シベリア抑留全史  長勢了治  2013.11.5.

2013.11.5.  シベリア抑留全史 

著者 長勢了治 1949年北海道美瑛町生まれ。翻訳家。北大法卒後、三菱ガス化学入社、95年退社。ロシア極東国立大学函館校でロシア語を学ぶ。以後、シベリア抑留問題を研究。訳書に『完訳 シベリアの日本人捕虜たち』(私家版)

発行日           2013.8.8. 第1
発行所           原書房

ソ連公文書館資料が秘密解除され、旧ソ連諸国でもシベリア抑留に関する資料集や研究書が出版されたのを機会に、ソ連側の意図と実際行動を探り、日本側の抑留記や研究書と対照しながら、抑留の実態を全体的、総合的に検証
特定の立場に捉われることなく、出来るだけ公平かつ客観的な記述に努めた
旧ソ連諸国の公文書館の資料の一部は依然として未公開であり、公開された資料も本人と遺族のみへの提供というものもあり、更なる実態解明のために公開されることを強く望む
より多くの国民が実態を知る一助となることを願うとともに、若い世代がこの史実について知る機会が今後増えることを期待(著者あとがき)


第1章        ロシア領土拡大と日本――ソ連モンゴル抑留の前史
1480年、モスクワ大公国のイワン3世が「タタールの軛(くびき)」という異民族モンゴル人による支配を脱して東方・南方へ領土拡大を始め、初めて「ツァーリ」の称号を使う
1533年即位のイワン4(雷帝)がそれをさらに進め、中央集権化と専制政治を強める
ウラジオストクはその名称に「東方を支配せよ」という象徴的な意味を持つ
1581年、ドン・コサックのエルマークがシベリア遠征
1639年、モスクヴィチンがオホーツク海岸に到達
最初に狙ったのは高級輸出品となる黒テンの毛皮、後には金などの鉱物資源
1696年、カムチャッカの先住民に捉えられていた漂流民・伝兵衛がモスクワに連れられ、ピョートル大帝に拝謁して以来、日露の交流は漂流民から始まる
1847年、東シベリア総督ムラヴィヨフによってアムール川左岸が支配下となり、以後既成事実の積み上げと清国の弱体化もあって、樺太、滿洲、朝鮮への進出を窺い、日本との対立・抗争の時代が到来。18世紀には千島列島の探検も始め、17389年に色丹島に上陸、後にソ連のシベリア抑留がこの4地域から行われたのと符合
日露の公的な接触は、1778年ロシアが根室に来航して松前藩吏に交易を求めたのが最初
1806年、交易を拒否されたロシアは武力で樺太を攻撃(フヴォストフ事件)
滿洲 ⇒ 元々夷狄の地、同地の女直人(ジュシェン)族が建てた王朝が清国

第2章        2次世界大戦と日ソ戦争
1945.2.ヤルタ会談 ⇒ 南樺太はソ連に「返還」され、千島列島はソ連に「引き渡される」
ザバイカル時間89日零時ワシレフスキー元帥率いる極東ソ連軍の奇襲攻撃開始
終戦後も829日まで各地でソ連軍の攻撃に抵抗
819日、関東軍総司令部は極東ソ連軍総司令部と停戦交渉 ⇒ 階段の内容は穏当なものだったが、ソ連軍は各地で無統制に武装解除を行い、交通・通信を寸断したため、秩序ある停戦が不可能となり、日本側の死傷者や抑留者を正確に把握することを著しく困難にした
樺太、千島でも、終戦後ソ連の侵攻が始まり、南樺太に駐屯していた日本の師団が822日に停戦協定を結ぶが、ソ連は武力で占領。千島も21日に休戦協定が成立したが、南千島を武力占領したのはミズーリ号での降伏文書調印の後 ⇒ ソ連時代には93日を対日戦勝記念日としてきたが、ロシアは2010年に92日を「第2次大戦終結の日」とすると決定し、事実上対日戦勝記念日を変更している
92日、スターリンは国民向けの戦勝記念演説において、樺太・千島占領は日露戦争の復讐であるとし、帝国主義的な地政学的意図をもって滿洲、樺太、千島に侵攻したことを自ら認めている

第3章        ソ連侵攻後の在留邦人の惨状及び引揚げ
関東軍は45年春にはソ連軍の侵攻必至と予想していたにもかかわらず一般人の保護措置を取らなかったため居留民の悲惨な状況を出来
旧満州に居留していた一般邦人は155万人
内開拓団が27万人、辺境に取り残され、最も悲惨な道を辿る ⇒ 1つの例が葛根廟事件で、内モンゴル地区で1200人の開拓団の婦女子が避難途上で斬殺

第4章        日本人のソ連モンゴルへの移送
各地で武装解除された日本軍将兵は、ソ連軍が指定した44カ所(滿洲27、北朝鮮8、樺太・千島9)の集結地に集められ、823日のスターリンの秘密指令により50万のソ連モンゴル抑留となる ⇒ スターリンが、北海道北部占領を主張してトルーマンに拒絶された腹いせに出した指示という説もあるが、指示の内容が詳細にわたっており、そのための準備期間からして、直接的な関係はないとみるべき
ヤルタ協定でもドイツの賠償として「ドイツの労働力のしよう」が明記されており、スターリンは日本に対してもドイツと同じやり方を適用、日本軍捕虜を使って関東軍の備蓄品も含めすべての財産を根こそぎソ連に運び去ったし、捕虜移送についても、軍隊組織を無視した1000人単位の作業大隊を組成、下士官を責任者として、「ダモイ(帰国)」と騙して内陸の収容所へと移動させた
ソ連は、日本将兵や民間人を多数戦犯として捕え、国内法で裁いたが、いずれも違法
白系ロシア人も悉く逮捕され収容所送りとなる
看護婦、電話交換手、タイピスト等の女性30数名も受刑者に含まれる
強制移送は終戦直後3か月ほどの短期間に実行されたが、ソ連では過去に何度も経験済み
ソ連側の杜撰な管理と、移送途上の死者、脱走者の続出で、移送の正確な実数は不明
ソ連モンゴル抑留は国際法違反の不法行為
ソ連は、捕虜を「祖国への裏切り者」と見做し、スターリンは息子がドイツの捕虜になった際も、ドイツからの捕虜交換を拒否したばかりか、息子の妻を投獄し伯父夫婦を銃殺
英米は、戦争捕虜に対する義務負担軽減の見地から、新たに「降伏軍人」というカテゴリーを作り管理を相手国に委ねたため、英軍管理下の南方では捕虜以下の劣悪な待遇が合法化された
ソ連は一貫して「戦争捕虜」として扱いながら、その扱いは粗略
日本も、ポツダム宣言受諾の際大本営が詔書渙発移行降伏したものは俘虜と認めずとの命令を発し、抑留者と呼ばれることになる

第5章        収容所国家ソ連
シベリアに多く配置されたのは事実だが、抑留地はソ連全土・モンゴルに及ぶ
ソ連におけるシベリア流刑 ⇒ 1593年、イワン雷帝の王子殺害犯をペルミに送ったことが始まり。流刑は市民権の剥奪と全財産の没収を伴うが、管理は緩やかで、過酷な管理が始まったのは、流刑・脱走の常習者だったレーニンやスターリンが権力を掌握して以降
集中収容所(グラーグ) ⇒ 全体主義国家に必須の弾圧機構と同時に、奴隷労働システムを示す言葉ともなる
矯正労働収容所(ITL、ラーゲリ)
捕虜抑留者管理総局(グプヴィ) ⇒ 第2次大戦開戦直後に、ポーランド侵攻に伴う捕虜の取り扱いのためグラーグとは別組織として、内務人民委員部NKVDという弾圧機関の下に設置。日本人抑留者の管理もグプヴィの下にあったのが悲劇の拡大を招く。スターリンの死の直後に廃止
ソ連も、ハーグ条約を批准せず、開戦後に事実上承認の宣言を行うが、ヒトラーはこの宣言を認めず、赤軍捕虜5.7百万のうち3.3百万が犠牲となる惨状

第6章        抑留者数と死亡者数
56年、国交正常化後ソ連が初めて通達したのは、抑留者の墓地26と死亡者数3957という事実とかけ離れた数字
91年、ゴルバチョフ来日時38千人の死亡者名簿を日本側に手渡す
ロシア政府からは、2000年に帰還者470.5千の登録ファイルが、05年には40.9千の死亡者名簿が提出
モンゴルからは、91年に10.3千の登録ファイルと1597人の死亡者名簿提供
厚労省は、ロシア政府に対し、死亡者名簿に記載されていない21千の調査を要求中 ⇒ 09年約70万人分の登録カードの提供あり
日本側では、引き揚げ者からの聞き取り調査を中心に実情把握に努めた結果は以下の通り
終戦時のソ連占領地域の日本人軍民数2726千に対し、50年前期集団引揚げ終了時点までの引き揚げ者数2357(うちシベリアからの引き上げ47)で、369千が未引揚者数 ⇒ 5359年の後期集団引揚げにより35千が引揚げ
日本政府によるソ連モンゴル抑留日本人(法律上「強制抑留者」と呼ばれる)の公式数字は575千、死亡者55千とされる ⇒ そのほかにソ連占領地域(滿洲、樺太等)に留め置かれた「現地抑留者」も十万単位でいるが裏付け資料が極めて少ない
軍事力人民委員部(後の国防省)が管理する「独立作業大隊」 ⇒ 日本軍に破壊された軍の立て直しのために使役され、待遇が悪く3050%が死亡

シベリア抑留死亡者名簿 http://yokuryu.huu.cc/ 村山常雄編
シベリア抑留死亡者46,303(111月現在)を、「無名戦士」と虚飾して人数だけで処理する無礼を排し、その固有の名を追求し記録にとどめ慰霊と顕彰に資すると共に、その大量死を数でなく、失われた個々の命の具体名で示すことで、戦争とその後遺症たる抑留の無残さを感得いただき、このような悲劇を二度と繰り返さぬよう、皆さんに不戦平和への決意を固めていただくよすがにもと発意したものであります。

第7章        食料、あるいは飢餓
シベリアの三重苦 ⇒ 酷寒、重労働、飢餓
餓死者が死者の40%以上

第8章        強制労働
ソ連は、大祖国戦争(独ソ戦)で甚大な被害を蒙り、大地は荒廃し国民経済は疲弊 ⇒ 国民経済の復興が戦後最大の課題であり、そのためにドイツ軍に拘束されていた赤軍兵士の帰還を急ぐとともに日独捕虜を使役した
労働の内容 ⇒ 建設作業と伐採が主、他に道路、鉄道、炭坑、鉱山、積み降ろしが多い
軍事関連分野での捕虜の使役も公然と行われた ⇒ 戦車や航空エンジンの修理等
ノルマ ⇒ 引き揚げ者によって日本にも広まった言葉。産業ごと、企業ごとに国家が集権的に作業量を決めて下に指示。ソ連側担当者もノルマの達成度合いが給料や勤務評定に直結
労働時間 ⇒ 原則8時間、休日が月4日、ノルマ達成が条件
限界気温は、現地の裁量に任され、-50℃でも働かされた
労働の報酬も、「使役規定」にはノルマの超過遂行には報酬が与えられるとするが、現場によって取り扱いはまちまち ⇒ 後に抑留者が日本で裁判を提起する背景には賃金の不払いがあった
労働災害の多発 ⇒ 食料につられて成果を挙げようと働くほど死を早めた
強制労働の成果 ⇒ 49年時点で捕虜1人当たりの生産額は上昇しているが、給養費のカバー率では82%にとどまり、不足は国庫から補助。捕虜への報酬支払いは生産月額の10%相当に留まる(ハバロフスクの例)

第9章        衛生と医療
収容所には医務室や衛生部が設置、収容所とは別に捕虜専用の特別病院もあった ⇒ 医師不足を補うために日本人の軍医や衛生兵が利用されたが、労働能力の決定権はソ連人医師にあった。医療器具と医薬品が極度に不足
シベリア珪肺(けいはい) ⇒ 作業の安全や災害防止を疎かにした証となる塵肺の一種で、金属鉱山の採鉱に従事した抑留者の一種の「職業病」であり、引き揚げ者の告発で世に知られ治療救済の道が開かれた。発病までの潜伏期間が長く、通常は肺結核として処理されたため珪肺と気付かない患者が多い

第10章     死者と埋葬
死に際しても、ソ連はあらゆる宗教的行為を禁じたばかりか、遺言も認めず、埋葬や管理も杜撰にて、死者の数、氏名が特定できず遺骨収集もままならない原因となっている
当初日本人は火葬をしていたが、間もなく禁止
参議院議員高良とみが日本人として初めて同胞の抑留されたハバロフスク収容所を訪問できたのは抑留後7年近く経った52
墓地の管理は、地方機関に移され、管理は事実上放棄されたものが多い
日ソ共同宣言発効後の57年、両国政府間で遺骨引き取りを正式に要請したが、翌年近文隆の遺骨送還が唯一の例外として認められたのみ ⇒ 引き続き要請を重ねた結果74年までにソ連から通知されたのは26カ所の墓地と4千弱の埋葬者名のみ。日本政府が掌握していた330カ所53千人とは程遠かった
墓参が許可されたのは61年以降で、26カ所すべての墓参が実現したのは89
91年、グラスノスチが進む中ゴルバチョフが来日、収容者に関する2国間協定が締結され、約38千人の死亡者名簿が提供された
モンゴルとは国交がなかったため、66年に未帰還問題協議会によって墓参が実現、日本政府も91年に埋葬関係の資料を請求、墓地16カ所、死者1597人の名簿が提供され、93年から新たな墓参が実現
滿洲は、中国政府が国民感情を理由に墓参を拒否、いまだに実現せず
北朝鮮も、12年一部墓参が許されたに留まる
遺骨収集は、11年までに19千体に留まり、DNA鑑定を始めているが技術的に困難 ⇒ ある遺族の執念から、04DNA鑑定によって初めて遺骨が確認され無言の帰国となった

第11章     抑留者の日常生活
兵士が戦地に携えていった本で最も多かったのは万葉集だが、収容所で愛読書を読んで無聊を慰めたという記録は意外なほど少ない ⇒ 所持品検査で剥奪/掠奪?、読書は禁止
家族との交信が認められたが、抑留者が書けるのは自身の事のみ
47年、モスクワ放送ハバロフスク支局の日本語放送が日本人抑留者家族に向けた「おたより放送」というラジオ放送を開始、支局には残留日本人が多数働いていた
逃亡についてはさらに記録が少なく、実態は不明だが、相当数の逃亡があり、成功例は稀少

第12章     思想教育、あるいはシベリア「民主運動」
捕虜に対する政治教育は年々強化 ⇒ 明確な意図をもって日本人の思想改造を行う
45年、『日本新聞』発刊 ⇒ 発行元は日本新聞社。赤軍政治部がハバロフスクで発行したタブロイド判の日本語新聞、週3回発行、49年末で廃刊
「民主運動」の開始 ⇒ 収容所内における旧軍隊序列による待遇格差の改善が目的。民主主義ということ自体教えられていない中での自然発生的な民主主義で、インテリ層が提唱。最初の動きは46年の『日本新聞』友の会を中心とした「反軍闘争」、次いで47年には「民主グループ」が発足、啓蒙運動が始まり、さらに48年からは当局の指導で「反ファシスト委員会」が結成され、大衆化の名のもとに「民主運動」が過激化し、吊し上げが横行
『日本新聞』は、収容所内での「民主運動」に加え戦犯摘発を呼びかけ ⇒ 階級闘争の呼びかけであり、思想教育の手段
戦後民主主義とシベリア「民主運動」 ⇒ アメリカ流のソフトな思想教育が成功したようにみられるが、日本国憲法や民法の改正は、原則占領地の現行法律を尊重すると定めたハーグ陸戦協定の明確な違反であり、それゆえGHQは検閲制度の導入によって反論を封じた
GHQの民間情報教育局CI&Eによる「罪悪寒扶植計画」の具体化の第1弾である自ら準備して各紙に連載させた『太平洋戦争史』や『真相はこうだ』と題したラジオ放送は、ソ連が『日本新聞』で日本軍国主義を断罪したのと同じ構図
マッカーサーとGHQ宛に50万通もの手紙が寄せられたことは、有史以来の敗戦を喫した日本国民は早々と占領者に身を摺り寄せ一体化しようとした。かかる行動様式は、他に逃げ場のない島国日本にほとんど本能化していて、初めて外来の支配者に占領された時、その本能が一層はっきりと表れたのではないか
たった一度の敗戦で日本人であることにまったく自信を喪失したのは過剰な反応としか言いようがない。勝敗は時の運であることは明白で、それがなぜ全面的な自信喪失、自己否定になるのか。戦前の歴史を単純に否定することは自己を失うことであり、日本人の歴史の連続性を失うことである

第13章     ダモイ(帰国)
引揚げ推進運動 ⇒ 45.11.奈良での署名活動が発端。46.5.在外将兵帰還促進連盟結成
46.5. GHQとソ連対日理事会代表との間で引き上げ問題話し合いが始まり、46.11.引き上げに関する米ソ暫定協定成立、翌月15千人の帰還を皮切りに、50年まで102万の帰還が実現
ナホトカでは帰還予定者に対し、47年の早い段階から「民主運動」による締め付けが行われ、48年には「精神的テロル」と呼んだ精神的拷問が横行、帰還船内でも左右の対立が激化して、特にソ連で痛めつけられた者が「民主派」を逆吊し上げにしたり、報復の暴力を振るうケースが頻発、「民主派」も舞鶴到着後「天皇島敵前上陸」などと叫んで騒ぎを起こした
抑留者の対日スパイ問題が初めて報道されたのは50年 ⇒ 読売新聞記者が自らの抑留体験を基に対日スパイ網を報道
帰国と引き換えに協力(スパイ)の誓約を強いるのは、ソ連の常套手段
引き揚げ者にはGHQからの誘いもあり、両者の狭間で苦しんだり、2重スパイとなったりした者もいた

第14章     無実の囚人、長期抑留者
50年に前期集団引揚げ終了後、タス通信が後には2467人の未帰還者がいると報道 ⇒ 大半が「戦犯」と対中国「戦犯」
53年のスターリンの死後実施された恩赦令が契機となって釈放された「戦犯」の帰還問題が復活し、赤十字社を通じて実現。その時の引き揚げ者が中心となって長期抑留者の早期帰還運動を展開
56年日ソ共同宣言間では抑留者は「人質」として拘束されていて、国交回復するも、平和条約の締結は先送り、北方領土問題は未解決のままだったが、「総ざらい引き上げ」により最後の帰還者1025人が帰国
ソ連の戦犯狩り ⇒ 占領初期に逮捕・連行した「第1次戦犯」と、4849年に収容所内で逮捕された「第2次戦犯」がある。第2次は、冷戦激化に伴いソ連国内で引き締めのための大粛清が行われたことと関連
関東軍参謀中佐だった瀬島龍三は、東京裁判で日本のソ連侵略計画を証言させるために出廷させられたが、計画の立案は認めるもその目的が「侵略」かどうかは戦争目的に関することなので分からないと証言し、再びハバロフスクに戻され、56年最後の帰還船で帰国
ソ連は、東京裁判が日本の対ソ侵略を認めず、細菌戦に関わった七三一部隊も断罪できなかったところから、別に49年ハバロフスク裁判を開廷、生物化学兵器関係者を処罰
ソ連による処罰は、裁判の体裁を取ってはいるが、内実はいい加減
過酷な受刑生活 ⇒ グプヴィからグラーグの管轄となり「自由剥奪所」と呼ばれた監獄か矯正(強制)労働収容所へ移送。4850年の3年間のみ死刑が廃止されていたが、それ以外の期間では銃殺刑もあった
ストルイピン ⇒ 囚人護送車のこと。帝政ロシアの同名の首相に因んだ名前で、日露戦争後の混乱した時代に改革派の政治家として登場、就任1か月以内に不穏分子を大量に処刑(「ストルイピンのネクタイ」として有名)、その際専用の護送車を使用
ロシア・ヤクザの洗礼 ⇒ 監獄や収容所に巣食う極道がいて、一般刑事囚の上に君臨、看守も見て見ぬふりをする無法地帯。日本人捕虜もその洗礼を受けて身ぐるみはがされた
ハバロフスク事件 ⇒ 50年以降、長期抑留者は徐々にハバロフスクに集められ、市内の建築作業に従事していたところに、52年参議院議員の高良とみ(民主党、初の女性議員)がビザもないままソ連に乗り込んでグロムイコ外相に収容所訪問を直訴、抑留者は全て日曜にも拘らず作業に駆り出され、軽症者だけを残した病院に案内され、偽装した墓地にも参ることができ、抑留者にとっては「旱天の慈雨」と感動を呼ぶ。日ソ国交正常化交渉が続く中、55年末ハバロフスクの日本人受刑者が抵抗運動に立ち上がる。背景には、悪化する待遇と激化する労働強化に769名全員が体力の限界に追い込まれたことがあり、6か月前には看守に切り付ける事件も発生。待遇改善を要求して年末からストライキに入り、3か月後に武力弾圧で平定されたものの首謀者の処分は軽く、逆に看守側が処分され帰国問題以外は要求が受け入れられる
56.10.19.日ソ共同宣言調印、受刑者の作業は中止され、帰国のための背広の新調や送別会まで開かれ、定員通り寝台車に乗せられナホトカ経由、最後の帰還船・興安丸に乗る
ハバロフスクで密かに飼っていた雑種犬クロも、ナホトカまで連れてきたが、船には乗せられず、出港した船を追いかけてきたところで、船長が船を止めクロを救い上げて舞鶴まで連れ帰る
名誉回復 ⇒ ゴルバチョフ大統領によって91年に「名誉回復法」が制定され、1917年以降に政治的弾圧を受けたすべての人の名誉回復と公民権の回復、物的損失への応分の補償が決まる
新法制定の直前、1人の日本人元抑留者がソ連最高検察庁に再審請求を提出、初の名誉回復の審決が下される。後を追うように1000名弱が同様の審決を受ける

第15章     ロシア以外の抑留状況
モンゴル ⇒ 1911年外モンゴル(外蒙古)が独立を宣言するが日ソ両国は認めず、日露戦後の日露協約では日本は朝鮮支配と引き換えにロシアによる外モンゴルの支配を認め、内モンゴルは両国で分割統治することとしていた。24年外モンゴルは独立して2番目の社会主義国家となりソ連の勢力圏に入る。内モンゴルは39年南京政府下の自治領となる。ノモンハン事件の直後に国境係争地で滿洲国軍とモンゴル軍が交戦、日ソ両国も加わった大規模な戦闘に発展。ソ連の対日宣戦布告に伴い、相互援助条約に基づきモンゴルも対日宣戦布告。モンゴルは参戦の見返りとして日本人捕虜の一部派遣を要請
実際に移送されたのは約12千、うち民間人が1割と高い
ウランバートルの主要な建物の多くが抑留者によって建設されている
環境も待遇もほぼソ連と同様で、3重苦(飢餓、重労働、酷寒)があった
47年後半に引き上げ完了 ⇒ ソ連に先だって送還されたのは、ソ連が自国の労働力確保を優先させたため
カザフスタン ⇒ ロシアの次に多くの日本人が抑留された。94年大統領から抑留記録の引き渡しがあり、6万人弱が抑留され、死亡者は1457(村山名簿では1521)。ロシア革命・内戦を経て自治共和国成立、ソ連の1構成国となるが、帝政ロシア以来の流刑地
4649年に35千強の帰還完了
ウズベキスタン ⇒ スターリンの命令で20千の捕虜移送が命じられ、村山名簿の死者は882人。現地政府は秘密解除せず、実態解明は進んでいない
東北とほぼ同じ緯度であり、寒暖の差は大きいがシベリアに比べればずっと温暖
タシケント収容所の抑留者によってナヴォイ劇場が建設された ⇒ レーニン廟の設計で有名なシチューセフの設計で革命30周年記念日までの完成を急がされる。捕虜到着時、実際の建設工事はほぼ完成しており、内外装の仕上げ作業を現地の民族芸術家の下で手伝ったものだが、96年には劇場正面に3か国語(ウズベク、日本、英)で強制移送された日本国民が完成に貢献したと記した記念のプレートが掲げられた
01年にはウズベキスタン独立10周年を記念した国際親善行事として團伊玖磨作曲のオペラ《夕鶴》が上演され、抑留者も訪れた
大半が48年中に帰国
トルクメニスタン ⇒ ウズベクのさらに西の地で2千ほどが移送され、村山名簿における死者は72人。劣悪な待遇の改善を要求したサボタージュが発生
キルギスタン ⇒ キルギスに日本人が抑留されていたことはつい最近判明。ソ連側資料では5千人の移送が計画されたが、どこまで実行されたかは不詳。黒海沿岸のソ連の代表的保養地に派遣された分遣隊は、ソチに次ぐサナトリウム建設のために動員され、待遇もよく、48年には犠牲者なく全員が帰国
ウクライナ ⇒ 抑留された最西端の地。収容所があったのは穀倉地帯とは違って寒冷地。当初移送先としての予定はなく、1年遅れでシベリアからの転送組中心に5千ほどが収容、産業復興のために働かされる
グルジア ⇒ 46年に北朝鮮から移送、約3千、村山名簿の死者数は17人。47年中に帰還

第16章     引揚げ促進運動と抑留者運動
45.11. 「在外将兵復員運動」という署名活動が大阪で始まリ、翌年マッカーサーに嘆願書を提出
46.5. 留守家族が奈良市に集まって「在外将兵帰還促進連盟」結成、GHQとソ連代表部に嘆願書手交 ⇒ 米ソの引揚げ交渉が進展。1年後に在外同胞帰還促進全国協議会結成
シベリア抑留補償問題 ⇒ 67年特別給付金支給のための法律が制定され、あらゆる戦後処理は一切終了とされたが、10年後補償金問題が浮上、「抑留者補償協議会」が結成され、日ソ共同宣言で双方が請求権を放棄したため、労働者の未払い賃金を巡り日本政府との交渉が始まる
シベリア抑留補償裁判を起こす一派と個別補償給付を要求する一派とに分かれ、裁判は抑留の損害は国民が等しく負担すべき戦争被害として地裁(89)、高裁(93)、最高裁(97)とも原告の主張を却下、個別補償については88年「平和祈念事業特別基金法」により政府が200(400億に増額)を拠出し慰謝事業を行うこととし、恩給資格者には総理大臣書状と慰労品、未資格者には10万円を贈呈、さらに2010年には議員立法により抑留年数に応じて25150万円支給することが決まる
西ドイツは、アデナウアー首相の54年いち早く「戦争捕虜ドイツ人の補償法」を交付?、捕虜史を編纂、モスクワに乗り込んで短期間に「戦犯」の釈放を実現させ、捕虜には拘禁期間に応じ12千マルクを限度として補償 ⇒ 他に住宅用無利子貸付もあり、手厚い内容だったことに留意
ソ連による謝罪 ⇒ 90年歴史家キリチェンコの「非はわがソ連にあり」とのインタビュー記事が文藝春秋に掲載され、91年来日したゴルバチョフが抑留者に会って「同情の念」を表明、ソ連邦崩壊後の95年来日したエリツィン大統領は5度にわたってシベリア抑留問題を「謝罪」。ただし、「補償」には全く触れず、その時の橋本・エリツィンの「東京宣言」でもシベリア抑留問題には言及すらされていない
モンゴル政府からの謝罪もまだない

終章      ソ連モンゴル抑留者が遺したもの
抑留の大きな特徴の1つは膨大な抑留記が遺されたこと ⇒ 15002000冊はあり、執筆者は5000人を軽く超えるし、新聞の特集記事やドキュメンタリーも多数放映
81年、「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」結成 ⇒ 『捕虜体験記』全8巻刊行、第46回菊池寛賞。11年会報第47号発行を機に解散
88年、平和祈念事業特別基金 ⇒ 『戦後強制抑留史』全8巻刊行、1072名の体験記でホームページでも公開
抑留画 ⇒ 抑留者自身が生活の実態を描いたもの。香月泰男『シベリア・シリーズ』は日本人に大きな衝撃を与える。日本人の特徴で、ドイツ人はあまり絵は残さなかった
《異国の丘》⇒ 48.8.NHKのど自慢でシベリア抑留者が歌い、そのままレコード化して大ヒット。作曲者が吉田正と判明し、国民的大作曲家誕生を告げる
01年初演の劇団四季によるミュージカル《異国の丘》は、西木正明のノンフィクション『夢顔さんによろしく』に想を得たもので、近文隆がモデル


シベリア抑留全史 長勢了治著 無実の抑留者がなめた辛酸 
日本経済新聞朝刊20131013日付
 太平洋戦争で日本の敗北が秒読み段階になった1945年8月9日零(れい)時、日ソ中立条約を破棄し、突如、174万人のソ連軍が三方向から満洲(現中国東北部)・朝鮮に侵攻した。ついで、南樺太・千島列島・北方四島を占領し、武装解除した日本軍将兵と民間人を「トウキョウ・ダモイ(帰国)」と騙(だま)してソ連に連行した。その数は約70万人。彼らの抑留地は旧ソ連全域に及んだ。独ソ戦で荒廃した国土の復興のために労働力が必要だったのだ。
(原書房・6800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(原書房・6800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
 「飢餓」「酷寒」「重労働」という「シベリア三重苦」の真只中(まっただなか)での強制労働。彼らの最終抑留者が帰還した、5612月までに、おおよそ10万人が死亡している。帰還者たちは、1500点ほどの抑留記を残した。これに自費出版を加えると、2000点に及ぶと言われている。彼らは「沈黙し、通り去るのを待つ人間としてありたくはない」(宮崎進『鳥のように』)というのが共通する執筆動機であったろう。
 本書は、これら汗牛充棟というべき抑留記をはじめ、研究書、それに旧ソ連で公刊された史料集や最近の研究書などを総合的に検討し、抑留の実態を詳(つまび)らかにした労作である。例えば、食糧、強制労働、衛生と医療、死者と埋葬、抑留者の日常生活などは、想像を絶する劣悪さであった。それにしても、残念なことに、抑留者と物故者の総数は、ソ連の隠蔽体質に阻まれて、正確に把握できないのだ。
 さらに本書が力説しているのは、70万人は、停戦命令で降伏したのであり、断じて「捕虜」ではない。まして「戦犯」が裁かれる訴追事由は、開戦前の職権内容、つまり「前職」であり、しかも「反革命犯罪」という融通無碍(むげ)な国内法が適用された。これこそ、現代版「異端審問」に他ならないのである。
 あらゆる辛酸といわれなき屈辱を舐(な)めさせられた「無実の囚人」たちが、それぞれの抑留地において日本人としての生き方を貫徹してきた事実を「私たちはみずからの歴史の中に記録し」なければならない、と著者は結んでいる。そういえば、85年の西ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「5月8日演説」におけるキーワードも、歴史と過去を「心に刻む(エアインネルン)」であった。
(法政大学名誉教授 川成洋)



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