大戦秘史 リーツェンの桜 肥沼信次  舘澤貢次  2012.10.13.


2012.10.13. 大戦秘史 リーツェンの桜
敗戦の地ドイツでチフスと闘い、散った日本人医博・肥沼信次

半世紀を経て、初めて明らかにされた一日本人医博の壮絶な生涯。陥落直前のベルリンを脱した1人の日本人留学生。最後の帰還船の乗客リストに名前を残したまま消息を絶った肥沼の足跡を辿ったドキュメント!

著者 舘澤貢次(たてさわこうじ) 1946年仙台市生まれ。明治大法卒。月刊経済誌編集を経てフリーライターに。月刊誌を中心に産業、経済、政治、社会問題など幅広い分野に取り組む。

発行日           1995.8.15. 初版発行                   2001.12.1. 3刷発行
発行所           ぱる出版

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1989.12.14. 朝日新聞別冊マリオンの尋ね人欄に、リーツェン(Wriezen)の人々に大事に墓を守られ今なお愛され敬われ慕われている「日本人医師・故コエヌマ・ノブツグをご存知の方はいないか」という日本人学者の投稿記事に魅きつけられてから4年の歳月を経て、93.10.墓の前に立つ
肥沼は、日本医大卒業後、東京帝国大学医学部放射線教室に進み、3年後の1937年ドイツに向かいベルリン大学(正式名フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学。現フンボルト大学)の医学部放射線研究所に入り、数々の研究成果を上げ東洋人として初めて教授資格を取得した医学博士。戦前戦後の学界の重鎮を幾多輩出したアレキサンダー・フォン・フンボルト財団の奨学生でもあった
ベルリン陥落直前の45.3.18.日本大使館は、ベルリン滞在の日本人を大使館に集めて南部のザルツブルクに避難させたが、肥沼は当日現れなかった。彼は、ソ連軍が進行している北方の都市エーデルバルデに、偶然知り合った軍人の夫が戦死したドイツ人シュナイダー母娘を見捨てることが出来ずに、2人とともに避難していた。その時、占領地区司令官から伝染病医療センターの責任者となることを命じられ、母娘と共にリーツェンに移らざるを得なかった。医療活動中、すべての患者をいたわり、励ましの言葉をかけ、誰からも信頼され尊敬される医師だった。戦後の混乱の中、伝染病が猛威を振るい、薬や医療用品の器具を求めて東奔西走、不眠不休で患者のために尽くしたという

第1章     エスクレビオス(医術の神)の墓
1991年以降毎年肥沼の命日に合わせて、ドイツ・ポーランド・日本の3国参加による「肥沼記念杯3国柔道大会」開催 ⇒ ドイツ統合前から計画はあったが、当局から禁止され、90.10.統一がなったお蔭で実現
シュナイダー夫人の建てた肥沼の墓には、エスクレビオス(古代ギリシャの医術の神)の持つ杖の飾りが刻まれている ⇒ 夫人と娘は町を去ったが、町の人々が墓守を続け、91年に弟の栄治がそのお礼に桜の木を100本贈る
肥沼を日本に紹介したのは、桃山学院大教授の村田全氏。数学思想史。フンボルト大の客員教授の時に墓の存在を知ったのがきっかけで、新聞に尋ね人の記事を載せた
93年には、市庁舎の正面入り口に肥沼の業績を称える「記念銘板/顕彰額」が左側の壁に埋め込まれた。「彼は、この建物(当時病院で現在市庁舎)で防疫活動中の4546年に、自ら悪疫に感染し、倒れるまで、多くのチフス患者の生命を救った」
94年 リーツェン名誉市民に ⇒ 戦時中駐留したソ連軍の司令官と2人だけ
肥沼の経歴をリーツェンの人が知ったのは、尋ね人の記事の結果、肥沼の弟・栄治氏が名乗りを上げ、1990年その詳細が村田教授を通じて伝えられた結果
92年 ブランデンブルク州の地方紙に、肥沼を取材していた記者が「闇に光を」と題して彼の消息を市民に呼びかけた特集記事掲載
93年 著者の取材を現地紙が大きく取り上げ、肥沼の業績・行為を真正面から評価する一文が掲載された ⇒ 続々と証言者が現地紙に投稿、大変な反響を呼ぶ
掘り起こしの端緒となったのは、リーツェン近郊の都市で地方の歴史を研究しているオーデルラント博物館(リーツェンから鉄道で15分のバット・フライエンバルデにある)館長のシュモーク博士が、80年初め頃お墓を見て興味を抱いたこと
シュモーク博士が雑誌に紹介した記事を見て興味を持ったのがアレキサンダー・フォン・フンボルト研究所AVHのピアマン所長。同氏は学界の長老で、肥沼の史料収集・研究に情熱的に取り組み、AVH財団発行の特集号を纏め、交流のあった村田氏に記事を送り、たまたまその直後にフンボルト大学の客員教授になったこともあって、肥沼の消息を探ることになる ⇒ ピアマン博士も肥沼がAVHの奨学生だったことを知らず、栄治氏も兄のリーツェンでの業績はおろか墓があることも知らなかった
「マリオン」の2回目の尋ね人を見た肥沼の従兄弟の子息が栄治氏に連絡して全てが解明

第2章     ナチス政権下の「サムライ」宣言
1937年 肥沼は横浜を出港、門司経由でドイツに向かう
日本政府給費生で渡欧し、AVHの奨学生になったのは2年後 ⇒ 召集を受けずに研究活動が出来た
伝染病研究所に入所、すぐにベルリン大学の放射線研究所へ客員研究員として入る
4142年 ベルリン大学医学部の研究補助員として採用 ⇒ 1年延長後、無期延長
44.2.15. 宣誓書を大学に提出 ⇒ フリーメーソンに属さないこと、日本であることのみで、総統への忠誠は書いていない
東京帝国大学にも博士論文を送ったが、日本医大卒の学歴が災いして受理拒否に逢う ⇒ 日医大卒業後帝大放射線研究所に勤務はしていたが、「副手」という1番低いポジションのため、職員名簿の記録に残っていない
ドイツでは、大学教授資格取得に応募し承認され、教授の上の「正教授(ハビリティーレン)」に就任。東洋人で「正教授」になったのは肥沼1人 ⇒ 教授資格論文は、彼の死後公表
44.8.20. フンボルトハウスでの肥沼の講演 「日本における自然科学――欧州の影響と独自の研究結果」 ⇒ ヨーロッパから自然科学を受け継いだが、日本民族も同じ能力を持っていたと強調、病理学者・山極勝三郎、癌学者・市川厚一、吉田富三、湯川秀樹、中谷宇一郎らの業績を称え、アーリアン至上主義に敢然と挑戦

第3章     黒マントの赤ひげ
肥沼がベルリンを脱出した記録はない ⇒ 確かなのは、45.1.16.大学教授資格論文の返却を受けたところまで
45.3.18. 日本大使館が、ベルリンの在留邦人に帰国の指示を出す ⇒ 肥沼は前日大使館に現れたと言われているが、脱出当日の18日は顔を見せず
シュナイダー母娘とエーベルスバルデに移り、伝染病の蔓延を知ってリーツェンで診療所を開くが、ソ連軍司令官の命令だった可能性が強い
伝染病蔓延への対策としてソ連軍が伝染病医療センターの設置を指示、ただ一人医師として残っていた肥沼を責任者に任命
市内のみならず、近隣に設置された緊急難民収容所にも治療に赴く

第4章     数学の鬼
1908年八王子の生まれ。4人兄弟の長男。父親は「済生学舎」で学んだ軍医、地元で肥沼医院開設。終戦の前年死去
二中卒業後、一高を目指すが失敗、東京物理学校(現・東京理科大)で数学を教えながら、日医大に合格。医大にいながら数学の本をよく読んでいて、「数学の鬼」として知られた
45.3.18. ドイツ政府が南に移転するのに合わせて、日本大使館もバート・ガスタインに移転。終戦で大使他はアメリカへ移送・収容され、更にシアトル経由で日本へ。肥沼の名前は、アメリカへの乗船名簿には載っていた
戦後、日本赤十字から死亡したらしいとの連絡は受けていたが、52年現代ドイツの日本学者として有名な世界的言語学者ラミング博士を通じて消息を照会するも、ソ連に抑留され、リーツェンでチフス病院に勤務中に感染して死亡との返事が保管されていた論文と共に届く ⇒ 東西冷戦の谷間で、調査のしようもないまま、60年赤十字から正式な死亡通知が来て、母親は失意のうちに63年急逝

第5章     済生学舎出身医師の長男
1928年 日本医科大学入学するが、当時の学長で外科学会の泰斗・塩田廣重博士と、肥沼の父梅三郎とは済生学舎時代に師弟関係にあったことが関係していると思われ、帝大中泉放射線研究室に入局したのも、中泉が塩田の後輩だった線からの推薦と思われる
日本医大の前身は日本医学校で、その創立者が済生学舎出身で日本橋に皮膚泌尿器科を開業していた磯部検蔵。済生学舎は長谷川泰(長岡藩軍医)が西洋医学の医師不足の早期解消を期して創立した私立の医学校
34年 新設間もない中泉研究室入室。この頃、癌研究会によりラジウムを借用し治療研究を開始したが、癌研究会を設立したのは塩田博士

第6章     ベルリンの恋
56年 中泉教授退官記念論文集には、肥沼を偲ぶ一文も掲載 ⇒ その中に肥沼がチェコ人と結婚したと書いているが根拠不明で確認もとれず
戦時中のベルリン在住日本人の中にチェコ人を愛人に持った人がいた ⇒ 近秀麿で、453月の帰還船で日本に戻ったが、その時チェコ人の愛人はいなかった

第7章     日独文化協会と肥沼
戦時中日独学徒会議が組成され、日独文化協会の交換留学生が積極的に参加するように言われた機関で、日本大使館とも頻繁に接触していたが、肥沼の名前は見当たらない
大使館との接触を拒んでいたようにも思える
39年 フンボルト育英財団の奨学生になる ⇒ 日独文化協会の交換留学生が対象で、原則として年間2名、期間2年で派遣
43年には、文部省からドイツの科学技術調査の嘱託を命じられ、政府給費生となる

第8章     戦火を越えて
94年 リーツェンの市庁舎で「肥沼信次博士記念式典」挙行、AVHの招待で栄治夫妻参列
93年にAVH財団は肥沼の業績と人道的行為を紹介する特集号を発行、その冒頭に財団の総長が日本のフンボルト奨学生の皆様へと題してメッセージを寄せている。「財団が送り出した奨学生は16千人(うち日本人2)に上るが、特集号を発行したのは肥沼ただ1人。その業績を称えると同時に、肥沼氏の思い出に、そして彼に代表される他の全ての他界された元フンボルト奨学生の思い出に捧げられるもの」
肥沼を第二のシュヴァイツァー博士であるという人もいれば、『ビルマの竪琴』の水島上等兵であるという人もいる。戦争は全てを狂わせる。人の理性も
しかし、その戦争下でも理性を失わず、最も人間らしく生き抜いたのが肥沼である
肥沼は、生命を顧みることなく自分の人生を精一杯生き抜き、古都・リーツェンの人々の心の中に生きている





肥沼 信次(こえぬま のぶつぐ、1908109 - 194638)は、日本医学者第二次世界大戦後のドイツで医療活動に尽力した。
人物 [編集]
1908年、東京の八王子に外科医・肥沼梅三郎の次男として生まれる。東京府立二中(現立川高校)を卒業後医学を志し、日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へと進む。
1937、ドイツに渡りベルリン大学医学部放射線研究室で学ぶ。実験と研究に打ち込みベルリン大学医学部で東洋人として初の教授資格を取得。
第二次世界大戦後、占領中のソ連軍が創設したドイツのウリーツェンWriezen)の伝染病医療センター初代所長となり、チフスコレラなどの疾病対策に力を尽くす。だが自身もチフスに罹ってしまい、194638日、37歳で死去。死の直前、看護師に「桜が見たい」と言い残し、戦後ウリーツェンには日本から桜の木が贈られた。
1992、ウリーツェン市は肥沼に名誉市民の称号を与えた。
参考文献 [編集]
§  舘澤貢次『大戦秘史 リーツェンの桜』(ぱる出版)
§  川西重忠「肥沼信次を知っていますか? ドイツ人が神と慕い続ける日本人」『わしズムvol.12

コメント

  1. ありがとうございます。(__)

    ドイツ人が神と慕う日本人医師・肥沼信次

    http://kobayashi2.fc2web.com/Goodstory/goodstory48.htm

    リーツェンの桜~ドクトル肥沼を知っていますか

    http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/daaa08841a31900599906635895e7cd1
    ///

    Dr.肥沼
    https://www.facebook.com/dr.koenuma/
    自分の命と引き替えに多くのドイツ人の命を救った日本人
    https://www.youtube.com/watch?v=jow453_hGoM&t=337s

    肥沼信次(こえぬま・のぶつぐ)は1908年(明治41年)
    東京八王子に、開業医の長男として生まれました。

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