正岡子規 Donald Keene 2012.10.21.
2012.10.21. 正岡子規
著者 Donald Keene 経歴は末尾参照
訳者 角地幸男
発行日 2012.8.30. 発行
初出 『新潮』 2011年1月号~12月号
発行所 新潮社
第1章
士族の子――「弱味噌の泣味噌」だった幼少時代
版籍奉還後俸禄が1/10に切り下げられて14石、まずまずの生活を維持
維新の改革では武士は俸禄を剥奪され士族となり、その体面だけは維持
玄祖父・一甫(いっぽ)は「お茶坊主」の松山藩士。茶道を窮めた風雅な人
1869年生家全焼 ⇒ 2歳の子規にとって玄祖父との唯一の共有体験
父は、曽祖父の養子に ⇒ 大酒飲み、40歳の時肝硬変で死去(子規6歳)。手厳しく父を批判しているが、敬語は忘れない
母、妹と3人暮らしで育つ ⇒ 母は儒学者の娘だったが、子規の才能には無関心。妹は子規と違って勝気、それゆえか2度離婚(子規看病のためというのは間違い)
子規の本名は「處(ところ)之助」、トコロテンとからかわれたので「升(のぼる)」と変えた
弱虫で、友人からいじめられて泣いていた。左利きも一因
第2章
哲学、詩歌、ベースボール――実は「英語が苦手」ではなかった学生時代
1880年 県立松山中学入学
1883年 中退して東京の叔父を頼って上京、共立学校(現在の開成中高)入学
元松山藩久松家から奨学金を受ける
初めて『荘子』の講義を聞いて、哲学に目覚める
英語を高橋是清に習うが、子規は高橋についてほとんど語っていない
本郷の進文学舎に英語を習いに行くが、その時の教師が坪内逍遥(逍遥が新進気鋭の小説家・批評家として名声を得る前年のこと) ⇒ 本人は否定するが、英語の力は馬鹿にしたものではなかった(漱石との比較で力がないと言ったのかもしれない)
子規が最初に夢中になったのは漢詩、85年から短歌、87年から俳句に関心を広げる
哲学が目的で、詩歌は娯楽と言っていた
1884年 東京大学予備門を受験 ⇒ 英語の質問がほとんど理解できなかったが合格
この時のエピソードにカンニングの話がある ⇒ ある単語が分からなくて困っていたら、「ホーカン」と囁く奴がいたので、意味不明とは思いつつ「幇間」と書いたら、実は「法官」のことだった。ただし、「幇間」は「ほうかん」だが「法官」は「はふくわん」なので発音が違う
ベールボールへの熱中 ⇒ 開成学校にいたアメリカ人教授に教えられて始め、弟子の河東碧梧桐に教えた。子規が野球用語を翻訳したが、いくつかは今でも使用。なぜ熱中したのかは不詳だが、他に運動がなかったことと戦術の訓練になるからだった
ずぼらではあったが、体が弱い割には不規則に過剰な運動をし、不必要な苦痛に身を晒すことで常に自分を試し、そうした禁欲的な努力の中で身体の弱さを克服しようとした
第3章
子規(ほとゝぎす)の歌――初めての喀血、「畏友」夏目漱石との交友
1889年 初めて喀血 ⇒ 結核と診断されたが、翌日夜中までに「時鳥(ほととぎす)」の題で発句四、五十を作る(後述)。その時初めて子規を訓読みで「ほとゝぎす」と使った
ホトトギスは、その鳴き声が恰も血を吐いているかのように聞こえる鳥
1884年 大学予備門に入った時、漱石と知り合う ⇒ 89年以降交際が緊密化、子規の死まで続くが、もっぱら手紙の交換による付き合いだった。漱石からの見舞状を何より歓迎した
『七草集』(1888) ⇒ 子規が、自分が選んだ方法で自由に書けるだけの言語の技巧、文体の技巧を持っていたことの現れだが、漱石は行為を持つと同時に欠点を指摘する用意があり、ろくに勉強もしなかった子規にもっと本を読めと勧める
1891年末から「俳句分類」の仕事を始め、膨大な量の古い俳句の筆写にかかると同時に、盛んに俳句を詠み始め、気持ちの緩みを脱したとも言っている
第4章
小説『銀世界』と『月の都』の作者――僕ハ小説家トナルヲ欲セズ詩人トナランコトヲ欲ス
俳句で自信を得た子規は、たまたま懸賞小説の募集に応募が少ないことから自分で書いてみたのが『銀世界』 ⇒ 子規の小説への興味は、逍遙の『当世書生気質』と『小説神髄』(いずれも1885刊)
露伴が西鶴の文体を使ったことに感嘆し、文語体への拘りを持つ ⇒ 二葉亭四迷のような口語体が美しいものになるか疑問を持つと同時に、当時の言文一致への動きも拒否
文学は、「多衆の愚民」にだけ向けて書かれるべきではないという、幾分不愉快な傲慢さの現れ ⇒ 自分が士族階級に属していることを片時も忘れることはなかった
1891年 大学生活に辛抱できない最初の兆候。鬱病になって哲学から国文学に専攻を変える。病気を理由に退学、小説に没頭して書いたのが『月の都』 ⇒ 文体は尊敬する露伴の『風流佛』を模範とするが、能の文体の影響もうける。露伴に見てもらうが、期待していた称賛の言葉はなく、「小説家トナルヲ欲セズ」と愛弟子の虚子に書き送っている
第5章
従軍記者子規、唐土(もろこし)へ渡る――恩人・陸羯南と新聞「日本」
1892年 陸羯南の紹介で隣家に引っ越し。同時に羯南が創刊した新聞「日本」での記者としての才能を期待されて入社、母と妹を呼び寄せる
1895年日清戦争の勃発とともに、健康であれば男として当然従軍していたはずで、せめて従軍記者として戦場に赴くことを決意、大本営のあった広島に向け出発。特派員にも拘らず刀を持参 ⇒ 戦場での経験が自分の芸術に新しい息吹を吹き込むことを確信
大陸へ出発する直前に休戦となったが、そのまま大陸へ渡り、戦争による荒廃を目の当たりにする ⇒ 帰りの船中で再び喀血したが、奇跡的に生き延びる
第6章
「写生」の発見――画家中村不折との出会い、蕪村の俳句
恢復後、高浜虚子を後継者に指名
松山に帰省して、当時松山中学で教鞭を取っていた漱石と同居
陸羯南の勧めで、詩人として、また詩歌の批評家として書くことになり、読者の心に俳句の重要性を定着させ、俳句の大衆化への評判を呼んだ
1894年 中村不折(1866~1943)と出会う ⇒ 浅井忠の弟子で、子規が羯南から編集を任された創刊されたばかりで文化記事中心の新聞「小日本」(直ぐに廃刊)の挿絵担当。2人の友情が俳句の歴史を変えることになる ⇒ 「写生」の重要性を教えられ、その方法を昔の俳句に見つけようとして蕪村の俳句の美を発見、97年に「日本」に長篇批評『俳人蕪村』を連載、俳句史上最も重要な文章の1つとなり、蕪村は俳句詩人として芭蕉に次ぐ重要人物として認められる
1895年 腰部に疼痛を訴える ⇒ 後に寝たきりにして命とりともなった脊椎カリエスの末期症状。虚子に自分の後継者となることを迫るが、虚子は嫌な学問をしてまで文学者になることを拒否、子規も諦める
第7章
俳句の革新――伊予松山で雑誌『ほとゝぎす』発刊
1897年 松山の友人弟子の柳原極堂が、子規の作品を中心にした俳句雑誌を出版。題名を『ほとゝぎす』とした ⇒ 発刊を祝う短い随筆を寄稿したが、あまり期待はしなかったが、用意した300部はたちまち完売。以後1年で、子規が俳句芸術の宗匠としての名声を確立、翌年秋の21号以降は東京で発刊、俳句以外にもあらゆる詩歌に範囲を広げ、同時に美術文学の批評も加え、部数も1500部に増刷
脊椎カリエスが進行、手術にも失敗、病床に釘付けとなる
第8章
新体詩と漢詩――胸を打つ「父の墓」「老嫗某の墓に詣づ」、そして「正岡行」
子規による俳句の分類は、後世の俳人たちに価値あるものとなる
近代性と変革の提唱者としての子規が、俳句の代わりに選んだのは、俳句で足りない部分を漢詩で補うこと ⇒ 17文字の俳句は数理上からも命数が近づきつつあるとし、新体詩の可能性に賭ける
第9章
短歌の改革者子規――『歌よみに与ふる書』十篇、橘曙覧(あけみ)の歌の発見
子規は俳句のみならず、あらゆる種類の日本の詩歌を作った
日本人が好んで作る「短篇韻文」に傾倒、もっぱら自然を対象に短歌や詩を作る
1898年 『歌よみに与ふる書』を発表し、『古今集』をこき下ろして、美の存在を踏まえたリアリズムの重要性を主張。和歌も俳句も字数の違いだけで同一の性質を持つとした
1899年 『曙覧の歌』で、因習打破主義者である橘曙覧(1812~68)の短歌を通じて重要な発見をする ⇒ 万葉の伝統から解き放たれ、ありのままの自然の芳香をそのまま和歌に詠んだ作品に啓示を得た
第10章
随筆『筆まかせ』から『松蘿玉液』『墨汁一滴』へ――ひたすら「生きて、書き続ける」という奇跡
さらに、詩歌以上に子規の散文、とりわけ随筆は伝統的な日本の詩歌の形式に近代性をもたらした人物の最も魅力的な肖像を描き出している
1884~92に書かれた最初の随筆集が『筆まかせ』 ⇒ 備忘録のようなもので、自分の注意を惹くものがあると、表現の吟味や文体の統一を図る時間を惜しんでひたすら紙に書き留めた。その最も注目すべき特徴は、子規の経験と回想が語られていること
友人からの手紙もあり、中でも傑出しているのは漱石からのもの
1896年 『松蘿玉液』が次作 ⇒ その間に発病があり、子規の態度の著しい変化を見ることが出来る。小説家の批判に加え、伊藤博文は政治家としての功績は認めるが漢詩人としての無能さを糾弾。さらに、西鶴、芭蕉、近松の功罪を取り上げ、世の議論を喚起
西鶴は、幼稚な物語ばかりだった江戸時代の小説に人情を描き出すことによって文学的価値を与えたが、その人情は「痴」の1字をもって足れり
芭蕉は、『万葉集』後初めて「真面目の韻文」を成した詩人として称えるも、多くの作の中で秀作はごく僅か
近松については、著作が演劇として幼稚、表現は誇張のあまり架空めくと批判
日本画についても、存続の危機にあると批判
松蘿 ⇒ 松に絡まる蔓
1901年 『墨汁一滴』 ⇒ 『病牀六尺』とともに、最も重要な作品。年の前半164回にわたって「日本」紙上に掲載。生きているのが不思議なくらい、殆ど動けない状態で書き続けた
平賀元義(潔癖な国文学者、「恋の奴隷」で有名)の歌を読んで感銘を受け、偉大な未知の歌人の発見に興奮したが、蕪村とは違って世の関心は惹かなかった
『万葉集』以降偉大な歌人と呼ぶに値するのは4人だけ ⇒ 源実朝、徳川宗武、井出曙覧、平賀元義。定家や西行を落として、実朝以外は江戸時代の3人を挙げたが、3人に共通しているのは紀貫之に始まる宮廷歌人たちの女性的な感受性とは対照的な益荒男振り
第11章
随筆『病牀六尺』と日記『仰臥漫録』――死に向かっての「表」と「裏」の世界
1902.5.5. 『病牀六尺』連載開始 ⇒ 大半は口語体で書かれている。この時期から子規が発表する散文は言文一致体となる。昼夜苦痛煩悶ばかりの様子が読み取れる
江戸後期の画家たち、酒井抱一、谷文晁、渡辺崋山等を辛辣に批評
子規は、自分でも優れた書を書いたし、その画にはかなり魅力がある
音楽に関しては何も書いていない ⇒ 西洋音楽の心得は無きに等しい
『病牀六尺』の連載中、新聞「日本」の編集者が子規に休ませようと配慮して1回休載したら、子規が「新聞の連載を見て甦るので、こんな我儘を言わねばならないほど弱っている」とクレームした
新聞に載せられない内容を毎日記したのが日記『仰臥漫録』 ⇒ どうやってこの詳細な日記をつける時間を見つけたのかは不詳、日記をつけた理由も不明。妹に下した残酷な評価(「理詰めで、同感同情のない木石のような女で、到底配偶者として世に立つことはできない」と言いつつ、「律がいなかったら今頃はどうなっていたかわからない」とも相矛盾することを言っている)を妹に読ませないためでもあったかもしれない
1901.10.13.の日記 ⇒ 1人になった時に自殺を考えるが決心できず、死はやがて来ると考えて自分を慰める。その時が来るまでやるべき最上のことは人生を楽しむことでとんでもないご馳走が食べたくなった
第12章
辞世の句――友人・弟子の証言、子規の功績
死の3日前まで『病牀六尺』の連載を続ける
子規の崇拝する人物は、日蓮とリンカーン
1902.9.17.最終回 ⇒ 子規を崇拝する取り巻きの1人からの手紙と歌からなる
18日朝 最後の句となった俳句3句を作る ⇒ 最初の1句が辞世の句として知られる
糸瓜(へちま)咲て 痰のつまりし 仏かな
明月の夜に糸瓜からとった水は、痰を切るのに効くと信じられていた。糸瓜は既に成っていたが、その水を子規に使うには遅すぎた
他の2句は絶筆とされる
子規の印象として、普通の愛情に欠けた冷たい理性的な人間、というのがある
短歌の弟子・伊藤左千夫は、その印象を払拭しようと長いエッセイを書く
子規の冷徹な側面である女性に対する関心の欠如は、かねてから弟子たちを戸惑わせる ⇒ 女郎買いに行ったことはあるが、二度と同じ女性の元に通ったことはなかった
1人の歌人を深く愛していた ⇒ 長塚節(1879~1915)で、親友になったのは子規が病床から動けなかった時期であり、明らかに肉体関係はなかった。自分の哲学を伝えることに非常な喜びを覚えたという
子規に対する批判は、弟子たちの子規称賛の辞にも出てくる ⇒ 頑固者、冷血
欠点もあり、批判も受けたが、子規の作品に対する評価を変えるものではなかった
子規が偉大なのは、著名な俳人の欠如や西洋の影響下にある新しい詩形式の人気のために、俳句が消滅の危機に晒されていた時に、新しい俳句の様式を創造することで同世代を刺激し、近代日本文学の重要な要素として俳句を守ったから
子規の早い死は悲劇だった。しかし、子規は俳句と短歌の本質を変えた。昔から賛美されてきた自然の美を子規は無視したが、しかしこうした無視は基本的に日本人の美的嗜好を変えることがなかった。詩人たちは最早そうした自然の美に触れることはない。詩人たちがむしろ好むのは、俳句や短歌を作ることで現代の世界に生きる経験を語ることであり、それこそが子規の功績だった (結論は意味不明)
正岡子規 [著]ドナルド・キーン
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■詩歌変革した生涯、丁寧に探索
明治が生んだ最大の詩人、正岡子規を描く評伝である。生涯と作品を丁寧に探索していく。筆致は抑制的であるが、考察の跡が選び抜かれた言葉にうかがえ、子規の全体像がよく伝わってくる。
「写生」という方法をもって、詩歌を底から変革した詩人の背後には、「欠伸(あくび)を催す」古俳諧の分類という仕事があった。徒労に似た無形の蓄積があって、日本文学の伝統、「小さい静謐な美」をよみがえらせ得たのだろう。さらに、新体詩、漢詩、散文をたどることで、この詩人の基軸が覚めたる批評的精神にあったことを知るのである。
脊椎カリエスに冒され、病床のなかで優れた作品を生み出したことはよく知られるが、凝視する表現がまた病の身を支えたのだ。子規は生涯、恋愛詩を書かなかった。自然へ注ぐ愛情の半面、身近な人々への情愛には乏しかった。一個の人間としていえば欠けるものがあったことにも筆は及んでいる。
たまたま先頃、著者のキーン氏に会う機会があり、本書のことも訊いてみた。子規への関心は四十年来のことで、直に全集を読み込むなかで本書をまとめたとのことである。もし子規の仕事がなければ、俳句も短歌も漢詩のごとくに衰退し、人々の身近な詩歌として生き続けてこなかったかもしれない、という指摘にははっとした。
かつて本紙「天声人語」の書き手であった深代惇郎はキーン氏のことを取り上げている(75年1月13日付)。その中で〈「いつになったら私の仕事を、日本文学の“紹介”ではなく“研究”といってくれるのでしょうね」というのが、この大家の長年の嘆きである〉という一文が見える。52歳の日のこと。いま90歳。もはや「紹介」として本書を読む読者はいまい。日本国籍の取得とはかかわりなく、この間の絶え間ない研鑽が、氏を日本文学研究の高峰へと押し上げている。
◇
角地幸男訳、新潮社・1890円/ドナルド・キーン 22年生まれ。日本文学者、コロンビア大学名誉教授。
明治が生んだ最大の詩人、正岡子規を描く評伝である。生涯と作品を丁寧に探索していく。筆致は抑制的であるが、考察の跡が選び抜かれた言葉にうかがえ、子規の全体像がよく伝わってくる。
「写生」という方法をもって、詩歌を底から変革した詩人の背後には、「欠伸(あくび)を催す」古俳諧の分類という仕事があった。徒労に似た無形の蓄積があって、日本文学の伝統、「小さい静謐な美」をよみがえらせ得たのだろう。さらに、新体詩、漢詩、散文をたどることで、この詩人の基軸が覚めたる批評的精神にあったことを知るのである。
脊椎カリエスに冒され、病床のなかで優れた作品を生み出したことはよく知られるが、凝視する表現がまた病の身を支えたのだ。子規は生涯、恋愛詩を書かなかった。自然へ注ぐ愛情の半面、身近な人々への情愛には乏しかった。一個の人間としていえば欠けるものがあったことにも筆は及んでいる。
たまたま先頃、著者のキーン氏に会う機会があり、本書のことも訊いてみた。子規への関心は四十年来のことで、直に全集を読み込むなかで本書をまとめたとのことである。もし子規の仕事がなければ、俳句も短歌も漢詩のごとくに衰退し、人々の身近な詩歌として生き続けてこなかったかもしれない、という指摘にははっとした。
かつて本紙「天声人語」の書き手であった深代惇郎はキーン氏のことを取り上げている(75年1月13日付)。その中で〈「いつになったら私の仕事を、日本文学の“紹介”ではなく“研究”といってくれるのでしょうね」というのが、この大家の長年の嘆きである〉という一文が見える。52歳の日のこと。いま90歳。もはや「紹介」として本書を読む読者はいまい。日本国籍の取得とはかかわりなく、この間の絶え間ない研鑽が、氏を日本文学研究の高峰へと押し上げている。
◇
角地幸男訳、新潮社・1890円/ドナルド・キーン 22年生まれ。日本文学者、コロンビア大学名誉教授。
正岡子規 ドナルド・キーン著 個人を重視する視点から描く
日本経済新聞 書評 2012/10/7付
「えっ、これが子規?」と思った。びっくりの評伝である。私などの子規像とはずいぶん異なるし、今までに書かれた数多い評伝の子規とも大きく違っている。
どこが違うか。まず句会や歌会、山会(文章の研究会)、蕪村句集の輪講などが出てこない。これらは俳句や短歌、そして子規の文学活動の核になった場である。また重病人ながら驚くほどに食べた子規も登場しない。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」も「くれなゐの二尺伸びたる薔薇(ばら)の芽の針やはらかに春雨のふる」も話題にならない。
十二章にわたって描かれているのは、士族の子として育った少年・子規、英語力がかなりのものだった学生・子規、喀血したころの漱石との出会い、小説を書く子規、新聞記者の子規、中村不折と出会って写生を実践する子規、俳句を革新した子規、新体詩と漢詩を作る子規、短歌の改革をした子規、晩年の随筆を書く子規、そして最後に、死の直後の友人や弟子の証言と子規の功績である。
キーンさんは、子規という単独の個人の活動を描いた。個人重視の、つまり欧米的なその視点が、句会などの共同の場の無視になったのだろうか。母や妹に対する子規の言動が非難されているが、それは子規が対等の個人として母や妹に向き合っておらず、まるで召使のように妹を扱ったから。この明確な見方、賛否は分かれるだろうが面白い。
では、子規の功績についてのキーンさんの意見を紹介しよう。
子規は「昔から賛美されてきた自然の美」を無視したが、でも、日本人は今なお梅、桜、紅葉という昔ながらの自然の美を喜んでいる。子規の系譜につらなる詩人たち(俳人や歌人)は、それらの自然の美を好まず、「俳句や短歌を作ることで現代の世界に生きる経験」を語っている。
キーンさんのこの意見、ことに、現代の世界に生きる経験が俳句や短歌の活力になったという指摘に納得する。だが、昔ながらの自然の美も依然として俳人や歌人に好まれている。現代を生きる体験を通して自然の美も詠まれており、実はそれは子規も同様だったのでは? キーンさん、どうですか。
(俳人 坪内稔典)
Wikipedia
正岡 子規(1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。
経歴 [編集]
1872年(明治5年)、幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年には末広小学校に入学し、後に勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ、友人と回覧雑誌を作り、試作会を開いた。また自由民権運動の影響を受け、政談にも関心を熱中したという。
1880年(明治13年)、旧制愛媛一中(現・松山東高)に入学。1883年(明治16年)、同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。1890年(明治23年)、帝国大学哲学科に進学したものの、後に文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。この頃から「子規」と号して句作を行う。
大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で1892年(明治25年)に新聞『日本』の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。1893年(明治26年)に「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。1894年(明治27年)夏に日清戦争が勃発すると、翌1895年(明治28年)4月、近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年5月、第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた(森鴎外などとの交際は、「遼東五友の交わり」と称された。その五友とは、鴎外、『新聞 日本』の中村不折、『読売新聞』の河東銓(かわひがし せん。俳人河東碧梧桐の兄)、久松定謨、子規の5人である。佐谷眞木人『日清戦争』、54頁(講談社現代新書、2009年)。なお、子規と鴎外の交際は、没するまでつづいた)。 その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。7月、須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。1897年(明治30年)に俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
短歌においても、「歌よみに与ふる書」を新聞『日本』に連載。古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、根岸短歌会を主催して短歌の革新につとめた。根岸短歌会は後に伊藤左千夫・長塚節・岡麓らにより短歌結社『アララギ』へと発展していく。
年譜 [編集]
※日付は1872年までは旧暦
§ 4月:祖父観山死去。土屋久明に漢学を学ぶ
§ 6月:東京へ出る
§ 9月:本科へ進級 常磐会寄宿舎に入る
§ 7月:第一高等中学校本科卒業
§ 10月:退学
人物 [編集]
§ 英語が苦手だった。試験の際にカンニングをしたことがある。"judiciary"の意味がわからなかった子規が隣にいた人に意味を聞いたところ、「ほうかん」と言われた。本当は「法官」という意味だったが、「幇間」だと思って解答用紙に書いてしまった。ちなみに、子規はこの試験に合格したが、カンニングの手伝いをした人は不合格になったという。
§ 漱石とは子規本人だけでなく子規の親族も交遊があり、子規の遠縁にあたるタレントの歌原奈緒が、TVのインタビューで「曾祖父が子規といとこで、本人も俳句を詠んでいたそうです。夏目漱石とも親交があったと聞いています」と話している。
§ 本来、毎月や月ごとなどを意味する「月並み」という言葉が、『陳腐、平凡』という意味も含んだのは、正岡子規がありふれた俳句や短歌を「月並み調」と批判したことが始まりとされる。当時和歌や発句は「月並み句会」と呼ばれる月例の句会で詠み合わせをすることが多かった。
§ 同郷の言語学者・小川尚義は、松山中学、一高、帝大の後輩にあたり、一高時代から交友があった。小川が帝大を卒業した1896年7月に一時帰省する際、「十年の汗を道後のゆに洗へ」の句を贈った。(道後温泉「椿の湯」湯釜にも刻印されているが、そこでは「ゆ」が「温泉」となっている)
§ 「柿くへば・・」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた漱石作「鐘つけば 銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。
子規と野球 [編集]
子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、1889年(明治22年)に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚が始めである。野球を参照のこと)。また「まり投げて見たき広場や春の草 」「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 」などと野球に関係のある句や歌を詠むなどしており、文学を通じて野球の普及に貢献したといえる。これらのことが評価され子規は2002年(平成14年)、野球殿堂入りを果たした。
なお、子規が「野球」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年(明治23年)である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは子規である。
雅号 [編集]
また別号として、獺祭書屋主人・竹の里人・香雲・地風升・越智処之助(おち ところのすけ)なども用いた。「獺祭書屋主人」の「獺」とは川獺のことである。これは『禮記』月令篇に見える「獺祭魚」なる一文を語源とする。かつて中国において、カワウソは捕らえた魚を並べてから食べる習性があり、その様はまるで人が祭祀を行い、天に供物を捧げる時のようであると信じられていた。「カワウソですら祭祀を行う、いわんや人間をや」というわけである。そして後世、唐代の大詩人である李商隠は尊敬する詩人の作品を短冊に書き、左右に並べ散らしながら詩想に耽ったため、短冊の並ぶ様を先の『禮記』の故事に準え、自らを「獺祭魚庵」と號した。ここから「獺祭魚」には「書物の散らかる様」という意味が転じる。「獺祭書屋主人」という號は単に「書物が散らかった部屋の主人」という意味ではなく、李商隠の如く高名な詩人たらんとする子規の気概の現れである。病臥の枕元に資料を多く置いて獺のようだといったわけである。
その他、随筆『筆まかせ』の「雅号」にて自身が54種類の号を用いていることを示し、さらに多くのペンネームが用いられているとされる。上述の「野球」(のぼーる)もこの中に含まれる。
子規と病 [編集]
喀血した自身をホトトギスになぞらえて子規と号したことに象徴されるように、子規の文学はその病と切っても切り離せないものであった。母八重の回想では、乳児のころの子規は顔が異常に丸く、見苦しく、鼻も低かった。体質虚弱で背も低く、内向的だったことからよくいじめられていたという。 子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の鎌倉旅行の最中であった。翌1889年(明治22年)5月には大喀血をし、医師に肺結核と診断される。当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なかった。この時子規はホトトギスの句を作り、はじめて子規の号を用いるようになった。
子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった。1895年(明治28年)5月、帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友夏目漱石の下宿で静養した。この年10月に再上京する途上の頃より腰痛で歩行に困難を来すようになり、当初はリューマチと考えていたが翌1896年(明治29年)、結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症していると診断される。以後床に伏す日が多くなり、数度の手術も受けたが病状は好転せず、やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになった。
歩行不能になった後も折々は人力車で外出もしていたが、1899年(明治32年)夏頃以後は座ることさえ困難になった。この頃から子規は約3年間ほぼ寝たきりで、寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句・短歌・随筆を書き続け(一部は口述)、また病床を訪れた高浜虚子・河東碧梧桐・伊藤左千夫・長塚節ら後進の指導をし続けた。碧梧桐は、暑さに参る寝たきりの師匠に手動の扇風機を作ったと言われている。子規は、それを「風板」と名付け喜び、季語にならぬかと考えたとも言われている。
評価 [編集]
俳句においてはいわゆる月並俳諧の陳腐を否定し、松尾芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って与謝蕪村のように忘れられていた俳人を発掘するなどの功績が見られる。またヨーロッパにおける19世紀自然主義の影響を受けて写生・写実による現実密着型の生活詠を主張したことが、俳句における新たな詩情を開拓するに至った。
その一方で、その俳論・実作においては以下のような問題も指摘されている。
などは近代俳句に大きな弊害を与えていると考える向きもある。
俳句における子規の後継者である高浜虚子は、子規の「写生」(写実)の主張も受け継いだが、それを「客観写生」から「花鳥諷詠」へと方向転換していった。これは子規による近代化と江戸俳諧への回帰を折衷させた主張であると見ることもできる。
短歌においては、子規の果たした役割は実作よりも歌論において大きい。当初俳句に大いなる情熱を注いだ子規は、短歌についてはごく大まかな概論的批評を残す時間しか与えられていなかった。彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。特に古今集に対する全面否定には拒否感を示す文学者が多いが、明治という疾風怒涛の時代の落し子としてその主張は肯定できるものが多い。
子規の理論には文学を豊かに育ててゆく方向へは向かいにくい部分もあるという批判もあるが、「写生」は明治という近代主義とも重なった主張であった。いまでも否定できない俳句観である。日本語散文の成立における、子規の果たした役割がすこぶるおおきいことは小説家の司馬遼太郎(『歴史の世界から』1980年)によって明らかにされている。
また、あまり知られていないが漢詩作者としても著名である。鈴木虎雄(陸羯南の娘婿で、子規とは新聞「日本」の同僚でもあった)が、子規の漢詩を漱石の漢詩よりも評価していたことを、弟子の吉川幸次郎が回想している。
著名作 [編集]
俳句
§ 松山や秋より高き天主閣
§ 春や昔十五万石の城下哉
§ 牡丹画いて絵の具は皿に残りけり
§ 山吹も菜の花も咲く小庭哉
§ をとゝひのへちまの水も取らざりき
§ 風呂敷をほどけば柿のころげけり
§ 柿くふも今年ばかりと思ひけり
§ 紫の蒲團に坐る春日かな
§ 春風やまりを投げたき草野原(ベースボールに対する思いを歌った)
§ 卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)/卯の花の散るまで鳴くか子規(初めて喀血した時の発句) ⇒ 2句とも「卯」が出てくるのは、詠んだ時が5月で旧暦の「卯月」と同時に子規は卯年生まれ
短歌
§ くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
§ 松の葉の葉毎に結ぶ白露の置きてはこぼれこぼれては置く
§ いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
§ 足たたば不尽の高嶺のいただきをいかづちなして踏み鳴らさましを
§ 足たたば黄河の水をから渉り崋山の蓮の花剪らましを
§ 足たたば北インヂヤのヒマラヤのエヴェレストなる雪くはましを
随想・日記
§ 病床六尺
漢詩
以下の文献は、近年の研究。
系譜 [編集]
玄祖父正岡常一は京へ上がり千宗室に入門し茶人となる。子規は玄祖父常一について「余が玄祖父は正岡一甫といふてお茶坊主の役をしたまひき。……翁が正月礼にまはる時には必ず一枝の寒梅を袖にして“のどかな春でございます”といひ給ひしとか。またかつて五右衛門風呂を木炭にてわかし その湯に入りて“薪にてわかせしとは入り心地が違う”といひ給ひしと。洒落の風、想ひ見るべし」と書いている[5]
父・正岡常尚は常武の孫養子で御馬廻の下級武士。子規は父常尚について「父は武術にもたけ給はず。さりとて学問とてもし給はざりし如く見ゆ。」と書いている[6]。妹の律は、叔父加藤恒忠の三男忠三郎を養子として正岡家をつがせた。
梅室道寒禅定門─良久─将重─常寅─常一─常武─常尚─常規─律─忠三郎
正岡常尚
┃ ┏正岡常規
┣━━━┫
加藤重孝━━大原有恒 ┃ ┗律
┃ ┏八重
┣━━┫
┃ ┗加藤恒忠━━正岡忠三郎
歌原松陽━━━━重 ┃ ┏正岡浩
┣━━━┫
┃ ┗正岡明
野上俊夫━━━あや
著作文献(近年) [編集]
『墨汁一滴』、『病牀六尺』、『仰臥漫録』(同 1983-84年改版 ワイド版)
岩波文庫で、同時期に改版されたのは『子規句集』、『子規歌集』
『俳諧大要』、『歌よみに与ふる書』、『松蘿玉液』の計5冊。
『子規人生論集』 (講談社文芸文庫、2001年)
評伝文献 [編集]
関連項目 [編集]
関連人物 [編集]
キーン ドナルド(1922年6月18日 - )は、アメリカ合衆国出身の日本文学者・日本学者。日本文学と日本文化研究の第一人者であり、文芸評論家としても多くの著作がある。日本国籍取得後、米国籍での氏名 Donald
Lawrence Keene を改め、日本氏名はキーン ドナルドとカタカナで表記。通称(雅号)として漢字で鬼怒鳴門(きーん どなるど)を使う。
コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績があり数多くの大学や研究施設から様々な受賞経歴を持つ。称号は東京都北区名誉区民、ケンブリッジ大学、東北大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。勲等は勲二等。2008年に文化勲章受章。
来歴 [編集]
生い立ち [編集]
ニューヨーク市ブルックリンで貿易商の家庭に生まれる。9歳のとき父と共にヨーロッパを旅行し、このことがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになる。両親の離婚により母子家庭に育ち、経済的困難に遭遇したが、奨学金を受けつつ飛び級を繰り返し、1938年(昭和13年)、16歳でコロンビア大学文学部に入学。同校でマーク・ヴァン・ドーレンやライオネル・トリリングの薫陶を受ける。同じ頃、ヴァン・ドーレンの講義で中国人学生と親しくなり、そのことがきっかけで中国語、特に漢字の学習に惹かれるに至る。
太平洋戦争 [編集]
1940年(昭和15年)、厚さに比して安価だったというだけの理由でタイムズスクエアで49セントで購入したアーサー・ウェイリー訳『源氏物語』に感動。漢字への興味の延長線上で日本語を学び始めると共に、角田柳作のもとで日本思想史を学び、日本研究の道に入る。コロンビア大学にて、1942年(昭和17年)に学士号を取得。日米開戦に伴って米海軍の日本語学校に入学し、日本語教育の訓練を積んだのち情報士官として海軍に勤務し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めた。通訳時代からの友人にオーティス・ケーリ(のち同志社大学名誉教授)やアイヴァン・モリスがいる。
研究者として [編集]
復員後コロンビア大学に戻り、角田柳作のもとで1947年(昭和22年)に修士号を取得。同年、ハーヴァード大学に転じ、セルゲイ・エリセーエフの講義を受ける。1948年(昭和23年)から5年間ケンブリッジ大学に学び、同時に講師を務める。同校ではバートランド・ラッセルに気に入られ、飲み友達として交際した。このころ、E・M・フォースターやアーサー・ウェイリーとも交際。この間、1949年にコロンビア大学大学院東洋研究科博士課程を修了。
1953年(昭和28年)、京都大学大学院に留学。京都市東山区今熊野の下宿にて永井道雄と知り合い、生涯の友となり、その後は永井の紹介で嶋中鵬二とも生涯の友となった。1955年(昭和30年)からコロンビア大学助教授、のちに教授を経て、1992年(平成4年)に同大学名誉教授となった(1987年(昭和62年)から1989年(平成元年)の2年間は国際日本文化研究センター教授も併任)。
1982年(昭和57年)から1992年(平成4年)まで朝日新聞社客員編集委員。1986年(昭和61年)にはコロンビア大学に自らの名を冠した「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立された。1999年(平成11年)から「ドナルド・キーン財団」理事長。2006年(平成18年)11月1日、源氏物語千年紀の呼びかけ人となる。
東日本大震災と日本国籍取得 [編集]
2011年(平成23年)3月11日発災の東北地方太平洋沖地震を契機に、コロンビア大学を退職後は、日本国籍を取得し日本に永住する意思を表明した[3]。2011年(平成23年)9月1日には、永住の為来日し『家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。今日は曇っているが、雲の合間に日本の畑が見えて美しいと思った』と流暢な日本語で感慨を語った。また東北を訪れ仙台市の講演など被災地を訪問して被災者を激励したいとも話している。
業績 [編集]
日本に関する著作は、日本語のものが30点、英語のものもおよそ25点ほど出版されている。近松門左衛門、松尾芭蕉、三島由紀夫など古典から現代文学まで研究対象の幅は広く、主に英語圏への日本文化の紹介・解説者として果たした役割も大きい。英語版の万葉集や19世紀日本文学、中国文学のアンソロジーの編纂にも関わった。
人物 [編集]
本名
日本国籍を取得した際、戸籍上の本名は片仮名表記の「キーン ドナルド」[7]として登録した。また、日本国籍取得時の記者会見の席上、「人を笑わせる時に使います」[8]と述べつつ、漢字で「鬼怒鳴門」と表記した名刺を披露した。
趣味
交友関係
交流のあった作家らは、上記の他に谷崎潤一郎、川端康成、吉田健一、石川淳、司馬遼太郎、丸谷才一、篠田一士など。かつて大江健三郎とも親しかったが、大江の態度の変化によって疎遠になった。大江から避けられるようになったことについて『私と20世紀のクロニクル』p.223-224では原因不明としている。ただ、大江の縁があって、安部と終生の親友になれた。1994年の井上靖文化賞授賞式の際には、キーンが出席出来なかった代わりに大江がスピーチに参加していた。
受賞・栄典 [編集]
受賞歴 [編集]
他多数
栄典 [編集]
名誉博士 [編集]
1995年 ミドルベリー大学
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