三和銀行香港支店  立石泰則  2013.4.1.


2013.4.1. 三和銀行香港支店

著者 立石泰則 1950年北九州市生まれ。中央大大学院法学研究科修士課程修了。経済誌編集者、週刊誌記者等を経て、88年独立。現在フリー・ジャーナリスト
『覇者の誤算』(日本経済新聞社、第15回講談社ノンフィクション賞)

発行日           1997.5.26. 第1刷発行                97.6.23. 第2刷発行
発行所           講談社

三和銀行香港支店の30年を超える歩みは、日本の銀行が初めて香港で経験した自由な社会でのビジネスの実態、その苦闘の歴史に他ならない。当然、三和銀行香港支店には、30年の試行錯誤のノウハウとして蓄積されているであろう。つまり、いま改めて三和銀行香港支店の30年を振り返ることは、そのノウハウの一端を明らかにすることであり、香港進出を計画している企業にとっての1つの、それも重要な参考例となろう

プロローグ
完全に自由化された社会とは、誰にも想像がつかないのが現実
どこにも完全に自由化された社会など存在しないが、その中で最も自由化された場所といえば「香港」 ⇒ アジアの流通センターであり金融センター。そこで巨大な影響力を持つのが金融市場の6割の資金を抑えるという日本の銀行。その中でもダントツトップが三和
三和の香港でのローカルビジネスの成功は、見知らぬ土地での30年を超える試行錯誤の結果だろう。その歩みを通じて、自由化された社会の現実の姿、赤裸々な姿を見ることこそが本書の目的

第1章        香港支店開設
1964年ロンドンから香港に来たのが入行7年目の雑賀正平。昇格も遅れ、都落ちの転勤とあって、妻も不服。支店長が福田博臣、次長が橋本昭、代理が白川保雄、下山栄一、書記が近藤智和、斎藤俊実。いきなり水飢饉の洗礼を受ける(4日に一度2時間の給水)
日系銀行では東銀、住友に次ぐ進出。東銀のローカルビジネス進出に感心
国際部門を牽引していたのは村野。香港を将来の「アジアの国際金融センター」と見越して、現地の進出許可を取り、大蔵省に申請 ⇒ 台湾事務所の支店昇格は勧銀に譲る
日本の支店と同様、預金のボリュームを目標とする支店長に雑賀は異論を唱える
支店開設直後、地元の大手商社が倒産。日系相手のビジネスに集中
香港政庁が、三和の後の邦銀の進出許可を、以後10年に渡って凍結したため、寡占状態
65.1.恒生(ハンセン)銀行取り付け騒ぎ、香港上海銀行が肩代わりするのを目の当たりにして、銀行倒産の現実を見る

第2章        「南下作戦」
支店の無くなった台湾ビジネスをカバーするため、シスコ、ニューヨーク勤務を終えた三輪次郎が台湾の第一商業銀行に赴任。その後韓国に滞在、69年にはインドネシアへ
70年本部に「東南アジア班」発足
中国に触手 ⇒ 香港の2代目支店長・田附が地場中小銀行13行に接近
三輪は、次の狙いを中国に定め、広州交易会への参加を画策するが、その頃香港支店では中国銀行香港支店に接触、口説き落として広州交易会への招待に目処をつける。三輪は、シンガポール事務所開設、次は中近東行きを命じられたところで、中国銀行からの招待状が届き、7110月に山本香港支店長と共に出席
日中貿易の決済の取り込みを目論み、中国側から提示された円元決済方式を検討、LT貿易の後を継いだ岡崎嘉平太事務所を通じ、ポンド・元決済のレートをもとに1=135.84円の固定レートを提示したが、具体性に欠けると一蹴される
72.3. 中国銀行から村野宛に招待状届く ⇒ 住友も一緒にというコメントがあり、浅井頭取と一緒に訪中する約束をしたところ、住友にも別に招待状が来て、浅井が先に単独で訪問したが、決済問題では全く話が進展せず、浅井は話が出なかったとうそぶく。それでも村野は、円元決済の腹案もなしの訪中は無意味だとして、首相の座を争っていた田中角栄に根回しに動き、全面的な賛同を得て6月訪中。同行は田附外国部長、神田延祐調査部長、三輪調査役。618日香港へ向け出発、前日台風で香港支店の派遣行員が土砂崩れで死亡、さらに英ポンドが交換停止、欧州為替市場が一時閉鎖の中、広州からプロペラ機で北京へと向かう。初日の歓迎宴で、いきなり中国銀行総経理から決済問題を持ち出され、村野もそのために来たと応じる
4日間の交渉の結果、固定レートによる両通貨建ての決済に合意、覚書への調印は大蔵省の許可を取ってからとし、帰路杭州で観光中に、田中が総裁選で勝利 ⇒ 3か月後に首相として訪中、国交正常化が実現。円元決済の大蔵省認可は、結局次の東銀原頭取(大蔵OB)の訪中まで出ず ⇒ 直後に米中関係が進みドル決済がとって代わる
10年後、北京に邦銀が事務所を開設する際、東銀、興銀に次いで、市中銀行中トップで認可したのは三和 ⇒ 円元決済を実質まとめたのが三和だったことを評価した結果

第3章        香港ビジネス
73.1.為替管理規制の完全撤廃を始めとする香港政庁の自由化促進政策もあって、日系企業の香港での商売が進展する中、日系の取引先を通じて地場企業に関する情報も集まるようになり、6代目支店長・橋毅の頃に本格的にローカルビジネスに進出
宮崎衛夫(大阪外大インドネシア語科)が先兵。4代目支店長・井上正彦の75.5.赴任、78年初から地場の新規担当、次長の室町鐘緒が一流どころを担当
79YK.パオのワールドワイドシッピングに船の建造資金として50億円の円建て融資の話 ⇒ 本部勘定で条件提示をした直後に立て続けの金利引き上げがあり、資金枠もきつくなったところから、融資提案を撤回しようとしたためトラブルに。ハードネゴの結果、三和が資金枠を工面して融資を実行したが、造船所が倒産して船の建造そのものがご破算となったため、融資は一括して回収し事なきを得た
中小企業以下を相手に日本同様のどぶ板外交で新規開拓に突き進んだのは堤和雄 ⇒ クレディ・スイスにトレーニーに行った後78年赴任。支店長は5代目の加藤明雅
稟議を上げても、国際本部次長の中村政照は財務諸表もない内容に面食らう
何度も詐欺まがいの事故に遭いながら、実地で学んでいった

第4章        2度目の香港
81.6. 雑賀が7代目の支店長として2度目の香港勤務へ ⇒ 在来ビジネスの競争激化で低下する一方の収益をカバーするため、中国ビジネス開拓に着目
前任支店長時代に外交担当の次長・清水幸次が出入り業者のキャリアンから20百万米ドルの預金を獲得、さらに5百万ドル上乗せしたところで、信用貸しの話が持ち込まれる。本部を楯に両建てに持ち込み、預貸同額になったところで相殺して取引解消
雑賀が赴任して、キャリアンとの取引を進めるべく自ら相手を確かめよう
とするのを、相手に疑心暗鬼だった次長の瀬上が留める
優良親密取引先がキャリアンに買収された際には、取引を全額引き揚げ
82年サッチャーの訪中を機に97年の香港返還問題が協議され、香港の不動産価格が急落、債務超過となったキャリアンは倒産
瀬上は、香港赴任前、商社マンだった父親から、香港の投機的な動きに気をつけろとの忠告を聞いていた
雑賀は、支店の転居に際し、ビルの買収を目論む ⇒ 悩む雑賀に、エコノミストの望月高世が、たかが40億円のこと、無価値になった時は支店の資産そのもののほうが危機に晒されているはずで、そちらの心配をすべきといって決断を後押しする。国際本部長・井上正彦の支援もあって海外支店初の物件買収に成功 ⇒ 83.3.新オフィスオープン、女子行員には日本と同じ森英恵デザインの制服を着せる
83.12. 邦銀のトップを切って深圳の経済特区に事務所開設

第5章        中国市場へ
83.3.華潤ビル出張所開設。中国ビジネスへの本格参戦。初代所長は渡辺博。東外大から12年ぶりに採用、専門が中国語、将来の香港支店要員だった。7279年香港勤務。82年再び中国ビジネス開拓の先兵として赴任。早々に深圳事務所開設の準備に取り掛かる
86.5. 深圳支店昇格も邦銀初
以後香港支店長は、吉水信二、福澤睦夫、安福具弘、鈴木征夫、木田祐巨と続く










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