イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告  Hannah Arendt  2013.11.4.

2013.11.4.  イェルサレムのアイヒマン悪の陳腐さについての報告
Eichmann in Jerusalem  A Report on the Banality of Evil        1963,1965

著者 Hannah Arendt 190675。ハノーヴァー生まれ。マールブルク大でハイデッカーとブルトマンに、ハイデルベルク大でヤスパースに、フライブルク大でフッサールに学ぶ。28年ヤスパースの下で「アウグスティヌスにおける愛の概念」のテーマで学位取得。30年学術研究助成団体の補助金を受けて知的なユダヤ人女性で後期ロマン主義時代の代表的人物の1人と言えるラヘル・ファルンハーゲンの伝記的研究を行う(59年公刊)。ナツィの政権掌握の33年、ユダヤ人である彼女はパリに亡命し、著述を一切断念して実践活動に入り、シオニスト協会に加入。主としてユダヤ人少年少女のパレスティナへの移住のために働く。41年パリ陥落によりアメリカに亡命。プリンストン、シカゴ等の大学で講義しニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの教授を勤める。51年アメリカ市民権取得。52年にアメリカの「ナショナル・インスティテュート・オブ・アーツ・アンド・レターズ」の奨励金、59年にハンブルク市のレッシング賞、67年には西独文芸アカデミーのジークムント・フロイト賞を受賞。75年ニューヨークにて没

訳者 大久保和郎 192375年。東京生まれ。慶大文中退。独・仏文学専攻。

発行日           1969.9.20. 初版第1刷発行          1994.8.10. 新装第1刷発行
発行所           みすず書房

「この本は全体として思考の独立性の素晴らしい証言です。・・・・・彼女が哲学的にも思想的にも徹底した、アウグスティヌスの愛の概念についての研究で正学位を得たとき、それもまだごく若く、確か23歳だったと思いますが、教授資格を得るようにと人々は勧めました。それを彼女は拒絶した。彼女の本能は大学を拒んだ。彼女は自由でありたかったのだ。1931年に彼女は著述を一切放棄した。…・彼女はユダヤ人の目的のための実践活動に入り、シオニスト協会に加入した。・・・・・戦争中彼女は評論を書き始めました。大抵政治的なものです。戦後になって一作また一作と著書が現れた。…・彼女がそれによって生きる根本のものは、真理への意志、真の意味における人間的存在、幼年時代にまで見られる限りない誠実、そしてまた、逮捕(1933)と証券なしの国外移住の時に味わった極度の孤独の経験です。」ヤスパース、1965
ハンナ・アーレントは1906年生まれのユダヤ人。ヤスパースのほかに、ブルトマン、ハイデッカー、フッサールについて学んだ。亡きシモーヌ・ウェイユと並び、今日最も大きな知的影響力を持つ女性である

読者に           1964.6. ハンナ・アーレント
本書は1963.5.に初版を出した本の改訂増補版。『ザ・ニューヨーカー』誌のためにイェルサレムでアイヒマン裁判について取材を行ったが、その報告は最初632,3月にこの雑誌に掲載、執筆は62年の夏から秋で、ウェズリアン大学の高等研究所のフェローとして滞在していた時に完成
この本のために行った改訂は、技術的な誤りのみで、問題となっている時代の客観的な記録はその細部にわたってまではまだ完成されていない
初版の発行後に起こった論争を扱った「あとがき」を追加

第1章        法廷
審理はヘブライ語だが、すべての技術的な準備の再審査周到さに比べて、ドイツ生まれの人間の比率が高いこの国で、被告とその弁護士が理解し得る唯一の国語であるドイツ語の有能な通訳を見つけられなかったというのはちょっとした謎
我々はいかなる人種差別も行わないと豪語されたが、ユダヤ教の法律がユダヤ人市民の身分を定め、その結果ユダヤ人は非ユダヤ人との結婚を認められず、外国で行われた結婚は承認されはするが、通婚によって生まれた子は私生児(結婚していないユダヤ人を両親とする子は嫡出とされる)、非ユダヤ人を母とする子には法律上結婚も埋葬も認められない現実との矛盾は問われなかった
裁判は芝居に似ている ⇒ 特に見世物裁判の場合は、何が如何に行われたかを厳密に描き出すことが一層不可欠
検察側に関する限りは、この裁判の中心にあるのは「歴史」だった ⇒ 被告は、単に1人の個人でもナツィ体制でもなく、まさに歴史を貫く反ユダヤ人主義

第2章        被告
アイヒマンと妻、息子は、1960年ブエノスアイレス近郊で逮捕、空路イェルサレムに護送、61年同地地方裁判所で裁判にかけられる。起訴理由は15項に渡り、ユダヤ民族に対する罪、人道に対する罪、戦争犯罪を犯したとされ、告発は1950年のナツィ及びナツィ協力者処罰法に基づいて行われた
アイヒマンは、一貫してユダヤ人殺害への関与を否定、ユダヤ人の絶滅に「協力し幇助したこと」だけだと主張、あくまで合法な命令に従っただけだと主張
アイヒマンは、何人もの精神医学者が正常だと証言したように、法的にも道徳的にも狂人ではなかったし、狂信的反ユダヤ主義の持ち主でもなかった
ほら吹きは一貫して彼の最大の悪癖の1つだった ⇒ 尋問への回答が、党の公式非公式の記載事項と矛盾することになるのに気が付いていたにもかかわらず、虚飾が多い
継母の従兄がユダヤ人の娘と結婚、その伯父の伝手で正規の仕事についているが、身内にユダヤ人の居ることがユダヤ人を憎まない個人的な理由の1つで、伯父夫婦の娘のスイスへの移住許可取得に手を貸している
自身もユダヤ人に対する憎悪はなかったと長々と説明
ヴァキューム社での幸せな5年半の勤務の後、意に反してザルツブルクへの転勤を命じられ、その後解雇され、国家社会主義ドイツ労働者党に入党した直後、カルテンブルナー(後の国家公安本部RSHA長官)の勧めによりSS隊員となる ⇒ あらかじめ決意することもなく、党綱領も知らず、『我が闘争』を読んだこともないままになってしまった
父親同士が親しい間柄だったにもかかわらず、アイヒマンは明らかにカルテンブルナーから社会的劣位者として扱われていた
彼自身野心満々の青年で、自分の属する社会的階級からも自分の家庭からも、従って自分の目から見てもすでに失敗者としか見られぬ人間でも、初めからもう一度やり直して出世することができる「運動」に舞い上がった

第3章        ユダヤ人問題専門家
34年、アイヒマンが地位を得たSDは、ヒムラーによって党員をスパイするために新たに設立された党情報機関で、その後ゲシュタポの情報および調査の専門機関
1935年のニュールンベルク法の狙いは、ドイツとユダヤの両民族の間に我慢できる程度の関係が成り立ち得るような状態を作り出すことであって、ユダヤ人の政治上の権利を剥奪したが、市民ではなかったものの国籍は認められていた
3811月の水晶の夜によって初めて、「最終解決」への動きへと進む
383月、少尉に昇進するとともにウィーンに異動、ユダヤ人の強制移住計画の責任者となり、昇進を目指して夢中で努力した結果赫々たる成果を上げる ⇒ 組織能力と交渉能力に優れた才能を発揮、国外脱出しようにも手続的に障碍のあった状況を取り除くことによって、予想以上に大量のユダヤ人の国外移住が実現
検事にあらゆる努力にもかかわらず、この男が「怪物」でないことはだれの目にも明らか

第4章        1の解決――追放
ウィーンでの仕事が彼の出世の本当の始まりとなる ⇒ 3741年の間にSS少尉から中佐まで昇進したが、その後は釘づけにされた
最大の勝利を味わったのは、水晶の夜の後ユダヤ人がようやく本気になって国外脱出を思いつめた際、ナツィがベルリンにユダヤ人移住のための全国本部を設置することを決めたが、それに関する指令を与えた手紙には、アイヒマンのウィーン事務所が本部設置の際参考とすべき手本として挙げられている ⇒ その時ベルリンの全国本部長に抜擢されたのは、ソ連警察制度についての権威者として知られていたバイエルンの普通の警察官だったミューラーで、彼はアイヒマンのようにほら吹きの傾向はなく、戦後は完全に姿を消すことに成功。開戦直後にアイヒマンはベルリンに呼び戻されミューラーの後を継いだが、その時には海外でユダヤ人の移住を受け入れる国はなく、ポーランド占領によって大量に背負い込んだユダヤ人の処理も含め、移住はほとんど進まず

第5章        2の解決――強制収容
ナツィ政権が全体主義的な犯罪的な性格を示したのは、アイヒマンの所属していたSS公安部と、秘密国家警察(ゲシュタポ)を含む正規の国家公安警察との統合で、国家公安本部RSHAが生まれたときで、初代トップがハイトリッヒ、次いでカルテンブルナー
ユダヤ人に特定の土地を与えて、そこに閉じ込める計画はあったが、ポーランド総督に断りなしに進められたため挫折、代わって出てきたのがアイヒマンによる「マダガスカル計画」だったが、お互いの足の引っ張り合いから挫折
41.9.公安部長官だったハイトリッヒがボヘミア・モラヴィア保護領統監督に任命され、8週間内にユーデンライン(ユダヤ人の居ない地域)にすると約束、アイヒマンの助言を入れてユダヤ人のための移住地域をテレージェンシュタットに確保、アイヒマンの責任下に置かれたが、狭過ぎて収容しきれずその緩和策として1年後にはアウシュヴィッツへの移送が始まる ⇒ 最終的解決の総統命令は既に発出されており、この時点で1つの国をユーデンラインにするという約束をすることは、強制収容所に送り出すのに便利な場所にユダヤ人を移送し集結することでしかありえなかった

第6章        最終的解決――殺戮
41.6.ソ連攻撃開始、翌月ハイトリッヒは空軍総司令官でヒトラーの代理者だったゲーリングから、ヨーロッパのドイツ勢力下にある地域のユダヤ人問題の全面的解決遂行のための全般的計画の提出を命じられ、アイヒマンを呼んで「総統がユダヤ人の肉体的絶滅を命じた」と告げた ⇒ アイヒマンはその言葉によってぶちのめされ、仕事の喜びも、自発性も、興味もすべて失ったと証言
最終的解決は、数年前から指示があり、ヒムラーがフランス降伏直後に聞かされ抗議したこともあり、アイヒマンが聞かされる6か月前には党上層部では秘密でもなんでもなかったが、アイヒマンは党の上層部には属していなかった
アイヒマンは、ガス使用とは全く無関係で、アウシュヴィッツ収容所長のヘスとも何度か協議しているが、それは収容所の殺害能力についてであり、ガス室の代わりにガス・トラックが使用され、まとめて殺害される現場を見学している ⇒ 自らの仕事を輸送であって殺害ではないと主張したが、目的地は見ており、自分のしていることを自覚していることは明らかで、自分の行為の重大性を判断し得る立場にあったと言える。判事は「ユダヤ人の殺害は自らの良心に背くことだったか?」と繰り返し問うているが、これは道徳的な問いであり、法律には無関係
犯罪事実は確証されたとして、なお2つの法律的な問題が生じた ⇒ 法的に見ても死刑は免れない
1つは、「差し迫った危険を逃れるため」に行為を行ったのか ⇒ 皆殺しの部署から離れることは容易だった
もう1つは、「犯罪行為により生じる結果の重大性を緩和するために」全力を尽くしたか ⇒ すべての命令に忠実だったと誇りをもって言い切る以上、犯罪行為より生じる結果を緩和するより加重する方にいつも全力を注いでいた
最初のガス室は39年に「不治の病人には慈悲による死が与えられるべき」との総統の布令を実施するために作られた

第7章        ヴァンゼー会議、ポンテオ・ピラト(1世紀ローマ帝国のユダヤ属州総督として圧制を敷いた)
アイヒマンの証言によれば、転機となったのは42.1.のヴァンゼー会議で、ハイトリッヒが招集した次官会議で、「最終的解決」を全ヨーロッパに適用するために全官僚機構の積極的な協力を得る意味で開催され、ヒトラー以下トップの人々が先頭に立とうと競い合うのを見て、自分には罪はないと感じた
自分は判断を下せるような人間ではなく、謙虚さのために身を滅ぼしたのは彼が最初ではなかった
支配的エリートの戦線離脱は、人々にまだ良心が残っていたかもしれない初期の段階にすらほとんどなく、それが見られ始めたのは、ドイツが戦争に負けようとしていることがはっきりしてからのことだったし、それも良心に動かされたとは言えない
ユダヤ人の絶滅について、ユダヤ人自身から、単なる従順以上のもの、協力を得ていたのも事実で、それが無ければあれだけ膨大な数の他民族の抹殺など不可能
事件の全体像からの最も重要な脱落は、ナツィ支配者とユダヤ人当局との協力についての証人が欠けていたこと 各国内にも国際的にもユダヤ人自治体組織やユダヤ人政党や福祉団体破損竿したし、ユダヤ人が暮らしているところはどこにでも一般に認められたユダヤ人指導者が存在したが、これらの指導者はほぼ例外なく、何等かのかたちで、何らかの理由で、ナツィに協力した
ナツィがヨーロッパ社会に引き起こした道徳的崩壊は大きい

第8章        法を守る市民の義務
アイヒマンの感受性は歳月と共になくなり、彼自身の判断し得る限りでは、法を守る市民として行っていることで、命令に従っただけでなく法律にも従い、自らの義務を行った
「国家によって犯罪が合法化されていた時代」に、カントが『実践理性批判』でいうところの原則に従って生きることをやめた
戦争末期、赤軍が迫るハンガリーではユダヤ人撲滅への動きが遅延、却って周辺国から亡命者が流入してユダヤ人総数が増えていた時、アイヒマンが絶滅計画促進のため派遣されたが、ヒムラーが計画の中止を命じる中、アイヒマンは命令に従おうとしなかったため、ほどなくベルリンに呼び戻され、以後ユダヤ人問題とは無縁となった
総統の命令に忠実であろうとしたものは、彼の良心にほかならず、第三帝国においては総統の言葉は法律の力を持っていたし、アイヒマン自身もヒットラーに対する讃歌から心酔
アイヒマンの良心の問題は疑いもなく複雑だが、決して彼一人だけのものではなかったが、将軍たちのそれと比較し得るものでもなかった。ニュールンベルク裁判で、ヨードル将軍は、なぜ盲目的に人殺しに仕え続けたのかと聞かれて、「最高司令官を批判するのは兵士のすべきことではない」と答えている。これより遙かに知性もなく見るべき教養もないアイヒマンも、少なくとも自分たちすべてを犯罪者にしてしまったのは命令ではなく法律であるということはおぼろげに悟った。命令は、その効力が時間的にも場所的にも制限されていることを顕著な性格とするのに対し、法律の効力は全く限定されていない。総統の言葉は、命令ではありながら法律として扱われていた。ヒットラーの国の法律は、殺戮の組織者たちは殺人が大多数の人間の正常な欲望や傾向に反するということを十分知っているにもかかわらず、良心の声がすべての人間に対し「汝殺すべし」と語りかけることを要求した。第三帝国における「悪」は、それによって人間が悪を識別する特性(殺したくない、犯罪の共犯者になりたくないという「誘惑」という特性)を失わせた

第9章        ライヒ――ドイツ、オーストリア、および保護領――からの移送
アイヒマンが自分の立場をポンテオ・ピラトのそれのように感じ、自分に罪はないとして手を洗った42年のヴァンゼー会議から、ヒットラーの知らぬ間に最終的解決が放棄された44年のヒムラーの命令が出るまでは、アイヒマンは全然良心の葛藤に悩まされることはなかった
命令系統に関する証言はあったが、アイヒマンが非常な権力を握っていたとする検察のシナリオに反するので採択されなかった。彼の位置は、全体の作業の中で最も重要なコンヴェイヤー・ベルトという役割だが、彼にとっては日常の千篇一律な手続きや様々な起伏を含む1つの仕事に過ぎなかった

第10章     西ヨーロッパ――フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、イタリア――からの移送
移送に協力的だったフランス・フィシー政権から開始 ⇒ 42年夏以降、ユダヤ人総人口30万のうち10万とも言われた亡命してきた無国籍ユダヤ人を対象に実行
デンマークでは、SS隊員ですらベルリンからの命令をサボタージュした

第11章     バルカン――ユーゴスラヴィア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア――からの移送
ルーマニアでは、SSすらも恐ろしく大規模な旧態依然たる自然発生的なポグロームのむごたらしさに驚かされ、時には恐怖さえ覚えた ⇒ 戦前のヨーロッパでは最も反ユダヤ人的な国とされていて、第1次大戦後ユダヤ人少数民族に市民権を与えさせるため、連合国が全力を挙げて説得したが、ヒットラーの側に立って参戦する直前に全てのルーマニア系ユダヤ人を無国籍者であると宣言しドイツを含む全ヨーロッパで最も厳しいユダヤ人弾圧法を制定

第12章     中欧――ハンガリア、スロヴァキア――からの移送
8章参照
スロヴァキアは、ドイツがチェコを占拠する直前ベルリンにやってきて独立について交渉。ユダヤ人問題の扱いについて忠実にドイツに従うと約束したが、それはまだ最終的解決など全然問題になっていない時のことで、42年アイヒマンがやってきてユダヤ人の東方移住を要求、相当数が地元警察の手でポーランドの虐殺センターへ移送

第13章     東方の殺戮センター
ナツィが東方と言ったのは以下の4地域のこと
   ライヒに併合されたポーランドの西部地方
   オストラント ⇒ バルト3国と範囲のはっきりしない白ロシア
   中部ポーランドの総督府領 ⇒ ハンス・フランクが総督
   ローゼンベルクの東方占領地域省の管轄下にあるウクライナ
これ等の地域は、戦前のヨーロッパにおけるユダヤ人人口の集中地であり、全ての移送の終点で脱走は考えられず、受難の中心的な舞台となったが、アイヒマンを東方と関係づける証拠は不十分だった ⇒ 全般状況の証言だけで、実際にアイヒマンを見たという人の証言は虚言だった。彼の役割は「輸送」と「移民」であって、「ユダヤ人専門家」は必要とされなかった

第14章     証拠と証人
弁護側の証人の証言が聞かれず、検察側証人に対して弁護側が反対尋問を行い得なかったのは世界中でイスラエルだけだった ⇒ ニュールンベルクでも指摘されたが、弁護側には「世界の記録保管所や政府の機関」を自分の思うままに利用することは出来なかった。戦後18年経った今日ですら、ナツィ体制に関する膨大な文書資料についての我々の知識は、大部分が訴追のために作られた抜粋に基づいている
全体で121回の公判のうち62回は各国別に証人が呼ばれたが、証人の大多数はアイヒマンが権能も権限もほとんど皆無だったポーランドとリトアニアから来ていて、全て「全般状況証人」に過ぎなかった

第15章     判決、上告、処刑
終戦直後アイヒマンはアメリカ兵に捕えられSS兵員用の収容所に入れられ、何度も尋問が行われたが、仲間の捕虜の何人かに知られてはいたものの家族に手紙も書かず偽名で押し通し、ニュールンベルク裁判でアイヒマンの名が恐ろしいほど規則的に挙げられるようになって収容所から脱走、捕虜仲間の伝手でハンブルク郊外に4年ほど伐木人夫として潜伏、50年初め元SS隊員の秘密組織ODESSAと連絡とつけることに成功し、オーストリア経由イタリアに脱出、フランシスコ派の聖職者が彼が誰であるかを承知の上リヒャルト・クレメントという亡命者旅券を彼に与えてブエノスアイレスに送る。彼は無国籍者の「リカルド・クレメント」として何の困難もなく身分証明書と就労許可書を入手
52年には家族を呼び寄せ、新たに生まれた子の戸籍にアイヒマンの名をつけるなど徐々に身元を明かし始めていた
アイヒマンの唯一の慰めは、たくさんいる旧ナツィ亡命者たちとの談笑で、自分が誰であるかを隠そうとせず、そのため55年に元SS武装隊員で死刑を宣告されて亡命したオランダ人ジャーナリストのインタビューに応じることになり、そのために書いたたくさんの覚書は後に裁判で証拠として認められたが、インタビューで述べたこと全体は認められなかった
59年イスラエルの秘密警察が生存を確認、翌年秘密裏にイスラエルに連行したが、どうしてここまで歳月を費やしたのか不思議であり、とても何年にもわたって捜索を続けていたとは思えない
アイヒマンは自分が拘束された時、既にイスラエルのプロの手に落ちたことが分かっていて、裁判に当たっても自らの自由意思で合法的な正式の法廷に出るためイスラエルに赴くことに異議はないこと、真実を述べることを、自ら書いた文章で誓約している
アルゼンチン政府は当然イスラエルの行為に抗議したが、イスラエル側は国家による行為とは認めず、両国政府は「アルゼンチン国の基本的権利を犯したイスラエル市民の行動によって生じた事件は解決されたと見做す」と宣言
アイヒマンが驚くほど裁判所に協力的だったのは、
   アルゼンチンで埋もれて暮らすことに倦んでいた
   ドイツ青年層の間に罪責感が広まっていることを知り、捜索班が迫りつつあるのを知ったときこれ以上自分に姿をくらます権利があるとは思えなくなり、自ら絞首するよう提案し、ドイツ青年の心から罪責の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたかった
アイヒマンは自らの行為を、国家の命令に服従して「罪の遂行を幇助及び教唆」しただけで指導者のみが罰に値すると主張、したが、検察は直接に死の道具を操った人間から離れれば離れるほど責任の程度は増大するとし、弁護人は被告を「身代わり贖罪者」だとしてドイツ政府が自ら責任を負うまいとして国際法に違反してイェルサレムの法廷に委ねたと主張したが、裁判所は認めず死刑を宣告、3か月後の控訴院(イスラエルの最高裁に相当)ではさらに進んで被告が上からの命令を受けていなかったことが認められ、被告とその共犯者たちの狂信的な熱意と満たされることのない血の渇きがなかったならばこれほど凶悪な形を取らなかっただろうと言明
最高裁判決から2日後に死刑は執行され、焼却後イスラエル領海外の地中海に散骨
死刑の宣告に対する異議はほとんどなかったが、死刑執行がわかると事態は一変 ⇒ 長く広範囲にわたり、権威ある人々からも抗議が発せられた。共通するのは、アイヒマンの行為は人間の罰しうる範囲を超えており、これほど大規模な罪に死刑ぐらいを宣するのでは意味がないということだった
アイヒマンな処刑に際しても完全にいつもと同じだったのは、最後の言葉の奇怪なまでの馬鹿馬鹿しさが証明している ⇒ 「自分はクリスチャンではなく、死後の生を信じていないといい、もう少ししたらどっちみち我々は皆再会するのだ。それは全ての人間の運命だ」
それはあたかもこの最後の数分間に、人間の悪についてのこの長い講義が我々に与えてくれた教訓――恐るべき、言葉に言い表すことも考えてみることも出来ぬ悪の陳腐さという教訓を要約しているかのようだった


エピローグ
イスラエルはこの裁判を通じて一連の政治的な附随目的を達成しようと意図したが、裁判自体は起訴事実を秤量し黒白をつけるだけのもの
裁判に対する異議には3つの種類があった
   ニュールンベルクと同様、遡及的な法の下に、勝者の法廷で裁かれるという異議
   イェルサレム法廷の裁判資格や、拉致という事実を無視したことへの異議
   人道に対してではなく、ユダヤ人に対して罪を犯したという起訴理由であれば国際法廷で裁かれるべきという異議
事実上ニュールンベルク裁判後に各国で無数におこなわれた継承裁判の最後のもの
アイヒマン裁判で問題になったより広範な論点の中で最大のものは、悪を行う意図が犯罪の遂行には必要であるという、近代の法体系に共通する仮説 ⇒ 政治においては服従と支持は同じもので、大量虐殺の従順な道具となったからには、その政策を実行しそれ故積極的に支持したという事実は変わらない。ユダヤ民族およびその他いくつかの国の国民達と地球上に生きることを拒む政治を支持し実行した以上、人類に属する何ものからも共に地球上に生きたいと願うことは期待し得ないというのが、絞首されなければならない唯一の理由


あとがき
『ザ・ニュー・ヨーカー』に5回にわたり連載され、直後の63年同じ表題で単行本としてアメリカで出版されたもの。1つの報告であり、主な典拠はイェルサレムで新聞関係者に配布された裁判記録の写し。裁判記録はヘブライ語だが公表されず、渡されたものは同時通訳文の写し
まだ出版もされないうちからこの本は論争の焦点となり組織的な抗議運動の対象となった
論争は、「最終的解決」の時代におけるユダヤ人が抵抗し得たか、あるいは抵抗すべきであったかということから始まる
アイヒマンには、自分の昇進に恐ろしく熱心だったということのほかには何らの動機もなかった ⇒ 自分のしていることがどういうことか全然分かっていなかった。愚かではなく、完全な無思想性が、彼があの時代の最大の犯罪者の1人になる素因だった
現実離反と無思想性は、人間の内に恐らくは潜んでいる悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を逞しくすることがあるというのが、イェルサレムに於いて学び得た教訓
ここで問題になっているのはいかなる罪かということ ⇒ ジェノサイドという概念を持ち出したが、歴史上いくらでも先例はあり、法律的に捉えることは実際上困難
裁判官は、かかる犯罪は巨大な官僚組織によってしか行われ得ないと認めたが、それが犯罪である限りは、たとえ官僚機構の中の歯車の1つだとしても、人間に還元され、罪は免れえない
既存の法体系の中でも、明白に犯罪的な命令には従ってはならないと規定されている
ニュールンベルク裁判では、「平和に対する罪」が他のすべての犯罪を包含しているから最も重い犯罪であるとしながら、結局死刑の宣告を言い渡したのは、行政的殺戮という新しい犯罪(平和に対する謀議よりも重大ではないとされていた犯行)に加わっていたものに対してだけだったという矛盾がある
すべてのこの種の戦後裁判に底流としてあった根本的な問題は、人間の判断力の性格と機能に触れるもの ⇒ 人間はあらゆる状況下においても善悪を弁別する能力を持っていなければならないということが要求された
私のこの報告は、どの程度までイェルサレムの法廷が正義の要求を満たしたかということ以外には何も語っていない


訳者解説
アーレントに対する批判は、1964年『論争――ハンナ・アーレント、アイヒマン、ユダヤ人』で公刊され、ローマ教皇の責任を追及した『神の代理人』とそれを巡る論争『最高の悪――教皇は沈黙していてよかったか?(戦争中に恐慌がナチスのユダヤ人虐殺に対して沈黙していたことの責任を追及した論争)と共に、戦後のヨーロッパ人に深刻な問題を叩きつけた点で双璧
アーレントへの批判は以下の3
   ドイツ人をすべて同罪とする見解、特に反ヒトラー抵抗運動の人々への著者の冷たい視線に対するもの
   ユダヤ人自身が自民族の破壊に協力したと断定する見方
   アイヒマンの地位と責任の度合いに関わるもので、一介の下僚に過ぎず小心な平凡人に過ぎなかったとする見方


「ハンナ・アーレント」
朝日 映画・評 20131112220
評:傍聴記めぐる言論の戦い
 【佐藤忠男映画評論家】ハンナ・アーレントはドイツ出身のユダヤ人哲学者である。大戦中にナチスによる大虐殺から逃れてアメリカに渡り、「全体主義の起源」という著書で論壇の花形になった。
 大虐殺のときにユダヤ人の列車移送などの指揮者だったアドルフ・アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンで捕らえられて1961年にイスラエルで裁判にかけられたとき、ハンナは自分から希望してそれを傍聴し、雑誌に長い記事を書いた。
 アイヒマンはその法廷で、自分はただ上司の命令を忠実に実行したにすぎないと弁明した。その見るからに小心翼々とした態度にハンナは衝撃を受ける。悪魔でも怪物でもないこんな平々凡々たる人間が、ただ命令だというだけで大虐殺を日常業務のようにやってのけたのだ。自分では善悪は考えなかったのか。ハンナはこれを「悪の凡庸さ」と表現した。
 ところがこの文句を多くのユダヤ人は、アイヒマンを弁護している言い方のように受けとって憤激した。そしてハンナは猛烈なバッシングにさらされることになる。ハンナはそれを誤解だとして言論で戦い続ける。
 実際のところ両者の言い分はどこで食い違ったのか、あまりくわしくは説明されていないのが、この作品の弱点である。しかし「悪の凡庸さ」の一言は、軍国主義を経験したわれわれの心もぐさりと刺さずにはおかない。かつて戦争犯罪に問われたわれわれの先輩たちも、多くは「命令だったから」と弁明した。それを思うと見ながらはもちろん、見たあとにも多くのことを考え込んでしまう。
 ハンナ役のバルバラ・スコバの真情あふれる演技を得て、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督は感動的で厳しい映画を作り上げた。
 公開中。


日経 『春秋』
2013/10/26
フォームの始まり
フォームの終わり
 1960年代から80年代にかけて活躍した映画監督フランソワ・トリュフォーが言ったそうだ。「人は皆、自分の仕事と映画批評家というふたつの職業を持っている」。だれもが映画を語る時代はとうに終わってしまったが、それでも、時には語りたくなることがある。
「ハンナ・アーレント」という映画である。ユダヤ人女性哲学者ハンナ・アーレントがナチスドイツの大物アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、記録を発表する。その経緯を実際にあった話にもとづいて描いている。しっかり作られた映画だ。だからこそ、関心は映画を越えてアーレントその人へと向かうことにもなる。
記録「イェルサレムのアイヒマン悪の陳腐さについての報告」に一文がある。「自分の昇進にはおそろしく熱心だったということのほかに彼には何らの動機もなかったのだ」(大久保和郎訳)。出世のため命令をこなすだけの凡庸な男が犯した、ユダヤ人の強制収容所送りという大罪。そんな構図を彼女は暴いてみせた。
「怪物」を凡人にしたことがアイヒマンに同情的だと受け取られ、アーレントは当のユダヤ人社会からも囂々(ごうごう)たる非難を浴びる。が、決して自説を曲げはしない。映画とアーレントが今の時代に問いかけてくる。あなたは何も考えず命令に従ってはいないか。そして、あなたは完全にあなた自身であり続けているのか、と。


Wikipedia
『イェルサレムのアイヒマン』(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)はハンナ・アーレント1963に雑誌ザ・ニューヨーカーに連載したアドルフ・アイヒマンの裁判記録である。副題は「悪の陳腐さについての報告」。みすず書房に大久保和郎の翻訳がある。
目次
概要[編集]
ホロコーストの中心人物で、第二次世界大戦後にアルゼンチンブエノスアイレスでリカード・クレメント(Ricardo Klement)という名で潜伏生活を送っていたアドルフ・アイヒマンが、イスラエルの諜報機関によって極秘逮捕されてエルサレムに連行され、1961411に始まった公開裁判の後に死刑執行されるまでを描いた本。裁判の様子を描いただけではなく、ヨーロッパ各地域で如何なる方法でユダヤ人が国籍を剥奪され、収容所に集められ、殺害されたかを詳しく綴っている。
アーレントはこの本の中でイスラエルは裁判権を持っているのか、アルゼンチンの国家主権を無視してアイヒマンを連行したのは正しかったのか、裁判そのものに正当性はあったのかなどの疑問を投げ掛けたほか、アイヒマンを極悪人として描くのではなく、極く普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎなかったと描いた。
また、アーレントは国際法上に於ける「平和に対する罪」に明確な定義がないことを指摘し、ソ連によるカティンの森事件や、アメリカによる広島長崎への原爆投下が裁かれないことを批判している。
反響[編集]
発表されてすぐに『イェルサレムのアイヒマン』はユダヤ人やイスラエルのシオニスト達に激しく非難された。「自らを嫌うユダヤ人がアイヒマン寄りの本を出した」とか「ナチズムを擁護したのではないか」と言われた。彼女を裏切り者扱いするユダヤ人やシオニスト達に対しアーレントは、「アイヒマンを非難するしないはユダヤ的な歴史や伝統を継承し誇りに思うこととは違う。ユダヤ人である事に自信を持てない人に限って激しくアイヒマンを攻撃するものだ」と反論した。因みに、スタンフォード大学がこの本を参考にして1971に監獄実験を行った(スタンフォード監獄実験)。

アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann1906319 - 196261)は、ドイツ親衛隊(SSの隊員。最終階級は親衛隊中佐SS-Obersturmbannführer)。ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担った。
戦後はアルゼンチンで逃亡生活を送ったが、1960イスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行された。19614月より人道に対する罪戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられ、同年12月に有罪死刑判決が下された結果、翌年5月に絞首刑に処された。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
アドルフ・アイヒマンは1906319日にドイツ帝国西部ラインラントの都市ゾーリンゲンに生まれた。父はアドルフ・カール・アイヒマン(Adolf Karl Eichmann)。母はオーストリア系マリア・アイヒマン(Maria Eichmann)。アドルフは5人兄弟の長男で、長男アドルフから順に次男エミール(Emil)、三男ヘルムート(Helmuth)、長女イルムガルト(Irmgard)、四男オットー(Otto)であった。このうち三男ヘルムートは後にスターリングラードの戦いで戦死した。
父アドルフ・カールはアドルフが生まれた当時、電機会社に簿記係として勤務していた。上昇志向のある専門職中産階級者の典型であった。信仰はプロテスタントだった。アドルフは自身の回顧録に父について「私にとって父は絶対的な権威だった」と書いている。1913にアドルフ・カールはオーストリア=ハンガリー帝国リンツにあった同じ電機会社の役員に任じられ、アイヒマン一家はリンツへ移住している。母マリアの旧姓はシェーファーリング(Schefferling)といい、専業主婦としてアイヒマン家を守っていた人物だった。アドルフを含む5人の子供を産んだ後、彼女は1916年に32歳の若さで死去した。アドルフは立て続けに子供を産んだことが母の早い死の原因ではなかったかと後に語っている。母マリアの死後、父アドルフ・カールはすぐにマリア・ツァヴァルツェル(Maria Zawrzel)という人物と再婚している。彼女はウィーンの資産家の娘で熱心なプロテスタントだった。父アドルフ・カールとは教会で知り合った。アドルフはこの継母について「熱心で非常に良心的だった」と語っている。
オーストリアにおける子供時代、アドルフはやや暗い顔色をしていたため、他の子供は「ユダヤ人」のように見えると彼をあざ笑った(当時のオーストリアは、ユダヤ人が居住するウィーンを中心に反ユダヤ主義が日常的に蔓延していた)。アドルフは学校の成績が悪く、リンツのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を卒業することができなかった。なお全くの偶然であるが、アドルフ・ヒトラーもこのカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校に通っていたことがあり、同じく卒業できずに退学している。
父アドルフ・カールはこの頃には会社を退職し、ザルツブルクに鉱山工場を起こしてその株式を51%持ち、自らの事業を始めていた。しかしこの会社はすぐに行き詰まり、その後、小麦会社や機関車製造会社に投資したが、これも財産を失うだけに終わった。アドルフは1921年にカイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を退学した後、機械工学を学ぶため工業専門学校に通っていたが、ここも卒業することなく中退している。
この後、アドルフは父のザルツブルクの鉱山工場で働いたが、すぐに辞めて、1925年から1927年にかけて電気製品販売業者で働いた。さらに1928年からはスタンダード石油のウィーンに於ける現地子会社であるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)で販売員として働いている。この会社に5年半ほど務めたが、1933年には人員削減の対象として解雇されている。アドルフは後にこの解雇について「自分は独身の社員だったため、それが災いして人員整理された」と語っている。
ナチス親衛隊[編集]
アドルフは石油会社に勤めていた頃の193241日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊に入隊している(オーストリアナチ党員番号889,895、オーストリアSS隊員番号45,326)。アドルフの父アドルフ・カールの事業仲間である弁護士ヒューゴ・カルテンブルンナーの息子で同じく弁護士のエルンスト・カルテンブルンナー博士の薦めであったという。アドルフ自身はイデオロギーにはさほど興味はなかったようだ。
1933年夏、アドルフがベロニカ・リーベル(Veronica Liebl、愛称ベラ)と結婚の準備を進めていた頃、オーストリア・ナチ党がオーストリア政府から禁止されたため、193381日に大管区本部の命令でアドルフはドイツへ派遣されることとなった。アイヒマン一家はドイツ市民権を放棄していなかったし、アドルフは失業中だったので再度ドイツへ移住することになんら問題はなかった。婚約者ベラとともにドイツのパッサウへ移住。ベラとは1935年にパッサウで結婚している。
19338月から19349月までレヒフェルトLechfeld)とダッハウバイエルン州地方警察から「オーストリア人部隊」として訓練を受けていた。なお、アドルフはダッハウの親衛隊の訓練場にはいたが、同じ場所にあったダッハウ強制収容所の運営とは何も関係していない。
アドルフはこの時の訓練時代を「軍務の単調さが耐えられなかった。毎日毎日が全く同じで、繰り返し繰り返し同じことをさせられる」、「訓練は国防軍の兵士と全く変わらないものでした。(中略)徹底的な匍匐前進でした。肘に貼った絆創膏なんかすぐにはがれてしまって。(中略)私はどうやってここから抜け出すか、そればかり考えていました。そんなときにSD(SS長官直属の公安部)の人員募集の噂を聞きつけたんです。私は、これだ、と思いました。」と回顧している。
SD勤務時代[編集]
19349月、当時衛隊伍長SS-Scharführer)であったアイヒマンは、SDに応募し、SD長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将により採用される。SDII/111課(フリーメーソン担当課)の補助員となった。同僚のディーター・ヴィスリツェニーによるとこの頃からアイヒマンは記録や組織的な整理といった体系的な作業を好んだという。しかし数か月で人事異動となり、レオポルト・フォン・ミルデンシュタイン親衛隊少尉de:Leopold von Mildenstein)が課長をしていたII/112課(ユダヤ人担当課)へ異動した。以降一貫してアイヒマンはユダヤ人問題に携わることとなる。
ユダヤ人課の上官フォン・ミルデンシュタインから読むよう命じられたテオドール・ヘルツルの著作『ユダヤ人と国家』にアイヒマンは強い影響を受けたという。アイヒマンはドイツ在住のユダヤ人をパレスチナへ移住させる計画に関心を示すようになった。1933年から1937年にかけて24000人の在独ユダヤ人がパレスチナへ移住していた。アイヒマンは、これをさらに拡大できないかと考え、1937夏に長官ハイドリヒの許可を得てパレスチナ移住計画の可能性を評価するため、上官のヘルベルト・ハーゲン(フォン・ミルデンシュタインの後任のII/112課課長)とともに英国委任統治領パレスチナに赴いた。彼らはハイファに到着したが通過ビザしか得られず、カイロへ進んだ。カイロではハガナーのメンバーに会った。さらにパレスチナでアラビア人のリーダーに会うことを計画したが、パレスチナへの入国はイギリス当局によって拒絶された。そのため外遊の成果はほとんどなかった。しかもナチスの政策は後にユダヤ人国家の設立を妨げる方向で定められたので、結局、経済的理由のためのパレスチナへの大規模移住に反対する報告書を書いている。
ウィーン勤務時代[編集]
オーストリア併合後の19383月、当時親衛隊少尉SS-Untersturmführer)だったアイヒマンは「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣された。ロスチャイルド家の財閥ユダヤ人ルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト(de)男爵からナチスが没収した邸宅は親衛隊の建物となり、アイヒマンはここの一室をあてがわれて「ユダヤ人移民局」を起こし、オーストリアのユダヤ人の移住に取り組んだ。ユダヤ人たちの亡命の代償は全財産であり、その所有物はすべて没収された。また移住者は「提示金」として不可欠な外国為替を、滅茶苦茶なレートで購入させられた。アイヒマンは移住政策を巨額のビジネスに仕立て上げたのだった。アイヒマンは19381021日の報告書で着任の日から9月末までに5万人のユダヤ人をオーストリアから追放した、と報告している。同時期のドイツでは19000人であったからアイヒマンの成果は歴然であった。
19386月の親衛隊内部の勤務評定はアイヒマンに「秀」の成績をつけており、「彼の格別な能力は交渉、話術、組織編成」「精力的かつ機敏な人物であり、専門分野の自己管理に優れた能力を備えている」と記している。1939124日には名目上のユダヤ人問題責任者であるヘルマン・ゲーリングの命令でベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が開設されることとなったが、これはハイドリヒがアイヒマンのウィーンでの働きを高く評価し、アイヒマンの方式を全国に拡大しようと設置したものであった。アイヒマンは親衛隊内でユダヤ人移住の権威として知られるようになり、ユダヤ人移住の「マイスター」などと呼ばれるようになった。
アイヒマンも後に述べているが、ウィーン時代はアイヒマンの人生で最良の時代であった。アイヒマンは、ロスチャイルドから没収した高級リムジンを公用車にして乗り回し、旧ロスチャイルド邸のワイン蔵からワインを持ち出して同志たちと飲みかわして楽しんだ。
プラハ勤務時代[編集]
19393月、チェコスロバキア併合によりベーメン・メーレン保護領が誕生し、4月に旧チェコスロバキア首都プラハへ派遣されることが決まった。当時衛隊大尉だったアイヒマンは、ウィーンの移民局の仕事を部下のロルフ・ギュンターRolf Günther)やアロイス・ブルンナーに任せて次なる任地プラハへ移動した。しかしアイヒマン自身は後に「最初、私はウィーンを離れたくなかった。万事円滑、かつ秩序正しく動いているのであるから(ウィーン勤務を)手放しくないのは当然だった。」と語っている。
しかもプラハではアイヒマンはウィーンでの仕事ほど成果を上げられなかった。すでにほとんどの国でユダヤ人の受け入れを拒否するようになっていた上、ベルリンも保護領のユダヤ人追放よりライヒ(ドイツとオーストリア)内のユダヤ人追放を優先したがっていた。しかしプラハ勤務時代はすぐに終わりを迎えた。
ゲシュタポ・ユダヤ人課課長[編集]
ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が開戦した後の1939927日に保安警察ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設された。アイヒマンはそのIV局(ゲシュタポ局)B部(宗派部)4課(ユダヤ人課)の課長に任命され、ベルリン勤務となった。各地のユダヤ人移住局を統括する立場となった。
19406月にフランスがドイツに降伏し、西部ヨーロッパはほぼドイツの支配領域となった。支配領域の拡大に伴い、ドイツの抱えるユダヤ人の数は大幅に増した。19406月の時点でドイツの支配領域にユダヤ人は325万人生活しており、彼らの追放先を探すことがドイツ政府にとって急務となった。アイヒマンは支配領域のユダヤ人をポーランドのゲットーへ集中させていった。一方194010月にアイヒマンは、バーデンプファルツザールラントのユダヤ人7500人ほどを南フランスの非占領地域(ヴィシー政府領)へ移送させている。このうち2000人以上のユダヤ人がフランスの収容所で病死し、残りもほとんどがポーランドへ再移送されてそこで殺害されたとみられる。アイヒマンによるとこのフランスへの移送は親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの咄嗟の思いつきであったという。
併行してフランス降伏から独ソ戦開始までの間、アイヒマンは、フランスの植民地であったマダガスカル島へユダヤ人を移住させる計画(マダガスカル計画)の立案に熱心になっていた。しかし何百万人も送る船舶がドイツにはないうえ、マダガスカルまでの海路がイギリスとアメリカに抑えられていることからこの計画をまともに取り合ってくれる上官はいなかった。独ソ戦の準備が始まる中、アインザッツグルッペンが組織されるなどユダヤ人は「最終解決」される方向で首脳部の意図が定まっていき、マダガスカル島移住計画は消えていった。
「ユダヤ人問題の最終解決」[編集]
本人の証言によるとアイヒマンは、19418月から9月頃にラインハルト・ハイドリヒの口から総統アドルフ・ヒトラーの命令によりヨーロッパのユダヤ人がすべて絶滅させられることになったのを知らされたという。さらにこの時、ハイドリヒからポーランド総督府ルブリン親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われているユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカ(後にここにトレブリンカ強制収容所が置かれる)でガス殺を行う建物を視察した。
ついでアイヒマンの直属の上官であるゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーからの命令でポーランド西部地域のクルムホーフ(ポーランド語でヘウムノ。ここにはヘウムノ強制収容所がつくられた)で行われていたガストラックによるガス殺を視察し、またその後にはミンスクでのアインザッツグルッペンのユダヤ人銃殺活動の視察、さらに再度ルブリンのトレブリンカへ派遣されてガス殺を視察することとなった。
アイヒマンは後にイスラエル警察からの尋問に対して、これらの視察について「強いショックを受けたこと」や「正視できなかったこと」を強調している。アドルフ本人の証言によるとレンベルクの親衛隊司令官や直属の上官ハインリヒ・ミュラーに「あれでは若い兵士たちをサディストにするだけだ」と抗議を行ったという。
194111月に親衛隊中佐SS-Obersturmbannführer)に昇進。しかし以降の昇進はなく、アイヒマンの階級はここで止まっている。1942120日にハイドリヒの命令で関係各省庁の次官級担当者がベルリン高級住宅地ヴァンゼーに集まった所謂ヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席し、ユダヤ人を絶滅収容所へ移送して絶滅させる「ユダヤ人問題の最終解決」(=虐殺)政策の決定に関与した。アドルフ本人もこの会議で絶滅政策が決定されたことを認めているが、アイヒマン自身は会議の席上で一言も発言しておらず、出席者の誰からも気にとめられることもなく、ただタイピストとともにテーブルの隅っこに座っていただけだと証言している。
この会議後、アイヒマンは、ゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ列車輸送する最高責任者となる。194236日と1027日に行われたヴァンゼー会議に続く二度の最終解決についての省庁会議はアイヒマンが議長を務めている。
19423月から絶滅収容所への移送が始まったが、その移送プロジェクトの中枢こそがアドルフ・アイヒマンであった。総力戦体制が強まり、一台でも多くの車両を戦線に動員したい状況の中でも交通省と折衝して輸送列車を確保し、ユダヤ人の移送に努めた。続く2年間にアドルフは「500万人ものユダヤ人を列車で運んだ」と自慢するように、任務を着実に遂行した。
アイヒマンの実績は注目され、19443月には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。
アイヒマンはソ連軍が迫るハンガリーから脱出し知己であったカルテンブルンナーの居るオーストリアへ戻ったが、彼はアイヒマンの任務がユダヤ人の根絶であることを知っていたため、連合国軍から責任を問われることを恐れアイヒマンとの面会を拒絶した。なお、アイヒマンは自身がユダヤ人虐殺の責任者であることを十分に認識していたことから敗戦が現実味を帯びてくるとともに極度に写真に写ることを嫌った。ある日写真を撮られたことに激怒し、カメラを破壊した後弁償したという。
逃亡[編集]
「リカルド・クレメント」の偽名で交付されたアイヒマンの赤十字渡航証
第二次世界大戦終結後、アイヒマンは進駐してきたアメリカ軍によって拘束されたが、偽名を用いて正体を隠すことに成功すると、捕虜収容所から脱出。1947初頭からドイツ国内で逃亡生活を送り、1950初頭には難民を装いイタリアに到着。反共産主義の立場から元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者の逃亡に力を貸していたフランシスコ会の修道士の助力を得る。
リカルド・クレメント(Ricardo Klement)名義で国際赤十字委員会から渡航証(難民に対して人道上発行されるパスポートに代わる文書)の発給を受け、1950715アルゼンチンブエノスアイレスに船で上陸した。その後約10年にわたって工員からウサギ飼育農家まで様々な職に就き、家族を呼び寄せ新生活を送った。当時のアルゼンチンは親ナチスのファン・ペロン政権の下、元ナチス党員を中心としたドイツ人の主な逃亡先となっていた。上記のアイヒマンの偽造渡航証は20075にアルゼンチンの裁判所の資料庫から発見された。
拘束[編集]
1957西ドイツのユダヤ人検事フリッツ・バウアーは、イスラエル諜報特務庁(モサド)にアイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという情報を提供した。直ちにブエノスアイレスに工作員が派遣されたが、アイヒマンを捕捉することは容易ではなかった。しかし、アイヒマンの息子がユダヤ人女性と交際しており、彼女に度々父親の素性について話していたことから、モサドは息子の行動確認をしてアイヒマンの足取りをつかもうとした。2年に渡る入念な作業のすえ、モサドはついにアイヒマンの居場所を見つけ出した。
モサドイサル・ハルエル長官はピーター・マルキン率いる作業班を結成させ、作業班と共にブエノスアイレスへ飛んだ。作業班は、偽名のリカルド・クレメントを名乗るアイヒマンに「E」とコードネームを付け行動確認した。アイヒマンも痕跡を残さぬよう慎重に行動していたが、1960511、バスから下車して自宅へ帰る道中マルキンらに拘束され、セーフハウスに連行された。行動確認中の作業班が彼をアイヒマンであると最終的に確信したのは、アイヒマンが結婚記念日に妻へ贈る花束を買ったことであった。拘束されセーフハウスへ運ばれる車中で、当初自らがアイヒマンであることを否定したが、少し経つとあっさり認めたという。
その後アイヒマンは、ブエノスアイレス市内のモサドのセーフハウスに置かれた後に、アルゼンチン独立記念日の式典へ参加したイスラエル政府関係者を帰国させるエル・アル航空ブリストル ブリタニアで、521にイスラエルへ連れ去られた。出国の際に彼は、酒をしみこませたエル・アル航空の客室乗務員の制服を着させられた上に薬で寝かされ、「酒に酔って寝込んだデッドヘッドの客室乗務員」としてアルゼンチンの税関職員の目を誤魔化したという。
さらに同機は当初ブラジルサンパウロ市郊外にあるヴィラコッポス国際空港を経由して同空港で給油する予定だったにもかかわらず、空港への到着前に同機にアイヒマンが搭乗していることが知られた場合、元ドイツ軍人やナチス党員の戦犯容疑者を含むドイツ系移民が多く、ドイツ系移民が一定の影響力を持つブラジル政府により離陸が差し止められる危険性があることから、ヴィラコッポス国際空港での給油を行わずにセネガルダカールまで無給油飛行を行うなど、移送には細心の注意が図られた。
イスラエル政府は暫くの間、サイモン・ヴィーゼンタールをはじめとする「ユダヤ人の民間人有志によって身柄を拘束された」として政府の関与を否定した。しかしながら最終的にその主張は覆された。ダヴィド・ベングリオン首相1960525クネセトでアイヒマンの身柄確保を発表し世界的なニュースとなった。当時モサド長官イサル・ハルエルは後にアイヒマンの身柄確保に関して『The House on Garibaldi Street』を著したマルキンも『Eichmann in My Hands』という本を著した。
獄中のアイヒマンは神経質で、部屋や便所をまめに掃除したりするなど至って普通の生活を送っていた。獄中のアイヒマンを知る人物は「普通の、どこにもいるような人物」と評した。なお、この逮捕および強制的な出国については、イスラエル政府がアルゼンチン政府に対して犯人逮捕および正式な犯罪人引き渡し手続きを行ったものではなかったため、後にアルゼンチンはイスラエルに対して主権侵害だとして抗議している。
アイヒマン裁判[編集]
アイヒマンの裁判1961411にイスラエルのエルサレムで始まった。「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、その裁判は国際的センセーションと同様に巨大な国際的な論争も引き起こした。275時間にわたって予備尋問を行われた。裁判の中でヒトラーの『我が闘争』は読んだことはないと述べている。
証言にしばしば伴ったドイツ政府による残虐行為の記述はホロコーストの現実および、当時ドイツを率いていたナチスの支配の弊害を直視することを全世界に強いた。一方で、自分の不利な証言を聞いている人物が小役人的な凡人であったことが、ふてぶてしい大悪人であると予想していた視聴者を戸惑わせた。裁判を通じてアイヒマンはドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。
この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残した(ソ連の指導者で数十万から数百万人とも言われる政敵を粛清したことで知られるヨシフ・スターリンも同じような言葉を残したとされるが、実際にはこの言はスターリンではなく、ドイツの反戦作家のエーリッヒ・マリア・レマルクの言葉だった事が近年証明された)。アイヒマンは死刑の判決を下されてもなお自らを無罪と抗議しておりその模様は記録映像にも残されている。
処刑[編集]
19611215、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下された。翌196261未明にラムラ刑務所で絞首刑が行われた。イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないため、イスラエルで執行された唯一の法制上の死刑である。遺体は焼却され遺灰は地中海に撒かれた。
処刑前に「最後に何か望みが無いか」と言われ、「ユダヤ教徒になる」と答えた。何故かとたずねると「これでまた一人ユダヤ人を殺せる」と返答をした問答の逸話も残された。最期の言葉は「ドイツ万歳、オーストリア万歳、そしてアルゼンチン万歳」であったと伝えられている。
処刑後、アイヒマンはいかなる服従の心理に基づいて動いたのかそれが学者の研究対象となり、役者の演技によって擬似的に作り出された権威の下にどれ程の服従を人間は見せるのかが実験で試され、「アイヒマンテスト」と呼ばれる事に話が繋がって行く(ミルグラム実験を参照)。
家族[編集]
アドルフ・アイヒマンは、19318月に彼の妻となるヴェロニカ・リーベル(Veronica Liebl、愛称ヴェラ)と知り合った。ヴェラはチェコスロヴァキアボヘミア地方ムラダー(Mladé)の農家出身のチェコ人女性であった。ヴェラによると2人が知り合ったのはリンツで行われた演奏会だったという。ヴェラは出会って一目でアイヒマンにひかれたという。ヴェラは熱心なカトリックであり、プロテスタントのアイヒマンとは信仰が異なったが、彼女はそれでもアイヒマンと結婚することに決めた。2人は1933年夏から結婚の準備を進めていたが、この頃オーストリア・ナチ党が禁止されたため、アドルフは妻のヴェラを伴ってドイツへ移住し、そこで結婚することとなった。アイヒマンは19341030日に親衛隊人種及び移住本部RuSHA)に結婚許可の申請をした。親衛隊の結婚にはRuSHAの許可が必要であり、妻となる女性が「アーリア人」であることを証明せねばならなかったが、ヴェラはチェコ人であったため、アイヒマンは書類の形式を整えるのに苦労したようである。許可が下りた後、2人は1935321日にパッサウで挙式した。しかしアドルフの同僚の親衛隊員達の間ではヴェラがチェコ人であることは公然であり、ヴィルヘルム・ヘットルde:Wilhelm HöttlSS少佐によるとチェコ人妻の存在はアドルフへの風当たりに原因の一つになっていたという。ヴェラも反教会的なナチ党を好ましく思っておらず、ナチ党への入党は最後までしなかった。アイヒマン夫妻は、1936年にベルリンで長男クラウス(Klaus)、1940年にウィーンで次男ホルスト(Horst)、更にその後三男ディーター(Dieter)を儲けている。親衛隊大尉ディーター・ヴィスリツェニーによるとアドルフは自分の子供には大変強い愛着を抱いていたが、逆に妻はどうでもよい存在になっていたという。
ヴェラはドイツの敗戦後、オーストリアのアルトアウスゼーで子供とともに暮らしていたが、アメリカの諜報部から尋問を受けた。ヴェラは「アドルフとは19453月に離婚しており、それから彼から連絡はない。自分が知る限りアドルフは死んだはずだ。」と主張した。さらにヴェラはアイヒマンを指名手配犯からはずそうとして、1947年にアイヒマンの死亡宣告をもらおうとしているが、アイヒマンがプラハで銃殺されたのを見たと主張している者がヴェラの義兄弟であることをナチハンターのサイモン・ヴィーゼンタールが立証してこれを阻止した。
1952年夏にアイヒマンはヴェラと子供たちをアルゼンチンへ呼び、再び一家で暮らすようになった。ここで四男リカルド・フランシスコ・クレメントを儲けた。1959年にはアイヒマンの継母マリアが死去し、父アドルフ・カールも後を追うように196025日に死去した。
人物[編集]
アイヒマンはみずからが反ユダヤ主義者ではないことをイスラエル警察の尋問や裁判で強調していたが、実際、アイヒマンの学生時代にはユダヤ人の友達もおり、特にミッシャ・セバ(Mischa Sebba)というユダヤ人とはアイヒマンがナチスに入党した後も親交があったという。
アイヒマンはユダヤ人移送の任務については息苦しいまでの厳格さを見せ、移送列車の発着時刻が正確に守られるよう気を配っていたという。1942714日にパリからポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所へ向かう列車が故障した事件があったが、アイヒマンは、電話で現地の指揮官に対して「今回のことは威信に関わる問題であり、事の全体は極めて屈辱的である」と激昂したという。
アイヒマンの信仰はプロテスタントであったが、教会からの脱会を定めたSDの内部規則にしたがって1937年にプロテスタント教会を脱会している。
アイヒマンはナチス幹部であるマルティン・ボルマンハインリッヒ・ミュラーヨーゼフ・メンゲレが南米で生き延びているとイスラエルの裁判で証言した(実際に確認されたのはメンゲレのみ)。
語録[編集]
アドルフ本人の発言[編集]
戦前戦中の発言[編集]
「先ごろ一連の地域で行われたユダヤ人の東方移住は、ドイツ本国、オストマルク(オーストリア)、及びベーメン・メーレン保護領におけるユダヤ人問題の、その最終的解決の幕開けである。」(1942131日、アイヒマンがドイツの占領地の全ゲシュタポ局に宛てた文書)
「百人の死は天災だが、一万人の死は統計にすぎない。」
「金貨など不要なのだ。金貨なら自分でも持っている。ほしいのは命令だ。これからどう進展するのか知りたいのに。」(敗戦直前エルンスト・カルテンブルンナーに面会を拒否され、その副官から金貨を渡された際に語った言葉)
逮捕後[編集]
「あの当時は『お前の父親は裏切り者だ』と言われれば、実の父親であっても殺したでしょう。私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに、何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。命令された内容はなんであれ、です。」(イスラエル警察の尋問で)
「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行します。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」(一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問に)
「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」(イスラエル警察の尋問で)
「私の罪は従順だったことだ。」
「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています。」(絞首刑になる直前のアイヒマンの言葉)
人物評[編集]
「決定的だったのは彼のコンプレックスだった。SDでは責任あるポストは大学卒業者で占められていたが、彼にはどの学校の卒業資格もなかったので、そのことが大変なショックだった。それに追い打ちをかけたのが、彼が『ユダヤ人風の容貌』をしているという同志たちの意地の悪い言葉だった。同志からジギ・アイヒマンと呼ばれ、そのことでもひどく傷ついていた。」(親衛隊少佐ヴィルヘルム・ヘットルWilhelm Höttl))
「私は彼が比較的単純な男だとわかった。知性に関していえば興味を引くところはなく、著しい天才なわけではない。ぶっきらぼうな親衛隊員だった。」(親衛隊少将フランツ・ジックス
「赤毛の人間を全部殺せとか、名前がKで始まる人間を全部殺せと命令されても、奴ならばその通りに実行するだろう。」(ナチハンターサイモン・ヴィーゼンタール
「あそこまで魂を売り渡した心理状態の男を私はこれまで見たことがない。我々は知的水準の極めて高い男と対峙していると感じていた。だがその一方で、我々の目の前にいるのは無に等しい男であり、一から十まで協力的で一度たりとも面倒をかけず、時には自分から協力を申し出る腑抜けだった。」(イスラエル諜報特務庁長官イサル・ハルエル)
「もしも彼がより人間的だったなら、彼の人間性が悪の機構に加わることを許さなかっただろう。彼がより非人間的だったなら、仕事の有能さに欠けていたことだろう。ところが彼はその中間であり、ボタンを押せと命じられればボタンを押し、そのボタンを正確に押すことだけに腐心してしまい、ボタンを押せば誰がどこで生命を失うかといったことは考えもしないという、まさしく陳腐な人間を体現していたのだ。」(心理学者ブルーノ・ベッテルハイム
「アイヒマン問題は過去の問題ではない。我々は誰でも等しくアイヒマンの後裔、少なくともアイヒマン的世界の後裔である。我々は機構の中で無抵抗かつ無責任に歯車のように機能してしまい、道徳的な力がその機構に対抗できず、誰もがアイヒマンになりえる可能性があるのだ。」(哲学者ギュンター・アンデルスGünther Anders))


英仏独ニュースダイジェスト 19954月掲載       高橋‐Mormann容子
アイヒマン裁判
戦後、人々は疲弊したヨーロッパ大陸に背を向け、南北アメリカへと移住を始める。1950年にイタリアからアルゼンチンへと旅立ったリカルド・クレメントもその仲間だった。だが彼が他の移民と違っていたのは、戦争犯罪人の逃走を助ける元親衛隊組織オデッサ(注)とカトリック教会に仲介され、バチカン市国からパスポートを手渡されていたことだった。
1960年、クレメントは再びアルゼンチンを離れる。だが自由意志ではない。イスラエル情報部に発見され、誘拐されてエルサレムへ連行されたのだ。このリカルド・クレメントこそ元帝国公安中央省内、秘密警察第4課B4「ユダヤ人移住担当中央署」、後の「ユダヤ人問題分署」所長、アドルフ・アイヒマンであった。
エルサレムでは、15の罪科で彼を断罪する裁判が待っていた。「アウシュビッツで数百万人のユダヤ人を毒ガスによって殺し、強制収容所で数十万人を死に追いやり、50万人のポーランド人を強制移住させ、ブダペストでユダヤ人の子供一人を手ずから殺した」ことが主な求刑理由だった。1961年、彼は有罪判決を受け、絞首刑に処される。
このアイヒマン裁判は、いやが上にも世界の注目を集める結果となった。だが歓迎されたのはではない。例えば、オーストリア共和国は頭を抱えた。アイヒマンはオーストリア人だったからだ。彼のために国の評判が悪くなり、有罪ともなれば補償金の工面をしなければならない。そう予想した内相アフリッチは、妙案を思い付いた。30年代、アイヒマンはドイツ国内のオーストリア外人部隊にいた。つまり外国で軍職にあったわけで、それは違法行為であり、よって国籍をはく奪できる。こうして「オーストリアはナチスドイツの最初の犠牲国であり、共犯国ではない」との神話は保たれた。
だがドイツ(西ドイツの意。以下同様)にそんな妙案はなかった。50年代末、ドイツはある程度、過去を片付けたように見えていた。ドイツの法廷がナチ戦犯の発見と責任追求に消極的だったからだ。裁判官は被告の行為に最大の理解を示し、数年前なら占領軍下で死刑に処せられたであろう犯罪でも、懲役数年の判決を下していた。「ドイツ害虫駆除会社」常務ゲルハルト・F・ペータース博士に対する判決がその一例だろう。この会社は毒ガスのチクロンB20トン以上もアウシュビッツへ納入しており、その責任は使用目的を承知していたペータース博士にあった。だが一連の審理を経た1955年、裁判官は被告に無罪を宣告する。時が経過するほどに人は「当時」の話に飽き、過去はこうした形で決着しつつあった。そこにふってわいたのが、アイヒマン裁判だったのである。
だがこの裁判は、ニュールンベルクとは政治的、社会的に全く異なる環境で開かれた。ニュールンベルク裁判は終戦直後のことであり、戦犯を迅速、かつ公正に裁く目的があった。だが時は1961年。戦争は16年も前に終わっている。それは「ナチス千年帝国」の政権期間より長い。西ドイツでは経済の奇跡が最初の実りをもたらし、人々は「欧州人意識」に夢中だった。自分たちも「普通の西」ヨーロッパ民族として、他の欧州人と肩を並べていこう、という意識が高まりつつあった。だが、エルサレムではアイヒマンが法廷に立っていたのだ。
イスラエルのギデオン・ハウスナー検事はアイヒマンをネロやチンギス・ハンに例え、彼らの残虐行為はアイヒマンの犯罪に比べるとと見劣りがするとまで言い切った。アイヒマンはヒトラーよりひどい。怪物、人間の形をした悪魔である、と。その通りだったかもしれない。だが問題は、被告があまりにも「普通の怪物」だったことだ。自伝によれば、アイヒマンは「より忠実に秩序正しく、より勤勉に働いた親衛隊帝国公安中央省の警察官僚」だった。もし彼が怪物なら、ナチの「虐殺装置」を操作した何千ものドイツ人もそうだっただろう。チクロンBを発送したペータース博士や、アウシュビッツの焼却炉を建設し、1953年に「死体消却のための方法と装置」で特許を取得した株式会社トプフの技術者たちも、小さなアイヒマンだったはずだ。
裁判を傍聴したオランダ人作家ハリー・ムーリシュは、アイヒマンを「進歩の象徴」と名付けた。忠誠心で義務を全うする機械人間の典型であると。イデオロギー信奉者たちは少なくとも人間の戦いをする。だが機械人間は、偶然に付いた上役に機械的に従う。アイヒマンはただ「命令を遂行」したのだ。そして彼らアイヒマンたちは世界中に存在し、現代社会では有能とみなされている、と。
この裁判はドイツ人に「無批判の結果」をしらしめ、「議論能力の育成」を第一目標とする教育を生むきっかけとなった。新しい世代は失語症に陥ってはならず、基本法204項にある「抵抗の権利」を自覚しなければならない。これと対比して日本の管理教育を考えると、官僚型たて社会の将来がひどく不安になる。次回は、戦後のドイツを考える上で欠かせない「ユダヤ人問題」を取り上げる。



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