わが父 ルノワール  

2013.10.30. わが父 ルノワール
Renoir   1962

著者 Jean Renoir 18941979 ビバリーヒルズの自宅で死去

訳者 粟津則雄 1927年生まれ。東大文学部フランス文学科卒。法政大名誉教授。

発行日           1964.3.10. 初版第1刷発行、2008.1.18. 新装版第1刷発行
発行所           みすず書房

映画『ルノワール/陽だまりの裸婦』の新聞評を読んで興味を惹かれる

映画監督ジャン・ルノワールが描く、父である画家ルノワールの肖像。晩年の父との間に交わされた会話をもとに執筆された。幼少年時代・青年時代の父、当時のパリの風物、印象派の画家たちの鮮やかなプロフィール、幸福な家庭・・・・・ 心の中で育まれた、数々の思い出が結晶し、ルノワールの人と作品が生き生きと描かれる


1915年、片脚に銃撃を受けて負傷、パリの病院に入院したおかげで父と会えたし、ほどなく自宅療養の許可が採れて、母を亡くしてすっかり参って健康状態もかつてないほど悪かった父と一緒に暮らすことが出来た
自分の戦争体験を父に話して聞かせたのと引き換えに、父は若い頃の思い出を話してくれたので、それまで知らなかったルノワールを見出すことが出来た
彼の死後すぐに彼の言葉を公にしなかったが、自分がいろいろ経験を積んだおかげで、彼をよりよく理解しうるようになった今だからこそ、彼の言葉の意味を理解できることが多い。彼の絵に烈しい讃嘆の念を抱いていたが、それは盲目的なものだったが、いまになってみると、我々を助けてものの外見を超えて見させることこそ、偉大な人間が果たす役割に他ならないということが分かってきた
ルノワールの祖父・フランソワはLenoirという名の司祭に拾われ育てられ、Renouardと名付けられたが、結婚証明書を書く代理人が間違えてRenoirと記載、字が読めなかった夫婦はそのまま受け入れた。祖父は木靴商、祖母は指物師の娘
祖父は木靴商としてリモージュに身を落ち着け9人の子どもを作るが、その長男がルノワールの父・レオナールで、仕立て屋となってお針子の母と結婚、7人の子どもの第4子がルノワール
ルノワールが4歳の時祖父が亡くなり、一家はパリに移り、チュイルリーとルーブルの間にヴァロア家が建てた後放置されそれほど豊かでない人々が住んでいた一角にアパートを借りて住む ⇒ すぐ隣が王族一家の住む宮殿で、ルノワールたちが騒いでいると、宮殿の窓が開いて王妃が静かにさせるためにボンボンをくれた
晩年のルノワールに会ったとき人を驚かす外見は目と手 ⇒ 目は鋭い視力を持ち、近いものでも遠いものでも自分の興味を惹く一切のものに一挙に眼を注ぐことが出来た。手はリューマチで間接がぐらぐらになりひどく歪んでいて、とても絵が描けるようには見えない
セザンヌはルノワールと親交があったが、60過ぎても自分の絵がよく売れるという経験はなかったのに対し、ルノワールは批判され、けなされ、しばしば罵られてはいたが晩年に至って遂に自分というものを世間に押し通すことができ、世界中の大美術館が彼に門戸を開いた
1848年の2月革命でオルレアン朝が倒され、国王一家が逃げ出すのと革命軍が宮殿に三色旗を立てるのを間近に目撃
ルノワールは、この頃からアパルトマンの床一杯に絵を描きまくっていたが、同時にサン=トゥスタッシュ教会の有名な男子合唱隊に入る。合唱隊の楽長が若い無名の作曲家シャルル・グノー(オペラ《ファウスト》の作曲家)で、幼いルノワールの才能を認めて個人教授をして、オペラ座の合唱団に入れようとしたが、人前に出ることの嫌いな少年に夢だった磁器、リモージュの仕事場で徒弟に雇うとの申し出が来る
5年間の修業で磁器の絵付師として成功
その頃からルーヴルに出掛けるのが習慣
1858年、絵付けに型押し機械が発明され、絵付け職人は1回描くだけであとは機械がやってくれるようになったため磁器の仕事を辞め、その後防水布製日除けの絵や飲食店の壁に絵を描いたりする装飾の仕事で暮らしを立てていたが、暇があると田舎に行って写生、そこで画家・ディアズに出会って認められる
仕立て屋で成功していた実家の客に画家のラポルトもいて、若いルノワールの才能を認めていた
20歳になる頃、本当の学校で本当の絵の授業を受ける夢を実現、当時パリで最も人気のあるグレール研究所に入り、何より学びたいと思った人体デッサンに没頭
くじ運の良さで7年間の兵役を免れたことと、印象派の画家で後に親友となるバジルとの出会い。そこに歳の近いシスレーとモネ、フランク・ラミーが加わる 
研究所外から、ピサロ、コロー、クールベらも参加して、巨匠たちの作品を研究することを止め、自然だけから学ぼうとする「非妥協派」を形成、自分たちの直接の知覚を、他の何ものにも置き換えずにそのまま画布の上に固定したいと思っていた
資金が底をついて研究所を止めなければならなくなるが、マネと一緒に住むようになる
アルセーヌ・ウーセイとテオフィル・ゴーチエを知ったのは1870年。彼等の口利きが風景画を売り捌くのに役立つ。大出版社のシャルパンチエ家と面識を得たのもゴーチエの紹介によるものだったし、2つ年長のセザンヌと生涯続く友情を結んだのもこの頃で、その友情は2人の子孫まで続き、筆者とポール・セザンヌは兄弟以上の親密な関係だった
19世紀の画家たちがフォンテンブローの森に情熱を降り注いだのは、ロマン派の画家たちにとっては、18世紀に始まった文学における自然の再発見の結で、さらに劇的な自然を必要とした
1869年にシャルパンチエ家の母親の肖像を描いたこともあって、アンシャン・レジーム下で復活したサロンにルノワールも加わる。サロンは「非妥協派」が「印象派」になる前からの擁護者で、モーパッサン、ゾラ、ゴンクール兄弟、ドーデ、ガンベッタ(普仏戦後の共和国樹立に参加し内務大臣、後に第三共和制下の首相)、クレマンソーらが常連
ルノワールがシャルパンチエ家の人々に囲まれて描いた数々の絵を見れば、彼とこの一家との関係がどんなものだったかがわかる。実に親切なタダのモデルが何人もいたし、後に献身的な友人で数々の名画のモデルになったテレーズ・ベラールと会ったのもこの家
ルノワールの言葉遣いや態度振舞いは、書く人次第でさまざまに伝えられているが、それは彼自身が相手に合せて変えているからで、ただ1つの観念に憑りつかれたこの人物ほど強固な人間はいない。自分に最も重要な問題と何の関係もないような意見に逆らってエネルギーを費やすのは無駄なことだと思っていたので、コンミューンや他の多くの重大な諸事件を身をもって経験しながら、それに参加しようとは思わなかった
外観が内容の質に大した影響を与えるとは思わなかった
「光を跳ね返さぬ肌を持った」娘たちはその国籍を問わず一群をなしていて、ルノワールの世界ではドイツとかフランスというカテゴリーよりも重要だったし、ものを感じ取る人々と、推理する人々の間にこそ大きな境目があった。想像力という「
家に閉じこもった気狂い女」を信用せず、知性の世界に逆らって本能の世界に結びついていた
宗教に関しても寛容で、周囲の人々は自分の選んだルノワールが真のルノワールだと思い込み、ルノワールが心の中で、自分たちとの論争を無駄なおしゃべりだと思っていることなど少しも気づかなかった
大衆とは途方もなく愚かなものだと信じていた、大衆を憎んでいたわけではなく、ただ大衆はいつも大衆らしくしていて欲しいということだった。彼等は広告しか理解できず、彼等にとってサラ・ベルナールが大女優なのは新聞で騒がれているから
「私は腹が減らない。私が食べるのは、そういうことになっているから」とも言っていた
非妥協派による展覧会が開かれ、話題にはなり、著名な支援者もいたが、絵はほとんど売れず、公設のサロンでは依然として官展の画家たちの絵が恐ろしい高値で売られ、数々の名誉や勲章で埋まっていた
印象主義者たちは、食べるものにも事欠いた
モネの反抗振りは人を唖然とさせた ⇒ 「何一つはっきり見分けられない」と言う批判に憤然として、蒸気機関車の煙で何も見えなくなったサン=ラザール駅を書いた
80年頃は、実生活上の関わりを最小限に抑え、いつでも写生に出掛ける用意が出来ていなければいけないと言って、歯ブラシと石鹸1つを手元において、髭を生やしていたのも毎朝髭剃りに時間を潰したくないからだったし、服は誂えで高級イギリス地のものだったが原則として3着だけ、うち1着は夜会服。食事も大抵はどこかの簡易食堂で済ましていた
81年に、後に妻となる女性を知ってから生活が一変 ⇒ 相手は近くに住む仕立て屋に勤めていた農民出の19歳の娘・アリーヌ・シャリゴで、ルノワールの絵のモデルにもたびたび登場。その頃ルノワールは印象派に対する疑義を感じ始め、喰うや喰わずの若者との結婚に娘の母親が反対したこともあって、アルジェリアに旅をして驚くべき世界を発見、以後過去の巨匠たちの絵を、それぞれの国で見たいというどうしようもない欲求を感じて情熱的な旅行の時代が始まる
イタリア旅行では、彼のイタリア芸術に対して抱いていた当初の感激は時とともに薄れ、一方、自分と同時代のイタリア人に対する感心振りは、彼等をよく知るにつれて一層増していったようだ。特にナポリを始め南部の人たちを愛したが、年をとって知識が増すにつれてパレットに置く色を単純にするようになったが、こういう傾向が始まったのはおそらくナポリでポンペイの絵画を前にした時からだろう
イタリアから戻ってシャリゴと同棲
1885年、パリとニューヨークでの展覧会が転機となって、パリでは相変わらず散々だったがアメリカ人が印象派の絵画に注目、ルノワールも自信を取り戻す
1874年に知り合ったカイユボットとは終生の友情を結ぶ ⇒ 銀行家の息子で、印象派のグループの誰にも劣らないほどの情熱をもって描いていた。仲間の作品の膨大なコレクションを作り上げ、ルノワールも経済的に助けられたが、94年ルノワールを遺言執行人に指名して死去、コレクションはルーヴルに寄贈することになっていたが、1/3は受け取りを拒絶され、それらの作品を手にした人もすぐに売り払い、多くはアメリカで買い手が見つかる
1897年、自転車に乗って転倒し右腕を骨折して以来、病気との戦いが始まる ⇒ リューマチの発作が起き、左目の神経の部分的な萎縮が目につき始め、手が縮んで反り返る
ルノワールは「鼻持ちならぬ」ことが大嫌いで、彼の言う「鼻持ちならぬ」とは、時として「様子ぶる」以下で、彼が口にすると実に軽蔑的に響いた。単刀直入に本題に触れずに周りをうろうろしている妙に様子ぶった人間を見ると、何とも説明のしようもない苛立ちを覚えた。彼にとってはそういう上品ぶりは、昔の礼儀のカリカチュアに過ぎず、素朴であることを止めれば貴族らしくなれると思い込んでいるブルジョアの虚栄心の現れに過ぎなかった
ルノワールにとって、セーヌ川の岸の果樹園の樹を切り倒して鉄筋のセメント造りのアパートを建てる投機家は、信じやすい少女を犯す馬鹿者と同じ意味で、鼻持ちならぬ人間
ルノワールのパレットは、「新しい銅貨のように」清潔、筆は1度に2,3本しか使わず、擦り切れ始めると捨ててしまうのが常で、絵具箱の中も非の打ちようのないほど整頓され、絵の具のチューブも押し出す時にちょうど必要なだけの量が出せるようにいつも端から巻いてあった
イタリア旅行以後は、黒を「すべての色のうちの女王」と呼び、パレットには黒を置かない
晩年には彼のパレットはさらに単純なものとなる
若い頃の作品が黒く変色しているのを見て、50年先に「落ち着かせる」ことを考え、粗いキャンバスの表面に亜麻仁油の割合を増したシルバー・ホワイトの下塗りを施し、作品の堅牢さを考えたので、死後40年も経った今日、芸術愛好家たちは「永い将来を見越した」ルノワールの方法の成功を確かめることができる
「主題」などという問題には無関心で、ある時、一生涯同じ主題の絵を描いてこなかったことを悔やんでいた ⇒ 同じ主題で描ければ、絵画における創意発明的部分、つまり形態と色彩との諸関係という問題に余すところなく己を委ね得ただろう、という意味
1900年、共和国政府からレジオン・ドヌール勲章をもらうが、承諾すれば敵と妥協し、アカデミックな芸術やサロンや美術学校や学士院を認めることになるし、断っても彼の一番嫌なこと、つまり芝居がかった行為をすることになり、「栄誉」に対する友人たちの態度を思い起こし大分迷った上に決断。シスレーは前年に死去、セザンヌはナポレオンが作った別な勲章に感心していたし(1906年死去)、ピサロはレジオン・ドヌールなど今じゃ誰でも持っていると言って無関心(1903年死去)。モネには逡巡の手紙を書いたが気の使い過ぎに終わる
スーラの発案でできた「アンデパンダン」(1884年パリで第1回展)や、ルノワールの才能に対する敬意をその結成の第一の要因とした「サロン・ドートンヌ」(1904年結成、毎年秋にパリで展覧会開催。ルノワールの全作品の回顧展を開き大成功)等の新しい団体にしても、かつての美術アカデミーや学士院以上に若い画家たちの助けとはならないことを承知していたし、彼にとって絵画という芸術を助ける唯一の手段は、議論することでも団体を作ることでも褒賞を与えることでもなく、描くこと
1911年、リュウマチ治療のためパリから南仏カーニュに移住するが、既に歩行困難
ルノワールにとって、山が衝立のように町を守っているマントンの気候が一番具合がよかったが、山が結核にいいということを医者が発見して以来、肺病のイギリス人がわんさと押しかけてきたため、ニースの西まで離れた
カーニュで、ルノワールに必要な生き生きした感じを押し留めておこうとして一番役に立ったのは、筆者の母が昔と同様爪の先まで百姓女だという点で、敷地いっぱいにオリーヴやオレンジ、ブドウ畑を作ってルノワールの目を楽しませた
仕事に対する唯一の報いは仕事そのもの ⇒ 理想を持って取り組む
金持ちの友人一家がヨーロッパ中から名医を厳選してくれたお蔭で一旦立てるようになったが、「これでは私の意志の力はみな取られてしまう。描くのと歩くのとどちらかを選ぶとなると、描く方が好きなんだ」と言って、以後は二度と立たなかった
この重大な決心をした後、ルノワールの生命はまるで最後の火花を散らしているように、ますます簡素になったパレットから、目も眩むような色彩や、大胆を極めたコントラストが溢れ出てきた
ルーヴルにある「大きな浴女たち」もそんな中で描かれ、彼もこの作品を一つの帰結と見做した。この作品の中に、生涯にわたる数々の探求を要約し、将来の探究のためのスプリング・ボードを置いたと考えていた。が、ルーヴルは、この絵の色が「想像しすぎる」と言う理由で我々の寄贈に対し引き取りを拒んだ。フィラデルフィアのコレクショナーで美術評論家のバーンズが自分の美術館に入れたいと言ってきたが、最終的にはルーヴルが寄贈を受け入れる。カイユボットの寄贈を拒否した時とは時代がすっかり変わっていた
最後の日の朝、女中が摘んできたアネモネを描いた後、「この絵で、何かわかり始めたような気がするよ」と言った

訳者あとがき                     1964.2.17.
著者ジャン・ルノワールは、1894915日にパリで生まれた。ルノワールの第2子である。『どん底』(1936)、『大いなる幻影』(1937)、『河』(1950)等数々の名作を残したこの高名な映画監督についてはいまさら解説の要はあるまい。彼のファンならば、本書中の随所に、彼独特の巧妙な映画的手法が見事な効果を上げているのを見て取ることが出来るだろう。注意深い読者なら、絵画と映画というように世界は異なるが同じくイメージを追ったこの芸術家父子の深い類似を見てとることも出来るだろう。だが、この美しい伝記の最も根本的な特質はそんなところにはない。著者が父ルノワールに捧げている無私と評したいような敬愛の念にある。おのれの中で生き続け、年と共に成長する亡き父の像を真に客観的に描き出すにはこれ以外の道はない。精妙に徹底的に再現されたルノワールの像をささえているのは、観察ではなく愛
ルノワールは、18411919年というフランスの歴史中の最も波乱に満ちた時代の1つを生きたが、この鎧うことを知らぬ感受性を通して、一つの時代像を鮮やかに映し出しているのも本書の比類ない特色の1




 Wikipedia
ピエール=オーギュスト(オギュスト)・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir発音例1841225 - 1919123)は、フランス印象派画家である。後期から作風に変化が現れ始めたので、まれにポスト印象派の画家とされることもある。
風景画、花などの静物画もあるが、代表作の多くは人物画である。初期にはアングルドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象主義のグループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化が見られ、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。
長男のピエールは俳優、次男のジャンは有名な映画監督である。
生涯[編集]
青年期[編集]
ルノワールは1841225日、フランス中南部のリモージュにて生まれる。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父は仕立屋、母はお針子であった。3歳の時、一家でパリに移住し、ルーヴル美術館に近い都心に住む。
幼いころから画才を示していたが、美声でもあったルノワールは1850年頃に9歳前後で作曲家シャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーはルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、同時期に父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申し出が父親にあったことや、ルノワール自身が磁器工場での仕事を希望したため、両親及びルノワール自身がグノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。
1854年、13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなる[1]が、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなったルノワールは画家を目指した。1862にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。並行して1861年からはシャルル・グレールアトリエ(画塾)に入り、ここでモネシスレーバジールフランス語版)ら、後の印象派の画家たちと知り合っている[2]。画塾で制作中のルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたというエピソードは著名である。
初期[編集]
1864年には『踊るエスメラルダ』をサロンに出品し、初入選している。この作品はヴィクトール・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に取材したものだが、後に作者自身によって破棄されたとされ、現存しない。
サロンには1865年にも2点が入選するが、18661867の両年は落選するなど、入選と落選を繰り返していた。初期のルノワール作品にはルーベンスアングルドラクロワクールベなど、さまざまな画家の影響が指摘されている。この頃の作品としては『ロメーヌ・ラコー嬢の肖像』(1864年)などが現存する。ルノワールの友人であったバジールフランス語版)は、当時、生活に困窮していたルノワールを、ヴィスコンティ通りにある自分のアトリエに同居させていた。ルノワールはモネとも親しく、1869年にはパリ郊外ブージヴァルのラ・グルヌイエールの水浴場でモネとともにイーゼルを並べて制作した。この時彼ら2人が制作した、ほとんど同構図の作品が残っている[3][4] 
1868年のサロンには、その前年に制作した『日傘のリーズ』を出品し、入選している。この作品のモデルは当時ルノワールが交際していたリーズ・トレオという女性で、彼女は他にも『夏、習作』(1869年のサロンに出品)、『アルジェの女』(1870年のサロンに出品)などの作品でモデルを務めている。
1870年、普仏戦争が勃発するとルノワールも召集され、ボルドーの第10騎兵隊に配属されるが、赤痢にかかり、翌年3月に除隊している。なお、ルノワールの友人で援助者でもあったバジールフランス語版)は、普仏戦争に自ら志願し、29歳の若さで戦死した。
除隊後のルノワールは、パリ郊外・アルジャントゥイユのモネ宅をしばしば訪問し、ともに制作した。この頃に、画家で印象派絵画のコレクターでもあるギュスターヴ・カイユボット、画商のデュラン=リュエルなどと知り合っている。187312月、モネ、ピサロ、シスレーら、後に「印象派」と呼ばれるグループの画家たちは「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。ルノワールもそこに名を連ねていた。18744 - 5月にはパリ、キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエでこのグループの第1回展を開催。これが後に「第1回印象派展」と呼ばれるもので、ルノワールは『桟敷』など7点を出品した。
1876年の第2回印象派展には『ぶらんこ』、『陽光を浴びる裸婦』など15点を出品した。後者は今日ではルノワールの代表作として知られるものだが、裸婦の身体に当たる木漏れ日や影を青や紫の色点で表現した技法が当時の人々には理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評された。1877年の第3回印象派展には、前年に完成した大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を含む22点を出品した。印象派展は1886年までに全部で8回開催されたが、ルノワールは1882年の第7回展に25点を出品したものの、第4568回展には参加していない。
1878年にはサロンに出品を再開。翌1879年のサロンに出した『シャルパンティエ夫人と子どもたち』は絶賛を浴びた。モデルのシャルパンティエ夫人は出版業者ジョルジュ・シャルパンティエの妻で、同夫人が自邸で催すサロンは評判が高く、ルノワールもこのサロンに出入りして、当時の文化人や芸能人の知己を得た。
1881年には大作『舟遊びの人々の昼食』を完成。この作品の左端に描かれる、帽子をかぶり犬を抱く女性は後にルノワール夫人となるアリーヌ・シャリゴである。アリーヌは『田舎のダンス』(1882 - 1883年)などの作品のモデルとなり、1881年のイタリア旅行にも同行し、1885年には息子ピエール(俳優。ジャン・ルノワールの兄)をもうけているが、ルノワールと正式に結婚するのは1890年のことである[5]
1880年代以降[編集]
しかし、ルノワールは、1880年代前半頃から、光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持ち始める。1881のイタリア旅行でラファエッロらの古典に触れてからはこの懐疑はさらに深まった。この時期、特に1883年頃からの作品には新古典派の巨匠アングルの影響が顕著で、明快な形態、硬い輪郭線、冷たい色調が目立つ。
1890年代に入ると、ルノワール本来の暖かい色調が戻り、豊満なヌードを数多く描いた。
1898年頃からリューマチ性疾患に悩まされ、晩年は車椅子で制作を続けた。ただし、「指に筆をくくりつけて描いた」というのは伝説の域を出ないようである[6]1903からは南仏のカーニュに移り住み、1907レ・コレットと呼ばれる広大な地所を購入し、この地で死を迎えた。ルノワールの作品総目録(カタログ・レゾネ)は現在編集中だが、4000点は下らないだろうと言われている。
ルノワールは日本にも早くから紹介され、その親しみやすい画風のためか愛好者も多い。また、梅原龍三郎をはじめ多くの画家に直接・間接に影響を与えている。
参照[編集]
1.   ^ Renoir, Jean: Renoir, My Father, pages 57–67. Collins, 1962.
2.   ^ Vollard, Ambroise: Renoir, An Intimate Record, pages, page 30.
3.   ^ Pierre-Auguste Renoir: La Grenouillère Wikimedia Commons at commons.wikimedia.org
4.   ^ Claude Monet La GrenouillÃre – Wikimedia Commons at commons.wikimedia.org
5.   ^ Wadley, Nicholas: Renoir, A Retrospective, page 15. Park Lane, 1989.
6.   ^ André, Albert: Renoir. Crés, 1928.


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