ギャンブラー・モーツァルト  Günter G. Bauer  2013.11.22.

2013.11.22.  ギャンブラー・モーツァルト 「遊びの世紀」に生きた天才
Mozart-Glück Spiel und Leidenschaft(運、遊び、熱狂)  2005

著者 Günter G. Bauer 1928年ブレゲンツ生まれ。ザルツブルクのモーツァルテウム音楽演劇大学にて演劇を学ぶ。役者として活躍の後、71年母校で教鞭をとる傍ら演劇学、ドイツ文学、芸術史を学ぶ。198391年同大学学長。作家としても多くの作品(特に子供向けのラジオドラマが多い)がある。1990年同大学に遊戯研究所設立

訳者
吉田耕太郎 1970年生まれ。東外大大学院博士前期課程修了。阪大文学研究科准教授。専門はドイツ文学史・ドイツ思想史。
小石かつら 1972年生まれ。京都市立芸術大大学院(ピアノ科)修了。ベルリン工科大学等に留学。阪大大学院修了。博士(文学)。専門は公共演奏会の成立史。京大白眉センター特定助教(人文科学研究所)

発行日           2013.7.25. 初版第1刷発行
発行所           春秋社

ゲーテ: 「人間の生涯は、真面目さと遊びからなる。この2つのバランスの取り方を知っているものこそが、最も賢明なる者、最も幸運な者と呼ばれるにふさわしい」
本書の関心は、モーツァルトが音楽への「真面目さ」と「遊び」の魔力に間でうまくバランスを取ることが出来たのか、その答えを探ること。モーツァルトが生涯に亘ってあらゆる遊びを楽しんでいたこと、彼の遺した音楽と遊びとの繋がりや影響関係を探ること、とりわけ明らかにしたかったのが収入のかなりの部分を遊びで失ったのか否か
モーツァルトの音楽作品については、無数の書籍があるが、彼の生涯についての言及はずっと少なく、人間モーツァルトの全体像は謎のまま残されている
1777年、モーツァルトの父宛の手紙:「これまで僕ら4人は、この通り幸運でもなければ不運でもありませんでした。そして僕はそのことを神に感謝しています」
モーツァルトが、シラーなどが主張するような意味で「常に遊ぶ人間(ホモ・ルーデンス)」であったことは疑いない。遊び続けたこと、「熱狂的な」カードゲーム・プレーヤーであり、ビリヤード、射的、パーティゲーム、言葉遊びなどにも長じていたこと、富くじを始めありとあらゆる遊びに手を出した人物であった
「幸運、遊び、熱狂」がモーツァルトの一生の重要な部分を規定していた
音楽家であり、2人の子どものマネージャーだった父親の影響が大きいのは当然
本書の最初の構想は1993年の「論考」が契機、以後順次公表された論文を再考した

2版への序
僅か18か月足らずで第2版が刊行できたのは、モーツァルトのプライベートな生活に多大なる関心があることの証
仕事の息抜きとしてゲームに興じていたほか、旅行や幾度となく繰り返された重篤な病気への恐れ、死の3年前まで叶わなかったヨーロッパの大宮廷での求職活動の失敗などストレスから逃れるためにも、また天才芸術家を熱狂させ、創造的な活動に向かわせる準備でもあった
18世紀当時の貨幣価値 ⇒ 20クロイツァー硬貨で簡単な昼食、1グルデン(貨幣としてはない)=60クロイツァーで普通の家庭は1週間過ごした。1クロイツァー=1ユーロ。職人の賃金は月(?)200400グルデン。音楽家は150450グルデン
モーツァルトの収入 ⇒ 74年ザルツブルクで150グルデン/年からスタート、宮廷オルガニストとしては年450グルデン、88年ウィーン宮廷の作曲家として800グルデン/
79年の一家の全収入は1000グルデンであり、十分裕福と言える。家賃が90、光熱費や日常の買い物に200、遊興費も含め支出総額が400グルデン
オペラ1作品に対し450900グルデンが支払われた
音楽のサイコロ遊び ⇒ 遊びと結びついた作曲手法も普及し、2つのサイコロを使ってワルツ、メヌエット、トリオなど自在に作曲が出来た。K.516(弦楽5重奏曲 4)の自筆譜が証明するように、出た目に対応する表で1つの曲が出来上がる。2つのサイコロが出し得る11(21のはず?)の目に対応して、小節ごとに11のヴァリエーションが用意され、順に演奏していくと天才的な名曲が出来上がる仕組み
トリック・トラックそしてポッチ ⇒ トリック・トラックはプフとも呼ばれる当時はやったバックギャモンの前身のボードゲーム、ポッチはイタリアのボードゲームでイタリア旅行の際に覚えたもの
ケーゲルシュタット(九柱戯)・トリオ ⇒ クラヴィーアとクラリネットとヴィオラのための三重奏曲変ホ長調K.498はモーツァルトが自らの教え子で腕の良いピアニストだったフランツィスカ・フォン・ジャッカンのためにジャッカン邸の九柱戯場で作曲され、ジャッカン邸での初演ではモーツァルトがヴィオラを担当している。自筆譜の冒頭には「86年、九柱戯倒しをしながら」と書き込まれているところから、九柱戯トリオという別名を持つ。その前後の作品《12のホルン二重奏曲K.487 (K.496a)》も同じく九柱戯場で作曲されたもの
モーツァルトは本当にギャンブラーだったのか? ⇒ 立証するものはないが、禁止されていたカードゲームも含め積極的に飛び込んでいったことは間違いない

第1章        子供時代――神童の遊び
利発なモーツァルトが非常に早くから覚えた遊びはカードゲーム
1767年、天然痘で入院中にカードゲームに熱中

第2章        射的――176699
日曜と祝日には射的会が催され、射的とカードゲームに興じた
射的とは、南部ドイツからオーストリア全域で、とりわけ冬に、宿屋や公共のホールで行われていたもので、空気銃で的を射って得点を競う
ザルツブルクの2大射的会 ⇒ シーデンホーフェン家とモーツァルト家。お互いに交流
社交的な意味が強い

第3章        カードゲーム
80年、毎日のようにカードゲームをしていたことが姉ナンネルの日記から窺える
タロットカード
熱狂的なビリヤードプレーヤーだった
ザルツブルクのカード製造販売は独占的な保護を受けていた
モーツァルトが書き残した紙片 ⇒ 8688年に書かれた「家計についてのメモ」の一部とされ、約7000グルデンの収入と、それに対する支出とを貸借対照させているが、収入の根拠は不明で、モーツァルトの「ギャンブル帳簿」だった可能性を否定できない
88年、モーツァルトはフリーメイソンの同じ会員に金を無心する ⇒ その後4年に亘って小金を借り続け、その間使った金の合計は11610グルデンに上り、死んだときに現金として残っていたのが60グルデンのみ、コンスタンツェは夫の遺した5000グルデン(一説には3万とも言われ、正確な金額は分かっていない)という負債を、支援者や後援者の助けを借りて数年かけて返済したという
年間の生活費が1000グルデン、妻の湯治の費用が嵩んだとしても、7000グルデン余りの膨大な支出の行方は謎のまま ⇒ 高額のギャンブルで負けが込んだことは十分考えられる

第4章        ビリヤードと九柱戯
モーツァルトの音楽作品には遊びの要素がふんだんに織り込まれている
ビリヤードを熱狂的に愛し、自宅に専用のビリヤード台を持っていた ⇒ カードに関する史料や証言はほとんど残されていないのに、ビリヤードに関する史料は驚くほど多く残されている
ビリヤードと九柱戯(ケーゲル)は、当時のヨーロッパでは金のかかる遊びであり、勝者を当てる賭けの対象
九柱戯は、ボーリングの原形であり、勝負にかなり高価な賭けを伴った
ビリヤードや九柱戯に興じながら、その傍らで作曲していた
モーツァルトは世情に疎い、ちょっと間の抜けた、人を疑うことを知らない人物だったところから、詐欺師のカモになったことは容易に想像できる

第5章        パーティゲーム
社交の場で複数の人々が楽しむゲーム ⇒ なぞなぞ、罰金ゲーム、命令遊び、裁判ごっこ、隠れん坊、ふくらはぎ/太もも計り等々。若い男女が出会い触れ合う絶好のチャンス

第6章        言葉遊び
韻を踏む言葉遊びにも熱心で、自在に韻を操ることが出来たという
単語の順番をある規則で並べ替えた文章を正しく判読する

第7章        お祭り、舞踏会、仮装パーティ
ビリヤードと同じくらい熱狂的に愛したのがダンス
ダンスの音楽も多数作曲
オペラの上演の後で舞踏会になることも
《魔笛》の年である91年のカーニバルで、モーツァルトはダンス音楽の作曲を複数引き受けていた ⇒ 度重なる病気と経済的困窮のため、出来るだけたくさんの曲を作らざるを得なかったことも事実

第8章        モーツァルトと富くじ
いまのご時世、遊びはよい生活様式の一部であり、必要不可欠なもの。この啓蒙の時代に、遊びに疎い人の名前が、好感の持てる社交人として話題に上ることなどない
富くじ ⇒ロト。数字選択式の宝くじ。18世紀にヨーロッパで「ペストのように」爆発的に流行、その対応に各国が国を挙げて対応
ウィーンでは1751年にマリア・テレジアがジェノヴァの富くじに特許状を発布
90までの数字から5つを選んで当てる、2つや3つの数字の組み合わせもある
父が旅先で書いた手紙に、6歳半のモーツァルトが非常に危険な猩紅熱に罹った報告の中で治療代や演奏会の休演で手に入らなかった儲けも加えて年収の半分を失ったが、同行したファゴット吹きが富くじが当たったのを「不幸中の幸」とある
63年、ヨーロッパを股にかけた3年半の大旅行に出た際父は、「オーケストラは異論の余地なくドイツ最高、演奏者は若く、品行方正な人ばかり、酔っ払いも遊び人もおらず、だらしのないならず者もいない。彼等の品行のよさ、演奏の素晴らしさは高く評価できる」と書いているが、当時のオーケストラに酔っ払いや遊び人やならず者がいるのは普通
イギリスで正式に王立の富くじが開始されたのは1769年 ⇒ モーツァルトの滞在は6465年にかけての1年なので、富くじには手を出していない
オランダ(オーストリアの治下)でマリア・テレジアが王立富くじを設立したのは63
モーツァルト一家が富くじに嵌ったのか否かは資料がないので不明だが、手紙には何度も富みくじの当選数字が記載されている
ザルツブルクの大司教シュラッテンバッハの後援で実現した69年からのイタリア旅行では、度を越した富くじ抽選会の熱狂に巻き込まれた
新しいゲームに目のなかったモーツァルトは、旅行中も新しいゲームを見つけては嵌りこんでいた様子が手紙にも窺えるが富くじを購入したかどうかは全く記述がない
父の手紙には、「(初演予定の出し物が)成功するかどうかはオーケストラ次第、観客の気分次第で、富くじみたいなもの」との表現がある
ザルツブルクでは、大司教が富くじの販売仲介には反対しなかったものの実施には反対したため周辺の富くじを実施している所領に金が流れた ⇒ 仲買人の不正を契機に全面禁止になり、71年のモーツァルトの手紙にも当選番号の記載はあるが自らは賭けていなかったため儲け損なったことが書かれている
が、逆に見れば、今回は賭けなかったということで、旅する音楽家が旅先での社交上富くじに付き合うのはエチケットだったはず
後任の大司教コロレドは、モーツァルトとのいざこざがあっただけでなく、世直しを目的に富くじやゲームを貧民の射幸心を煽るとして禁止を厳格化・徹底
81年、コロレドとの不和が決定的となった時、ザルツブルクから追い出されたモーツァルトを庇護したのはウィーン在住の金満家ユダヤ人ヴェッツラル男爵、長男の代父
アリア《ああ、恵み深い星々よ、もし天にあって》K.538(1788)の自筆譜には、富くじの数字と思われる5つの数字が書かれている
モーツァルト自身が富くじを買ったことがあるのか、確実な史料はまだない


訳者あとがき
タイトルにも言葉遊びが埋め込まれている ⇒ GlückSpielをくっつけて1語にするとギャンブルGlücksspielになる。モーツァルトのギャンブルへの熱狂こそ著者がタイトルに込めた真意
著者が設立した遊戯研究所の発刊した雑誌『Homoludens』は、ヨーロッパの遊びの文化史に関連する論文を掲載する専門誌
ヨーロッパにおいて18世紀は、遊びの世紀であり、書簡の世紀で、モーツァルト一家の間で交わされた書簡の資料史的な価値が大きい ⇒ 当時の音楽状況のみならず、市民生活、親子関係、旅行、遊びについて伝える第一級の史料
モーツァルトの時代は、音楽家は、1人の芸術家としてではなく、芸を披露する(比較的身分の低い)職人と見做された時代であり、芸術活動に従事するためにはまず王侯貴族、大聖職者、大商人のパトロンを探し出す必要があった
本書は、それぞれ別の媒体で発表された学術論文をまとめたもの。モーツァルトがギャンブラーだったという証明する直接の史料はないが、当時の状況から考えるならばそうであったに違いないと示唆することによって、モーツァルトを神格化するような風潮へ配慮している













ギャンブラー・モーツァルト 「遊びの世紀」に生きた天才 []ギュンター・バウアー
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社交の主役、ゲームの魔術師

 今まで読んだ何冊かのモーツァルトの伝記でも、彼の常軌を逸した遊びには面目躍如たる異端児ぶりに思わず瞠目(どうもく)してきたが、そんなモーツァルトの「遊び」の世界をさらに徹底的に眺めることで、〈遊ぶ天才〉を文化史的に、平易な文章で探ろうとするのが本書の狙いである。
 モーツァルトの生きた18世紀はそのまま遊びの世紀でもあった。全ての遊びに通じて社交の場の主役になり、舞踏会のハシゴを繰り返しながら貴族の家々を訪ね、人々の称賛と名声の輪の中をスイスイと魚のように泳ぐモーツァルトの華麗な姿がまるでロココ絵画のように彩られていく。
 遊びの達人モーツァルトは舞踏の名手であり、熱狂的なビリヤードプレーヤーでありカードプレーヤーでもある。「海千山千の不屈のゲームプレーヤー」のモーツァルトは遊びの森深く建造された魔宮に棲(す)む魔術師でもある。文化の中に遊びが存在するのではなく、遊びはあくまでも文化に先行しているとするホイジンガの哲学をそのまま先取りしているようなモーツァルトだ。
 遊びは真面目と対立する概念であり、私がツイッターを通じてしばしば芸術の遊戯性に触れる時、返送ツイートの中には、真面目を道徳的にとらえ、逆に遊びを不真面目な悪ふざけのように認識する人たちがいるのも事実である。私は、芸術家の遊戯性を排除した芸術作品は存在すべきでないとさえ思っています。
 遊びが日常生活からはみ出した存在であることを理由に悪(あ)しき文化とする傾向に対しては、抵抗しなければならないと思うが、一方では過剰な遊びを大衆文化の核として受け入れ、文化に先行した遊びを自由と勘違いして、いつの間にか創造の精神を喪失してしまっているような気がしないでもないのである。遊びと真面目の真の関係の回復のためにも今、本書を必要としたい。
    
 吉田耕太郎・小石かつら訳、春秋社・4725円/Gunther G.Bauer 28年生まれ。ドイツの作家、研究者。


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