歴史を変えた外交交渉  Fredrick Stanton  2013.8.15.

2013.8.15.  歴史を変えた外交交渉
Great Negotiations  Agreements that Changed the Modern World     2010

著者 Fredrick Stanton 『コロンビア・デイリー・スペクテイター』紙の元経営責任者。同紙の前身はコロンビア大の学生紙だが、現在ではニューヨーク7番目の英字新聞。アルメニア、グルジア共和国、ボスニア、コソボ、アゼルバイジャンで選挙監視活動に参加。コロンビア大で政治学の学士号取得
本書は多くの賞を受賞

訳者 佐藤友紀 1970年宮城県生まれ。武蔵大経済卒。横浜税関勤務後翻訳家に。

発行日           2013.3.29. 第1
発行所           原書房

英仏を見定めながら勝ち取ったアメリカ独立
日露の国力をかけたポーツマス会議
国際平和組織の産声とパリ講和会議
冷戦の終わりの始まり、レイキャヴィク会談
歴史を塗り替えた外交交渉の肉声!

日本語版序文 村田晃嗣(同志社大学長、国際政治学)
戦争は始めるよりも終わらせる方が遙かに難しい。このテーマに挑んだのがギデオン・ローズ『終戦論――なぜアメリカは戦後処理に失敗し続けるのか』
武力紛争に限らず、国際的な懸案を解決するには、外交交渉が不可欠
8つの事例を通じた国際政治の壮大な絵巻物 ⇒ アメリカの成長物語で、圧倒的な軍事力と経済力のみならず、周到な外交交渉能力が、国際政治でのアメリカの興隆を支えてきたことが分かる
著者は、外交政策教会の研究員で、新進気鋭の外交専門家
国力の相対的な後退期に直面している日本にとって、忍耐強く周到な外交交渉の術と覚悟が今ほど必要な時期はなく、そのための格好の手引き書

はじめに
言葉は、武器と同じように歴史を決定づける力を持っている
紛争の解決には外交的手腕が決定的役割を持つ ⇒ キューバ・ミサイル危機はその勝利の例であり、第1次大戦後のヴェルサイユ条約は苦い失敗例
成功した交渉はいずれも力に対する理性の勝利であり、利害が衝突した場合でも紛争は避けられることを裏付ける。それができるのは、狡猾な賢明さと決断力と固有のカリスマ性を兼ね備えた人たちだけ

第1章        アメリカ独立の舞台裏 (1778)
1776年 アメリカは独立を宣言したが、イギリスの通商禁止や海上封鎖によって大陸軍は武器、弾薬不足に悩まされる ⇒ イギリスに対抗する側の潜在的な同盟者としてフランスに目を付け、交渉団を派遣
代表団の1人ベンジャミン・フランクリンは、独立宣言の起草委員でもあり、印刷業で成功を収め、稲妻の本性を明らかにする実験に成功し、国際的にも「ニュートンやガリレオの後継者」として評価されていた
フランスは、アメリカがイギリス帝国の支配下に戻ることをいかなる状況においても容認しない立場にあり、密かに植民地側に援助をしていたが、表向きはあくまで中立、特に国王に反旗を翻す植民地軍を公然と支援することはありえないという態度で臨む
連戦連敗だった大陸軍がサラトガで勝利し、英米講和の可能性が出てきたことに危機感を抱いたフランスが、アメリカからの米仏西による軍事同盟提案を受け入れようとしたが、スペインが拒否
アメリカは、フランスに対し、即時参戦か、大陸会議への十分な財政支援かの2者択一を迫り、782月両国間の同盟条約調印に成功 ⇒ フランスの支援(大陸軍が使用した火薬の90%はフランス産)により大陸軍は息を吹き返し、5か月後には英仏が交戦状態に入り、スペインも参加した世界規模の戦争に発展、戦力を分散せざるを得なくなったイギリス軍の戦闘遂行力は致命的に弱まり、81年のヨークタウンの戦いでイギリス敗北と植民地の独立が決定的となる
フランスの支援は国家予算の3倍にも達し、国家財政は深刻な赤字となって、国民に重税負担を強い、それがフランス革命の誘因となる

第2章        ルイジアナ買収 (1803)
1800年 ナポレオン・ボナパルトは、スペイン領ルイジアナを新世界に於けるフランス帝国の中心にしようと目論み、トスカーナ公国と引き換えに購入。未開地のまま放置されていたミシシッピ川からロッキー山脈に至るまでの広大な土地を治めるため、占領艦隊を派遣しアメリカの荷物がミシシッピを下るのを阻止したため、アメリカは通商の半分が停滞。アパラチア山脈以西の州は、政府に対仏開戦を迫り、連邦から離脱しかねない勢い
ジェファーソン大統領は、元駐仏大使で現ヴァージニア州知事で独立戦争の勇士ジェームズ・モンローを交渉に派遣
フランスは、革命政府によって国家財政が破綻に近い状態にあり、来るべき欧州大戦に備えて資金を必要とする状況にあり、またイギリスの手に渡ることを恐れていたが、ナポレオンはタレーランに強気の交渉を命じる
売却の対象は、ルイジアナ全体となったが、明確な境界線は誰も知らなかった ⇒ 40年前カナダをイギリスに譲渡したフランスも、スペインがどこにルイジアナとカナダの境界線を引いていたのか知らず、東と西はそれぞれミシシッピとロッキーで隔てられ、南はスペイン領のフロリダとの境界だがこれも曖昧なままだった
ナポレオンの最低指示価格は50百万フラン、アメリカの予算は20百万(ニューオーリンズのみ)、最終折り合ったのは80百万(うち現金は60百万で20百万はフランス政府のアメリカ民間企業に対する債務の免除。60百万はオランダの銀行とベアリングによる償還期限15年の公債引き受けにより調達)
1803年イギリスがフランスに宣戦を布告、フランスは早速この売却で得た資金で臨戦態勢を整えたが、イギリスの侵攻作戦が実施されることはなかった
購入した領土は208km2 ⇒ 現在の12州の全部または一部にまたがる
1803年 議会が条約を批准、ルイス=クラーク探検隊が派遣され領土の調査が行われたが、この探検がその後1世紀に渡る探検と西部への大移動時代の先駆けに
1819年 フロリダを巡る何度かの国境紛争の後、合衆国が併合
フランス政府のアメリカ民間企業に対する債務は、サントドミンゴの反フランス反逆者たちへのアメリカの密輸疑惑から、フランス軍がアメリカの民間船を多数拿捕したことに伴う賠償債務で、最終的にアメリカ政府による弁済が終了したのは1925
モンローは、この交渉に着手するために背負い込んだ個人的な借金に死ぬまで苦しめられた(公的生活を通じて多くの債務を引き受けたのが原因) ⇒ 国務長官から2期大統領職にあったが、31年貧窮のうちに死去

第3章        ウィーン会議 (181415)
ナポレオン後のヨーロッパの国境線の引き直しと、秩序回復へ向けた体制作りが目的
215の国の元首が参集
イギリス          カスルリー子爵 ⇒ ウェリントン
プロイセン       フリードリヒ・ヴィルヘルム国王
                     カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク公爵(宰相)
ロシア             アレクサンドル皇帝、カール・ネッセリローデ伯爵
オーストリア     クレメンス・フォン・メッテルニヒ公爵(外相)
フランス          シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(外相)
恒久平和の達成のために、タレーランは「フランスを加えることによってのみ、正当性という神聖な行動規範が得られる」と主張
最初の問題はポーランド ⇒ 1796年に消滅。ロシアが自らの傀儡国家樹立を主張、プロイセン領ポーランドと引き換えにザクセンを約束されたプロイセンもロシアの主張を認めるに至って、戦争しか解決の手段はなくなり、各国が軍隊を集結
ロシアの譲歩で、問題はプロイセンによるザクセンの併合に移る
4大国の分裂で、フランスが勢いを取り戻す ⇒ 利害の対立を巧みに利用することによって、フランスの軍事的敗北にも拘らず、ヨーロッパの国境線が引き直された際にはフランスの国益を守り抜く
1812年以来続いていた米英戦争が集結 ⇒ イギリスが息を吹き返し、仏墺と同盟
ナポレオンがエルバ島を脱出したとの報に、4大国は兵を出し合う
ウィーン会議は予定通り議定書をまとめ、その直後にナポレオンはワーテルローで敗北
ナポレオン以前に300余りあったドイツの王国や公国を39の国家に統合、結びつきの緩やかなドイツ連邦を作る
スイスは中立の独立国として承認
名ばかりのポーランド王国が再建されロシアが支配 ⇒ 1832年ロシアの直轄領に
ノルウェーはスウェーデンに与えられた
国際奴隷貿易廃止
ザクセンは、領土の2/5と住民の2/3を維持し、独立国として残る
オランダは、ベルギーとルクセンブルクを与えられ、沿岸の緩衝地帯として機能

第4章        ポーツマス条約
ロシアの東方への勢力拡大に対し、世界における地位を高めつつあったアメリカが、国際舞台でのより積極的な役割を果たすべく、平和への仲介に入る
セオドア・ローズヴェルトの障碍 ⇒ ロシアに暗号が解読されていたことと、右腕の国務長官の病
ローズヴェルトの講和の提案に、両国とも拒絶反応を示したが、日本海海戦での結果、日本がまず応諾、ロシアも国内の混乱から革命の前兆となる気配もあって最終的に応諾したが、交渉の開催場所を決めるだけで2か月を要す
代表団の人選も、両国ともに誰も引き受け手がおらず、難航を極める
最初の障碍は、サハリンの帰属 ⇒ 講和会議開始直後に日本が占領したが、30年前に千島列島と交換でロシアに譲っている
アメリカの世論を動かそうと、ウィッテが日本側の要求条件を洩らしたのが、ロシア国民の知るところとなり、あまりの過酷な条件にロシア全土に暴動が拡大、主戦論が一気に力を増す
ついで問題となったのが賠償金 ⇒ 東アジアでは敗戦国が賠償金を支払うのは当然とされていたが、西欧では国土を蹂躙された場合にのみ発生するという、文化の相違に由来する問題
交渉に行き詰まった日本側交渉団はローズヴェルトに最後の調停を依頼、賠償金要求の取り下げと、サハリンの北半分の放棄を受け入れる ⇒ ロシア交渉団には交渉打ち切りの指令が来たが、最終的に調停案を飲む
1906年 講和を斡旋した功績によりローズヴェルトはアメリカ人として初めてノーベル平和賞を受賞 ⇒ 大統領の地位にいたから出来たにすぎないとして賞金は辞退

第5章        パリ講和会議 (1919)
1918.11.11. ドイツと連合国(英仏伊米)の間に休戦協定締結
在任中初めてヨーロッパを訪問するウィルソン大統領が、理想主義に基づく提案をもって講和会議に臨む ⇒ 14か条の平和原則に基づき、紛争解決を目的とする国際機関の設立、海洋の自由航行、普遍的自由貿易、相互軍備縮小、住民の意向に基づく領土処理問題
アメリカの理想主義とフランスの悪夢のような体験を両立させようとする試みは人知の及ぶところではなかった ⇒ いずれの大国にも不満が残る中途半端な妥協案で、紛争の種が2つの大陸に蒔かれた

第6章        エジプト・イスラエル休戦協定 (1949)
1947.11. 国連決議により、パレスティナを2つに分割し、ユダヤ国家とアラブ国家として独立させようとした ⇒ アラブ側が即座に拒否して、実行に至らず
1948.5. ヴェルサイユ条約の一環として行われていたイギリスのパレスティナ委任統治の期限切れとともに、イスラエルが独立を宣言 ⇒ 周辺アラブ諸国がイスラエルに侵攻
国連による軍事行動停止勧告も、休戦監視のために送り込まれたスウェーデンのベルアンドッテ伯爵が暗殺されて宙に浮く
49.1. 米英の強い圧力で、エジプトとイスラエルが休戦交渉への参加に同意 ⇒ 仲介の役を果たしたのは、アフリカ系アメリカ人として初めて政治学博士号を取り、国務省から信託統治の専門家として国連に派遣されていたラルフ・バンチ
ロードス島での会合は、お互いが相手方と同席しての作業を嫌がったうえ、頑なに自己の主張を繰り返すのみで交渉は暗礁に乗り上げかけたが、根気強いバンチの説得に、漸く妥協が成立。2602の中立地帯が設けられ、30年後のキャンプ・デイヴィッド合意まで中東で唯一意味のある重要な休戦協定であり続けた
バンチは、アフリカ系アメリカ人として初めて1950年ノーベル平和賞の最年少受賞者に。その後、アメリカ国内で黒人の公民権獲得運動にもマルティン・ルーサー・キング牧師とともに参加。ケネディ大統領から国務長官のポストを打診されたが、71年に亡くなるまで国連のポストを離れなかった

第7章        キューバ・ミサイル危機 (1962)
1959.1. キューバに、カストロ率いる反乱軍がバティスタ政権を倒してマルクス主義政府誕生
1961.4. アメリカに支援された亡命キューバ人によるピッグズ湾事件
1962.5. ソ連が42基の中距離ミサイル、42機の長距離爆撃機、164発の核弾頭、5万人の兵士、顧問、技術者、地対空ミサイル、支援車両をキューバに配置
1962.10. ケネディは、第1弾として海上封鎖に動き、軍艦300隻と12万の兵を動員
核攻撃部隊の警戒レベルを、アメリカ軍事史上初めてのデフコン2(準最高度防衛準備)に引き上げ
フルシチョフが、哲学者バートランド・ラッセル宛の手紙の中で、首脳会談開催を提案したが、ケネディはそれをミサイルが発射可能な状態になるまでの時間稼ぎの策略と見做して無視
ケネディとフルシチョフはお互いの往復書簡で、相手の非難の応酬
国連でも、アメリカがソ連に事実を認めるよう迫る
ソ連がチャーターしたパナマの貨物船を、アメリカ海軍が臨検
13日間の緊張状態の後、アメリカがキューバ侵攻やむなしと見做すが、フルシチョフはカストロが核による全面的な先制攻撃を言い出したため、ケネディに対しお互いに手を引くことを提案。さらにアメリカがソ連と地続きのトルコに配備しているミサイルの撤去を要求(旧式でアメリカもいずれ撤去を考えていたもの)。そこへ、アメリカの偵察機が撃墜されたとの情報が入る(在キューバのソ連軍司令官の勝手な判断で、フルシチョフも激怒)。さらにアメリカの偵察機がシベリア上空に迷い込みそれを擁護するために核弾頭装着の空対空ミサイルを搭載したF102戦闘機が緊急発進。迎撃のミグとニアミスを起こしかけた(何とか国際空域に脱出)
偶発的な事件が引き金となって意図せざるところで戦争が勃発することを未然に防ぐために、両国首脳が合意、キューバに配備されていたミサイルは平穏に解体され、爆撃機と共にソ連に送り返された
ラジオ放送で事態を知ったカストロは、ソ連の降伏に激怒、ミサイル撤去の協定に従うことを拒否し、国連査察官の入国を受け入れようとしなかった。そのためケネディもキューバに侵攻しないという約束を公式には明言しなかったが、この取り決めを守った
この危機を経験して、両国は世界があと一歩で破滅というような事態を二度と起こしてはならないと考えるようになる ⇒ ホワイトハウスとクレムリンとの間にホットライン敷設。軍縮に動くとともに、63年には部分核実験停止条約に調印
1964.10. フルシチョフは無血クーデターで政権の座から追放 ⇒ 「楽観的予測に基づいて無謀な計画を立て、早まった判断を下し、軽率な決定をして行動に移った」として非難され、KGBの厳重な監視の下で年金生活者として余生を送る
キューバ駐留のソ連軍司令官たちは、アメリカがキューバを攻撃した場合には自分たちの判断で核兵器を使用する権限を与えられていたことが分かっているので、もしアメリカがキューバ侵攻の選択肢を選んでいたら、確実に核戦争になっていただろう

第8章        レイキャヴィク首脳会談 (1986)
キューバ危機以降、核実験、ミサイル迎撃システム、核兵器運搬手段等に関する制限等の努力が行われたにもかかわらず、軍種も核圧縮も進まず、手詰まり状態にある中、米ソ両国とも巨額の国防費に喘いでいた
1985年 ジュネーヴにてレーガンとゴルバチョフ会談 ⇒ 核戦争回避への共同声明
1986.10. ゴルバチョフからの呼びかけで頂上会談実現 ⇒ 政府の干渉が無く、儀式も最小限で済む開催地としてアイスランドが選ばれ、永続性のある軍縮の確立を目的とし、レーガンは俳優組合委員長として映画会社経営陣と遣り合った経験を思い起こす
ソ連はまず50%の戦略核戦力の削減を提案したが、最大の関心事は、ソ連の人口密集地の大半を攻撃目標としたヨーロッパにあるNATOの中距離ミサイルと、アメリカのミサイル迎撃システム構築の進捗状況
アメリカの関心は、ソ連がアメリカのアジアにおける同盟国攻撃のために配備している500基以上の中距離ミサイル
キューバ危機の時、ソ連の核兵器保有は117で劣後していたが、この当時は逆転していたところから、核弾頭と運搬手段の上限を決めるとともに、ソ連の要求したヨーロッパの中距離核戦力ミサイルの全廃、アメリカの主張したアジアにおける配備の上限を100とすることで合意
会談がまとまりかけていた最後にソ連から、大幅譲歩の見返りとして、アメリカが難色を示していた弾道弾迎撃ミサイル制限(ABM)条約(1972年成立)の最低10年間の順守を要求 ⇒ 最初の5年で核兵器を50%削減、次の5年で全廃するところまで合意
最後にゴルバチョフが固執したのが、戦略防衛構想(SDI)の研究を実験室に閉じ込めること(核廃絶後に初めて実戦での実験ができるように規制する)で、これこそゴルバチョフが首脳会談開催でも核廃絶でも歩み寄った真の狙い ⇒ レーガンは拒否して、会談は決裂
会談を通じて、SDIという防衛を主体とした新しい核抑止構想に対してのレーガンの強い執着と、ソ連が軍縮に関して譲歩してきた動機の脆弱性が鮮明となり、ゴルバチョフが示した譲歩が撤回されることがないというソ連の本音が燻り出された
帰国後両首脳とも会談が大成功だったと認識、お互いの提案が未だ有効だと確信し、それぞれに合意内容を整理し調印に持ち込む作業を開始 ⇒ ゴルバチョフもSDIを実験室内に閉じ込めるという条件やアジアに配備しているミサイルに関する主張を取り下げ、87.12.中距離核戦力全廃条約に調印、さらに91.7.戦略兵器削減条約(START)に調印、レイキャヴィクで規定された枠組みに倣った内容で、50%削減を実現(核弾頭は6000、核搭載のミサイル、重爆撃機の総数は1600が上限)
5か月後ソ連は崩壊して12の独立国が平和裏に誕生、鉄のカーテンが取り払われた



歴史を変えた外交交渉 フレドリック・スタントン著 重要事例の峻烈な交渉過程を活写 
日本経済新聞朝刊2013年5月5日付
フォームの終わり
 あらゆる国際紛争・懸案を解決する上で、最終的に必要なのが外交交渉である。戦争の終結ももちろん例外ではない。本書は、独立戦争期のアメリカのフランスとの同盟交渉、アメリカによるルイジアナ買収、ナポレオン戦争後のウィーン会議、日露戦争のポーツマス講和条約、第1次世界大戦後のパリ講和会議、第1次中東戦争後のエジプト・イスラエル休戦協定、キューバ・ミサイル危機、そして米ソ・レイキャヴィク首脳会談の8つの事例を取りあげ、交渉過程を研究する。なぜこの8つを選んだのか、著者は必ずしも明らかにしていないが、いずれにおいても峻烈な交渉が展開され、その結果は国際政治に重大な影響を与えた。
(佐藤友紀訳、原書房・2800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)(佐藤友紀訳、原書房・2800円)
 著書は、成功した交渉では「狡猾な賢明さと決断力と固有のカリスマ性」を兼備する人物が携わったことを指摘し、彼らの人となりや交渉模様を活写する。さらに著者はアメリカが国際的立場を大いに改善し、国力を強化したのは、多くの場合、外交交渉の成功によるもので、戦争ではなかったことを強調する。
 米仏同盟の成立とルイジアナ買収は建国初期のアメリカにとって決定的な出来事であり、日露戦争の調停は躍進する大国アメリカの国際的威信を高めた。パリ講和会議はウィルソン大統領の思惑通りに進まなかったものの、重要な国際問題はもはやアメリカの参加なしには処理できないことを世界に示し、キューバ危機でのケネディの対応はアメリカの国際的声価を高め、レイキャヴィクでのレーガンとゴルバチョフの核兵器廃絶寸前までの歩み寄りは、冷戦の終結の重要な道程となった。またウィーン会議の最終議定書とエジプト・イスラエル休戦協定も粘り強い交渉の結実であり、ヨーロッパと中東の平和に大きく貢献した。
 戦端を一旦開くと、予想もしないことが起き、なかなか平和がもたらされないことは、アフガニスタンとイラクの例を引くまでもなく、歴史が示すところである。日本をとりまく国際環境が厳しさを増す中、それに対する十全の備えは必要であるが、そこにはしたたかで、忍耐強い外交交渉力も含まれるのである。
(立教大学教授 佐々木卓也)



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