戦時下のベルリン  Roger Moorhouse  2013.2.27.


2013.2.27. 戦時下のベルリン 空襲と窮乏の生活1939-45
Berlin at War          2010

著者 Roger Moorhouse 1968年英国生まれ。ロンドン大とデュッセルドルフ大で学ぶ。中央ヨーロッパ史と現代ドイツ史、とりわけヒトラーと第三帝国を専門とする歴史家で、BBCの『ヒストリー・マガジン』と『ヒストリー・トゥデイ』に定期的に寄稿するほか、『インデペンデント・オン・サンデー』の書評、テレビとラジオのコメンテイターも務めている。恩師は『ワルシャワ蜂起1944 上下』のノーマン・デイヴィスで、共著もある
本書は、優れた歴史ノンフィクションに与えられる「ヘッセル=ティルトマン賞」の最終候補になった

訳者 高儀進 1935年生まれ。早大大学院修士課程修了。翻訳家。日本文藝家協会会員

発行日           2012.11.15. 印刷             12.10. 発行
発行所           白水社

ベルリンは第2次大戦で恐怖を直に体験した、ヨーロッパでごく少ない首都の1
死傷者は20万人で、非戦闘員の死者はドイツのどんな都市よりも多かった
にも拘らず、戦時下のベルリンにおける市民生活の話は書かれていないまま
専制政治の下で生きるドイツ人が受ける挑戦、強いられる妥協、ある場合には捨てねばならなかった信念について、われわれはほとんど何も知らない
ドイツの首都は、ナチにとって当然の地盤では決してなく、ベルリンには左翼の伝統、活気あるユダヤ人社会、コスモポリタン的エリートが存在していた。その結果ベルリンでは、ドイツの他のどんな都市においてよりも、あらゆるレベルでナチに反対する機運があった
ベルリンは、少数の活動的なナチと、活動的な反ナチが、どっちつかずの大衆の両端に存在していた都市だったのである。そうした大衆は、ただ単に、保身、野心、恐怖に動かされた場合が多かった、少なくともこの点で、戦時下のベルリン市民は、我々が認めようとするよりもずっと多くの共通点を、我々と共有していたという印象を受ける

プロローグ――「総統日和」
1939.4.20.() 「総統日和」として知られる晴れた日の朝、ヒトラーの50歳の誕生祝を祝う催しが予定
政治上の同僚や崇拝者からの高価な贈り物に加え、普通のドイツ人から無数のささやかな贈り物ももらった。鉤十字が刺繍してある枕と毛布、手芸品、巨大なケーキ、菓子と地元の珍味。「狂信的で、敬慕する女の如何に多くの思いが、この手芸品に織り込まれていることか」
直前にチェコを占領、リトアニアの一部も併合し、国力はまさに頂点にあった
完全雇用が実現し、平和で豊かな国

第1章        総統に対する信頼
1939.9.1. 他の日と同じように始まる。7時に臨時ニュースでポーランド侵攻が告げられ、学校に行くと休日となり帰された。
ヒトラーは、33年の悪名高い放火事件で焼失されたまま放置されていた議事堂に代わって議会に使われていたクロール劇場(1844年建立、5千人収容、333月屈服した議会が「授権法」を通し議会の同意なしにヒトラーに立法の権限を与え、独裁が始まった、議長はゲーリング)に向かい、開戦の理由を説明
街には1914年の興奮はもちろん、熱意も歓喜も喝采もなく、陰鬱とは言わないまでも、重苦しい静寂がいたるところで支配、ラジオのニュースに対しても通りの人々はいつも通りで、無感動だった
ドイツの病の根本原因だった徹底的な戦争は避け、いつも戦争の一歩手前で踏みとどまり、ドイツの名誉を回復し、卓越した強国としての地位を回復してくれたヒトラーに、今回も同じことを期待した
8月末に導入された配給制に基づき、初めての配給切符が配布され、多くの市民は必需品の買いだめに走る
同日夜、初めての空襲警報が鳴る ⇒ 爆弾は落ちず、すぐに解除
311時を時限とする英国の最後通牒が発効して英独が開戦状態に ⇒ 号外が出ても受け取る者はほとんどいなかった
10月初めのポーランド併合完了で、市民の間には和平への期待が広まり、広くドイツの大衆の心の琴線に触れたのは明らかだったが、ヒトラーの演説によってすぐに期待は萎んだ

第2章        必要不可欠
開戦初日に灯火管制の条例発布、7時以降は市内が真っ暗に ⇒ 最大の危険は罰則ではなく、交通事故や列車の衝突、犯罪の急増、道徳的頽廃、飲酒や快楽追求
最大の犯罪は、1人の鉄道員の犯した8件の殺人、6件の殺人未遂、31件の強姦
43年に使用可能になったレーダーの開発で無意味になった後も管制は続けられたが、末期には守られなくなっていた

第3章        用心深い楽観論
日常生活への実際上の変化は僅か ⇒ スポーツや娯楽は通常通り
他の都市のどこよりも政治的抗議の再燃が目立ち、反ヒトラーのスローガンが落書き
最初のクリスマスは、大衆の士気高揚に利用されたが、実際は強制された陽気な気分と意気消沈の混合。伝統的なクリスマスのご馳走である鯉は大多数の手には入らなかった
熱心なナチ支持者は冬至祭を祝い、クリスマスでもキリスト教的内容を抹殺
4月のデンマーク・ノルウェー、5月のベルギー、6月のダンケルク・フランスと相次ぐ陥落で群衆は熱狂したが、市民の士気は上がらず、終戦への期待でしか気持ちが和らぐことはなかった
40.8.英空軍のベルリン夜間空襲開始と共に、僅かな楽観論も霧消
41.6. ヨーロッパの防衛を大義としたソ連侵攻により、戦争状態が再燃

第4章        腹が減っては戦はできぬ
40.1.1. ヨーロッパ史上最悪の冬となり、-20℃が続く異常低温で河川が凍結。緊急の課題は石炭不足。次いで牛乳と伝統的な非常食でもあったジャガイモの欠乏
厳しい配給制は、窃盗事件を増やす。占領地フランスから贈られてきた高価なものは、食糧との交換に活用され、多くの農夫の妻が贅沢品をたくさん持つことになった
闇市も横行したが、ナチのエリートのための施設は例外で、ナチ体制の上層部の貪欲さが、戦時中の最も悪名高い堕落のケースの1つを生んだ
配給制度が辛うじて維持されたこともあり、戦時下のベルリンではだれも飢え死にはしなかった

第5章        石になった残忍性
41年秋巨大な「思い負荷物体(通称”)」出現 ⇒ 高さ14m、直径21m、地下18m、重さ12600tのコンクリートの塊。フランス人捕虜が作る。基盤の表面100㎡の測定装置で、地盤がどこまで重さに耐えられるかを正確に計測し、首都を1920年代初めの都市再開発計画「ゲルマニア」に生まれ変わらせる試験台となるもの
ヒトラーは再開発計画に飛びつき、自らスケッチを書き、エジプトやバビロンのような巨大な公共建築物を新しいドイツの象徴にしようとした ⇒ バルト海沿岸の保養地プローラからアルプス山麓のゾントホーフェンのSS養成所に至るまでの大規模な建築計画だったが、特にベルリンは特別な重要性を持ち、新しいローマにしようと考えた
空軍省 ⇒ 250m7階建て、新古典主義とアール・デコの奇妙な組み合わせ
オリンピック・スタジアム ⇒ 36年ベルリン大会用、ナチの象徴として役立てる
5月広場 ⇒ オリンピック施設の一部、25万人収容。政治集会の舞台として企図
テンペルホーフ空港 ⇒ 空軍省と同じザーゲビールの設計
シュペーア ⇒ 1905年生まれ。30年ナチ入党。33年宣伝省本部となったレオポルド宮殿の改装が始まり。ヒトラーはシュペーアに自分の芸術家としての姿を見、シュペーアはヒトラーの「天才」に心酔。ヒトラーのケチな嫉妬心と一歩先んじようとする気持ちをうまく先取りして取り入る
ヒトラーの巨大好みには、実質的で哲学的な何かがあった ⇒ 後世のため、1000年の未来に残るものとして構想、シュペーアもそれに応じて、38.1.建築総監督官(閣外大臣相当)のポストにつき、新し建築計画を発表、国内での反応は熱狂的なものとなった
捕虜を動員、古い建物は爆破、強制立ち退きで追われた市民のためにユダヤ人の家が徴集された
ユダヤ人の強制移住は38.9.から開始、みすぼらしい地区に「猶太人住居(ユーデンホイザー)」が生まれ狭い部屋に多勢が押し込まれた ⇒ 実質的なゲットーで、41.10.からポーランドのウーチに向けた移送が始まる
結果的にヒトラーの計画は挫折し、巨大な「茸」は風雨に晒され、1人の男の誇大妄想の黙せる証人としていまだに建っている

第6章        歓迎されざる異邦人
強制労働者/奴隷労働者=正式名称は「外国人労働者」 ⇒ 戦時中ドイツに連行され、軍事産業複合施設等で働かされた外国人は6百万以上。40年に志願労働者として始まった制度だが、需要に追い付かなくなって42年には強制的な手段に訴え、ドイツ戦時経済の礎石として使役された
外国人収容施設に収容され、賃金も幾らかは払われ、配給もドイツ人労働者と同等に割り当てられたが、権利や給付は建前であることが多かったものの、強制収容所とは雲泥の差
すべての外国人労働者は、ドイツ経済にとって極めて重要だったが、ヒトラーのドイツに東欧からの労働者(いわゆる「東労働者(オストアルバイター))がいるというだけでも、人種偏見と特異なイデオロギーを持っていたナチに侮蔑的なことであり、規制で縛り捕虜に似た地位に置かれた 
強制労働者を個人的に雇って面倒を見た人や、有刺鉄線越しに食べ物を与えたり、生活環境の向上に奔走した市民もいた
外国人労働者による犯罪もあって怖がられてもいたが、敗戦が近づくにつれ、首都にいた強制労働者がドイツ人市民にとっては恐怖の的になるも、事実はもっと平凡で、ドイツ人に復讐しようと思っている者は少なく、望郷の念の方が強かった

第7章        予兆
40.8.小規模だが、英空軍30機による爆撃があり、被害は僅少だったが、市民の士気への影響はかなり大きく、漠然とした不安を掻き立てた
翌月にはベルリンに19回、10月にも14回の空爆があり、最初の内はナチの誇る高射砲部隊も役に立たず、市民に死傷者が続出。防空壕の設備やそこでの生活は千差万別
空中戦の初期段階では、市民の最大の危険は、爆弾よりも味方高射砲弾の破片
ベルリンは不死身であるという見せかけは、どんな損傷でも「屋根と窓修理班」によってすぐに修理されたため本当のことのように思えた
爆撃の被害を見ようとする好奇心に溢れた市民が集まり、次第に日常生活と化した爆撃に慣れていった

第8章        忘却の彼方へ
41.10.迫害されてもまだ市内に残っていたユダヤ人が贖罪の日(ヨム・キプール)の休日を祝う ⇒ 前月から「ユダヤの星(ユーデンンシュテルン)」制度が導入され、外出の際は黄色い「ダヴィデの星」の着用が義務付けられた。休日の夜国外への強制移送開始
追放手続きだけでも悲惨だったが、苦難を生き延びた先にはさらに劣悪な環境が待っていた。生き延びた者は幸運で、まとめて銃殺されたケースもあった ⇒ 次第にエスカレートして、殲滅収容所送りになり、さらにトレブリンカではガス室が開発された
市民の何人がホロコーストを知っているか。噂はあった。ゲットーから郵便で故国の友人や親族に伝えられた。多くの市民にとって、たとえ真実を知ったとしても信じるのは難しかっただろう
反ユダヤ主義も重要な役割を果たす ⇒ 連行されるユダヤ人を悪意を持って見ていた市民も少数だがいたのは間違いないが、大多数は無関心
没収されたユダヤ人の財産は、ナチがくすねた貴重品は別として、アーリア人の戦争被害者のために使われた

第9章        悪の育成
ベルリンのアンハルター駅は、市民の誇り、ドイツ産業の高い能力、19世紀の驚く程に速い社会的、経済的発展の象徴。1841年使用開始。「世界への門」となったが、戦争の進行とともに一般市民にとっては、首都からの子どもの疎開と同義語となる ⇒ 疎開は重要な2つの暗黙の了解を含んでいた。①主要都市部の防空は市民を守るのに不十分だったこと、②英国を破るのは簡単ではなく、戦争が長期化すること
40.10.疎開の計画が発表され、ベルリンとハンブルクから3千人の児童が田舎に送られ、最終的には5百万人以上が動員された
厳しい環境下で、強烈な郷愁に襲われた ⇒ 受け入れ先によって待遇はまちまちだったが、仲間内のいじめは放任。疎開から戻ってきたときには、恐怖の町に変わっていた
駅は44年秋には機能をほとんど停止し、452月米空軍の爆撃で修理不能に

第10章     民衆の友
ヒトラーは、芸術の前衛は激しく憎んだが、いくつかの現代的なものは熱烈に信奉 ⇒ 33年の国会選挙の際飛行機で全国遊説をしたのもその1つ、「現代」と最も密接に結びついているナチの特徴はラジオで、ヒトラーは政治的手段として利用する方法を完成させた
33年初め、まだ贅沢品と考えられていたラジオの受信機の生産に補助金を出し「国民受信機」を開発 ⇒ 従来の半額で売り出されたが、労働者の2週間分の賃金に相当
ラジオを聞くことが家族内の行事とされ、さらに安い機種が開発
オリンピックで爆発的に行き渡る
ナチ体制が新しく課した制約と新たな指示を交付する主な手段としての利用のほか、最高司令部からの毎日の状況報告も行われた
一方で、39.9.以降外国放送を聞くのは、偽りの情報によって士気に影響を及ぼすとして禁止された
38年に始まったBBCのドイツ語放送は、多くのドイツ人により自国の放送より高く評価
音楽番組が多く、軽い娯楽と気晴らしになったほか、爆撃を知らせる緊急放送にも使われ、多くの民間人の命が救われた

第11章     監視する者とされる者
ゲシュタポ(=秘密警察)は、ナチ体制の中心にいた ⇒ 33年に設立され、国家保安部の傘下で、政治警察隊としてナチ国家にとって危険または有害と見做されるすべての活動を取り締まった。通常の容疑者である社会主義者、共産主義者、ジプシー、ユダヤ人以外にも、自由主義者、フリーメイソン会員、「政治的カトリシズム」、破壊活動、贋造等も対象とし、しばしば法律の外で活動することが許された
ベルリンにいたゲシュタポは、最盛期でも工作員とスパイ併せて800に満たなかったので、情報源を4つに頼る ⇒ ①正規の警察からの通報、②「街区監視員」という数十人の家庭思想を監視するナチ党の下級の役人、③V(ファウ)マンと呼ばれた民間の自主的な密告者(「腹心の友」の略)、軽微な犯罪を犯した者で、今後「協力する」約束で収容所から早く釈放された、④非公式の多数の民間人密告者で、首都の人間関係の相対的な悪化から生じたように思われる

第12章     執拗な影
市内の最も有名な埋葬地のインヴァリデン墓地(軍人墓地)埋葬者が増えていく ⇒ 42.6.暗殺されたSS上級指導者ハイドリヒの国葬が頂点、SS隊員の墓地「死の森」に移されるまでの仮埋葬だったが、45年ドイツの崩壊まで放置され、墓標すらなくなった
戦死者のうち、上級者は遺体が本国に戻されたが、一般には倒れたところに放置され、通知(上級将校や連隊付き牧師からの手紙の形式が多かった)だけが遺族に届く
死亡広告が流行ったが、それが悪用されて遺族がたかられるケースもあった ⇒ 次第に死亡広告から「総統のために」という文言が消え、より政治的なものになったので、ゲッペルスは1日最大10の広告しか出せないよう制限した
43年に東部戦線の流れが変わると、戦死者の記録すらおぼつかなくなり、「行方不明者」が急増
伝統的に3月に催された「戦没将兵記念日」の恒例の行事も、ヒトラーになってからは兵士の犠牲に対する国民の誇りと、軍事的ヒロイズムの美化を強調するものに変わった ⇒ イデオロギーの中に豊かな死の文化を持っていた
ユダヤ人の墓は、ヨーロッパ最大のものが1カ所だけ残った

第13章     国賊
市の真ん中にあるルストガルテン「遊歩庭園」は市民の憩いの場だったが、42.5.にボリシェヴィキのもとの暮らしのおぞましさを市民に肝に銘じさせるための展覧会「ソヴィエト天国」開催、共産主義者のレジスタンス・グループが抗議の放火、ユダヤ人の共産主義者が多勢逮捕・処刑された
放火の4日後に親衛隊大将のハイドリヒ暗殺
ベルリンは、第3帝国に対する抵抗の中心 ⇒ 伝統的に左翼の強い土壌で、ナチが大躍進した時でも、ベルリンのナチが獲得した投票数は合計の1/3以上には達しなかった
左翼の伝統のほかに、首都に惹きつけられた多くの知識人、弁護士、政治家の多くはナチ体制に反対 ⇒ ナチが既成の法的、道徳的原則を度外視することへの基本的な反対
ナチズムに対するベルリンの筋金入りの反対勢力は共産主義 ⇒ 独ソ提携で混乱したが、41年夏以降は武器を取って産業と軍事の標的に対する破壊行動に立ち上がるよう呼びかけたが、42.5.の大量逮捕以後は戦線が縮小
キリスト教徒も活動的 ⇒ 最も有名なものは、国教のプロテスタント教会のナチ化に抵抗して生まれた「告白教会」。「ゾルフの会」も36年に結成された抵抗する聖職者の集まり
首都の組織化されたレジスタンス・グループにとって不愉快な真実は、普通のレベルの市民がナチ体制に命をかけて反対する気持ちにはなっていなかったことで、無抵抗だった
ナチ体制は、社会政策とプロパガンダの巧みな利用によって、少なくとも名目的な大衆の支持を維持することにも極めて長けていたので、ナチに対する「抵抗」は眉を顰めるものにしか過ぎなかった
市民レベルのささやかな抵抗には、ナチ式挨拶「ハイル・ヒトラー」を拒否したり、公共建造物への落書き、反戦のリーフレットの配布、掲示板等への「1918」の記載(ドイツが第1次大戦で敗北した年、不安と崩壊、反乱の象徴として市民の誰もが理解した数字)、「スウィング・キッズ」運動への参加(ジャズに熱狂するダンスクラブとして若者を集めた)
44.7.20.「ヴァルキューレ作戦」 ⇒ 職業軍人で国防軍大佐のシュタウフェンベルクが、戦傷による療養中にナチの人種政策と戦争の無謀なやり方に嫌悪感を抱いて計画したものだが、純粋な軍事クーデターで、市民は蚊帳の外。一時ラジオはヒトラーの死を伝えたが(クーデター側の発表?)、夜無傷だったことが裏付けられる
371ページ ミスタイプ 「1924.7.20.開始」
関係者の捜査と尋問が始まったが、大部分の者にとっては、無関心、安堵感が主たる反応

第14章     逆境に立ち向かう
43.2.首都に残っていたユダヤ人の一斉逮捕が始まり、ユダヤ人会館が鮨詰めに ⇒ ユダヤ人配偶者を勾留されたアーリア人の市民約千人(大半が中年の女性)が押し掛け抗議の声を上げたため、12週間で1800人が釈放された。第三帝国のど真ん中で大衆の抗議行動が行われた点は瞠目に値。同時に8千人がアウシュヴィッツに移送されたのをカモフラージュするためという話もある
アウシュヴィッツに向かう家畜車に乗る以外の唯一の道は首都のアーリア人の世界の表面下に潜ること(「潜水夫」、「Uボート」) ⇒ 銃後の世界では戦争の進行状況についてほとんど何も知らされず、まだナチが上り調子の時に不気味な未来に向かって「潜る」決意をするのは、法を破るのはもちろん、大変な決断のいること。自分の過去を捨て、国外追放になった同胞を諦め、大事なものすべてを捨てることを意味した。43.2.の前記事件以降1万人以上が地下に潜る
かなりの数のアーリア人が大きな危険を冒し、自宅に逃亡ユダヤ人を匿った ⇒ 聖職者も多数いた
ユダヤ人の病因が1つだけ存続を認められたので、重病になれば収容されたが、回復すれば国外追放になって命を落とした ⇒ 45.4.赤軍に解放された時、解放者はすべて殲滅されたはずのユダヤ人を見つけて仰天した

第15章     因果応報
41年春以降2年ほど途絶えていた英空軍による爆撃が43.3.に再開、市民に衝撃を与える
火は丸3日間首都を焼く ⇒ 人的・物質的損害より、士気の喪失が大きかった。ドイツ空軍の能力に対する一般のドイツ人の信頼がひどく低下
43年はまだ、3月以降は春と夏に各1回の空爆があっただけ
43.7.ハンブルクへの連日の集中的空襲は、英空軍が開発したレーダー妨害装置が効いて防衛体制が完全に麻痺、4万人以上の市民が焼死し、全土にショックを与えた
43.11.ベルリンへの本格的な空爆開始 ⇒ 集中的で潰滅的、日常茶飯事となり、2月末まで継続。324日でベルリン攻撃は終わったが、44年に始まった米軍の中間空爆も併せ、昼夜を隔てず150回以上にわたる
市民は自宅の地下室で耐えた。公共の掩蔽壕は規律も秩序もなく人気がなかった
恐怖が支配的な感情で、「それに慣れる」ことなどできなかったし、空襲の凄まじい不協和音も耐え難かった
爆撃で家を失った者には、福祉機関が避難者の住む場所を提供することになっていたが、野外炊事場で食べ物をもらったあとは、自分の破壊された建物の間で暮らす方を好んだ
空襲で行方不明になった者の捜索も優先事項
政治的忠誠心が薄れた代わりに、他の忠誠心が生まれた ⇒ 最初は、「なんと言ったってわが祖国だ」というもの、次いで大家族や地域単位での自助共同体の組織網での連帯感

第16章     狂気の果て
43.2.スターリングラードの敗北直後、ゲッペルスがベルリンで最も悪名高き大演説を通じ、ボリシェヴィズムから全西欧を守るための総力戦へと鼓舞、会場全体を集団ヒステリーの狂乱状態に陥れる

第17章     ゴーストタウン
45.4.20.ヒトラー56回目の誕生日。ソヴィエト軍がベルリン市外のドイツ防衛戦を破る
一般市民は、幻滅感から、または自己保存本能から、ナチ体制から距離を置き始めた
ソヴィエト軍との戦いを準備
大半の市民は、電気もガスも水道もないゴーストタウンで無為の生活を強いられる
危険はあったが、忍耐心と決意と要領の良さを持っている者には首都で食料を手に入れることは出来たし、郊外ではパン屋と食品雑貨店が正常に近い状態で商売をしていた
ドイツ人の心胆を寒からしめた音は、ソヴィエト軍の多連式ロケット・ランチャーの「カチュ-シャ」が発射された時の吠えるような音で、「スターリンのオルガン」として知られた
ドイツ兵に代わってソヴィエト兵が到着 ⇒ 時計を奪い、強姦の集団
45.5.2. ベルリン防衛軍司令官ヴァイトリング将軍が戦闘中止を市民に次げた ⇒ ラジオが放送を中止していたので、口伝えと拡声器を乗せたトラックによって伝えられ、市民は地下室から這い出してきた
多くのベルリン市民が一番思い出すのは、突如辺りが静まり返ったことで、平和ではなく、戦争が行われていないということを感じていた ⇒ 悪夢の終りか、別の悪夢の始まりかは誰もわからなかった

エピローグ――希望
45.5.8.無条件降伏に調印 ⇒ 静寂はソヴィエト兵のどんちゃん騒ぎで破られる
初めて外に出て目にする光景は、想像を絶する破壊の跡。徹底的に略奪された
ソヴィエト軍は、首都に行政部を早々と設置し、秩序を回復し、食料を配分し始める
首都の掃除が始まる ⇒ 死者の埋葬が優先
反省と非難の応酬と並行して、新たな希望も芽生える ⇒ 季節の変化は人々の気持ちに大きな影響を与え、廃墟の中に新鮮な楽天的な雰囲気が生まれてきた



戦時下のベルリン空襲と窮乏の生活1939-45 []ロジャー・ムーアハウス
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載] 朝日 20130203   [ジャンル]歴史 
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史料と証言で描く首都の恐怖

 第2次世界大戦の期間、ナチス体制のもとでベルリン市民はどのような感情を持ち、いかなる生活を送っていたのか。1968年生まれの英国人著述家が長年の取材と未公刊の回想録・日記を駆使してまとめた〈戦時下ベルリンの社会史〉である。類書がないだけに貴重な書でもある。
 ベルリンは大戦の「恐怖をじかに経験した、ヨーロッパでごく数少ない首都の一つ」という理解を土台に据えて、戦時下市民の醒めた空気(開戦初期にはヒトラーの外交交渉で戦争終結を望んでいた)、灯火管制と配給生活、英国空軍の夜間爆撃(戦争末期には米国空軍の昼間爆撃)、ベルリン都市改造のゲルマニア計画、ラジオというメディアの登場、占領地の強制労働者の収容施設の現実などを史料と証言で畳みこむように描写する。意外なことだが、ベルリンにとどまるユダヤ人、そのユダヤ人を匿う非ユダヤ人、あるいは地下に潜る反ナチの人たちの動きが冷静な筆で描かれることに新鮮な驚きがある。個々の史実に著者が息吹を与えているためだ。
 戦況の良い時には、ベルリン市民には平穏と落ち着きがあったのだが、戦況の悪化と共にこの首都にも暴力の地肌が露呈してくる。戦争の末期(43年秋以降)になると、恐怖という感情が街全体を支配していく。ゲシュタポの拷問と暴力、それにもめげずに反ナチのリーフレットを配布する市民、街には死体が氾濫し、戦争に萎える空気を、著者は卑劣な密告、勇気ある抵抗など「人間」の行動を示すエピソードを通じて紹介する。
 ナチスが国民に信頼されたのは、ドイツの名誉を復権させたことと39年からの戦争の拡大にあったとの指摘、それが対ソ戦で崩れ、やがて凄まじい暴力の応酬を受ける様は、章の見出しにある「因果応報」、あるいは「狂気の果て」なのか。本書で語られる、数多くの人間的な葛藤図に黙考せざるをえない。
    
 高儀進訳、白水社・4200円/Roger Moorhouse 中央ヨーロッパ史、現代ドイツ史。『ヒトラー暗殺』

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