恩地孝四郎  池内紀  2012.10.3.


2012.10.3. 恩地孝四郎 一つの伝記

著者  池内紀 1940年姫路生まれ。ドイツ文学者、エッセイスト。20代の頃マグリスとウィーンにあって同じ「オーストリア文学協会」の奨学金をもらった間柄。『風刺の文学』で亀井勝一郎賞、『海山のあいだ』で講談社エッセイ賞、『ゲーテさんこんばんは』で桑原武夫文学賞、ゲーテ『ファウスト』で毎日出版文化賞、『カフカ小説全集』で日本翻訳文化賞ほか
『見知らぬオトカム――辻まことの肖像』『ことばの哲学――関口存男(つぎお)のこと』と本書を併せて、精神の「旅」の同行者3部作
別ファイル『12-07 ドナウ ある川の伝記』の訳者

発行日           2012.5.11. 第1刷発行
『ちくま』1996.10.1998.9.に連載、大幅に書き加え、見出しを変更の上再構成
発行所           幻戯書房(角川書店の長女で歌人・作家の辺見じゅんが始めた出版社。創立10周年で本書を出すことになったが、その発刊を見ずに2011.9.逝去)

『白秋望景』 ⇒ 1928年朝日の飛行機に白秋と同乗、空から見た紀行文『天を翔る』を掲載、恩地が挿絵


自分の死貌
19541月 62歳の時『自分の死貌』というタイトルで、版画にも詩にもした
1950.9. 日本橋三越で恩地孝四郎新作版画展開催 ⇒ 自分でピアノを弾きながら、曲から受けた印象を画にしていく。もし年少の頃家庭にピアノがあったら絵描きにはならなかったかもしれない。後に「小代(こしろ)尚志」の名で作詞・作曲もしている
1人の女性を巡り家庭的な軋轢があった
死の前年辺りから、恩地の版画にはよく勾玉に似たものが様々に変化しながらおどりだし、やがて「自分の死貌」では重なり合って現れた。それは芸術用語よりも深層心理で語るべき形象かもしれない

第1章      
Ø  夢二学校
親の反対を押し切って入った美校も、徴兵逃れでしかなく、教師と喧嘩して学校へ行かず、放校通知が来て退学。徴兵検査は第2乙で徴兵免除
恩地が学んだところは、美校ではなく「夢二学校」 ⇒ 始まりは『夢二画集 春の巻』(大流行した絵ハガキ専門の雑誌)で、そのデザイン性と複製技術に感動した恩地が一部批判した手紙を出し、夢二が乗ってきた
夢二によって、絵が大衆化
夢二の本は、麹町の「洛陽堂」から出版 ⇒ コロタイプ版やリトグラフは複製であって、しかし多分にオリジナルの性格を持つ。しかも木版と違って大量の複製がきく。これを小さな冊子にまとめ、「画集」の名をつけた。本物の画集は目玉が飛び出るほど高価だが、絵葉書大の小冊子なら懐の寂しい学生にも買える。巻の付け方も、季節やテーマで繋がりを持たせ、更に次々と求めたくなるつくりになっていた。しかも買い手は単なる客ではなく、会員として創造の現場に参加できる。人によっては直接、画家から返事が来た。以後の「夢二ブーム」は明らかに夢二の絵の持っていた匂いなり雰囲気なりとともに、版元の流通ネットといったものがあずかっていた。これまでになかった新しい情報の回路を作り、複製芸術を若い市場に広げていき、文字通り洛陽の紙価を高らしめた
夢二が全国津々浦々まで名の知れた画家になったのは、写真と印刷のお蔭。この明敏なモダニストは、新しい時代の新しいメディアを人一倍活用。その威力と効用をよく知っていたから

Ø  『月映』の仲間
1914年藤森静雄らと版画と詩歌の雑誌『月映(つくはえ)』を創刊 ⇒ 新しいジャンルだった版画に傾倒。1年強の間7冊で終了
我が国における近代版画は、長谷川潔が1913年に興した「東京版画倶楽部」辺りが始まり
夢二の抒情性と感情表現に影響を受けたが、通俗性は厳しく拒んだ
木版がともすれば稚拙さ、その土俗性が愛される中で、高度に知的で繊細な版作りに精出した
『月映』の後半は急速に抽象化していった ⇒ 受け入れる条件の欠けたところに出版したため、まったく理解されず
ドイツ表現主義の雑誌『Der Strum(あらし)(若き日の山田耕作が参加)に大きな影響を受ける ⇒ 具象から抽象への移行を終えたころのカンディンスキーを支援
恩地の抽象は、その美的な力を説きはしたが、具象の拒絶の上では決してなく、1つの色、1本の線に限りない魅力を見つけ、その組み合わせを実践したが、それは革新者におなじみの厳しい拒絶の上でのことではなかった
画家恩地が近代絵画史に持つ大きな意味は、若い頃に抽象画の1歩を記したということではなく、その時すでにはっきりと、抽象表現に対する正確な認識を持っていたということ。抽象絵画が20世紀芸術を決定すると信じていた
自らの創作版画を、「複製を目的とせざるものにて、自刻自摺りによって、創作する版画の一種」と意味づけている ⇒ 権威に硬直しがちな絵画と違って遥かに自由に現代と対応できる

Ø  版画の青春
同世代の創作版画の開拓者に平塚運一がいる ⇒ 目的は各自の表現にあるので、道具はどんな刃物でも構わない。一般的に使われたのは、「コマスキ」という丸刀という、もとは活字組に版木を組み込むときに使われた道具
まず木版彫刀の工夫から始まった
1918年 「日本創作版画協会」設立 ⇒ 山本鼎、戸張弧雁、恩地らが参加。展覧会を開催、季刊誌を発行
関東大震災で一時中断したが、1925年新進彫刻家・高村光太郎が「自刻木版の魅力」と題した熱っぽい版画賛歌を讀賣新聞に掲載
恩地も、詩、版画、カット、海外思潮紹介、エッセイと幅広く活動
日本に初めて抽象画家・カンディンスキーを紹介したのは、若い頃画家志望だった文人医学者・木下杢太郎で1912年のこと ⇒ ドイツ語の読めた恩地は、カンディンスキーの説く「内面的な本質だけを作品化する」抽象表現を理念としても確かめることが出来た

Ø  『マヴォ』と『風』
1924年 前衛美術雑誌『MaVo』創刊 ⇒ 発行人は画家志望の村山知義(後の劇作家)で、旧秩序が崩壊して表現主義やダダイズム、未来派、バウハウスといったあらゆる分野で変革が始まっていたヨーロッパ土産
恩地は、竹久夢二の誘いに応じて、「どんたく図案社」(デザイン事務所、広告制作会社)結成 ⇒ 大震災で実作のないまま解散したが、MaVoとは明らかに時代の違いを感じさせることに恩地も気づいていた
装本を始めた恩地はまだ旧来のアール・ヌーボー調に留まっていた
1927年 恩地は日本交響楽協会が出版する楽譜の装幀を引き受け ⇒ 山田耕筰の作品を中心に全60曲あり、創作の場が与えられ、抽象画を駆使 ⇒ この仕事を機に、恩地の装幀は大きく変わる
1926年 『港』創刊 ⇒ 最初は詩集、版画も増えて3号から恩地も加わる。6号から『風』と改題、実質的には恩地が切り盛り

第2章      
Ø  装本家の誕生
恩地は、もっぱら夢二の仕事場に通っていた関係で、その版元だった洛陽堂から装幀を依頼されるようになる ⇒ 3年後の『月映』創刊も洛陽堂が引き受け
「本は文明の旗。その旗は当然美しくあらねばならない」
1917年 萩原朔太郎の最初の詩集『月に吠える』の装幀を手掛けたのが最初 ⇒ 『月映』の同僚・田中恭吉の急逝でその仕事を受け継いで初版を完成、2版は恩地独自のもの
同年、北原白秋の弟・鉄雄が出版社アルスを興し、その多くの本が恩地の手で装幀された ⇒ 我が国の装本の歴史に優雅な1章を作り出すこととなる
大正期は、印刷、出版業界が飛躍的に大きくなり、書物が一挙に大衆化した時代であり、装幀への関心も高まる
独自の字体「オンチ式明朝」を作り出す ⇒ バウハウスが独自の文字を考案、一目でそれがバウハウスの印刷・発行であることが見て取れるが、それに先行するもの
1923年 鶴見花月園に就職、少女歌劇部主任(舞台装置を作る仕事を担当)となる ⇒ 1年のみだったが唯一のサラリーマン生活 ⇒ 震災直後の財界ベースの地域振興を含む復興プロジェクトの1
1916年 女子美の学生・小林のぶと結婚
少女歌劇の仕事場を通じて、人体への関心に目覚める ⇒ 抒情的抽象から一転して人体連作に移る。その成果が「人体 少女」「人体考察」

Ø  「人体考察」
戦後、版画家恩地に最も早く注目したのは、アメリカ人オリヴァー・スタットラーという軍人兼美術愛好家で、早い時期の抽象作品に目を見張る ⇒ シカゴのコレクターを誘って大量に買い付け、現在シカゴ美術館に保存。ボストンにもあり、1点きりの多くがアメリカに渡る
油彩も捨てたわけではなく、セザンヌの造形性に熱中
木版も、しばしば1点しか刷らなかった ⇒ 版画の概念とされる同一版・同一条件・一定部数から対極で仕事をした。1つの固定した原版に留まらず、何が入ってきても構わない。恩地は版画と詩を組み合わせ、次いで写真を取り込む、更には木版であることすら必要でなくなり、切り抜いたボール紙や糸くずなどの素材を作品に使った ⇒ 若き日の池田満寿夫がアメリカで恩地版画と対面した時、そこにある「不安定な茫漠とした印象」を受けたという。永遠の試し摺りであって、一種実験的な校正摺りを作り続けること、それが「表現」本来の意味であれば、取り立てて完成品を作るまでもないというのが恩地の考え方

Ø  『海の童話』
幼少時父に連れられて毎夏湘南海岸へ出かけたことがあって、恩地は海が好きだった
大正末から昭和初期にかけて、なぜか詩人たちが憑かれたように海の風景をうたっている
恩地の『海の童話』も明らかに同じ時代思潮の中で作られた ⇒ 「詩を伴ふ版画連作」というサブタイトルと「自刻による六画十五版」の断りをつけて刊行
1930年銀座に画廊・版画荘が開業 ⇒ 日本最初の創作版画専門店。昭和初期を代表する美本の多くがここから生まれた。隔月発行のPR誌には、恩地も「作者言」と題する作者自身による作品解説と共に図版が掲載された。ロシアの版画家・バルバラ・ブブノワの特集もあり、恩地が感想を寄せている。『海の童話』は版画荘から刊行(1934)
ブブノワ ⇒ 『12-08 ブルーノ・タウト』参照

Ø  日本版画協会と『新版画』
1931年 日本版画協会誕生 ⇒ 日本創作版画協会と洋風版画協会が合体、岡田三郎助・東京美術学校教授が会長、恩地も常任委員となり、版画界のまとめ役としての役割が始まる ⇒ 前川千帆や平塚運一と共に協会活動の中心となり、若い版画家にも名が知れていた。棟方志功や畦地梅太郎も平塚宅へ勝手に上り込んだ
旧来の画家・彫師・摺師の分業体制と版元が取り仕切る構造から、版元が流通システムを抑え、モチーフにまで介入する慣行に対し、「自画、自彫、自摺」を主張、彫刻刀1本と板切れさえあれば、誰でも自分の表現ができるとして、貧しい若者たちの心を捉えていった
これに対し、旧来の版元体制の中で、彫師や摺師の伝統的な技術を生かして現代の技術的にもレベルの高い「新しい版画」が出来るはずとして、日本画の画家に絵を描いてもらい、腕のいい彫師や摺師の手を借りて現代版画を作る版画店が現れた ⇒ 伊東深水らの作品を生む。この流れから出たのが吉田博で、彫り・摺りにも創作者の意図を通さなくてはならないとして「自摺」とつけたが、彫師や摺師の手を借りることは拒否しなかった
旧来の浮世絵版画の作者からも、自分たちを加えないのはおかしいとの声が上がったが、協会は自らを「芸術運動のあらはれ」として、複製版画とは異質のもの、下絵を描くだけで版刀を手にしない作家たちとは一線を画すことを絶対不動の原則とした
1932年 荻窪に引っ越し、ライトの弟子だった遠藤新がアトリエ附設の家を設計 ⇒ 善福寺川沿いで田河水泡の家の隣、荻外荘の近く
もう1つの「新版画」の動きとして、若い世代を中心に、表現である限り社会性を帯びて初めて「現代版画」といえると主張する集団が現れる ⇒ 機関誌『新版画』を発行

第3章      
Ø  光の造形
1932年頃から「新興写真」運動が始まり、恩地も精力的に写真の本を装幀、自ら暗室で現像もした
「新興写真」が、写真館とは別に職業写真家と呼ばれる新しい職種をもたらす
恩地も、表現上の実験を続けて、美しい作品集としてまとめる ⇒ 写真は素人だったが、写真と活字の組み合わせや、印刷上のレイアウトが出来るのは恩地しかいなかった
「箱モノ」の制作にも興味 ⇒ 廃物や日常品を変形させた物体のコラージュ、物体詩 ⇒ アメリカの彫刻家ジョゼフ・コーネルの似たような作品が「ポエム・オブジェ(物体詩)」として美術界に入ってきたのは戦後のこと

Ø  形態の研究
1934年 詩画集『飛行官能』 ⇒ 版画と写真と活字を駆使し、それに装幀を加えて1つの作品を作る新しい試みから生まれ、自らは「詩・写真・版画による綜合作」と称した。大阪朝日の飛行体験記の企画に白秋と同乗したことから生まれたもので、写真は借り物

Ø  美しい本
昭和10年前後のごく短期間、並外れて美しい本が出た ⇒ 多くが詩集、部数は300500、装幀・製本・クロス・字体・活字の大きさ・組み具合・行間・紙質、全てに繊細な心配りが行き届いている。『風立ちぬ』も「純文学」と銘打ってかなりの部数が出たにもかかわらず作者は不満で、翌年別のところから500部限定で出されたが、これも作者が自らの小説を少し長めの「詩」に他ならないと正確に感じていたからではないか

Ø  「變體活字」の時代
1938年 「国家総動員体制」に準じて活字地金の供出を考えた印刷業界が、角ゴシック・明朝・正楷書以外の活字を廃止しようとした。政府が買い上げ、41年暮れには姿を消した
更に紙の統制が始まる
1944年 印刷業企業整備要綱公布 ⇒ 印刷業者の2/3が強制廃業

第4章      
Ø  『博物志』の周辺
1942年 『博物志』刊行 ⇒ 総アート紙、1500部限定。紙の統制下でこれほど優雅な仕事が実現したのは不思議
ルナールの『博物誌』、アポリネールの『動物詩集』の翻訳が相次いで出たことに触発され、同じ動植物を、一方で古いエネルマンのクロノスで撮った写真を掲げ、他方で詩を書く
本の体裁についての一家言 「字さえ印刷してあれば本だと言い、字がいっぱい詰まっていさえすればいいという人は、空間を読むということが分かっていない。本は字ばかり読むものではなく、本が持つ1つの性格も読まなくてはならない。むしろその方が本としての大きな効用である。ベタベタと汚く字を一杯に刷ってある本などは、活字と労力の無駄であり、紙の無駄
「フォトグラム」 ⇒ カメラを用いず、印画紙と光源の間にオブジェを置いて直接印画紙に感光させたもの。写真草創期の技法の1つ。死物の風変わりな「博物志」で、当然のことながら生物の「博物志」と対をなす
『博物志』につけた写真は自然への「形態探しの一作業」であって、そのカメラ・アイは所詮は美術の根っこに繋がるもの
恩地の写真論 「写真は決して実物ではないし、実物の写しでもない。既に実物を離れた存在である」 ⇒ 光と影によって、カメラなりその技術によって作られた絵であって、絵画とはまるきり別のもの

Ø  「避難所」づくり
1942年 版画関連の協会が合体して「日本版画奉公会」結成、政治性のない恩地が理事長に ⇒ 誰かが避難所守りをしなければならず、逃げるわけにはいかなかった
美術雑誌は廃刊、美術館や画廊は閉鎖
1943年 代表作「『氷島』の著者(萩原朔太郎像)」は、前年に世を去った詩人への挽歌であると同時に、苦悩に満ちた自画像でもあっただろう ⇒ 8枚の版を彫り、10度摺った

Ø  木版を彫らぬ版画
戦後は路上に転がっているあらゆるものを集めて「不定形への愛情」のタイトルの基に、ガラクタ特有のてんでんばらばらな形を版画シリーズ「木版を彫らぬ版画」として展示
49年 讀賣新聞社主催の第1回アンデパンダン展を契機に、抽象でなくては美術に非ずの勢いで、抽象絵画が世界中に氾濫
技法も大胆 ⇒ 「ペーパーブロック」(原紙を切り取って絵具を塗り、紙の上に摺りつけて紙版を作る)は、1回限りの偶然性を持ち、複数制を基本にした版の絵とはまるで違った版画観による
検閲廃止、出版統制の解除と共に出版社が乱立。恩地も数多くの装幀を手掛ける

Ø  アメリカ人コレクター
米軍キャンプで聴いた諏訪根自子の演奏を「あるヴァイオリニストの印象」という版画と詩にした ⇒ 同じキャンプで創作版画展開催を持ちかけられた米軍人を通じて招かれたもの。この版画展に足繁く通ったのがスタットラー、太平洋戦争に参戦して日本に興味を抱き、戦後占領軍に文官を志願して来日した変わり種。日本の創作版画の国際的研究者兼コレクターの誕生
常に日陰者だった創作版画を表舞台に引き出したのはアメリカ人コレクターたちで、日本の美術界に大きな変革をもたらす。同時期に日本の現代版画が矢継ぎ早に国際賞を獲得 ⇒ 51年の第1回サンパウロ・ビエンナーレでは斎藤清と駒井哲郎が、52年の第2回ルガノ国際版画展では駒井哲郎と棟方志功が、56年のヴェネチア・ビエンナーレでは棟方志功がグラン・プリを獲得
スタットラーは、恩地からの聞き取りを基に『よみがえった芸術――日本の現代版画』と題する日本の現代創作版画の紹介本を書き、版画家29人を紹介しただけでなく、恩地を通じて通常は門外不出である制作の過程を克明に記述、後世にきちんと伝えられることになる
恩地にとっても、晩年に至り画家冥利に尽きる理解者を得たと言える

Ø  『日本の憂愁』
1954年 「現代版画5人展」に「自分の死貌」を発表。体に異常を感じる
1955年 脊髄の異常・中枢神経障碍で入院、そのまま恢復せず死去
「温和な革新者」恩地が密かに、そして果敢に求めていたものの1つが、若い後継者・池田満寿夫。当時高卒で上京後3年目。油絵で3度芸大の受験に失敗した時、銅版画を勧められて開眼、26歳で東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞、以後3年連続受賞、国際版画展でも入賞を重ね、一躍世界的に著名なアーティストへと駆け上がる。先陣きって池田のコレクションに乗り出したのはニューヨーク近代美術館で、65年には日本人初となる個展を企画・開催。独自の方法と工夫によってさまざまな技法に通じ、特にドライポイントやメゾチントを好んで使った。30代後半に習得したリトグラフも独自で技法を開発
ドライポイント「ポイント」と呼ばれる先端が鋼鉄の針や、ダイヤモンドが付いた針などを使い、銅板に直に彫って描画する凹版技法。「ドライ」とは、エッチング用の腐蝕液を用いないことから、そして、尖った先端をもつ道具「ポイント」で刻描するので、ドライポイントという。彫られた線は均一な線ではなく、針で押し出された銅のささくれや、まくれなどを生かして刷ることも特徴の一つとされ、独特のタッチになる。
腐蝕液や防触剤などが必要なく、引っ掻くだけの簡単な技法なので、小中学校や初歩の銅版画教室で取り上げられることが多い技法。
しかし手軽な技法ではあるが、ポイントで描画する際に針が銅版に引っ掛かり描きづらく、まくれを強く出すためには力が必要であったり、また、金属のめくれによって刷り上がりが変化するため、描画している時にトーンが把握しづらいなど、腐蝕液を使う技法である「エッチング」に比べると、意外と描画が難しい。
メゾチント  メゾチントとは中間調子の技法という意味で、諧調表現が比較的簡単にできる方法です。ドライポイントから派生した技法と考えられ、銅版の表面に無数の傷を付けると、刷のときインクが拭き取れず真っ黒に刷れます。この傷(めくれ)を絵柄に合わせて削る事でインクが拭き取れるようになり、白く絵柄が浮き出てきます。
才人の誉れ高く、40代では小説にも手を染め、『エーゲ海に捧ぐ』では芥川賞受賞、映画化のための脚本を書き監督もしたし、50代になってからは作陶に熱中
何度となく恩地について語っているのは、多彩の点で格好のサンプルだったからだろう
日本版画において常に好まれる庶民的な土俗さと対極的だった作風に魅かれ、実際に1点しか刷らなかった作品を注意深く追っている。そこでは明らかに摺りは表現そのものであって印刷ではない


恩地孝四郎 一つの伝記 []池内紀
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「温和な革新者」の創作の秘密

 美しい本である。「本は文明の旗だ。その旗は当然美しくあらねばならない」と述べた恩地にふさわしい。カバーは両面カラー印刷で、真ん中の数センチを開けて上下から折り返されている。カバーに印刷されているのは恩地の印象的な二つの作品、「赤について」と「自分の死貌(しにがお)」。
 この「自分の死貌」の版画と詩の話から、評伝は始まっている。19世紀末の東京に検事の息子として生まれた恩地孝四郎が、美術に目覚め、竹久夢二に影響を受け、仲間たちと一緒に版画と詩歌の雑誌を立ち上げて、新しい世界を切り拓(ひら)いていく。日本で誰よりも早く抽象画を手がけ、版画で独自の世界を創(つく)りだす。「一版消滅法多色摺り」という言葉を本書で初めて知った。一度摺った後に原版を削り、別の色をのせて摺るやり方。版画でありながら一点一点が違う作品を生み出す、実験的な創作法なのだそうだ。
 恩地は装丁家としても名をなし、たくさんの本を手がけると同時に、自らが撮った写真で『博物志』も編んだ。洒脱なエッセーがつけられている。さらに作詞・作曲もおこなったと聞くと、その多才ぶりに目の眩む思いがする。
 戦前のドイツでは、総合芸術学校「バウハウス」に集った芸術家たちがジャンルを超えたさまざまな実験的な試みをおこなっていたが、そんな芸術的交流が、一人の人のなかで実現していたような趣がある。「バウハウス」はナチスにより追放の憂き目に遭うが、恩地孝四郎はきな臭い時代の動きから距離を保ちつつ、自分の芸術の世界を拡げていくとともに、後進の育成にも努めた。骨太で、地に足のついた創作の人だったようだ。
 本書は、「温和な革新者」への共感とリスペクトに溢れ、恩地の創作の秘密に鋭く迫っている。「版画の青春」の章で解説されている、油絵と版画の違いも興味深い。版画というジャンルの可能性に目を開かれた。
    
幻戯書房・6090円/いけうち・おさむ 40年生まれ。ドイツ文学者。著書に『ゲーテさんこんばんは』など


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恩地 孝四郎1891明治24年)72 - 1955昭和30年)63)は、東京出身の版画家装幀家写真家詩人。長女は児童文学翻訳家の恩地三保子
創作版画の先駆者のひとりであり、日本の抽象絵画の創始者とされている[1]。前衛的な表現を用いて、日本において版画というジャンルを芸術として認知させるに至った功績は高く評価されている。

作風 [編集]

木版画装幀、写真など様々な分野で活躍した。版画においては、抽象絵画の創始者であるワシリー・カンディンスキーらの影響を受け、日本における最初期の抽象版画作品を制作している。大正期には具象・非具象問わず数々の版画の名作を生みだしたが、第二次世界大戦後はもっぱら抽象版画に傾倒し、葉や紐、木片などを用いる手法(マルチブロック)も編み出した。1955年に死去する直前まで創作活動を続け、日本における抽象画の先駆者として前衛性が高く評価されている。
装幀家としての活動は版画家としての活動よりも早い。収入を得る手段として装幀の道を歩み始め、竹久夢二北原白秋に評価されて、大正期末から昭和初期にかけて地位を確立した。戦後は新しい版画技術を導入して新たな道を切り開き、1955年までの45年間に、児童書・学術書・写真集・百科事典など幅広い分野で600点の装幀を手掛けている。
写真においてはアマチュアであったが、前衛的な表現手法を好んで用い、フォトグラムフォトモンタージュの作品、ロシア構成主義的な作品集『飛行官能』(1934年)、新即物主義的な植物の写真を多く掲載した作品集『博物誌』(1942年)などを発表している。後者の2つの作品集については、自身の詩や版画との組み合わせで、独自の世界を形作っている。

経歴 [編集]

芸術家としての歩み [編集]

父の恩地轍は東京地方裁判所検事で、のち宮内省式部職となる。楠正成の一族に当たる豪族で、家紋は菊水。祖父は紀ノ川のほとりにあって、天誅組に加わって倒幕運動に奔走。母は京都出身で轍の2番目の妻である。189172日、孝四郎は恩地家の第54男として、東京都南豊島郡淀橋町(北新宿辺り)に生まれた。孝四郎が5歳の時、明治天皇から直々に後の東久邇宮、朝香宮の教育を託され、5年間自宅に預かり、孝四郎も厳格にしつけられる。東京市立番町尋常小学校を卒業した後、父親の希望した医者になるべく獨逸学協会学校中等部に進学したが、卒業後の1909年には第一高等学校入試に失敗し、その翌年の1910年には父親に背いて東京美術学校予備科西洋画科志願に入学。同時期には白馬会原町洋画研究所に通い始め、池内三郎田中恭吉藤森静雄などと出会った。1911年には東京美術学校予備科彫刻科塑像部志望に入学し、6月には竹久夢二らとともに『都會スケッチ』を刊行。7月には現在確認できる恩地の初めての装幀本である西川光二郎の『悪人研究』が刊行され、さらには竹久の主宰雑誌『櫻さく國 白風の巻』に絵と詩を発表した。1912年には東京美術学校予備科西洋画科志望に再入学し、『少年界』『密室』などに油彩画やペン画など様々な作品を発表した。

版画家としての出発 [編集]

19141月には恩地家に寄宿していた女子美術学校の学生と婚約。同年3月、日比谷美術館で開催された木版画展でワシリー・カンディンスキードイツ表現主義作家の抽象版画に深く共鳴し、この頃に版画の創作を始めたと思われる。春から夏にかけて田中・藤森とともに同人誌『月映(つくばえ)』(私輯)を6輯まで発行し、9月には洛陽堂から自画自刻の木版画と詩歌の雑誌『月映(つくばえ)』(公輯)が刊行。この頃から北原白秋室生犀星萩原朔太郎との交友がはじまり、月映は7輯に達した。恩地は16歳の時に三兄を、19歳の時に妹と次兄を亡くしているが、24歳だった1915年に親友の田中の死を経験し、生の苦悩や歓喜を表現した作品を多数生みだした。1915年には日本の近代絵画最初期の抽象作品と言われる『抒情』シリーズを発表し、1916年には2年の婚約期間を経て結婚。1917年には萩原の第一詩集『月に吠える』の装幀を担当した。1918年には山本鼎織田一磨らの日本創作版画協会発起に協力し、19191月の展覧会開催に尽力した。1920年には初子となる恩地邦郎が誕生し、翌1921年には第2子が誕生。この時期には具象的な油彩作品も製作された。

多様な展開 [編集]

1927年には帝国美術院展(帝展、現在の日展)が版画の受理を初めて認め、同年に『幼女浴後』が初入選を果たした。1929年には平塚運一川上澄生、藤森とともに創作版画倶楽部を設立し、『新東京百景創作版画』の頒布が開始されている。1931年には日本創作版画協会や洋風版画協会の面々が結集して日本版画協会が結成され、恩地はその常任委員に就任しているほか、1936年には国画会版画部の会員に推挙された。1939年には関野準一郎山口源とともに版画の研究会である「一木会」を開き、守洞春若山八十氏などの後進の指導にあたった。
海外で開催された日本の版画展に目を向けると、1934年にはパリの装飾芸術美術館(Musée des Arts Décoratifs)で開催された「日本現代版画とその源流展」に7点を出品し、1936年にはジュネーブ市博物館で開催された「日本の古版画と日本現代版画展」に10点を出品している。また、同年7月にはサンフランシスコ市立デ・ヤング記念美術館(M. H. de Young Memorial Museum)で行われた「日本現代版画展」に複数作品を出品し、翌年までに恩地の作品はロサンゼルス、シカゴ、フィラデルフィア、ニューヨーク、ロンドン、リヨン、ワルシャワ、ベルリンを巡回した。

抽象に傾倒した戦後 [編集]

戦時中も製作の手を休めなかったが、戦後は抽象版画に傾倒し、『イマージュ』『アレゴリー』『フォルム』などのシリーズが同時進行的に製作された。これらの抽象作品は日本人より先に、日本に駐留するアメリカ人に評価され、多数の作品がアメリカに持ち帰られた。19536月には国際版画協会が創立され、恩地は初代理事長に選ばれた。同じ頃には岡本太郎村井正誠、植村鷹千代とともに国際アートクラブ日本支部を発足させている。19554月頃に心身の不調を訴え、東京大学医学部附属病院に入院するが、5月に退院して自宅療養を続けた。63日に死去し、品川区上大崎の高福院に葬られた。享年64。法名は勝徳院真誉孝淳居士。

交友関係 [編集]

恩地が装幀家としての名声を高めるのに貢献した北原白秋のほかに、数々の著名人と交友関係があった。室生犀星はモダンアートに批判的な意見を持っていたが、新聞連載小説の挿絵担当に恩地を5度(15年間)も指名し、交友関係は長く続いた。恩地は1943年に『「氷島」の著者(萩原朔太郎像)』を製作しているが、萩原も「午後」(『第二愛の詩集』所収)で恩地について触れ、恩地の早い死を惜しんだ。

代表作 [編集]

いずれも版画
『「氷島」の著者(萩原朔太郎像)』(1943年)
§     『抒情』シリーズ(1914-1915年)
公刊『月映』に掲載され、目や手などのモチーフを使って感情を象徴的に表現した。
§     『リリック』シリーズ(1932-
『抒情』の延長線上にあるとされ、恩地版画のライト・モチーフとして戦後も継続された。
§     『ポエム』シリーズ(1937-
動物や植物、季節の自然をモチーフにした連作であり、戦後も継続された。
§     『「氷島」の著者(萩原朔太郎像)』(1943年)
二十年来の友人である萩原朔太郎が亡くなった翌年に作成された。
§     『あるヴァイオリニストの肖像』(1946年)
占領軍基地内で行われた諏訪根自子の悲愴感あふれるリサイタルをモチーフにした。
§     『フォルム』シリーズ(1948-)、『コンポジション』シリーズ(1949-
形態と色彩を追求した。
§     『オブジェ』シリーズ(1954-
紐・布・板切れ・針金・段ボール・落ち葉などを用いたマルチブロックと呼ばれる手法を利用した。

著作 [編集]

§     『海の童話 詩を伴ふ版画連作』 版画荘、1934
§     『飛行官能』 版画荘、1934
§     『季節標』 アオイ書房、1935
§     『工房雑記 美術随筆』 興風館、1942
§     『博物志』 玄光社、1942
§     『虫・魚・介』 アオイ書房、1943
§     『草・虫・旅』 竜星閣、1943
§     『日本の花 詞華集』 富岳本社、1946
§     『ちいさいひとへのおはなし春夏秋冬』 友文社、1947
§     『人間のつくる美』 六三書院、1950
§     『本の美術』 誠文堂新光社、1952
§     『日本の現代版画』 創元選書、1953
§     『日本の憂愁』 竜星閣、1955


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