トマス・グラバーの生涯  Michael Gardiner  2012.10.7.


2012.10.7.  トマス・グラバーの生涯 大英帝国の周縁にて
At the Edge of Empire  The Life of Thomas Blake Glover   2007

著者  Michael Gardiner 1970年スコットランド南西部生まれ。オックスフォード大で英語・英文学を専攻、最優秀の成績で卒業。スコットランドのセント・アンドリューズ大学大学院修了。ポスト・コロニアル理論を援用し、スコットランド文学を通じて博士号取得。比較文化・比較文学者、小説家。日本女子大学専任講師、千葉大助教授(英文学)、アバディーン大学リサーチフェローを経て、現在、ウォリック大学英文学科・比較文化研究科教授。

訳者 
村里好俊 1952年長崎県生まれ。九州大大学院博士課程英文学専攻中退。現在、熊本県立大文学部教授。文学博士
杉浦裕子 1974年福岡県生まれ。福岡女子大大学院博士課程英文学専攻修了。鳴門教育大准教授。文学博士

発行日           2012.6.27. 第1刷発行
発行所           岩波書店

長崎のグラバー邸に名を残すスコットランド人トマス・グラバー(18381911)は、幕末から明治に渡り、貿易商として、実業家として、また晩年は日英同盟推進の陰の立役者として活躍した。帝国主義と近代化の波が押し寄せる極東の小島日本において、グラバーの活動はいかなる意味を持ったのか、曲折に満ちた生涯を跡付けながら、グローバルな歴史の文脈から、その多面的な相貌を捉え直す。スコットランド出身の気鋭の比較文化論者による斬新な評伝


長崎で平和活動にたずさわる人々に
第1章        出島
1859.9.19. グラバー長崎に上陸
自由貿易に絡む起業家としてのグラバーの行動の多くはその場の思い付きで、矛盾だらけで、その場その場の状況に左右されていた
逝去した直後は、国家レベルで1つの宝とまでされたが、間もなく敵国扱いの様相を呈し始め、近代日本の曙が1人のスコットランド人と繋がっていることが認識されたのは1980年代の初めになってから
1999年 長崎のグラバー邸にある彫像の記銘板が、"Scotsman”と書き直された
グラバー研究について言えば、最初の本格的評伝は1989
グラバーの友人で、外交官のアーネスト・サトウ(18951900年在東京英国特命全権公使)1921年に出版した回顧録『一外交官の見た明治維新』ではグラバーの存在を一切黙殺 ⇒ 公認の日本史の中でグラバーが採りあげられなかった理由

第2章        スコットランドの深北部
父親はイングランド人。沿岸警備隊に志願し、最初の勤務地アバディーンシャーの寒村で地元の女性と結婚し息子ブレイクをもうける
ジャーディン・マセソン商会から声がかかったのは、地元の中等学校を出てから数年間港町で働いていた時で、一家が「自己向上」の意欲に燃えていたことが大きく貢献しており、1つの昇進であり、社会的成功と言える
1857年に採用され、中国に派遣

第3章        中国の噂
1842年 第1次アヘン戦争の結果南京条約が締結され、上海他5港を開港、正式に英国領となった香港にジャーディン・マセソン商会設立、スコットランド人の極東の足場となる
1856.11. 上海赴任(2章の記述と矛盾)
36ページ10行目 「板道」は「坂道」の誤植?
中国市場開放後の標的に、さらに東の国日本が鳴り、54年に開国に続いて、英国政府は上海の投機家の圧力に押される形で58年日本に貿易協定を迫る ⇒ 58年エルギン伯爵によって徳川幕府との間に条約調印、広東にいたオールコック公使が日本常駐使節団として派遣。上海で決まりきった仕事と不潔さに嫌気のさしていたグラバーは日本行きを志願
グラバーは、当初数年間、孤立した生活を送る ⇒ 攘夷運動による襲撃が日常化、反幕派の志士は幕府に反発して外部世界との接触を嫌がった
1859年半ば、英国は中国から艦船を出撃させたが、過激な攘夷派の反撃を誘発し自国の商人の命を危険に晒す結果に ⇒ 江戸の公使館の使用人が殺傷される事件の後、61年に最初の大きな襲撃事件で、江戸の公使館が狙われる(生麦事件は翌年9月のこと)
外国人の眼からは、どちらが佐幕か反幕か見分けがつかず、お互い不浄の絆で結ばれているように見えたし、実際どちらからも狙われる危険があった
63年アメリカ公使館焼き討ち、英国人はより一層衝撃を受けたが、グラバーはほどなくこの放火に絡んだ侍たちの攘夷運動をコントロールし、巧みな弁舌と厚かましさを駆使して、彼等の怒りを英国式自由貿易という型の中に押し込んでいくことになる

第4章        一攫千金を夢見て
グラバーの日本行きの話は、同郷のスコットランド人で既に極東で貿易協定に対するいい加減な態度故に悪評がたっていたベテランの企業家ケネス・マッケンジーとの出会いから持ち上がった ⇒ 当初のジャーディン・マセソンとの繋がりが希薄になり、2人は結託して3大商品である絹と茶とアヘンの密輸を始める。マッケンジーは兄弟で、上海に会社を興し密貿易を始めた後ジャーディンの上海代理人となり、日本へはグラバーより8か月前に到着
グラバーは、持ち前の人懐っこさで、反幕派の侍たちに近づき、既に交易の中心地として高い評価をいち早く勝ち得ていた長崎をベースに、船舶操縦術や貿易、兵站学を学ぶために長崎に来ていた反幕派による艦船買い付けに目をつける
61年長崎商業会議所が設立されると代表委員となり、積極的に居留地を買い始める
グラバーは、幕府より先に近代化を推進しようとする反幕諸藩が、遠からず幕府を倒すかもしれないということを念頭に、しかもなお幕府とも密かに関係を持っていた
当時の貿易商人は、短期で巨利を得て手を引くのが普通で、グラバーも当初はその1人だったが、次第に政治的な動きに巻き込まれていく
外国為替でも、知識と情報に疎い日本人相手に、多量の金の流出に介入してうまい汁を吸った
マッケンジーがいち早く見切りをつけて僅か2年後には中国に戻った後、グラバーがジャーディン・マセソンの代理人の立場を引き継ぎ、別に実兄ジェームズも加わってグラバー商会を設立
最初に独自の事業として始めたのが、紅茶の栽培 ⇒ 最終的に、ジャーディンの満足する品質にはならなかったが、日本での事業家としての評判を作るのには成功

第5章        帝国の周縁にて(1)-大いなる英国
近代日本出現の物語は、1850年代後半から10年に亘る、反乱分子たちが幕府という共通の敵を抑圧的なものと捉え、それを破るために異国の技術を取り込む物語
異国人の中で先陣を切ったのがグラバー
1861年 薩摩藩が軍艦を購入したのが契機となって、1つの藩が1つの国家のごとく行動を始める ⇒ グラバーも、ジャーディンから「カルタゴ号」の処分を依頼され、軍艦売却の片棒を担ぐようになる
討幕の志士たちの目論見が成功し、彼等が実権を握る手助けが出来れば、幕府による貿易の締め付けは終わり、新政府はどんな商品でも、とりわけ、長い鎖国の時代の跡では武器を購入する囚われの顧客となるだろう、そして1人のスコットランド人の企業野心が少数の脱藩分子の忠義心と結びつき、現代の日本政府の発展に通じる決定的なものとなったのである
グラバーは、薩摩に続いて、長州にも食い込み、伊藤、井上等と手を結び、彼等の外国への密航にはグラバーが関与していた
薩英戦争を契機に、薩摩藩が急速に攘夷思想から転換、五代友厚が先頭を切ってグラバーと一緒になり、外国の支援を期待して軍装備の一新に乗り出した ⇒ グラバーは貿易協定を破って武器調達に奔走。英国大使館には蔑まれたが、着任したばかりの通訳だったアーネスト・サトウは、グラバーのほうが侍たちの野望をよく知り抜いていると判断、その影響もあってサトウも反幕的見解に傾倒していく
長州藩も、6364年の下関事件/4国艦隊下関砲撃事件の報を受けて急ぎ帰国した伊藤・井上らによって、グラバーを介して武器配給の組織網を作り上げるとともに、急速に親西洋主義へと傾倒していく
グラバーが、薩摩にはっきりと加担するようになった背景には、イギリス公使パークスの着任がある ⇒ グラバーが薩摩との接触を仲介
薩長肥からイギリスへの密航者を何組も支援している

第6章        刀剣の道
小銃の輸入では、グラバー商会がトップの実績
軍艦の輸入は、アバディーンからで、1868年に最初に到着して以来グラバ-の最も長く続いた業績の1つとなる ⇒ アバディーンの造船所を蘇らせた

第7章        その前夜
英国政府が日本の体制改変を意図的に演出するような先見性を持っていたかどうかは疑わしいが、1860年代を通して英国外務省がグラバーの政治活動を抑え込まなかったことは、彼にとても驚くべきことだった。日本に新しい帝国主義を発展させる機会を与えたことにグラバーが誇りを持っていたのは疑いえない

第8章        転落への道
王政復古とともに、いくつもの藩が武器代金の支払いを不履行にし、諸藩に投資していたグラバーは資金難が生じる ⇒ ホームシックと経済的不安から一旦アバディーンに戻り、新しい日本に逗留する決意を新たにする
武器商人から実業家への転身 ⇒ 長崎の南西海上にある高島炭鉱。肥前鍋島藩から借り受けて採掘を始めたが、次々と追加投資しても生産量は上がらず、1870年破産。オランダ貿易会社が資産を接収、グラバーは使用人として経営を支援する立場に
鉄道事業へも触手 ⇒ 1865年 上海万博で展示された最初の蒸気機関車を日本に輸入、長崎で走らせた後横浜でも試運転し、後の東京・横浜間の鉄道開設に繋げるが、その構想を実現させたのは同じスコットランド出身のグラバーの友人だった
長崎に作った造船所は、グラバーの偉業の1つ ⇒ アバディーンから造船台を輸入、国内での船舶建造へという画期的変化の道筋をつける。三菱財閥の礎石にもなる
破産が成立したところで、グラバーは遊女ツルと最初の正式な結婚をする ⇒ 娘しかできず、別の遊女との間に産ませていた男児を引き取って跡取りとしたのが富三郎

第9章        造幣事業の帝国主義者
日本最初の造幣局設立に関わる ⇒ 維新後の混乱が収まりかけた頃の71年大阪に造幣局が開局されることとなり、香港の造幣局が閉鎖されるというニュースを耳にしたグラバーがジャーディンの横浜支店に造幣機械の購入を持ちかけ、グラバー商会の業務とした後、新政府の手に委ねる
廃藩置県により、諸藩の事業も国に返納 ⇒ 炭鉱事業は伊藤が運営する工部省に譲渡、造幣事業は五代との関係を深め、いずれもグラバーが新政権のお歴々とつながるのを助けた
炭鉱経営は、第2立坑が当初予測の産出量を生み出し、破産から2年で負債の3/4を返済、後藤象二郎の手に渡り、過酷な労働が問題となって顕在化、事故も頻発して暴動が本格化、グラバーが間に入って後藤の手から取り上げ、73年に発足したばかりの岩崎の三菱の手に委ねるよう仲介、炭鉱夫たちとの和解に貢献する
三菱が正式に引き継いだのは1881年になってからだが、グラバーにとっては1870年代半ば以降伊藤に代わって岩崎が、政治的・経済的に最も頼りになる友人となった
グラバーも、三菱が外国産のアイディアを輸入するパイプ役となって三菱の発展を支援
炭鉱の失敗で、財産も友人も全てを失ったグラバーに真の転機が訪れたのは1876年、その年岩崎が彼に、起業家的、産業家的な衝動を捨てて、決まった給与を得る立場に就かないかと申し出

第10章     移りゆく侍像
明治維新によって日本の新しい政治体制は、一種の階級的な実力主義へと向かうように感じられ、それは上昇志向の強いグラバーにとっても信じることのできるものであった
産業化によるあからさまな階層区分を理解し、それを利用しようとした
佐久間象山の言う「東洋の道徳、西洋の技術」こそが上昇志向の侍にとっての狙いであり、そこから明治政府を背負って立つ政治家たちが輩出、それにグラバーも絶好のタイミングで後押しして乗っかった
1871年 岩倉使節団の結成を後押し ⇒ そもそもオランダ系の宣教師フルベッキによって提案され、岩倉を担ぎ出したもの
伊藤の関心がプロイセンの方に流れていく1880年代までは、日本の新しい立憲君主制のモデルが英国だったという事実は、パークスのような英国の外交官の影響とともに、グラバーの影響とも関係することであった

第11章     宝島
スコットランドで最も有名な歴史冒険小説家でエディンバラ生まれのロバート・ルイス・スティーヴンソンは、青春時代のある時期、日本に渡る計画を立てていた。グラバーが明治維新の計画に手を貸していた頃、スティーヴンソンはまだ10代で、お互いの接点・共通点はないが、2人の物語は密接に絡まり合っている
スティーヴンソンは貧弱な健康のせいで日本に来る夢を果たせず、太平洋のもっと南の島を舞台に作品を書いているが、商人の帝国らしきものを鋭い皮肉を込めて描いた。とりわけ彼が惹きつけられたのは、伊藤や井上ら天皇政復古の新政府を樹立するよう啓発した世代の人々
スティ-ヴンソンの家は、技術屋で、明治維新の頃までには、文化が最も詰め込まれた技術部門、即ち灯台の領域で、日本への科学技術の供給源となっていた
たまたま日本での教員をエディンバラまで捜しに来ていた明治の教育者・正木退蔵と面識を得る
グラバーも、スティーヴンソン家の灯台が地元に設置されるのを見ていたし、灯台建設のためにエディンバラから日本に派遣されたのはグラバーの知人・ブラントン ⇒ 灯台以外にも横浜の土木事業で名を成した

第12章     カウボーイ的な相談役
1876年から三菱商会の顧問として勤務
1881年 ダイナマイトの実験を始める
188187年 4代目ポルトガルの駐日領事に任命 ⇒ 外交の世界でも多少は認められる。ただし、権限はマカオ在の全権大使が握っていた。最大の強みは、全く共通点のない人々を繋ぐ能力
1881年に伊藤がイギリス型から、一層絶対主義的な政府という着想に流れていったとき、グラバーとの間に亀裂が入る ⇒ 議会の上に神の如き天皇を戴くという旧式の攘夷思想の一類型を信奉したときはグラバーは肝をつぶしたし、岩崎にしても、自由主義に傾く人々に資金提供していると非難を浴びるようになり、従業員に対し、「政治に無縁であれ」と訓示せざるを得なかった
伊藤との政治的、道義的な隔絶、専制主義者の亡霊、監視の眼を光らせる異国人嫌いの政府といった諸問題が、グラバ-が樹立に助力した国家において、日々緊張を強いる事柄となって来て、酒に溺れるようになる

第13章     ビールと名誉
麒麟が会社の設立の起源としているコープランドが1869年に開設したスプリング・ヴァリー・ブルワリーは1884年に倒産。グラバーは、その土地を買収して、内務省で働いていたカークウッドなる人物を共同出資者として、ジャパン・ブルワリー・カンパニーを設立、日本の経済産業界では初めてとなる新株発行による資本金を集め85年にスタート、香港に登記されたが、日本に国税を納める外国人経営の唯一の会社となる
1907年 三菱が買収 ⇒ キリンビールの創業。会社の礎を築いたグラバーの栄誉をたたえて、口髭がキリン=ライオンの意匠に付加された
1887年 鹿鳴館の外国人名誉書記に任命
グラバーが描いてきた立憲的軍事大国としての近代日本像が英国外務省から然るべき重要性を認められていなかったにもかかわらず、1894年の日清戦争において具体的な植民地政策の形を取り始めたとき、強力に後押しし力の及ぶ限りそれに参画

第14章     帝国の周縁にて(2)-日本
1890年代、公的な生活から退いてはいたが、政府の征韓方針、領土拡張を支持、日清戦争の際の旅順虐殺事件の報についても、「残虐さはすべて殺し合うという戦争の仕事の一部」として積極的に政府を弁護したこともあって、政府当局に愛でられ、麻布の家には伊藤から純和風の離れ家が寄贈された(伊藤との敵対関係は修復) ⇒ 後に叙勲された時の推薦の辞は、日清・日露戦争中に戦争支持者と日本で仕事をする外国人との間で彼が果たした仲介の役割を仄めかす内容
グラバーは、ロンドンの政局内での党派分裂にも目を光らせ、サトウと同調して、日本帝国を対等の条件で受け入れ、何等かの帝国連合の絆を作り上げようと考えた日本に与する一派と連携し始める ⇒ 併しながら、英国本国の日本に対する態度は、1897年のヴィクトリア女王即位60周年記念祝典にサトウを伴って参列した伊藤が外務大臣ソールスベリー卿から冷遇された時に明らかとなる
サトウは、英国のパブリック・スクール制度の中では異例の抜擢を受け、70年代から将来に向けて英国政府が採るべき唯一の方法として日本との対等な提携を提案(「我々の文明を丸ごと取り入れることのできるアジアで唯一の国民」)していたが、批判的態度が過ぎて83年にはバンコクに飛ばされ、89年にはウルグアイへ島流し同然となり、93年モロッコで多少の復活の兆しを経て95年日本に返り咲いたのは免罪の証
日本の認知度を高めようとするサトウは、ロシアの東アジア圏へ触手を伸ばすことに対し、日本が西洋列強に対し決定的な一歩を踏み出す意気込みを見せていると言って英国政府の注意を喚起 ⇒ 日本では、グラバーが親日家たちとの親交を通じて、本国政府の日本への理解を深めようと努力。サトウの依頼で、たまたま極東視察の途上来日が予定されたスペンサー卿(故ダイアナ妃の祖先)の接遇を通じて、英国の同意抜きのロシア侵攻は東西関係の機軸を危険に陥れることを理解させ、更には本国内で日英同盟の必要性を提唱するまでに卿を転身させるうえで大きな役割を果たす
もう一人日英同盟締結に貢献したのはグラバー邸の常連でもあり英国領事館で18691902年の間働いたジョゼフ・ヘンリー・ロングフォード。3人で協力して本国政府に働きかけた。退職後はロンドン大学のキングス・コレッジで最初の日本学教授となり、日本について影響力を持つ多数の著書を出版
1904年対ロ開戦 ⇒ グラバー自身は、帝国海軍への忠節に浸りきってはいたものの、ロシアに対する日本の勝利の持つ意味合いを心中密かに恐れていた

第15章     『蝶々夫人』顚末記
グラバー一家とオペラ『蝶々夫人』との間に具体的繋がりがあるということが、グラバーの生涯を端的に物語る際には不可欠の決まり文句とされてきたが、実際は存在せず
長崎市が1957年にグラバー邸を公開した際、観光客誘致のためにグラバーと『蝶々夫人』の関係を強調したが、正妻ツルは幸せに生涯を全うしているし、富三郎を取り上げられた実母マキは一般の遊女で妻という意識はなかったうえにツル以上に長生きした。何よりグラバーが長崎に踏みとどまり、ツルとの生活を30年に亘って続けたということからも、物語との関連性は考えられない
『蝶々夫人』の作家ジョン・ルーサー・ロングが、富三郎を物語の中の子供としているとか、富三郎が8991年ロングと同時期にフィラデルフィアに滞在していたことを指摘して関連付ける説もある (別ファイル『プッチーニ オペラ解説』参照)
プッチーニのオペラまでの道筋 ⇒ ロングの姉セアラ(サラ)・ジェーン(ジェニー)・コレルがアメリカ人宣教師の妻として長崎に滞在した時に耳にした「茶屋女」の断片的な話(真偽は不詳)を、97年フィラデルフィア訪問の際弟に語り聞かせて、そのまま台本になったというもの。それは同類の、もっと早い時期にフランスで出版された『蝶々夫人』酷似のピエール・ロチ(本名マリ・ジュリアン・ヴィオー)の小説『お菊さん』に描かれた諸要素と合体されることになった。ロチは、85年夏所属の艦船が修繕のため長崎に寄航、一夏を過ごしている
ロチの本は、アンドレ・メサジェによって小歌劇にされ、1892年イタリアでその楽曲を作った時には、彼は、ジャコモ・プッチーニと共にジュリオ・リコルディの客だった
プッチーニは、1872年にはサン=サーンスの『黄金の王女』で描かれた田園詩風の日本に関心を持つようになる。サン=サーンスは、西洋音楽の中で初めて5音音階を大衆化、「東洋風」に響くよう意図されていたが、ジャポニズムの絶頂期よりかなり前のこと。この作品は、日本人女性とオランダ人医者の結婚を描き、モデルはシーボルトに類似、ピンカートンとは相容れない高潔な行動をとる。作品自体高い評価はされていないが、「日本趣味」の音楽的、文化的テーマのいくつかは彼とは切り離せない
興味深いのは、ロングが単なる文学的野心だけではなく、政治的な観点から安政の5か国条約の撤廃に向かう日本の活動への意識を高めたいと狙っていた節があること ⇒ 便宜上の結婚が不平等条約の国内版であることが暴露された
ロングの物語は、98年の出版と同時に大好評を博し、劇作家ベラスコに採りあげられ、1900年ベラスコ作による芝居の上演をプッチーニが観た(ロチと両方を見たことに)
プッチーニは、サン=サーンスに続く多くの「東洋的」な音楽の実験を聞いて意識し始め、ドビュッシーからも5音音階を学び、ピエトロ・マスカーニの『アイリス』がこれに弾みをつけたが、その台本を担当したルイジ・イッリカがオペラ『蝶々夫人』の台本も提供
その間、ジャポニズムがスコットランドの学者や芸術家にも重大な影響を及ぼし、グラスゴー派と呼ばれる運動を喚起していたが、彼等が93年来日したことをグラバーが知っていたら、きっと大々的に支援していたであろう
イッリカの物語は、結局ロングとベラスコを掛け合わせ、現地の情報提供者たちから、とりわけ大山久子から編集上の援助を得たものだったが、彼女はローマの日本公使の妻で、アメリカ的な表現を修正するために一役買った。台本の体裁に直す作業で、とりわけ気難しさで悪名高いプッチーニと共同制作しなければならないために、イッリカの物語にはいくつかの歯止めがかかり、物語が原作よりもグラバー家の話により近くなったのは皮肉
イッリカの初期草稿の多くが廃棄、プッチーニも第2幕と3幕を畳み込んで長い1幕にして友人たちの度肝を抜いたが、04年のミラノでの初演がさんざんの不評を買って失敗に気付く。07年のアメリカ公演のためにさらに加筆修正されたが、それはアメリカ人たちをずっと共感溢れる角度から描き出していた(ピンカートンを盗み取った横柄なアメリカ人妻ケイトはほとんど姿を現さない)
グラバーがこのオペラの存在を知っていたとは思えないが、知っていたとしても水準以下の日本学の1例として、下らんと退けたであろう
ロングの小説が日本で著名になったのは、彼がこのオペラを国に連れ帰った功労者である三浦環に直接その物語を語ったからだが、彼女の彫像が長崎のグラバー邸に見られるのは、日本人がこの物語を日本人なりに翻案したから
1916年日本で川上貞奴がベラスコ版の劇を上演、悲劇というよりも遺棄の無責任さを思い切り強調
三浦環は、36年に東京で初めてオペラの主役を演じたが、タイミングは最悪で、未だに日本では『蝶々夫人』が大人気になったことはない
ジェニー・コレルは、31年のインタビューで、蝶々夫人の物語の真相を知るのは自分のみと主張するが、おぼろげな記憶や、センセーション好み、細部の欠落が、その説明に一層の疑義を抱かせただけ。戦後長崎市がグラバーとの繋がりを強調した時も、コレルのインタビューの内容が前面に押し出され、富三郎が「両親がこの物語に関係があるのでは」との質問に頷いたことが何よりの裏付けだとコレルは言うが、小さな子供が何を思って頷いたのかは知る由もない
グラバー園自体、『蝶々夫人』の舞台だというのは日本語のパンフレットだけで、英語版では明確な影響関係を否定 ⇒ 「真実の」蝶々夫人探しは時代錯誤で実在しない
2次大戦後、アメリカ人家族がグラバー邸に住んだ際、『蝶々夫人の家』と言い出したという説もある

第16章     文明開化
1899年 ツル病没 ⇒ グラバーは便宜上の結婚の通常の枠を越えるほど取り乱し、友人たちへの有名な覚書の中で「私の哀れな妻」と呼んで、それを表現した
1908年 叙勲 ⇒ 外国人として異例の勲二等旭日章
以前から抱えていた腎臓の疾患が悪化して、家で趣味に生きたが、1911年死去。死因はブライト病(慢性腎炎)。明治天皇の特使が派遣され、英国艦船は半旗を掲げ、長崎市はその日喪に服した
息子・富三郎 ⇒ 最初の教育は、ロングの義兄でメソジスト派宣教師が運営する鎮西学館、次いで学習院、中退して米国留学へ。日本でも異人扱い、アメリカでも唯一のアジア人として差別。帰国後長崎で外国商社に入り、同じく混血の娘と結婚、長崎の社交界に入りびたりとなる。生涯を2つのことに捧げる。1つは『日本西部及び南部魚類図鑑』と題する写生図稿本の編纂、もう1つはトロール漁業の導入(父親が手掛けた漁業実験の1)
戦時色の進行とともに、憲兵隊の厳しい監視下に置かれる
娘・ハナは、長崎の英国商会で働くイギリス人と結婚、韓国で自らの会社を旗揚げした夫に従って韓国に行き、38年他界。夫はその後英国領事
受け継がれた遺産はほろ苦い物 ⇒ 幕府に風穴を開け、進取の気性に溢れる数多くの侍たちが、彼無くしては不可能であったはずの国際的な教育を受け、国際政治に関わる機会が得られるよう支援した。他方、彼が武器を提供し、日本の帝国主義に基づく軍隊を準備させ、領土拡張を後押ししたことが、日本と、彼の子孫たちのほぼ全員が母国と呼ぶことになる国との戦争へ突っ走る機運を助長することになった。それは葛藤と友情、戦いと平和とが混ざり合う寄せ集めであった。
グラバーは2つの顔を持つ。実利的で、道徳に縛られず、しばしば感情が全くないように見えるが、しかし思い遣りがあり、広い層の友人たちから称賛されているという顔で、そこから国際的な交友関係に火をつけることになったのだ。グラバーの生涯と関係する奨学金を提供するさまざまな国際機関にとっても、複雑な歴史と心地良いヨーロッパ的な環境をうまく繋ぎ合せようとする安政開港の地にとっても、これは微妙なパラドックスだ


訳者あとがき
従来のグラバー伝とは一線を画す出来栄え
従来のグラバー伝を踏まえた上で、新しい事実と解釈を提示しただけでなく、グラバーの活躍を、日本史の一時代の出来事として限定せず、英国中心のグローバルな帝国主義のコンテクストで再考している点で、斬新な評伝として評価できる
本書の特徴
l  1920世紀の西洋の政治、経済、外交、文化、思想、教育などの相互の関わりの中に大英帝国の日本進出と明治維新を位置付けており、そこからグラバー暗躍の背景を浮かび上がらせている ⇒ 多角的アプローチは、1人の人間の伝記としては異色
l  プッチーニの『蝶々夫人』に纏わるグラバー神話を崩壊させた
l  大英帝国の一部をなすスコットランドと近代日本の建設との密接な関係を、物的交流のみならず、人的な交流から具体的に分析 ⇒ なかでもグラバーとスティーヴンソンの日本への関わり方を比較して、スコットランドの二面性、すなわち、親イングランド的な政策・教育を取って帝国主義を推進したスコットランド啓蒙思想と、イングランドへの反逆精神と独立精神を持ち、反帝国主義的なスコットランド人魂という「二面性」を論じる一説は興味深い
19世紀後半から20世紀初頭までの日英関係に関して様々な局面に及ぶ論争を挑発し、思考を掻き立てる書
現在アバディーンには、グラバーの両親の家「ブレーヘッド・コテッジ」が三菱重工に買い取られて、「グラバー・ハウス」としてグランピアン・日本トラスト財団により保存されている ⇒ グラバーが日本に旅立ったあとに両親が購入したものだが、グラバーはそこに日本の留学生を送り込んでいる



トマス・グラバーの生涯 大英帝国の周縁にて []マイケル・ガーデナ []村里好俊・杉浦裕子
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「外人」であり続けた近代商人

 幕末・明治に武器商人から企業家そして外交官の役割まで果たしたグラバーだが、英国では権威ある日本史書に一切言及されていないという。
 しかし彼は、故郷スコットランドのアバディーンで日本向けの軍艦を次々に建造させ、長州や薩摩の英国留学を助けて実家にまで住まわせるなど、スコットランドと日本を強く結びつけた。灯台建設では、その仕事を同郷のスティーブンソン家に依頼し、『宝島』の作者R・L・スティーブンソンが吉田松陰に関心をもつきっかけをも作った重要人物なのだ。
 同郷人である著者は、彼が大英帝国の「周縁」たるスコットランド人だった事情がそこに絡んでいると、力説する。しかも日本とスコットランドの立場は似ている。ともに大英帝国の産業力や教育制度の有効性に学ぶ一方、精神的には英国と距離を置き独自性を保とうとしたからである。日本の近代化に協力しながら、「外人」であり続けたグラバーの二面性に、著者は大きな関心を向けるのだ。
 それにしても直截で個性的な書きっぷりの本である。グラバーを違法すれすれの不良外国商人と呼び、佐幕派と勤皇派の戦いを「天皇への忠誠競べ」と喝破し、終いには『ラスト・サムライ』や『スター・ウォーズ』のキャラクターまでが引き合いに出されるのだ。テーマの絞り方も個性的で、炭鉱経営に失敗し破産した時期の生活、多数いた兄弟姉妹との関係、また彼が育て上げた横浜の国産ビール会社については、その「キリン」マークの由来に関する秘話にまで及ぶ。
 だが「伝説破り」の非情な筆は、周縁に活動の場を据えた人物としての悲哀をも浮かび上がらせる。海外に飛躍したグラバー家で子を成した人は誰も故郷に戻らず、その子孫たちが日本やアメリカでスパイ視され、出自を隠さなくては生きられなかったとする結末には、無常観があった。
    
岩波書店・3885円/Michael Gardiner 70年生まれ。英ウォリック大教授。


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トーマス・ブレーク・グラバー: Thomas Blake Glover183866 - 19111216)はスコットランド出身の商人武器商人として幕末日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど日本の近代化に大きな役割を果たした。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船、採炭、製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。

生涯 [編集]

スコットランド・アバディーンシャイアで沿岸警備隊の1等航海士トーマス・ベリー・グラバー(Thomas Berry Glover)とメアリー(Mary)の間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれる。ギムナジウムを卒業した後、1859上海へ渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。同年919安政6823)、開港後まもない長崎に移り、2年後には「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店(グラバーの肩書きは「マセソン商会・長崎代理人」)として「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して薩摩長州土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。亀山社中とも取引を行った。また、薩摩藩の五代友厚森有礼寺島宗則長澤鼎らの海外留学、長州五傑のイギリス渡航の手引きもしている。
1865412日(元治2317[1]には、大浦海岸において蒸気機関車(アイアン・デューク号)を走らせた。本業の商売にも力を注ぎ、1866(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。1868明治元年)には肥前藩=佐賀藩との合弁)と契約して高島炭鉱開発に着手。さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。
明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870(明治3年)、グラバー商会は破産。グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。1881(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。また1885(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥ったスプリング・バレー・ブルワリーの再建参画を岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎を築いた。
私生活では五代友厚の紹介で、ツルとの間に長女ハナをもうけている。また、息子に倉場富三郎(Tomisaburo Awajiya Glover)がいる。(ツル以前に内縁の広永園との間に梅吉をもうけているが生後4ヶ月程で病死している)。
晩年は東京で過ごし1908(明治41年)、外国人として破格の勲二等旭日重光章を授与された。1911年(明治44年)に死去。墓は長崎市内の坂本国際墓地にある。ツルとともに埋葬されており、息子の富三郎夫妻の墓とは隣同士である。邸宅跡がグラバー園として一般公開され、現在は長崎の観光名所となっている。

人物 [編集]

§  太宰府天満宮にある麒麟像をたいそう気に入っていたらしく、何度も譲ってほしいと打診していた。
§  キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。
§  スコットランド系フリーメイソンリー(フリーメイソン)といわれるが、根拠はない。邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものを1966昭和41年)に寄贈され、移設したものである。




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