将に将たる」才能をもつ。だから天下が取れたのだ、と。つまり劉邦は良く言えば大器であるが、ありていにいうなら、軍事の才に乏しい。
 劉邦と項羽の戦いは、これまで何度も小説に描かれてきた。その際、劉邦像の基軸となったのが、この韓信による評価である。卓越した軍才を顕(あらわ)す項羽に対し、劉邦は凡庸である。周囲に奉られる人であり、受け身の人にすぎない。しかし、本書は全く異なる。
 「宮城谷」劉邦は、果敢に動く。自ら考え、決断する。沛や豊など郷里の友や配下と手を携え、少しずつだがともに成長していく。
 「狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる」。劉邦には功臣粛清のイメージがつきまとうが、その理解は一面的にすぎる。蕭何(しょうか)も曹参(そうさん)も樊かい(はんかい)も周勃(しゅうぼつ)も、古く劉邦と辛労を分かち合った人々は、漢で重きを成した。憎んで余りある雍歯(ようし)でさえ許された。
 劉邦とその仲間たち。時宜を得なければ一地方に逼塞(ひっそく)して終わったであろう人々の大いなる飛翔(ひしょう)を描く本書は、人間のもつ可能性を、高らかに歌いあげている。
    
 毎日新聞出版・各1728円/みやぎたに・まさみつ 45年生まれ。出版社勤務のかたわら創作を始め、『天空の舟』で新田次郎文学賞、『夏姫春秋』で直木賞、『重耳』で芸術選奨文部大臣賞。ほかに『奇貨居くべし』『三国志』など著書多数。



Wikipedia
(りゅう ほう、簡体字: 邦、拼音: Liú Bāng)は、前漢の初代皇帝
沛県の亭長(亭とは当時一定距離ごとに置かれていた宿舎のこと)であったが、反秦連合に参加した後にの都咸陽を陥落させ、一時は関中を支配下に入れた。その後項羽によって西方の漢中へ左遷され漢王となる。その後に東進して垓下に項羽を討ち、前漢を興した。正式には廟号が太祖、諡号が高皇帝であるが、通常は高祖と呼ばれることが多い。
生涯[編集]

出生[編集]

沛県郡豊県中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については2説ある。
劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。また、の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢荀悦漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している。[3]出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである。[4]
劉邦の容姿は鼻が高く、立派な髭をしており、いわゆる龍顔、顔が長くて鼻が突き出ている顔をしていたという。また太股に72の黒子があった、72とは1360日を五行思想5で割った数で、当時ではかなりの吉数である。

任侠生活[編集]

反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就任したが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかし何故か人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になったと伝えられる。またこの任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。
ある時に劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て、「ああ、男たる者、ああ成らなくてはいかんな」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに発した「あいつに取って代わってやる」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。
あるとき、単父(山東省)の人・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。あまりの金額に驚いた呂公は慌てて門まで劉邦を迎えて、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉である。
妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。ある時、呂雉が田の草取りをしていた所、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることができない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。『史記』には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は、漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。

反秦連合へ[編集]

陳勝・呉広の乱と挙兵[編集]

ある時、劉邦は亭長の役目を授かり、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡し、やけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がし、自らも一緒に行くあてのない人夫らと共に沼沢へ隠れた。
紀元前209陳勝・呉広の乱が発生し反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何曹参が「県令では誰も従わない、人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。劉邦は一計を案じてに書いた手紙を城の中に投げ込んだ(中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守った所で、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物(劉邦自身のこと)を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに答えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れた。しかし、劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退した。しかし、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。
この時劉邦が集めた兵力は23千という所で、配下には蕭何・曹参の他に犬肉業者をやっていた義弟の樊噲、劉邦の幼馴染で同日に生まれた盧綰、県の厩舎係をやっていた夏侯嬰、機織業者の周勃などがいた。
この軍団で周辺の県を攻めに行き、豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧の地に割拠していた魏咎の武将の周芾に誘いをかけられて寝返ってしまった。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した旧公族系の景駒甯君秦嘉という者に代わりの王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った。
紀元前208、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(トウ、現在の安徽省碭山。碭は石偏に昜)を攻めてこれを落とし、ここにいた56千の兵を合わせ、更に下邑(河南省鹿邑)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めて、やっとの思いで豊を陥落して雍歯は武臣を頼って逃れた
豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる。
その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁が新たな反秦軍の頭領となって、旧懐王の孫を連れてきて楚王の位に即け、祖父と同じく懐王と呼ばせた(後に項羽より義帝の称号を送られる)。劉邦は項梁の勢力下に入り、項梁の甥である項羽と共に秦軍と戦う。
項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じてを攻め、趙王の居城鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者をその地の王とするだろう」と約束した。
趙へ向かった項羽は、途中で行軍を意図的に遅らせていた宋義を殺して自ら総指揮官となり、渡河した後に船を全て沈めて3日分の兵糧を配ると残りの物資を破棄し、退路を断って兵士たちを死に物狂いで戦わせるという凄まじい戦術で秦軍を撃破、一気にその勇名を高めた。しかしその後、咸陽へ進軍する途中で秦の捕虜20万を生き埋めにするという、これも凄まじい虐殺を行う。このことは後の楚漢戦争でも項羽の悪評として人々の心に残り、多大な影響をもたらすことになる。

関中入り[編集]

劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、道々苦戦しながら高陽(河南省杞県)という所まで来た。ここで劉邦は儒者酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた。酈食其は「近くの陳留は交通の要所で食料が蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているので、降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の城主は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、開封を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける。
更に南陽を攻略し、この城主が逃げ込んだ宛(河南省南陽)を包囲、降伏させると、秦の領域へ近づいていった。この侵攻の際、劉邦は陳留のように降伏を認め、降伏した場合は城主をそのままの地位に任命したため無駄な戦闘はしておらず、その進軍は項羽よりも早かった。そしていよいよ、関中の南の関門である武関に迫った。
この頃、趙で項羽が秦軍の主力を撃破し、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、二世皇帝を傀儡として宦官趙高が専権を奮っていたが、この敗戦がばれれば自分が責任を取らされると考え、二世皇帝を殺し、紀元前207になってから劉邦に対して関中を二分して王になろうという密書を送ってきた。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを突破した。この後、趙高は王に建てようとしていた子嬰におびき出されて逆に殺されている。
続く嶢関は、秦最後の砦のため決死の兵が守っていたが、守将が商人出身であり計算高いことを利用した張良の策により、大量の旗を重ねて大軍のように見せかけておいて、降るように誘った。この策は成功し、守将は降ることを約束したが、張良は兵達は決死なので降ることはないと察しており、あくまで油断させるためのものだった。劉邦の軍は砦に入るや否や、守備隊の不意をついて攻めかかって制圧し、嶢関を突破した。こうして劉邦軍は関中に入る。もはや阻むものはなく、秦都・咸陽は目前となった。
秦王子嬰は、覇上にまで迫っていた劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦はこれを許した。
咸陽に入城した劉邦は宮殿の中の女と財宝に目がくらみ、ここに留まって楽しみたいと思ったが、樊噲と張良に諫められ、覇上へ引き上げた。田舎の遊び人だった劉邦にとって、咸陽の財宝と後宮の女達は極楽にさえ思われただろうが、部下に諌められると一切手を出さなかった。こうした諌言を聞き入れる劉邦の度量と配下への信頼は、項羽と対照的であり、その後の天下統一にも非常に大きな作用をもたらすことになる。ちなみにこの時、蕭何は秦の文書殿に入って法令などの書物を全て持ち帰っている。これがその後の漢王朝の法の制定などに役立ったと言われている。

漢王劉邦[編集]

覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて法三章を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された)を「人を殺せば死刑。人を傷つけたものは処罰。人の物を盗んだものは処罰」の3条のみに改めたものである。この施策によって関中における劉邦の人気は一気に高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。
その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は秦の主力軍を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。項羽は関中に入り、先の激怒と軍師范増の進言もあって、40万の軍で攻めて劉邦を滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言したので、項羽はますます激怒した。
項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険があったが、張良や樊噲の働きにより虎口を脱した。項羽は劉邦を討つ気が失せ、また弁明を受け入れたことで討つ名目も失った。これが鴻門の会である。陣中に戻った劉邦は、まず裏切者の曹無傷を処刑してその首を陣門に晒した。
その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4千人を皆殺しにし、宝物を持ち帰り、華麗な宮殿を焼き払い、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。劉邦の寛大さと対照的なこれらの行いは、特に関中の人民から嫌悪され、人心が項羽から離れて劉邦に集まる一因となっている。
項羽は彭城に戻って西楚の覇王を名乗り、名目上の王である懐王を義帝と祭り上げて辺境に流し、その途上でこれを殺した。紀元前206、項羽は諸侯に対して封建(領地分配)を行う。しかしこの封建は非常に不公平なもので、その基準は功績ではなく、項羽との関係が良いか悪いかに拠っていたため多くの不満を買い、すぐ後に次々と反乱が起きるようになる。劉邦にも約束の関中の地ではなく、その西側の一地方であり奥地・辺境である漢中及び巴蜀が与えられた。劉邦を「左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になったと言われている(もっとも当時において、「関中」には単に関中盆地のみを指す場合と統一以前の秦の領土全域を指す用法があって、両方の用法が併用されていた。つまり後者の用法に従えば、関中を与えるという約束が果たされたと言えなくもない)。さらに劉邦の東進を阻止するために、関中は章邯ら旧秦軍の将軍3人に分割して与えられた。
当時の漢中は、流刑地とされるほどの非常な辺境であった。そこへ行くにはの桟道と呼ばれる人一人がやっと通れるような道があるだけで、劉邦が連れていた3万の兵士は途中で多くが逃げ出し、残った兵士も東に帰りたいと望んでいた。

漢楚戦争[編集]

項羽との対決[編集]

この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。
そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた田栄を討伐に向かった。
それを見た劉邦は、桟道以前に使われていた旧道を通って関中に出撃し、一気に章邯らを破って関中を手に入れ、ここに社稷を建てた。
一方、遠征先の斉でも、項羽は相変わらず城を落とすたびにその住民を皆殺しにする蛮行を繰り返したため、斉の人々は頑強に抵抗した。このため項羽は斉攻略にかかりきりになり、その隙に乗じた劉邦はさらに東へと軍を進め、途中の王たちを恭順・征服しながら項羽の本拠地・彭城を目指した。

大敗[編集]

紀元前205、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという(彭城の戦い)。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。
劉邦は息子の劉盈(恵帝)と娘(魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。
劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、随何に命じて英布を味方に引き込もうと画策し、これに成功した。しかし英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦の元へと落ち延びてきた。劉邦は道々兵を集めながら軍を滎陽(河南省滎陽)に集め、周囲に甬道(壁に囲まれた道)を築いて食料を運び込ませ、篭城の用意を整えた。この時期、劉邦の幕僚に謀略家・陳平が加わっている。
その一方、別働隊に韓信を派遣し、魏・趙を攻めさせて項羽を背後から牽制しようとした。また元盗賊の彭越を使い、項羽軍の背後を襲わせた。
紀元前204、楚軍の攻撃は激しく、甬道も破壊されて漢軍の食料は日に日に窮乏してきた。ここで陳平は項羽軍に離間の計を仕掛け、項羽とその部下の范増鍾離昧との間を裂くことに成功する。范増は軍を引退して故郷に帰る途中、怒りの余り、背中にできものを生じて死亡した。
離間の計は成功したものの、漢の食糧不足は明らかであり、将軍の紀信を偽の劉邦に仕立てて項羽に降伏させ、その隙を狙って劉邦本人は西へ脱出した。その後、滎陽は御史大夫周苛が守り、しばらく持ちこたえたものの、項羽によって落とされた。
西へ逃れた劉邦は関中にいる蕭何の元へ戻り、蕭何が用意した兵士を連れて滎陽を救援しようとした。しかし袁生が、真正面から戦ってもこれまでと同じことになる、南の武関から出陣して項羽をおびき寄せる方がいいと進言した。劉邦はこれに従って南の宛に入り、思惑通り項羽はそちらへ向かった。そこで項羽の後ろで彭越を策動させると、こらえ性のない項羽は再び軍を引き返して彭越を攻め、その間に、劉邦も引き返してくる項羽とまともに戦いたくないので、北に移動して成皋(河南省氾水)へと入った。項羽は戻ってきてこの城を囲み、劉邦は支えきれずに退却した。
夏侯嬰のみを供として敗走していた劉邦は、韓信軍が駐屯していた修武(河南省獲嘉)へ行って、韓信が陣中で寝ているところに入り込み、韓信の軍隊を取り上げた。更に劉邦は韓信に対して斉を攻めることを命じ、曹参と灌嬰を韓信の指揮下とした。また盧綰と従兄弟の劉賈には項羽の本拠地である楚へ派遣し後方撹乱を行わせた。
韓信はその軍事的才能を遺憾なく発揮し、斉をあっさりと下し、楚から来た20万の軍勢と龍且をも打ち破った。ただ斉を攻める際に手違いがあり、斉に漢との同盟を説きに行った酈食其が殺されるということが起きている。

再び敗れる[編集]

紀元前203、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。
その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒げそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に任命した。
漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎打ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを受けなかった。そこで項羽はの上手い者を伏兵にして劉邦を狙撃させ、矢の一本が胸に命中した劉邦は大怪我をした。これを味方が知れば全軍が崩壊する危険があると考え、劉邦はとっさに足をさすり、「奴め、俺の指に当ておった」と言った。その後劉邦は重傷のため床に伏せたが、張良は劉邦を無理に立たせて軍中を回らせ、兵士の動揺を収めた。
一方、彭越の後方攪乱によって楚軍の食料は少なくなっていた。もはや漢も楚も疲れ果て、天下を半分に分けることを決めて講和した。この時、劉太公と呂雉は劉邦の下に戻ってきている。

天下統一[編集]

項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めるよう進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。
劉邦は同時に、韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。
追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡することを潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦は、いまだ抵抗していたを下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。
紀元前202、劉邦は群臣の薦めを受けて、ついに皇帝に即位した。
論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資がなければとっくの昔に滅び去っていたことを知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じた。張良にも3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って魏咎に就くなど、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、功こそあれど劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を真っ先に什方侯にした。これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。
劉邦は最初洛陽を首都にしようと考えたが、劉敬長安を首都にする利点を説き、張良もその意見に賛同すると、すぐさま長安に行幸し首都に定めた。
劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「皆、わしが天下を取って、項羽が敗れた理由を言ってみなさい」と言った。これに答えて高起王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があったものには惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。
劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決することではわしは張良に及ばない。民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させることではわしは蕭何に及ばない。軍を率いて戦いに勝つことではわしは韓信に及ばない。だが、わしはこの三人の英傑を見事に使いこなした。反対に項羽は范増一人すら使いこなせなかった。これがわしが天下を取った理由だ」と答え、その答えに群臣は敬服した。

粛清[編集]

その年の7月、臧荼が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。
ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離昧の首を持参した韓信がやって来た所を虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。
翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。翌紀元前200、匈奴の冒頓単于を討つために更に北へ軍を動かした。しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の妃に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしないことにした。
紀元前196、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。この時劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺されたことを聞かされるとこれを悲しんだ。
同年、彭越は捕らえられて蜀に流される所を呂雉の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。劉邦はこの時体調が良くなく太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で故郷の沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。
大風起こりて雲飛揚す(大風起兮雲飛揚)
威海内に加わりて故郷に帰る(威加海内兮歸故鄕)
いずくむぞ猛士を得て四方を守らしめん(安得猛士兮守四方)
そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。
しかし英布戦で受けた矢傷が元で、更に病状が悪化し、翌紀元前195に呂雉に対して、今後誰を丞相とするべきかの人事策を言い残して死去した。
この際、自らの死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言い、更に何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。果たしてこの遺言は、のちにすべて的中することになる。劉邦の人物眼の確かさが伺われる。
死後、太子が即位して恵帝となったが、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく呂氏の時代がやって来た。しかし呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、文帝が迎えられ、文景の治の繁栄がやってくる。
その他[編集]

劉邦の影響[編集]

史上初めての皇帝・始皇帝は以後の中国にとって悪例として残り、その後の混乱を収めた劉邦は好例として「皇帝(英雄)とはかくあるべき」という理想を、後世の多くの人々の心に形作ることになる。例えば朱元璋李善長より「高祖のごとくすれば、天下はあなたのものになる」と進言され、これを受け入れている。
特に劉邦と張良の関係に代表される、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させる点は、後の世にもたびたび引き合いに出された。

劉邦に関する著述[編集]

劉邦に関する典籍は、司馬遷の『史記』「高祖本紀」、班固の『漢書』「高帝紀」など。「高祖本紀」は、『史記』の第8巻。劉邦の出自から、末の動乱、楚漢戦争、前漢の初期の動き、劉邦の死までを描いている。
通俗本も多く、中国の古典小説『西漢演義伝』を元にした『通俗漢楚軍談』が江戸時代によく読まれた。

后妃と子女[編集]

  • 皇后 呂雉(のちに光武帝により皇后位・諡号を剥奪される)
  • 曹氏
  • 戚氏
  • 妾・皇太后 薄氏(子の即位により皇太后となる。また光武帝により皇后位・諡号を追贈される)
  • 趙氏
  • 生母の氏名が不詳の子
    • 劉恢(淮陽王梁王趙共王)
    • 劉友(河間王淮陽王趙幽王)
    • 劉建(燕霊王)
劉邦が登場する作品[編集]
戯曲
小説
漫画
映画
テレビドラマ
注釈[編集]
1.   ^ 史記』「巻八・高祖本紀第八」。
2.   ^ 漢書』「巻五・帝紀第五」。
3.   ^ 「邦」の語義は、元々「幇」(ピンイン“bāng”、意味は「兄貴」)という意味の一般名詞ではないかと推測されている(司馬遼太郎・佐竹靖彦の説)。ただし現在に伝わる「幇」という字の意味には「兄貴」は無い。
4.   ^ また父母の名前も「太公」はある程度年を取った男性の一般呼称であり、「媼」(は不詳)も同じくおばさんと言った程度の呼称、長兄の伯(伯は字)にしてもこれは長男を指すものに過ぎない。このことから、劉邦一家の本名は不明であり、司馬遷が『史記』を書く際に判らないので、思い切ってこのように簡単な名前を付けたという説もある。また、庶民においては、正式な名をつけず「劉家の長男坊=劉伯」や「劉家の末っ子=劉季」といった通称で足りていたと言う説もある。ただし、次兄の仲及び弟にはそれぞれ「喜」、「交」という名が伝わっており、一家全員の本名が不明なわけではない。また避諱のため故意に曖昧に記述したという説もある。



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