中央線がなかったら 見えてくる東京の古層  陣内秀信/三浦展  2013.3.23.


2013.3.23. 中央線がなかったら 見えてくる東京の古層

編者 
陣内秀信 1947年生まれ。阿佐ヶ谷在住。法政大デザイン工学部教授(建築史)、中央区立郷土天文館館長。イタリアを中心に地中海世界の都市研究・調査を行い、また、江戸東京学の牽引者。『東京の空間人類学』(1985)でサントリー学芸賞
三浦展 1958年生まれ。吉祥寺在住。パルコ入社、店舗開発担当。社会デザイン研究者。カルチャースタディーズ研究所代表。家族、若者、消費、都市、郊外などを研究

発行日           2012.12.27. 初版第1刷発行
発行所           NTT出版

『東京人』(都市出版)連載『中央線がなかった時代』(20124月号~9月号)を全面的に加筆・修正

『東京の空間人類学』の陣内秀信と、郊外論の第1人者三浦展が組む、新たな東京論。近代の産物である「中央線」を視界から取り去ると、武蔵野・多摩地域の原構造がくっきりと浮かび上がる。古地図を手に、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、国分寺、府中、日野を歩く。地形、水、鼓動、神社、商店街などがチェックポイント。中央線沿線の地形が分かるカラーマップも掲載。楽しくて深い、新・東京の空間人類学

中央線とは、JR東日本管内の中央線のうち、東京駅から八王子市の高尾駅までの快速電車の運転系統の通称
東西に一直線に走る中央線。それは、街道と参道、そして神田川、善福寺川、桃園川に沿って栄えていた、近代以前の東京にとって歴史的大転換をもたらした。だからこそ、中央線を一旦視界から取り払うと、本当の東京の地形と歴史が見えてくる

近代以前の東京の原型を探る 
「中央線がなかったら」というのは編者2人の共通の関心から生まれる
江戸の近郊農村だった地域。明治中期から昭和初期にかけて鉄道ができ、特に関東大震災後に駅を中心に都市化が進む
1980年以降、社会史、庶民生活史、民俗学、建築、文学、美術などの様々な学術分野を横断し重ねて考えることで面白い成果がたくさん出てきた。それが江戸東京学で、江戸東京博物館(1993年創立)の基盤
江戸以前の古代、中世の世界を探る手法として、川や湧水、神社、古道に注目
玉川上水などが江戸時代にできてから、丘の上がいい場所として転換していくが、それまでは斜面が一番いいところで、鉄道もいい場所を回避するように敷かれている



第1章     新宿~中野     青梅街道から中央線へ移動した軸
l  中央線は嫌われ者だった ⇒ 中央線の前身は甲武鉄道。1889年多摩や山梨から丸太や石灰石を運ぶ貨物輸送を目的に開業。甲州街道沿いを目論んだが環境悪化を恐れた地元の反対で断念。開業時の停車場は新宿、中野、境(武蔵境)、国分寺、立川のみ
l  何もなかった頃 ⇒ 関東大震災で新開地だった中野から三鷹に移り住み「中央線文化」が形成される以前は、沿線には何もなかった
l  賑やかだった青梅街道 ⇒ 多摩と江戸を結ぶ幹線で、1869年には新宿~田無間に乗合馬車が走る。甲州街道にも1880年には四谷~府中間に乗合馬車開通
l  中央線はなぜ曲がっている? ⇒ お茶の水~四谷間と同様、新宿西北の崖に沿って敷設されたため
l  神田川の丘の上に高級住宅地 ⇒ 東中野駅の東に流れる神田川を北上すると川の西側の崖の上に華洲園という昔の高級住宅地がある。江戸時代将軍の鷹狩に使用された「中山御立場」(休憩所)があり、江戸城が見えた
l  東中野にフランク・ロイド・ライト ⇒ 東中野駅のすぐ北の住吉町にモナミという結婚式場があった。富豪の家をレストランに改装したもので、設計はライト。モナミの名付け親は岡本かの子
l  牧場もあった ⇒ 東中野駅の南側、山岡鉄舟邸跡が当時の中心。青梅街道を南に横切ると鈴木牧場があった。生活の洋風化に併せ、豊島区には明治中期以降延べ60か所もの牧場があったという。1964年日本ホルスタイン登録教会の開館が移転してきた
l  中野長者 ⇒ 山手通りが神田川を渡る橋が長者橋。長者とは鈴木のこと。角筈の十二社熊野神社を建立
l  中野は江戸で一番のそばの産地、そばつゆも独占 ⇒ 江戸町内で消費されるそばの大半が「中野そば」
l  花街もあった ⇒ 中野新橋は、東京23区内の花柳街の最西端。1929年開業
中野駅の北西側は全て軍用施設。江戸時代は囲町(かこいちょう)といって、綱吉の「生類憐みの令」によって放置された野犬を収容する小屋を作ったところから来た名前

第2章     高円寺           前近代の宗教地域から近代軍事都市へ
昔の高円寺の中心は今の地下鉄東高円寺駅の辺り。交通の要所。高円寺には葵の御紋が光り、鷹狩りにまつわる地名も多い
l  高円寺の入り口は東高円寺 ⇒ 1911年創立の蚕糸試験場の存在が立地の重要性を語る
l  鷹場だった高円寺 ⇒ 鷹狩りに訪れた将軍家光が休息したところ
l  寺の町 ⇒ 庚申塚があり、複数の道が分岐した追分だったことが分かると同時に、1909年の都市計画や、大震災や戦災などによって江戸から移転してきた寺が多い
l  鶴をつかまえた ⇒ 阿佐ヶ谷に向かう道の途中、「鷹っ鶴」と呼ばれた場所があり、家光が鷹狩りに来て鶴をつかまえたという
l  和田の土地2坪は日本橋の1坪 ⇒ 妙法寺は真言宗の尼寺が日蓮宗に改宗したもの、厄除けのお寺として全国から多勢の参拝者を集め、周囲は大いに繁盛
l  幻の中央線・馬橋駅 ⇒ 中野から荻窪まで駅がなかった頃、新駅構想で翻弄された。一旦鉄道省は馬橋に決定したが、駅用地提供が拒否され阿佐ヶ谷と高円寺に変更
l  オトリメ様 ⇒ オトリメ様とは「お鳥見様」のことで、鷹狩りの餌を収めた小屋の管理人の住んだ土地をオトリメ様と呼んだ
l  中野と荻窪を結ぶ滑走路の計画 ⇒ サンプラザから荻窪駅の北まで、早稲田通りの南側に沿って道が繋がっているのは元の軍用地。明治中期に鉄道隊が創設、日露戦争後に気球隊が併設、第1次大戦後に飛行機の重要性が認識されると気球隊は飛行隊に編成替えされ、滑走路を作る計画が持ち上がり、長さ2.5㎞幅100mに拡張され飛行機格納用地も買い上げられたが、民家に近く狭いとあって建設は見送られ、戦後徐々に宅地化されて一部が道路として残った

第3章     阿佐ヶ谷        聖域・湧水・古道・河川・釣堀から読む地域構造
大地の古層に目を向けると、地域の特徴が驚くほど見えてくる。地形、河川、湧水、聖域、古道、遺跡、寺社などがその構造を解く鍵になる。杉並区から中野区へ南北を結ぶ1筋の古道に光を当て、地域に隠れた構造を浮かび上がらせるとともに、凸凹地形を観察しながら、江戸近郊農村の風景画を描く
l  土地の本質を知るため、川と古道に注目する ⇒ 杉並区を東西に横切る4本の川――妙法寺川、桃園川、善福寺川、神田川――があり、地形上も凸凹が多く、川に沿って流域コミュニティが形成された
l  地蔵、庚申塚、遺跡などに地域の古層を読む ⇒ 阿佐ヶ谷駅が出来たのは1922年、甲武鉄道と古道(鎌倉古道という説もある)が交わる地点だった
l  古道を歩いて、聖地・大宮八幡宮へ ⇒ 古道を南下して杉並区内最大級の「松の木遺跡」を過ぎ善福寺川を越えたところが大宮八幡宮。1063年に源頼義が石清水八幡宮の御霊を移し奉ったのが起源、区内の古道は多くが大宮八幡宮に繋がっている
l  水をキーワードに探る、阿佐ヶ谷神明宮周辺 ⇒ 緩やかな谷地形で水が出やすい土地柄ゆえ、古くから釣り堀が多い。駅の北側には阿佐ヶ谷神明宮があり、その北側の蛇行した道路は1961年の東京都による河川下水道化の答申に従って桃園川が暗渠化された跡
l  高台の聖なる空間、鷺宮八幡神社が示すもの ⇒ 古道をさらに北へゆき妙法寺川の南側に鷺宮八幡神社があり、大宮八幡の1年後に創建
私の原風景――成宗(なりむね)周辺の地形を歩く――陣内秀信 ⇒ 青梅街道のすぐ南側を成宗村といったが、1960年代末の住居表示変更により、西の田町と組み合わされて成田東、西となった。南側を通るローカルな五日市街道は曲折が激しく、善福寺川にかかる尾崎橋の両サイドは「尾崎の七曲がり」と呼ばれる難所。明治中期に直線に付け替えられた
成宗田圃に1959年公団の阿佐ヶ谷住宅誕生

第4章     国分寺~府中   いにしえの東京を探しに 古代武蔵の中心をめぐる
国分寺崖線を下れば、そこは、いにしえの東京の姿を伝える、古代国家の中心地
l  2つの崖線に湧水と3つの河川 ⇒ 北の国分寺崖線と南の府中崖線に沿って多くの湧水が存在。多摩川、野川、玉川上水それぞれに独自の集落構造を持つ
l  大國魂神社の起源とその立地を探る ⇒ 創建は111年。別名武蔵総社六所宮(武蔵国に広がる6つの神社を奉祀)。東京大神宮、靖国神社、日枝神社、明治神宮と並び東京の中の格式の高い神社として「東京5社」の1つ。毎年430日から56日まで「くらやみ祭り」開催。甲州街道に沿って1913年に笹塚~調布間に敷設されたのが京王線
l  道が集まり、繋がる府中の古道 ⇒ 1933年目黒競馬場が府中に移転
l  伝統を守りながらも常に進化し続ける祭り ⇒ 大國魂神社の「くらやみ祭り」の最大の呼び物が「おいで」で、毎年時代に併せて変化
l  西へ向かえば、そこにはさらなる古墳の世界 ⇒ 江戸初期創建の熊野神社には7世紀中頃と言われる古墳がある
l  空白を埋めていく近代の思想 
l  国分寺崖線を下り、武蔵国分寺に
l  古代からの記憶が重なり合い、作られる地域の姿 ⇒ 1653年頃玉川兄弟によって江戸の上水道として整備された玉川上水によって、この地は大きな変化を遂げる

第5章     日野             用水路を軸とした農村、宿場から鉄道中心のベッドタウンへ
水の郷と呼ばれる日野は、湧水のある崖線、用水路が流れる沖積地に、農村や宿場が形成
日野駅の開設は甲武鉄道開通の翌1890年、豊田駅は1901
l  多摩川と浅川 ⇒ 2つの川から豊富な水を取り入れた総延長116㎞の用水路網が広がる。江戸になってから掘削され、「多摩の米蔵」と呼ばれる農村地帯を作り上げた
l  「水の郷日野」 ⇒ 西部の台地、南部の丘陵地、東部の沖積地からなる。日野台地はローム層が堆積したもの、その下に2つの川の川床礫からなる河岸段丘がある
l  駅名と同名の用水路――日野用水と豊田用水 ⇒ 川以外の湧水からも水が供給され、農ある風景を資産とした独自の地域づくりが行われている
l  宿場を守る地蔵と日野煉瓦
l  日野宿の形成と駅の誕生 ⇒ 宿場が出来たのは慶長年間(15961615)、府中と八王子の間
l  地形を巧みに読んだ日野用水を歩く
l  精進場と屋敷神信仰
l  水門から農地を探す
l  日本の近代を支えた養蚕と蚕糸試験場
l  崖沿いに湧水と遺跡が集まる豊田駅周辺
l  湧水が集まってできた黒川水路
l  取水口から排水口へ向かって豊田用水を歩く
l  豊富な水資源を求めて進出した近代の工場
l  湧水と信仰の空間――豊田~東豊田
l  用水と信仰の空間――川辺堀之内




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