藤沢周平伝 笹沢信 2013.11.15.
2013.11.15. 藤沢周平伝
著者 笹沢信 1942年京城市生まれ。66年山形大文理学部卒。山形新聞社入社、主に文化欄担当。98年退社。出版社「一粒社」立ち上げ。94年小説集『飛島へ』(深夜叢書社)で山形市芸術文化協会賞、13年『ひさし伝』(新潮社)で真壁仁・野の文化賞、山形市芸術文化協会特別賞
発行日 2013.9.10. 印刷 10.5. 発行
発行所 白水社
はじめに
藤沢周平死後16年を経てなお根強い人気を誇る
藤沢文学の魅力 ⇒ 市井に生きる人々に注がれるやさしい眼差し、忘れられかけている日本の原風景の再現、端正で清冽な詩情溢れる文章など
時代小説、歴史小説、伝記小説と作品の世界は広い
究極的に人間を書くのが小説だとして、小説を書くとは、人間の根底にあるものに問いかけ、人間はこういうものかと、仮に答えを出す作業だという
ジャンルは違っても不易流行の思想は不変であり、「死と再生」の文学
本書の執筆動機
①
筆者が漫然と過ごすうちに周平の享年を迎え、漠然とした感傷めいた感情から、周平の世界と生涯を辿ろうとした
②
94年第10回東京都文化賞を受賞した時のスピーチで、「40年来東京に住んでいながら顔はいつも山形を向いていた」というのを聞いて、周平ほど郷土に執した作家は珍しく、周平の活字による証言を得ながら、山形から情報を発信してみようと思った
第1章
乳のごとき原郷
生家は自作兼小作の中の下クラスの農家、誕生の頃は不況と米価下落に苦しんでいた
5年の担任がひどい癇癪持ちで学校中で一番怖い先生だったせいか、担任の着任と共に11歳でどもりに ⇒ 緊張すると声が出なくなる失語症
尋常小学校では声を出せない目立たない生徒だったが、卒業の時郡賞を受けるも、答辞は開校以来初の代読
長兄が召集されたため、一家の働き手として留治(周平)は、昼は文選の仕事をし、中学の夜学部に通う
終戦を迎え、山形師範へ進学、卒業後(49年)村の中学校に赴任 ⇒ 同僚の教師夫婦の妹・三浦悦子が3年に在学中で後に結婚
師範学校時代、同人雑誌に加わり、ジャンルとして詩を選んだのが文学へのスタート
第2章
結核療養所は大学
51年、学校の集団検診で肺結核が見つかり鶴岡市内の病院に入院、5か月後にいったん退院するが、運送業に手を出していた兄が事業に失敗して病状が悪化、53年東村山の結核療養所である篠田病院・林間荘に転院 ⇒ 初めて雪のない冬の東京を見てカルチャーショック。結核が分かって、結納まで交わした師範時代から続いた愛は破談に
立原正秋は藤沢文学の理解者の1人で積極的に応援。周平との接点は、72年の『オール讀物』新人賞受賞の時の選考委員だったこともあるが、立原の秀作『果樹園への道』が山形市の盆地を囲む峠を行きつ戻りつする人間模様を描き周平も取材に同行していることもある。周平も同じ直木賞作家の立原を敬愛
療養生活は快適、読書、俳句、ギター、囲碁、花札まで覚え、周平自身も病院生活が無かったら小説を書けたかどうか疑わしいと言っている
特に俳句に没頭 ⇒ 昭和初期の「ホトトギス」で活躍した四S(水原秋桜子、高野素十、山口誓子、阿波野青畝)らの主観写生に惹かれ、後の秀逸な自然描写の視線に繋がる
秋桜子の『馬酔木』系で静岡の俳誌『海坂』に投稿 ⇒ 後に周平が小説の舞台とした北国の小藩「海坂」は、句誌の名前を無断借用したもの
「海坂」 ⇒ 海神の国と人の国とを隔てる境界を意味する古語、「海界・海境」とも
3度の手術を経て、57年山形で教職への復帰を目指すが、肺病の病み上がりに就職口はなく、失意のうちに東京に戻り、知人の紹介で業界紙の仕事に就く
当時の山形県は、施設設備の福岡、教育理論の長野と並び3大教育県と言われていた
第3章
死と再生の季節
幾つかの業界紙を転々とする間に悦子と結婚、60年日本食品経済社による週刊の業界紙創刊に加わり、その頃から自分の周囲への鬱屈した気持ちを小説にし始める ⇒ 06年、当時の未刊行の作品15篇が見つかり刊行されたが、第1期の全集に収録されていないのは周平の強い意志が働いていたのではないか(後年の作品との類似性が指摘され、書き直して発表したということも考えられる)
懸賞小説に応募し始め、63年讀賣新聞の短編小説コンクールで選外佳作、選考は吉田健一
長女誕生の直後、妻の末期癌が発覚、64年死去、周平は自分の人生も一緒に終わったと感じる ⇒ 母親、娘との3人暮らし
64年から『オール讀物』新人賞に投稿を始め、71年『溟い海』が最終候補に残る
69年再婚 ⇒ 70年、清瀬の都営住宅から久留米の一軒家に移る
政治には距離を取ってきた周平だが、1度だけ、山形師範の同級生が共産党から立候補したときには請われて応援演説をしたが、共産党との繋がりはその後も続き73年頃からは『赤旗』への連載も始めている
第4章
『溟い海』で遅い船出
71年『溟い海』が新人賞受賞、選考委員は遠藤周作、曽野綾子、立原正秋、南条範夫、駒田信二。大願成就はしたもののまだ小説で暮らしていくとは夢にも思わず、会社勤めもそのままで、そのあとのことは成り行きとしか言えないと言っている
『溟い海』は、周平の「追い詰められた気持ち」「孤独感」が北斎の内面に映されている事実上の処女作 ⇒ 北斎が、安藤広重の若さと才能に嫉妬するが、広重の横顔にも浮世に傷ついた陰惨な翳を見て、自分たちと同じ『溟い海』に宿る仲間だと悟る
同年生まれの作家には、城山三郎、吉村昭、結城昌治、北杜生、小川国夫らがいるが、最も早く頭角を現したのは城山で58年直木賞
藤沢周平のペンネーム ⇒ 『溟い海』以前からも使っている。藤沢は生地の隣村の名で悦子の生地、周も悦子の姉の甥の名を一字借用
直木賞は3度候補に上がり、いずれも受賞作なしに終わり、73年の4回目『暗殺の年輪』で漸く長部日出雄と同時受賞、選考委員は石坂洋次郎、川口松太郎、源氏鶏太、司馬遼太郎、柴田錬三郎、松本清張、水上勉、村上元三で、「決定的傑作」ではないが過去の実績と将来に対する期待が受賞に繋がったようで、文壇に確たる地位を築く
受賞作をもって故郷に帰り、郷里との距離を縮める
エッセイ『信長ぎらい』、『逆軍の旗』の周辺 ⇒ 元々嫌いではなかった。信長が長生きしていたら世界と対等の国交を結ぶだけの器量があったと思い込んでいたが、数々の無力な民の虐殺に嗜虐性を垣間見たとき、安易に強面の英雄を求めてはならないと考えた
「権力・権威ぎらい」についても、普通の人には感じない敏感さを持っていた ⇒ 『岩手夢幻紀行』で宮澤賢治記念館について、完璧な記念館ではありながら、敬意と愛情を反映しようとする意思が強過ぎて、啄木記念館に見られる猥雑さ・俗っぽさがなく、微かに権威主義の匂いを感じた、と書いている。「流行ぎらい」にも通じる
「夏葛冬裘(かかつとうきゅう)」(自然に逆らわない生き方)こそ養生
74年、原稿依頼殺到に追われ日本食品経済社退社、筆一本で暮らすことへの不安を抱えながら作家として独立
方言に拘って作品を書いた作家 ⇒ 周平や井上ひさし。方言とその背後にあって未だ十分に活性を残している筈の個性的な文化に心惹かれる。東京で暮らしたからこそ分かる感覚で、方言に拘って書いた小説が『春秋山伏記』
文章のうまさと構成力の確かさは、当初から定評があったが、読後感がひどく暗い
75年の『臍曲がり新左』、76年『用心棒日月抄』辺りから転調、明るさとユーモアが添加され、心を癒す作品として受け入れられるようになる
第5章
負から正のロマンへ
歴史小説 ⇒ 史実を忠実に重視したもの
時代小説 ⇒ 史実や時代状況を踏まえながら、虚構を加えたもの
エッセイ『試行のたのしみ』 ⇒ 歴史小説も動かし難い歴史的事実とされてきた事柄は尊重しつつ、小説である以上作者の想像力が働き掛けて成立するが、想像は小説家の領分といっても自ずから許容範囲があって、大きく逸脱しないのが歴史に対するエチケット
76年、終の栖となる大泉学園に引っ越す ⇒ 粗末な殺風景な書斎
77年、『オール讀物』新人賞の選考委員に ⇒ 井上ひさし、城山三郎他と。9.5年続く
78年『一茶』 ⇒ 周平には、自分に似た境遇にあった一茶が、殆ど唯1人といっていいほど、鮮明な人間の顔を見せた人と思えた
『用心棒日月抄』 ⇒ 赤穂浪士の復讐劇の外伝の趣があり、史実を取り込むことで物語にリアリティを与えている。赤穂事件に関する関心は高く、他にいくつもある
第6章
老いと人生の哀感
82年頃から『白き瓶』『海鳴り』の取材が始まるが、自律神経失調症に悩む
初老の男女の恋愛を描いた『海鳴り』は代表作の1つ ⇒ 82年河北新報に連載
運命と宿命の組み合わさったものとして、ひとの人生を凝視する
詩人長塚節の評伝が『白い瓶』 ⇒ 16歳くらいから関心を寄せていた。評伝と同時に子規-伊藤左千夫-長塚節-齋藤茂吉-島木赤彦と続く「アララギ」を軸とした近代短歌史の一部をもなしている
青年時代、アラン・ポーを読んでミステリーファンとなったが、その縁で87年に1回だけ日本推理作家協会賞の選考委員に
88年『たそがれ清兵衛』
89年、菊池寛賞
89年『市塵』⇒ 新井白石の生涯を描いた歴史小説。90年の芸術選奨文部大臣賞に
90年『わが思い出の山形』⇒ 山形市内の月刊タウン誌『やまがた散歩』に連載したエッセイ。原稿料無料の故郷への恩返し的作品。周平の律義さの現れ。青春時代を克明に記す。鶴岡のタウン誌にも投稿したり、同人誌『荘内文学』に掲載された各作品についての詳細懇切な感想・批評を寄せたりして、地縁に繋がる後進を励ましているのは周平の人柄
第7章
失われた世界への共感
90年『浦島』連載 ⇒ 『文藝春秋』が当代の実力派作家15人に新作短編を依頼、誌上で競わせる企画を立てて話題となったが、純文学系の作家に交じって周平は唯一の時代小説作家として取り上げられ、丸谷才一、安岡章太郎に次ぐ3番目に掲載、あとは大江健三郎、吉行淳之介、村上春樹、三浦哲郎、田久保英夫、大庭みな子、遠藤周作、河野多恵子、瀬戸内寂聴、古井由吉、日野啓三、吉村昭
かつてあった日本と日本人の美しい面を描き出す作家 ⇒ 描かれたものこそ現代に最も欠けているものゆえに、共感を呼ぶのだろう。女性像、廉恥心、武士の教育は品性を建つるにあり、虚言遁辞は卑怯、男と男の友情、男女の抑制された慕情の美しさ等々
現代の作家の中で最も自然描写に巧みな作家
92年、第1期の『藤沢周平全集』刊行開始(~94年) ⇒ 「月報」に自伝的エッセイを執筆、自ら、小説を書くようになった経緯、もっと端的に言えばどのような筋道があって小説家になったのかを振り返ってみたいと言って書いたものであり、周平の魂の遍歴をつぶさに知ることができる
94年、時代小説の完成を理由に朝日賞受賞 ⇒ 銀婚式と重なり、先妻を癌で亡くして再婚したことを明かす
94年、鶴岡市の名誉市民に推挙されるが固辞 ⇒ 無位無官でなくなり、自由が束縛されるというのがその理由
95年、紫綬褒章 ⇒ 作家としては関係ないと言って、地元紙以外のインタビューは断る
第8章
有終へ
96年、最後の短篇『偉丈夫』⇒ 海坂班と支藩の海上藩との境界争いを描くユーモア溢れる作品
同年、20代の結核手術の際の輸血で感染した肝炎を発症、『文藝春秋』に連載していた長篇『漆の実のみのる国』(地元の偉人・上杉鷹山の藩政改革の挫折と失敗・失望を描く)は4月号から休載。一旦退院した間に6枚の最終回を書き上げ、これが絶筆となる ⇒ 編集者に渡されたが、本復まで保管することにしたため掲載されず
鶴岡の小学校(元勤務していた中学校)に記念碑建立、除幕式には体調不良で出席できず ⇒ 山形県内に既に800を超える歌碑があり、ごみの山に埋もれているものもあることを慨嘆したエッセイがあり、最初に記念碑の話が出た時も拒否していたが、「みんなの記念碑にする」という条件で承諾
97年の結婚記念日まで頑張って死去
弔辞で、丸谷才一は、「戦後の時代小説は文章がよくなった。意味がよく通るし、言葉の選び方も丁寧になった。並ぶ者のない文章の名手」と藤沢文学の核心を述べ、井上ひさしは、「理想郷海坂を与えてくださってありがとう」といった
県民栄誉賞が追贈されることとなり、遺族は県民の気持ちと思って受けたが、同じ庄内出身の佐高信は、「名誉市民を断ったと聞いて粛然とさせられた私としては、かなり割り切れないものが残る」と述べている
直後に、日本食品経済社倒産、日本加工食品新聞も廃刊
一周忌を済ませると夫人は引越し、大泉の自宅を手放し、在りし日を偲ぶ品々は鶴岡に運ばれて、鶴岡公園内に建立された記念館に収められ、2010年開館
00年、「寒梅忌」スタート
没後、「海坂もの」だけを収録した『海坂藩大全』が刊行されたが、ここに使われた活字はファンの活字デザイナーが考案した「海坂明朝体/游明朝体R」(9500字)
周平が本領とした市井小説の世界は、心の連帯と温もりを失って彷徨う現代人にとってはカナンの地とも言える。失われた楽土の岸辺に曳航する水先案内人が藤沢文学
あとがき
新聞社在籍中、たびたび原稿を依頼したこともあり、氏の活躍の全容を同時進行で眺めてきた。山形県出身の氏と井上ひさし氏の評伝を書くのは、師範学校時代の同人誌の仲間だった松坂俊夫氏しかいないと思っていたが、同氏が94年に早世。たまたま自分が『ひさし伝』書くことになり、周囲から次は『周平伝』だとおだてられたのが本書のきっかけ
藤沢周平伝 笹沢信著 故郷からみた作家の生涯
日本経済新聞2013/10/20付
死後十数年を経ても、藤沢周平の人気に衰えは見えない。膨大な作品は新刊書店で購入することが可能であり、現在もファンを増やし続けているのだ。そのような作家だけに、娘の遠藤展子が上梓した『藤沢周平 父の周辺』『父・藤沢周平との暮し』を始め、藤沢周平に関する著書も多い。そこに藤沢周平の生涯を、まるごと描いた、新たな一冊が加わることになった。
(白水社・3000円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
本書の特色は、作者の立ち位置にある。周知の事実であるが、現在の山形県鶴岡市に生まれた藤沢周平は、東京で暮らすようになってからも、終生、故郷を愛し続けた。一連の作品の舞台になった架空の藩「海坂藩」は、藤沢周平の故郷の風景をモデルにしている。本書の作者は、その山形にある「山形新聞」の記者として、昭和40年から平成10年まで在籍し、主に文化欄を担当。藤沢周平にも、たびたび原稿を依頼していたのだ。故郷への想いを託した作品を、多数残した作家を描き出すには、まさに適役といっていいのである。
とはいえ本書の構成はオーソドックスだ。山形の農家に生まれてから、69歳で死去するまで、藤沢周平の生涯が、時間軸に沿って綴られている。また、藤沢作品のテーマを“死と再生”と定義して、作風の変遷を丹念に見つめているのだ。その中から藤沢周平が、いかに故郷にこだわり続けていたかを、浮かび上がらせていく。常に故郷の方を向いていた作家の姿を、故郷の地から見つめ返したところに、本書独自の面白さがあるのだ。
さらに、あとがきで、「活字になっている資料だけを使い、読者が追体験できる方法をとった」とあるように、藤沢周平と作品について書かれた文章を博捜し、積極的に使用しているのも、注目ポイントであろう。複数の視点を得ることで、客観性を確保しようとするのは、いかにもジャーナリストらしい手法だ。藤沢周平に関係する自身の見聞も、きわめて冷静に扱っている。以上の2点から本書は、山形在住の元新聞記者だからこそ書けた、藤沢周平の伝記になっているのだ。
(文芸評論家 細谷正充)
Wikipedia
来歴・人物[編集]
生い立ち[編集]
山形県東田川郡黄金村大字高坂字楯ノ下(現在の鶴岡市高坂)に生まれる。父小菅繁蔵、母たきゑの第四子(きょうだいは順に繁美、このゑ、久治、留治、てつ子、繁治)。実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになる。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素である。
1934年、青龍寺尋常高等小学校入学(在学中に黄金村国民学校に改称。現在の鶴岡市立黄金小学校)。小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読し、登下校の最中にも書物を手放さなかった。1942年、黄金村国民学校高等科を卒業し、山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。
1946年に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進む。入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加した(このときの同人は蒲生芳郎など)。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれている。
教員時代[編集]
1949年、山形師範学校を卒業後、山形県西田川郡湯田川村立湯田川中学校(鶴岡市湯田川、現在は鶴岡市立鶴岡第四中学校へ統合)へ赴任し[2]、国語と社会を担当。1951年、『砕氷船』の後継誌である『プレリュウド』に参加した。しかし、この年3月の集団検診で肺結核が発見され、休職を余儀なくされる。
1952年2月、東京都北多摩郡東村山町(現在の東村山市)の篠田病院に入院し、保生園病院において右肺上葉切除の大手術を受けた。予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、俳誌『海坂』に投稿をおこなうようになる。北邨という俳号を用いた。またこの時期に大いに読書に励み、ことに海外小説に親しみ、作家生活の素地を完成させた。
記者時代[編集]
1957年、退院準備に入るものの思わしい就職先が見つからず、郷里で教員生活を送ることを断念。練馬区貫井町に下宿して業界新聞に勤めはじめるも、倒産などが相次ぎ数紙を転々とする。1959年、三浦悦子と結婚。8歳年下の同郷者であった。1960年に株式会社日本食品経済社に入社、『日本食品加工新聞』の記者となる。以後作家生活に専念するまで同社に勤務、記者としての仕事は、本人の性にあっており、精力的に取材執筆を行う。のちに同紙編集長に昇進し、ハム・ソーセージ業界について健筆を振るい、業界の健全化に尽力した。コラム「甘味辛味」を共同で執筆。取材先の一つで日本ハム創業者で当時社長の大社義規とは信頼関係を結んだ[3]。そのかたわら文学への情熱やみがたく、勤務のかたわらこつこつと小説を書きつづけていた。当時はもっぱら純文学を志していたらしい(1963年には、読売新聞短編小説賞に『赤い夕日』が選外佳作となった)。
1963年、長女展子が生れるも10月に妻悦子が28歳の若さでがんにより[4]急逝。このことに強い衝撃を受け、やり場のない虚無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになり、主に大衆的な「倶楽部雑誌」に短編を発表(『藤沢周平 未刊行初期短編』に収録)。藤沢作品の初期に特徴的な、救いのない暗い雰囲気とヒロインの悲劇には、妻の死がつよく影響を与えていると思われる。翌年以降、毎年のようにオール讀物新人賞に投稿を始める。1965年から藤沢周平のペンネームを使いはじめた。「藤沢」は悦子の実家のある地名(鶴岡市藤沢)から、「周」の字は悦子の親族の名から採られている[5]。
作家デビュー[編集]
1969年、高澤和子と再婚。長女とあわせて三人家族となる。1971年についに 『溟い海』が第38回オール讀物新人賞を受賞し、直木賞候補となり、翌年『暗殺の年輪』で第69回直木賞。新進の時代小説作家として認められるようになる。この年最初の作品集『暗殺の年輪』を文藝春秋より刊行し、翌1974年には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る。
この頃の自分の心境を、藤沢はこう述べている。
「三十代のおしまいごろから四十代のはじめにかけて、私はかなりしつこい鬱屈をかかえて暮らしていた。鬱屈といっても仕事や世の中に対する不満といったものではなく、まったく私的なものだったが、私はそれを通して世の中に絶望し、またそういう自分自身にも愛想をつかしていた。(中略)(そういう鬱屈の解消方法が)私の場合は小説を書く作業につながった。「溟い海」は、そんなぐあいで出来上がった小説である。」
—(「溟い海」の背景)
「私自身当時の小説を読み返すと、少少苦痛を感じるほどに暗い仕上がりのものが多い。男女の愛は別離で終わるし、武士が死んで物語が終わるというふうだった。ハッピーエンドが書けなかった。」
—(転機の作物)
初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、地味な作家であったが、1976年刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変り、綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきた。藤沢は、これについて 「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んできた。北国風のユーモアが目覚めたということだったかも知れない」(転機の作物、要約)と述べている。
円熟の作家として[編集]
1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする(『時雨みち』『霜の朝』『龍を見た男』などの短篇集に所収)一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだす。刊行年によって挙げると、1980年に町人ものの『橋ものがたり』、捕物帳の『霧の果て-神谷玄次郎捕物控』、獄医立花登ものの第一作となる『春秋の檻-獄医立花登手控え』、『用心棒日月抄』の第二部『孤剣』、翌1981年にはユーモア色を生かした『隠し剣孤影抄』『隠し剣秋風抄』と立花登ものの第二作『風雪の檻』、1982年には同じく『愛憎の檻』、1983年には『用心棒日月抄』の系統を生かした『よろずや平四郎活人剣』、立花登第三作『人間の檻』、『用心棒日月抄』の第三作『刺客』などがある。
1984年以降になると、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作が相次いで発表・刊行されるようになる。すでに1980年に唯一の伝奇小説『闇の傀儡師』、1982年に江戸のハードボイルドを狙ったといわれる彫師伊之助ものの第二作『漆黒の霧の中で-彫師伊之助捕物覚え』が上梓されているが、1984年には江戸を舞台にした恋愛小説『海鳴り』、1985年には武家青春小説とお家騒動ものの系譜の集大成ともいえる『風の果て』と伊之助もの第三作『ささやく河』が刊行され、いずれも高い人気を得た。
晩年[編集]
1995年頃より、若いころの結核手術の際の輸血に際し罹患した肝炎により、1996年には入退院をくりかえす。1996年7月に帰宅した際、『文藝春秋』への連載が4月号より中断していた「漆の実のみのる国」結末部の6枚を執筆した。
没後、山形県県民栄誉賞と鶴岡市特別顕彰(鶴岡市名誉市民顕彰と同等)が贈られた。
受賞歴と選考委員歴[編集]
受賞歴[編集]
選考委員[編集]
エピソード[編集]
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織田信長の先進性を認めながらも、小説の下調べのため史料を調べている時に残虐な振る舞いの多さに気づき、以降信長を嫌うようになった、とエッセイ『信長ぎらい』で述べている。別のエッセイによれば、この小説は明智光秀を描いた小説『逆軍の旗』のことであったという。また、この信長観については「全集」解説を担当している向井敏が、司馬遼太郎との差異として取り上げている。
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趣味は囲碁。日本棋院から初段を認められる腕前であり、職場(新聞社)の昼休みに打つ他、作家専業になってからも近所の碁会所に通ったり、作家仲間と打つなどしていた。碁に負けると林海峰の『定石の急所』を帰宅後ひそかに読んでいたという。本人は「直木賞をとってもアマ四段の職場の同僚に負けており、なかなか腕が上がらない」と述べている。また、しばしばエッセイで囲碁について触れている。
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郷里である山形県鶴岡市に憧憬があり、作品に反映されている。とくに庄内交通湯野浜線電車(1975年廃止)が馴染みがあったこともあり、書斎には同線が廃止になった際に作られたレールの文鎮があり、愛用していた。[8]また、1975年に発刊された『消えゆく山形の私鉄電車』(久保田久雄、東北出版企画)にも、湯野浜線電車廃止についてコメントを寄せている。
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自伝随想集である『周平独言』内では、「ある政党」を応援していると記してあるが、同項で文学と政治では分野が異なると述べ、選挙応援などの政治活動は自分には似合わないことのような気がするとも記している。
著書[編集]
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暗殺の年輪 文藝春秋 1973 のち文庫
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又蔵の火 文藝春秋 1974 のち文庫
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闇の梯子 文藝春秋 1974 のち文庫
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檻車墨河を渡る 文藝春秋 1975 「雲奔る 小説・雲井龍雄」 文春文庫 1982、のち中公文庫
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竹光始末 立風書房 1976 のち新潮文庫
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時雨のあと 立風書房 1976 のち新潮文庫
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冤罪 青樹社 1976 のち新潮文庫
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暁のひかり 光風社書店 1976 のち文春文庫
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逆軍の旗 青樹社 1976 のち文春文庫
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闇の穴 立風書房 1977 のち新潮文庫
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長門守の陰謀 立風書房 1978 のち文春文庫
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一茶 文藝春秋 1978 のち文庫
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神隠し 青樹社 1979 のち新潮文庫
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雪明かり 講談社文庫 1979
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消えた女 彫師伊之助捕物覚え 立風書房 1979 のち新潮文庫
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回天の門 文藝春秋 1979 のち文庫
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驟り雨 青樹社 1980 のち新潮文庫
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橋ものがたり 実業之日本社 1980 のち新潮文庫
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春秋の檻 獄医立花登手控え1 講談社 1980 のち文庫
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闇の傀儡師 文藝春秋 1980 のち文庫
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夜の橋 中央公論社 1981 のち文庫、文春文庫
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風雪の檻 獄医立花登手控え2 講談社 1981 のち文庫
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周平独言 中央公論社 1981 のち文庫、文春文庫
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時雨みち 青樹社 1981 のち新潮文庫
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藤沢周平短篇傑作選 全4巻 文藝春秋 1981
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霜の朝 青樹社 1981 のち新潮文庫
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密謀 毎日新聞社 1982 のち新潮文庫
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漆黒の霧の中で 彫師伊之助捕物覚え 新潮社 1982 のち文庫
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愛憎の檻 獄医立花登手控え3 講談社 1982 のち文庫
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人間の檻 獄医立花登手控え4 講談社 1983 のち文庫
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龍を見た男 青樹社 1983 のち新潮文庫
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海鳴り 文藝春秋 1984 のち文庫
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決闘の辻 藤沢版新剣客伝 講談社 1985 のち文庫
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ささやく河 彫師伊之助捕物覚え 新潮社 1985 のち文庫
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潮田伝五郎置文 東京文芸社 1985 のち光風社出版
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小説の周辺 潮出版社 1986 のち文春文庫
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本所しぐれ町物語 新潮社 1987 のち文庫
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麦屋町昼下がり 文藝春秋 1989 のち文庫
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玄鳥 文藝春秋 1991 のち文庫
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藤沢周平全集 文藝春秋、※第1~23巻 1992-94、第24・25巻・別巻 2002、第26巻 2012
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天保悪党伝 角川書店 1992 のち文庫、新潮文庫
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藤沢周平珠玉選 全9巻 青樹社 1993-94
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半生の記 文藝春秋 1994 のち文庫
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夜消える 文春文庫 1994 のち文藝春秋
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ふるさとへ廻る六部は 新潮文庫 1995 のち新潮社
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日暮れ竹河岸 文藝春秋 1996 のち文庫
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早春 その他 文藝春秋 1998 のち文庫
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静かな木 新潮社 1998 のち文庫
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藤沢周平句集 文藝春秋 1999
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藤沢周平未刊行初期短篇 文藝春秋 2006
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海坂藩大全 上・下 文藝春秋 2007
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帰省 未刊行エッセイ集 文藝春秋 2008 のち文庫
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無用の隠密 未刊行初期短篇 文春文庫 2009
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乳のごとき故郷 文藝春秋 2010
著作の他メディア展開[編集]
映画[編集]
テレビドラマ[編集]
舞台[編集]
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きょうの雨あしたの風 (2002年、劇団俳優座 脚本:吉永仁郎)
[驟り雨]より「うしろ姿」、[時雨みち]より「おばさん」、[竹光始末]より「冬の終わりに」
3作品を一つの劇にした。(劇団俳優座で、2002年秋に東京での初演以降も全国各地で上演している)
[驟り雨]より「うしろ姿」、[時雨みち]より「おばさん」、[竹光始末]より「冬の終わりに」
3作品を一つの劇にした。(劇団俳優座で、2002年秋に東京での初演以降も全国各地で上演している)
朗読(ラジオほか)[編集]
関連文献[編集]
作家本人の身辺を主とするもの[編集]
作家論・作品論を主とするもの[編集]
要素の複合したもの[編集]
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元版は 『藤沢周平と庄内 海坂藩を訪ねる旅』(ダイヤモンド社、1997年)
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続編に 『続 藤沢周平と庄内 海坂藩の人と風』(同上、1999年)
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山形新聞社編 『没後十年 藤沢周平読本』(荒蝦夷(仙台市)、2008年)、※「山形新聞」連載企画を書籍化
高橋義夫、中村明、蒲生芳郎、井上史雄、井上ひさし、佐伯一麦、佐藤賢一、杉村隆、酒井賀世、奥島孝康、仲川秀樹、中村敦夫ほかが寄稿。
高橋義夫、中村明、蒲生芳郎、井上史雄、井上ひさし、佐伯一麦、佐藤賢一、杉村隆、酒井賀世、奥島孝康、仲川秀樹、中村敦夫ほかが寄稿。
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笹沢信 『藤沢周平伝』(白水社、2013年9月)、※郷里・山形からの視点を軸に描いた評伝で、著者は元山形新聞社記者。
参考文献[編集]
脚注[編集]
10.
^ 夫遠藤崇寿と共に『わたしの藤沢周平』(宝島社、2009年1月/文春文庫、2012年10月)の監修を行っている。本書は、没後10年を記念した番組『わたしの藤沢周平』(NHK衛星放送BS2)の書籍化で、著名人30数名のファンが、好きな作品を選び想いを語っている。
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