天地明察  冲方丁  2013.4.16.


2013.4.16. 天地明察

著者  冲方丁(うぶかたとう) 1977年岐阜県生まれ。96年大学在学中に『黒い季節』で第1回スニーカー大賞金賞受賞でデビュー。以後、小説を刊行しつつ、ゲーム、コミック原作、アニメ制作と活動の場を広げ、複数メディアを横断するクリエーターとして独自の地位を確立。03年『マルドゥック・スクランブル』で第24回日本SF大賞、09年初の時代小説『天地明察』刊行、第31回吉川英治文学新人賞
7回本屋大賞、第7回北東文芸賞、第4回舟橋聖一文学賞、2011年大学読書人大賞

発行日           09.11.30. 初版発行           10.3.25. 六版発行
発行所           角川書店
初出 『野性時代』091月号~7月号に掲載

12.5.21. 角川文庫 初版発行

史実をもとにしたフィクション
徳川4代将軍家綱の治世、ある「プロジェクト」が立ち上がる。即ち、日本独自の暦を作り上げること。当時使われていた暦・宣明(せんみょう)暦は正確さを失い、ずれが生じ始めていた。改暦の実行者として選ばれたのは渋川春海。碁打ちの名門に生まれた春海は己の境遇に飽き、算術に生き甲斐を見出していた。彼と「天」との壮絶な勝負が今、幕開く――。日本文化を変えた大計画をみずみずしくも重厚に描いた傑作時代小説。第7回本屋大賞受賞作

登城の前に渋谷宮益坂の金王八幡の神社にお参り ⇒ 頼朝が金王丸を偲んで植えた桜や、3代将軍に家光が選ばれるよう春日局が参拝祈願し、その成就の折ご利益に感謝して造らせた社殿と門がある
算額奉納 ⇒ 算術の成果を報告する場として神社の絵馬が利用された
中に、「遺題」といって問題のみを書いて回答を促すものがあり、それに対する答えを奉納した際、合っていれば「明察」との札がかかる ⇒ 算術勝負/勝負絵馬
白粉(おしろい) ⇒ 京橋八丁堀のお化粧地蔵。地蔵に白粉を塗ると病気平癒の霊験
塩 ⇒ 江戸北辺の寺に頭から塩まみれの地蔵があり、その塩を足に塗るとウオノメが取れる
番茶 ⇒ 向島の弘福(こうふく)寺にいる咳除け爺婆(せきよけじじばば)″の石像に供えると風邪を引かない

渋川春海の職分は、碁をもって徳川家に仕える碁打ち衆四家の一員で、例年11月に将軍の前で御城(おしろ)を打つ ⇒ 登城を許された安井、本因坊、林、井上のみに許された勝負の場であると同時に、各家に伝わる棋譜の上覧の場
春海は12歳で4代将軍家綱の御前で碁を打ち、13歳で亡くなった父の後を継いで安井算哲を名乗る ⇒ 父は幼くして家康に囲碁の達者な子として見出され、囲碁をもって駿府に仕え、家光が見出した碁打ちを養子として跡取りとしたのが安井算知(さんち)、その後に春海誕生
碁打ち衆 ⇒ 信長、秀吉、家康に碁をもって仕えた本因坊算砂(さんさ)に始まり、徳川時代は寺社奉行の管轄下に入る。頭領である碁所
を碁打ち衆四家で争う(“争碁”)
碁が武士の教養とされている側面があり、政治的な根回しの場としても利用され、碁打ちの人脈は並の大名を遙かに凌ぎ、特に宗教勢力との接点が多かった
上覧碁 ⇒ 過去の棋譜を暗記したものを対局者と合意の上で打ち進める。将軍が疑問を口にすれば的確に応答する
春海の芸 ⇒ 碁、神道、朱子学、算術、測地、暦術
老中・酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清の命で、北極出地(測地の術の1つ。個々の土地の緯度はそこから見える北極星の高さに等しいところから、その計測をして緯度を確定すること。距離算出、方角確定の術)に出発
日吉(ひえ=日枝)山王大権現社 ⇒ 江戸城鎮護のため勧進された神社で将軍の産土(うぶなす)神。毎年6月の祭礼行列は壮麗を極め、神田明神の祭礼と隔年で御城に入り将軍へ上覧に供することが許されていた。碁会もよく開催された
寛文元年測地の旅に出る前に、宮益坂・金王八幡の算術の難題に悉く答えていた関孝和に問題を残したが、問題の作りかたを間違える
伊勢暦 ⇒ 伊勢神宮の御師(おし)たちが頒布
江戸では幕府公認の三島暦が一般的 ⇒ 伊豆の三島大社の河合家が編暦。頼朝に遡る
初の月食に出会うが、暦と2日ほどずれていることが判明 ⇒ 日本の暦が805年前に導入された唐の宣明暦に拠っているための誤差。従来は誤差が出るたびに改暦
春海らは、487日間かけて152回の天測を実施
寛文5年 山鹿素行『聖教要録』発刊 ⇒ 孔子の教えを基盤に、抽象的な朱子学を排し、道徳実践の論理を整然と説き、武士の生き方の基本とされたが、行き過ぎから赤穂に追放
算知が碁方に就任、本因坊道悦が勝負に名乗り出て、20番碁が命じられる ⇒ 上覧碁から勝負碁への転換
春海は、光圀に碁の相手をさせられる
北極出地が、会津守保科正之の意向であることを知る ⇒ 直接正之から碁の相手を命じられ、その場で改暦作業の打診を受ける
まずは、中国史上最高峰と誉れ高い授時暦の完全な修得、不断の天測、暦註の解読から
朝廷から勅令を出させて改暦作業を天下に認めさせようとするが、授時暦は元の暦ゆえ不吉だとして拒絶
宣明暦と授時暦の勝負
寛文9年 初の著書『春秋述暦』刊行 ⇒ 改暦の世論構築の初手
渾天儀完成 ⇒ 天測結果の集大成、天球儀、星座表
寛文10年 本因坊の後継者・道策との勝負に、正之の使った初手天元を打って負け、以後禁じ手とされた
寛文11年 妻こと逝去
寛文121215日満月の夜、宣明暦は月蝕の予報をするも起こらず、その誤謬が万人の目に明らかに。直後に保科正之の訃報、改暦を春海主導で実現させよというのが遺言
寛文13年 改暦の請願が幕府と朝廷に出される ⇒ 『欽請改暦表』
2年後に蝕の予報を外し、一旦はお蔵入りとなり、家光の25回忌法会の恩赦で山鹿素行が解放され、改暦について「もって嗤うべし」と切り捨てたことも打撃に
20番碁は、本因坊道悦の勝利となり、碁方の座は本因坊に譲位
春海も碁を打ち続けるが、道策に大敗が続く
和算の祖・関孝和も甲府の徳川綱豊に仕えていたが、改暦作業に召集がかからないまま授時暦を研究し、天測と数理のずれに気付き、挫折していた春海にその成果を示して、改暦作業の継続を煽る ⇒ その後、綱吉に実子がいないため甲府の綱豊を世子として、江戸城に住まわせたことから、関孝和も幕府直属の士として江戸城に勤めることになる
さらに5年後、家綱薨去、異母弟の綱吉が5代将軍になり、酒井に代わって堀田正俊が大老になったが、保科正之の業績が認められてその筋が復活、将軍も改暦に前向き
授時暦が作られた中国と日本の緯度の差とともに、地球の公転の動きが一定でなく、楕円を描いていることを突き止めると同時に、400年前に近日点と冬至を一致させて作られた授時暦が6度も誤差が発生していることを明らかにし、関の助言もあって、「大和暦」と命名される
春海44歳の時、朝廷自ら改暦に動き出し、陰陽頭(かみ)たる土御門家が行うことが決められるが、土御門家から春海に参加要請が来る ⇒ 土御門家の当主・泰福が春海に頼って改暦を進める。翌年改暦の詔発布され、採用されたのは賀茂家が中心となって立てた民代の官暦である大統暦
春海は、都で天測を開始、北極出地を言い当てて余の瞠目を集めるとともに、幕府の後援を得て大和暦に基づく頒暦を実行、その実績を基に4度目の改暦請願を行う
改暦の詔発布後僅か7か月で、大和暦採用の詔が出る ⇒ 年号を取った「貞享暦」との勅命を賜り、翌年からの実施が決まる
春海は、幕府に新設された天文方として後を見守る



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200px-Terrestrial_Globe_and_Celestial_Globe_17th_century_Japan渋川 春海(しぶかわ はるみ、しぶかわ しゅんかい、寛永1611316391227正徳51061715111))は、江戸時代前期の天文暦学者囲碁棋士神道家。幼名は六蔵、は都翁(つつち)、は春海、順正、通称は助左衛門、号は新蘆、霊社号は土守霊社。貞享暦の作成者。姓は安井から保井さらに渋川と改姓した。
生涯 [編集]
(上)渋川春海作の地球儀。1695年製。(下)渋川春海作の天球儀。1697年製。ともに重要文化財。(国立科学博物館の展示)
江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。慶安5年(1652)、父の死によって二世安井算哲となるが、当時13歳であったため、安井家は一世算哲の養子・算知が継いで、算哲は保井姓を名乗った。そして万治2年(1659)に21歳で幕府より禄を受け、御城碁に初出仕、本因坊道悦に黒番4目勝ちした。この後、算知、弟の知哲、算知の弟ともいわれる春知などとともに御城碁に出仕する。延宝6年(1678)に本因坊道策碁所に任じられた際には、これに先の手合、上手並み(七段)とされた。
テキスト ボックス: 墓所 品川区200px-Grave_of_SHIBUKAWA_Shunkai数学暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に、垂加神道山崎闇斎に、土御門神道土御門泰福に学んだ。当時の日本は貞観4年(862)によりもたらされた宣明暦を用いていたため、かなりの誤差が生じていた。そこで21歳の時に中国授時暦に基づいて各地の緯度を計測し、その結果を元にして授時暦改暦を願い出た。ところが、延宝3年(1675)に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下された。春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には里差(今日でいう経度差)があり、「地方時」(今日でいう時差)や近日点の異動が発生してしまうことに気づいた。そこで、授時暦に通じていた朱子学者中村惕斎の協力を得ながら、自己の観測データを元にして授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成した。春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、京都所司代稲葉正往の家臣であった谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、春海の暦法を根拠のないものと非難して授時暦を一部修正しただけの大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう。これに対して春海は「地方時」の存在を主張して、中国の暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張した。その後、春海は暦道の最高責任者でもあった泰福(やすとみ)を説得して大和暦の採用に同意させ、3度目の上表によって大和暦は朝廷により採用されて貞享暦となった。これが日本初の国産暦となる。春海の授時暦に対する理解は同時代の関孝和よりも劣っていたという説もある[1]が、惕斎のような協力者を得られたことや、碁や神道を通じた徳川光圀や泰福ら有力者とのつながり、そして春海の丹念な観測の積み重ねに裏打ちされた暦学理論によって、改暦の実現を可能にしたとされている。
この功により貞享元年121168515)に初代幕府天文方250石をもって任ぜられ、碁方は辞した。以降、天文方は世襲となる。
囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめて、太極(北極星)の発想から初手は天元碁盤中央)であるべきと判断している。寛文10101716701129)の御城碁で本因坊道策との対局において実際に初手天元を打っており、「これでもし負けたら一生天元には打たない」と豪語した。しかしこの対局は9目の負けに終わり、それ以後初手天元をあきらめることとなった。
貞享3年(1686)、春海は幕府の命令で京都より家族とともに江戸麻布に移り住み、元禄2年(1689)に本所に天文台の建設が認められた。1690年、52歳の時、日本で最初の地球儀(直径25センチメートル)を造った。1697年にも直径33センチメートルの地球儀を作っている[2]元禄5年(1692)に幕府から武士身分が認められたことにより、蓄髪して助左衛門と名乗り、元禄15年(1702)に渋川に改姓した。これは、先祖が河内国渋川郡を領していたが、播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためである。元禄16年(1703)、天文台は更に駿河台に移された。著書に天文暦学においては『日本長暦』『三暦考』『貞享暦書』『天文瓊統』、神道においては『瓊矛拾遺』がある。改暦の際に「地方時」の存在を主張したように、彼は中国や西洋では地球が球体であるという考えがあることを知っており、地球儀をはじめ、天球儀渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器を作成している。
後に嫡男である昔尹に天文方の地位を譲ったが、正徳5年(1715)に昔尹が子供のないまま急死すると、春海も後を追うように死去した。渋川家と天文方は春海の弟・知哲の次男敬尹が継承した。法号は本虚院透雲紹徹居士。墓は東京都品川区東海寺大山墓地にある。明治40年(1907)に改暦の功績によって従四位が贈位された。平成24年(2012)、第9囲碁殿堂入りが決まる。
渋川春海が登場する作品 [編集]
小説 [編集]
·        名人碁所(江崎誠致
·        算聖伝(鳴海風
·        和算忠臣蔵(鳴海風)
·        天地明察冲方丁
映画 [編集]
·        天地明察2012角川映画/松竹、演:岡田准一V6))

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