漱石の夏やすみ  高島俊男  2012.10.5.


2012.10.5. 漱石の夏やすみーー房総紀行『木屑(ぼくせつ)録』

著者 高島俊男 『お言葉ですが…』第1巻参照

発行日           2000.2.10. 第1刷発行
発行所           朔北社

『木屑録』は、明治22年漱石が23歳の時に書いた房総旅行記。これまでも存在は知られていたが、「漢文」で書かれているために、読まれることは少なく、まして味わわれて評価されることは稀な作品
本書は自在な訳文によって、『木屑録』本来のすがた、味わいを初めて明らかにしただけでなく、執筆の契機となっている漱石と子規の、文章を通しての友情に説き及ぶ
さらに、見事な「漢文」を書いた漱石から話題は発展して、日本人と「漢文」の千年を越える関わりをわかりやすく解説している

執筆当時、漱石は第一高等中学校の生徒。7月に本科1年の学年が終わって9月に2年の新しい学年が始まるまでの学年休暇
5月に喀血して故郷松山に帰って静養していた子規に見せるために書かれたもの
旅行の道筋も詳細には分からず、同行者が4人いたがどういう素性の者かは分からない
大まかには、30日間、90余里で、鋸山に登り、二総(上総下総)を経て、利根川を遡って帰った
地名で出てくるのは、霊岸島から船で保田へ、鋸山、小湊、東金、銚子、三堀

   漢文の翻訳
ガキの頃から、文章で身を立てるべしというほどいろいろ書いたが、いま読み返してみるとつたない物ばかり、改めて学校に通うこととした
併せて、富士山登山に行ったり直前に開通した東海道線に乗って興津へ行ったりしたが、文章が書けない
今年も房州を旅して、漸くいろいろ書いてみたが、ダラダラゴチャゴチャは従前通りにて、お粗末無用のものということで木屑と命名 ⇒ 無用のものだがとっておけば役立つことがあるかもしれぬの意もある

   漱石と子規のそれまでの交友
5年前の明治179月、東京大学予備門に入学した同級生
当時の「東京大学」は明治10年から19年まで存続した学校、唯一の文部省の大学。洋学校で教員の大部分は西洋人、授業はすべて英語
「予備門」とは、東京大学の予備課程、戦後の国立大の教養課程に類似、4年後に東京大学の法理文の3学部のいずれへでも進むことが出来る。神田神保町の学士会館の辺りにあった。入学試験があり、そのための予備校がいくつもあった。漱石が通った予備校は成立学舎、子規は共立学校
明治19年 東京大学を中核とし、これに工部省の工部大学校と農商務省の東京農林学校を併せて「帝国大学」を創設、予備門は「第一高等中学校」と改称、予科3年本科2年計5(従来は4)の学校となる。大学は4年から3年へ。数年のうちに第二高等中学校(仙台)、第三(大阪、後に京都に移転)、第四(金沢)、第五(熊本)ができ、その卒業者は帝国大学に入れる ⇒ 漱石は、自らの書の中では「予備門」で通している
子規は、漱石と親しくなったのは明治221月以後と書いている ⇒ きっかけは、お互い寄席が好きだとわかったから
漱石は、子規のことを、「同じ歳だが、僕は正岡ほど熟さなかった」「なんでも大将にならなけりゃ承知しない男」
明治21年夏子規の文集『七草(ななくさ)集』を作り、仲間に回覧して、皆が批評を寄せる ⇒ 漱石が自らの批評に「辱知 漱石妄批」と署名したのが、「漱石」の号を用いた初め。
秋山真之が「江田島守」と称したように、戯名を使うのが一般的だったので、漱石もそのつもりで書いたものだが、生涯通じての筆号となる
文部省は、早くから「日本大学」を作りたいという悲願を持っていた ⇒ 日本人が日本語で学問を教える大学。ただし、当時の人が言った「日本」とは、その大きな部分が実は「支那」で、支那人の生活から生まれたものが日本のものと疑わなかった。また、そもそも日本や支那の事象を研究対象とする「学問」はなかった
両者の手紙の遣り取りは半端ではなかったが、当時の風習としてはごく普通のこと ⇒ 上質の手紙とは、相手をうなづかせるに足るものであって、同時に相手を笑わせる内容。笑わせるのは自分を滑稽化することによってである。『木屑録』も子規宛に書いた一種の手紙ゆえに、前述のごとく冒頭で自らの少年時代いかに夜郎自大で滑稽だったかという話から始めている

   わがくににおける「漢文」について
1.    漢代の文章のこと ⇒ 「漢文唐詩」というように、散文は漢代、詩は唐代のものが優れている
2.    支那語の文章のこと ⇒ 江戸時代までは「文」といえば支那文に決まっていたので、わざわざ「漢文」というようになったのは明治以降。明治になって新しい文章である外国文が入ってきたため、それまでの「文」を「漢文」として区別せざるを得なくなった
3.    支那語の日本語訳の意味 ⇒ 「漢文訓読」のことで、漢字に日本語を充てたもの
漢字の意味を説明するのが「訓」だが、1つに決めてしまった
元々支那文は音読みで丸ごと暗記し、意味は目で見る文字列で考えたが、音読が崩れてきて訓読になったものなので、日本語として不自然でも構わなかった
本来外国語とは、口で話し耳で聞くもので、外国語を学ぶということは、外国人と同じ発音を覚えるということになったが、明治以前は本来の意味で外国語を学んだのではなく、文章が書ければよかったので、読む方は勝手に日本語(訓読み)を充てて読んでいた ⇒ 単なる符牒のようなもので、日本語として意味をなさなくてもよかった(もちろん支那人が聞いても分からない)にもかかわらず、訓読みに意味を見出そうとしたと事からおかしなことになった
漱石は、成立学舎の前に二松学舎で勉強しているので漢文を書いたが、子規の漢文は日本語の文章からかなを取り去ったようなもので文章にはなっていない

   日本人の文章
明治以前は、日本には自国の知識人が普遍的に用いる標準的な文章というものがなかった
支那では「文言(ぶんげん)」と言うのがあり、西暦紀元以前から確立している
日本の知識人階級は、支那語だけを読んでいたので、自国のことについての知識は希薄
福澤諭吉も本を読むのが嫌いで、十四五になって周りを見て恥ずかしくなって塾に行き出したが、読んだのは漢籍だけで、万葉集などは読んでいないだろう
明治維新の初めの10年ですっかり西洋化し、日露戦争で勝って国家は目標を失い民心は渙散した。国家はこの民心渙散を恐怖、大逆事件の度外れた苛刻な判決はその恐怖の現れ。
国民の心をまとめるために持ち出したのが漢文、それを日本流に脚色して使い始め、「天皇帰一の国家教学」へと変転 ⇒ 漱石にとっては「風流韻事」であったものが表舞台に出た

   『木屑録』のいくつかの箇所への説明や感想
支那の「文言」の基礎は話し言葉だが、そのまま文字にしたものではなく、核心となる語を取り出して、格調あり品位があって、かつその言わんとするところを十全に表現し得るように練りあげたもの ⇒ すべての「文言」は作品
話し言葉をそのまま文字にうつしたものは、「語録」や「話本」から発達した「白話(はくわ)文」というが、あくまで特殊なもので、一般化するのは1920年代以降



和語は、一部例外を除き、かなで書く






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