勇気ある決断 アメリカを作ったインフラ物語  Felix Rohatyn  2013.3.8.


2013.3.8. 勇気ある決断  アメリカを作ったインフラ物語
Felix Rohatyn, Bold Endeavors, How Our Government Built America, and Why It Must Rebuild Now             2009

著者 Felix Rohatyn 1928年生まれ。ミドルバリー大卒。ラザード・フレールのマネージングディレクターを経て米国の駐仏大使。7593年ニューヨーク州の自治体援助公社マック(Municipal Assistance Corporation)会長をつとめ、財政危機に直面したニューヨーク市の救済に多大な貢献をしたことで知られる

訳者 渡辺寿恵子 慶大文学部図書館学科卒。カリフォルニア大ロサンゼルス校大学院情報学科へフルブライト留学。ロンドン大キングスカレッジにて音楽学を学ぶ。

発行日           2012.12.15. 第1刷発行
発行所           鹿島出版会

2013.2.4. フェリックス・ロハティン自伝』にて言及?

N.Y.の財政危機を救い、現代アメリカのインフラ崩壊を危惧する投資銀行家が、読み解いた歴史的十大事業
大胆な投資、リーダーの実行力… いま日本が学ぶべき決断がそこにある

プロローグ
最近の議会報告にある統計データでは、公立校の建物の3/4が老朽化、1/4以上の橋が役に立たない、上水道の取り換えに年間140億ドルかかる、12000マイルを超える内陸運河の閘門の1/2以上は機能していない。アメリカ土木学会は、全米のインフラを信頼性のある安全なものにするだけで、5年間に16千億ドルの投資が必要と予測
増え続ける荒廃からもたらされる要求は、国家に悲惨な結果をもたらすばかり、経済的ダメージだけでも測り知れない
本書は、連邦政府が国家において欠くべからざる投資家であり続けた事実を、歴史上の10例を採りあげて証明。先見性と不屈の精神を持った勇気あるリーダーに率いられた政府が、いかにしてアメリカを形作る先を見据えた投資を行ってきたかのケーススタディ
欠点もあることを認めなければならない。事業の成果を正しく評価し、将来の国家計画に倫理的基準を与えることも重要
アメリカは、勇気と意志を持って自国の歴史を学び、そして行動しなければならない

第1章        ルイジアナ買収 The Louisiana Purchase――トマス・ジェファソン
1803年バスタブ事件 ⇒ ナポレオンがルイジアナを売ることになってもイギリスとの戦費を調達すると決意
1682年 フランスがスペインとの戦争の基地として、メキシコ湾岸に自国領を物色、ミシシッピ沿いの地を発見したと主張
1718年 ニューオーリンズ建設 ⇒ フランスのオルレアン公フィリップを賛美して名づけられ、農産物をヨーロッパに運ぶ玄関口として栄える
1762年 フレンチ・インディアン戦争の結果、ミシシッピ以西はスペインに、以東は英国に割譲。84年にはスペインがニューオーリンズから外国人を締め出し
1795年 スペインは合衆国との間にピンクニー条約締結、ニューオーリンズが開放
1800年 新大陸に新しい帝国を作る野心に燃えたナポレオンが、スペインからルイジアナを奪還しようと画策、手始めにサント・ドミンゴに軍隊を派遣したが黄熱病にやられ、派遣兵力増強のために海軍軍備を拡充
合衆国は、立地の重要性を認めたものの、力づくではかなわないため、フランスからの買収交渉に走ろうとしたところ、フランスの海軍増強を挑戦と受け止めた英国がフランス相手に立ち上がろうとしたために、冒頭のバスタブ事件となったもの
当時のルイジアナは、フロリダ西部までを含む広大な地域
1803.5. 更にロッキー山脈に至る全フランス領を、15百万ドルで買い取りに合意
前年の国の総収入が10百万ドルだった合衆国は、ヨーロッパ中の銀行に融資を頼むが、漸くベアリングとオランダのホープ商会が15年間年6%の手数料で応じ、買収総コストは27百万ドルとなる
影響力の分散を嫌って反対したニューイングランド連邦派が多数を占める議会を、将来のためにと説得
ジェファソンがあらかじめ議会から与えられた権限は、ニューオーリンズ市とフロリダの一部の土地を対象に総額9百万ドルだったが、彼は前例のない投資を行うために政府の資金を使うという政略的な勇気と主導権を持ち合わせていた
新しい領土は、たちまちにして合衆国に富みをもたらしたのみならず、15年の巨額の借款が合衆国国債の信用力を堅固なものとし、大国となる可能性を持った責任ある国家としての名声を確立。国内では開拓したものが土地所有者となる制度が出来民主化に役立つ

第2章        エリー運河 The Erie Canal――デウィット・クリントン
1724年 インディアンがフランス人に毛皮を届けるために、水路を巧みに使っているのに目をつけ、東部沿岸の商業地帯から北東部の未開拓領土まで水路を設ける計画を立てる
実現したのは100年後の1825年、ハドソン川からエリー湖まで363マイルの運河建設
西部フロンティアへの道を拓いたほか、ニューヨークが主要港として世界の巨大都市センターになる重要な契機となる
偉大な事業を成し遂げる国家としての能力を証明し、先見性を持った革新的な政府は国をより豊かにし、生活の質を大きく向上させることが出来るという前例を示すもの
西部フロンティアの開拓は合衆国にとっての建国以来の悲願、そのための手段として運河の重要性は、ワシントンの頃から言われて、一部は建設が始められていた
1803年上院議員からニューヨーク市長となった共和党のデウィット・クリントン(0611年州上院議員、1113年州副知事兼務)が運河計画を支持、州議会を通し財政的支援を取り付けるとともに、超党派の委員会を組織して計画を具体化 ⇒ オンタリオ湖よりエリー湖のほうが閘門の数など建設費が少なくて済み現実的
クリントンは、1815年の市長選に敗退後も州議会に資金援助を働きかけ、大衆の支持も取り付けて着工にこぎつけ、24年には州知事に返り咲き完成の日を迎える
開通してからわずか12年後には建設の負債を完済
運河を利用した交易と、西部の領土に物資を流す新しい手段を得たことで、国の総生産は殆ど倍近くになった
現在では観光名所として栄え、2001年国の23番目の国家遺産回廊に指定
才覚と先見性を持ったリーダーに導かれ激励されて実行した政府の勇気ある投資が、国家に利益を与え続けることを証明したプロジェクト

第3章        大陸横断鉄道 The Transcontinental Railroad――アブラハム・リンカーン(16代、186165)、セオドア・ジュダ
1856年ミシシッピ川にかかる鉄道橋に妨害されて転覆炎上した船の船長が積み荷の補償を求めて鉄道会社を提訴(ハード対ロック・アイランド鉄道橋梁会社事件)、鉄道会社のために弁護に立ったのがリンカーン。見事勝利を勝ち取る
南北戦争開戦後も、リンカーンは合衆国全土の大陸横断鉄道の建設と資金援助という大きな挑戦に連邦政府を巻き込む意志と勇気を持ち続けた
コネチカット・ヴァレー鉄道の技術部長だったセオドア・ジュダは、次々と鉄道新線建設に関わる傍ら、シェラ・ネヴァダを通って太平洋に行くルートを研究、1857年に具体的計画を発表
サクラメントでの資金調達は、マーク・ホプキンス、リーランド・スタンフォード、チャールズ・クロッカーなどの支援を得ることに成功するが、後悔もする。というのは、彼等はビッグフォア”(4大鉄道王)として知られるようになり、彼等のもたらす腐敗のスケールと機知で悪名高き存在となる
62年政府の助成措置も取り付け、南北戦争が激化する中にあってもリンカーン大統領の指示もあって建設は進む
1869年東西から延伸してきた鉄道がユタ州の山中で繋がる
アメリカの国土は広がり、繁栄していく。賢く大胆な投資、勇気と決意を秘めた人々によって計画実行された投資は、アメリカをその明白な運命の実現に向けて後押しした

第4章        ランドグラント・カレッジ The Land Grant College――アブラハム・リンカーン、ジャスティン・モリル
学費が払えず進学を諦めたが努力によって1852年には42歳で下院議員にまで上り詰めたジャスティン・モリルは、合衆国独立の民主主義的平等の原理を重んずるならば、教育の機会は平等に与えられるべきだし、責任ある国家が行うべき投資と考え、各州での大学教育を誰でも受けられるようにネットワーク化しようと考えた
アメリカの成功物語の敵は、失敗することではなく、機会がないことである
旧世界の特権は、新世界では奪うことができない権利であるに違いないという考え方は、植民地時代からあり、また、自由平等の精神は教育の理念と分かち難く結ばれている
モリルは、何度も公教育のための法案を出すが、私学で教育を受けた特権階級の議員が大半を占める議会では、あまりにも急進的として否決
連邦政府から各州に土地を供与してそこにカレッジを作らせるというランドグラント・カレッジ法(モリル法)は、南北戦争勃発により反対していた南部出身の議員が抜けたことで議会を通過、1862年リンカーン大統領の署名を得て成立 ⇒ 大学進学が同年時人口の2%しかいなかった時代では、開校しても生徒集めに苦労、1890年の第2次ランドグラント法で南部16州に拡張されても事態は変わらなかった。どれどころか、モリル法の大学に学生を奪われた他の学校が閉校や併合に追い込まれた。さらには、科学的な訓練を受けた教師の採用にも困難をきたすが、徐々に浸透し始め、高等教育が国民の新しい階層にも開かれるようになっていった
現在104のランドグラント・カレッジがあり、毎年3百万の生徒が入学、政府助成は550百万ドル

第5章        ホームステッド(自営農地) The Homestead Act――アンドリュー・ジョンソン(17代、186569)
1852年テネシーから来た若い民主党下院議員アンドリュー・ジョンソン(後の17代大統領)が、農地に1票をというスローガンのもとに、入植者に無償の土地を与える法案(ホームステッド法)を通過させる
20年に及ぶジョンソンの固い決意は、熱意あるリーダーというものは、あまり乗り気でもなく、政治的にも意見が割れている議会を動かして、国家の将来のために巨額の投資を実行させることができるというもう一つの例であり、賢明かつ理想主義的な連邦政府の責任ある決断は、さらに繁栄するアメリカを作り上げ、国家の名声を高めることができるという証拠でもある
1803年のルイジアナ買収、45年のテキサス併合、46年のオレゴン成立、48年のメキシコ北部割譲は合衆国を劇的に拡張したが、人口は東部に集中したままであり、すべての人民が自らの土地を防衛し、その地をアメリカ化していくことは、国家の戦略上の基本
1812年大英戦争宣戦と同じ年に軍事土地区画法案成立 ⇒ 公有地が報償の土地として兵士に与えられたのを契機として、入植者である自営農家に土地を与える事によって、労働人口の独立性、道徳性、勤勉さと人々の楽しみを増やすという議論が民衆の声として高まり、新たな政治勢力・自由土地党として台頭
テネシーのジョンソンの仕立屋は、いつもこうした議論の場となっていて、周囲から立候補を進められて28年市会議員を皮切りに市長、39年には州上院議員となって土地問題決着のためのキャンペンを始める。43年連邦下院議員となって国政に訴え、46年最初のホームステッド法案提出 ⇒ 何度も議会の反対に遭いながら、52年下院通過へ
60年には幾多の妥協・修正により漸く上院も通過したがブキャナン大統領が署名を拒否、同年以前から同法を支持していたリンカーンの大統領選出、南部諸州の連邦脱退により、62年には法案が成立 ⇒ 以後123年に渡って同法は効力を保ち、2百万人が土地を請求、270百万エーカーの西部の土地(現在の合衆国の11%に相当)にホームステッド法による公有地供与を受けた開拓者が入植、アメリカの繁栄の種が蒔かれた
法が濫用されたり、払下げ対象の土地の環境が劣悪だったり、鉄道用土地払下げとバッティングしたり、種々の障碍があって、何度も法改正が行われた
歴史上もっとも大規模な公有地の個人所有への払い下げ

第6章        パナマ運河 The Panama Canal――セオドア・ルーズベルト(26代、190109)
1898年 ハバナで米戦艦メイン号が撃沈 ⇒ アメリカ国民の間にメインを忘れるな、スペインは地獄へ行け!”が戦いの合言葉になった
アメリカがヨーロッパ帝国主義国に対して力と果敢なる挑戦で立ち向かうために海軍次官補ルーズヴェルト(後の26代大統領)の統率のもとに建造した新艦隊の主砲オレゴン号を太平洋からキューバに回航しようとしたが到着したのは60日後。次官補を辞して"ラフライダーズ(義勇騎馬隊)”の中佐として米西戦争に参加していたルーズヴェルトは、その時身をもって悟った。両岸の敵と戦う以上、地峡運河を作らなければならないと
1901年マッキンレー暗殺後に副大統領から昇格したルーズヴェルトは即座に行動に移す
鋼の意志を持ったリーダーが、あまり乗り気ではなかった国民や議会を説得し、如何に巧妙に運河を作るに至ったかは、先見性を備えた粘り強いリーダーシップの1つのケーススタディであり、大胆な連邦資金の国境を超えた合衆国史上初の投資が、いかにして国民に長期にわたる商業上、戦略上の利益をもたらすインフラを作ることが出来るかという例でもある。同時に、他の主権国家の権利を無視したアメリカの帝国主義的な功利的外交政策の物語でもあり、ルーズヴェルトの武力外交の遺産、国際的な弱い者いじめと露骨な違憲行為は、アメリカという国の真価を損なう汚点となり、その影響は末永く続く
1513年 パナマの地峡地域は、スペイン国王の命を受けた探検家バスコ・ヌーニェズ・デ・バルボアによって発見され、16世紀には地政学上、戦略上の重要性が認識され、貿易ルートとして活用された
1821年スペイン帝国崩壊の兆しに、パナマが独立を宣言したが、すぐにコロンビアに併合、76年にはフランスもレセップスが運河建設の関心を公言し現地に調査隊を派遣
一方、太平洋岸に達したアメリカも南北戦争後には大陸の両岸を結ぶ速いルートの開拓に乗り出し、パナマとの交渉を経て運河建設のための条約を結ぶが議会が巨額投資を拒否、75年には代わりによりコストの安いニカラグア運河計画が浮上
81年 レセップスはコロンビアとのワイズ・コンセッション(利権)をベースに国際会議の指示を受けて運河建設に着手。アメリカのヘイズ大統領はモンロー主義を盾に警告を発する。建設作業は、技術的な困難に加え、黄熱病とマラリアで撤退せざるを得ず、再度挑戦しようとしたが損失を抱えた投資家は戻ってこず、フランスは計画を放棄
1897年マッキンリーはハワイを領有、海軍の大洋両岸での駐留の必要性と、危機に際しての行き来を可能にする航海ルートの戦略上の必要性を痛感、翌年勃発した米西戦争でさらにスペインからフィリピンを20百万ドルで譲り受けると、より直接的な商業ルートの必要性を助長、さらには直前に独立を宣言していたにもかかわらずスペインが米国に売却したためにフィリピン人の抵抗がつよく、それを抑えるためにも米海軍の進駐が必要となった
1850年米英間で地峡運河建設に合意したが、お互い相手の独立性を損なわないという条件が付いており、英国はニカラグアルートに断固反対だったが、激しい交渉の末合意に
大統領になったルーズヴェルトは、パナマこそ運河建設の適地と考え公約としたが、議会が認めたのはニカラグアルート、上院通過直前にフランスの新会社がパナマ運河の保有権を109百万ドルから40百万ドルに引き下げたのを知って独断で購入を承諾、02年議会に圧力をかけて承認を勝ち得る。直前にカリブ海のマルティニークで火山が噴火したことが火山の多いニカラグアルートに不利に働いたことも手伝っていた
03年 パナマ地域を統治していたコロンビアとの交渉では、承諾を渋るコロンビアに対し、アメリカは軍事力を行使してパナマの鉄道を征服しパナマ市を占拠、僅か10百万ドルで運河全域の権利を認めさせる。コロンビア上院が批准を拒否したため、アメリカはパナマ独立のための革命を煽動、僅か3日後にはアメリカが独立を承認、新政権はパナマ新会社に10百万ドルでさらに拡張した運河地帯を譲渡、新会社はその資産を40百万ドルで合衆国に譲渡することを認めるとともに、合衆国に対し運河地帯の永久主権を与えた
合衆国政府の破廉恥な行為に、ジョセフ・ピューリッツァーのニューヨーク・ワールド紙は大統領叩きのキャンペーンを張る
黄熱病を一掃し、海面式から閘門式に変えて建設が始まる
06年ルーズヴェルトは建設現場を視察、在任中に合衆国大陸の外を旅した最初の大統領となる ⇒ 8年の歳月と、25千人以上の犠牲者、350百万ドルをかけ14年に完成
毎年14千以上の船舶が203tを超える積み荷を乗せて運河を通過
1999年末 合衆国の覇権のシンボルであり、ヤンキー帝国主義に対するラテン・アメリカの叫びを呼び起こすこととなった運河を、地峡地帯における自己中心的で違法な行為がもたらした何十年にもわたる敵愾心を和らげるべく、合衆国は運河の征服権をパナマに譲渡

第7章        地方電化局 The Rural Electrification Administration――フランクリン・デノラ・ルーズベルト(32代、193345)、モーリス・クック
1924年 海軍次官補を退任し副大統領に立候補して敗退、その後に小児麻痺で下半身麻痺、療養を兼ねてニューヨークからジョージアに移住、そこでの電気料金請求書が4倍だったのを見て激怒したのがこの物語の契機
裕福な家庭に育ったルーズヴェルトは、すべてのアメリカ人に生まれに拘らず大望を実現する機会を与えられるのが人間の基本的な権利であると主張
30年代までには、電気はアメリカの都市生活では当然のように享受できるものとなり、都市家庭の90%が電気を使い、電力会社は強力かつ独占的な民間企業に成長したが、農村地域では僅か10%しか電化されず、自己満足的な営利追求の大会社の犠牲になっていた
農場の近代化と農民生活のレベル向上の動きが大きな支えとなって、セオドア・ルーズヴェルトの時代05年に森林局ができ、先ずは自然資源の保護から始まり、局長がペンシルバニア州知事になったことで、州内の地方電化の調査に発展、ニューヨーク州知事に返り咲いたフランクリン・ルーズヴェルトによってさらに電力事業の公営化の検討へと進む
33年に大統領となったルーズヴェルトは、積極的に地方電化に乗り出す
ミシシッピの小さな町の住民の協同組合が、組合員全員の需要を賄う大量の電力をTVAから卸値で購入、意外に安いコストで各家庭に配電出来ることが分かって、35年に大統領は地方電化局REA創設の政令に署名 ⇒ 民間電力会社が、政府による大型救済プログラムに協力する形で遠隔地に送電するという1億ドルの計画
猛反対する電力業界に対し、大統領は36年に10億ドルの巨大な予算をつけて配電網敷設に動く ⇒ 2年以内に4515百万ののうかが350の事業者から電力を受ける。電線網の整備とともに、50年までにはすべての農家に電力が供給される一方、地方電化局のローン債務不履行は1%以下だった

第8章        復興金融公社 The Reconstruction Finance Corporation――ハーバード・フーヴァー(31代、192933)、フランクリン・デノラ・ルーズベルト、ジェシー・ジョーンズ
33.3.4.新大統領就任宣言の日、ニューヨークとシカゴの銀行閉鎖が州知事によって命じられ、他の金融機関も同調して、アメリカの銀行システムは操業停止に
不況の最中にあって倒産寸前の民間事業者に公共資金を貸し付けることを目的とした復興金融公社を実際に創設したのはフーヴァーだったが、フーヴァーを嫌いながらもRFCをニューディールの中心となる経済的エンジンに仕立て上げ拡張させていったのはルーズヴェルト
フーヴァーは、鉱山技師として財を成し、ウィルソン政権では食糧管理局長官として、大戦後のヨーロッパの飢餓を救済、敗戦国ドイツやボルシェビストのロシアにも送る
29年の大恐慌で銀行の等宇さんが相次ぎ、比較的安定な投資とみられていた鉄道事業の信頼も揺らぎ、失業者が倍増して、下降スパイラルの深い経済不況に陥るが、経済の自力再生能力を信じていた共和党は連邦による法的救済には消極的 ⇒ 州や地方政府の対応力に限界があると感じたフーヴァーは連邦政府が介入せざるを得ないと気付き、31年緊急再建計画を作り、戦時金融公社を基とする新しい公社RFCの設立を企図、20億ドルを民間事業者に貸し付け(全米予算の2/3に相当)。ただし、大規模金融機関と鉄道会社に集中したため、失業者の反発を高め、デモ鎮圧のために軍隊までが出動、軍隊の指揮官だったマッカーサーは、大統領命令を無視して群衆に発砲、死傷者を出し、フーヴァーの政治生命を断つ結果に
ルーズヴェルトは、しぶしぶながらの一時凌ぎのフーヴァーの救済策と違って、積極的に銀行救済に打って出て、公社の社長にジェシー・ジョーンズ(テキサス出身の民主党政治家でRFC理事)を据え、34年にはFDICを創設、翌年には金融市場が安定
大戦開戦と共にRFCはもとの戦時金融公社となり、戦争を支える防衛費のための政府機関となり、戦後はその役割を縮小、アイゼンハワー(34代、195361)によって葬られる

第9章        復員兵援護法 The G.I. Bill――フランクリン・デノラ・ルーズベルト、ウォレン・アサトン
鉄の意志を持った1人の人間が、どのように政府を説得して、より良いアメリカを作るために国の資金や権力を賢く利用したかを描き出す
1次大戦のアメリカ軍最高司令官アサトンが、1943年第2次大戦で90日以上兵役に就いたアメリカ人復員兵すべてに無料の大学教育、職業訓練、失業保険、低利の住宅・事業ローンを提供するための法案を提出 ⇒ 最終的に、この法律が様々な形でアメリカン・ライフの在り方や精神面を変えたことも重要な事実
1919年第1次大戦の復員兵5百万人に対し60ドルといえまでの汽車賃、500ドルの保証付きボーナスを1944年に払うとする法律が決まるが、10年後の恐慌で繰り上げ支給の要求が高まったものの軍隊に発砲までされて沈黙
2次大戦には16百万人ものアメリカ人が派兵、軍需景気によって恐慌は終焉、雇用は充たされ復員兵への援助も必要なくなったかに見える
1919年第1次大戦の後に復員兵の愛国的相互援助組織として議会に承認されたアメリカ在郷軍人会が43年の総会でアサトンを長とする復員兵の退役後の復帰を援助するための特別委員会を発足させ、法案提出へと進む ⇒ 様々な方面からの反対にもかかわらず説得を試み、最終的には上下両院とも満場一致で承認。44年大統領が署名して成立
連邦財源で支給されることになっていた失業恩典の数々を請求してきたのは復員兵の1/5以下に過ぎず、その代り法案の教育恩典だけは目一杯利用された
教育者は、学力の足りない学生が殺到して大学の質が落ちると警戒したが、すぐに間違いだと気づく ⇒ フォーチュン誌の調査によれば、49年の戦後クラスの学生は、大学の歴史上最も優れた、最も成熟した、最も責任感があって自立した学生集団だった
47年までに高等教育機関に入学した116万のうち50万以上が復員兵
高等教育をアメリカの重要な社会基盤の1つに押し上げると同時に、教育機関の変革にも関わる ⇒ 多くの大学でカトリック教徒やユダヤ人、黒人が初めて入学を認められたし、女性も子供のいる既婚者も学位取得の道が開ける
56年の計画の終りまで、1540万の復員兵のうち、半数以上の7.8百万人が通常の教育や職業教育プログラムに参加
2次大戦後の政府支援計画の総コストは140.5億ドル ⇒ 見返りとして知識主導のアメリカを作り出した
同様に、前例のない住宅・事業・農業ローンの仕組みも重要で、29%が利用
G.I.Billは合衆国議会がこれまでに通過させた最も優れた法案

第10章     州間高速道路システムThe Interstate Highway System――ドワイト・アイゼンハワー(34代、195361)
1919260人の上下士官と35人の将校がフリスコ(サンフランシスコ)に向けてワシントンを出発 ⇒ 自動車の軍事能力を実証するためと、大戦後軍隊に興味を示さなくなったように見える国民からの指示を取り戻すためのパレード。62日間各地で祝福
アイゼンハワー中尉やニクソンも将校の1人として参加、あまりの悪路に、きちんとした高速道路を作るべきと確信
30年後に大統領となって権限を行使、アメリカの根幹的なインフラ建設、そして歴史上もっとも長く、最も広範囲に計画実行された道路網を作り上げる
道路より鉄道が優先、南北戦争から1918年までに254千マイルの鉄道網が出来たことが道路建設にも役立つ
1912年郵便道路法通過 ⇒ 高速道建設を連邦資金が援助、州が監視する先例が出来る1916年連邦補助道路法成立 ⇒ 州内の道路建設に公共資金を充当することが認められ
連邦と州の間で道路建設にかかる協力体制が構築され、以後40年間に20万マイルと飛躍的に道路網が延びた ⇒ 中心となったのは全米州高速道路協会と公共道路局
国家の最初のスーパー・ハイウェイはペンシルヴァニア・タンパイク、$1.50の通行料で1938年開通、大成功を収める ⇒ ドイツのアウトバーンに刺激された面もある
ルーズベルトは、アメリカを東西と南北それぞれに3分割した線上に高速道路を作ろうとしたが、公共道路局からコスト的にも、実際の利用見込みからいっても現実的でないと反対され、他にいくつもの難問を抱えていた大統領は計画を断念
53年アイゼンハワー就任の頃には車社会の世の中に一変 ⇒ 全国に高速道路が出来つつあったが、さらに戦略的な利点を狙って必要な技術工学的研究を進め、総予算は500億ドルと厖大(連邦の年間総予算が710億ドル)だったが、ニクソン副大統領が大統領に代わって全国州知事会で訴えた演説が感動を呼び、公共道路局や建設の主導権を奪われることになる州の高速道路局の反対を押し切る。議会が財政規律を盾に猛反対したが、ガソリン税を充当したり、軍需道路としての連邦予算の適用を工夫したりしたことにより、56年連邦援助高速道路法が法制化され建設が始動、当初法律では13年での完成を予定したが、40年の歳月をかけて歴史的な建設計画が完成、新たなより良いアメリカを作り上げるのに中心的な役割を果たしたことは否めない

エピローグ――全米復興銀行の必要性
10のケーススタディは、時代や環境が違っても、それぞれが中核に於いて同じ真実を語り強調している ⇒ 粘り強いリーダーによる大胆な公共投資が、いかにしてアメリカ社会の繁栄と安全を脅かす危機に対応してより良いアメリカを作り出してきたかを証明
現代のアメリカは根幹的なインフラの退廃を見過ごしている ⇒ 先を見据えた機知に富む政府による、自国のインフラへの投資の選択、財政援助、管理への新たな異なるアプローチを必要としている ⇒ 全米復興銀行がそれを可能にする手段、07年に法案が上下両院に出されたが成立が望まれる



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