クラシックでわかる世界史  西原稔  2013.4.25.


2013.4.25. クラシックでわかる世界史 時代を生きた作曲家 歴史を変えた名曲

著者  西原稔 1952年山形生まれ。藝大大学院博士課程満期退学。現在桐朋学園大音楽部教授。桐朋学園理事。18,19世紀を主対象とする音楽社会史、音楽思想史を専攻

発行日           2007.10.25. 初版第1刷発行         12.10. 初版第2刷発行
発行所           アルテスパブリッシング

満さんの推薦図書

はじめに
音楽や作品の様式は、世の中の美の規範を反映しているが、その美の規範そのものはそれぞれの社会や時代の要求や状況などと無関係ではない。そこに政治や経済的な要求が強く加わる時、その社会や時代の要求はもっと劇的に芸術活動に影響を及ぼすことになる
社会の富がどこに集中し、そしてその富がどのような目的と方針のもとに再分配され、支出されるかという問題と、音楽の活動は無関係ではありえない ⇒ ベートーヴェンのウィーン時代、何故ボヘミアやハンガリーの貴族がベートーヴェンのパトロンとなり、ハプスブルクの皇帝はパトロンとはなりえなかったのか。なぜ1820年を過ぎるとベートーヴェンは、その作品を委ねる出版者をオーストリアからドイツに移したのか
本書の対象は、1550年ルターの宗教改革から、1920年第1次大戦終結により19世紀近代が終焉を迎えた時期まで

第1章        宗教改革と宗教戦争の時代 (15501650)――バロック時代前期の音楽と社会
宗教改革や宗教戦争、三十年戦争が音楽作品にどのように影響したか
グローバリゼーションとも言うべきカトリック支配に反発したナショナリズムと自治を標榜した宗教改革運動の展開に伴い、宗教行事のための新たな音楽が必要とされた ⇒ イギリスではアンセム、ルター派ではコラールという新しい讃美歌が編纂
ザクセン選帝侯の支援を受けたルター派では、ヨーハン・ヴァルタ―がコラールや礼拝音楽の整備が進む
19世紀のオペラ作曲家マイヤベーアの《預言者》と20世紀の作曲家ヒンデミットの《画家マティス》はこの時代の宗教改革を試み、弾圧・排斥された人々を描いたもの
イタリア・ルネサンスを代表する作曲家パレストリーナは、合唱ポリフォニーの完成者であり、反宗教改革の潮流となったトレント公会議の方針を具現化 ⇒ 20世紀前半の作曲家プフィッツナーのオペラ《パレストリーナ》によって伝統の擁護者が強調される
1534年 イギリスのヘンリー8世がイギリス国教会立ち上げるが、国教としての確立まではまだ混乱が続く
161848年 神聖ローマ帝国のザクセンを舞台にした宗教戦争

第2章        花開く宮廷文化と絶対王政 (16501730)――バロック後期の音楽と社会
ハプスブルク家の結婚政策とブルボン家における絶対王政が音楽活動とどのように結びついたのか
17世紀初頭に生まれたオペラが、結婚政策の華やかな宴のための絢爛豪華な音楽劇として上演。宮廷に集中した富が、宮廷建築や絵画、演劇、音楽に費やされた
演奏技術や作曲技術も磨かれ、高度に専門的な職業音楽家が生み出されたが、筆頭はイタリア人、中でも歌手とヴァイオリニスト
ハプスブルク家にとって、オペラと音楽は王家の形成にかかわる極めて重要な役割を担う ⇒ 同家で上演された17世紀の多くの作品には何らかの政治的な目的が含まれていた
17世紀バロック・オペラの中で最も壮麗で重要な作品は、アントーニオ・チェスティの《金のリンゴ》で、1666年レーオポルト1世がスペイン王女を迎えた時の婚礼祝典で上演
1728年 アントーニオ・ヴィヴァルディがヴァイオリン協奏曲集《ラ・チェトラ》を神聖ローマ皇帝でオーストリア・ハプスブルク家のカール6世に献呈 ⇒ 地中海貿易を独占していたヴェネツィアに対抗して、オーストリア領内唯一の港だったトリエステをカール6世が訪問した際、ヴェネツィアを代表する大作曲家ヴィヴァルディを謁見して多額の報酬と公的な地位を下賜、その際ヴィヴァルディが皇帝に進呈したもの。ヴィヴァルディはヴェネツィアから追われてウィーンに向かい、同地で客死
1643年 ルイ14世即位、ブルボン王朝の全盛期を迎える ⇒ 種々のタイプの宮廷楽団が組成され、目的やジャンルに応じて演奏。1661年ヴェルサイユ宮殿の造営開始とともに、イタリア人音楽家ジャン=バティスト・リュリを抜擢。国王のバレの相手をしながら作曲を行い、宮廷楽団の総監督に就任。劇作家モリエールと出会ってその戯曲を基にコメディ・バレを創作。最大の傑作は《魅せられた島の逸楽》
リュリは、国王との結びつきの強さを利して音楽界における絶対王政を達成するが、指揮中に自分の足を指揮棹で突いた怪我が基で壊疽を起こして急死
リュリ以外の音楽家 ⇒ シャルパンティエ、ラランド(リュリの後任)、クープラン(ラランドの弟子、クラヴサン奏者)、ラモー(オルガン奏者、『和声法』の著者で有名)
バロック芸術の都ザルツブルク ⇒ 798年カトリックの大司教国として成立。イタリアで誕生したオペラを1620年代に劇場で上演。岩塩と金鉱石で裕福な城塞都市、神聖ローマ帝国とローマ教皇の覇権争いの舞台。バロック中期の最大の宗教合唱作品の1つ《五三声部のミサ曲》はこの都市のために大聖堂の楽長だったホーファーが作曲
ハノーファー公国とイギリスが同君連合を組んだ18世紀中頃から、ドイツの音楽家が近代産業化の進んだイギリスにわたり活躍 ⇒ 代表がヘンデル

第3章        バッハの作品に隠された世界史
1717年 敬虔なルター派信者のバッハが、カルヴァン派の町ケーテンの宮廷楽長に就任、21年同じくカルヴァン派を信仰してベルリンに宮廷を構えていたブランデンブルク辺境伯に《ブランデンブルク協奏曲》を献呈するが、1723年にはルター派の町ライプツィヒに戻ってカントールに就任。ザクセン王にカトリックの礼拝用に《ロ短調ミサ曲》を捧げたのは、ザクセンがカトリックのハプスブルクとの同盟関係を重視して均衡外交を余儀なくされていたため
《ブランデンブルク協奏曲》1721年に献呈したが、辺境伯の依頼を受けたからだけではなく、ケーテンの宮廷楽団が財政的に行き詰まっていたためもある(28年解散)
《ロ短調ミサ曲》1733年献呈、直後にザクセン公死去に伴いザクセン王兼ポーランド王位を巡ってポーランド継承戦争が勃発、36年終戦の後、バッハは「ポーランド王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家」の称号を得る

第4章        揺らぐ宮廷支配 (173090)――前古典派、古典派時代の音楽と社会
華美な宮廷文化、啓蒙主義の思潮、財政的破綻、相次ぐ継承戦争などによって宮廷文化が揺らぐ時代
合理主義と理性の支配を主張する啓蒙主義思想によってバッハの作品が「ごてごてとした飾りつけの多い混乱した構造」と批判され、バッハの息子たちは父親とは違った音楽様式の作品を書き始める
ハプスブルクやブルボンの絶対王政に陰りが見え始めた頃は、音楽史上も前古典派から古典派、ハイドンからモーツァルトの時期で、宮廷文化が最後の栄華を極め、やがて継承戦争による財政逼迫から、宮廷文化が破綻
やや遅れて宮廷文化を謳歌したのがドイツ、各地の宮廷が金に任せて立派な楽団を構え、優を競い合った。モーツァルトが就職を望んだマンハイムや、シュトゥットガルトが有名
やがて財政難に陥り、ハイドンが長年奉職したエステルハージ家を退職したのも財政難
古典派の音楽の単純・素朴な魅力は、単に啓蒙主義的な合理思想に起因するだけでなく、経済的な要因もあった
ドイツ諸国に大きな収入をもたらしたのは、アメリカ独立戦争を始めとする傭兵の派遣、他方各国での継承戦争などが既存宮廷の財政を悪化させた

第5章        モーツァルトの作品に隠された世界史
モーツァルトの生涯は世界史の変動の時期と一致
誕生した1756年は七年戦争勃発 ⇒ ハプスブルク家がプロイセンの侵攻によって脅威に晒された。この戦争終結の年にモーツァルト父子は西方への大旅行に出る
生まれた町ザルツブルクはカトリックの大司教国 ⇒ 厳格な管理社会と華美な芸術を抑制しようとする啓蒙主義に反発、1781年自由を求めてウィーンに移住を決意
合理性と簡潔さを求める啓蒙主義思潮と、身分社会への不満の鬱積と、自由・博愛・平等への願望が1つになって社会の緊張が高まっていった時代
ハプスブルク皇帝ヨーゼフ2世が旧来のイタリアオペラではなく、ドイツ語でのオペラ創作を求めているのを知り、ウィーンで最初に発表したジングシュピール《後宮からの脱走》を作曲、従来からの軽妙なだけのジングシュピールにオペラ・ブッファの要素を取り入れ、劇としての充実を図る ⇒ ナショナリズムというより、皇帝の啓蒙主義的発想からくる
政治的な意味を持つ作品は、イタリア・オペラ《フィガロの結婚》とジングシュピール《魔笛》 ⇒ 共和制の要求と封建体制の維持という2つの立場の力学が大きく社会を動かした当時の空気を嗅ぎとって、社会的な自我に目覚めた人間や、国家と個人という問題を背景にしており、オペラが単なる国王の栄華を照らし出す手段ではなく、芸術家が自身の思想を表明する場でもあることを示している点で、新しい時代の到来を予示
《フィガロの結婚》 ⇒ フランスの作家ボーマルシェの戯曲(原作のタイトルは『たわけた1日、あるいはフィガロの結婚』で、『セビリャの理髪師』の後編)1780年作伯爵が妻に飽きて小間使いに手を出そうとするのを周囲が抑えて伯爵を屈服させるという筋立てに反体制的なニュアンスを感じた当局が検閲を行い、84年にパリで初上演された時も検閲があり賛否両論が戦わされた。モーツァルトはその内容を理解した上で、オペラ上演の許可を取ったダ・ポンテの貴族階級への風刺を遥かに弱めた台本に曲をつけ、86年ブルク劇場で上演。自由・平等・博愛を唱えるフリーメイソンがローマ教皇から異端の宣告を受けながら皇帝や宮廷を含め公認の活動となっていたことから、政治色を薄められた台本の上演を差し止める緊急性はないと判断されたものだが、社会は速いスピードで動いて行った
《魔笛》 ⇒ フリーメイソンの儀式や思想を取り入れた作品。84年に正式に入会し、他にも《フリーメイソンの喜び》等いくつもの関連を示す作品を遺す

第6章        フランス革命からウィーン体制へ (17901830)――初期ロマン主義の時代
18世紀末ドイツのイェーナでアウグストとフリードリヒのシュレーゲル兄弟らを中心としてロマン主義文学の運動が始まり、感性と直感の世界に絶対性を求める。一方のフランスでは未曽有の社会変動が起こり、社会改革に未来を託す
フランス革命が人々の社会生活から価値観、生活館、音楽・美術・演劇などの芸術への見方などを変え、時代のパラダイムが変化、芽生え始めていたロマン主義的な傾向が一気に広がる ⇒ 旧来の宮廷文化を停止させたが、新しい音楽文化を創り出す。吹奏楽と合唱という編成や独特の吹奏楽文化がそれ
初期ロマン主義の運動が起こった時期に、特に歌曲の面で優れた作品を遺したのがフリードリヒ・ライヒャルト ⇒ シューベルトへと受け継がれる。《魔王》
クリストフ・ヴィリバルト・グルックは国王側の作曲家 ⇒ ボヘミア出身。《オルフェオとエウリディーチェ》(1762)で独自の様式を確立。パリで大成功。《オーリドのイフィジェニー》はマリー・アントワネットを賛美する作品
楽器製作者のセバスティアン・エラール ⇒ ルイ16世の後ろ盾でスクエア・ピアノを拡販。革命中はロンドンでイギリスのピアノ工法を修得
ケルビーニは体制の変化に順応して行動 ⇒ 1816年にはルイ18世の依頼で16世追悼の《レクイエム》を作曲
フランソワ=ジョセフ・ゴセックは革命派 ⇒ 《自由の祭典》(1791)他革命式典を盛り上げる曲を数多く作曲、軍楽隊学校を創設(後にパリ音楽院に発展)して指導。《死者のためのミサ曲》(1760)で名を成す。《葬送行進曲》(1790)はナンシー蜂起の犠牲者追悼の作品で、吹奏楽による式典音楽の最初の作品。同年革命式典のために作曲した《テ・デウム》は吹奏楽800、合唱1000名の巨大編成というこの時代のフランス音楽の特色で、ベルリオーズに引き継がれる。《一七声部の交響曲》(1809)はフランスの交響曲史における記念碑的作品。1799年ナポレオンが復活すると作曲の筆を折って後進の指導に専念、その後のフランス音楽の礎を築く
19世紀のドイツ音楽はウィーン古典派を土台に発展したが、フランス音楽の発展の系譜との最も大きな違いは、吹奏楽とオペラ。ドイツのオペラはフランスの題材が神話や文学で劇的な効果が高かったのに対し芝居付きの軽妙なジングシュピール
1815年からベートーヴェンの作風が一変、作品101のピアノ・ソナタ28番に始まる孤高の後期様式へと入り、チェロ・ソナタ45番に繋がる
大衆的な人気を博したのはロッシーニ ⇒ 1813年《アルジェのイタリア女》《ブルスキーノ氏》《タンクレーディ》を初演、16年には《セビリャの理髪師》で決定的な勝利
1814年ナポレオン戦争の戦後処理を巡るウィーン会議により、メッテルニヒ主導によるウィーン体制が確立(48) ⇒ 言論統制と検閲の時代だが、ビーダーマイヤーと呼ばれる生活・文化・芸術様式の小市民文化が開花、重厚・壮大なピアノ・ソナタよりポピュラーな旋律の変奏曲やメドレー集、舞曲集が持て囃される。観念とイメージからなる理想の世界を美学とする文学における初期ロマン主義が終焉し、現実社会に引き戻される(主唱者のフリードリヒ・シュレーゲルがメッテルニヒの政治的な顧問に)とともに、音楽史においても転換点。音楽の創作と演奏の中心は宮廷から市民社会(サロン文化)へと移行
ベートーヴェン《ウェリントンの勝利》 ⇒ ナポレオン戦争が戦争音楽を広める
1815年 ウィーン会議の1つのクライマックスはルイ16世の追悼式典 ⇒ 議長国の威信をかけて帝都ウィーンの全てを動員、ジークムント・ノイコム作曲のレクイエムをアントーニオ・サリエーリ指揮で演奏、旧体制の復古を象徴する作品でありイベントだった

第7章        ベートーヴェンの作品に隠された世界史
少年時代をボンの宮廷で過ごし、1792年ウィーンに移住。パトロンとの関係や楽譜出版などにも国際政治との関連が見られる ⇒ パトロンとの関係はまさに19世紀前期のオーストリアの政治縮図であり、相次ぐ戦争とそれに伴う社会の変動を反映
フランス革命の伝播を恐れたオーストリアは厳しい検閲を行ったが、フランスの思想や文化が周辺に拡散していくのを止めることは出来なかった
1804年ベートーヴェンの唯一のオペラ《フィデリオ》もフランスのブーイ原作の台本
ウィーン時代の主要パトロンは、ボヘミアやハンガリー、ロシアなどの領主貴族。オーストリアのパトロンは経済自由業の新興貴族が多く政治的な権力と結びついていた
カール・リヒノフスキー侯爵 ⇒ プロイセンの貴族。ウィーンに邸宅。モーツァルトにも師事。ベートーヴェンのウィーンでの最初のパトロン
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵 ⇒ ボヘミアの貴族。主要パトロン
フェルディナント・キンスキー ⇒ ボヘミアの貴族。
エルデーディ伯爵夫人 ⇒ ハンガリーの貴族。旧姓ニッキ。優れたピアニスト
ニコライ・ボリソヴィチ・ガリツィン侯爵 ⇒ ロシア貴族
アンドレイ・キリロヴィチ・ラズモフスキ―伯爵 ⇒ ロシアの在ウィーン大使
オーストリア継承戦争以来の一連の戦役では、ハプスブルクは周辺の諸州から軍隊の支援を受け、見返りに領土や金銭的な恩恵を与えていたため、財政的に逼迫、音楽家のパトロンどころではなかったのに対し、周辺の貴族は富を蓄え芸術への影響力を行使出来た
1810年以降の献呈は、ウィーン会議に列席した国王や関係者、ウィーンの実業家や自らの現実的な活動に結び付く人物に対して行われている ⇒ それまでパトロンとなっていた貴族は戦後のインフレの過程で没落

第8章        1830年七月革命と音楽――新ロマン主義の時代
ベルリオーズ、シューマン、ショパン。パリ七月革命とポーランド11月蜂起を取り上げるが、音楽史においても大きな時代の分岐点
社会の変動期にあたり、過去の様式の尊重と絶対化という新しい価値観を生み出し、革新性を極端に嫌い、安定した古典的価値観を尊重し伝統的な音楽を愛好する社会 ⇒ 1829年バッハの《マタイ受難曲》をメンデルスゾーンが再演したことが象徴
ベルリオーズやシューマンが「伝統」の枠にとらわれない極端な革新性を求めた試み
プロイセンやバイエルンでは国家意識と結びついて、過去の伝統を意識した都市の再構築が試みられたが、フランスでは王制打破を叫ぶ民衆の力が爆発。ポーランドでも民族意識の高揚がロシアからの独立を求めた蜂起に繋がる
この時代の注目はユダヤ人問題 ⇒ 富を蓄え、都市の市民社会への進出に伴い、キリスト教社会との軋轢、ユダヤ人の権利問題が浮上。最初の対象となった芸術家は、音楽ではメンデルスゾーンとマイヤベーヤ、詩人ではハイネ
エクトル・ベルリオーズ ⇒ 七月革命の勃発の最中に行われていた学士院の作曲コンクール「ローマ賞」に応募して大賞を射止め作曲家としてスタート、その年《幻想交響曲》を書く。7年後七月革命の犠牲者追悼の《レクイエム》を、さらに3年後の革命10周年に《葬送と勝利の交響曲》を書き国王ルイ・フィリップに献呈
フランツ・リスト ⇒ 革命に前後してサン=シモン主義者と交流、無産労働者の権利と社会的地位の改善に関心を持ち、『芸術家の社会的地位について』という論文で音楽家の社会的地位の改善を主唱、《革命交響曲》は第1楽章《英雄の嘆き》だけで終わるが彼の管弦楽作品の原点となった
ショパン ⇒ 1831年シュトゥットガルトでポーランド蜂起がロシア軍によって鎮圧されたことを聞いて《12の練習曲》の12番《革命》が書かれた
大量のポーランド難民や独立蜂起に立ちあがった人々がザクセンに逃れてきたのを見て敏感に反応したのがシューマンとヴァーグナー。特にワーグナーの革命直後に作曲された一連の《ポロネーズ》は独立蜂起に刺激されたもの ⇒ 49年のドレスデン蜂起でのヴァーグナーの行動にも反映

第9章        ウィーン体制の終焉――1848年二月パリ革命、三月ウィーン革命と音楽
ウィーン体制という国際均衡が崩れ、ナショナリズム発揚の機会が到来
オーストリア支配下にあった周辺諸国の独立運動への音楽家の参画
1849年 ドレスデン革命 ⇒ ドイツ語圏国家で再編成
1840年代のピアノ作品の出版傾向を見ると、行進曲の占める割合が異常に高く、ウィーンでは40%にもなる。頂点に達するのは48年。ヨハン・シュトラウス父子も作曲
ミラノの独立運動 ⇒ ヴェルディが参戦。ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の頭文字がVERDIであることから、ヴェルディの存在はイタリア独立運動の象徴として大きな役割を担う。愛国賛歌《ラッパの響き》は独立運動に於いて作曲された作品。オペラ《レニャーノの戦い》も独立を目指すイタリア人の心意気を歌った作品で「大砲の音楽」
ジョアキーノ・ロッシーニ ⇒ 1829年《ギョーム(ウィリアム)・テル》を作曲した後オペラの作曲からは遠ざかっていたが存在の大きさは絶大。独立運動の高まりに56歳のロッシーニも共鳴して4頭所有していた馬を2頭供出したが、人々が彼に求めたのはもっと情熱的なリーダーシップで、却って吝嗇振りを嘲り、独立運動への非協力者の烙印を押したためボローニャを去るとともに独立運動からも身を引く。55年からパリ在住
ボヘミアの独立運動 ⇒ ベドルジフ・スメタナが参画、創作活動の原点となる。革命は失敗し、厳しい弾圧の中、スメタナもスウェーデンに逃避
ロシアへの飛び火 ⇒ 自由主義者グループが摘発され、ドストエフスキーも逮捕・流刑
ヤナーチェク ⇒ ドストエフスキーが流刑地で死の恐怖の中で書いた『死の家の記録』を、1927年自ら台本を書いてオペラ化した
ハンガリーの独立運動 ⇒ 494月コシュートが独立宣言をするが、ロシアとオーストリアによって鎮圧。エードゥアルト・レメーニというヴァイオリニストが革命に参加、弾圧によりハンブルクに逃避、そこでピアノ伴奏者として共演したのがヨハネス・ブラームス。レメーニから聴かされたハンガリーの民族舞曲が《ハンガリーの主題による変奏曲》や《ハンガリー舞曲集》等の作品へと発展し、ドイツに新しいスラヴ趣味を形作る
レメーニが尊敬していたフランツ・リストは革命に直接の関わりは持たなかったが、蜂起には共感、交響詩《英雄の嘆き》や《ハンガリー狂詩曲》にその思いを表現
1849.5. ドレスデン蜂起 ⇒ ドイツ各地での自由主義者の王制批判の動きに対しドレスデンでは国王が自由主義者が多数を占める議会を解散したことを契機に蜂起勃発。リヒャルト・ヴァーグナーはロシアの無政府主義者バクーニンと出会って革命思想に鼓舞され革命軍に参加するが、弾圧の中をスイスに逃亡
ロベルト & クララ・シューマン ⇒ ドレスデンで革命の最中、支援の意味を込めて《4つの行進曲》を書く。精神的に不安定なロベルトをクララが疎開させ事なきを得たが、その後ザクセンでの生活に終止符を打ちデュッセルドルフに移住
ハインリヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーク ⇒ 36年に最初のピアノを製作したが、彼の住む北部ドイツが関税同盟から外れたため販売できず、49年アメリカに渡ってスタインウェイと名を改めて新たにピアノの製造を始める。米バブコック社開発の鉄のフレームを取り入れた新型ピアノはたちまち国際的な評価を獲得、世界標準へと発展

第10章     ユダヤ人都市ベルリン――プロイセンの移民政策と音楽
宗教や政治などの理由による移民と亡命を受け入れたベルリンがテーマ。プロイセンの宗教政策と移民政策が音楽活動にどのように影響を及ぼしたか
19世紀社会は、ユダヤ人問題を抜きには語ることはできない ⇒ 国や都市によって対応は大きく異なる。ベルリンは宗教に寛大、コスモポリタン的環境が生まれるとともに、音楽・芸術にもたらした影響は大きく、メンデルスゾーンやマイヤベーアが登場
プロイセンが宗教を国家統治の原則にしないという方針を打ち出したのは三十年戦争以前 ⇒ ホーエンツォレルン家(南ドイツシュヴァ―ベン地方発祥、1415年ブランデンブルク選帝侯、16世紀プロイセン公国を傘下に、17世紀フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の時ハプスブルクの対抗勢力となり、1701年プロイセン王国樹立)のブランデンブルク伯ヨーハン・ジームムントが1613年カルヴァン派に改宗した際、領民の多数派を占めていたルター派を認める、1685年ルイ14世がフランスから追放したユグノー教徒も受け入れ、18世紀にザルツブルクで迫害されたプロテスタントの宗教難民も受け入れ、強力な移民国家へと進んだことがユダヤ人への寛容な姿勢に繋がり、さらに急速に拡大
教養が高く、実業家としての資質と富を持つユグノー教徒の流入により、上流階級に極めて洗練されたフランスの文化が定着 ⇒ ベルリン宮廷ではフランス語が事実上の公用語
フーケ家 ⇒ ノルマンディの古い貴族、1685年のルイ14世の勅令でベルリンに逃れる。フリードリヒ・バロン・ト・ラ・モット=フーケが著わした『ウンディーネ(水の精)』に基づいてE.T.A. ホフマンが同名のオペラを作曲。チャイコフスキーの母親の家系ダルシャ家もユグノーでルイ14世の勅令によりロシアに亡命。アントーン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー(法学者)も亡命ユグノーの子孫
フランス革命でも大量の難民がベルリンに流入 ⇒ 作家・詩人シャミッソーに注目
18世紀後半からプロイセンではユダヤ系の実業家や芸術家が活動を開始、特に19世紀に入って増加。1670年にはハプスブルクがユダヤ人を排斥、相当数がプロイセンへ移住
メンデルスゾーン家 ⇒ 祖父モーゼスの時デッサウのゲットーからベルリンに移住。1764年プロイセン科学アカデミーの哲学の懸賞論文でカントを抑えて第一席に。劇作家レッシングと終生変わらぬ尊敬と友情で結ばれる。絹糸工場の会計担当で裕福ではなかったが、彼のサロンはユダヤ人のサロンの礎となるものだったが一級の知識人が参集。孫のフェーリクスはユダヤ教からルター派プロテスタントに改宗したが、妻はユグノー(カルヴァン派)教徒
ジャコモ・マイヤベーア ⇒ ユダヤ人作曲家。モーゼスと同様サロンを開く
アードルフ・マルティン・シュレージンガー ⇒ ユダヤ人で1810年楽譜出版社を立ち上げ成功
特にユダヤ人女性の主宰するサロンが活発

第11章     ヨーロッパ再編の時代 (185090)――帝国主義時代の音楽と社会
後期ロマン派。1851年の第1回ロンドン万博からビスマルク宰相辞任まで
国際関係力学の急激な変化に対し、音楽家たちも敏感に捉えて、作品の中に世の中の急変をよく反映。ブラームスからマーラー、スクリャービンまで
1862年宰相に就任したビスマルクの鉄血政策に対し、特に強く共鳴し、支持した音楽家は、ブラームスとヴァーグナー ⇒ ヴァーグナーは『ベートーヴェン』を著わして浮薄なフランス文化に対するドイツ精神の崇高さを謳い上げる。ブラームスも1870年の普仏戦争に際しプロイセンの勝利を確信して祝勝音楽《勝利の歌》の作曲を開始、皇帝に献呈。ルター派のコラールを引用しているのに注目
生前のベートーヴェンがナポレオン戦争時にドイツ諸国やオーストリアで獲得した国民的な崇拝は、この時代になるとドイツ帝国の精神的英雄という特別の地位へと彼を祭り上げ、ビスマルクと並び神格化される
カミーユ・サン=サーンス ⇒ 普仏戦争のフランスサイドでは、早くからドイツ音楽に親しみ、フランスでヴァーグナーをいち早く評価、戦争終結とともにフランスの作曲家の作品の演奏に乗り出し、自らリストの範に倣って作曲した交響詩《オンファールの糸車》を初演するが、「ドイツ主義/ドイツびいき」として批判される。普仏戦争開戦で上演が中止されたオペラ《サムソンとデリラ》も1877年になってヴァイマルで初演
シャルル=フランソワ・グノー ⇒ 旧約聖書を題材にしたモテット《ガリア》の作曲でナショナリズムを表明しフランス人の共感を得る
ジュゼッペ・ヴェルディ ⇒ 1869年のスエズ運河開通記念式典には《リゴレット》が上演される。生まれ故郷がフランス支配下だったこともあり、普仏戦争ではフランスに対する強い支持を表明、敗戦もあって反ゲルマン思想がしっかりと植えつけられ、ヴァーグナーへの対抗心も増幅。その後フランス人考古学者マリエットの台本に基づき《アイーダ》を作曲
ヨーハン・シュトラウス2世 ⇒ スエズ運河と関連した時事的な作品《エジプト行進曲》を書く
カイロにオペラ劇場が建設され、アフリカにおける西洋音楽受容の嚆矢となる
万博が音楽に及ぼした影響 ⇒ ブラームスは日本の音楽に、ドビュッシーはインドネシアのガムランやヴェトナム・カンボジアの音楽の独特な響きやリズムに接する。フランシス・プーランクの《2台のピアノのための協奏曲》にもガムランの響きを取り入れ
シャルル・ルコック ⇒ オペレッタ《コシキ》で初めて日本が時事的なテーマとして取り上げられる。アーサー・サイヴァンのオペレッタ《ミカド》へと繋がる
1867年の普墺戦争の敗戦がオーストリアに与えた影響は甚大 ⇒ ウィーンの陰鬱な空気を払拭するためにウィーン男声合唱協会からシュトラウスに委嘱されたのが《美しき青きドナウ》で、元々は男声四部合唱曲
敗戦後の停滞した経済状況の中で、人々はそれを忘れるために、レハールやカールマーンらのオペレッタの響きや《美しき青きドナウ》の音楽に酔った

第12章     黄昏ゆくヨーロッパ (18901914)――世紀末の音楽
世紀末から第1次大戦終了まで。ロシア革命と第1次大戦における音楽家の振る舞い
世紀末芸術と言われる爛熟した芸術が開花、倒錯した性や無意識の世界が芸術の題材に選ばれる ⇒ フロイトの深層心理学の説く心の深い闇を思わせる
社会の価値観の解体を象徴する出来事がロシア革命 ⇒ 旧体制で活躍した音楽家は国外へ離散、ソヴィエト社会では社会主義リアリズムによる新しい価値観の音楽が推奨される
ロシア5人組:ロシア国民音楽の旗手となったパラキレフ、ボロディン、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ。87年ボロディンの死で活動にピリオド
1905年血の日曜日事件(窮乏した群衆のデモを皇帝軍が弾圧)に対し、タネーエフやラフマニノフ、シャリアピン、リムスキー=コルサコフ等が強く抗議
1917年ロシア革命 ⇒ ロマノフ朝の打倒に終わらず、社会体制の根本的な変革を促し、音楽家の多くが国外に逃れる

第13章     1次世界大戦と音楽 (19141920)――ヨーロッパ近代の終焉
「青年運動」 ⇒ 19世紀末頃からドイツで始まった、青年を主体とする文化を主張した社会運動。楽器をもって各地を集団で遍歴し、各地でいにしえの歌や民謡を歌う。大地や故郷を強調した概念は、自国文化のアイデンティティを意味し、民謡やバロック音楽、古楽器などが再評価
ハンス・プフィッツナー ⇒ 1917年オペラ《パレストリーナ》で大成功、国粋主義者、反ユダヤ主義者。1921年のカンタータ《ドイツ精神について》は新しいロマン主義運動を背景にした作品で、モダニズムを拒否し、古き伝統を頑なに守ろうとする美学
ベルンハルト・ゼクレス ⇒ ヒンデミットの師。ドイツ音楽文化活性化のためジャズを音楽教育に取り入れ、政治家たちの強烈な批判を買う
ヒンデミット ⇒ 組曲《1922年》を作曲、初演。ジャズ受容を反映
近代フランス音楽は、ドイツ音楽の摂取から始まるが、大戦時にはドイツ批判が高まり、モーリス・ラヴェルやドビュッシー等ナショナリズムの感情的な高まりが音楽の形となって表れる
19世紀にはドイツ音楽を最も熱心に受容したイギリスでも、ドイツ製ピアノが入ってこなくなり、第三国経由で「転がし」てくるようになる
シベリウス ⇒ 1896年カンタータ《ニコライ2世の戴冠式のためのカンタータ》はロシアに抑圧されたフィンランドを象徴する曲。4年後にロシアによる新聞弾圧に抗議した企画のために交響詩《フィンランディア》を書いて皇帝への反発姿勢を鮮明にする
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ ⇒ ポーランドの名ピアニストで、第1次大戦中の独立運動を指導、初代首相となる
ドミトリー・ショスタコーヴィチ ⇒ 父方の曾祖父がポーランドの1830年蜂起でウラル流刑となっており、ポーランドの独立革命を支持


Yahoo Blog 2007.11.8.
西原稔著『クラシックでわかる世界史――時代を生きた作曲家、歴史を変えた名曲』
 著者は桐朋音楽大学教授。「あとがき」で「本書は音楽史の通史ではありません」「本書の基本的な姿勢は、あくまでもヨーロッパの近代史から音楽の歴史をとらえなおす点にあり、世界を大きく動かしていった事件やできごとが、その時代の音楽家たちをどのように巻き込み、作品の成立に影響を及ぼしたのかという点に主眼をおいています」(341頁)としている。音楽や作品の様式の変化を細かく追うのではなく、そこに反映される「世の中の美の規範」に影響を与えた社会や時代の要求を、政治史・経済史的に明らかにしようという意欲作だ。
 一見ハンディな入門書だが、「音楽家と音楽作品は世界史のいとなみの一角をなすという観点」(2頁)にたって、個々の作曲家が時代・社会と格闘しながら創作活動にとりくんだことを生き生きと浮かび上がらせる。比喩的にいえば、世界史教科書の挿絵から、モーツァルトやベートーヴェン、ショパン、ヴァーグナーが飛びだしてくるような感覚を味わえる。
 たとえば、ベートーヴェンのヴィーン時代をみると、ハプスブルク家の皇帝に献呈された作品が一作もなく、むしろ「有力なパトロンは、ボヘミア・スロヴァキア地方やシュレージエン地方、ポーランド、ハンガリー、ロシアに所領をもつ地方貴族たちであった」(203頁)として、具体的にロプコヴィッツ侯爵やエルデーディ伯爵夫人らの名を列挙する。しかし、そうした献呈はことごとくヴィーン会議前の1810年までの時期であり、それ以降は相手がヴィーン会議関係者やヴィーンの実業家層に変化したと指摘される。なぜか。「ナポレオン戦争の結果、これまでの貴族がパトロンとしての財力を喪失した」(209頁)というのが、西原氏の謎解きだ。他方、ラズモフスキーがロシアの特命大使で、メッテルニヒやタレーランと並ぶヴィーン会議の重要人物という記述も読むと、ベートーヴェンの交響曲はもちろん、弦楽四重奏曲も当時の国際政治と無関係でなかったことが理解できる。
 さまざまな社会運動と作曲家との関係も、有名なショパンやヴァーグナーにとどまらず、広い視野で明らかにされている。たとえば、1830年七月革命とベルリオーズやリストとの関係、1848年三月革命とヨハン・シュトラウス父子やシューマン、ヴェルディとの関係、1905年の「血の日曜日事件」とリムスキー=コルサコフらとの関係、等々。
 さらに興味をひくのは、ヨーロッパの宗教社会史と音楽との関係だ。ルター派の思想は、19世紀プロイセンではナショナリズムへと転化し、ビスマルクを支持したブラームスの作品に姿を現す。これに対する反宗教改革の思想は、それを音楽面で担ったパレストリーナの作品が19世紀以降独自の政治的意味を担わされ、20世紀のプフィッツナーの国粋主義にひきつがれていく。他方、ドイツ農民戦争を指導したトマス・ミュンツァーの思想は、それに共鳴した画家マティアス・グリューネヴァルト(「画家マチス」)を介し、ナチズムに抗したヒンデミットに脈打つ。こうした大きな流れが理解できるのも魅力だ。
 ユダヤ人に対して、ドイツでもベルリンは、フランクフルトやハンブルクとともに比較的寛容だったという記述も注目される。「十九世紀になって開催されて華ばなしい文化活動をおこなったベルリンの芸術サロンの主要なものはユダヤ人女性の主宰になるものであり、主宰者の家系をみると、マイヤベーヤ家とメンデルスゾーン家のふたつが大きな軸となっている」(265頁)という記事は、ドイツの音楽文化史を考えるうえで重要な事実だろう。
 「音楽史の範囲を超えて、歴史全体のなかに音楽と音楽家をおきなおしてみることの大切さ」(あとがき)という著者の問題意識がストレートに伝わる好著だ。参考文献紹介があればなおよかったが、巻末の人名索引も充実している。

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