チーズと文明  Paul S. Kindstedt  2013.8.26.

2013.8.26.  チーズと文明  チーズという窓から西洋史を巡る旅へ
Cheese and Culture   
A History of Cheese and Its Place in Western Civilization        2012

著者 ポール・キンステッドPaul S. Kindstedt ヴァーモント大食物栄養学部教授。乳産品化学とチーズ製造に関して、数々の論文や共著を執筆するほか、様々な研究会を開催。ヴァーモントチーズ協会との共著で『アメリカにおける農場作り(ファームステッド)のチーズ』(2005)があり、研究と教育両面においてその専門領域は国内で高い評価を受けている。現在、同大学内に設立されたヴァーモント職人作り(アルチザン)チーズ研究所理事を務める

訳者 和田佐規子 岡山県吉備中央町生まれ。東大大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。夫の海外勤務に付き合ってドイツ、スイス、アメリカに合わせて9年滞在。大学院には19年のブランクを経て、44歳で再入学。専門は比較文学文化(翻訳・翻訳論)。現在は首都圏の3大学で比較文学、翻訳演習、留学生の日本語教育などを担当。翻訳は本書が初めて。趣味はチーズも含め、内外の食物・料理研究とウォーキング

発行日           2013.6.10. 初版発行
発行所           築地書館


古代南西アジアで誕生したチーズは、ギリシャの神々に捧げられ、ローマ帝国の繁栄を享受し、キリスト教と共にヨーロッパ各地に広がり、時にはオランダ商船によって運ばれ、産業革命に立ち会い、ピューリタンと新大陸へと渡り、そして現代アメリカとヨーロッパの間では、原産地名称と生乳使用を巡って貿易紛争が繰り広げられる・・・・・、いつの時代もチーズは私たちの営みと共にある

はじめに――文明史と交差するチーズの歴史
伝統的なチーズには11つ特別な〈物語〉がある ⇒ どんな外界の変化がきっかけとなってそれぞれのチーズが生み出されてきたのかを理解することができる
伝統的なチーズが、同時期に現れたその他の伝統的食品と共に周りの文化をも形作ってきたので、特に南欧、中央ヨーロッパには今日でも人々の暮らしの風景の中にこうしたチーズや伝統的食品の刻印が随所に見られ、ここがアメリカと大きく異なる点
歴史的な違いから発生する食文化における新旧大陸の隔たりは、1994年以来、アメリカ合衆国とEU間で執拗に繰り返されてきた摩擦の原因
知的財産権の問題(製品名の不正使用)、食品の安全規制の問題(低温保持殺菌していない牛乳の使用の統制)、新技術に関する政策(遺伝子組み換え)等々、両者間で激しく対立

第1章        チーズの起源――古代南西アジア
チーズ製造の起源はほぼ農業の開始まで遡ることができる
紀元前7000年頃 チーズ製造に欠かせない2つの前提が揃う
   ミルクが豊富に生産できる
   ミルクを集めて保存し、凝固させ、できた凝乳(カード)と乳漿(ホェイ)とを分けるための容器があること
紀元前6500年頃の西部アナトリア(トルコ西部)には、家畜化した動物が、肉からミルクの生産に実質的に移行したことを示す最初の痕跡が見られる
南西アジアで酪農が始められた直後からチーズとバターの製法が発明され、人類はミルクから栄養を取ることが可能となる
チーズ製造発展の転機は、紀元前70006500年頃の高温加工発見のときで、それによって新石器時代の陶器製造への道が開け、陶器の発展が食品の保存、加工、輸送、調理技術一般の観点から見て大きな前進だった
酸と熱が結びついて凝固することが発見された ⇒ リコッタチーズの原理
レンネットの発見 ⇒ 反芻動物の胃の内膜を乾燥させたもの、ミルクを凝固させるのに使用する物質。附着する酵素でミルクを凝固させる技術自体は、動物のミルクを搾って集めるようになるとじきに行われるようになったと推定
チーズやバターの製造は、成人のミルク消費が広がるずっと前に始まっており、成人のラクトース(乳糖)アレルギーが消失するよりもよほど速いスピードで乳製品製造が広がっていた
新石器時代人の大移動 ⇒ 肥沃な地中海東部の三日月地帯から大挙して周辺へと移動、東へ向かった移民たちはチグリス・ユーフラテスに達して大メソポタミア文明の基礎を築き、シナイ半島を抜けて南西に移動した人々はナイル流域に新文明を起こし、東方へ向かった移民はインダス渓谷に達してハラッパ文明を咲かせる。北方や西方へと向かった移民は、トルコを抜けて北方へ向かうグループと、地中海北側の海岸をギリシャからスペインへと辿るグループとがいた

第2章        文明のゆりかご――チーズと宗教
紀元前3000年頃 大メソポタミア文明の中心地はウル ⇒ チーズやバター生産の中心地でもあった。チーズが初期においては宗教的な神話及び儀式的表現に於いて欠かせない要素であった
エジプトのチーズは、紀元前5500年頃の民族流入と同時に初歩的な技術が伝達された
ハラッパ文明/インダス文明は紀元前2000年代の半ば、高い文化程度を持った多数の定住者の流入で、多くの入植地が急速に都市化するが、チーズを熟成させることが「腐敗」と見做され、なかなか技術が定着しなかった
中国でもミルクや乳製品が食事の主要な要素になることはなかった ⇒ 異国の習慣は異様で魅力がないと見做して拒絶する強い文化的保守主義があった

第3章        貿易のゆくえ――青銅器とレンネット
紀元前3800~紀元前3100年頃 ウルクの膨張 ⇒ メソポタミア文明が冶金術の進展と交易の拡大で急成長
アナトリアを500年にわたって支配するヒッタイト文明が形成され、引き継がれていく
その中でも注目すべきは、ヒッタイトの宗教儀式の中でチーズが神々への目に見える捧げものとなったこと
紀元前1200年頃には、海上交易でチーズが発送された記録が発見されており、青銅器時代後期には、羊毛やワイン、オリーブオイル、青銅等の貴金属に伍して交易網の中で価値ある品物として珍重されるようになった
新しい民族、ケルト人が混沌の中から現れ、素晴らしいチーズの製造を始め、そこからヨーロッパ中に彼等の影響が広がって、無数のヨーロッパチーズの発達に繋がる

第4章        地中海の奇跡――ギリシャ世界のチーズ
ギリシャの信仰では、動物を生贄として捧げるのが常 ⇒ パンやチーズが含まれる
神々は時として特別なタイプのチーズを捧げ物として要求 ⇒ ヘレニズム時代のクレタ島では「女チーズ」なるものがあったが、その詳細は不詳
日常の食事にも欠かせない要素

第5章        ローマ帝国とキリスト教――体系化されるチーズ
ローマのチーズとその製造については、農業に関する著作に負うところが大きい
マルコス・ポルキウス・カトー(紀元前234149) ⇒ 『農業論』には、血を流さない捧げ物として使用されたケーキがチーズで作られたとの記載がある
マルクス・テレンティウス・ウァロ(紀元前11628) ⇒ 『農業論』にはチーズの製造方法の詳細が記載。レンネット凝固にも言及
ルチウス・ユニス・モデラトゥス・コルメラ(1世紀初め頃) ⇒ 『農事論』でチーズ製造のプロセスを、品質管理に重点を置いて記述した最初の学者

第6章        荘園と修道院――チーズ多様化の時代
西ローマ帝国崩壊の最中の480年頃、ベネディクト修道会では自給自足の共同生活を通じ、中世の荘園のモデルとなる、よく統制された新しい経済的実体を示した ⇒ その過程で修道院と荘園が様々な種類のチーズを生む
最も簡単に作れるチーズは、コルメラが書いていたフレッシュチーズ ⇒ レンネット凝固でできたカードからさらに水を抜いて固める
フレッシュチーズをベースに、チーズ作りの重要な変数を変えると、様々な方向へと分岐していく ⇒ ここにチーズ作りの本質がある
変数を変えることによって、化学的にも様々に異なったチーズが、酸味も水分量も、構造や質感も相当違ったチーズが生まれた ⇒ 最適な環境(温度、湿度、換気状態、ひっくり返したり擦ったりする物理的な操作等)で保存された場合、微生物学的な変化が選択的に促進されて、驚くような結果が出たりする。試行錯誤の経験からフランス北西部の農民のチーズ作りたちは、重要な変数、保存の際の環境条件、物理的な操作を調整することを学習し、これによって、柔らかくて熟成したタイプのチーズの3つの大きなグループを発展させてきた ⇒ 腐敗をコントロールすることによって実現
   白カビチーズ ⇒ ミルクを29℃に温め、活性レンネットで急速に凝固させる、涼しくて湿度の高い環境で保存すると、黒カビや青カビではなく白カビがよく生育
   酸またはレンネットによって出る乳漿を利用するチーズ ⇒ 少なめのレンネットを用い、室温(21)でゆっくりと凝固させると、酸味のきつい水分の少ないチーズが出来る
   ウォッシュチーズ ⇒ フレッシュチーズを涼しくて湿度の高い環境で保存すると表面に酵母が発生しやすくなり、その中のオレンジ色の色素を持ったコリネバクテリア菌をチーズの表皮全体に塗り広げ、濃度の低い塩水で湿らせて作る
イングランドの荘園チーズ ⇒ 大きな群れの羊乳を用いて行われ、中世初期には地域の牧畜経済の中心を担う。熟成したペコリーノ・ロマーノのタイプのチーズ
山岳チーズ ⇒ スイスの山岳地帯の修道院で作られたごつごつした固いチーズ
中世のフランス中南部のマシフサントラルでは、アルプスやピレネーの山岳チーズとかなり異なる山のチーズが花開く ⇒ カードやホェイを加熱せずに圧搾し、水分含有量を低くしたうえで加塩することにより、さらによく圧搾され塩が均一にチーズに浸透し、保存性の高いチーズが出来る。それを一定温度(610)と湿度(9598)、さらに垂直方向の深い岩の裂け目による換気も備えた環境にある天然の洞窟が理想的な青カビの生育をもたらし、ロックフォールチーズとなる(ロックフォール村のコンバル洞窟が有名)
ロックフォールチーズの記録で最も早いのは1070年、洞窟と荘園を修道院に寄進した時のもの
グラナチーズ ⇒ パルミジャーノ・レッジャーノ(パルメザン)やグラナ・パダーノとして有名。中世、北部イタリアのポー川上流域に起源。谷のチーズだが、山岳チーズの伝統をひいた製造法で硬質。歴史に現れるのは14世紀

第7章        イングランドとオランダの明暗――市場原理とチーズ
1536年 ヘンリー8世の在位中、財政難の政府が修道院の荘園を売却、荘園のチーズ作りの知識は商業主義農場という新しい世代へと引き継がれる
19世紀の初め頃、イングランドの主要チーズは2つのカテゴリーに分類
   チェシャーに代表される北部地域のチーズ ⇒ 非加熱で圧搾前に塩を加え、高い圧力で圧搾して作る。水分率が高く酸味が強い。さらに酸味の強いスティルトン・チーズも高い評価を得る
   南部地域のチーズは、チェダーを筆頭に、スコールディング(加熱)技法と圧搾前に加塩してその後高圧で圧搾する方法の組み合わせ
1851年アメリカのチーズ工場の成功から、イングランドの関税引き下げもあって、アメリカ産チェダーチーズがイングランドを席巻、農場の伝統製法のチーズを駆逐
オランダでは、15世紀になって漸く経済の重要な一翼を担う産業として、酪農業が発展、短期間に爆発的にチーズ製造が進化 ⇒ 11世紀ヨーロッパ北部の繊維工業の中心だったフランドル地方に刺激され、大規模な土地改良による農地の拡大と、海上貿易の発展により、チーズを輸出品の中心に据える ⇒ 大量の製品が作れるように新しい器具を発明したり保存性を増す工夫をしたりして差別化を図る
1700年頃、イギリスではバターの需要が高まってチーズを作るミルクからも脂質を取り除いた低脂肪低品質のフレットチーズが作られたが、同時に評判も落としてチーズ帝国が没落したが、オランダでは輸出で大成功を収めていたエダムとゴーダの2種類のチーズに関してはバターの生産に左右されないようにするとともに、スキムミルクから「スパイスチーズ」として知られる新製品を開発し、エダムとゴーダへのミルク割り当て確保に貢献
赤色表皮のスパイスチーズ ⇒ レンネットを使用して凝固させたチーズで、非加熱、圧搾して表面に塩を擦り込む製法で作られた。クローブなどの粉を加えて風味をつけて型入れする
絶妙なバランスのエダムチーズ ⇒ ドイツのラインランド地方のチーズ商人が、交易の中心地でチーズの市場のあった町の名前から付けた。オランダ北部で「甘いミルク(無塩全乳)」から作られるチーズの総称となる。レンネット凝固を利用した、非加熱、中程度に圧搾して、表面に塩を擦り込んだチーズ。オランダで発明された球形の型で圧搾されたためひび割れや欠損の防止に役立ち保存性が増した
甘い風味のゴーダチーズ ⇒ エダムより大型の全乳チーズ。ゴーダも市場のあったオランダ南部の町の名前。カードからホィエを除去した後、熱湯のスコールディング工程の後圧搾。非常に甘い酸味の低いチーズ。表面をコーティングで「重ね仕上げ」をしてハエやウジから守った
オランダ帝国主義の黄金時代が終わっても、エダムとゴーダの輸出はオランダ経済を支え、19世紀後半政府はチーズ製造を含む酪農製品の製造と改善に巨額の投資を行い、年間工場生産量は1910年に19100トンになり、農家の生産量を上回る ⇒ 工場生産チーズの大半は輸出用。農場作りのチーズは姿を消す。オランダは、工業化も技術力も専門性も最も進み、世界で最も成功した(最大の市場占有率を誇る)チーズ生産国となる

第8章        伝統製法の消滅――ピューリタンとチーズ工場
マサチューセッツ湾植民地の初代総督ジョン・ウィンスロップは、アメリカの創始者の1人、チーズ製造についての知識があった ⇒ マサチューセッツ湾の初期移民は、イギリスのチーズ製造の中心地だったロンドン東部イーストアングリアのサフォークやエセックス、ノーフォークの酪農地域出身者が多数を占め、もう1つの酪農中心地のイングランド南西部からの移民も多かった。ロンドンの商人階級の移民も多く、新世界でのチーズやバターの商売に注目していた
先住民は、移民の進出に追い立てられた上に、サトウキビのプランテーションを含む巨大な貿易網の副産物として作られた強烈な蒸留酒のラムによって中毒状態になり、アルコール依存と貧困、絶望に支配されるようになった ⇒ 皮肉にもピューリタンにとって、ラムが植民地経済の活力源、莫大な富と繁栄の源になった
奴隷貿易の自由化により大量の労働力が供給され、農業のみならず乳製品製造にも広がる
ロードアイランドのナラガンセットのチーズ製造は、ピューリタンによって始められたイングランドのチェシャーチーズで、原産地名を名乗る数少ないニューイングランド植民地のチーズ
アメリカでも、自分たちのチーズを区別するのにチェシャーやグロスター、チェダーといったイングランドの名称を使うようになった ⇒ 製法はイングランドのものとほぼ同じ
移民の流入と人口増加に伴い、アメリカの農業は工場生産と規模の経済の時代へと突入、チーズ製造も19世紀半ばには工場での大量生産時代に入る
アメリカのチーズの工場生産 ⇒ チェシャーからチェダーに転換。同時にイングランドのチェダーチーズ製造に科学的なアプローチがもたらされる。それはチーズの製造各過程の時間、温度、酸性度を管理することによりチーズの品質と均一性を統制する新しい手法であり、チェダーチーズ需要の急増と、アメリカのチーズの工場生産のシステムが加速したことと相俟って、アメリカ産のチーズが市場を席巻
2001年 アメリカではチェーダーに代わってモッツェレラの消費量がトップに ⇒ 1920世紀初期にイタリア移民が持ち込んだチーズだったが、ピザの需要の急増とともに一気に消費が増大
アメリカには、それぞれの民族の伝統が生んだチーズを携えた移民が渡ってくる ⇒ イタリア人はモッツェレラのほかにパルメザンとリコッタを、ドイツ人はリンバーガー、ミュンスター、フレッシュチーズで酸凝固させるタイプのもの、スイス人はエメンタールとグリュイエール、フランス人はカマンベール、ブリー、ヌーシャテルとクリームチーズをもたらし、いずれも大規模に作る技術が開発され、20世紀末の生産量は年間4百万トンに達する ⇒ 大半は工場生産だが、農場作りや手作りが20世紀の最後の30年間に戻る

第9章        新旧両世界のあいだ――原産地名称保護と安全性を巡って
1994年 GATTウルグアイ・ラウンド合意 ⇒ 貿易における障壁の撤廃に116か国が合意、WTO(世界貿易機構)の創設より共通の基準に従うことが強制されたが、チーズに関しては知的財産権や製品の安全基準を巡って合衆国とEUの間の摩擦が表面化、現在もなお基準作りが難航中
原産地名称保護の流れ ⇒ 地理的表示(GI)保護に関し包括的な世界基準を打ち出し、ある食品や飲料がその原産地であることによって品質上に独自性を持っていることを示すものとしてGIという制度を導入、GIを取得した食品の名称はGATTのもとでも独自性があると認められて、GIが保証している地理的エリア外で製造された製品には使用できないとした
ロックフォールチーズにGIが認められると、ロックフォール村以外で生産された同種のチーズにロックフォールの名称を使用できない ⇒ チェダーのように「一般的な名称」になったものについては例外とした(原産地というより製品の種類を表すと見做される)が、「一般的」か否かの判断がそれぞれの国に任されたことから、その判断を巡る争いが激化
元々アメリカのチーズ製造は、ヨーロッパの移民が自分たちのチーズの名前や技術をアメリカに持ち込んだもので、アメリカにとっては伝統チーズの多くは一般名称となっていた
一方EU側では15世紀にシャルル6世がロックフォールで作られたチーズだけにロックフォールと名乗ることを認めたのを嚆矢として、「地の味」という概念がGI支持の根底にあり、地域ごとの独特の環境による品質の違いを尊重しようとする考えが強い
1919年 ワインについての原産地呼称統制(AOC)が、初の国内GI制度としてフランスで設立され、その後チーズを含むその他の食品にも拡大
ロックフォールは1925年チーズとして初のAOC認定を受ける
1992年 原産地名称保護制度(PDO)設立 ⇒ EUがフランスのAOC制度に倣い、ヨーロッパ全域に通用するGI制度を設立。150種類以上の伝統チーズがPDO認可を持つ
EUが、1996年に北イタリアのパルマとレッジオの一帯で製造される真正のパルメザンスタイルのチーズの名称であるパルミジャーノ・レッジャーノをPDOとして認可したが、ヨーロッパの他地域では「パルメザン」という名称で長年にわたって製造されており、ドイツをはじめ数か国では「パルメザン」を一般名称と見做してきた。にもかかわらず、08年欧州司法裁判所はパルミジャーノ・レッジャーノのPDO認可は「パルメザン」という名称も保護するという判断を下したため、PDO指定地域外でパルメザンチーズを製造している企業は、製品に別の名称を付けなければならなくなった ⇒ フェタチーズ(羊の乳を使ったギリシャのチーズ)も同様の司法判断が下され、PDO認可の適用拡大をアメリカは警戒
PDO規制は、過去の悪習を正し、ヨーロッパに正当な文化的知的所有権を取り戻すための手段だと考えられている ⇒ 伝統チーズの製造は経済的に存続の危機に立たされており、伝統的名称を保護することは、ヨーロッパでは経済発展の手段、市場に於いて伝統的ヨーロッパチーズを差別化し、付加価値を付ける手段とみられている。文化的継続性の保存という目的にも寄与
安全基準を巡る問題 ⇒ 生乳(低温保持殺菌されていないミルク)とチーズの安全性
PDOのチーズの必要条件として、生乳で作るというのがあり、生乳から作るチーズに強いこだわりを持つのに対し、アメリカでは製品の安全性向上を目的に、チーズ製造から生乳を除去する方向へ動く
1949年 合衆国連邦基準 ⇒ モッツェレラ、コテッジ等10種類のチーズに低温保持殺菌pasteurizationしたミルクの使用を義務付け、それ以外のチーズは最低温度華氏35度で最低60日間熟成期間を置く前提で生乳から作ることができるとした(60日ルール)
アメリカでも伝統的製法の復活が叫ばれるが、ウォッシュ製法、カビチーズ、天然表皮チーズは、ハード系と呼ばれるチェダーやスイス、パルメザンなどの熟成タイプよりも食中毒の危険性が遙かに高いチーズで、既存のチーズ製造会社はこうしたアルチザン(職人)の新しい運動を「食中毒の猛襲への入口」と見做して、全てのチーズに対する消費者の信頼が揺らぐことを恐れた
85年 チーズから、死に至る新種の病原菌リステリア菌が発生、感染元のカリフォルニアでは152件で52人が死亡、低温保持殺菌乳から製造することが定められていたメキシコスタイルのソフトタイプチーズ(ケソフレスコ)が原因だったことが判明しショックが広がる ⇒ アメリカでの生乳使用の禁止/60日ルールから低温保持殺菌の義務化への動きに対し、ヨーロッパは「等価性の原則」として、低温保持殺菌と同レベルの公衆衛生保護が達成できるのであれば、他の方法を用いることが認められるとした



チーズと文明 ポール・キンステッド著 製法の発見と利用のための苦難 
日本経済新聞朝刊 2013年8月18
フォームの始まり
フォームの終わり
 かつて読んだものの本によると、人類がまだミルクを飲んでは下痢をくりかえしていたころ、何とか解決法がないかと探しもとめた。牛の胃袋でつくった袋にミルクをつめて運ぶと、意外なことに固まりができあがり、これならば人間にとってじゅうぶんに消化が可能だ。しかも、たいそうな美味。これこそ、チーズの創始だという。
(和田佐規子訳、築地書館・2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(和田佐規子訳、築地書館・2800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 牛など反芻動物の胃袋の内膜を乾燥させたものをレンネットとよび、ミルクをチーズに凝固させるための魔法の紐となるとのこと。でも、本書によれば、そんなミルク対策をとる前に、すでにレンネットは、新石器時代には人知の対象となり、チーズは発明されていたのだという。近年になって確認されたあらたな常識だとか。
 もうひとつだけ新知見を。母マリアが男と交わらないままに、イエス・キリストを懐妊するなんてとも疑いたくなる。しかし、古代の哲人、アリストテレスやテルトゥリアヌスによれば、交わりなしにも月経血に精子がはいって凝固し、胎児ができるはずという。ちょうど、ミルクにレンネットがくわわって、チーズが凝固するのにひとしいと考えなさいと。
 ひとは、チーズとしてミルクを摂取し、それを鍵にして世界を開発してきたといって、過言ではない。チーズの世界史。そこでは、製法の発見にはじまり、利用と改善のための苦難と成功がつづく。おもに、中東からヨーロッパを舞台としたチーズ史の妙点が、本書ではぞくぞくするような世界史として物語られる。
 羊毛採取と羊のミルクによるチーズ・バター生産とは、相性がいいとか。車輪型と円柱型とでは、チーズの製法と味に違いがある。さらには、産業としての工法にも、男性のスタイルと女性スタイルの差があるのだとか。いや、アメリカでひろまった、ヨーロッパの地方原産風のチーズは、いま原産地表示義務をめぐって、論争にまきこまれているとか。話題は、ほとんど留まることがない。
 流行のグルメ本とは真逆のチーズ本として、これをディナーの席に備えてみては、無粋にすぎるだろうか。
(西洋史家 樺山紘一)



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