ワルシャワ蜂起1944 (上:英雄の戦い・下:悲劇の戦い  Norman Davis  2013.1.6.


2013.1.6.  ワルシャワ蜂起1944 (:英雄の戦い・下:悲劇の戦い)
Rising ’44 The Battle for Warsaw          2003

著者 Norman Davis 1939年生まれ。中欧・東欧地域専攻の英国の歴史家。とりわけポーランド史の権威。

訳者 染谷徹 1940年生まれ。東外大ロシア語科卒。ロシア政治史専攻

発行日           2012.10.10. 印刷             11.10. 発行
発行所           白水社

序言
20世紀に発生した重大な悲劇の1つを正確に記述するために本書を書く
この悲劇には第2次大戦の本質を物語る基本的な事実が数多く含まれている
東西両サイドにとって触れられたくない不都合な話題だったため、ワルシャワ蜂起を十分評価してこなかった
中東欧地域の多数の国々では、第2次大戦の終結は一つの全体主義国家による占領の終りではあったが、同時に別の全体主義国家による占領の始まりでしかなかった
「解放」という言葉についても、それが紛争や苦悩からの最終的な救済という意味なら、悪い冗談でしかなかった
蜂起に参加した人々の運命と彼等の貶められた名誉が戦後どのような経過を辿ったのかを追跡することが必要

序章
1944年のヨーロッパでは、第2次大戦がすでに最終段階に入り、戦いの帰趨は連合国側にとって圧倒的に有利。過去12か月間、東部戦線ではヒトラーのドイツ国防軍がスターリングラードとクルスクの大敗から立ち直れないまま退却を繰り返していた
1944年の半ばを過ぎると、アメリカが支配することになる戦後世界の構造がその輪郭を見せ始める
既に連合軍側が制空権を握っていたので、全ての武装蜂起の計画は、空輸によって武装蜂起を支援する能力が連合国軍にあることを蜂起の前提としていた
レジスタンス運動の成否は、タイミングに懸っていた。連合軍の前進ルートと進撃の速度に合せることが必要
1944.7.25. ロンドン郊外の通信部隊に、「連隊が包囲、武装解除されようとしている」との暗号化規則に違反した平文のメッセージが入電。通常は無視するが、8.1.に再び平文で「戦闘中」との電文が入り、またも無視
8.2.正午前、ワルシャワの地下組織から正規の入電、「首都奪回の戦闘開始を1日午後5時に決定。戦闘は既に始まっている」 ⇒ 緊急な対応が必要だった

第1部     蜂起の前
第1章     連合軍
ヨーロッパにおける「欧州連合」には長い歴史がある。欧州大陸諸国の中から覇権を狙う強国が現れると、その脅威に対抗して大小の諸国が連合するという図式が近代史の全期間を通じて展開。イギリスは海軍力で世界の海を支配してきたが、陸軍については大陸の主要国に匹敵する軍備を保有せず、そのためにイギリスは常に連合を必要としていた
英国主導の連合が最初に成立したのは、スペイン継承戦争で、フランス以外の国が反仏連合を形成
2次大戦における連合国の大義は、邪悪な敵を打倒することが正義に適うということ
戦争の全期間を通じて、連合国の加盟国は常に変動していた
加盟国には、ありとあらゆる種類の国が含まれていた
日本の参戦で、さらにアジア世界との入り組んだ相互関係に影響されて複雑化
連合の大義は、42年に26か国が調印した国際連合憲章の理念に基づく ⇒ 民族自決のために、共通の敵と戦うことで結びつく
ただ、連合の政策は大国間で決められ、中小諸国はその決定を受け入れなければならなかった ⇒ この前提が後に重大な結果を招く
連合内部での個別的な相互関係については何等取り決めはなく、国際連合の組織的な機能も大戦終了までは始まらなかった
連合国軍の幹部は、アイゼンハワーを例外として、ほぼ全員が第1次大戦を生き抜いた軍人であり、彼等の意識の中ではドイツとロシアは互いに国境を接する隣国であり、ワルシャワはロシア国内の都市だった ⇒ モンゴメリーが、ノルマンディでポーランド機甲師団司令官に会った時、「最近のワルシャワで使われている言葉はロシア語かドイツ語か」と聞いたという
ポーランドには、ロシアより古い独立国としての歴史があり、英国より長い自由と民主主義の伝統があるにもかかわらず、ヨーロッパでもそのことを知る人は少ない
チャーチルも、ヨーロッパ諸国を「大国(1次大戦を戦った列強)」と「小国(面倒な民族国家)」に分類
ヨーロッパの新興諸国のうち、ドイツやオーストリアと戦って独立を達成したチェコやスロヴァキアはよい国と見做され、ウクライナやアイルランドのように連合国に反抗して独立した国は手に負えない悪童とは言われないまでも明らかに悪い国。ドイツの助けを借りて独立を宣言したウクライナの場合は、独立自体虚構と見做されたし、連合国の承認が得られない国は独立国として存在することが出来なかった
ドイツとロシアの両方を敵に回して独立を主張するポーランドは、情緒不安定な問題児として扱われ、第1次大戦をロンドンやペトログラードで過ごした指導者は健全なポーランド人として分類されたが、ピウスツキ元帥のようにオーストリアの軍人としてロシア軍と戦った経歴を持つ指導者は明らかに疑わしい人物で、ドイツ皇帝への忠誠宣言を拒否して投獄されたことも、彼が危険な「親独派」と疑われる一因であり、親独派の疑いは彼の死後も後を引く。1920年に常識的な予想を裏切って赤軍を撃退したのもピウスツキだったし、30年代に入ってスターリンとヒトラーの両方を相手に不可侵条約を結んだのもピウスツキだったが、「二正面の敵」というピウスツキの外交政策は常軌を逸する非常識と見做され、ポーランドが何を目指しているか、連合国にしてみればどう考えても理解不能だった
2次大戦中の連合国の歴史には明確に区分される幾つかの段階がある ⇒ 39年当時の最初の同盟国は仏・英・ポーランドの3か国で、同年独に侵略されたリトアニア、イタリアに併合されたアルバニア、赤軍に侵略されたフィンランドは皆連合国ではなかったので、ヨーロッパの平和を侵害する事件はなかった。同年3月英仏両国はポーランドの独立を公式に保障していたので唯一かつ明白に連合国に戦争目的を与え同盟国の発動を促したのは9月のドイツによるポーランド侵攻。以後続々と亡命政府が連合に加盟
41年には連合国にとって転換期となる3つの事件が発生 ⇒ ドイツのソ連侵略、日本の参戦で米国の孤立主義が雲散霧消、ドイツの対米宣戦布告により英米ソの「大連合」成立
終盤に連合国側の勝利が予想されると、あらゆる国々が連合に加盟し始める。45.3.サウジが最後の加盟国としてドイツと日本に宣戦布告
イギリスには「戦争に勝利した」とは言えない事情があるものの、連合国の中で最初から最後までドイツと戦った唯一の主要国であり、連合国陣営を維持したのは英国であり、その最大の貢献は自分自身が絶望の淵に立たされながら反撃の声を絶やさずに世界の人々を勇気づけ、最も暗い時代に勝利のメッセージを送り続けたこと
軍事的観点からいうと、英国の役割は極めて限定的 ⇒ 貧弱な地上軍と財政の困窮
英国の想定した同盟国は、30年前と同じ仏露米の3国だが、いずれも思い通りには動かず ⇒ フランスはチェコの同盟国でありながら国際問題で主導権を握ろうとする政治的意思に欠けていたし、ソ連は政治的粛清と大量処刑の真最中、アメリカは極端な孤立主義の呪縛から解放されておらず議会は欧州への公然たる介入にはいかなる場合も反対の構え
39.8.の英国とポーランドの相互安全保障協定は、3日前の独ソ不可侵条約を阻止できなかった英国がゼロよりましというスタンスで締結した条約 ⇒ ボリシェビキの犯罪行為に対する嫌悪感から英国の世論は過去10年に亘って反ソ的傾向を強めていたが、ナチスの脅威が増すと昔の親ロシア感情が復活、スターリン主義の犯罪という現実に目をつぶって英ソ友好の回復を声高に唱え始めていた矢先の出来事
英国はまずオーストリアに対して実現不可能な保障を与え、ドイツの併合によってコケにされるという屈辱を味わった後、チェコに対しては陸軍は言うに及ばず、海軍も空軍も遠すぎて助けようがなく、ミュンヘン会談でも対ドイツの宥和策を取らざるを得なかった
スペインでフランコのファシスト勢力が勝利したことも英国の姿勢に重大な影響を与える ⇒ 世論が国際ファシズムを阻止しようとする方向に傾くとともに、多くの欠点はあるとしても共産主義者を連合国の一員に加えることは可能だと信じるようになる
ポーランドとの同盟にしても、英国が国家存続の危機に直面した4041年には同志的共感にまで高まり真正の親近感さえ生まれていたが、新しい強力なパートナーを見出すとともにポーランドは周りに群がって自分の主張を聞いてもらおうとする多数の中小連合諸国の1つに過ぎなくなり、44年末には事実上関係疎遠となり、45.7.には正式に同盟解消となる
39.9. ドイツのポーランド侵攻が始まっても、イギリスは何も手を出せず、フランスも東部国境を越えたもののドイツ軍に撃退され退却、ポーランドは5週間で独ソ連合軍によって占領 ⇒ 英国は、条約によって保障したのは国家主権であって領土ではないと詭弁
39.9.28. 独ソ友好国境画定協力条約によってポーランドは二分 ⇒ ドイツ領は西半分がドイツに併合されユダヤ系とスラヴ系が追放、東半分は総督府として隔離地域に。ソ連領の北半分は西ベラルーシに、南半分は西ウクライナとしてそれぞれ併合
最初の同盟国に対する英国の支援は全面的な支援ではなかった
敗戦後のポーランド ⇒ ①ルーマニアとハンガリー経由で10万以上のハンガリー軍部隊がフランス南部と仏領シリアに到達、②ベルリンの要請に屈してルーマニア政府が同国に逃れていたポーランドの閣僚を拘束、全員が辞任した結果、新政府をフランスに樹立することが可能となりシコルスキ将軍が最初の首相に就任、国内政治勢力各派が亡命国民評議会に代表を送る、③ワルシャワ陥落と同時に地下抵抗組織が出来新亡命政府の指揮下に入る(後の国内軍AK)
40年前半のヒトラーの2度目の電撃作戦に対して、ポーランドは各地で参戦、英仏軍とも肩を並べて戦い、華々しい戦果を挙げる。特に暗号技術者が決定的に重要な役割を果たし、40年時点で英国の軍事的立場の挽回に貢献
ポーランドと英国両政府の日常的な交流にとって障碍となったのは言語の壁 ⇒ ポーランド側の大半は仏独露語は自由に話したが英語は話さず、英国の高官にポーランド語はおろか、基本的知識がないため単語を読むことさえおぼつかなかった
41.6. ドイツがソ連を急襲 ⇒ 厳密には「ロシア」ではなく、その周辺でしかなかったが、スターリンは外部からの援助を必死で求め、翌月ポーランドと軍事合意し、ソ連に抑留されている数百万のポーランド市民が軍を編成してソ連軍に協力することをソ連が承認、ただし国境線は曖昧なまま先送りされた
41.12. 日本の真珠湾攻撃を受けてドイツがアメリカに宣戦布告 ⇒ アメリカの連合参加は、ポーランドにとって対ソの抑えとして期待されたが、アメリカ自体は開戦前に何が起こったかについて関心はなかった
42.4. ソ連国内で組織されたアンデルス将軍率いるポーランド軍は、ソ連の援助が得られないことから、中東に脱出し英軍に編入
43.12. スターリングラードとクルスクで赤軍が驚異的な勝利を達成、戦局が連合軍有利に傾き、ドイツ軍の降伏は心理的にも欧州戦争の一大転換点となる。史上最大の機甲戦と呼ばれるクルスク戦車戦に敗北したドイツ軍はもはや大攻勢をかける能力を失い、ソ連の威信が圧倒的に高まる
ソ連は、ポーランド抹殺を撤回し、モスクワにポーランド共産党の再建を別名で許可し、ソ連の指導下で活動させ、戦後に予定されるポーランド臨時政府の母体となることが期待された。同時に43.4.ポーランド亡命政府との外交関係を断絶
ベルリンは、連合国内部の亀裂を画策し、ソ連国内スモレンスク近郊での「カティンの森の虐殺」をソ連の犯罪だとして公表、ポーランドは国際赤十字に提訴、ソ連に外交関係断絶の口実を与える。英米も事実関係を察知しながら、ナチスの責任に帰して非難 ⇒ スターリンは自ら処刑に署名していながら、米英の出方を試していた
43.7. シコルスキ将軍の乗機墜落・死亡 ⇒ 再編された亡命政府内部に亀裂
43.11. 3巨頭の初会談(テヘラン会談) ⇒ スターリンに全面的に譲歩、チャーシル自らソ連が戦後に確定すべき西部国境線を独ソ間協定と同じ(カーゾン線)にすることを提案
イタリアでは、43.7.連合軍がシチリア島に上陸してイタリア侵攻作戦を開始したが、ドイツ軍の激しい抵抗にあってローマまで進むのにほぼ1年を要す ⇒ 最大の障碍はモンテ・カッシーノ要塞。突破に貢献したのはアンデルス率いるポーランド軍
44年の前半 ソ連はポーランドの東部地帯を回復、ポーランド亡命政府は現地地下抵抗組織に対し、赤軍と協力してドイツ軍を追撃すること、赤軍が安全に通過できるよう友好的な支援を提供するよう指示したが、この戦略ほどソ連を怒らせたものはなかった
44.6. ノルマンディ上陸作戦の成功により、英国に代わって米ソの比重が高まり、ソ連は呼応する作戦としてカーゾン線を越えて西へ進撃(その時点で赤軍はソ連軍と改称)
アメリカの対ポーランド感 ⇒ ポーランド再建の必要性を否定する意見もあったが、義務として支援を約束したこともなく、不干渉が原則。大使派遣も1年空席
44年半ばには新たな問題 ⇒ ソ連が連合国保護下に入った「ソ連市民」の本国送還を要求。送還すれば処分されることが明白だったが、他に選択肢はなかった
ソ連は、ルブリン入城直後に、ナチスの強制収容所の実態を報道記者団に公開、ソ連軍こそが真に解放の旗手であるとするソ連の公式主張の根拠として効果的に演出

第2章     ドイツ軍による占領
ワルシャワがドイツに占領された歴史 ⇒ 1656年の第1次北方戦争以降再三に渡り発生、都度最悪の結末をもたらして終結。19世紀半ばの民族主義時代以降も両民族間には激しい敵意が醸成される。第1次大戦中のドイツによる占領は、カイザーの比較的穏健な統治政策の下でそれ以前のロシアによる占領とは違って多大の実質的な利益をポーランドにもたらす。戦後の独立国家を指導したのは直後に来襲した赤軍を撃退したピウスツキで多民族主義を標榜、ユダヤ人についても政権への参加を歓迎、様々な社会層を隔てていた壁も多くが崩壊し、社会・経済・文化が活性・活発化
最貧国ポーランドにとってユダヤ人問題は、人種問題ではなく、問題の本質は人口過剰と社会的・経済的競争の激化にあった。高等教育を巡る紛争も表面化し、ユダヤ人の増加を抑えるために人種別入学定員制度が導入されたが、「積極的差別」の観点から導入されたもので、やがてナチスが行う暴虐の序章とする考え方は問題外の間違い
ゲシュタポは、ワルシャワ占領の最初の数か月で市民に対する支配と抑圧の体制を確立 ⇒ 全住民を人種別に分類、人種証明書、身分証明書、配給カードを発行し携行を義務付け。アーリア人のドイツ人への配給が2613kcalに対し、非アーリア人種は184kcal
ドイツ占領軍はワルシャワを総督府の首都から2次的な地方都市に格下げする積りで人口を半減させようとしていた ⇒ クラクフこそドイツ人が建設した町で、将来にわたって存続しうる唯一の都市
占領当初の目標は、政治指導者層と知識人層の一層
記録からは完全に抹殺されているが、ワルシャワ市内の封鎖地区に5カ所の比較的小規模な強制収容所が42.10.44.8.の間存在し、ガス室が使用されたことは明らか ⇒ 4万人収容可能だったが、最低20万と言われる殺害された人々の身元を確定しようとする試みは暗礁に乗り上げたまま
占領軍による弾圧が抵抗を生み、43年以降は更にドイツ軍の占領政策が暴力支配の様相を呈する ⇒ 街頭での公開処刑が公然と行われた
身体障碍者や精神障碍者が安楽死させられる一方で、アーリア系の子供はドイツに連れ去られて育てられた
それでもソ連占領地域での抑圧ほど猛烈ではなかったこともあり、他の世界に知られることはなかった
ワルシャワ・ゲットー ⇒ 総督府内に設置した約800のゲットーのうち最大で、ピーク時は38万人がひしめいていた。39.11.43.5.の間存在し、ユダヤ人評議会が任命され、ユダヤ人警察が組織された。最初の2年間は出入り自由だったが、その後は外出が禁じられ、トレブリンカへの移送が始まり、43.4.に武装蜂起が起こった後は殲滅された
ナチス支配の全般的な状況を見れば、全ての「非ドイツ人」が辿るべき最終的な運命は明らかで、ワルシャワのユダヤ人が辿った運命と同じだった ⇒ ワルシャワ・ゲットーからの強制移送と蜂起が終わった後にも予想以上に15千のユダヤ人が「アーリア人側」に生き残り、ナチスの残虐行為を認識していた ⇒ 完全隔離政策は失敗だった
「最終解決」作戦の背後にはさらに大規模な人種政策の存在が戦後のニュルンベルク裁判の証言で明らかにされている ⇒ ドイツの「生存圏」を明らかにし、そこに住む45百万のうちそのまま住めるのは1/3、ポーランドについて言えば人口20百万のうち85%は消滅
43.7. ソ連のワルシャワ侵攻を目前にしてドイツの退却が始まり、行政長官よりポーランド人に対し対ソ防衛戦への参加が命じられるが、誰も動かず、ゲシュタポは長期拘束中の政治犯を殺害 ⇒ ドイツ軍は態勢を立て直してワルシャワに戻る
ソ連が共産主義勢力の名で、ワルシャワ市民に対して蜂起の呼びかけを公然と始める
7月最後の週末は平穏で、ワルシャワ市民の大半は楽しみ寛いでいて、教会も公園も盛況

第3章     迫り来る東部戦線
赤軍が国境を越えるのは今回が4回目。1918年はリトアニアに達するかしないうちに内戦が勃発して頓挫、20年はポーランドの目覚ましい反撃にあって撃退され、39年は独ソ平和境界線まで進出したが僅か2年後にバルバロッサ作戦によってドイツによって退却を余儀なくされていた
マルクスは元々英独のような先進資本主義国家で革命が勃発すると想定し、ロシアや中国など経済発展の遅れた農業国では本物のプロレタリアート革命は決して起こりえないと確信していたにも拘らず、レーニンが信念を持った活動家が決起して断固たる行動に出れば権力を握ることが出来ることに成功したため、イデオロギー的なジレンマに陥っており、その矛盾解決のためにもロシアとドイツの間に革命的連帯の「赤い橋」を架けることが出来れば革命を維持することは可能だと考えた
スターリンは、1920年の敗戦の時、トロツキーの命令に背いて主力軍の支援に向かわず、その過程を通じてポーランド人の激しい独立志向に対する猜疑心に発展、その猜疑心は生涯スターリンの心から離れなかった ⇒ 39年にワルシャワに入った時も、ドイツが平定した後に遅れて着いた
44年の侵攻は、20年の3倍の兵力を投入、3年に及ぶナチスの残忍極まる占領の末にファシストからの解放を謳って救世主のごとく現れた。率いるのはスターリングラードとクルスクの戦いでドイツにとどめを刺したロコソフスキー将軍(ポーランド出身、39年の開戦時にはスターリンの粛清を受けて服役中)、ソ連で組織されたポーランド人による部隊もソ連の厳重な管理の下に戦闘に加わっていた
ウクライナ ⇒ 第1次大戦の終盤ドイツによって占領され、一時的に共和国の独立を承認したが、第2次大戦ではナチスは野蛮に取扱い4144年に3百万を殺害、10年前にスターリンが人為的な飢餓とテロルによって殺害した数と同じで、大戦で最大の民間人死者を出す。44年ソ連軍の侵攻でさらに凶暴な民族浄化の嵐が吹き荒れ、ウクライナ人がポーランド人を殺害、ソ連軍がすべてのウクライナ民族主義勢力を逮捕するとともにポーランド人には地域からの退去を迫る
ベラルーシも、東はソ連邦創設メンバーの1つだったが、西はポーランドの一部で、30年代スターリンの粛清によって知識人層が事実上一掃され、農業集団化によって膨大な数の農民が命を失い、スターリンの秘密警察が割当数に従って殺害した数十万の遺体がクロパトゥィの森に埋められた。さらに大戦中はナチスによる蹂躙の後、古代スラヴ民族発祥の地として伝承される聖域だったはずの沼沢地や原生林がパルチザンの格好の根拠地となり、ロシア人、ベラルーシ人、ポーランド人、ユダヤ人等あらゆる人種の地下抵抗組織がドイツ軍と戦い、また相互にも争っていた。戦時中のベラルーシの人口の1/4が死んだが、これは全ヨーロッパで最も高い死亡率。元々ベラルーシはウクライナまで含むリトアニア大公国の中心地であり、ベラルーシ語は大公国の公用語だった
ロシアとポーランドの国境の歴史は厄介極まる問題であり、合理的な理解の範囲を越える ⇒ ヴィスワ川(現在のポーランドの中央を流れる)とヴォルガ川の間2000㎞を巡るせめぎ合いで、歴史的経緯に基づく双方の領土的主張については慎重に扱うのが常識。1921年両国間で締結されたリガ条約に基づく国境線が国際連盟も承認し、32年のソ連・ポーランド不可侵条約によっても再確認され、一方的に無視することは国際法違反と見做されることになったが、独に続いてソ連も国際連盟から追放されると、スターリンはヒトラーとの2国間協定を優先させ、ポーランドがもはや存在しない国だとしてリガ条約の失効を宣言し、ドイツとの間に「平和境界線」と呼ばれるポーランド分割線を確定させる
41.6.独ソ戦開始により、ソ連は連合国陣営に参加、ポーランド亡命政府を承認し、大国による領土併合を否定した大西洋憲章に調印したものの、バルト3国併合を主張、さらに43.11.のテヘラン会談で戦後のヨーロッパのあり方が検討された際ソ連は「平和境界線」に近い「カーゾン線」を国境として提示、米英も「第2戦線」を開設して西側からドイツに反撃するという目標の未達による遠慮から反対するどころか、暗に認める発言までしたため、スターリンは国境問題に関して強く出ても危険はないと判断
ポーランド国境の推移(1918年~2005年) 緑色の線(CURZON LINE、カーゾン線)は第一次世界大戦後に定められたポーランド・ロシア国境。ソビエト・ポーランド戦争の結果、リガ条約により空色で示した領域をソビエトから獲得、青色の線で示した国境が画定した。オレンジ色の線は独ソ不可侵条約秘密議定書で定められたポーランドを分割するライン。赤が第二次世界大戦後のポーランド国境。ポーランドは空色で示した領域をソ連に譲り、黄色で示したドイツ領を得た
ソ連軍の仕組み ⇒ ①スターリンの個人独裁、②共産党の中央軍事政治部による軍の統制、③内務人民委員部(NKVD)、の3ルートを駆使した完全な個人独裁が敷かれていた
ロコソフスキー将軍も、秘密警察出身の政治委員ブルガーニンが監視し、司令部の命令には両名のサインが必要だった
44.7. ロコソフスキー軍がワルシャワの東を流れるヴィスワ川に到達、ドイツ守備隊と、地下組織の蜂起と、3つ巴のタイミングを伺う状況となる

第4章     レジスタンス
「黄金の自由」を尊重するポーランドの気風は数百年に亘るこの国の伝統で、世代を超えて伝わり、国家の自由のために戦うことは民族の伝統を受け継ぐ行為そのもので、蜂起の伝統はその都度それなりの戦果を実現
精神的抵抗の伝統も深く染み込んでいるが、ポーランド世論には常に深い亀裂がある ⇒ 武装闘争を主張する「ロマン主義派」とそれに反対する「ポジティヴィズム(実証主義)派」の対立だが、やがてこれら2つの潮流の間には社会的な合意が成立
39年 軍事的敗北を前提に、地下抵抗運動の組織化が始まったのも当然の経緯であり、最初から確固たる命令系統と正統な法的枠組みを持っていた ⇒ 42.2.にはポーランド正規軍の一部として「国内軍AK」を名乗り、占領地域に留まって戦いを続けた。最初の段階で抵抗運動を支えたのは9月戦争を戦った兵士の家族と友人たち
1908年に英国で生まれたボーイスカウト運動がポーランドでも全国組織に発展し、制服の色に因んで「灰色部隊」と呼ばれていたが、開戦と共に本領を発揮、地下国家のために働く秘密組織を設立
雨後の筍のように噴出するレジスタンスの動きを正確に見極めることは歴史家にとって難しい問題だが、ゲシュタポにとても頭痛の種だが、44.7.までには多くの組織が離合集散を経て大組織に再編成された ⇒ AKが圧倒的に多数で約4万。ナチスがすべての高等教育機関と科学研究機関を閉鎖したために大量の高学歴のレジスタンス闘士が一挙に生み出され、フルタイムの戦闘員になった。指令系統が把握できないような仕組みが作られ、一部がナチスに捕まっても芋づる式にはならなかった。すべての国民が抵抗運動を支えることを暗黙のうちに了解していたことが活動家の支えになった。自由な情報網の確保にかけては、秘密印刷所という古い伝統が活かされ、市民への情報伝達に役立つ
地下国家では、長期的な目標を立て、教育制度が敷かれ、文学書の刊行や演劇の上演、大小のコンサートも開催された。建築遺産の保存に向けた資料の収集も始まり、ナチスによって徹底的に破壊されたワルシャワを数十年かけて再建することが出来たのはそのグループのお蔭出し、歴史家も日記を書き綴って占領の実態とナチスの犯罪を記録しようとした。「戦うポーランド」の表象である錨のマークを壁に書きつけたり、禁止されたショパンのレコードを大音響で通りに流したり、赤いスカートと白いブラウスの組み合わせも重大な反抗の印だし、ドイツ語を話さないこと、話すときにはひどい訛りをつけて下手に話すことが愛国者の義務だった
ロンドンの亡命政府との連絡は、短波無線を通じて送られてきたが、無線局は絶えず移動、密使(クーリエ)が活躍。国境の管理は厳重を極め、往復には数週間から数か月かかるのが普通。カルスキ、ノヴァクなど何人かは生き残り生存中に伝説上の人物となる
43年のドイツの退潮が見え始めた時点からレジスタンス運動は統一的な指揮命令系統が機能したこともあって勢力を拡大、強靭さを発揮、正規軍の様相さえ呈していた
ナチス高官を目標とする報復作戦も行われ、プラハで親衛隊国家保安本部長官のハイドリヒが暗殺されたのに優るとも劣らないワルシャワ地区警察長官の親衛隊旅団指導者フランツ・クチュラ殺害事件は有名
地下国家の司法制度も、地下の秘密裁判所と国内軍の軍事法廷によって機能、判決は公表され、国内軍が刑の執行に当たる ⇒ 対独協力者の多くは処刑
43.4.ワルシャワ・ゲットーの蜂起が1か月近くも続いたのは驚異 ⇒ 地下国家が僅かながら武器を提供。2万が殺害、残る16千がトレブリンカ送りとなり、ワルシャワにゲットーは存在しなくなった。ゲットー蜂起が示した道徳規範は極めてポーランド的な道徳規範そのものであり、ワルシャワ市民の間にも遺産として引き継ぐべき具体的な教訓をもたらした
武装蜂起は占領当初からの公然たる目的であり、亡命政府も事あるごとに米英に対し支援を要請してきたが、英米とも迅速に動くことはなかった
蜂起を目前にしたポーランドのソ連に対する姿勢には3つの流れ ⇒ 
   スターリンの言うことは何でも受け入れポーランドに共産主義運動を復活させる
   2つの敵理論」の申し子だったソスンコフスキ最高軍司令官のグループは、徹底した反ソで、ソ連のワルシャワ侵入の際は地下の抵抗を続けるべきと主張
   ミコワイチク首相と農民党の最大勢力は、西側諸国の支援を受けてソ連との妥協策を探るべきと主張し、首相自らスターリンとの直接交渉のためモスクワに飛んだ
ポーランドでは、旧ロシア帝国で生まれロシア語を話すことのできるポーランド人でさえ、不合理な敵意を剥き出しにするソ連軍部隊に遭遇して面喰っていた
国内軍がソ連軍と連携すると、ソ連軍前線部隊は彼等を歓迎しその戦力を活用したが、ソ連は前線後方の地下組織を認めなかったし、ソ連軍の後には必ずNKVDがやってきて、最大の猜疑心をもって国内軍を扱った
東部地域では幾つか国内軍とソ連軍が遭遇したが、突然武装解除されたり、罠に嵌められてドイツ軍とソ連軍の挟み撃ちに会ったりして、僅か1週間で23万規模の国内軍が消滅 ⇒ その時部隊の無線通信士が暗号化する暇もなく打った緊急通信が序章の平文の電文で、国内軍最後の大規模部隊が「同盟国の同盟国」の手にかかって壊滅した
ワルシャワ蜂起敢行の最終的な決断は国内軍総司令官ブル=コモロフスキに一任されていた ⇒ 81日午後5時決行と決まる
パリもワルシャワと同様に解放を目指していたが、フランスでは事前の計画も協議もほとんど行われず、ノルマンディに上陸した米軍にはパリを解放する計画はなかった。ルクレール将軍にもパリのレジスタンスを支援する命令は出ていなかった。ドゴールの亡命政府は敵対するヴィシー政権とも、ライバルである共産党とも何等合意に達していなかったが、米国はドゴールを戦後フランスの指導者と見做していた。混乱の極みではあったが、それでも楽観主義が生き残る余地はあった

第2部     蜂起
第5章     ワルシャワ蜂起
5時に攻撃開始、間もなく一番高いプルデンシャル・ビルの屋上に赤白のポーランド国旗が翻り、ドイツ軍の武器庫と倉庫、いくつもの建物を奪取、市内のかなりの面積を支配下に収める。最初の戦闘の犠牲者は2500(Dデーの犠牲者と同数)80%が国内軍
4日目の夜、チャーチルの指示で初めて英国空軍の爆撃機が飛来、救援物資の投下に成功
ドイツ軍の反応は傲慢で残忍 ⇒ 事前の小競り合いから、5時前には全守備隊に警戒命令が発出。蜂起がワルシャワに最終的な始末をつけるための格好の口実となり、全ての住民の殺戮と建物の破壊が命じられた
ヒムラーが特別鎮圧部隊を編成して送り込み、空爆まで加えるが、順調には進まない
クラクフでは、ドイツ総督府が予防措置命令により成年男子の一斉逮捕に出たが、1人の24歳の神父ななることを夢見る青年がその網を逃れて大司教宮殿に匿われた ⇒ その時に聖職者になるための1歩を踏み出したこの青年が後の教皇ヨハネ・パウロII
蜂起軍は、最大限5,6日もたせる間にソ連軍によるドイツ軍への攻撃や連合軍からの支援、あるいは首相によるスターリンへの働きかけがうまくいくと期待していたが、いずれも期待は虚しく戦線は膠着状態へ
ソ連軍は沈黙、BBCはソ連軍が蜂起に全面的に協力と報じられたが、ソ連軍による国内軍の兵士逮捕が続く
ミコワイチク首相のモスクワ訪問はほとんど無視され、ようやく実現したスターリンとの会見では、スターリンの意向で創設されたルブリン委員会との見解統一を支援開始の前提とされ、国内軍の蜂起によるワルシャワ市の解放にも本気で取り組む姿勢は見られなかった
ワルシャワに派遣されていたドイツ軍士官ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉の残した日記の8.11.付けに絶望的な感想が記されている ⇒ ワルシャワを破壊し尽くす総統の命令が既に実行されている。5年間保持し、整備拡大し、戦果として世界に誇ってきた都市を放棄するのだ。この大尉こそ「戦場のピアニスト」ヴワディスワフ・シュピルマンの命を救った将校
ルーズベルトもチャーチルに呼応して支援の空輸を決断、ソ連にも上空通過の支援を求めるが、ソ連はワルシャワ蜂起に加担することを好まず、空輸は勝手だがソ連領土内に帰投することは拒否 ⇒ 後年の歴史家の中には、これを冷戦の起源とする見方もある
結局空輸作戦に出動したのはイタリアの基地から発進した英空軍機のみで、それもソ連の対空砲に狙われ、夜間戦闘機に追い回される中での偉業で、帰りはソ連機を避けてドイツ領内を飛んでいた ⇒ 1トンの物資の空輸に爆撃機1機が失われるという犠牲の上に19回にわたって行われた
チャーチルは、早くからスターリンの対ポーランドの消極姿勢を懸念、再三にわたりスターリン宛に強い調子で協力を要請しているが、モスクワの反応は常に冷淡で、国内軍についても一部の反乱分子に過ぎないとしていた
パリでは、ワルシャワで始めたことをフランスのレジスタンス運動が見事にやってのけた。ドイツ防衛軍のコルティッツ将軍が破壊命令に従わず、事態に素早く対応した米軍司令部がルクレールをパリに向かわせたことが決定的な契機となる ⇒ 解放の最大の特徴は事態に即応して非計画的に進められたことだが、フランスのレジスタンス運動が非常に複雑な政治的混成組織だったにもかかわらず最後まで参加者間の統一を維持したことと、連合軍の確固たる支援を得たことが解放の成功に繋がる
ソ連にとっては、ポーランド国内軍の力が当初の予測をはるかに上回っていたことが不安材料。ミコワイチク首相に対しては口先だけの支援約束をし、首相はそれを本気と受け取ってロンドンに帰ったが、スターリンの本心ではなかった
ポーランドよりもバルカン半島地域への進出のほうが豊かな見返りが得られると判断し、8.20.スターリンはロコソフスキとジューコフを留め置いたままルーマニアへの突入を命令
スターリンがワルシャワに死刑宣告を行ったのは8.13.とするのが常識 ⇒ 全面的に正確という訳でもなく、確実に言えるのは、ワルシャワ蜂起にとって支援が最も効果的であり得るときにスターリンが支援の可能性を否定したことであり、最も冷酷な言い回しでワルシャワ蜂起を非難したこと。さすがの米国も、ソ連が冷酷な政治的打算に基づいて支援を拒否していることを認識。ソ連の政策は、積極的な敵対行動へと変化し、支配地域内の全ての国内軍兵士の逮捕と武装解除が指示された
8月一杯までは持ちこたえたが、旧市街地区からドイツ軍の空爆で撤退させられたこと、外からの支援が期待薄で弾薬・兵糧とも尽きかけていたこと、ソ連軍が動かないのは軍事作戦上の問題とは別の所(スターリンの政治的思惑)にあるという認識から、無期限の抵抗継続は正当化できなくなり、一方のドイツ軍も今後も蜂起が続くのであればワルシャワを前線の要塞都市とする計画に支障をきたすとして、お互い条件付き降伏交渉の探りを入れ始め、消耗戦の続く中でドイツからの提案で公式に交渉開始
ドイツもまた、ソ連が蜂起軍と合流しようとしない状況を理解できないでいた
ポーランド支援に消極的な英国内の状況に対し、『動物農場』を執筆中のジョージ・オーウェルは、ワルシャワ蜂起に関する当時の論調の多くが絶望的なほど公正を欠くことを明らかにし、「防ぐことのできない悪に対しては抗議することもできないという原則は、社会主義とは無縁」と批判
44.9. 英米首脳のケベック会談(スターリンは多忙を理由に欠席)では、年内にも終結する対独戦に対し、まだ時間のかかりそうな対日戦が主要議題 ⇒ 対独占領計画でも、太平洋戦争の最終局面でも、ソ連の協力が重要なカギで、ワルシャワ蜂起は話題にならず
8月末スロヴァキア軍が決起しドイツに反抗、ソ連に支援を求める ⇒ ソ連は、どんな犠牲を払っても解放すると決定し、カルパチアの峻厳な峰々を越え、ドイツ軍が厳重に封鎖しているドゥクラ峠を突破。支援はソ連の利益に合致していた
9.12. ロコソフスキー軍がヴィスワ川東岸に到達 ⇒ ドイツと国内軍との停戦交渉は、ドイツが国内軍兵士の交戦権を認め、報復しないことを約束したので、妥結にこぎつけようとしていたが、ソ連軍が姿を見せたことで、再び抵抗の精神が燃え上がり、降伏交渉は崩壊
9.16. ドイツのワルシャワ防衛軍を南北から挟撃できる地位にソ連軍が立ち、第1ポーランド軍のベルリンク将軍は、ロコソフスキ―の許可の下、ヴィスワ川を渡って蜂起軍と合流するよう命令。これこそ国内軍のコモロフスキ将軍が6週間前に期待していた命令だった ⇒ ソ連軍の援護があれば、すぐにでもドイツ軍は崩壊したと思われるのに、理由は全く不明ながらソ連軍の支援は極めて限られたもので、逆にドイツ軍による掃討作戦で渡河を敢行したベルリンク軍には多大な犠牲が発生して撤退、蜂起軍との合流は失敗
ワルシャワ以外の東部戦線でのソ連軍の動きは活発で、ドイツ軍に攻勢を仕掛けていた
西側首脳も、スターリンも、誰1人としてワルシャワの現状を把握していなかった ⇒ スターリンが直ちに介入しなければワルシャワ蜂起の命運が尽きるという事実だけが明白だった
9.28. ソ連の介入がないまま激戦が続く中で国内軍とナチスとの停戦交渉が再開
1944.10.3. 降伏文書に調印 ⇒ 蜂起軍は連合軍の一部であることが公式に認められ(ドイツ軍はソ連兵捕虜には同様の待遇を認めていない)、ジュネーヴ協定によって保護される戦争捕虜としてドイツ軍に投降(兵士総数は11,668人、うち約2,000が女性)
ワルシャワ蜂起の最後の銃弾が発射されたのは2日の夕刻。ドイツはベルリン時間で20:00pmとしたが、国内軍の記録では19:00となっている。1939年以来国内軍はワルシャワ時間を採用しており、ナチスが導入したものはたとえそれが時刻であっても国内軍は正統と認めなかった
銃撃は止んだが、抵抗組織は依然として機能し続けた

第3部     蜂起の後
第6章     敗者は無残なるかな 194445
ワルシャワの西半分はほぼ完全に破壊し尽くされ、そこに住む50万人は投降したが、東半分に当たるヴィスワ川の東には沈黙を守るソ連軍が駐留
捕虜も避難民も、当初こそ協定に従って扱われたが、初期の混乱が収まると、ナチス支配のおぞましい側面が露呈、協定は無視された
ドイツ軍によるワルシャワの破壊作戦が進む一方で、ポーランド再建を目指す動きの中心はルブリン。偽名を使ってポーランド人を装うロシア人によって樹立されたルブリン委員会が支配し、コモロフスキ将軍を裏切り者として糾弾するのみならず、国内軍全体をナチスの代理機関と決めつけていた
5年の空白を経て日常的な市民生活が回復し始めたことも確か
10.9. チャーチルがスターリンを訪問、バルカン、東欧諸国の権益の配分について協議(ルーマニアを譲る代わりにギリシアを取る)、その後ミコワイチクを交えてポーランド問題について協議 ⇒ ソ連とポーランドの面談に英米の外交官が同席するのは初めてだったが、いきなりソ連からカーゾン線については前年のテヘラン会談で解決済みと言われたミコワイチクは愕然として、首相を辞任
ソ連は、ルブリン委員会を「ポーランド臨時政府」として承認
45年に入ると、ロコソフスキ―に代わったジューコフのソ連軍がベルリンへの最短ルートを進み、117日には一発の銃弾を撃つこともなくワルシャワを落とし入れ、1月末にはオーデル川に到達
1.19. 存在理由を失った国内軍は解散を宣言 ⇒ ワルシャワには、ソ連のNKVD軍が駐留して、帰還する住民の取締りと国内軍の残党狩りを行う
ヤルタ会談ではポーランド問題について合意成立 ⇒ ソ連の思うカーゾン線を東部国境とし、ソ連が設立したポーランド臨時政府が存続し、そのまま戦後に樹立されるはずの国民統一政府に移行
国内軍司令官や亡命政府代表16名は、ソ連側の身分保障を確約した巧妙なおびき出しによって逮捕され、一瞬にしてポーランドの民主主義的な指導者のほぼ全員が拉致され、戦後ポーランドの民主主義的発展の芽がまだ戦争の終らないうちに摘み取られたことを意味した ⇒ 16人は6月にモスクワで裁判にかけられ、国際法に違反して拉致された被告を国内法で裁くという、馬鹿げた起訴事実、洗脳された被告、偽証する証人によって構成された共産主義ソ連の見世物裁判で、「ソ連の正義」がどんな露骨な不正を犯してもその無謬性は揺るぎないこと、西側列強にはソ連の不正を阻止する力がないことを世界に思い知らせるための裁判だった。西欧諸国からの傍聴者が認められ、検察も死刑を求刑せず、寛大な判決となる ⇒ 服役中に謎の獄死
4.21. ソ連とポーランド臨時政府は、期限21年の「友好相互援助協力条約」を締結、ソ連の支配を認めた一方的な条約、西側国境を連合国との話し合いもないままにオーデル川とナイセ川に決めている
ワルシャワ蜂起の最大の敗者は、ポーランド亡命政府と国内軍で、政治的基盤と軍事組織、政治指導部を失う
西側列強も間接的な意味での敗者 ⇒ 倫理性と公正性についての英米両国の評判は失墜
短期的な意味に限れば、ドイツ軍は戦術的勝利を収めた ⇒ 5か月間も持ちこたえたし、ワルシャワを完全に破壊し尽くしたのは、彼等が目的とした「最終解決」の1つを達成
最大の勝者はスターリン、ソ連邦、ポーランドの共産主義勢力 ⇒ 蜂起の敗北によって、濡れ手に粟でポーランドを手に入れ、世論の動きも民主主義的手続きも一切無視して樹立した独裁体制はその後46年も続く
1944年末全面的にドイツ軍に制圧された廃墟のワルシャワに身を潜める人々もいた ⇒ ユダヤ系ポーランド人でピアニストのヴワディスワフ・シュピルマン(191199)は単独で潜伏する道を選択。12月に遂にドイツ軍士官に発見されるが、ピアニストだというと、ピアノの前に連れて行かれ、夜想曲嬰ハ短調を弾く。ドイツ士官は食べ物と毛布を与えピアニストを助けるが、その後ソ連軍の捕虜となりシベリアで獄死
45.1.17. ソ連軍がワルシャワの廃墟に入ると、それまであちこちに潜伏していたポーランド人たちが姿を現すが、NKVDは彼等を一網打尽に逮捕
45.6. 秘密組織「自由と独立WiN」設立 ⇒ ソ連の傀儡政権との対決を期して国内軍の復活を目指す組織
ドイツ国内では、すべての連合軍捕虜が解放されつつあり、ポーランド人捕虜には3つの選択肢 ⇒ ①在外ポーランド軍への合流、②連合軍がドイツ国内に設立しつつあった強制追放者キャンプに入る、③帰国
ドイツを破ると同時に国家の独立回復のために戦っていたポーランド人にとって、589日の戦勝を祝うVEデーは祝祭でもなんでもなかった ⇒ 全面的な戦勝記念日としてVでーが挙行されたのは翌4668日だったが、戦時中に英国の同盟国だったすべての国が招待される中、ポーランド宛の招待状はワルシャワの臨時政府だった

第7章     スターリン主義体制下の抑圧 194656
戦後ポーランドにはスターリン主義的な支配体制が確立 ⇒ 2つのタブー。1つはソ連の悪口、もう1つがワルシャワ蜂起を称賛する言葉。正式に導入されたのは48.12. ポーランド統一労働者党PZPRが成立して一党独裁国家が誕生
4447年 内戦期 ⇒ 誕生したばかりの共産党主導体制が様々な政治的反対派と対決 ⇒ ミコワイチクが亡命政府からは唯一戦後体制に参加、民主主義反対派を結集して対決
4754年 スターリン主義体制の確立期 ⇒ 47年総選挙、地下抵抗運動が壊滅、独裁政権の中でモスクワからの指令を取り次いでいたのが労働者党書記長のゴムウカ、48年失脚後、49年ソ連元帥のロコソフスキーが国防相として乗り込む。NATOが創設された年でもあり、ソ連から多数の軍事顧問が送り込まれた
5456年 53年のスターリンの死と共にスターリン主義が部分的に後退
ワルシャワ蜂起の記憶を封殺する政策は殆ど半世紀の間続いた ⇒ ナチスの戦争犯罪人の引き渡しを求めるのと同様、ワルシャワ蜂起の内幕を暴こうとしていた
西側で、ワルシャワ蜂起に触れる議論が始まる ⇒ チャーチルの回顧録では、状況を呼んだスターリンが、軍事的な敵であるドイツ軍によって政治的な敵である国内軍(ポーランド)が一掃されるのを待とうとしたことは考えられるとし、コモロフスキも英語で回顧録を出版
ニュルンベルク裁判でも、ワルシャワ蜂起は当然主要な検証事項となるべきであったが、ソ連の動きが問題となることは避けられないとなれば、ソ連と西側諸国との間に亀裂が入ることは必至であり、裁判の審議日程からも外された ⇒ ワルシャワを裏切り、見捨てたことは、第2次大戦中に発生した最大の犯罪の1つだという主張も強い
ニュルンベルク裁判の本質を端的に象徴する出来事として、ワルシャワ蜂起を鎮圧したドイツ軍の責任者エーリッヒ・フォン・デム・バッハ親衛隊上級集団指導者(大将)をソ連が検察側証人として法廷に立たせた ⇒ バッハは「東方地域パルチザン殲滅作戦司令官」として東部戦線で無数の残虐行為を行った責任者であり、ソ連は訴追を強硬に主張していい立場にいたはずだが、自分の残虐行為とソ連の残虐行為とを比較する機会を与えたくなかったソ連は、バッハにナチスの同僚を裏切らせる道を選択、バッハも悩んだ末に自分の身を守るために全ての責任をヒムラー他に追わせることを決める。法廷ではゲーリングがバッハに対し有名な怒号を吐いたが、ゲーリングが自殺に使用した青酸カリのアンプルを渡したのはバッハだとされている
戦時中にポーランドで残虐行為を行ったナチス指導者が、戦後ポーランド国内に身柄を移されて裁かれるケースもないではなかった ⇒ ルドルフ・ヘスや、ワルシャワ行政長官だったルードヴィッヒ・フィッシャー
戦後のポーランド人民共和国における抑圧の仕組みは、戦時中のソ連占領下の抑圧よりもはるかに組織的 ⇒ NKVDとポーランド公安省が連携して創り出したシステム
1953.9. ポーランドの弾圧政策が新段階に ⇒ ポーランド首座大司教のヴィシンスキ枢機卿逮捕。古い伝統によれば首座大司教は摂政の地位にあり、ナチスですら逮捕に踏み切ることが出来なかった。ワルシャワ蜂起の際国内軍の従軍司祭だった人で、国民の人望が厚かったが、モスクワの支配が及ばない組織の長だった
56年にスターリン主義が崩壊すると、同志ゴムウカとヴィシンスキ枢機卿の2人が歴史的な妥協を目指し実現するが、「人民共和国」はその後さらに34年間存続

第8章     蜂起の残響 19562000
東欧諸国にとって、1956年は歴史の分水嶺 ⇒ フルシチョフの「秘密報告」によって、スターリンの死後始まった「雪解け」が確実な流れになったかのように見えたが、同じ年に起こったハンガリー動乱ではソ連軍戦車によって自由化の動きが圧殺され、東欧の自由化には厳しい限度があることを思い知らされた
ポーランドも、ソ連の事前承認なく、ゴムウカを復権させたため、ソ連の介入が予想されたが、ポーランドが抵抗の構えを見せたので介入は差し控えられた
52年 「ルブリン委員会」の役割を強調し、44年の国土占領を正当化する憲法発布
56年以降、ポーランドの共産主義体制は、イデオロギー的にも、社会的にも、また経済的にも、確実に衰退の傾向を辿る ⇒ 教会の復権が大きい。ヴィシンスキとその後継者ヴォイティワ枢機卿(78年ローマ教皇に選出、パウロII)が指導力。8081年には労働者階級の中から「連帯」の運動萌芽、軍事クーデターによって一時的に抑圧されたが、最終的に体制転覆に成功。知識人も反体制派支持に
ワルシャワ蜂起の評価にも変化 ⇒ 72年には国防相が国内軍将軍の記念碑の修復資金を負担、「悲劇的な死を遂げたが、死後名誉を回復された」と刻む
激動の歴史を経たポーランドでは、死者に敬意を表する文化が高度に発達。墓地には常に花が添えられており、墓石の前には蝋燭が灯されている ⇒ スターリン主義はこの伝統にも干渉、56年暮れまでワルシャワ蜂起の記念碑建立は許可されなかったが、蜂起の死者を祀る最初の「灰色部隊」の記念碑がポヴォンスキの軍人墓地に建てられ、聖ヤン大聖堂が再建されるとともに各教会に蜂起の銘板が現れ始める
戦後すぐに建てられたゲットー蜂起記念碑に象徴されるようにゲットー蜂起が正当に記念される一方で、ワルシャワ蜂起が記念されなかった事実が深刻な混乱を惹起 ⇒ 70.12.西独のブラント首相がワルシャワを訪問しドイツ国民を代表して謝罪した時には記念碑が1つしか存在しなかった。無名戦士の墓のあとゲットー記念碑に移動、人々の記憶に長く残る彼自身にとっても予想外の行動に出る。跪いて目に涙まで浮かべて死者への敬意を表する。ただ、ワルシャワ蜂起については一言も言及されなかった
56年を境にして政治の風向きに変化が生じると、元蜂起兵たちの人生にも影響 ⇒ 引き続き秘密の生活を続ける者、国外に脱出する者、大多数は政治に関わらない生き方で自分の生活を守る、少数だが政府に運命を預ける道を選んだ者もいた
世界各地に散らばった元蜂起兵は、その多くが様々な分野で成功している
70年代末、共産主義体制の危機が深刻化。政治指導部は信頼を失い、経済戦略は失敗。労働者階級の抗議のストライキが頻発 ⇒ 79年パウロII世の訪問が実現したのが契機となって明確な反体制運動に転化、法王の訪問がもたらした誇りと自信は国民の間に計り知れない影響を残し、連帯運動が一気に加速、共産圏で初めて言論の自由が実現
1990年 民主的な大統領選挙実施、これをもって人民共和国は最終的に崩壊 ⇒ 検閲制度が廃止され、元蜂起兵は何の制約も受けずに、ワルシャワ蜂起について語り、出版し、組織し、記念することが初めて可能になった。裁判の見直しも進行
94.8.1. ワレサ大統領主催の蜂起50周年記念式典挙行 ⇒ ロシア連邦大統領は出席を拒否、ドイツのヘルツォーク大統領は蜂起への賛辞と謝罪を表明する中でゲットー蜂起記念と混同する失態
ワルシャワ蜂起の決断の是非については、国内外の歴史家の間でも、今なお意見が分かれているが、忘れてならないのは、ワルシャワ蜂起は主権国家としての最後の判断だったという事実。その後45年にわたってポーランド人は自主的に自分の将来を決定する権利を奪われた
現在、唯一足りないのは常設のワルシャワ蜂起博物館 ⇒ 0460周年記念で開設

「失われた世代」 ⇒ 生き残っていれば、戦後ポーランド社会の指導者層の中核となったはずの若い世代が、ワルシャワ蜂起でほぼ全滅。90年になって第三共和国が宣言されたが、39年の第二共和国に簡単に復帰できるような問題ではなかった。ただ1つの希望は、ワルシャワ蜂起を正確に記憶すること

終章    中間報告
ヨーロッパの大戦を総体として評価するためには、ワルシャワ蜂起の本格的な検証は依然として不可欠
ヨーロッパの東半分では、1つの邪悪な専制支配が、もう1つの邪悪な専制支配にとって代わったに過ぎなかった ⇒ 西欧列強が標榜している自由と民主主義の尺度からいえば、大戦の勝利は東側の大半に諸国にとってはむしろ惨めな失敗だった
問題点を的確に整理し、公平な責任の所在を明らかにすることが肝心であり、主要な問題点は以下の3
   731日現在入手可能だった情報の範囲内で蜂起指導部が下した決断に合理性があったか ⇒ ソ連の到着前日に蜂起の判断をしているが、ドイツ軍が最強の増強部隊を送り込む決定がなされたのは蜂起軍にとってもソ連にとっても想定外
   初期の段階で判断の間違いがあったとしても、その間違いが最終的に蜂起敗北の決定的原因となったかどうか ⇒ 失策や誤算とその影響との因果関係を正確に検証する必要があるが、いずれも破局的ではなかったのは間違いない
   同盟諸国がワルシャワ蜂起に効果的に関与できなかったのはなぜか ⇒ 大連合の内部に存在した様々な優先政策とワルシャワ蜂起との相互関係を検討すべきであり、蜂起の指導部は大連合を構成していた2つの異質の文化の衝突からだけでなく、西側同盟諸国内部の機能不全の影響も受けた。同盟諸国が蜂起発生の可能性を事前に十分知っていたにもかかわらず何ら手を打たなかったのは事実



ワルシャワ蜂起1944(上・下) ノーマン・デイヴィス著 
歴史を再構成するあざやかな叙述 
日本経済新聞朝刊20121216日付
フォームの始まり
フォームの終わり
 過去の歴史をいくら見つめなおしても、過ぎ去った時を取り戻すことはできない。死者はもう帰ってこない。だが、ひとたび起こったことは、これからも起こり得るのだ。だから私たちは過去の歴史を知らなければならない。――平凡だが痛切なこの思いを、本書は読む者の胸に刻む。
(染谷徹訳、白水社・各4800円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(染谷徹訳、白水社・各4800円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 写真や資料を合わせると1200頁(ページ)に及ぶ上下2冊のこの歴史書は、第2次大戦末期にポーランドの首都ワルシャワで決行された反独蜂起を主題にしている。ポーランドを占領し併合したナチス・ドイツは、ポーランド人を「劣等人種」と見なし、ユダヤ人とともに抹殺の対象としていた。そのため、ここでのナチスの抑圧支配は他の占領地域に例を見ないほど苛烈で残虐だった。それにもかかわらず、ポーランドは屈服しなかった。国外の亡命政権と密接に連携しながら、国内で「秘密国家」が機能し、「国内軍」が密かに行動の時期を待っていた。
 ワルシャワ蜂起は、ドイツ軍の敗色が濃くなり、ソ連軍が間近まで迫った194481日、開始される。圧倒的な劣勢にもかかわらず、国内軍と市民は2カ月間の市街戦に耐え、力尽きて停戦協定に調印するが、ナチスは敗者たちを犯罪者や叛逆者としてではなく正規の戦時捕虜として扱わざるを得なかったのである。
 しばしば悲劇的な英雄的行為として記されてきたこの蜂起を、本書はまったく新しい観点から見つめなおす。蜂起という一局面だけを描くのではなく、蜂起の前史と後史を綿密に掘り起こしながら、同時にポーランドに対する列強の姿勢といういわば横の関係を明らかにすることで、蜂起を歴史の脈絡のなかで再検討するのである。この方法によって、ワルシャワ蜂起という局地的な出来事を結節点として、20世紀の歴史が整理しなおされ、再構成される。
 具象的で生彩に満ちた、しかも冷徹な叙述は、本書の厖大さを忘れさせる。訳文も優れている。「ワルシャワのために、そして犠牲をいとわずに圧制と戦うすべての人々のために」――上下2冊の扉に記されたこの献辞が、私たち自身のありかたを問う言葉として迫ってくる。
(ドイツ文学者 池田浩士)


Wikipedia
ワルシャワ蜂起Warsaw Uprising、ポーランド語:Powstanie Warszawskie)は、第二次世界大戦ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起こった武装蜂起である。

経過 [編集]

1944622日から開始された、ソビエト赤軍によるバグラチオン作戦の成功により、ドイツ中央軍集団は壊滅し、ナチス・ドイツは敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。
ソビエト赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた。730日にはソ連軍はワルシャワから10kmの地点まで進出。ワルシャワ占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することをソ連軍と打ち合わせた。
731日、ドイツ軍が反撃、ソ連赤軍は甚大な損害を被る。さらにソ連赤軍は補給に行き詰まり、進軍を停止した。
国内軍にはソ連赤軍進撃停止の情報は伝えられなかった。にもかかわらず、その直前の7月29にはモスクワからは蜂起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けており、ソ連赤軍の位置からそのワルシャワ到着は大きくは遅れないと判断された。
81日午後5時ちょうど、約5万人のポーランド国内軍は蜂起を開始。国内軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。
この時刻は「時刻W」と呼ばれ、現在では毎年81日のこの時刻にワルシャワ市すべてにサイレンが鳴り渡り、市民がめいめいその場で動きを止め、1分間の黙祷を捧げる一大行事が行われる。

ドイツ軍の対応 [編集]

ワルシャワ市内には治安部隊を中心に約12,000名のドイツ兵が駐屯していた。その内、戦闘部隊と呼べるのはオストプロイセン擲弾兵連隊の約1,000名だけであった。ドイツ軍治安部隊は数で劣っていたものの蜂起軍を圧倒する豊富な物量装備をもって臨んだ。その兵員の大半が火器をもたない国内軍は目標地点のほとんどを占領できず、わずかにドイツ軍の兵舎、補給所を占領しただけであった。即日報告を受けたヒトラーは、これをみて、ソ連赤軍がワルシャワを救出する気が全くないと判断し、蜂起した国内軍の弾圧とワルシャワの徹底した破壊を命ずる。
国内軍は引き続き、目標地点に攻撃を仕掛けるが、成果は上がらず、警察署、電話局では取り残されたドイツ軍部隊が徹底抗戦を行っていた。しかし、ドイツ軍の補給所、兵舎の占領により、当初数人に一人しか銃が無いという状態を脱し、奪ったドイツ軍の小火器、軍服が国内軍兵士に支給され、装備面で多少の改善が見られた。これにより、敵味方が同じ軍服を着用するため、国内軍兵士はポーランド国旗の腕章を着用し、識別を行った。さらに多くの市民が国内軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築いた。
鎮圧軍司令官に任ぜられたエーリヒ・フォン・デム・バッハSS大将は83日には現地に入り、周辺の部隊をかき集め、5日には反撃に出る。急遽近隣に駐屯していた部隊をかき集めたドイツ軍は殆どが大隊規模の部隊だけで、臨時に戦闘団に編成し、市街地西側から攻撃を開始する。しかし、国内軍を中心として士気が高くよく統率のとれた蜂起軍の猛烈な防戦に会い、進撃は遅々として進まなかった。攻撃部隊にはカミンスキー旅団SS特別連隊ディルレヴァンガーといった素行の悪さで有名な部隊が加わっており、これらの部隊の兵士たちは戦闘より略奪や暴行、虐殺に励んだ。このことはワルシャワ市民と国内軍の結束を一層強め、戦意を高揚させた。
7日には市街地を何とか横断し、国内軍占領地を分断し、包囲されていた部隊を解放した。しかし、市街地に立て籠もる国内軍の抵抗はすさまじく、激しい市街戦が続く。国内軍も819日に総反撃に出て、電話局を占領し、120名のドイツ兵が捕虜になった。ディルレヴァンガー連隊、カミンスキー旅団の残虐行為の報復として、捕虜のうち武装SS、外国人義勇兵は全員その場で処刑された。

ソ連の対応 [編集]

ヴィスワ川対岸のプラガ地区の占領に成功したソ連赤軍は市街地への渡河が容易な状況にあったにもかかわらず、蜂起軍への支援をせずに傍観を決め込んだ。ソ連赤軍と共に東方からポーランドへ進軍しプラガ地区に到着していたジグムント・ベルリンク将軍の率いるポーランド人部隊「ポーランド第1軍団」のみが対岸の蜂起軍支援のための渡河を許され、彼らポーランド人軍団はベルリンク将軍以下必死で蜂起軍の支援をしたものの、その輸送力は充分ではなかった。ソ連赤軍は輸送力に余裕があったにもかかわらずポーランド第1軍団に力を貸さなかった。のちにポーランド人民共和国最後の国家指導者で1989の新生ポーランド共和国初代大統領となったヴォイチェフ・ヤルゼルスキはこのときポーランド第1軍団の青年将校として現地におり、物資補給作戦に参加している。彼はこのときの燃え盛るワルシャワ市街を眺めながらソ連赤軍に対して涙ながらに感じた悔しさをのちに自伝『ポーランドを生きる』のなかで赤裸々に吐露している。
ソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に向かっていく。

終焉 [編集]

ドイツ軍は重火器、戦車火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々に国内軍を追いつめていった。その一方で目に余るカミンスキー旅団の残虐行為に対しハインリヒ・ヒムラーは、827日に司令部に対しカミンスキーの処刑を許可した。カミンスキーは故意に呼び出されたところを殺害され、ワルシャワから撤退したカミンスキー旅団は解散させられた。831日には、国内軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出する。9月末には国内軍はほぼ潰滅する。

ワルシャワの破壊 [編集]

その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。しかし、イギリス政府がワルシャワのレジスタンスを処刑した者は戦犯とみなすとラジオを通して宣言したため、レジスタンスへの処刑は止んだ。10月2、国内軍はドイツ軍に降伏しワルシャワ蜂起は完全に鎮圧された。翌日、ワルシャワ工科大学に国内軍は行進し、降伏式典の後、武装解除された。降伏した国内軍は、捕虜として扱われて捕虜収容所に送られた。しかし、武装解除に応ぜず、地下に潜伏して抵抗を続ける者も多かった。
市民の死亡者数は18万人から25万人の間であると推定され、鎮圧後約70万人の住民は町から追放された。また、蜂起に巻き込まれた約200名のドイツ人民間人が国内軍に処刑されたと言われている。国内軍は16千人、ドイツ軍は2千名の戦死者を出した。

ソ連軍の進駐 [編集]

ソビエト赤軍は1945に入った112日、ようやく進撃を再開。117日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、ソビエト赤軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。
生き残った少数のレジスタンスは郊外の森に逃げ込み、ソ連軍進駐後は裏切ったソ連を攻撃目標とするようになった。1950年頃まで森の反共パルチザンが生き残り、共産政府樹立後も政府要人暗殺未遂などしばらく混乱が続いた。

背景 [編集]

ワルシャワ蜂起を指導したのはポーランド亡命政府である。ポーランドには第二次世界大戦勃発直後、ルーマニアからパリを経由し、ロンドンに亡命した「ポーランド亡命政府」が存在した。ポーランド亡命政府にとって、ソ連は自国をドイツと共に侵略した国であったが、独ソ戦開始後はソ連に接近する。さまざまな問題により、決して良い状態でなかった両政府の関係は、カティンの森事件の発覚により決定的に悪化する事となった。
東欧をドイツから奪取してきたソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とは別に、共産主義者による傀儡政権樹立を目指し、19447月下旬にポーランド東部ルブリンで傀儡政権(ポーランド国民「解放」委員会)を樹立していた。したがって亡命政府側主導の武装蜂起は、相容れるものではなかった。そのためワルシャワ蜂起は、ポーランド亡命政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の意図的な陰謀であったという説もある。最も、蜂起が始まった時点でバグラチオン作戦をほぼ終えていた赤軍は大きな人的・物的被害を受けており、また補給路も伸びきっていた事も事実である。南方でルーマニアを始め枢軸国を離反させる目的で行われたヤッシー=キシニョフ攻勢の影響もあり全兵力をもってワルシャワに進撃することも不可能だった。だが、そのような状況にあったにも関わらず、ポーランド軍に対してワルシャワでの蜂起を促すラジオ放送を積極的に続行するなど、ポーランド在住の指導部を壊滅させる意図があったと解釈されても仕方のない不自然な活動を行っている。また蜂起に際して各国が申し出た国内軍への様々な支援作戦を拒否、また援助活動に対しての妨害も行っていることはまぎれもない事実である。

参考文献 [編集]

·      ヤン・ミェチスワフ チェハノフスキ『ワルシャワ蜂起1944』梅本浩志 訳、筑摩書房1989
·      梅本浩志/松本照男『ワルシャワ蜂起』社会評論社1991
·      ウワディスワフ シュピルマン『戦場のピアニスト』佐藤泰一 訳、春秋社、2003
·      ヴォイチェフ ヤルゼルスキ『ポーランドを生きる』工藤幸雄訳、河出書房新社1994年。


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