等伯  安部龍太郎  2012.10.25.


2012.10.25. 等伯 上・下

著者  安部龍太郎 1955年福岡県生まれ。久留米高専卒。90年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞

発行日           2012.9.14. 第1
発行所           日本経済新聞出版社

33歳で能登から上洛。
物事の本質を見極めたいという絵師の性と、荒ぶる武家の血が、妻子とともに苦難の道を歩ませる。そして、本能寺の変が運命を変える
都で地歩を固め、信長が重用した狩野永徳と対決。長男・久蔵の狩野派入りと秀吉の朝鮮出兵を巡り、永徳の死後、両派の確執は深まる。「松林図」はなぜ描かれたのか
日本経済新聞 2011.1.22.2012.5.13. 連載(単行本化に当たり加筆修正)

第1章        京へ
等伯(本名信春)33歳の時、絵仏師として既に一家をなしていた
信春は11歳の時、染物屋の長谷川家に養子に出された
日蓮宗に帰依し、仏画を専門に描くので、絵師ではなく絵仏師という特別な呼び方をされ、能登のみならず、越中や加賀でも高く評価
1年前に京都聖護院で見た狩野永徳の画に圧倒され、自分も花鳥画や山水画にも筆を染め、永徳と肩を並べる絵師になりたいと都に出ることを考える
実家の奥村家は、元七尾城主畠山家(幕府の管領に繋がる家柄)に仕えたが、お家内紛に巻き込まれて雌伏中。実家の当主(信春の兄)が身を守るために信春を敵方に売る ⇒ その煽りで養父母が自害、騒ぎの責任を取って信春は七尾から追放され、親子3人で京へ

第2章        焦熱の道
信長の延暦寺焼き討ちとぶつかったが、辛うじて信春1人京に入ることが出来た

第3章        盟約の絵
日蓮宗の大本山本法寺に匿われる ⇒ 本法寺は本阿弥光悦の曽祖父の寄進によって創建されて以来、京都の美術界において大きな影響力を持っていた
30歳で不治の病の床にあった本法寺の日堯上人の尊像を書いたのが上人の葬儀の席で評判となり、畠山家との繋がりが戻る ⇒ 関白近家に連れて行かれ、京都に向かう途中で信長の討手から助けた子供がその実子だと知る
紫野の大徳寺 ⇒ 臨済宗大本山。その中の興臨院は能登畠山家が菩提寺として創建、家督を譲った後の当主が隠棲して文化交流に勤しんだ
畠山家の姫の取次で大徳寺秘蔵の牧谿(もっけい)筆の観音猿鶴(えんかく)図を見る
関白に頼まれて本願寺顕如の跡取り・教如の絵を画くことになり、狩野元信の息子で永徳の父狩野派三代目・松栄に引合され、出来上がった絵を見て弟子入りが許される
関白は、信長の専横に歯止めをかけるため、諸国の大名を糾合して信長を討とうと画策、信春にも、信長が天下を取っている限り目はないと説得して、味方につけようとする

第4章        比翼の絆
1572年 妻子を京に迎える
信玄に敗れた信長は、信玄が病気の間に上洛して将軍義昭に和睦を迫り、京都に焼き討ちをかけて強引に和睦に成功

第5章        遠い故郷
1579年 安土城に天守閣完成、永徳が城内の壁画を作成
信春は、本法寺が焼打ちに会って以来各地を転々としたが、3年前から堺有数の大寺院となった妙国寺に身を寄せる ⇒ 信長の天下になってから、七尾に戻る機会を窺っていたが、1577年上杉勢によって七尾城が落とされ畠山家は完全に滅亡したため、戻るところを失って堺に辿り着いた
信長の企みで法華宗が浄土宗とのいわゆる安土宗論に負け、妙国寺にも信長の討手が迫ると知って、肺炎になった妻を連れて七尾を目指すが、敦賀まで来たところで妻は死去

第6章        対決
1582年 本能寺の変で信長斃れ、信春にとっては僥倖 ⇒ 日蓮宗への弾圧緩和
1583年 堺の油屋に息子と共に世話になり、様々な絵を画いて研鑽に努める傍ら、油屋の茶会を通じて千宗易や今井宗久らの知遇を得る
西洋画の技法の習得にも意欲 ⇒ ダ・ヴィンチの画を見て啓発
秀吉が近家の猶子にしてもらって関白となり、日蓮宗への弾圧を止め、延暦寺焼き討ちの時関白の息子とともに助けた前田玄以が京都所司代となって、信春も秀吉から無罪放免の朱印状をもらう
1585年 2度目の上洛 ⇒ 最初の上洛の際身を寄せた扇屋を引き受ける形で町屋に息子と住み「能登屋」を始める
秀吉の聚楽第建設に際し、狩野派に加わって障壁絵を画く ⇒ 永徳と山水花鳥図の中の梅に小禽(きん)図の題で腕を競い、認められる
狩野派のお家芸 ⇒ 太い幹を中心に据えて存在感を表し、左右に伸ばした枝で動きを表現。太い幹の荒々しい筆使いで勢いと躍動感を、枝や花は繊細に描き込んで気品と優雅さを醸し出すのを基本とする
信春 ⇒ 色彩豊かな絵で水墨画とはいえ見たものに色を感じさせる技法を駆使、単調になりがちな狩野派の欠点を乗り越えると同時に、背後に遠近法を用いた風景を加えることで西洋画の技法も採り入れ、梅が自然の中にある感じをより強く出す
聚楽第に後陽成天皇をお迎え、千宗易が茶を献じた際後見の役を務め、その時の功で「利休」の居士号を勅賜

第7章        大徳寺三門
1587年聚楽第完成
永徳から信春の息子・久蔵を内弟子にと請われ、本人の決断もあって弟子入りさせる
利休が寄進した大徳寺三門の障壁画の依頼を受ける ⇒ 利休から「等白」の号を授かり、出来上がった蟠龍図の傍らに「長谷川等白五十一歳」と署名(後に利休の遺訓に従い「等伯」)
表面の描写に捉われずに本質に迫ろうとする奔放な画風が、勢いと迫力で狩野派を圧倒
大徳寺の仕事では、永徳が妬みから嫌がらせをしたが、久蔵が戻り父を手伝う

第8章        永徳死す
1590年 秀吉が仙洞御所に対の屋を寄進することとなり、その障壁画を巡って永徳と等伯が争い、一旦等伯に決まっていたものを永徳が覆すが、その直後に永徳急逝
永徳の後を継いだ光信は力量が落ち、その弟の孝信は久蔵に匹敵する力量があり、その息子が狩野派全盛の礎を築いた探幽
1592年 永徳の父・松栄も死去

第9章        利休と鶴松
石田三成の入れ知恵で、利休が秀吉の逆鱗に触れ、利休は自らの茶の湯の門を守って命を差し出す ⇒ 利休は聚楽第で切腹の上晒首に
等伯にも追及の手が及ぶが、利休がすべてを背負って自決したことで、救われる ⇒ 等伯は利休の肖像を描くことで弔いとする
秀吉の世継ぎ鶴松が3歳で夭折、その菩提を弔うために東山七条に建立した祥雲寺の障壁画を請け負う ⇒ 久蔵の描いた下絵を見て、秀吉は久蔵に名護屋城の障壁画も任せようという
祥雲寺の障壁画は、目もくらむばかりの絢爛豪華さに仕上がり、狩野派を押さえて長谷川派の時代の到来を天下に知らしめる

第10章     「松林図」
1593年 後妻との間に2番目の男児誕生 ⇒ 後に左近と改名し、等伯の後を継いで「自雪舟六代」(雪舟より6代目)を名乗る
名護屋から一時戻った久蔵と一緒に故郷七尾に旅立つ ⇒ 先妻の納骨と追善法要を営む
名護屋城の仕事中、久蔵が狩野派の陰謀によって足場から落ちて死去、秀吉に事件の究明と息子の潔白を願い出たために手打にされそうになるが、近前太閤に救われ、新築の伏見城に献上する画に命をかけることとなる ⇒ 故郷七尾で養子に出された時を思い出して描いた「松林図」屏風(国宝)、絶対的な孤独を突き抜け悟りへと導く曼荼羅で、秀吉はもとより祝宴に居並ぶ大名たちも松林図に心を洗われ、欲や虚栄をかなぐり捨てて在りのままの自分に戻らせた
それから16年、松林図を描いて以来名声は確固たるものになり、各方面からひっきりなしに注文が入るようになり、1605年には朝廷から法眼に叙され、完全に狩野派を凌ぐ名実ともに天下一の絵師となる
徳川家康から、御用絵師に取り立てる内意を含んだ江戸行きに招かれ、江戸長谷川派を立ち上げるために旅立つ


等伯(上・下) 安部龍太郎著 戦国の世、苦悩と魂の軌跡追う 
日本経済新聞夕刊 書評 20121024日付
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(日本経済新聞出版社・各1600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(日本経済新聞出版社・各1600円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 およそ尋常でない苦悩の中から「松林図屏風」を生み出した長谷川等伯。彼を描いた作品は多くあれど、本書はその中でも傑出しており、現時点の安部龍太郎の最高傑作であると断言できる。
 等伯の生きた時代は、弱肉強食の戦国時代であり、作者はその中から雄々しく画境の高みへと突き進む等伯の姿を東日本大震災の復興の祈りをこめて描いたという。
 その中で等伯を苦しめるさまざまなことども――主家再興のためなら等伯を自分の手駒としか思わない実家の兄奥村武之丞、政治的人間の権化ともいうべき石田三成、等伯と暗闘を繰り返す狩野派とその果てに起こる息子久蔵の横死等々――が次々と襲いかかる。
 そして下巻も半ばに来て、等伯は「春が命の萌え立つ季節なら、秋は命の充実の時である」と述懐する。が、作者は敢えて次に書くべき一節を省略してはいまいか。それは恐らく「では何故、生きることはこんなにも苦しいのか」という文言であったはずである。
 他にも本書には、等伯の心の師・千利休の門の内外の問答や法華経への読み込みがあるが、ひたすら等伯の魂の軌跡を追うべき一巻であろう。
(文芸評論家 縄田一男)



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